【 NDLJP:228】甲陽軍鑑品第五十二
其後勝頼公信州より遠州平山越を御出あり、三州うり【一本ニ三州うり谷トアリ】と云ふ所へ御着被㆑成長篠奥平籠居たる城へ取懸御せめなされ候に、家康後詰ならず、結句山県三郎兵衛におしつめられて悉とく塩を付られ候ゆへ信長引出す其使は、家康ふだいの旗本奉公人、小栗大六と申者也、二度の使に二度ながら信長出まじきとの御返事也、三度に家康小栗大六に申付らるゝは信長公と起請書き互に見つき申べきと申合候ごとく、江州箕作より此方若狭陣、姉川方々へ我等も加勢仕り候、此度信長公御出なくば勝頼公へ遠州をさし上、我等は三河一国にて罷有候はゞ、唯今にも四郎殿と無事申べく候、左候て信長今長篠の後詰無㆓御座㆒に付ては、申合候起請そなたより御破なされ候間、是非に及ばず誓段を水に仕り勝頼と一和して先をいたし、尾州へうちて出、遠州の替地に尾張を、四郎殿より申請べく候さるに付て四郎殿を旗本にして、我等はたらき出る程ならば、恐らくは一日【一本ニ一日ヲ十日トス】の間に尾州は此方へかたづき申べきと存候へ共其儀しろく申事は無用、大形聞知り給ふやうに、矢部善七迄申理候へと、家康小栗大六に被㆓申越㆒候、又信長、家康、毛利、河【 NDLJP:233】内佐久間右衛門、加勢に参り候へども三州長沢より此方へ出る事ならず候、さる程に小栗大六岐阜へ罷越此趣をば、おしかくしたゞ信長殿御旗本を出され候やうにと申候へとも、三度目の使ひにも出まじきとある儀也、そこにて家康使ひの右の臆意を矢部善せに粗中渡す改信長出る也、又さすが大身の信長も若き勝頼公をふかみ、出かねられたるとは、合戦過五十日の内に聞へたり、然れば彼長篠にて武田の家老馬場美濃守、内藤修理、山県三郎兵衛、小山田兵衛尉、原隼人佐各老若共に申候は御一戦なさるゝ事御無用なりと種々申上候へとも、御屋形勝頼公と長坂長閑、跡部大炊介は一戦なされてよしとある儀也、御屋形此御年三十歳なれば、長閑大炊介申を尤もと思召明日の合戦やめるまじきと、御旗楯なしを、御誓文にあそばされ候ゆへ、其後は誰とても、物申事ならずして、三州長篠において、天正三年乙亥五月二十一日に勝頼公丁三十の御歳にて大将御一人、人数は一万五千、敵は信長四十二歳子息城の介殿廿歳其舎弟十八歳家康三十四歳子息十七歳、人数は信長家康合せて十万しかも柵を三重ふり、切所を三ツかまへ待うけての所へ勝頼公一万二千の人数にて、かゝりて防戦を御遂げ候に一戦には皆武田方勝申候、仔細は馬場美濃守七百の手にて佐久間右衛門六千ばかりを柵の内へ追こめおひうちに二三騎討死申候、滝川三千斗りを、内藤修理衆、千ばかりにて柵の内へ追こみ申候、家康衆六千ばかりを、山県三郎兵衛千五百にて柵の内へおひこむ、されども家康強敵のゆへ、又くひつき出る、山県衆は味方左の方へ廻り敵の柵の木いはざる右の方へおし出し、うしろよりかゝるべきとはたらくを、家康衆みしり、大久保七郎右衛門てうのはの差物をさし、大久保二郎右衛門金のつりかゞみのさし物にて、兄弟と名乗て、山県三郎兵衛衆の、小菅五郎兵衛、広瀬郷左衛門、三科伝右衛門此三人と詞をかわし、追入おひ出し九度のせり合あり、九度めに三科も小菅も手負引のく、其上山県三郎兵衛くらの前輪のはづれを鉄砲にて後へ打ぬかれ則ち討死あるを、山県被官志村頸をあげて甲州へ帰る其後、甘利衆も一せり合、原隼人衆も一せり合跡部大炊介も一せり合、小山田衆も一せり合、小幡衆も一せり合、典厩衆も一せり合、望月衆も、安中衆も何もせり合には、皆柵際へ追詰かち申候甲州武田勢、中と御左とは如㆑此、扨御右は真田源太左衛門同兵部介、土屋右衛門尉、此三頭は、馬場美濃守衆へ入かはり候へ共、上方勢は家康衆の如く柵の外へ出さるゆへ真田衆かゝつて柵を一重やぶるとて、大方討死仕り候、或ひは手負引のき候、中にも真田源太左衛門兄弟ながら深手負則ち死す、其次土屋右衛門尉申は、先月信玄公御とふらひに、追腹をきるべきに、高坂弾正に意見せられ、かようの合戦をまてと申さるゝに付、命ながらへて候、唯今討死なりとことわりて、敵出ざる故、自身かゝつて、柵を破り候とて、土屋右衛門尉其歳三十一にて則ち討死也、馬場美濃守七百の人数も、大形手負引退く或ひは死て八十人余にて、馬場美濃は、いまだ手もおはず同心被官をば皆のき候へと申断給へど、さすがの武田勢なる故、美濃を捨てのかず、穴山殿衆はせり合なく引のく、一条右衛門太夫殿、馬場美濃傍へ馬を乗よせ、一所に御座候時、一条殿、同心和田と申者、其歳三十歳ばかりなれ共、弓矢に利発なるゆへ、馬場美濃守殿に向つて御下知あれと申、美濃守是れを聞、につこと笑ひ、引のくばかりの事にて候とて、のかれ候、さりながら御旗本のくづれざる間は、のかずして勝頼公の大の字の御小旗、敵におしつけをみせて後のき給ふ、其後は一条殿も、何れものきなされ候、但し馬場美濃守殿は、のけはのき給へ共、長篠橋場にて少し跡へ返し、高き所にあがり馬場美濃にて有ぞ、討ておぼへにせよと尋常にことはり、敵四五人にて鑓をもつてつきおとすに、刀に手をかけず此歳六十二歳にて生害なるは、勝頼公此合戦思召とゞまり候らへと御意見申に美濃守意見を御聞なきゆへ、そこにて長坂長閑、跡部大炊介にむかひて合戦をすゝめ申旁ゝは、自然のがれ給ふ事も有べく候、とゞめ申馬場美濃は大形討死なりと申されたる、言葉ゆへ如㆑此、扨又勝頼公に付申は初鹿野伝右衛門、此年三十二歳、土屋右衛門尉弟土屋惣蔵、其歳二十歳にて、両人御供也、土屋惣蔵若輩なれ共、剛なる心故、兄の右衛門尉を心もとなく思ひ両度跡へ乗さがる、勝頼公は、土屋惣蔵を、深くいたわり給ふ故、両度ながら御馬をとゞめられ惣蔵を先へたてゝのき給ふ其次に、典厩歩者三十計り馬乗三騎にて退給ふが、幌をさし給はざる故、勝頼公仰らるゝ、典厩紺地金泥のほろ、四郎勝頼と我等の名を書、信玄の御時、御先を仕るに、唯今は我等屋形のまねなるにより彼幌典廐にゆづり、是をすて給はゞ譲たるは内の事、勝頼が指物をおとし迯たるといはれんは、信玄の一代をくれを取給はざる、御名をもよごす殊更武田の家、跡二十七代までへの勝頼一人にて不孝に罷成候、此幌を捨てはのくまじきと被㆑仰候故、初鹿野伝右衛門、典厩へのりよせ、此由申候へば、さすがの武田武者、弓矢さかんに候により、幌串をば捨、幌衣を典厩おとなの、青木尾張と申者、此幌衣を頸に巻て参り候とて則ち伝右衛門に渡す是を伝右衛門受取勝頼公へ御目に懸候へば、勝頼公取て是を御腰にはさまれ、のき給【 NDLJP:234】ふ伝右衛門此御使に参り、ゆきゝ五六町ありき申候間勝頼公御馬をとめられ候其節御馬草臥てうごかざるに、初鹿野伝右衛門御馬に声をかけ追候へ共むかしが今にいたる迄、武田大将のをくれ軍に馬すゝまぬ物也、然る所に笠井肥後守申、信玄公御代より旗本においてゆびおりの剛の武者いづくよりか勝頼公御馬の進まざるを見て、はやめて来る馬よりとんでおり、是にめし候へと申、勝頼公被㆑仰は左様候はゞ其方討死有べきと仰らるゝ、そこにて肥後守命は義によつてかろし命は恩の為に奉る、我等せがれを御取立有て被㆑下候へと申て此馬に屋形をのせ参り候其身は屋形の御馬を手綱を取ていだき乗て跡へ一町ほどもどり討死する、左有りて信玄公勝頼公へ御譲ゆるし給ふ、諏訪法性上下大明神と、前だてにあそばさるゝ御甲、信玄公御秘蔵の故諏訪法性の甲と是を申、此御甲を勝頼公も御秘蔵なされ候へ共五月にて温天故、初鹿野伝右衛門に御もたせ候伝右衛門いそがはしきにより此御甲捨申べく候と申て是をすつるされ共小山田弥介と申武士跡にて是を見付名高き御甲を捨てはいかゞと有て取てもどるケ様に何れも残り申す義理深き剛の心有は偏へに信玄公の御威光強くまします、御あたゝまりにて御他界天正元年酉年なれ共天正三年乙亥五月まで三年の強よき事如㆑此、是勝頼公三十歳の御年三州長篠合戦是也、甲州方侍大将足軽大将小身なる衆まで剛の武士大形悉く討死して負合戦也、討死の衆馬場美濃守内藤修理少輔、山県三郎兵衛尉、原隼人佐、望月殿、安中左近、真田源太左衛門、同兵部介、土屋右衛門尉(此次追可㆑考)足軽大将横田十郎兵衛(此次追可㆑考)城伊庵深沢へ小幡又兵衛あすけへこされ候ゆへ、是両人は足軽大将の中に残る、御飛脚をたてられ頓て甲府へ召寄らるゝ甲州勢此節小勢なるは、越後謙信より前戌極月、一向衆長遠寺をよび、勝頼公へ御ことわりに、遠州参州美濃三ケ国の間を来春勝頼御上洛候へ、謙信は越前を罷上るべしとあれ共、勝頼公御返事御合点なき故、輝虎腹を立て申され候、其上東美濃遠州きとうぐんにおいて勝頼鋒よろしきを聞、謙信信濃へ打出ず候はゞ勝頼公に恐れたると諸国にていはれてはと存ぜられ信濃へ手を出すべき共内々存ぜらるゝとあるが事聞へ一万余信州勢を高坂弾正にさしそへ越後のおさへに置給ふ故、勝頼公御人数長篠へ一万五千にて御出候、其内をも長篠城奥平をさへに二千鳶の巣山兵庫殿を大将に牢人衆雑兵千は名和無理介、井伊弥四右衛門、五味惣兵衛三人を頭にさしをかるゝ、是れは一人ものこらず兵庫殿をはじめ大形討死なり、如㆑此一万五千の内三千費え候て信長家康にむかふはたゞ一万二千にてかやうになされ候なり如㆑件
高坂弾正謙信の御前をよく申付、八千にて、こまんば【小馬場】まで御迎ひに出る、三年前信玄公御他界の節、かやうあるべきと、高坂弾正存候て、信玄公青がひの御持鑓に小熊のたれの鍵しるし二十本、亀の甲の御鑓二本合せて二十二本鑓持のはおり迄、段子にて内々支度仕り爰かしこにかくし、二人三人つゝ三日の間に出し甲府へ、勝頼公御着の時は、少しも御旗本にも障りなきやうに仕り候は、高坂弾正やさしくも信玄公御工夫のふかきをおぼへて如㆑件
右の通りに候へ共都の町人其外諸国の商人、甲府に罷有故落書をよみ、札にかきたて申候
信玄のあとをやう〳〵四郎殿、敵のかつより名をバながしの
高坂弾正、勝頼公へ御意見申五ケ条は
駿河、遠州、氏政へさし上られ、北条氏政の幕下にならせられ、勝頼公は甲州、信州、上野、三ケ国にて氏政の御先をなさるべきと被㆑仰御尤もに候事
右の上、氏康御娘子御座候由、承り及び候間是をむかへ取、勝頼公氏政公の御いもうとむこに御成御尤もに候事
木会を上野小幡へ御越、小幡上総を信州木曽へ御越、御尤に候事
唯今迄、足軽大将衆をみな人数持に被㆑成馬場内藤山県三人の子供を初め、皆同心取あげ奥近習にあそばし小身にて召つかはるべく候、明日に我等果候はゞ源五郎をも、小身になされ、我等同心被官誰になりとも御預け、御尤もの事
典厩穴山殿に、腹を御きらせ有べく候、穴山殿を、典厩に仰付られ典厩をば我等に仰付られ、尤もと申候へ共勝頼公御合点なく候て、五ケ条の内、小田原北条氏政の御妹聟に御成候事計りに、御点を懸られ候真田源太左衛門跡に弟喜兵衛をしすへ給ふ計也、如㆑件
信長家康此合戦にかち、めでたしと悦び候て、信長家康へむかつて申さるゝは、其方に駿河国を出し候三河遠州の儀は無㆓異儀㆒城をあけわたすべく候、駿河は家康手前にて叶はず候はゞ、加勢申べきやとあれば家康申さるゝは我等一心の覚悟にて少しも手間どるまじく候とあれば、信長機嫌よくして我等は東【 NDLJP:235】美濃岩村へ取懸秋山伯耆守、座光寺其外の者共を、うつとり候て三年の内に、信州へ取懸候はんとありて岩村へよせ候へば、秋山伯耆、中々備を出し、信長を少しもませざる体をみて、おさへをおき、信長越前へ取懸其年七月、朝倉をたおし扨又家康は、長篠の合戦のきほひに、駿河由井くら沢【倉沢】まで、はたらき引取て遠州ふたまたへ取懸候へ共、あした【蘆田】少しもよはげをみせず候故、家康三河侍を悉くよせ、猿楽をあつめ、一日能を仕り、次日に懸川まで出、其次日すはの原へ取懸、六月七月八月まで、せめ申さるゝに付、すわの原の城家康へあけ渡す、家康おとな酒井左衛門と云ふ侍大将申は甲州方の城はやおしおとし候以来には、次第に如㆑此有べく候早々馬を入給へと申候、家康是をきかず、小山の城へ取懸べき由申さるゝ、酒井左衛門申は、信玄の弓矢古今ためしまれなる跡なれば、勝頼やがて後詰仕らるべきと申、松平左近と云ふ、家康家老申は尤も、小山城へ取懸給へ、勝頼公は、五三年の間にも出る事なるまじく候、仔細は能者を大小共にあまた討死させ、其上越後の謙信に、信濃をとられざる様にとこそ、はげみ申べく候へ、何として此方へ罷出らるべく候、然る所に小山をせめおとし給へば、高天神二俣両所を、たゞとりになさるべく候と申に付、左衛門尉も其儀にまかせ、小山へ取よせてせむるなり、小山の城には駿河先方侍大将五頭罷在かくて八月に成候へば、勝頼公は甲州信濃上野勢、名有る者の子孫或は弟など出家に成、町人に成罷有を皆よび出し人数を二万余り作り、八月中【一本ニ八月中ヲ九月初トス】に、遠州小山後詰なり、家康勢是をみてまきたる小山を、まきはぐし立退候駿河先方城より、くひとむるに、酒井左衛門尉、戸田左門、大津土左衛門と名乗てしんがりを仕る、高坂弾正此節御意見申、勝頼公無二に御一戦と有を相留申、其仔細は、負たる以後百日のうちに出、敵勝たるきほひにてまきたる城をまきほぐさせ、敵のおし付をみるは、武田の御弓矢さかんの故なりと、弾正しきりに御意見いたし相とめ申により合戦なくたがひに相引なり
勝頼公小山の城へ御座なされ、少身なる衆の小山の城に籠城を堅固に持、走り迴りたる衆に、御感状を下さるゝ、其感取たる衆は、蒲原小兵衛、鳥井長太夫、朝倉六兵衛、朝比奈金兵衛、村松藤右衛門、望月七郎左衛門、岡部忠二郎、鈴木弥次右衛門、末高杉山如
㆑件