オープンアクセス NDLJP:20甲陽軍鑑品第六
信玄公御時代諸大将之事 
伝解ニハ信玄公御時代諸国大将衆大小身共ニ幼少よりの様子の事トアリ

とし増し次第に先へ之を書く若し此反古ほうぐ落散おちゝり他国の人之を見て我寺のほとけたつとしと思やうに書ならば武士の道にて有まじきなり弓矢の儀は唯敵みかた共にかざりなくありやうに申をくこそ武道なれかざりは女人或は商人あきびとの法なり一事をかざれば万事の実皆いつはり也天鑑無伝解ニ本卦きれて見えずトアリ

永正十二年乙亥の歳にたいらの氏康公誕生これは小田原の北条氏康の事也

大永元年辛巳歳みなもと信玄晴信公誕生是は甲州武田信玄の事也   本卦豊

享禄三年庚寅歳上杉謙信輝虎公誕生是は越後長尾景虎の事也 公方光源院義輝公より輝の字を被下て輝虎と号す   本卦履

天文三年甲午歳平信長公誕生是は尾州織田上総かみの事也   本卦蠱

天文七年戊戌歳北条氏康公之御子氏政公誕生

同年今川義元公之御子氏真公誕生伝解ニ此三人本卦の処きれて見えずトアリ

同年武田信玄公之御子義信公誕生

天文十一年壬寅年徳川家康公誕生是は三州松平蔵人まつたいらくらんど公の事也   本卦大壮仝本卦賁トアリ

一天文十五年丙午歳武田勝頼公誕生是は信玄公四番目の御子信州伊奈四郎の御事也仝本卦きれて見えずトアリ信州諏訪頼茂の跡目なる故武田相伝ののぶの字をさり給ふ信玄公の御跡も十五年の間子息太郎竹王信勝廿一歳までの陣代と号してかりの事なる故武田の御旗は終にもたせ給はず全集伝解共ニ尊崇の御幡もテ孫子の幡もトス况んや信玄公尊崇の御はたもゆづらせ給はずもと伊奈におはします時の大文字の旗也但片時へんしも屋形の御名代なればとて諏訪はつしやうの御甲かぶとばかりゆるしまいらせらるゝなり

一北条氏康十二歳の時其ころは鉄炮珍らしきとて諸侍悉く打習時氏康鉄炮の音に驚き給ふ諸人目をひきわらひ申す氏康口惜しく思召し小刀をもつて自害をせんとし給ふ時各々其小刀を取り奉れば涙をながし給ふ御もりの清水が申やうはたけき武士が物に驚くことむかしより申伝たり其謂れは馬もかんのよきはねずなきにかゝり人に賞翫しようくわんせらる物に驚くをばほめた事に致すといひたれば其時しづまり給ふ伝解ニ氏康公ノ下「天文十五年ニ」ノ六字アリ是れ氏康公十二の御歳也かやうに辱を知り給ふたけき大将にてましませばこそ其後氏康公二十四歳の時河越かはごへ夜軍よいくさ敵は両管領人数八万計り氏康人数八千にて氏康討ち勝ち給ふ是に付て種々の謀あり此合戦と信長義元の合戦と近代まれ成る戦ひ也

一武田信玄晴信公十三歳の御時駿州義元の御前は信玄の姉子にておはします此姉子の御方より母公へ貝おほひのためにとて蛤を送り参らせらるゝ信玄公を勝千代殿と申時なれば御母公より上臈をもつて此はまぐりの大小を扈従こせうどもに申付けゑりわけて給はれとの御事也即ち大をばゑりてまいらせられ小き蛤たゝみに二帖敷でうしきばかりに大方ふさがり高さ一尺も有つらん是を扈従ともにかぞへさせ給へば三千七百あまりなり其時諸士参候さんかうせしに此蛤は何程あらんと問はせ給ふ時各有功の人々二万或は一万五千などゝ申す勝千代殿仰らるゝは人数は多くなきものならん五千の人数を持つ人は何をいたさんもまゝなりと仰られしを聞程ごとの人したをふるはぬものはなし是れ信玄公十三の御年なり其四年にあたつて信玄公十六の御年信州海野うみの口にて父信虎公八千の人数をもつてせめ給へども次第に城強して不落然る所に信玄公はかりことのつもりをもつて三百計の人数にて速にのりとり給ふ

全集ニハ十二歳ノ時トス 一長尾謙信輝虎公十三の御年仰らるゝは我父為景ためかげにはなれまいらせても父の恩によつて一国をたもつ者也然れば一州をおさむる者仕出しでの侍はさも有まじ親に譲らるゝ者は一切の苦を不知故に善悪を知まじ善悪を不知は何事もあしかるべしとて其一年ちう六十六部のひじりとつれて奥州出羽関東其外所々を修行し給ふ姉聟ハ長尾正景ナリ後ニ謙信ノ幕下トナル是れ輝虎公十三の御年也翌年十四歳にて姉むことの合戦有之輝虎公人数二千ばかり敵の人数四千余誠に勢の多少一倍せりといへども城郭じやうくわくへおしよせ輝虎しいて下知をくはへ合戦勝利を得給ふ是れ十四の御年也着語して云入凡入

全集ニ尾州治黙寺ヘ手習に上リトアリ 一織田信長公十三の御年寺へ上り給へども中々手をばならはずしてよろづふるまひあしく手習朋友共食物すればうばひ取て食しなどして種々恥辱ちじよくなる事不勝計しかあれば寺の法印ほういんももてあつかひオープンアクセス NDLJP:21かたへの人も之を見て物の用に立べからす弾正ちうの子にては有まじきなどゝ申しあへりある時信長公の母公の方より代物十疋ばかりもて来り手ならひ朋友共或は近辺の子共を三十人ばかりよびあつめ竹木の枝にてやりや刀をこしらへたゝき合べき企てをしてかの代物だいもつを取出しわが味方にしてよき者に二銭三銭づゝとらせ其後二つにわかりたゝきあひふまゝにたゝきかち快気して帰り給ふ其時味方の子共云やうは先に残りたる銭を給はれとてぞ取たりける寺の法印是を見てさてはたのもしき人なりかならず後にほまれの良将とならるべしたゝきあふべき前に大勢の中にてよき者をゑらび出し代物をとらせ残して後の分別あるはたゝ人にはなかるまじきとほめたる時の歳は十三の御時なり其後信長公廿四歳にて是非ぜひ義元をうたんと心がけ給へ共爰に妨ぐる男あり戸部新左衛門とてかさ寺笠寺の辺を知行する者也能書才学のうしよさいがく形の侍にてかれ二義元に属し尾州を義元の国にせんと二六時中はかるによつて尾州聊の事をも駿州へ書送る依之信長御心安き寵愛の右筆に彼新左衛門が消息共を多くあつめ一年余ならはせらるゝに新左衛門が手跡に不違、於此時義元に逆心の状思のまゝにかきしたゝめ織田上総守殿へ戸部新左衛門と上書うはがきをしたのもしき侍侍ハ森三左衛門ト称フル者商人あきうとに出たゝせ駿府へぞこされける義元運の末にや是をまことなりとおぼして彼新左衛門をめすに駿府までまいるに及ばずとて参州吉田において速にくびをぞはねられける其四年永禄三年ナリにあたつて庚申かうしんしかも七庚申ある歳の五月信長廿七の御年人数七百斗り義元公人数二万余りを卒して出給ふ于時駿河勢所々へ乱坊に散たる隙をうかゝひ味方の真似をして駿河勢に入交る義元は三河の国の僧と路次のかたはらの松原にて酒盛しておはします所へ信長きつてかゝり終に義元のくびを取給ふ此一戦の手柄によつて於日本其名を得給ふ桶狭間ノ戦ナリ是とてもくだんの戸部新左衛門存命においては中々可難儀処に信長公智謀深く陳平ちんへい張良ちやうりやう項王こうわうの使者をはかりしに不異信長公消息のてだては廿四歳の御時也着語して云運帷幄内千里さる間尾州の諸侍義元を大敵と号し信長をかろんじける者共翌日より清須きよすへ参候し信長を主君と仰申也

全集ニハ十三歳ノ時トス 一徳川家康公十二歳竹千代殿と申奉る時中間ちうげんの肩にめし五月菖蒲しやうぶきり見物にいでさせ給ふ一方に人三百ばかり一方に百五十ほどなり見物の人々是をみて人のすくなきかた必ずまけんとて大勢の方へ立よらざる者はなかりけるさるほとに竹千世殿を肩にのせ奉りたる中間も大勢の方へ立よらむとす其時竹千世仰らるゝは何とて我を皆人の行方へつるゝぞ今たゝきあふならばかならず人のすくなき方勝べしあれほどすくなき者共が多勢をかろく思ひ出張ではりてゐたるは能々多勢の方を弱く思ふた者也又は両方討合うちあふ時多勢にてすくなき方をすけむと思ふ事もあらんいざすくなきかたへゆきて見物せんとのたまふ御どもの者共腹立ふくりうしてしらぬ事をばのたまふなとて無理に大勢の方にとまりけり如案打合ふ時人のすくなき方のうしろより大勢かけ付てあら手を入替へうちければ初め大勢有し方打まけてちりににげ乱る見物の者も我先にとのきふためく竹千世殿見給ひて云ぬ事かと宣まひてかたにのせ奉りたる中間のかしらを御手にてたゝきわらはせ給ふ虎生三日有牛機と云々此竹千世殿は今家康と名をよばれ海道一の弓取也命長くましまさば是ぞ後には天下の主共ならせ給んと心ある人は言あへりさる間竹千世殿駿州今川義元公に属し給ひ蔵人くらんど元康と元服し給ひ十五歳にて参州岡崎へ帰城有て十九歳の五月義元公の先手として尾州へ発向ある義元の先陣の人々大高の城をせめ落し番手に元康を置給ふ翌日義元公討死し給ふと元康公伯父水野下野方より以飛脚告げ来る元康聞給ひて二のくる輪まで出させ給ふが又立ち帰り本城に御座おはします家老の人御前に参り是はいかなる事ぞと申す元康聞き給ひて義元公討れさせ給ふと水野野州より告来る然るに野州敵方共味方共見へず義元公御利運におひては我をたよりて今川方に成べし若し又信長利運に成ならば籠居らうきよして義元へ礼を申さゝるを忠節たりといはん覚悟なれ共先つ大略は信長方のやうなる物ぞかしされば伯父といひながら敵方より告来るは計略と思ふへし計畧するはいにしへより今に至るまて敵味方のならひ也武略をもつて治むるは武士の第一のほまれと云ふ然れば計略にしたをさるゝは女にあひ似たる事也侍が二心あるをばかたましき男とて武士にははなはだきらふぞかし「かだましき」ハ奸ナリ十が九義元うたれ玉ふと存する共敵方より告来らば虚言と相心得此城を立さらざるは武士にめづらしからぬ作法也をびへ鯨波ときをつくりあはてゝ立のきもし義元うたれ玉ふこといつわりにおひては以後何たる手柄をしてもすゝぐべきこと不有之一儀事実正におひては定て味方より飛脚到来すべし無一左右以前に敵寄来らば於此城おそらくは花を散しオープンアクセス NDLJP:22て相はたらくへしもしそれ故に討れんは元康が弓矢を取ての面目ならんとのたまひて其夜は大高の城に逗留し玉ひ翌日岡崎より今川の家老以使札しさつ大高の城あけ来り給へとの事也即其状を取て証拠とし元康帰陣し給ふ此趣信玄公詳にたゞして聞給ひ元康は武道分別両方達したる人也於日本若手の武士ならんと不斜ほめ給ふ伝解ニハ其はたらきにヲ其砌トスさて蔵人くらんど元康は義元公討死うちじにの其はたらきにはや元康をあらためて家康と名乗給ひ其年の暮に伯父の野州あつかひをもつて家康と信長和睦の儀有之尾州に事出来らは家康公信長へ加勢し三州に事出来らは信長公家康公へ加勢有べしと互に起請文を取かはし内々無事を作り給ふ見合の儀を今川衆家康表裡と申事一向無勿体もつたい儀なり仝かゝる時節の見合の儀を云々トアリ氏実うぢさね公政道よくましまさば家康公の表裡にても有べし氏実公あしき大将にてもあれ家康公今川殿に伝る家老ならはこそ人のいふも尤なれ家康公はもとより一城の主たり時のけんにまかせて属したる大名と申物也時のけんによつて属したる人は万事をなけうつて時を見あはせ我立身を専にする物なれは家康公今川殿の家老にてはなし努々表裡に有べからず氏実公御年卅三までも月見花見遊山の善悪は知り給ふといへども武道のたゝち聊もおはしまさず無下むげに人を見しり給はねは家康公此屋形に御心を離さるt事尤道理にあたれり三略にも義者不不仁者、智者不闇主云々家康公も大方は此理にてもあらん家康公十二歳の時菖蒲ぎりの勝負を見定め給ふ心ざしの今に至るまで誉ありて三河一国遠州半国の主と成り給ふ又時のけんに属したる侍と譜代のわかちを長坂長閑老跡部大炊動殿能々被存知者也

一毛利元就公おさなくおはせし時厳島いつくしまへ社参あり帰りて男女殿原に今日は何をか宮島の明神に願奉りたると問ひ給ふ皆人をさなき人の気にあふやうに奉公ほうこう冥加みやうが寿命じゆみやうなど〻それに答ふ其中にもりいたす男が申す様我等にはたゝ此殿に中国ちうごくを皆持せまいらせたきと祈誓いたしてありといへば元就の云ふ中国をみなとは愚なり日本を持へきと祈誓申さん物をといはれけれバ皆人まづ此あたりを悉くとり給ひてこそと申せば元就もとなり腹立して日本を皆とらんと思はバ漸く中国を取べし中国をとらんと思はゝ何として中国をも持べきとのたもふ其御年十二歳と聞く如案元就の代に中国手に入り今までも安芸あき毛利もうりとひゞき大身也さればせんだんは二葉ふたばよりかうばしとは能こそ申伝へたれ

安房あき上総かづさ両国の府君里見義弘よしひろ公一家の正木大膳といひしもの十二三の歳より馬をならふに片手綱かたつゝなにてのらんことをこのむ馬訓ゆるもの怒て云ふ片手綱と云は能々馬を乗覚へ功者に成てのこと片手綱にてめすべきに未た鍛練もまいらずして左様にめせは其身なりも悪しくおはします程に必らず片手綱無用と制す大膳申やう侍の将たらん者馬よりおりて鑓を合せ高名する事多くは有まじ馬上にて下知をし其まゝ勝負を决せんならは片手綱を達者に覚てこそとおさな心に申せしごとく度々馬上にて勝負を决す就中なかんづくこうの台にて里見義弘子息義高北条氏康と合戦して義高まけ給ふ此をくれ口の時くだんの正木大膳よき侍を一所にて八人又一所にて九人又一所にて四人日中に以上二十一人馬上にてきりおとしてのきたると也

太田美濃入道シテ三楽ト称ス 一武州岩つきの住人太田源五郎後に太田美濃みのと云此者幼少より犬ずきをするある年武州松山の城を取もつ己が居城ゐじろは岩付也然れは松山にて飼たてたる犬を五十疋岩付にをき岩付にて飼たてたる犬を五十疋松山におく各の沙汰に太田美濃はうつけたる者也おさなき者のごとく犬にすかるゝと申あへり或時岩付の城に美濃守有きざみ松山にて一揆以外にをこり北条氏康御出馬たるべしと有し岩付へ使者を立てんには路次ふさがりて五騎ニ騎にては叶はじ十騎とやらば松山に人数すくなし況んや飛脚は叶ふまじきに内々隠密おんみつにて前の日美濃守留主居るすゐの者におしへたれはこそふみをかき竹の筒を手一束に切て此状を入口をつゝみ犬のくびにゆひ付て十疋はなしけれは片時の間に岩つきへの文を犬共持来るさる間美濃守やがて松山へ後詰をする一揆共見之速に岩付へ聞へうしろづめをしたるは希代不思議の名人かなと不審をなし爾来松山に一揆おこる事なし是は太田三楽と申す者也如此の三楽も無果報故にや終に一国とはたもたず彼の三楽信玄公の背語うはさ申つることを聞ていよ三楽をかう上に存する也背語ハ信玄今川家ニ伝フル所ノ定家ノ伊勢物語ヲ取リタルコトヲ評セシヲ云フ
一本ニ美濃守が如く早く物言ハ無分別との批判もあしゝトアリ
古語に曰く金云々人の善悪を云にて其の者の行何計いかばかりの者也としるべし人ば人をほむるもそしるも大切ならん九思一言ことはにけがのなきが実の武士ならん又世間にしづかに物を云ふ人は分別有り早く物をいふ人は分別なしと云ふひがごとなりたとへば女人の分別のごとく僻事ひがことなるべし物をは早くもいへ遅くもいへ其人の行跡ふるまい前後の首尾さだまり締りたる手柄或はことばにも非のなオープンアクセス NDLJP:23きは分別者の頂上ならん但又其上君により能者埋れて賢言用にたゝぬ事もあり如楚臣貧富命貴賤時と古人も云よき人の埋るゝも世のならひ悪き者うゆるもならひ善悪をまぜあはするは皆是天道なりと心得べし

五百千ノ千ハ字ナラン 一丹波国赤井と云男七歳にて人を伐赤井悪右衛門と名をよばれ五畿内におひて人数五百千はかりにて敵五千六千をも数度戦て悪右衛門かたずといふことなし

求聞持ノ法ハ専ラ真言宗ニ取リ行フ秘法ナリ 一四国阿波の三善みよし修理太夫殿は十七歳にて思ひ立ち当年より三ケ年の間百日づゝ求聞持ぐもんじの法をぎやうぜんとのたまふ家老の者それは何の為にあそはされんと申す修理太夫武道誉の為なりと宣ふ家老承り三善の御家に生れ給へは冥加も果報も一段目出度御座おはしますものを何ぞあらぎやう御勿体と諫言す三善殿宣ふは各々我を冥加も果報もあらんと云ふ是れ推量也義貞公の軍記にも推量をばきらふ也我幼少のことなる故末の儀を不知しらねば先悪しかるべしと覚怡いたすが尤也従来もとより果報ある人は不祈とも吉なるべし果報なき人は祷りても不叶も有べし又不祷して悪しき者も有べし自然祷りてよき人も有べし是れ皆な天道也果報生れ付たる人はたとへば自然木しぜんぼくのごとし自然木は風にあたりてもかるゝ事まれなり木はいづれも同事と思へ共上に柱をそへてゆはぬならばすこし風にもあてられてかれんことは疑ひなし我れ此度の求聞持ぐもんじうへきに添木をゆふ心也信をとらぬ人の云ふ様もことはり也八幡の社人愛宕あたご坊主はうずなどは天下一の武辺者に成べきかと神を信ずる者を誹然金堀が金を堀りて巳がにはせずして人にもたするもの也云ふ人も子など存命不定にやまひし或は又主君の勘当を蒙り何の道にも及難義時は諸神諸仏に立願す皆な是れ人間の迷なり迷に便りて身をすぐる、人をして不迷悉くさとりなば僧社人は餓死すべしされはむかしより名を得たる人十は九人信心ならぬ人はなし祈も天道いのらぬも天道我れ十七歳より十九歳の六月願成就して其年の暮迄四国を順礼す廿歳の夏伊予土佐讃岐三ケ国の士卒と船軍ふないくさありし時に我旗下はたしたの船をもつて第一の先をかけ敵を船中におさへ自身長刀をもつて手下に十二三人きりふせて合戦にかつ其後も三ケ国と数度及合戦終に讃岐を手に入れ伊予土佐をもと言ひしかど家老の者の諫言に伊予土佐の者共長曽我部ちやうそかべさいわうじ河野宇都宮を始め悉く安芸あき元就もとなりの旗下に成たりと云ふ是に暫く日を送る所に幸に公方くばう万松院義晴よしはる公御異見ましませは片時へんじも早く都へ上り天下を異見申ならは末代迄も三善家みよしけの頂上なるべしとて上洛し天下へなをり既に都の諸司代も三善家より定め置き五畿内の事は不近国の諸士大小共に旗下に仕り諸人に渇仰せられ公方光源院の御妹を嫡子左京太夫殿へ御台につかはされける光源院ハ義輝ナリ
二代ノ間以上廿一年天下ヲ知ル
さて修理太夫殿雖他界其仕置よき故にや子息左京太夫殿跡をふまへ父子として二代天下を知る今扶桑戦国のなかばなれは六十六ケ国を三代治めたるより此七八ケ国の間を二代治たるは尤も手柄ならん雖家老松永弾正と三善家の各傍輩中不和にして仕置の首尾不合光源院を討ち奉る故公方家の諸侯三善家の侍と二つにわれ以上五畿内三つになり昨日きのふ味方と思へは今日けふは敵、就夫さすがの松永弾正も後勘やなかりけん信長公を引出し巳が敵を三ケ年の間に大方成敗す此砌り両畠山病死す信長公の手にたつべき丹波の赤井悪右衛門も三ケ年以前くひきれちやうと云ふ腫物しゆもつにて逝去し大方生れ替りになり松永一人残居終に巳が身にかゝり信長に敵をして不慮のけいさくに松永も信長のためにうちじにす其年の七月より全く信長天下の主として都の諸司代をも信長より知り給ふ三善家の滅却は松永欲心を発し天下を望み傍輩共不和になりし故也雖然修理太夫殿信心深く智恵才覚無双の人なる故天下を二代知り給ふ今時の世を見るに自然の儀出来り縦ひ一旦治まるといふ共又翌日よりみだれなん此趣き四国より佐藤一甫といふ牢人鉄炮の師として来り信玄公の御代より旗本に召置る其一甫委細をよく知てかたる又修理太夫殿幼少にての義は山本勘介四国へ渡り詳に知て語りしをきゝ何れにても名将は幼少より衆人にかはりてすぐれたる処御座おはしますと也松永弾正といふは三善修理太夫殿へ右筆に罷出分別才覚をもつて立身をいたし修理太夫殿逝去の後子息左京の太夫殿の御局と夫婦に罷成る然間内縁をもつての故悉皆政道弾正がはからひとなる依之二善家に伝はる家老松永と中不和、件の松永和州に居住しけるに屏下地の為にとて我領地の柿の串の長さ間半まなかに定め其外種々貪り詔ひたる仕置なれは民悉く迷惑す、扨居城に兵糧玉薬は云に及はず士卒手負たる時の用とて青木葉迄七百駄つみ置其後所々に札をたて弾正が分別是まで也此城にたらぬ所有之と存する者あらは僧俗によらず上下を不申し来るべし若オープンアクセス NDLJP:24し又申兼るに於ては如此高札にて可申其意にまかせんと書とめて置其翌日或札をみれば数年人民をむさぼり給ふにより何も沢山に見へ候但し運不足、命にことをかき給はん此二条は誰をたぶらかして取り給はん御分別有べし松永弾正殿まいる惣百姓共と書とめたりさる間松永生害の時我城へ和泉の堺より加勢をこせと有之状を信長へもち来る信長公其使にほうびをとらせ明々後日の夜半に忍びて十人二十人づゝ加勢をまいらせん此人を迎に給はれと堺よりの返事のごとくに書とめて松永方へさしこさる其使とかたくあいづを定め三日にあたる夜半に信長公の人数百人余り松永が城へいれ其夜城内を放火し外よりもせめ入り右に入たる人数と一つになりつめの城へをしこみ伝解ニハ天正五年丁丑筒井と云ものゝ謀叛にて松永弾正切腹すトアリ永禄十三年庚午の年松永弾正切腹す然るに尊氏たかうぢ公より十三代の公方万松院義晴公天文十九庚戌年御逝去の時御遺言に阿波の三善修理太夫を頼み給ふ間光源院義輝公いまだ十五歳にて御座をもり立て奉り十四代の御世をつがせ奉るやうにと修理太夫殿を御頼あり扨て又修理太夫殿の嫡子左京太夫は光源院の御妹むこと御定め有之然は松永は左京太夫殿をもり立て左京太夫殿は公方を奉仰にをひては君臣共に長久ちやうきうならんあまつさへ光源院を討まいらする其罪のがれがたきにや弾正が一騎当千と頼もしく思給し使、心がはりして堺より加勢をよぶ其状を信長公へまいらする事是れ天罰の程こそをそろしけれいづれの家の破るゝも臣君をないがしろにし奉り下をへつらふ故也時うつり様体こそかはれ共主君の家を破るは松永が小人の故なりしかば其身もほろびうするぞかし能く観じて見給へ長坂長閑老跡部大炊の介殿我等なき跡にて此書をひけんおはしませ当時吾朝にて名大将幼少よりの行跡ふるまいまで奉之物ごと本をたゝし給へとのこと也日月欲ント浮雲掩之河水欲ント砂石穢之人性欲ント暗欲害之古語にもみへたり信玄公連々仰られしことを某し聞き書いたし今紙面にあらはす者也若し以後万事とり失ひ給はぬやうにとて如此扨て又右松永に心がわりして堺への状を信長公へまいらせし者は元来筒井順慶が家人なり松永禄を与へ頼もしくめしつかふといへ共順慶信長方なるによつて其状信長公へまいらする然は武田の家諸牢人有之譜代の主何方にも在世においては其牢人に密事をしらすべからずたゝ大抵の事ばかり尤に候但二代相伝の人は依宜不苦もの乎

伝解ニ此巻末ヨリ一二ケ条ハ天正五年ノ暮ニ弾正下書ヲセラレシヲ春日惣二郎受取テ書ツギ申者也天正五年極月吉日トアリ   天正三年乙亥六月吉日 高坂弾正忠

            長坂長閑老

            跡部大炊介殿参