【 NDLJP:206】甲陽軍鑑品第四十七目録 巻第十七【全集ニ公事之巻トス】
一赤口関左衛門、寺川四郎右衛門、被㆑伐事 一志村金之助、むかさ与一郎、公事之事
一長沼長助、長八親の敵討 付り増城源八郎と、同じき長助、長八と公事之事
一曲淵少左衛門、板垣弥次郎、公事之事 一曲淵少左衛門、公事負雑言 付桜井訴訟并曲淵赦免之事
一落合彦助、百姓と公事負る事 付為㆓同彦介㆒金丸平三郎被㆑伐并長坂源五郎被㆑誅荒川村井事
赤口関左衛門寺川四郎右衛門口論之事
【一本ニ四郎左衛門トアリ】
天文十六年丁未信玄公廿歳にて、五十七ケ条法度書立なさるゝ、其由来は関東牢人に、赤口関左衛門上方牢人寺川四郎右衛門と申仁、両人の侍口がらかひいたし、既に彼雑言に付て、寺川四郎右衛門座を起て赤口関左衛門がむなづくしをとりて後ろのかべにおしつくる、赤口関左衛門おしたふされて、おきあがると雖も、寺川四郎右衛門其比四十余りの盛り、赤口関は、五十六七の者なればおしつけられておくる事ならず仰のきに成てゐながら、赤口関左衛門が、両方の足を以て寺川四郎右衛門がひはらをあらけなく踏ければ寺川心に覚へず手をはなして三間斗跡へしさりて色をわろくして機を取失ふ子細は、いきぶくろをふまれての事也、さて両方ひいきの輩、赤口関左衛門、寺川四郎右衛門におし付られたる間寺川手柄と云ふ、赤口関左衛門方は機を取失ふほど寺川をふみたふしたる是は赤口関左衛門利口なるといふもあり、僉議まち〳〵の事なれば目付の人廿人頭横目の小人頭、其日に聞付候、惣別信玄公御仕置に善悪の事何事においても、三日に一度書立を以て、言上いたせとある目付衆へ御仕置、故御耳に立、其座にある侍衆、めしよせられ、双方の仕形をきこしめすに何れの口も、両方共に少しも脇指心なし、諸人きこつたへの批判にもわきざしの心なしとあり、然れば原美濃守山本勘介両人を以て右の赤口関左衛門。寺川四郎右衛門両人に御尋候、さすがの侍共なるが暫く取あふて両方に脇指の勝負なきは、如何と尋ね給此両人其はづしもさこそは申度存る事は、有べけれ共、検使原美濃守、山本勘介也又右出入の座にゐる衆、武田の家に伝る侍或ひは近国他国の先方衆、牢人衆、つばをならす人々の寄合なれば、赤口関、寺川作り事もならず、又典厩信繁を以て、寺川赤口関が出入の場にゐたる侍衆に、なにとて両人の【 NDLJP:208】仕形をとりあつかはぬぞと仰出さるれば、当番の面々畏て候、赤口関、寺川が様子町人か或は七八歳のわらはべなどのごとくに仕候間、少しも大事是有まじきと存候故、取あつかひ申さず候と、銘々口をそろへ申上るさるに付て典厩信繁、原美濃守、山本勘介此事始め終り、言上也、信玄公きこしめし、寺川赤口関何れもとしこばい、宿老にて男子道〈[#ルビ「おのこだう」は底本では「おのこどだう」]〉いまだ若きなりと見ゆる侍が侍にいであふて伐つく事有べきにさはなくして暫くおし付て罷有は人にとりさへられたきとある事に相似たり又押付らるゝ侍も武士が胸へ手をかけられかゝると、一度にはや脇ざしをぬきつく所にてはなきか、是論ともいはれぬ事、子細は手を手と取あふ程にての勝負也、又手と手を取あふても喧嘩とは申されず、候みぎは【みぎはハ身際ナリ】へ互による程にて脇指心なき故也わきざし心なきは、一向のわらはべなどのいさかひといふ物也、抑〳〵男が四十五十にあまり、赤口関左衛門寺川四郎右衛門などゝ官途受領まで仕る侍が、いさかひなどあるは他国の批判もいかゞきはめては信玄が家の瑕になる事なりとて、廿人衆小人衆に仰つけられ両人ながらめし取、耳鼻をかきて諸侍にみせ、かり坂【雁坂】をこさせよと有事にて、坂際にてふたりながら頸をきらるゝ也、其刻より五十七ケ条の法度書相定る也如㆑件
志村金の助、むかさ与一郎公事の事
【一本金助ヲ兼之助ニ作ルむかさハ武笠ナリ仝そせきヲ素性トス】
同未の年しかも同飯富兵部同心中に公事あり、子細は志村金の介むかさ与一郎と云ふ侍有、志村は甲州そせきの者むかさは遠州牢人なれば、志村むかさをかいほうして宿をかし、懇ろするほどに、両人さながら兄弟の如くにて飯富兵部同心の中にても、志村むかさとてわかき衆の中にて、一対男と申ほどなれば陣の時も同陣也或る時甲府にて、むかさ与一郎あそひに出る時刻、志村金の助被官を折檻致し口ごたへ仕りたるとて刀をぬきて今の中間をきらんと仕候へば、被官も大脇指をぬきふりながらむこくにかけいづる跡より金の助追かくれども、中間殊の外達者なる者にてにげのびぬ、さて右のむかさ与一郎宿へもどるとて此仕合にゆきあたる、もとより志村金の介と二なき近付也さなくとても侍の役、旁以てのことなれば刀抜むかふ、此中間むかさにきられてころびながら持たる大脇指を投つけてむかさ与一郎がふともゝへ三寸ばかりたつ、さて志村金の介追付しにくしと申て中間のくびをきりはなす、むかさ申ははや死したるに其まゝ置給へといふ、さて又むかさ与一郎が少手を負たれば志村殊の外迷惑に存知かねて宿をかすなれば、猶以てむかさ与一郎をつれだちて昼夜離れず養生仕りながら、各傍輩衆に、志村金介申すは、むかさ此手にて果られば、志村金介もともに腹を破りて死なんと、金打を仕候へども、あさ手にて五十日の間に平愈する、さて其後武かさ与一郎、方々へありき、志村金介が中間大剛者にて、金介しあましたるを、我等が仕出してくれ候故、如㆑此手おふたるとて島の湯なとにて股の疵少しのあとを諸人に見する故、志村金助是をきゝ、大なるいひ事になる、されども志村金介おぼへの者の、すぢなれば分別よくて申は、今はたして死るならば、かばねのうへにて、むかさ与一郎が申ごとく、誠に志村金助が中間を一人しかねて近付のむかさを頼み仕すまして其儀あらはれて、はづかしきとて果したるとあれば全体大身の上にせぬ、軍に負け給ふ名を取がごとくなり、左候はゞ又親の名までくだすといふて、目安を書飯富兵部にきかせそれにてもしかと理篇つかざるは彼志村金助親は、志村金之亟といふて、信虎公の御代に、駿河さはの原にて、信虎公氏綱と合戦ありて、信虎公勝給ふ時畢竟飯富兵部が廿七八の時強き事巳の時なるを以て、北条家をつきくづす其刻此金介が親の志村金之亟【一本金亟ヲ兼亟之ニ作ル】、一番に鎗をいれはじめ其外度々の手柄の者なり節々手疵をかうふる故一入煩ひにて、終に死する彼親いひをしへにて、牢人衆などを、金助念比仕り候、又金助父の志村金之亟を、信玄公御存知なれば、悪くさばき喧嘩などさせ金助を失ひ候はゞ、我ためも屋形の御前もいかゞなりとて、さすがの飯富兵部も、下にてさばく事ならずして、御前さばきになる、信玄公両人を御弓の番処へめしよせられ左右のめやすよせてきこしめし信玄公金介に尋ねなさるゝは家の内にて一太刀も合たるかと仰らる、志村金ノ介兎角の返事も申上ず、懐ろより熊野の牛王に、起請の書たるを取出し、廿人頭へ渡す、其起請の趣きも、金介手前、別の事なしさていまのはなし討の、所はいづくぞと御尋なされ候へば、工少路にて候と申故、工少路の町人悉とく召寄られあるやうに申上ずは、がうもんして尋ね有べきとある上意なれば、五人十人の町人にてもなく五十人にあまりたる町人口をそろへて申す、志村殿は十四五間跡よりおふてまします、むかさ殿は立むかふて何事ぞと不審をたて候、志村金助殿あとよりそれをとある言葉をきゝ、其まこ刀をぬき、五間計りそとへにげのびたるを押つめ給ふに、今の囚人は、はやとをくから一たんに逃来る故か、くたびれ心にて、むかさ殿に追付られ、二太刀にてうつむきに、ふすをむかさ殿たちまわりて頸をきらんとなさ【 NDLJP:209】るゝを、かの中間あふのきに成ながら、手に持たる脇指をむかさ殿へなげつけ申候、其間に志村金介〈[#「金介」は底本では「金介」]〉殿かけつけて頸切はなし申され候と町人共申せば信玄公宣ふは脇指をなげ付られてから、むかさ与一郎は其ころびたる中間をきりたるかと尋ね給ふ、町人共申は切なされず候、其死人に刀目はいくつありたりと尋給ふ、はじめむかさ殿伐給ふ二刀にてころび候、さて志村殿跡より来りて、頸を伐給ひ候と申す信玄公きこしめし其くびは一刀にてはなれたるかと尋給ふ町人ども申すは一刀にてはなれ、したの石へきりつけなされ候間、御検使をたてられ御覧なされ候共、今に其石にきず御座候と申すに付、則金介が刀を銘々御前衆に、みせなされ候、其場へ二十人頭両人さし越しみせ給ひて、又町人共に尋ね給ふは、右囚人のわきざしなけたる時は、間地かゝるべきか、遠かりつるかと尋ね給へば、町人共近かしと申すちかくにふしてなげたらば刀届くほどにては、股へうらかく程にたつまじ、殊に今ほど、冬なる間手ぢかくにて、ねながらなげたるは、きる物をうちとほすほど脇指に力入まじ、とをければ、又手をのばしていかにもしなへてうつにより、たとへば火ばしにてもふかく立物なりちかげればつよみが、入りかぬるをもつて、夫程は通るまじ、但しそれもはゞやき刀脇指にては、蠅の舞ひかゝりてきえきるゝもある程にあらそはれぬ事也、さて今の囚人しゆりけんうちたる時は、むかさ与一郎が仕形如何と尋ね給へば町人共申すは、むかさ殿二三間しさり給ふと申す、信玄公仰られ候は、うしろへしさりたるか、めしうどの方へむかさかうしろをむけてのきたるかと尋給ふ、うしろをむけてにぐるとて、右の股へわきさしなげ付られてより、むかさ殿ころびなされ候、其間に志村殿来りて、頸をきりはなし候と申しあぐれば、信玄公きこしめし、此むかさ与一郎なにのやくにも立つまじき者也、批判に及ばぬと宣ふ其後信玄公仰出さるゝは信虎公の代、わが十三のとし、白畑助之亟といふ者は、信虎の侍、二百二十人の中より手柄の場数ある者を、七十五人すぐり、又其中より三十三人すぐりて、身をはなさずめしつれらるゝ、其内に右の白畑といふ者、ぬしが、かせものを折檻仕り、今度の金助がごとく追て行く彼かせ、もの白畑が刀のうしろへさはるほどにて、刀をぬきながら返してひざまついて、かた手うちにはらふ、白畑が両腕をそへ頸共に一刀にて、白畑助之丞、被官にきりころさるゝ、原美濃が若ざかり、おり合て、ながみの鑓をもつて、つきころばす、白畑が、かせものねながら鍵をたぐり原美濃がうでを少しづゝ二ケ所きる、美濃が事なれば少しもさらず、つきつけてうごかぬ様にいたすを多出淡路が立ちまはり、先づ両腕をきり其後とゞめをさす、後たゞしてきいてあれば、右の白畑が若党ふか島【一本ニふか嶋を鹿嶋トス】の松本備前守が、外戚腹の孫なりと聞く、此白畑大剛者なれ共、賤み過し、内のわか党に、伐りころさるゝ其刻信玄彼白畑が訪をするは、それがしおさな心にも惜しく存知て如㆑此、他所にてはいかんもあれ、信玄が家にては、にげてゆく者に追付ぬを、比興とは申さぬなり、以来誰にても、少しの成敗者にてあひ果て、それがしの用にたちてくれぬ人は、死後迄残おほし、一入おしう口惜く存するぞ、もしかさねてたれ人なりとも、科人を追てゆくに見うしなはぬやうに、五間も十間も、跡より行くべし、げに追付きたく思ふならば、科人とならぶ様に追ひつくべし、必めしうどのにぐるまゝうしろに将棊だをしのごとくに追べからず、あやうき事なり、さて彼のむかさは侍道のせんさくもしらず、信玄が家におきてもいらざる者なり、さありて他所へはらふならば、結句手柄をして来るなどゝ、口をきかん、口をきゝても、さやうの者は、他所にて又越度おほかるべし、越度おほき時は信玄が家に、あのやうなる者ありやと、他所の批判に乗ても詮なし、所詮みごりのために、かみの城戸に逆機物にあげよとて、むかさ与一郎武士道ぶせんさく故、機にあがる也、扨て件の志村金助度々の手がらにて有りつるが、時田合戦に討死する、其子に志村金右衛門と申す、飯富兵部御成敗ありて後、兵部同心諸手へわけらるゝ此志村金右衛門をば、板垣殿へ付け下さるゝ、板垣家中にても、【一本ニ小曽板垣へ付下さるトアリ】平原宮内介、志村金右衛門とて両人わか手の挊く侍なり如㆑件、扨又志村金助、むかさ与一郎、公事終て翌日に諸侍へ二十人衆をもつてあひふれらるゝ其趣きは、今度むかさ与一郎を、逆心の科ほど申しつくる事は彼のむかさ、男武士道不穿鑿の科なれば、以後又かやうのさたにては、よき侍をあしういひ、あしき侍をほめたて、ひいき〴〵のさほうにては信玄が家の侍、大小共に善悪同事にてよき武士も悉く勇なうして、第一は軍法見だりなるべし、軍法あしければ、晴信勝利を失ふ事、疑ひ有るまじ、勝利を失ふ事疑ひなければ、件のむかさ興一郎は、晴信はこさきの恥有るみなもと也、扨てこそ至て謀叛の科と同前なり、故に如㆑件機ものにあぐるとあひふれさせ給ふなり以上
長沼長助長八、親の敵討事 付増城源八郎と、同長助長八公事之事
永禄元年、戊午に公事あがる、濫觴を尋ぬるに甲州西郡今諏訪と云所に、長沼長右衛門とて、元は板垣譜代【 NDLJP:210】すじ也、此者用有りて、信濃へ行き其比は信濃国未だ武田の御手に不㆑入、又信州座光寺被官に青柳柳之介同緑之介と申兄弟の者、様子何としてやらん、今の長沼長右衛門を殺所に、長右衛門が子に長沼長介長八とて両人あり、此兄弟に母が申しをしへてあればこそ、一度親の敵をうたんとたくみ、年月積り兄は廿一、弟は二十歳の春、思ひ立ち信州へ罷越し親の敵をうたんとて、諏訪や塩尻のあたりに宿をとり、しのびまはりて、目をつけ出たる所をうたんと、百日あまり、信濃に逗留する、此両人の友達に、増城源八郎、石田長蔵、やがさき新九郎、飯室喜蔵、四人跡より尋ね行き、塩尻にて彼の兄弟に尋ねあひ是非共一所にて、枕をならべんと申ず、長沼長八【一本ニ長助長八トアリ】是を聞き、涙をながしかたじけなき次第なり、はる〴〵見舞給ふさへあるに殊にすけたちせんと有る事、生々世々忘れがたき事なれども、抑分別して御覧ぜよ、我等が生国甲州にてならば、討すます事も有るべし、他国にての事、まして敵の居所これよりは少し隔だこりたれ共、信濃は先あひ手の本国なれば、うちすます事は、十が一ツなるべし、さあり詮なき友達の命をうしなはせ申しては、かばねの上の恥なるべし、万にひとつ仕すましても各〳〵旁四人の内に一人も死し給はゞそこにては、いやといふても追腹をきらぬならば中々いきたる印し有まじ、必ず各〳〵帰り給へ帰りましまさずば此敵討を思ひとゞまり候べしといひければ、四人の者共懐より連判の起請を取りいだし其方兄弟がさやうに申すべきと思ひ、如㆑此誓紙を仕たりとて、兄弟の者に見する其比様々両方申しけれ共誓紙のうへなれば終に四人申し勝ち四人の申すもことわりなり、是迄来り男をたてん者本人の帰れと云ふとて、もどりて侍が何方にておとこせんや、男子が男子をすけだちするとて死ぬまじきと存ずる者誰かあるべき、十の物百と思はれよ、四人の内死したらば腹をきらんなどゝ云はるゝは、結句旁四人の用にも、以来たちてくれまじきとの心か、それは日来申し合たる筋目偽なり、それほど只今ゆきあたり帰れと申す事ならば、何として日来近付て申し合たるぞ、縦ひ此四人皆死したりとも、かたきさへ討らすましたらば腹をきりて詮なき事、其方兄弟死し給ひ候共思ふ敵さへしほしたるに付ては、此四人の者共も旁の追腹をきりても詮なし、若し敵を討ち損じて、両人計り死し給はゞそれは我等ども身にかけ、仕はすべしと申して、中々帰るべきと申さず、その後長沼兄弟聞き分けて、帰れといはず、さて四五日ありて諏訪の市へ右の青柳柳之介、同緑之介、出る敵兄弟ながら殊の外剛の者也、然れ共身上能して上下十五人にて出る長沼長助が方にも、すけぜい上下八人、兄弟上下四人、以上十二人なれば、被官ども申すは、先今度は敵討無用になさるべし、子細は敵小勢にて、ねらふ人大勢にしてこそ、なされすますべきに、結句ねらふ人はすくなうして、敵大勢なれば、あなたこなたがうたるべし、其上かたきは此あたりの者共、同国なれば知人おほくて、すくる者有べし、必ず今度は思ひとゞまり給へと申長沼長助長八是をきゝこゝをのがしては又いつの時にうつべきぞ、甲斐の国を出るよりいきて帰らんと思ふにこそ、をのれ両人は只今より国へもどり、武田の八幡へ参り、御宮右の方なる杉の枝に、かき物をいたしてゆひつくる、それは此度かたきを仕らずば、国もとへ帰るまじとの事なりとて、きつてかゝる、もとよりあひても剛の者如㆑形はたらきて、兄弟の者共、四人のすけても、皆手疵をかうふるといへども、おもひ入りける事なれば、終にうちすますおとゝの長八、六ケ所手負、【一本ニ兄ハ四ケ所弟ハ六ケ所手負トアリ】何れめしつかふ者どもゝ三ケ所よりうちに手おふたるはなし、其中に増城源八、八ケ所手を負て敵両人の内、柳介源八が、伐りたるにてころぶ、其後甲州より迎ひ来りてつれて帰る、皆手を養生して、主共六人ながら其年中に疵なをりてよし、長介長八内の者両人ながらその場にて死す、すけ手の内、飯室喜蔵、内の者六ケ所ふかく手負ひたる故に国へ帰り死す扨て上下の批判に、信玄公御弓、矢巳の時にてまします故、かやうにつよき敵討なり、本人の事は申すに及ばず、すけ手四人の人々剛の者共かなと、諸人批判なり、親の敵討なれば、公儀より崇もましまさず、増城源八飯室喜蔵、太郎義信公の衆也長沼長介同長八、石田長蔵、矢崎新蔵、四人は、又被官なれ共此手柄にて信玄公御意をもつて、義信公の衆になさるゝ、長沼長介長八郎を、信玄公御覧なさるゝ度に、御詞をかけ給ふさて翌年未の正月、増城源八、長助、長八、が御前のよきをそねみて柳介をば我等討てとらせたり、手負事も、兄には四ケ所、弟は六ケ所、我等はわき人なれど、八ケ所手負ひて、柳介を某がしの殺したる故おぼへとらするとて、増城源八郎申す口にて源八が親類共、ひろき者なれば、各〳〵方々ありき、長沼長介長八が手柄、我等親類の増城源八を頼たる故なりと、申しひろむる、よき人はあまり申す事もなけれども、只増城源八が様なる者来りてさき〳〵へ如㆑此と申しならはす、長助長八兄弟いかにもさは有るまじ縦ひ左様に増城源八申さるゝとも、其右甲州より信濃へ参られ、すでに熊野の牛王に起請を書ての事なれば、其恩は辱なき子細なる故、五度六度までは、堪忍申すべしとて長助長八郎兄弟の者物いはず【 NDLJP:211】両人取りあはぬにて、猶以て増城源八郎一類きほふて、増城源八を鬼神の様に取りなす、又長沼長介長八兄弟にあふては、源八少しも余儀なくいたし、かげにてはあしく申す故大きに此事ひろまる、殊更増城源八、義信公おちの人の甥なる故、是への軽薄にすゑの勘がへもなく、むざと増城源八手柄と申すによりそこにて、長沼兄弟是非とも、討果たすべきとは覚悟いたす、右すけて四人の内、石田長蔵、矢崎新九郎、飯室喜蔵三人の申す様に、尤も其の方兄弟、道理千万なり、各〳〵諏訪より只何となく帰り候はゞ髻をはらふべきこと、誓紙をいたして、今かやうに源八申さるれば、此三人の者どもをも、定めて兄弟の人疑ひ給ふべし、さりながら源八郎と、其方両人はたし給はゞ、此三人をも、公儀より御せんさくつよからん、又貴殿両人も源八をきりころしてあるならば、誠に右敵討の時、長助長八兄弟は、手前十分になき故、喧嘩にいたしたるかと、屋形様おぼしめすならば、跡にて誰もよく申しあげては有るまじ、さありてはかばねのうへの恥辱なり、さて又是は只の事にあらず、侍道の事なれば、目安をもつて信玄公の御さばきに仕られそれにてまけなばそれは両人次第と、石田矢崎飯室三人、長沼兄弟に異見いたす故、目安あがり、御前公事になる、信玄公両方の目安御覧あり、各〳〵六人の申分をきゝ給ひ則ち仰せ出さるゝ、第一長沼兄弟は、ほまれあり、子細は其場にて仕合の手前は、いかんもあれ、幼少にて、はなれたる、親の敵の他国にあるを母など申す口にてうたんと思ひ入り、二十一や二十に成るを待ちかね、其年信濃へ参り候刻、出て二度帰るまじと、武田の宮に願書をこめ、存分をとげたれば、たとへば様子あしくといふとも心ばせは大剛なり、其上石田、矢崎、飯室三人の者共申す口も、如㆑形手柄の様子なり数年心懸け、大勢の敵をうちすましたる儀は、千英万雄も尤是なり、さて又敵を我手にかけてきりふせぬと申す事、それは武道をしらずして、弓矢無鍛錬なる人の申すことなり、子細は敵も味方も只今を最期と思ひ候はゞ、敵十五人味方は十二人、合せて二十七人が一所にありては戦ふまじ、敵も味方も入りまじり、ばどころを取りつ、とられついたすならば何方にてきりふせられんと知らずそれは、其時の仕合せにて必ずきりふせたる者ばかりの手柄と云ふ事にても有るまじ、若しにぐる者などをば心の剛なるにもよらず、かけあしのはやき者、次第に伐りとめんずるぞ、又大剛の兵と若侍と、しあふて剛の者みぞや、石につまづきてころび纔かのせがれにきりころさるゝ事あるべし、それは時の仕合にて、けがのまけと云ふ物也、勝つも不慮の手柄なり然れ共若者大剛の者と立ち向ふ意地をほめたり、ころしたるばかりに、目を付けてほむるは、溝や石をほむる道理なり、武士は只心ばせのいたつてつよき根本を糺し、其善悪をもつて、批判いたすを侍のことわざと申して、弓矢をとる人の武道なり、君子はもとをつとむるといふ事有、しかれば長沼兄弟、思ひ立ち両人のかたき、しかも剛の者なるを、他国へゆきてうたんと存ずるせがれ共、心はせを諸人子を持つほどの面々、我身につもる能々感じてみよ、大形の儀にては有るまじ、惣別義理の達したる人、形義よき物なり、義理と形義の間より、剛なる心は出る物なり長沼兄弟、先すぐれたる者と仰出さるゝに付、諸侍是を感じ奉る、さて又増城源八、飯室喜蔵、矢崎新九郎、石田長蔵四人の者共、長沼兄弟をすけたる所は尤も頼もしき心ざし、専らたけき武士の道も是にひとしからん、猶以て親兄弟の敵をうつ近付へ頼もしつく仕るは、をのれ〳〵が親兄弟への孝行にも通じて、一入是も剛の武士なり、さりながら長沼長介長八、両人が存知よらずは、無理に傍の者、すくふ事、叶ふまじ、すくはれて入魂をもちなり共、親兄弟のかたきうつは手柄ならん、まして幼少より数年心にかけて討ちすましたる敵なれば、諸人ほめたてば、ほむる者も奥深く人が存ずる者なり、子細は世間の人我きらひの芸を上手にする者をば用ひず我数寄の芸を上手にいたす者をおくゆかしく思ふに付、其人に向ひ、挨拶も一入よき物にて有り親兄弟の敵討たる者をほむるはをのれも身にかゝりてよくうたんや、敵うちする者をそしる人は、其身にかけて、親兄弟の敵き、うつまじきといふ心ならんほめもそしりもせぬ人も、定めて親兄弟を人に殺されても、口惜く思ふまじ口惜く思はねば、敵は取るまじ、敵をとらねば、武士道はすたりたり、武士道をすてたれば、あたまをはられて堪忍仕るべし、あたまをはられて堪忍致す者が、何とて主の役に立つべき、其様なる侍が、かならず利発だてをして、身に自慢の心有て、口をきく者也、さやうの人が卅にあまり四十に及ぶ共、終に手柄もなき者なり、縦ひよき事一度斗り、有るとも仕よき事たるべし、其様成る者は、能く人をだます故に、人毎の機にあふて、ほめらゝる、其者をみしらずして、恩をあたゆるは、国持大将のおはきなるけがなり、抑〳〵長沼兄弟幼少より、思ひまふけて討らすましたる敵を、友傍輩の身として悪名を申、なき事を作り、よき事をけすは比興也長沼兄弟が、目安の文章、飯室、矢崎、石田、三人の書付を見るも四人の者共に様々帰れといふせんさく、暫らく申たるとあれば、長沼兄弟が四人の者をやとふた【 NDLJP:212】ると申事にても有まじ、其上四人の者、誓紙を仕り、立退くまじきと申たれば、神慮もいかゞなり、縦ひ誓紙を仕らず共、あれまでまいるほどならば、長沼兄弟が帰れと申とて、同じて帰る事は、おのこ子にはあるまじ、それは武士道をたて跡から行程ならば、長沼ためばかりにてもなし且はおのれか身の為なる所に誓紙をして見つぐほどの、ちかづきを何のとがもなきに、我身をほめんとおもふばかりに四人の中より一人ぬき出、彼青柳柳介我手前にて、増城源八一人にて、しとむると申すは、まへしづの心ざしさうなれど心も定まらず、万展転して、第一は義理に遠し、就㆑中武士道不案内なる申分なり、縦へば春は長閑なる物とて、正月元日より其まゝ長閑にはならぬぞ、次第に日数積り長閑になる、其ごとくに柳ノ介も、数ケ所の手負ひて弱る故、増城手前へきて一刀被㆑切てころびたらん、さなくして何程の手柄を仕ても、すくる程の近付をそつにおとす事、且は主の用にも立つまじき、孟之反がほこらぬ意地こそ武士の本意なれとて公事は長沼兄弟勝つなり、石田、矢崎、飯室をも、一段信玄公よろしく思し召す也、増城源八あしく思し召すといへども、是も大事なくして其公事おはるなり、翌日仰せ出さるゝは、彼の長沼兄弟両人是に置きなば、わかき者共にて若し増城と又喧嘩など仕ては、おしくおぼしめさるゝ者なれば隔てゝ後によび給へとて、義信へ信玄公所望なされ、内藤修理に預け給ふ両人其後西上野みのわにて、数度手柄をあらはし、兄は此年【一本ニ此年ヲ子ノ年トス】みか尻合戦の刻手柄なる討死してかばねの上までもほまれあり、弟長八郎は猶以て数度おほへ有りて、信玄公御証文、後は七ツまで下されて待ち、右の増城源八其まゝ置き給へ共、三年目河中島合戦に殊外にげて、をのれが事をば指し置き剰さへ傍輩のふるや惣二郎と申す者、臆病を仕たると支へ対决有りて、終に実否究まらず、鉄火をとれとの事なれども、信玄公仰せ出しに旗本の侍に直に鉄火をとらすれば、下輩なる仕置なれば、両方代を出してとらせよと上意にて双方より被官をいだし職衆と横目二十人衆、頭四人をさしそへ八幡宮の庭にて鉄火をとり、増城被官取りまくる信玄公聞し召し去々年長沼兄弟にも心のむさき事を申しかけ、無理なる公事をいたす、又今度もかくの分なれば諸侍へみごりのためにかり坂をこさせよと仰せ出され、右二十人衆頭、笠井平兵衛、三沢四郎兵衛、坂本武兵衛、相州甚五兵衛、甘利左衛門尉衆をめしつれ右増城源八家を闕所仕り其上、源八にかり坂をこさずるとなづけ坂のきはにて搦め捕り諸侍へのために、逆機にあげよとある、但し旗本の者なればかみのきどにはいかゞなる故、在郷に揚げよとてしづめといふ所に、増城源八逆機にあがる、我身の手柄いはんとて、申し合せたる近付を悪しくいひ、或は傍輩を支へ機にあがる、武士の見せしめなりとて、増城源八郎を上下万民、にくまぬ者ぞなかりける如㆑件
板垣弥次郎、曲淵少左衛門、公事之事
甲州にて侍大将衆、同心に預けをかるゝ侍共、知行百貫とる者、大形五十貫は、名田と申す物にて、年貢少しづゝ出し、残りは其地主知行にふみてとる、右少しづゝの年貢は、名田の中に、段銭と云ふ物を撰び出し高にふみ、又別人に下さるゝ、然れば板垣被官、曲淵少左衛門と申す者、数度武辺誉ある故、取りあげ、信玄公御被官になされ、板垣には、同心と仰せわたされ候、殊更板垣信形討死の後、子息板垣弥次郎代になり、よの同心衆も同前に曲淵知行にある、段銭催促いたす、父信形代には段銭の事、上より知行にむすび板垣に下さるゝといへども、曲淵手前計りをば信形とらずして指し置く、但しつかはすとはいはず、年々合力の心なり、惣別何の家中にも、同心衆棟別段銭の事御蔵入にてなし、人に給はる程なれば其寄親へ知行に積り下さるゝなり、さるに付子息板垣弥次郎、曲淵段銭をも、各なみに催促仕る、曲淵申すは、父駿河守信形代のごとくに給はれと云ふ、弥次郎申すは駿河守代にも当意の合力にてこそあれ、つかはすとは是なし、我等は駿河守代とはちがふて、今ははや信玄公御家ひろう成りければ、諸傍輩へ対し、人の用にもたゝんとすれば、知行取る面々に合力の事、其費へ所詮なし、今は合戦もむかしの様に細々なければおぼへの人もいらぬ、曲淵殿に、合力の事は、父駿河守は何ともあれ、それがし代には、合力申す事ならずと、板垣弥次郎申され、五十人曲淵方へ催促につくる、曲淵一切賂ひせず、各〳〵中間も申す、是非共饗応給へと云ふ、曲淵申すは、ふるまふ物あるならば、何とて催促をうくべきぞとて、振舞いたさず今の中間共申すは、さるに付ては、狼籍を仕るべきと云ふ、曲淵申すは、旁心に任せ狼籍を仕たくは仕れ、小者共には取りあふまじ、曲淵と板垣弥次郎と、打合ひての存分ありといへば、催促の者共狼籍ならずして帰る、さて中間共曲淵が様子を蔵衆に申し候、何方も蔵法師慾徳の事には、種々勘もあれ共町人に相似たる物なる故、武士道無案内にて、をのれをもつて人にたくらぶると、古人の申すごとく、曲淵が剛なる意地も、遠慮なく催促の中間共申す口を、即時に板垣弥次郎に申しきかする、弥次郎もわかげの【 NDLJP:213】至りにて有る故、是も又遠慮なく、早々曲淵をよび対面して、誠に其方は我等に存分をいはんと申すか、此催促仕る事は、某知行の事なり、父信形は其方へも、当座の合力せらるゝ、我等は又今程わかき衆とつきあひ其上諸方への似あはしき順儀もあれば、旁にむざと合力してはならぬ、いらぬ所に物いひをして肝をいらするのみならず、我等にことはりをいはんといふ不届なり、抑々其方は元来我等親の被官すぢなれ共、信玄公無理をなされ、同心にと仰せ出さるゝにつき、今は傍輩の様なる物ぞかし、我等へ存分だては、さらにきこへぬ事と、板垣弥次郎申さるゝ、弥二郎二百人あまりの同心被官共、殿の御道理千万と各〳〵申す、曲淵も弥二郎様道理にてまします、但し直にうち合ひて存分いはんとは、我等も中々申さぬになき事にて候、それは是の賂ひなさるゝ衆、作りことにて御座候と、曲淵申す、そこにて板垣弥次郎も腹をゐて、それはげにさぞ有らん、其方自余の人にかはり、右申すごとく被官すぢなれば、縦ひ誰人申す共曲淵は左様あるまじきと、いかにも弥次郎無事なる申され様にてあり、さて曲淵申すは直にうち合ひてそれ程に存分いはんと、小者中間づれのきく所にてなにしに申すべき、催促をひかずして、我等身上のつぶるゝ様に、板垣弥次郎殿さしまさば、頸を打ちおとして進ずべきとこそ存ずれと、曲淵いふ、弥次郎此上は何共仕べきやうなし、ころす事も、扶持はなす事もならず、子細は信玄公御存知の者といひ、其上剛の兵にて、何れの大将衆も、曲淵を預りたがるなれば、事故なく座敷を立ち、少左衛門は家へ帰る扨て弥次郎、飯富三郎兵衛、原隼人両人を頼み此事を内々にて御耳へいれて給はれと申す、両人曲淵を上様秘蔵なさるゝ者なれば、なるまじきとてうちおかる、又長坂長閑、跡部大炊介を頼みければ、両人申すは尤も申しあぐべし今程人の形義作法肝要になさるゝ間、申上るに付ては、大略彼の曲淵は、御成敗なるべし、板垣弥次郎申すは、飯富三郎兵衛、原隼人は、曲淵上様御秘蔵の者なると申して両所は請をはずといへば、長坂長閑、跡部大炊助申す、それはあの旁、信玄公御心をよく存ぜられずしてさやう也、あの曲淵ほどの者は旗本の事は申すに及バず、甲州信州上州へかけては二千も三千もあらん、其上主又は寄親をさやうに、悪口申す、頭の下知につかざるは、大悪事なりとて、則ち長坂長閑、跡部大炊介、御機嫌を見合せ、曲淵が板垣弥次郎へ雑言の次第申上る、信玄公聞し召しおほきにわらひ給ふ、惣別御幼少よりも、終に高わらひなどなされざる大将にて、况哉はや三十四五の時分は、四十五十の人より真なる信玄公、此度曲淵が申分にて、御腹をかゝへ給ふほどわらはせられそのゝち仰せ出されける、扨ても曲淵めは物をしらぬ奴哉、たゞ犬のごとくなる物なり、犬が来て花壇をふみちらし、杖をとりておへばをのれが狼籍さし置き杖にて追人を鼻にしはをよせほへてのくといへども、しゝや狐、狸にかけては、いさぎよし彼の曲淵めは、さんぬる時分、信州おたりの城において、城主そなへを出す刻、板垣信形さき番にあたる時、彼のおたりと板垣のせり合ひ仕る場にて、広瀬郷左衛門、猪子才蔵、鑓をあはする、其上、人を討ち、彼の曲淵みしな伝右衛門、鑓トの高名をする、おたりの者共、しまけて城へつぼむ、それがし見切り、明日板垣信形が備に、旗本の若者共指し添へ内藤修理、原隼人、逍遥軒を大将にして、五千を以てせめんと定むる、其刻広瀬郷左衛門申すは、我等よき馬をもたず明日城責めあるならバ、高名にはかまふまじ、今朝城主が乗て出たりし金の馬鎧かけたる馬をとらんとことはり、其ごとく翌日城へおしこみ馬を取り、曲淵も前の日広瀬と一所にて、我等は城主の頸をとらんと諸傍輩のきく所にて、板垣信形にことはり、其通り城主を討ち旗本にて諏訪越中が長柄を二本とりて、人を十五六人たゝきころばし其後、よき侍を一人頸をねぢきりし糸のごとくに、筋のみへたる頸をもちきたる、又小幡山城がむすこ、小幡弥次郎、おたりの城主を、弟の次郎左衛門、其城二のくるわの主なるをうち、則ち其内にて家老をいたす者の頸一ツ、合せて二ツとり高名をして、さいはいをそへ持ち来る五千の中旗本に二人、先衆に二人合せて四人にすぐれたる彼の曲淵手疵も、はやいまゝでに二十ケ所あまりかうふるときく、あのやうなる者一備の中に一両人づゝあれば若者共たしなみてあのごとく手がらを仕り、主や寄親に、はをぬきても大事なしとて殊の外よき者おほく出くる物なりと仰せ出さるゝ、上下の批判に、曲淵をまねて手がらもなき者は中々いはんとも思ふまじ又功もなくしていふならば、よその気まうもはづかしかるべし、心有るほどの人は手柄なくしてはいはんとも、おもはずいふてもおかしき事也と、諸人取りさたは信玄公御ことばに心の付らるゝ御意の故なり以上
曲淵少左衛門公事負雑言仕義桜井殿訴訟之事
甲陽の武田信玄公、御一家の板垣信形ざうり取りに、鳥若と申す者を後には曲淵少左衛門と申してかくれなき武辺のほまれの者なり、彼の者只今四十歳にあまるまで公事を仕る事七十四五度なり【一本ニ公事の数四十五度トアリ】、其内【 NDLJP:214】一度勝ち一度はあつかひに仕り残りは皆負け候、或時彼の曲淵公事を仕負け座敷を立ちながら此度の公事はわたくしまけまじき公事なれ共奉行衆へ音信を仕らざる故負い候なり、重ねて公事をいたし候はゞ是非共栗柿を用意し持て参るべく候、ことに我等の在所はさはし柿の上手にて候へば、重ねて持ち参り申すべく候と雑言仕る、四奉行腹立ち給ふ様に候へ共三人は遠慮して其挨拶もなし其中に小身にて候へ共桜井殿はちかき御親類の事なればいひかね給ふ色もなく、腹をたて御申し候は曲淵殿は、近来勿体なき事を承り候物かな、上義をかろしめ申すにこそ、さやうのさたもあるべきに、是程御法度つよき文武二道のほまれ誠に近国他国までゆかしくまします御大将のしたにて、さやうのうしろぐろき事を仕るべく候や重ねて公事をなされ候はゞ、理屈を持ち参り候へ無理なる事に候はゞ金銀米銭をたとへば車につみ持ち来り候とも、其方まけたるべしと御申し候へば、曲淵少左衛門座敷をたち、かたなをさし又奉行所へゆき、奉行衆に向ひ手をつき謹で申すは桜井殿には御位と御出頭はまけ申すべく候切あひぐらは勝ら申すべく候間、これ口惜しくおぼしめし候はゞ、只今御出候へ場中にてすかうをきりくだき進すべきよし申して、刀をねぢまはし座敷を立ち候さすがに大剛の者なれば、当座に何事もならず、其うへ信玄公のあのやうなるおぼへの者を浅からず御馳走なさるゝ事に候へば、うへをかねても旁もつて曲淵は事故なく、我家に帰るなり其後桜井殿四奉行共にめしつれ、訴訟がはにて御前へ出て畏まり居給ふ信玄公政道かしこき大将にてましきせば、四奉行の色をみつけ給ひ奉行所にて悪逆の族ありて事破れの狼籍もあるやと不審におぼしめし桜井各〳〵何事ぞとうへよりはやく御尋ね候へば三人の衆は左右なう申しあげ得ず、其中に桜井殿御身ちかき人にてましませばさのみ憚る事もなく、なみだをながし曲淵が公事の次第、又雑言の様子つまびらかに言上申されて彼の曲淵を御成敗無之候に付ては我等共公事など承り候事をば御赦免なさるべきよしたつて申上られ候信玄公聞し召し尤も其方道理至極に候、一族の義なり奉行といひ代官正員にますと、むかしが今にいたるまで申しならはし候へバ我等が分国中にて、降参の侍三代めしつかひ、又は我等まで二十七代に伝はる大将共なり共惣別大小ともに、其方などに慮外は有るまじき所に申さんや、あの曲淵めは昨日今日に至るまで板垣が小者だちの者なり、只今身を仕あげたる分にて、飯富四郎が同心に預け置き候小身者の躰にて直参ならばたゞのものをさへ敬ふべきに、それがしの一族といひ奉行といひ其方に雑言、かつうは某をかろしめたる所なり、然れ共彼の曲淵には子細あり、一年板垣弥次郎が本郷八郎左衛門小身とてあなづり慮外をいたし、本郷八郎左衛門に板垣斬られ候、慮外は大小共によらず、我家の法度に申し定め候間其様子さま〴〵あらため、少しも依姑のなきやうに、手をまはして、能々聞き候へば、本郷八郎左衛門道理なる故に其まゝ置き候然れ共相手板垣なれば、仕付けのために彼の本郷を座敷籠にいれ置き候所に、本郷を御成敗なき事は、板垣をば信玄が殺し候とて、曲淵それがしをねらひ候事、其かくれなし、其刻流罪にもおこなふべき事なれども、義理を存知如㆑此の段千万にすぐれて、やさしき覚悟を感じ様々申しなだめ主殿の白洲まで召し寄せそれがし出て対面し板垣は当座の事、それがし生国なれば、甲州一国の者は我等が譜代なり、誠の主といはゞそれがしの事なりと直談せしめ候故、彼の者誓紙をいたし、我等へ随身候、さんぬる時分、上州はてら合戦の時、和田八郎被官いそや与三郎頸ーツ、彼の曲淵頸二ツいづれも手がらなる高名にて候故、褒美をあたへ候、いそやは上州新参の者なりとて、刀をとらする、曲淵は譜代なる故心やすくて脇指をとらせ候所にいそやよりおとりの、褒美とて曲淵腹をたち脇指をそれがしの、みすのきはまで投げかへすほどのいたづら者なれ共、赦免せしめ候間あの様なる者をばそれがしに免じこらへられ候へ、縦へば猫と申す獣は取立てのぬしをもしらず、奇麗なる炉中にも糞をなし、或は飼鳥をねらひ悪儀のけだものなれどもねずみをとるには一段といさぎよし、又鼠といふ物は、大事の物の本をもきしり破り障子の絵も遠慮なくくひさばく時は何様のことにても、退治したけれ共俄かに退治する事もならず彼の猫をかけて悉く取りつくす時は、あとのあしき事をば忘却し、たゞ猫は重宝とばかり思ふぞ、彼の曲淵は信虎公の代より数度の走り廻りをいたし、数ケ所の手疵をかうふる事度々においてなり、甘利に預けおく米倉丹後、大野、飯富三郎兵衛が下にては彼の曲淵両人などは旗本の五人の者共もほめてありときいて候、殊更彼の曲淵は合戦の度に疵をかうむるよし聞き及び候が近年あまりに手をおふたるさた是なし、上州のみのわにて去年の冬内藤修理をもつて尋ねて候へば摩利支天の縁日未精進をいたし候由申す、それは誰にならひし仕るぞと委しく尋ねて候へばかゞみの大坊の御秘伝なりと申す彼の文盲なるものが、摩利支天経を日々夜々に読誦すときく、さやうの事もたがためにてもな【 NDLJP:215】しそれがしに奉公の忠臣なり、一人まもる所十人守㆑之と古語にもありと聞くいかに彼の者至らぬ者とても武道の奉公すぐれて如㆑此の段はおほかたの事をばすてをかずして、成敗仕候はゞ天道のにくみをうけ人罰をかうふり、士卒に心をはなされ、勝利をうしなはん事車の輪の廻るごとくなるべし必ず堪忍仕らるべし、又それとても其方奉行を上げ候はゞ曲淵も機つかひに存知、我等ためをも思はず忠功もうすくなるべし、然れば彼者一人にてもなし、其時代の者或は曲淵より後の兵共数度の事を仕る曲淵さへかくの分なりとて、戦功ひかへ候はゞ予がほこさきよわくならん事、案のうちなるべし、良匠無㆑弃㆑材明君無㆑弃㆑士と、古人も申をかれたり、堪忍の古事分別候へとて御わらひなされ、御座敷を立ておくへいらせ給へば、諸人上下みな是をきゝ、何の道にても御奉公をはげまし申べく候覚悟仕尽感涙をながす程に仔じ候は、諸侍の思ひ付申事にて候以上
落合彦助と百姓と公事付雑言并三法印詫言の事
曲淵御蔵の前にて、奉行衆へ慮外の後御書立をなされ、おく近習衆の内にて五人横奉行と名付、公事の場へ一人づゝ其年より一両年の間被㆑遣候其五人は、一番に、金丸筑前守が子平三郎、二番に長坂長閑が子源五郎、三番に日向大和が子藤九郎、四番に三枝土佐守が子善八郎、五番に真田一徳斎が子源五郎是れ五人なり【一本ニ源五郎ヲ弥五郎トス】、然る所に曲淵が公事のあくる日に御舎弟逍遥軒被官落合彦助と申者、百姓と公事を仕り負て奉行を悪口申其日の横奉行は金丸平三郎也、五人の中にても一入御前よきゆへ落合が雑言の様子申上る、信玄公聞召し公事の次第は何と御尋ある、平三郎申は其段は奉行衆へ可㆑被㆓尋仰㆒候我等はたゞ雑言の事ばかりと申候、信玄公聞こしめし当家法度の式目を則ち存じ、いたすことやさしき分別なりとて、彼平三郎を御褒美あり、其後奉行衆をめして彦助仕る公事を委しく聞召に、非公事なり次に横目の二十人衆頭をめしよせ隠密をもつて、御きゝなされ候へば彦助非公事の由申上る、又御小人頭衆をめして三段まで、惣様のとなへ御尋なされても彦助非公事にきわまり申候間、其後仰出しには彼落合彦助事、曲淵に年こそおとりたりとも、武辺の事さのみおとる者にてなし、さるについて逍遥軒にとらせ候所に、曲淵が蔵前にて奉行どもに雑言の事、赦免せしめてありとていつもさやう有べきと存、事、下より上をはからふたる様子、言語同断口惜く思召し候其上第一に彼彦助をあれほどの臆病者にて有べしとは御存知なし、子細は侍が人にはをぬくなと云は、跡先を分別いたして其場にてうちはたすべき覚悟をすえて、其後申出し若し敵方口をとり候はばそこにては其身も申やみ候はん物を、申出さゞる以前に、定めて大事は有まじきぞ、曲淵を御赦免候程にと存じ雑言は未練の至り也、武士にはなき事なれ共、縦へば侍があたまをはられたるよりも比興なり、あたまをはられたり共、相手をうちころし候はゞは、じめのはられたるは、きへて結句手がらなる事も有べし、今度の彦介が仕形は心中のよごれたる様子なり、心中のよごれたるは何にてもすゝぎ申べく候哉、武士たる者は大小によらず、ばかずにもさのみ取あはず心中の味を本にいたし候が、たけき武士ぞかし心中の味を能たしなみて場数ある者をさして、おほへの者とよび、名人と是を云ふ抑〳〵曲淵を赦免の事は旗本家中によらず、我等分国中の諸侍へ礼義のために成敗赦免せしめてあり、それになんぞ彼落合彦介いつもかくの分に有べきと存じ、奉行共に雑言仕る事たゞおほかたに申付候はば、明くれ蔵前にて悪事有べく候、早々からめとりかみの城戸にてみこらしみのため、彦介をいりころしあるべく候と、おほせいだされ、あしがる大将二がしらに、二十人衆頭三人、職衆に指添、彦介をからめとり候へ、若し又傍輩共など其辺に見舞のために、ゐる共それをもおさへてからめとり申べく候、まして落合事は申に及ばずとの御意にて、足軽衆職衆二十人衆各落合彦介宿をとりまき申され候、彦介はやく聞付け、にげてきけん寺へ走籠奉㆑頼に付て、先命に大事はなし然れ共七十にあまる母を籠舎に被㆓仰付㆒候其後仙海法印、しつかく山の勝覚院妙王寺の妙音院、三法印の御佗言にて候、信玄公御意には仙海法印の事は関東川越より、はる〳〵よびこし奉る間、不㆑及㆓是非㆒国家の仕置の事をもかへりみず、三法印へ対し奉り命をば助置申べしとて、五六十日有てたすかる、彼彦介罷出る、さりながら家屋敷知行共にこと〳〵くめし上られ候、上下取さたには、曲淵を御赦免候間中々かやうには有まじきと存候外、如㆑件事下々にてつもる事少も成がたき、大将にて御座候、又各批判は惣別善があれば其次は悪事、悪事あれば其次善事なりと、心得べしなどゝ皆申され候へども、内藤修理申は善の次には悪はいかほどもあれども、悪の次に善がまれなりと思へば人は恥に遠しといふたは、一段尤なり、かやうのことを、長坂長閑老、跡部大炊介殿分別なさるべく候、又承及候、織田上総守信長公子息城介信忠の事を御前の衆に尋られければ、内藤申【 NDLJP:216】され候ば、一段御噐用なるよし、上下共にとりさたいたすと申候へば、信長聞召し噐用の様子は如何と重ねて尋給へば、各申は御客来など有㆑之に此人には御馬を可㆑被㆑下候と各存候には必ず御馬を下され候御腰物をつかわさるべく候と申には、少もたがはず御腰物を下給ふと申候へば、信長大きに怒りて何としてさやうなるが噐用にて有べきぞ、それは無噐用者にて中々我等が跡はなるまじきと申され候子細は下よりつもりの外、刀をくれべきと申には小袖をくれ馬をとらすべき者と人々申には代物を一貫ばかりとらせ此人には、ふるき物【一本ニふるき物ヲ深き物トス】は下さるまじきと取さた候へば、其者には金子などを沢山にとらせたるこそ手の外の様子にてそれが国持大将の作法なり、縦へば敵へ取かくるに城介こそ是へいづると申所へは少も出ずして、敵に骨をおらせ、又いづまじきと敵の思ふ所へは、如何にもかる〳〵出てこそ、利はなる物なれ、まちかまへてるたる所へ出ては何として利がなるべきぞ、惣別噐用だてをする者は無噐用の真只中分別だてをする者は、無分別の九ツ時分にて候ぞ、武士は手の外を仕り、下よりつもられぬが、本の大将也と申されたるよし聞及て候、信長公あらぎなる大将のやうに申なし候へ共、右の段は、聞事なることなり、信玄公つね〳〵仰られしは、信長あらきなる行義いたすはみな虚言也、我等と輝虎なくは定めて真に物を執行申さるべく候といつも仰られしごとく、今度長篠にての様子、我等不㆑参候へ共皆語るを承はれば、前に子息の域介信忠のうはさ申されしごとくに、少しもかわらず、海道一番の家康当年三十四歳日本に名高き信長当年四十二歳、いづれも武道分別ともに盛なり、子息城介信忠と三大将しかも人数十万ばかりの大勢なり、又こなたは勝頼公一大将にていはんや、御年三十歳ことに敵に対せば五分一の人数なり、旁以て信長無理をはたらかるべき所に、節所をかまへ剰へ柵の木を三重までつけ、大事にいたさるゝ事は手の外にて候、信玄公右曲淵落合公事落着不同之事、大形臆意はよき大将衆、同風にまいるなり、以上
金丸平三郎、為㆓落合彦助㆒被㆑伐事并長坂源五郎被㆑誅事
御舎弟逍遥軒の被官、落合彦助事、三法印の御佗言にて命助かり罷出る、然れ共七十にあまる、母
籠に入てあり、是は右の三法院へ逍遥軒より頼給ひ候へ共、三法院達仰らるゝに、彦介が罷出て、せめては五六十日も間を置て申べく候と被
㆑仰候へば、長坂長閑、跡部大炊両出頭衆も、尤其事然べく候と、談合申さるゝうちに彦介まかり出で、十日ばかりありて、年寄たる故に彦介が母死す、然る所に両出頭人の内、長坂長閑むすこ長坂源五郎、落合彦介を相近付て申様は此度其方を是はどにはなさるまじき事なれ共、金丸平三郎が殊の外御取成しをあしく申上たる故かくの分なりと、様々彦助に申きかする意趣は、彦介が公事の前に、長坂源五郎横奉行の番に相当る時御蔵の前より罷帰る、公事の様子段々ことゞとく源五郎言上仕るに付て、本奉行衆可
㆓申上
㆒様無
㆑之とて、御前を罷立、是は源五郎分別相違故なり、さたの事は本奉行、若き衆一人づゝつかわされ候は、曲淵が様なる者ありて、奉行へ雑言の時、奉行とても、あひての言上申に、かた口をもつて曲事には、なされにくき事にて御座候間、為
㆑其横奉行をつかわさる横奉行衆は何事も、不
㆓申上
㆒候よき者を、源五郎利発だてをいたし奉行衆をおしのけ我してもちたる様子、信玄公御意に一向不
㆑参候へ共、名人なる御屋形にて其辺に聞召し指置給ひて、其後本奉行衆を召て公事の様子さたなされ、就
㆑中此彦介が公事は、源五郎横奉行の時やがて
指次に有
㆑之所に平三郎おごらぬもやうなるにより、平三郎を一入褒美なさるゝに付て源五郎が平三郎をねたみて、彦介をよび讒言するやう、彼落合彦介が七十にあまる老母を、ほうこぼつしが手にわたし、籠のうちにてせつしころされたるは名代のはぢにてはなきか、すでに其方をば信玄公御意に、曲淵にも年こそおとる共武篇の事はおとる者にてはなきとの、上意にて御座ありつるぞ、今ははや臆病者と仰出され候は、みな平三郎が御取成しあしき、申なし、故なり我等親子いたしよきやうに仕度存ずれ共、平三郎が其方ことさん
〳〵に申上候へば、何とも可
㆑然様無
㆑之候如何やうなることにて其方は、平三郎ににくまれ候や、貴殿事三法印へ対せられて定めて当年中は、何事もこれあるまじきが、年あけばやがて大事なりと、さま
〳〵源五郎が申をしへ、金丸平三郎夜詰に罷出候を、長坂長閑が子源五郎、目付になり、落合彦介に、八幡の前にてきらするなり、平三郎はいつも御城にふせられ候に付用所有て屋形様、戌の時の御看経の間に小者一人にて忍び、宿へまいられ、夜の四ツ時に何心もなく、急ぎ御舘へ罷出るを源五郎よく存じ候てをしへ平三郎二十一の歳、落合彦介にきられたる事、長坂源五郎が讒言の故なりとは、彼彦介申こしたるにてほ しれ候なり、右の源五郎侫人の事其右には中々誰も不
㆑存候へ共、信玄公は推量なされてあればこそさま
〳〵彼源五郎が心をひき見給ふ、又其比かつ沼入道のむすめに御手をかけられ古
籠屋小路と
【 NDLJP:217】申所に屋敷をかまへ置まいらせらるゝ、是へ源五郎を御使につかはされ跡より二十人衆かしらを一人目付にこし給ふ是をばゆめにもしらず、かつのま殿のはした衆と、源五郎みだりなるふりをいたすに付御みかぎりをかうふり、次第に出頭とをく被
㆑成、其身の科をさしをき、信玄公へうらみに存奉り、後には太郎義信公と組み逆心の事、御耳にたち其証拠顕はれて、金丸平三郎きられたる、六年目に終に、長坂源五郎を、誅罰なされ候、日本あるじ天照皇太神宮の御
詫に、謀計は眼前の利潤たりといへどもかならず神明の罰をあたるとなり、右金丸平三郎をきりたる落合彦介、何方へ可
㆑参と僉議まち
〳〵なり、然れ共駿河今川殿小田原北条殿、いづれも其比は御無事にてましませしば、少しのとがには参る者これあれどもかやうの科の者は、中々今川殿北条殿へは不
㆑参分尾州信長も庚申の年の五月、今川殿と合戦に勝、義元を討とり、其いきはひにて尾州を随へ、同年のくれに美濃の国へとりかけ、七年戦かふて、七年目寅の年と申すに信長公三十三のとし、美濃尾張両国の主と成給ふ、彼彦介が仕合せも、右申の歳殊更三月なれバ、未だ信長も、尾州さへみなもたぬ時にてあれば、信長へと、疑ひやうもなし、猶以て家康は、其年十九歳の六月までは元康と申、駿河今川殿御旗下なり、駿河、遠江、三河三ケ国、今川殿の御国なる故、家康も岡崎の城一ツやう
〳〵所持に付、これへ可
㆑参と申事にてもなし、其ころ四国の三善修理大夫公、天下を意見なされ候へども、遠路にて、三善殿へ可
㆑参と申事にてもなし、敵なれば越後の長尾謙信へ可
㆑参と、各取さたのごとく、彼落合彦介越後へ参るのよしきこゆる、信玄公思召には彦介を討てきたらん者には知行一かと仰付らるべきと、最坂長頃、跡部大炊に
隠密にての上意なり、長閑大炊助、誰をか見合申つくべきと談合いたす、又其年は今にかはり牢人衆漸廿三人あり此中に国はいづくの人やらん、荒川新之丞、村井久之丞とて、両人兄弟のごとくに申合て罷出たる牢人あり、其両人殊の外の才覚仁にて、長坂長閑、跡部大炊所へ常に立入、客来あればさくまひ所にて、料理膳部を請取両所を
大切がほに致す事、たゝ大かたならざるにより、長坂長閑、部跡大炊、両人の気にあふて是程の人よにもあるまじきとほむる、其外少しも御前よき衆をば中々おもんじ、ちんてうはいまうして御膝をだきいり、奉
㆑頼べきと、ことはりを五日前にしる人になりては六日目にはや台所よりねり入ほどの器用者なれば、長坂長閑、跡部大炊談合に牢人衆の中にて、荒川新之丞、村井久之丞二人は、なにを被
㆓仰付
㆒ても、一かど然るべき人なり是非共、御取成し申べきとのことなれども、前にかわる事もなき所に、卒爾に申上るに付ては、よきにはならずして結句面々旁まであしかるべしと存、一言申事ならず、さて右の荒川新之丞、村井久之丞、両人長坂長閑跡部大炊をもつて、落合彦介をうちて可
㆑参と申上る、長閑大炊かねてより、二人の牢人衆を別してかいほう申に付、則ら隠密にて披露いたす、牢人衆の内に荒川、村井両人にて、落合彦介をうちて可
㆑参とのぞみ申す此者どもは一段すみやかなる衆にて余所においても数度の手柄をいたしたるよし、様々御とりなし申あくる、信玄公常の事をば、大かたならず被
㆑入
㆓御念
㆒といへども、金丸平三郎御意に入たる者なれば平三郎敵きうちいたすべきと、のぞみ申こと、大慶に思召、其時にかぎりあさ
〳〵と仰いだされ
引物をあたへよと有て、長坂長閑、跡部大炊分別をもつて落合彦介が討手に、村井荒川をさしこし候此長坂長閑は信玄公御幼少の時分、御局の弟なり、又跡部大炊は跡部尾張と申して是も勝千代殿と申時の御もりの甥なり何も御若年の時局も御もりも死するに付て是への御届けに長坂長閑跡部大炊は出頭ときこへ候、扨又村井荒川両人百日の内に落合彦介をうちたるといひ、頸を一ツ桶に入て甲府へ帰り候、長閑大炊をもつて
指あぐる、浅からざる手柄也、すでに落合が平三郎をきりたるは、申の年是は、翌年の酉のとしの三月、荒川村井御請を申し、四月罷出六月きたる路次中のゆきゝをのけては、七十日ばかりにて落合をうちて帰る、両人近年の牢人衆なれば、いまだ切符の躰なれ共、既に五百貫づゝ両人、千貫可
㆑被
㆑下との思召也、折節高坂弾正、川中島より、甲府へ参候、内藤修理と談合いたし、両人にて信玄公へ申上る、金丸平三郎事、一段利発に御奉公申たる者にて、御
不便を加へらるゝ事御尤にて候、しかれば彼かたきの落合彦介を成敗仕、頸とり村井久之丞、荒川新之丞と申者、罷帰候のよしにて、一人に五百貫づゝ両人に千貫の御知行可
㆑被
㆑遣の旨何よりもつての御事なり、さりながら先重ねてになさるべく候、其子細は、山本勘介などにさへ始めは百貫にてめしよせられ候、但し其比は信濃国も漸やう十分一御手にいると申せ共、山本勘介は又尋常の者にあらず御家へ参りても横田備中、原美濃、小幡山城、多田三八、山本勘介五人に勝れたる足軽大将にて御座候此五人は凡そ日本国にもあまり多くは有まじきと近国にも人の存知たる者共也、就中彦介がしるしとて持て参るといへども、夏にて頸くさり更に其体みへ申さず候侍に定めて虚言は有まじく候殊更荒川新之丞村井久之丞と申人殊の外才覚人にてしかもみづから能御用に立べき
【 NDLJP:218】人の様に申が、又一方にて若者共の中のさたを承る会根孫三郎、真田源五郎、三枝善八郎、三人の物語いたすは彼村井荒川はちと軽薄者の様子にて少しも御前のよき衆へはさま
〳〵取入うやまひて、とさま衆へは一段慮外をいたし、五代十代召つかはれ或は一二代とても命をなげ打、数度の御奉公申たる御譜代衆をさしこへて上座へなりあがり、しゆつものにて、昨日まであがめたるをも御前あしく、成たるときゝては其儘みぬ由を仕、足もとをまぼる侍の由、取さた御座候人のあしもとをまもる侍が何として加様の手柄仕申べき御聞合ありて御知行可
㆑被
㆑遣由、修理弾正達て申上候故知行は先不
㆑被
㆑下候、引物を過分につかわさる、弾正は七月川中島へ罷帰候、則ち其八月川中島へ、輝虎働く、其供を仕り落合彦助罷出、しかも、柿崎が備へに居て落合彦助これ迄参ずると物見に出て日々夜々によばゝる、此さまを聞て彼荒川新之丞、村井久之丞夜迯に仕る、何方へ参りたるとも終に行地しれず定て此両人名字をかへて有らん扨其年の九月十日に川中島合戦なり、惣別前より今まで、長坂長閑、跡部大炊両人我きげんをとる者をばあしきをもよく御取成しを申す、よき人をも我所へ音づれざる者をば、どこぞのはづれにて御取成をあしく申さるゝ事も勿体なき子細也、信玄公御在世の時さへやゝもすれば両人あしき分別とみゆるいはんや只今は勝頼公は若く御座なされ昔しの衆は皆当年長篠にて討死して拙くも我等式計り残るなり明日にも相果候はゞ悉皆は長坂長閑跡部大炊二人の内より外、誰とても無
㆑之両人の内にても、長閑一入侫人にて我あしき分別をしては、跡部大炊介へかづけらるゝとみへて候、長閑の分別なき事、聞及びてあり、信玄公二十の御歳信濃海尻の城にて、本丸に小山田備中、二の丸に日向大和、長坂長閑請取被
㆑居申候時分、長閑は左衛門尉と申、三人此城にさしおかる、地の侍衆こと
〳〵く敵になりし時、長閑の分別にてしきりに城をあくべきとの事なり、長閑出頭なる故、大和は長閑次第と申さるゝ扨又小山田備中は本城におかせらるゝ、過分に候へば、此城を枕にいたすべきと、かね
〳〵存ずるとて立のかず長閑と大和は城をあけてかへらるゝ跡にて備中を地の侍に、村上殿加勢人数うちそふて、二三日せめつれども五十騎ばかりの人数にて城を終にもちかため、やがて御旗を出され、城をまきたる人数を雑兵ども九百十三人うちとり給ふ、海尻合戦と申は是なりときく、其時備中をなのめならず御褒美にて武篇分別共に達したるとて、其後御手に入ほどの城々へ、先備中がうつらざるといふ事なし、此刻に日向大和と長閑と対决ありて、長閑負たる故、久敷改易仕り
【一本ニ改易仕ヲ改易仰付らるトス】、典厩の御かいほうにて日向大和とも中をなをり候、あくる年日向大和が正月二日の夜みたる夢を買ふて、ざれ事ながら其夢があたり、其年二月懸あひの有し時諏訪のれんほが頸を取り典厩の御
詫言にて、御前すみやう
〳〵出仕申候それなくは長閑は、当家にならぶ人もなく人数もちにて有べきよし也、長閑出仕の時、信玄公の御意には夢を買ほどに思ひ入て、帰参を心がけたれば典厩手にてれんぼをうちたると仰られ、めしいだされて有と、各物がたりを聞候惣別長閑も武篇には数度をしたる人なれども、無分別故海尻の城を開て大きなる臆病者と被
㆑云給ふ、長閑の仕形は御為もいらぬ我気を取者をほめ候、御用に立者はあまり人の気をとらぬ者なり、我等死に候はゞ跡にて長閑の仕置なるべし、跡部大炊分別、信玄公の御代にはあまり是ほどにはなき人なれども、勝頼公の御代になり三ケ年長閑の真似をして散々悪き分別なり、只今かた
〳〵両人の仕形にては、我等式無
㆑之後は我気を取者ばかり召し挙げて、信玄公の御代よりほまれを取たる人々の長篠にて死にのこり、少しあると存ずれども余所の国にて覚へ者の沢山なるよりは又当家の人のなきはましなるべし、如
㆑件御用に立衆をば旁
〳〵の被
㆑成様にて恐怖をもたせ、皆御用にたゝぬ様に成べし、素より長閑大炊介両人、御取成しの衆は、荒川村井が如くに大事の時分は、こと
〳〵くにげちらん三畧
招
㆓挙
姦抂
㆒抑
㆓挫
仁賢
㆒背
㆑公
立
㆑私
同位相訓
是
謂
㆓乱源
㆒といふと有時は、かた
〴〵此書を披見なされ、尤もとおぼしめし候はゞ大事の有まじきぞ、腹を立給はゞ国はくずれて、武田の御家は二十八代目と申すに、当屋形勝頼公御代に終にやぶれて滅却は少しもうたがひ有まじき所、人の
相をよくなされて尤も也、如
㆑件