甲陽軍鑑/品第五十三

 
オープンアクセス NDLJP:235甲陽軍鑑品第五十三

信長長篠合戦勝利の威をもつて、其年七月越前朝倉をたをし、則ち其陣越前において、伊勢田丸の城を取あげ二番目の子息三の介を、彼城に指置べきと定め申され候、勝頼公御わかげ故、此合戦なされ、朝倉迄やすく亡び候、仔細は信玄公御在世の時、伊勢の国司江州の浅井、備前丹波の赤井悪右衛門、越前の朝倉中府へ使者を付置き、信玄公御上洛なされ候やうにと申候に、信玄公西の年四月御他界にて各力を落候所其上勝頼公亥歳長篠にてをくれを取給ふ故、少しもうしろつよき事なくして、かやうにほろび候、去ながら信玄公御他界ある次の戌の年、遠州高天神の城を勝頼公攻落し給ふ時、信長家康不叶を聞、国司贔負の伊勢先方衆、歌を作りてうたひ候、其歌は「たゞあそべ、夢の世に、上様は三瀬へ御座れば高天神は落」などゝ申し信長にしたがふやうにても信玄公御他界の後、勝頼公御代までも、長篠の合戦に負給はぬ間、三年は諸方にて武田四郎殿を、うしろ楯に仕り、如此候へ共、長篠合戦をくれの後は、御旗本衆の事は申すに及ばず候、御譜代衆東美濃岩村の秋山伯耆まで、亥の極月に取つめられ候へ共、勝頼公後詰成りがたくして、信州伊奈迄御馬を出され、大雪にことをよせ、岩村の後詰不叶候に付て信長より岩村の城へ扱ひをいれ秋山伯耆守伯母むこなれば、たすくべきとありて、だしぬき、伯耆座光寺をからめとり、機物はたものにあげ、家康の味方に成たる奥平九八郎女房を、勝頼公機物にあげ給ふ其返報なりと被申候其上伯耆守内儀信長のおばなれ共、強敵の家老伯耆守妻になりたる故、おば子をも信長成敗仕られ候如

天正四年丙子春遠州高天神の城へ、米入らるゝとて勝頼公きとうぐんへ御馬を出され候殊に高天神の押へに家康より横須賀と云所に城をとり、大須賀五郎左衛門と申家老指置、信玄公の御時、十双倍劣たる勝頼公の御備也、仔細は滝坂より横須賀へ備へ御押の時、家康におぢ、しほかひ坂をばかなはずして浜ばたをおし給ふ真田喜兵衛ばかり、兄源太左衛門跡目になり、千余りの人数引つれ候て信玄公御時のごとくさのみをそれず山の中を押とをるなり

右の通り、遠州高天神御仕置、勝頼公なされ候に、家康八千余りの人数にて、横須賀より少しこなたの山にオープンアクセス NDLJP:236備へをたて合戦をもちて相見へたり、去年亥の歳長篠において勝利を得たる故、家康備への勢見事也味方は去年おくれをとり、ほまれの侍大将衆皆討死仕つる、小身なる衆も十人が八人討死候て生替りなる故、臆意カなしおくれの後、敵地へふかく働らく事、是とても信玄公御武勇のあたゝまり少し残りて如此扨又横須賀の城へは、小笠原衆、山県三郎兵衛衆、二の手にて、手あてのはたらきあり、大須賀五郎左衛門かひぞへにさしをかるゝ、かけひ介太夫と申者家康ふだいの兵、生国は三河侍剛の武士也此侍足軽をつれて出、小笠原衆と、弓矢鉄炮のせり合有、二の手山県衆、大将なけれ共、山県従弟なる故、小菅五郎兵衛を陣代と定めて、申付らるゝに付て、山県衆皆五郎兵衛と申合せ、懸引様子是とても、山県三郎兵衛仕置たるあたゝまりを以て如此、とかくは信玄公御在世の時、侍大将、足軽大将、物頭、物奉行、諸役者に能御目利なされよき者を仰付らるゝ故也、殊に勝頼公惣御人数は十七手に備へ、家康山よりおろし川をこし候はゞ防戦を遂げらるべきと、合戦をもつて、まち給へど、家康先年より長篠にてかち、次第に我鋒さきつよくなるべきと、工夫して勝て甲の緒をしめ、少しも取あはず候、勝頼公は、横須賀を右に見少しうしろへまはり給ひ歩者三十斗り、めしつれられ横ずかの城をくわしく見分被成候、さ候へば高坂弾正是を見候て、いそき跡より一騎にて乗つけ、勝頼公に向つて申すは敵を少しも大事になされす候事いかゞなり去年勝の威ひにて、家康只今にもかゝり候はゞ、味方は皆生れ替り、其上去年長篠にて負のをくれ心候へば千に一ツも此方の勝事は有まじく候、左様候て家康の居城浜松へは、上道五六里ならでは有ましく候甲州へは、この人数を引つれては、何と急き候ても富士の大宮駿河の府中、遠州の小山、さがら高天神までは五日路にて候、五日路をば長篠おくれの後まけ候て何とて引取なさるべく候、一騎一人残り申すまじく候、そこの程を御分別なきは、口惜き次第なりと、弾正申上候へば勝頼公聞召仰らるゝは、其方申分尤もなれども、家康一人の覚悟にて我等と合戦は思ひもよるまじく候、信長をうしろだてにいたしての事也信長も又右の覚悟にて我等と合戦仕るべきとは中々存ずまじく候、信長は家康をたてにつきての事、去年長篠にて我等をくれを取、大身小身共に法性院殿御秘誠の業人形財死さする事我等分別ちがひたる故也、さりながら信長国を多く持大身にて出合戦に、柵の木をふたへみへにゆひかやうの余り大事に仕るべきと思はざるは勝頼がしぞこなひ也、敵の柵をふりたるは、たとへを取に、碁ならば、ねばまを仕りかちたる心なり、我等の柵をみへふりてゐたる所へかゝりたるは右申碁うちならば見おとしなり、おのれはねばまをしてかち、此方は見落して負たるに此方本のおくれ敵方つよみにて勝たるとは、いさゝか存じまじく候、左様につよみと存ぜず候はゞ、かさねて合戦仕り候共信長家康二旗にてならで合戦はいたすまじく候と仰せらるゝ、高坂弾正承り力を落したる御出語にて候、我等一人信玄公御代の年寄たる侍大将のまね残り申候所に、我等をも御殺し有べきとの儀にてさやうに仰られ候や何を申候ても、勝頼公の御瑕は、無二に強過ぎ給ふは、大きなる瑕にて御座候と申により、勝頼公御旗本へ帰なされ早々引取給ふ、小笠原衆、山県衆も、引取に敵つく事なし、次の日の生捕に尋ね候へば家康衆にも若き者等はかゝつて合戦といさむ、内藤四郎左衛門と云ふ弓矢功者の兵しきりとゞめ、家康に意見仕り候故、合戦なし勝頼公此陣御帰りに、さがらに城とりなされ候高坂弾正縄ばりなり

天正四年子の歳に飛弾の国半国の主、しらや筑前子息監物、前々より是は長尾謙信の旗下なるが謙信へ申、甲州武田の旗下江間常陸を御退治尤もと申て越後勢を引出し飛弾を皆乗取謙信の国に仕る、軍役の定めは弓千張鉄炮千丁との儀也、其上越中の国侍椎名をも越後謙信より倒し、川田豊前と云ふ輝虎の内衆にくれらるゝ、此時も勝頼公後詰なさるべきと仰らるゝ、高坂弾正御異見申輝虎と御取合なされ候はゞ則時に武田の家御滅亡うたがひ有間敷候と申故、飛弾越中の後詰なき也、扨又謙信申さるゝは此時いでゝ信濃上野を取とも手間取事有間敷候也、右両国の事は申に及ばず、甲州駿河までも取申べく候へどもさやう有ては勝頼わかげの人の殊に信長家康両人にあひおくれをとられたるよはげをみて如此と世間の批判にのり候へば信玄の時はならずして子息勝頼の代になり、しかも長篠にて負られたる足本みてとあれば、謙信今迄の弓矢皆無になり候間、信濃上野へ手はかけまじく候、さりながら飛弾越中の儀は勝頼か様に候上はすてらるゝ遠州口へ出る事も次第に成まじく候美濃三河遠州の城大方信長家康にとられたると聞、飛弾越中も後は信長にとられ申べく候間其ため当方へ取候とて謙信手つかひ申され越中の椎名飛弾の江間常陸退治候て、其跡謙信衆取也、美濃に岩村豊前を始め三河に足助宮崎を始め遠州にふたまた此城共信長家康へみなせめとらるゝ、飛弾越中の城は謙信にせめとられ、殺しとらるゝは長篠合戦負故なり如

オープンアクセス NDLJP:237天正五年丁丑に小田原より甲府へ御輿入候て氏政公の御妹聟に勝頼公御成候、高坂弾正、長篠の後ち三年己来初めて今夜心安く候て夜能く、ねいり申候は、小田原より御輿入たる故也と各にかたり申され候なり

黒駒開関之願状 

日本有山、名富士其山峻三面是海、一朶上聳、頂有煙、日中上有諸宝流夜即郊上常聞音楽、古来六月上、此山不会有女人上至今男子欲上、三月断酒肉欲色、所求皆遂云、因玆関東関西之人無竸望、古人云、雖三州過半吾甲陽之山也、処今詔陽之一字、透得者希、自天正丁丑、抜却黒駒関鍵而不往来、通車馬是太平得路之謂乎、伏冀以這開関力、忠勇馳八極、武威傾九州、而掌上舞天下量外致太平、者算日竣之至祝至俟祷、稽首敬白

  天正丁丑季夏六日 勝頼

富士神前

伊勢  熊野  諏訪  願書  追考可記者乎

天正五年丁丑、高坂弾正、勝頼公へ、御意見申上る、越後謙信へ降参なされ、偏に頼入と仰られ御尤もかと存候其いはれは、信玄公御遺言も如此候へ共、是非共越後へ委しき御使者をこし給ひ、輝虎の旗下に御成なさるべきと仰越れ御尤候是に付先御父信玄公御在世の時の御威光を申にたゞ、尋常の大将の御威勢にちがひ、さながら生摩利支天にて御座候其仔細は、永禄十一年辰の極月十三日に駿河国を乗とり氏真を懸河へ追こみ給ひ候へば其年極月下旬より、懸河の城内に腹疫病と申わづらひはやり、懸河中氏真の御味方下々の者皆力を失なひ候故、小身の家康におしつめられ、かなわずして次とし巳の始め五月二十二日に城をあけ小田原へ氏真公のき給ふ此外信玄公の御働き所、ケ様の儀度々覚へて如此其上伊勢の国司を始め、信玄公御代に御音信申たる者を皆長篠の次ぎ子の歳、信長公殺し給ふも飛弾越中衆降参の人々は謙信にころさるゝもあり美濃三河の事は申におよばず、みな敵にとられ、遠州の城もおほかた家康にとられなされ候へぼ、いまより三年のあひだに、高天神、小山、さがちみなとられ給ふべく候、右信玄公の御威光のごとく只今又輝虎の威光つよく候て謙信働き申さるゝさき、悉く疫病はやり候故、信玄公御他界酉の歳より、信長越後謙信をうやまひ信玄公へ仕りたるごとくに、一年に七度づゝの節句をいはひ使者をこし、佐々権左衛門と云、信長譜代の侍を越後につめさせ都の絵図を、狩野にかゝせ、謙信へ信長より進上いたされ候、謙信は一年に一度も信長へ使ひこす事なし、二年に一度ばかり漸なり如此にても、又越中侍神保信長妹聟にして内々合力仕り、謙信に楯をつき候へと、申越し謙信にかくし山道をとをり、信長神保に合力なり、信玄公の御時は、織田掃部、佐々権左衛門、甲府へ年中に八度九度差越しては又家康に内々にてそゝろをかひ、信玄に楯をつき候へと申され候、其ごとく今は謙信の機をとり信長種々軽薄を仕られ候といへども、其上神保にそゝろをかひ候儀、謙信腹を立神保をばおさへをおき加賀の国松任の城長と申侍ひ、信長方なる故此城へ取詰せめらるゝに信長了簡なくして後詰を仕べきとてさきへ指こさるゝ其時、大将は柴田修理、佐久間玄番、丹羽五郎左衛門、長谷川お竹、前田又左衛門、木下藤吉、徳山五兵衛、大柿の卜全、滝川伊与以下、都合四万八千にて、右の後詰と名付、働き出松任のあなたに上道一里半、近所の川をこし信長勢陣取所を、謙信彼城をせめおとし、長が頸をとり、信長後詰と聞謙信早々夜中に打立明日卯の刻の合戦と定めらるゝ一の鐘に諸軍したゝめ、二のかねに武具をきよ、三の鐘にうつたつべきと、謙信出らるゝもよほしを聞、信長勢悉く敗軍して、跡先もなく夜にげに仕り、川を引こすとてかちあらしこ流れ死すると雖ども、信長衆は越前まで引こむなり、謙信卯の刻に彼の河端までおしつけ、所の郷人に相尋、委しく是をきゝ、大きにわらひさすがの信長勢かな、其まゝ罷有候はゞ、けちらし川へきりこみ申べきと一段功者かなとほめて後、謙信状を信長へこされ候、其の文章の理究りくつは信長をば謙信一段かう上に存候、奥州の長鐘かつぎの侍のやうには少しも不存候、執し奉り候信長居候、都あたりの、京皮草履はきて、ざゝめき渡る、公方家の侍ひ衆、会釈たるとは、輝虎との合戦とは、ちとちがひ申べく候間、互ひにたしなみて来年越前にて一合戦参るべく候、然れば我等の生国越後雪ふかき国なれば三月よりうちはなるまじく候、三月十五日には必らず輝虎も越後を罷出べく候間、信長も其時分安土を御出あり、実否をつくる一戦御尤もに候、武田信玄他界の後、子息四郎に数ケ所の要害を、信長はせめとられ給へど其後信長武勇の宜しき故か、四郎勝頼に勝ちて勝頼をば三州家康に任せ去年子の歳より、江州安土に居住なさるゝは、定めて謙信上洛をさまたげらるべきとの事はうたがひなしとの書状にて其使オープンアクセス NDLJP:238ひは、しんや源介と申す謙信旗本侍ひ也謙信出頭人河田豊前方よりも、会根平兵衛と申者を指越申候謙信より信長へ音信は越後布二千端也、其時信長謙信の使者に逢ふて申さるゝは武篇は誰もいたすと申せ共謙信の御弓矢は摩利支天のわざにて候、謙信御上洛に付ては越前まで防ぎ申してみ候て、それにも成申すまじく候間、我等は江州長浜まで引取其上、長浜にて扇一本腰にさし一騎乗こみ信長にて候降参申すといひて都へ案内者、信長いたすべきと申候はゝ定めてさすがの謙信の、信長骨折て取たる天下をめしあげらるべきとは被仰まじく候、其時無事にいたし信長は西国謙信は東をおさめ給ひ日本国を両旗にて意見仕り公方様を取立申べきと申されて如何にもかまはぬ返事也、扨て謙信の使ひ帰りて信長の御返事挨拶の体少しも残さず申候へば此次写本闕追考書入者乎謙信此次同不審追可敗軍し、誠にかゝらざる様にきこへにても信長二十七歳の時八百ばかりの人数にて二万の義元をうちて取伊勢の国司をおしつめ縁者をくみては其上殺し美濃の龍興を伐随へ、勝頼公には柵の木をつけてはかち、則時に岩村へよせかなはざれば捨て、仕よき越前の朝倉を其年六月出て七月中にほろぼし、世間において鬼神のやうにいはれ候に、信長三万にて浅井備前、三千につき立られ十町あまりにげて、小身の家康然かも若大将のかげにて利運にいたすといへども、姉川合戦信長勝とならでいはず候、金崎発向の時、一騎にて迯或ひは若狭へ家康を頼みてこし、家康をも捨てのき、信玄公の御代に様々手を入御手ぎれのありても、信長より甲府に人を付置て、つくろひ申され候事をば、手がらの上は誰もいはず長篠において勝頼公にかちては信長勝とばかり申候、柵の木結ふて勝たるともよく弓矢のせんさくの有侍こそ申候へ、大かたの人はこまかなる事はしらず候、来春輝虎上洛にをいては謙信の鋒さきに信長向ふ事成まじく候然れども五年以来に、信玄公ねばねにて御他界の時仰らるゝ我死て後ち謙信より外信長をおしつめ候はん者日本に無之信長果報のつよき者にて候間、信長と取合を発し候故、我等もはやく死する輝虎も信長と取合はしめ候はゝ、弓矢は信長より輝虎杳上はるの故、五年の内に謙信も死する事あらんと仰をかれ候へば、信玄公は御工夫のつよき御分別者にて御座候間何たる様子ありとて、もやうのかはるべきも存せず候へ共、今の躰なれば先勝頼公は謙信へ被仰入旗本に御成尤もにて候、信長の旗下には長篠の前、東美濃遠州高天神をせめ取給ふ時分ならば馳走申べく候、長篠の後ちはいかゝに候間、今は謙信北条氏政両旗下に御成候はゝ長久にて有べく候、一とせ家康も信長ばかりにてさのみ頼みがひなき故査々遠き越後謙信へ頼みて越候、又信玄公と謙信ばかり他国の大将を頼み馬を引出しては、勝つても詮なしと仰らるゝ故、他国へ家老衆の人質を一人越し給へる事、終に無之候は、武勇御工夫の御手柄計にてなし、第一は御戒力にて如此信玄謙信の真似は、かならず御無用にて御座候、諸方へめぐらし御手を入れられ武田御家長久の御分別肝要也と申候へども、弾正異見を申上る儀勝頼公御取上なし仍如

天正五年丁丑霜月、高坂弾正申は勝頼公謙信へ仰入らるべき事必ず御尤もなりと申、扨て又其節信長より部六角堂の山伏かしら思善院殿を頼みて甲府へこしなさるゝ、其の子細は書付に法性院殿御在世の時より四郎殿と我等縁者にて候へ共、彼ないき殿息女短命にして今は則ち無之といへども太郎信勝此腹の子息なれば、少しも互ひに無沙汰有間敷候所に、遺恨なき弓矢をとり双方ともに侍ひを失ふ儀いかゝに候、万事をなげうち以来は無事に申談候、然れば越国の謙信来春信長と有無の合戦の由申越候此方は家康我等両旗にて向ひ申べく候、四郎殿は御旗を出され越後飛弾の事は申に及ばず、加賀越中能登までも勝頼公御支配尤もなりと申こされ候、勝頼公聞召し長篠にてをくれをとらざる時ならば此儀仕るべく候へ共只今は長篠の後にて候とて御同心無之謙信への御無事も先長遠寺を指越被成べきと弾正頻に申候へ共、勝頼公弾正申儀を御取上なき子細は、長篠合戦の右より御意見を強く申候殊に長坂長閑跡部大炊介戌の年、東美濃遠州高天神にて合戦も右両人申候て勝頼公をくれを取給ふ故此後弾正申儀御承引にをいては、彼両所身の上悪しく有べきと存候、末の考もなく、弾正御意見を長坂長閑讒言いたし、さまたげにてかくのごとくに候

信玄公軍に日取候て勝つ事はあやうき儀也、合戦はたゝ備への仕様にて勝、其仕様と云は第一に備へのたてやう、第二に物頭軍陣の諸役者を能く目利候てそれの得たるわざをみしり申付る、第三に軍法をよく定め少も私なき様にして勝と仰られ候へども又日取をも内々にて御用ひ也其日取は山本勘介丸日取、前原筑前一月切の日取、是れ二ツはいづれの日取より古来からの勝負に大形相候とて右の二ツを内々にて御用ひ也、一ツに丸日取、二ツに月切の日取是れに書す此外小笠原源与斎申上る八方オープンアクセス NDLJP:239がゝりの事、合三ツから口伝有

   武士道の沙汰褒貶六ケ条の事

敵討は、親の敵きを子のうつは順、兄のを弟のうつは順、子の敵き親の討は逆、弟のを兄の討は逆なり叔父の敵きを甥の討も順なれども、うたざるとてもくるしからざるなり

合戦せり合にあひうちは非義なりつよき武士、大かたの人にしるしをくれ候てよき武士は験しとらずとも不苦、あひ討は必らず無用なり仔細は鑓をあはするにあひ鑓と云ふ事はなく候

ばい頸の事は、大きに比興なり但しこれはあひうちよりおこる努々ばいくび仕るべからざるなり

味方討は御大将への逆心なり、是れは又ばい頸より劣り也

武士の寄会ひ互ひに中悪敷とも、乗うち不仕候、縦へ討果し候共無礼は弓矢神への恐れなる儀を専らにして実の道理を深く守るべきなり

親は又家中に奉公仕りなば、御旗本に奉公申候に、親兄弟とがをして、主に成敗せらるゝを、無分別の人々、敵のさたに申され候共、それは無案内の儀也能くさたしてみれば、科有者を敵き討を厭ひ成敗なくしては、おかざる物なり、左候て主に成敗せらるゝを敵に取なし候はゞ御旗本に罷有人を屋形様御殺し候はゞ其子又屋形様をねらひ申べく候や、それは非儀にてなるまじく候それならずば主に成敗せられたるをうたざるといふて譏るは一段ぶせんさくに候若したつて存候はゝ討手の人を討事も有べく候それとても道理ははずれ候なり仍如

信玄公の御時、いかほど諸国にて諸の御敵信玄公に四天二天の御大将衆とせりあひ合戦城攻夜込かまりあひといへども終に味方うちは申に及ばず、ばい頸の儀少しもなく候、越後謙信の家にても如此おそらく和朝戦国の中に、信玄謙信の両家ばかりケ様なるは弓箭せんさく能き故也、ぶせんさくの家にても武篇をつよく走り迴らんと心がくる、武士は信玄公の衆作法のごとくたしなみ候間其儀ならば又ばい頸はひが事也、又或る時ある武士しるしをとりはぐれ傍輩のよき頸をのし付の刀脇指に買ひ取て出し候、其事あらはれて諸人かひたる人をそしりたるに、馬場美濃、山県三郎兵衛、内藤修理、高坂各ゝ侍ひ大将批判に頸かひたる人は大きなる剛の武士なり、それほどに心かくるは英雄と是をいふ、又類実て物なば取てそれをあらはすは、何と日来ひごろ剛ありとも大きなる臆病者也、子細は先大事のしるしをうり候、それはそれ猛き武士の上にて、重ねて手柄可仕と存自然一度ばかり首尾にはづれて不苦と思ひ売候はゝ、ふかくかくし申べく候、験をうり、とるをばとりて其儀をあらはすは人に売たる頸にて、又我手がらに仕るべきとの覚悟むさき事、更々不沙汰候、心むさければ、未練のはたらき有者なりと、信玄公の御時家老衆の批判にて候

   武士道批判の事

人をほむるに、能き証拠を引、そしるに悪き証拠を引候儀本道なり、又邪道は上杉則政御家中のごとく分限なる者をば、あしきをもほめ不弁成るをばよきをもそしる家中には、臆病成る人十人に八人あり二人よしとても、大勢悪きにかさまれ未練の様になる時は、十人ながらよは者になりて、則政公子息をすてゝ越後へにげこまるゝ、さて証拠をひきて善悪のさたある家は、先づ運尽て其大将死給ひても、跡まで其家中衆弓箭に利発なるは、証拠をもつてほめそしる故よき武士多くあつめ給ひ、未練なる人十人の内に一一三人ありてもみなよきやうにあひみゆる者なり、仍如

   三河牢人山本勘介、此日取を信玄公御代に上る

周文王団扇事、義経公御歌に△時と日は味方よければ敵もよしたゝ肝要は方角をとれ

摩利文尊天〈[#図は省略]〉

 信玄公日取をばさのみ御用意なく候つる、又入事も有

オープンアクセス NDLJP:240 義経公百首歌

 日取には其家々の吉事有、扨は照日と、風ふかぬ日と

  周武王之日記、上野先方侍、前原筑前守、信玄公へ上る

△正月一日○二日○三日○四日●五日●六日●七日○八日○九日○十日●十一●十二○十三○十四● 十五○十六○十七●十八○十九○廿日●廿一●廿二○廿三○廾四○廿五●廿六●廿七●廿八○ 廿九○晦日

△二月一○二○三●四●五○六○七●八○九●十●十一○十二○十三○十四●十五●十六●十七●十八○十九○廿○廿一●廿二●廿三●廿四●廿五●廿ハ○廿七●廿八●廿九●晦●

△三月一●二●三○四○五●六○七●八●九○十○十一○十二●十三●十四●十五○十六○十七●十八●十九●廿○廿一○廿二○廿三●廿四●廿五○廿六●廿七○廿八○廿九●晦●

△四月一○二○三●四○五●六●七○八○九○十●十一●十二●十三○十四○十五●十六●十七●十八○十九●廿●廿一●廿二○廿三○廿四○廿五●升六●廿七○廿八●廿九●晦●

△五月一●二○三●四●五○六○七○八●九●十●十一○十二●十三●十四○十五●十六●十七○十八●十九●廿○廿一○廿二廿三●廿四○廿五○廿六○廿七●日八●廿九○時●

△六月一●二●三○四○五●六●七●八○九三十●十一○十二●十三○十四○十五○十六○十七○十八○十九●廿○廿一●廿二●廿三○廿四●廿五●廿六●廿七○廿八○廿九○晦○

△七月一○二○三●四●五●六○七●八●九○十●十一○十二○十一三○十四○十五●十六●十七○十八●十九●廿●廿一●廿二●廿三●廿四●廿五●廿六●廿七●廿八●廿九●晦●

△八月一●二●三●四○五●六●七○八●九○十○十一○十二○十三●十四●十五●十六●十七●十八●十九○廿○廿一○廿二○廿三●廿四○廿五●廿六●廿七○廿八●廿九●晦●

△九月一○二●三●四○五●六○七○八○九○十●十一●十二●十三○十四○十五○十六○十七○十八○十九●廿●廿一●廿二○廿三○廾四○廿五○廿六●廿七○廿八●廿九●晦○

△十月一○二●三●四○五●六○七○八○九○十●十一●十二●十三○十四○十五○十六○十七○十八○十九●廿●廿一●廿二○廿三○廿四○廿五○廿六●廿七○廿八●廾九●喉○

△十一月一○二○三○四●五●六●七○八○九○十●十一●十二○十三○十四○十五○十六○十●七十八○十九○廿●廿一●廿二○廿三○廿四○廿五●廿六●廿七●廿八●廿九○晦●

△十二月一○二●三●四●五○六○七○八●九●十○十一○十二●十三○十四●十五●十六●十七● 十八○十九●廿○廿一○廿二廿三●廿四○廿五○廿六○廿七●廿八●廿九○晦○

    八方懸之事  信州先方小笠原源与斎

△子日戊の方 △丑日申の方 △寅日巳の方 △卯日は寅の方 △辰日戌の方 △巳日申の方 △午日巳の方 △未日寅の方 △申日亥の方 △酉日申の方 △戌日巳の方 △亥日は大形無

義経公御歌には

  時と日は味方よければ敵もよし、たゝ肝要は方角をとれ

   軍備へにて勝利の本の事

義経の歌に「百人を十所に置く備へこそ千の敵にも切かつときけ 謙信公備へは先衆七手組一手に七備へづゝ四十九備へ也、理義多し口伝  備へをたてやうは、八ツ伍よりはじまる口伝

  足軽も段々に居て替るべし只肝要は備へなりけり

右の通信玄公御用ありたる儀を、能々御用なされ尤もに候然れ共信玄公と、敵方にても謙信とは、弓矢大形一ツに候、此大将にても謙信とは弓矢をつよく取給ふ儀をば御真似有間敷候、是れは両大将ながらよの常の儀にあらず、御戒力を以てあそばされ候、勝頼公はつよみをさしをかれ時にあたる名大将の大身或ひは大形の大将成共、大身へちかより、降参なされ候はゞ、武田の御家は長久に可之候、御家さへ長久に候はゞ勝頼公当年三十二歳出る日のごとくに御座候間、以来は何程の国を切取給はんも不存候、十ケ国と国を御持候へば、跡の諸方へつくろひたる事、悪しくて比興なる事は、誰も申さず候てさたもなくなり申候、信長眼前の儀に候、かならず此理をば工夫肝要なり、仍如

   信玄公御若き時より人御使ひ被成様之事

オープンアクセス NDLJP:241人を試み給ふに、先甲州の内にても、川よけ普請其外御鷹野などにて在郷扨ては山に竹木大小の有をよく覚へなされて夫をしろしめされざる様に、人々に尋ね給ふ各の中に委しく見覚へて申上候者の候其所を度々見たるか、又御供の時計りにて見覚へたるかと重ねて度々御尋ね有て、左様の儀幾度もかさなりて申人を、他国へ検使に差越境ゐ目などのもやうを見せ給ふ、或ひはくどく物を御尋ねあり其人の心をくみとりなさるここと常の儀なり其様子はたとへば御前衆親の煩ひなどあれば、彼煩ひ申候様子を委しく問ひ給ひ其者の親に孝不孝をしろしめさるゝを諸人は不存して信玄公くせにて一ツ事を幾度も御問ひ有と申つるはひがごとなり其儀に能々思案工夫していたるべきなり、古人のいはく金以火試、人以言試〈[#底本では2つの返り点「レ」がいずれも名詞の下]〉

右のごとく試み給ひて、又其上御傍ちかきおく近習の内にて無二無三に御屋形御用にたち申べく候と存るわかものを御覧じ付、六人ゑらび出し耳聞と思召し定められ、諸人又は他国より来る新参衆の手柄の虚実を聞究め或は手柄有ても、うそをつねに申人か傍輩によき近付有に、無頼も数者が大身衆出頭ばかりに、慇懃にて諸傍輩に慮外成人か、酒をすごして酔狂をする人か、惣じて諸人に腹をたゝするやうにする人か武具万事無嗜みの人か、分限にて諸道具能嗜みても弓矢に心を入ざる武道無心懸の人か一切の善悪を申上よと、被仰付人六人は、曽根孫二郎、金丸平八郎、三枝勘解由左衛門、真田源五郎、三枝新十郎、曽根与市の助是なり此内金九平八郎を後ち土屋右衛門、真田源五郎を武藤喜兵衛と申すは勝頼公御代長篠合戦に兄両人源太左衛門、兵部の介討死候て、其跡を被下真田阿波守と此比申す曽根孫二郎は内匠と申す、三枝勘解由左衛門は長篠にて討死いづれも弓矢鍛錬はおほへの武士にもおとらぬ人々なるが、信玄公御そばちかく召つかはれ、万づ御出語を承り覚へたる故なり、古人のいはく、花中鶯舌不シテ花香、如

信玄公は他国の大将衆物いはれたる事、或ひは万づ其作法聞給ひ、戦此方の勝利をなさるべき、思案工夫専らあそばす故、永禄元年午の春越後謙信、さい川雪白水にて、大きに出たるに無理に謙信馬を乗込人数をころし、しかもよき侍おほへの武士川にて死候て、謙信も馬をのりはなち、流れたる大木に取つきやうくがへあがり給ふをきこしめし、信玄公御批判に、謙信弓矢には無類の侍なれ共分別なき故、至りては臆病の道理也、子細は出たる大河へのりこむ程ならばそこにて死したるこそ尤もなれ馬を乗はなし、あがるほどならば出たる河をば待候て河の落たる時渡り候て然るべき儀なり、但し謙信たけき武士故我被官にも何の道にてなりとも、たけくみられんとの儀にてもあるへく候、それとてもいらざるつよみは国を持者の非義なり、然れ共謙信未だ三十歳にたらざる者故如此と信玄公仰らるゝなり

右耳聞六人の外、御目付衆十人は御中間頭十騎なり其横目十人二十人衆、頭衆、十騎也筋奉行十人も右の御中間頭十騎なり如

   此比の大将衆弓矢取様之事

北条氏康公は、名大将にて度々の軍に勝利を得給ふ中に、夜軍にて管領上杉の大敵に一しほつけ、終に則政にきりかち追うしなひ、関東をきり随へ被成候へば北条家の弓矢は敵の油断を肝要に目を付る也

越後の謙信は後の負にもかまはずさしかゝりたる合戦を、まはすまじきと有は、右の出川を無理に渡り給ふ仕かたなり殊更相手がましき敵には、何時も退口あらく有事、加賀越中或ひは関東碓氷などまで敗軍有つるといへども、信玄公にあひ給ひては、無二に仕懸申され候なり

織田信長は、巻たる城を、巻ほぐしてのき、堺ひ目の小城いくつせり落されても不苦追くづされて我人数を追討にうたれねば、世間の取さたはなきものなればむづかしき所をばいそぎ引入、頓て出て国を多く取りて持、大身に成ては終に其名は高き物也と有儀なり以上

信玄公は、軍にけがのなき様に、敵をみて退口のあらくなきやうに、巻たる城を敵の後詰をみて巻ほぐし、のかぬやうに出陣前にならしを能して出、惣じて我領分の小城を一ツもとられざるやうに跡の勝利を水にせぬやうにさへあれば、末代迄名は残る者、也扨又国を多く治める事は其身の果報有て少しもけがなくして名を取りて、寿命長ければ終に扶桑六十余州の主共成べきと仰らるゝ也、信玄公の作法は御小旗の文字に書給ふ、四ケ条のごとくなり、其古語者其疾如風、其静如林、侵掠如火、不動如山、天上天下唯我独尊

オープンアクセス NDLJP:242  軍場にての様子、三ケ条は

侍大将馬そへの者持三色は、うちかひ又は馬のいきあひ、水入筒腰に指也  軍場にて、とはつく人きらひ申候、備へなり候てあしきなり、歌にいはく

 軍兵は物いはずして大将の、下知聞時ぞいくさにはかつ

 軍兵は団扇とりぬる人の只詞を聞てとにもかくにも

軍法に背き、一二人にても出る者あらば必ず御成敗可有候、味方負の本也、義経公の歌に云く「懸引に独計を頼みなば只闇の夜の飛礫つふてなるべし」右六人耳聞は諸奉公人の内にて奇麗ずきか、人あひ能者か作法しりたる者か、うちはものか、出者か慇懃者か乱舞仕る人か、武芸する人か物かく人か、算竿よき人か此人柄を屋形の御存知ありて、それに物を被仰付へきためなり、但し傍輩の足本を見る奉公人はいたつて主君の御用にもたゝざるものなり

   過銭の事

高坂弾正存生の時定置候、諸奉公人のとがせんさく被成、御ゆるしの時過銭其分領によつて出ず事あり、法職へあがり御中間、御小人、或ひは新衆などの給分になる又御陣にての過銭をば、目付横目衆改め取て御武者奉行御旗奉行へ上る、是も御中間、御小人、御道具衆も給る、扨又侍衆我所領の百姓年貢諸役等に付て、悪き儀有は過銭を以て地頭へ詫言可仕候但し御国法相背く者は、大方の科にて免し過銭出し候はゞ是も御職へ差上べく候、必ず私し有べからざるものなり、如

  天正五丁丑年十二月吉日 高坂弾正書也