甲陽軍鑑/品第五十九
天正十一年未に浜松の家康より小田原北条氏直へ御輿入なり、さ有て川中島、家康御はたらき有べきとて
信州侍大将あしだ、真田、保科甚四郎、小笠原掃部太夫、諏訪下条、ちく、松岡、屋代各ゝ家康被官に成事前午の年大形如㆑件、信州へ越るゝ家康譜代の侍大将に大久保七郎右衛門、菅沼大膳、柴田七九郎信州の内に岩尾、穴ごや、前山、其外所々に家康手に付ざる者共のあるをば、甲州先方侍衆差し越し給ふ会根下野玉虫、津金一党、駒井一党、今福和泉、工藤一党、遠山右馬介、其外甲州先方衆、皆信州にて午の年より、未のとしまで度々のせり合あり、其中に曽根下野、横田甚五郎、度々はしりめぐり仕る、横田は
家康甲州信濃駿河手に入万事仕置有中に、会根下野に、川東を下されず候子細は譜代の主勝頼公のため、あしき様に仕たるは小宮山内膳恨有て、勝頼の供いたしたるに、ちがふたるとて如㆑件、扨又伊井万千代と云遠州先方衆侍の子なるが、万千代近年家康の御座をなをす、此万千代を兵部と名付、大身に取立らるゝ、万千代同心に、山県三郎兵衛衆、土屋惣蔵衆、原隼人衆、一条右衛門太夫殿衆を兵部同心に付らるゝ、山県衆中に曲淵庄左衛門をバ、武川衆なみにして、是は家康直参なり今福求は近習になるなり然れば伊井兵部備赤備なり、家康仰らるゝは信玄の内にて一の家老弓矢にほまれ有、山県が兄飯富兵部と云侍大将の備赤備也と聞、其後浅利、此比は、上野先方小幡赤備なり、少も余の色無㆑之具足指物の事は申に及ばす鞍鐙馬の鞭迄赤く有つると聞、其如く伊井兵部備へ仰付らるゝ、但山県三郎兵衛衆の内に広瀬美濃、三科肥前是両人は敵の時より見知たる覚への指物なる故ゆるすとありて広瀬は白幌はり、三科は金のわぬけ家康の御意をもつて、赤備の中に両人別色の指物を仕り伊井兵部に武田の家老、山県如く弓矢の摸様なる様に申をしへ候へとありて如㆑件、駿河にては、三枝ゑいふの組衆十四五騎信州にては松岡八十【 NDLJP:259】騎是も伊井兵部同心なり
天正十二甲申年に今天下をもたるゝ羽柴筑前守と家康、尾州小牧と云所にて合戦にも、伊井兵部を赤鬼と上方侍申也、其時は家康衆を、景勝方おさへのために、信州勢一円残しをかるゝ、北条殿と縁者なれとも氏政表裡人の故甲州に平岩七之介、鳥居彦右衛門、武川衆、長久保に、牧右馬丞、沼津に松平因幡守、光国寺に松平玄番其外江尻、田中、懸川所々に留守居を置、家康一万五千にて出らるゝ、羽柴は安芸の毛利家、備前のうき田、中国各加勢をこし候に付て、十八万の人数と申候へ共、堅く十五万有べきに家康と押出して対陣ならずして、土手を築てゐらるゝ、家康方には、十分一の人数にて柵の木を一本たてず、物にしたる様子にてなし、さるに付筑前守陣場の土手際へおし込、穴山、ありすみ大学、上方衆を討取其年中に九度筑前守に家康方より、しほを付候、家康衆酒井左衛門、先其年三月三日に、尾州羽黒山にて森勝蔵に勝、上方十五万に家康一万五千にて向事先一塩付る心也、大軍に土手をつかする事、をぐちがくでんの取出をふみ破ぶる事、其上大合戦に勝蔵、池田父子を討取、三吉孫七郎、堀久太郎を追散し勝利の事、家康内本多平八郎千計の人数をもつて筑前守三万ばかりをつれて出らるゝを見て、平八郎かゝる、此時筑前守平八郎をみてのかるゝ事なり、又滝川を家康せめ給ふに、滝川命をのがれんとて、我従弟の科もなき、かにゑの城主前田与十郎を切て出さする事、其節駿河先方侍、朝比奈金兵衛と申者、滝川甥の滝川長兵衛を生捕しばる事、しろこ筋を行、はたらきの事、其年家康をば
此とりあひに筑前守方にて、討死したりと云侍大将は、信長御乳人子息にて武篇ほまれあるゆへ取立大身にして、信長の先をさする、又堀久太郎、長谷川お竹などゝ云て、みな小者一僕の者を信長取立られたるに、信長他界ある其年より傍輩の羽柴筑前守を主にして、誠に恩をうけ奉る信長子息御本所を敵にしてせめかゝる内衆ばかりにてもなく、信長舎弟織田上野介迄、甥の御本所を敵にして被官筋の筑前守を主に立らるゝ事、中々弓矢を取て比典なる儀なり、甲州穴山は、勝頼公にうらみ有て、天下をもちたる、大身の信長へなられたるをさへ、かばねの上まで、弓矢の瑕と申候、其十双倍比興なるは傍輩を主にして恩を蒙り、主君の子息をたをすべきと仕る此もとは弓矢ぶせんさくにて、上方武士は大合戦抔にばひくびをいたしても、ひいきのおほき方、手がらになり候へば、その上は味方うちをも仕たると聞ゆる、殊に作州上月の後詰にも、敵おほければにげてかへり、尼子一党の信長方の衆を毛利家にせめころされてそれをも手がらと申、へこなる弓矢のゆへなり、さて其もとは、信長の果報にて上方の一合戦にて城の十も二十もあけてのき、おさまりよき、しかもむまれがはりにて、弓矢すゑに成たる国、おほく取大身に成、たとへば大風のふきたる様なる弓矢の故果報尽て信長死給ひてより、残たる子息たち武田四郎殿長篠後八年巳来、よわげ付たる御はたらき十分一もなくみへ候、信長は度々の手がら有て、少の儀を不覚とも思はず候、其仕形まね候は悪儀なり、然る所に家康我身にもかゝらざることなる子細は、信長の大事如何程家康すけ其上信長と申合たる筋目をたて、此とりあひをはじめ唐国までもひゞく家康の手がら武勇なり、何様末代までも越度有まじきは第一武道は沙汰に及ばず分別慈悲ある人にて、寺社領を付善事を肝要にせられ候ゆへ武田の譜代衆こと〴〵く家康を大切に存ずるなり、巳に午の年のくれに、家康甲州、信濃を取て、未の年一年、駿、甲、信三ケ国の衆を扶持し申の年春より、大敵に向ひ給ふに、三河遠州衆のことく駿河、甲州、信濃の者共家康に能したしむ事、天のゆるす大将は、家康なり、弓矢つよみのはたらきは、信玄謙信、さて此家康なり如㆑件
勝頼公切腹なさるべき三年まへ、辰の年沼津より、北条氏政三万余りの多勢をすて勝頼公あとに三千のこつて、一万三千をもつて家康へ懸り給ふ家康早々ひきとり申され候時勝頼公御出語に、天道肝要なり氏政の多勢を家康にもたせ候はゝ勝頼公なるまじく候が、つよ敵にてもこれは少身なり、氏政よは敵にて家康ほど小勢ならばとくにおしつふし申べく候に、是には大軍をもたせ、つぶす事ならざるは皆天道なりと仰らる剛なる勝頼公も、やす〳〵とたへ給ふと存ずれとも、今信長家のくづれに被官に父兄をうたれ伊勢の御本所、明智十兵衛と合戦ならずして結句被官の筑前守に親のかたきをうたせ、天下をかすめとられたまひ、其後は尾張の国をさへ、おしかすむべきと、筑前守仕るに家康をたのみ、合戦をさせ給ふ家康出ざるに犬山の城をとられ、なか〳〵不雅意なき仕合なりうち衆も傍輩の筑前守を主にするに【 NDLJP:260】くらぶれば勝頼公の御てがら信玄公にはなれ廿八歳九歳の時、酉戌の両年東美濃、遠州高天神にての事は申におよばず、長篠合戦も大軍にあひて、まけたると云内に御手がらなり、其合戦より勝頼公御そなへよはけ付候といへども、まけて八十日のうちに遠州小山後語あり、つぎのとし横須賀まで発向なされ、其のち、ぬまつより、北条氏政をあとにをき、いらうへ懸、家康をおひちらし関東ぜんの城を、すはだにてせめおとさるゝ事、信長の二代目に十双倍ましなるは、信玄公のつよき御弓矢、勝頼公までのこりて今おもひしられたり、但長篠合戦をくれの後、奉公仕る者は敵みかたともに勝頼公御そなへ、あまりつよみとは存まじく候、よそにくらぶれは、よはき分も、はる〳〵うへなり、又此ごろ景勝の御はたらき勝頼公にさしつゞきてつよみをなさるゝ事、これも謙信の御弓矢、つよき事残て、如㆑件なり、さてこそ高坂弾正在世のとき、我家中の侍衆につね〳〵申きかせらるゝは、人の名を申候名大将はいづれも、同事のやうなれとも、信玄公のごとく、すぐれ弓矢つよきは二代めにてよくしるゝと申をかれたる事、今眼前に見へたり如㆑件
此軍鑑書続たる我等は、春日惣二郎と申候川中島衆皆景勝へめし出され候へとも我等は甲州くづれの時分、越中へまかりこし候故景勝へ御かゝへの衆にはづれ候て
天正十三乙酉年三月三日 高坂弾正内 春日惣二郎
甲府にて家康勝頼衆の事よくきゝ給ひ批判に関甚五兵衛二三年以前より城介殿へないつうのよしそれはおほきなる非義なり子細は彼甚五兵衛駿河の庵原に身をすて、たのもしき儀を信玄きゝ、やくにたつべきとてあしがるの大将にせらるゝゆへ勝頼まで二代の間旧功のさふらひども同前に足軽大将仕りながら敵かたへないつうはひきやうなり、然れとも信長父子などの国おほく勝頼へ取末信長めつきやくあるべきとならば内通もまた尤に候、其儀にてはなし信長のほこさきつよみ勝頻は次第によはり申さるゝをみて如㆑件なるは比興にて候それにもおとりたるは曽根下野内通の儀不㆑及㆓是非㆒候に付ても小宮山内膳はまれなりと家康公仰らるゝ甲府三人の沙汰きゝは桜井、市川伊清斎、工藤元随斎、これは甲州先方衆なり、又訴人岩間大蔵左衛門一切事申上る信玄公時のごとくなり両職は成瀬吉右衛門、日下部兵衛門軍代は平岩七之助と申待大将なり是は家康譜代衆なり、此人々に家康仰られ付るは公事に奉行賄賂にふける事あしきとは申ながら、あまりに物をとらざれば国中の者ども、よりつかずして国の善悪しられざるなり、さたの二字は、すなごと、こいしと、つちと、まじはりみへず候を水にてあらへば、小石の大小もみなしれて、つちはながれ候みへきたらざれば、洗ふべきやうもなしそれにより奉行のあまりに賢人ぶり仕り候へば、さたもならず、物のせんさくも可㆑仕様なし、大将のためあしき事にてなくは物をも取てくるしからずと有、家康文武二道の大将にて候故、天下主と、うちあひ敵は多勢、家康小勢にて勝利を得羽柴筑前守甥の三好孫七郎を追ちらし申され候を都に落書をたて候ときくなり其歌
孫七は三好といへどやきばなし
と此事は小幡下野、外記孫八郎、西条治部三人にて聞たて是に書申、又小幡下野とは山城事也、景勝へ参てより直江山城候改、下野に罷成候以上
天正十四丙戌年五月吉日
甲陽軍鑑巻二十大尾