オープンアクセス NDLJP:19甲陽軍鑑品第五  巻第二
伝解ニハ春日源五郎座鋪の上にて能奉公故立身の事トアリ又一本ニハ大身ニ成事トアリ
伊沢ハ石和ナリ一本ニ大百姓ヲ土百姓ト南ニ春日屋敷ト称スル地アリ
姉聟ハ春日惣右衛門ト云フ惣次郎ガ父ナリ
あまがさりの城一本ニあまかさきの城トアリ
かいつハ海津ナリ
春日源五郎奉公立身之事 

某は高坂弾正と申て信玄公御被官の内にて一の臆病者也子細は下々にて童子わらべこ共のざれことに保科弾正鑓弾正高坂弾正にげ弾正と申ならはすげに候我等が元来を申に父は春日大隅とて甲州伊沢の大百姓也我等幼少にて親大隅にはなれ姉むこと田地の公事を仕り我等まけ候時即公事の場よりめしつかわるべきとの上意にて信玄公御年廿二歳我等十六にて御奉公に罷出御小人かよき仕合にて廿人衆に可罷成と存の外罷出て卅日の内に近習きんじゆになされ殊更奥へめしよせられ御膝本にて御奉公仕り何たる機縁を結び奉り候哉御意などに相ちがひもし一月の間も引籠罷有儀終に無之連々御奉公いたし春日弾正と号せられあまかさりの城に被指置さしのか只今はかいつ高坂跡目あとめと有之て高坂弾正とよばれ申誠に我等御奉公に罷出しより廿四五迄は諸傍輩のさたにあのやうなるほれ者を御取立の義偏に信玄公御目違なりと上下のさたを承る是が我等身の薬に罷成御前違はざる様にと一入ひとしほ御奉公に精を入候こゝに一つの物語あり猿楽さるがく高安やかやすと申者此ころ天下一の大つゝみ打なり此高安が若き時殊の外身の軽き者と聞え候其時分大皷の天下一は大倉九郎と申者也或時能組の云合いたす彼高安などは若く候へば其座席に罷りあらでもくるしからざる故庭へ出て若者共寄合とびくらべを仕る時年よりたる猿楽共座席よりのそきて是を見るに高安一軽くて二間ばかり飛ければ扨も高安かろしと各さたの中に大倉九郎申やうはあれ程に皷を軽くしてとらせたならば若手には日本に有ましき物をとさゝやく其後高安座布ざしきへ帰り太夫殿をはじめ年の寄たる衆は何と申され候やと傍輩共に問ふ其者の云ふ其方をすぐれて軽き人と各申さるゝと云ふ高安かさねて問ふ九郎殿は何と問ふ、とはるゝ物語りて云あれ程に皷を軽くしてとらせ候はでと申されたると云ふそこにて高安たかやす心つきて終に天下一の大皷となり高安道善だうぜんと号すよし大倉太夫たゆふ語り候人は只主君の愛によりいたらぬ者も智恵才覚出る者也喩ば牡丹芍薬を庭にうへて見るに冬のかこひをよくして春やしないをすれば花の時りんをおほくもち候さむき時すてをきたればりんもすくなく色もあししそのごとく主君しゆくんは花のぬしかこひ養は所領同心奉公人は牝丹芍薬とくわんじてみる又肥すぐればころぶ者にてあり人も御恩をうけて身かあたゝかなれば後は理もなき分別の出る者も自然は御座候それは命々てうと申て昔か今に至る迄三代相恩の主君に逆心ぎやくしんいたしたれか能人今迄は聞も見もいたさぬ也かならず有まじき事也右に云高安たかやすも九郎が一言にて後には天下一と名をよばるかほどの者にてとびくらべをいたしゝも九郎がことばに心をつく心を付たるがはや其時分より上也武士は何を仕りても家の武道に落しそれの覚悟を致し頼奉る主君に忠をつくすべき事肝 也此比日本にて名を得給ふ大将大身小身によらず我等承り及たるをば大方書しるし奉る十二歳十三よりの御行跡ふるまい希代不思議に御座候即此次にしるす也総じて侍は一切の諸芸を習ても弓矢の後学になし人数のつもり物見の仕やう或は鑓を合せ高名をつかまつりよく戦て誉をとり主君へ忠をいたさんと欲し陣なき時は常の奉公何にてもかゝず仕るをまことの奉公人と申也高安がとびくらべを己の家の芸に達したるが心の付処也つたなくも我等式諸傍輩しよほうはいにあしくいはれ御前を大切に存じ御奉公仕り候故誠に土民百姓の子たりと雖君の御恩をかうり今高坂かうさか弾正と罷成すでに同心三百五十騎自分の人数九十騎あまり凡四百五十騎に及ぶ人数を下され川中島に在城ざいじやう仕り此辺の諸士悉く我等の旗下はたもとにと上意にて越後境へ働の時は七百余騎の勢にて御当家に対し第一の強敵とさす長尾謙信公のおさへに信玄が家にて弱き我等を被指置川中島におひて大勝の御威勢いせいをもつて十五ケ年以来長沼ながぬま飯山いひやま迄御手に入られ某大将にて此辺の諸士を引卒し関の山のあなたまでせしめ放火輝虎公の御在城へ上道四五里近所まではたらき越後のものを乱妨らんぼう仕り此方こなたへ召つかふ事唯是信玄公御ほこさきのさかんなる故也扨こそ右に申すごとく花にやしなひを能おけばりんおほくしてしかも見事に花をもつやうに我等式何の分別もなき者をさへに君の御寵愛故むかしを引かへ今は高坂弾正は分別ありとさたせらる前に我等を悪しくいひしともがら如此候へば悪事へんじて吉事となるひとへに上の御めぐみをもつてなり且また我等人のそしりを堪忍仕る故か古人豈いはざらんや胯下小辱成大功也

  天正三年乙亥六月吉日 高坂弾正忠