甲陽軍鑑/品第十八
一勝千代殿十六歳の三月甲府へ勅使立て甲州武田源信濃守大膳太夫と被㆑成させ給ふ又公方万松院義晴公より上野中務少輔御使者として晴と云ふ字を被㆑下晴信公と云々
晴信公三十一歳天文廿辛酉二月出家し給ひ是又勅命をかうぶり法性院信玄公と申候十六歳より弓矢を取てほまれ有りて天正元年癸酉四月十二日五十三歳にて御
天文五年丙申十一月廿一日信虎公甲府を打ち立ち信州へ御働きの時信虎公まきほぐし給ふ信州海野口【海野口城攻付信虎牢浪の事ト標目アリ】といふ城を三十四日まきつれども大雪故信虎勢彼の城を責め落す事ならずして同十二月廿六日に甲府へ信虎公御馬を入れ給ふ子息晴信公しんがりとありて跡にさがり甲府へは、ゆかずして本の海野口へもどり其勢三百計りにて御父信虎公八千の人数にて叶はざる城をのつとり給ふこれ信玄公十六歳にて信濃守大膳太夫と申す時しかも初陣の御てがら如㆑此但し名乗りは晴信公と申すなり
天文七年戊戌正月元日に信虎公子息晴信公へ御盃をつかはされず次男次郎殿へ御杯をつかはさるゝさありて正月廿日に板垣信形をもつて信虎公より嫡子晴信公へ仰せつかはさる其旨は太郎殿事駿河義元の
同年戌の三月九日に信虎駿河へ御座候晴信は三月末に駿河より一左右次第越し給へとて晴信公を甘利備前所に預け二郎殿を御館の御留主に置き給ふ信虎公駿河へ御座故晴信衆内々支度也然る処に板【 NDLJP:73】垣信形飯富兵部両人を晴信公御頼あり信虎公甲府を御立有て九日目十七日に逆心なり殊に駿河義元と内通し給ふ故少も手間取ことなし信虎公御供の侍衆皆妻子を人質に取り給へは信虎公をすて申御供の侍衆皆甲州へ帰る
【甲州にら崎合戦】
天文七年戌六月信州の大将衆諏訪頼茂同国ふかしの小笠原長時談合しけるは近国の甲州太郎晴信を父信虎、みかぎりて次男を惣領に仕らんと有故親子中悪して晴信智略をめぐらしあねむこ義元を頼み信虎をば駿河へ追出したると聞ゆる然れ共甲州には父信虎がた、子息晴信方二ツに成て候其上信虎信州のうちを少しおさめ取つれとも今程は甲州さへ晴信手につかずまして信濃のは思ひもよらさる故村上義清にしたがふ、村上に随はさる者は皆追ちらされたりと申此時甲州へ打入て小笠原殿甲州一国を支配し給はゞ跡をば頼茂とわけ〳〵にとの談合おはりて諏訪頼茂伊奈侍衆をかたらひ小笠原長時両旗にて都合九千六百の着到を付、甲州にらざき迄打入七月十九日に信州衆荒手を入替日の中に四度の合戦なり先づはじめは諏訪衆を以て一合戦旗本をもつて両度の軍なり小笠原衆先勢をもつて一合戦旗本をもつて一合戦両どの軍なり一日に四度の合戦なり又甲州勢殊に信虎公御追出の砌の成る故かれこれ人数ちり六千余計りなり六千の人数飯富兵部一番合戦晴信公旗本二の勝二番合戦甘利備前是れも晴信公御旗本にて二の勝なり三番合戦小山田古備中なり二の勝は是れも御旗本四番合戦板垣信形是も御旗本にて二の勝なり二の勝といふに口伝あり右四人の侍大将一二三四の鬮取りをもつて如此なり但し御旗本の後そなへ今井伊勢日向大和両人雑兵三百計り一手に作りにらざきたかき処に備を立て是は少しも働かず味方甲州、地戦たりといへども時分がら信虎追出の砌りしかも大将晴信公十八歳にて若くまします敵は多勢なり四度目の合戦には各草臥れあやうかりつるなれども原加賀守といふ侍大将甲府の御留主に有りつるが西郡東郡の地下人或は甲府町人二十歳をきりて五十四五歳までの者どもに古具足をあつめさせ紙小旗をさゝせ古き鑓、または竹の柄に長柄のみを指しこみ目釘をうつてつがう五千ばかりにてさゞめきわたつてにら崎の合戦場へおし来るをみてさすがにたけき信州勢他国へ来りての戦其上前三度の合戦に三度ながらをくれをとりたる故終には晴信公の旗本にて入くづされそれより後かへして戦ふ事もなく晴信公勝利を得給ひ信州勢を討取る其数二千七百四十八、天文七年七月十九日辰の刻より未の半迄の合戦なりにらざき合戦と是を云此軍の勝ちは畢竟して原加賀武畧の故なり是れ信玄公信濃守大膳太夫と申て十八歳の七月なり右の合戦にて晴信公御旗本にてすぐれて走りまはりたる衆は原美濃横田備中