甲陽軍鑑/品第五十八
信長甲府へ御着あり、春中より計策の迴らし文をこし給ふ、武田の家の侍大将衆、皆御礼を申せと有てふれらるゝ其、二月末三月始め時分にむたと、信長父子の文をこし給ふ、甲州一国をくれべき、信濃半国を、或ひは駿河をくれべきなどゝの書状を、誠に思ひ勝頼公御親類衆をはじめ、皆引こみゐ給ふが此ふれを実と思ひ御礼に罷出、武田方の出頭人の跡部大炊、諏訪にて殺さるゝ、逍遥軒は、府中立石にて殺さるゝ小山田兵衛、武田左衛門、小山田八左衛門、小菅五郎兵衛、甲府善光寺にてころさるゝ、一条殿は、甲州市川にて、家康に仰付られ殺さるゝ、出頭人秋山内記は、高遠にて殺さるゝ、長坂長閑父子は一条殿御舘にて殺さるゝ、仁科殿、小山田備中、渡部金太夫此三人ばかり、高遠の城において織田城
信長国わりの事、勝頼公四ケ国の跡を上野は滝川、駿河は八年先長篠の勝利の時、約束のごとく家康へ、甲州半国に信州諏訪をそへ川尻与兵衛、甲州西郡今度の忠節分に、穴山殿へ其外前々の下山をそへ下さるゝ信州小室を道家彦八郎に、信州伊奈を毛利に、信州川中島を森少蔵に木曽は居なりに、松本を今度の忠節にとありて、其後信長公菅屋九右衛門を召て、曽根下野と云者は、いづくに、有ぞ度々我方へ書状をこし一度信長公御被官に罷成度と申こし、内々種々注進之事、信玄他界後十年己来申間、相抱候へと仰らるゝ菅屋九右衛門申は、富士の高国寺と申城に、罷有と申候へば則ち其城に川、東南さしそへ彼曽根にくれ候とありて、会根下野富士下方を取なり、ケ様に御譜代方より累年仕り候へども、然々と聞す候、長坂長閑、跡部大炊、其外出頭衆欲にふけり賄賂をこのみ音物をとり大事の儀をもおしかくし候故、国くづれをのれ迄皆きられ候仍、如㆑件
信玄公御他界十年以前、謙信他界五年巳来、織田信長につゞく弓取日本の事は扨をきぬ、唐国にも当時はまれならんと申に其上勝頼公をたやし其跡四ケ国をそれ〳〵にわりくれ、此節飛弾の国をも手に入れ旗下の北条氏政持ち分、又浜松家康に駿河をくれ、是三ケ国飛弾へかけては卅六ケ国なり、前巳の年伊賀を乗取候へは、信長支配の国都合卅七ケ国なれとも勝頼公御切腹候へは東は奥州までも、さのみつかゆる事有まじく候、安芸の毛利もやがて倒しなさるべく候と、信長衆の風聞尤なり、殊更四国を、信長三番目子息三七殿につかはすべきとて四国退治の支度なり、信長は甲州柏坂をこし、駿河一見有べきと有儀也、然れとも武田の高家退治の故、近衛殿を同道まし〳〵候に、近衛殿も駿河通を参るべきかと有事を柏坂のふもとにて、然も下に御座有て、奏者にて仰られ候へば、信長は馬上にて近衛わごれなどは、木曽路をのぼらしませと申さるゝ様子なれば家老の川尻与兵衛も、よろづ其家風なる故むかしの家は古風にて、みなまがりたりとて川尻宿とて、直なる路次を甲府にわり候、又地下の科人成敗して、其制札に諸人に見せしめのために頸切懸置候など、道もなき事に自慢するもやう、仏法王法も武士の政も、よき事みなすたれり、今一度源家より国を治め、日本国中のよき政を執行給へかし、正八幡御詫には氏の氏子をば末世までまもらんと宣ふもいつはりかと、神をも恨奉り候なり
信玄公十年先、謙信公五年先に、両大将天下へ赴とて、俄に病死なされ、勝頼公若気にて長篠の合戦遊はし終に如㆑件なれば和朝のよき作法すたるべき為に、猿犬英雄となりて道もなき事の繁昌すると見へたり惣別信長公取たての衆、一類の事は申に及ばず、家老の侍大将みな文を嗜しなみ、物の異形なる儀はむかし風とて、おかしきとさた仕るなり、扨又信長は、駿河通を上り遠州浜松へ立より家康の馳走を受、目出度帰陣なり、然れば家康義理を専思ひ、今川氏真にかねて約束し候故駿河を遣之申され候氏真の御人数はや三千計あるを信長きこしめし家康に駿河を約束のごとく渡候へば何の用にもたゝさる氏真にくれられ候駿河を取返すべきと信長仰らるゝに付又駿河家康へ渡り、氏真公牢々なされ結句三州つくで山家に預をき西国一偏に静まり候は今川氏真をば、成敗有べきとの儀也さて又家康穴山をつれ、安士へ御礼にまいられ候、都まで家康穴山両大将を、めしつれられ、馳走のために猿楽の名人共をよせ
北条氏政父子は信長切腹を聞き給ひ、はや敵になり、滝川方へはたらきかゝり、上野衆小幡内藤を始勝頼家の助られたる先方衆申合せ合戦仕り、北条衆を、悉く追くづし討取其跡へ小田原より氏直一家の惣人数三万余にて悉く懸付たるに滝川剛也と申せ共、纔に三千にて、二の合戦に滝川仕り、上野先方衆始の御辛労返礼にと申て懸り候へ共、松田尾張只一手に仕負滝川敗軍して前橋へ迯入併し滝川信長内にて柴田滝川、池田丹羽五郎左衛門、佐久間右衛門、羽柴筑前、佐々内蔵介、前田又左衛門、川尻与兵衛是九人覚の先衆なれ共、柴田滝川両人は一入名高き侍大将故其日も負たる色なく、前橋の城にて小鞍をうちて上野侍衆滝川に向て申は是にまし〳〵候はゝ馳走申べく候又上へ御上りに付ては、人質を出しあぶなげなく送申べく候と申に付、滝川上へ参度と有故、上野衆の人質を出し、信州真田迄送り真田の人質を取、木曽迄送り、真田衆肝を煎り、木曽の人質を取、上方へ滝川を送るは上野信濃の武田先方衆表裡なき故也、又甲州府中には川尻衆川尻与兵衛をすて悉く上へのぼり候故、川尻雑兵ともに廿人ばかりにて忍て上る事もならず候道にて内衆剥とられ候故如㆑件、其外森勝蔵も一人にて景勝をほろぼし、越後をおさむべきと申つる口ちがひ早々川中島をすて、上へ上り、
渡すべき海の朽木の橋おれてうぢなをながすちくま川かな
高坂弾正存生の時申さるゝには国持大将の弓矢つよき弱は死後にしるゝとありつるが、謙信の弓矢強き威光は景勝当五月の手柄なる武勇也子細は能登の内に景勝かゝへの城あり甲州勝頼公三月十一日に御切腹ありてより信長越後景勝をやがて可㆑有㆓退治㆒と有故柴田修理を大将にして、前田又左衛門、佐々内蔵介、佐久間玄番、徳山五兵衛、柴田伊賀などゝ云衆を、都合四万五千の積にて、加賀、越中、能登、越前払て立て、景勝の抱の城をとりまく、景勝此年二十八歳にて後詰なり、人数は五千にて出る、甲州勝頼切腹ありて、大身の北条家迄頭らをかたふけ、奥州までも、ひらおしと申、国をへだてたる大身衆も手を失ひ力を落したる躰なるに、景勝越後佐渡二ケ国にても少も愁たる色なく、大事は喜平次我身にかゝりたると思ひ、何様一合戦と存つめ、七日路ばかりの所を後詰して天神山、大岩寺野に陣取ゐらるゝ其下に成【 NDLJP:258】願寺川とて余りの大河にてもなく中の川あり是を柴田修理みて信長にて一の弓矢に功者故謙信の弓矢を能しり惣車へ触を迴し堀をほり土手を築罷りある、前田又左衛門、佐々内蔵介をはじめ各申は柴田修理何とてかやうに臆病なる事を申され候、喜平次人数は三千ならでは有まじく候とてあなづる、或時柴田修理下知をそむき、景勝陣取の下、成願寺川へゆき五月の事なるに、馬をひやし馬をせめ四百騎あまりつれて行候へば、雑兵二千余にて、かさつにかゝつて景勝をあなづり、柴田修理は功者故西楼に上りて是を見る、案の如く景勝衆、只三十騎出て悉く追散し二三騎切ておとす雑人は十四五人も馬にて蹴ころばず、さすがの内蔵介なども、笠のこまとひをひきづりてにぐる、土手なくば大勢を切おとさるべきに堀をほり土手をつき候故大事なし、柴田修理、後各をよび、かやうに有べきと存候所に、土手をつき堀をほるとて柴田修理をあしく仰られ候とるんげん申さるゝはことはりなり、其時迯たる侍大将は、前田又左衛門能登一国、佐久間玄番加賀、佐々内蔵介、越中、徳山五兵衛、柴田伊賀以下なり、其後景勝衆五騎十騎にて土手ぎは迄度々働き候、其時節神保殿、家中に便りて越中に罷有、此儀を信長方にて委く見申候然間川中島より、森勝造働き、むかし高坂弾正やきたる所まで越後の内へ勝造焼はたらき仕る、此一左右をきゝ、景勝越後へ帰られ候次日信長御切腹なりと申来る、其少し前に景勝抱への城をも景勝ひかれたるをみて城を渡すとて佐々内蔵介はかりごとに能き者共皆討殺さるゝ左右久敷家滅却仕るべきしるし也、勝頼公も明智十兵衛当二より逆心仕べきと申こす所に長坂長閑分別に、籌を以て、調議にて申越と云て明智とひとつにならざる故、武田勝頼公御滅亡なる、三月十一日より六月二日までは、四月、五月小の月なる故、八十日めに、信長父子御切腹なり、信長二番め子息、伊勢の国司になる御本所と申は、伊勢半国、伊賀一国持て、御年は二十五歳なれ共出て明智をほろぼし給ふ事ならず候、信長城の介父子を殺し候共、安芸の毛利か、せめては四国の長宗家部か、対したる敵ならば奥深く存ぜられても尤に候、家老の明智あけくれ、