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王亥
 
 
 殷虚書契に見えたる王亥
 

 羅叔言氏の般虚書契考釈に王亥の名あることを指摘すること二。(一百五葉、一百六葉)一は之を祭るに四十牛を用ゐたることを記し、〈股虚書契前編巻四第八葉〉一は祭る時性を用ゐるに燎したることを記せる者なり。〈同上巻一第四十九葉〉いづれも殷人の祭れる祖先中、重要なる人たることを知るに足る者なるが王静安は之に就きて、甞て余に語るに其の即ち史記殷本紀に見ゆる「振」なること、及び竹書紀年に見ゆる殷侯子亥呂氏春秋に見ゆる王氷なることを以てしたり。余は当時王静安が説の詳細を問ふに遑あらざりしも、其後支那上古史に就きて少しく研究する所あるに際し、静安が説を思ひ出でゝ尋繹の余、粗ば頭緒を得たれば、試みに此の一篇を草することゝなりぬ。但だ王静安は今滬上に赴きて、此に在らざれば、就て正すに由なきを遺憾とするのみ。

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 王亥の名に就て
 
 史記には殷の祖契の事を叙し畢りたる後に

契卒。子昭明立。昭明卒。子相土立。相土卒。子昌若立。昌若卒。子曹囲立。曹囲卒。子冥立。冥卒。子振立。振卒。子微立。

とあり、微の六世の孫を湯とせり、梁玉縄の史記志疑には微より湯に至る世代に異論あれども、今及ぶに遑あらず。此の振に就きて索隠に系本作核とあり、系本とは即ち世本にして、唐太宗の諱を避けて系本と呼べるなり。漢書古今人表には上中に高あり、高は即ち契の異字なり。〈古今人表は上古より以来の人物を上上より下下に至る九等に分ちて表を立てたるなり〉上下に昭明高子とあり、相土昭明子とあり、中中に昌若相土子とあり、又根囲昌若子とあり中上に冥根囲子とあり、又垓冥子とあり、微垓子とあり。即ち史記の曹囲を根囲とし、索隠の核を垓とせるの差のみにて、他は世系継承の次序も尽く相合へり。但だ礼記祭法の鄭玄注には冥契六世之孫也とあり、其の疏には按世本契生昭明。昭明生相土。相土生昌若。昌若生曹囲。曹囲生根国。根国生冥。とありて、史記には根国一世を脱したるが如く、漢書は曹囲と根国を合せて一世としたるが如くなるも、索隠には又曹囲に注して系本作粮囲といひ、根と粮とは字形相近ければ、史記、漢書は自から祭法注疏とは拠る所を異にしたるが如くも見ゆ。要するに一世の差を除けば各書共に一致するより推すに、契の子孫に核又は垓といへる一世あることは明らかなり。

 今本竹書紀年、夏の帝杼十三年に商候冥死于河の事あり、帝芒三十三年に商候遷于殷の事あり、帝泄十二年に殷侯子亥賓于有易有易殺而放之の事あり十六年に殷侯微以河伯之師伐有易。殺其君綿臣の事あり。原注に殷侯子亥賓于有易而淫焉。有易之君綿臣殺而放之。故殷上甲微仮師于河伯以伐有易滅之。殺其君綿臣。云々とあり。冥の死より子亥の死に至るまで、百十八年を数ふべく、一代の年数として長きに過ぐるも、今本紀年は固より其年数を信ずべき書にあらねば独り其の世系を考ふる時は、史記索隠、漢書人表の核、垓が即ち紀年の殷侯子亥なることを知るべし。

 山海経大荒東経に

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有困民国。勾姓而食。有人曰王亥。両手操鳥。方食共頭。王亥託于有易河伯僕牛。有易殺王亥取僕牛。

とあり。郭璞注に云く

竹書曰。殷王子亥賓于有易而淫焉。有易之君県臣殺而放之。是故般主甲微仮師于河伯以伐有易滅之。遂殺其君県臣也。〈此は黄晟の刊本、畢沅の校注本、郝懿行の箋疏本等による。明の王崇慶釈義本には殷主甲微を殷王甲黴に作る〉

 今の竹書紀年の注は或は此の山海経郭注より剽取せしやも知れずと思はるゝ程なれば、寧ろ郭注の引く所を以て竹書の原文に近き者とすべし。然るに此には又殷王子亥とあり。山海経本文の王亥といへるに合せ考ふるに、又史記漢書の核、垓が山海経本文の王亥郭注所引の竹書の殷王子亥なること疑なければ王静安が殷虚書契の王亥を以て、史記の振、竹書紀年の般侯子亥なりとせるは、蓋し此が為なるべし。

 
 夏殷人の名白虎通の謬説
 
 史記の子微立の下索隠に

皇甫謐云微字上甲。其母以甲日生故也。商家生子以日為名。蓋自微始。譙周以為死称廟主曰甲也。

此の皇甫謐の説は白虎通に本づくが如し。白虎通に曰く

殷以生日名子何。殷家質。故直以生日名子也。以尚書道殷家太甲、帝乙、武丁也。于民臣亦得以甲乙生日名子何。不使亦不止也。以尚書道殷臣有巫威有祖己也。何以知諸侯不象王者以生日名子也。以太王名亶甫、王季名歴。此殷之諸侯也。易曰帝乙。謂成湯。書曰帝乙。謂六代孫也。湯生於夏時。何以用甲乙為名。曰湯王後乃更変名。子孫法耳。本名履。故論語曰。予小子履。履湯名也。不以子丑為名何。曰甲乙者幹也。子丑者枝也。幹者本。本質。故以甲乙為名也[1]

 白虎通の説は一、殷に於ては帝王が生日の甲乙を以て子に名づくること、二、臣民も同じく甲乙を以て名とすること、〈例に巫咸とあるは、王引之の経義述聞に尚書の古文は咸となせども、今文には蓋し威を戊に作れるならんといへり。〉三、殷代の諸侯は甲乙を以て名とせざること、四、湯は夏の時に生れたるに天乙の名あるは、オープンアクセスNDLJP:189 王となりて後に名を変へたること、五、子丑を以て名とせざることを明言せる者なれども、皇甫謐は上甲微が甲を名とせること、上甲微の後、報丁、報乙、報丙主壬、主癸、皆、甲乙を名とせることを見て、白虎通の説の誤れるを発見し、十干を用ゐることは微より始まるとせしならん。然るに白虎通の説は其の五項中、第一第二の外は皆信ずるに足らず。第五の子丑を名とせずとの説は王亥の例にて其の誤たること明かなるのみならず、殷虚書契にも、寅父、娥卯等幾多の例あり。第四の湯の本名履なりしも、王となりて後十干の名に変へたりとの説も亦謬れり。元来古代に於ては、夏殷人ともに十干、十二支を以て名とせるなり。夏の桀は名を履癸といひ、其曽祖は帝孔甲なり。是れ夏人も亦十干を用ゐたる例にして、若し太康、仲康、少康の康字は古代に於て、庚字と通用せることを認めば、更に其の例を古く且つ広くすることを得べし。殷虚書契には又妣乙といへる名ありて、其の祭は最も重んぜられたることを徴知すべきよし羅叔言の語る所なり。契の母簡狄が玄鳥即ち乙鳥の堕せる卵に感じて娠めることを伝ふれば、妣乙は或は簡秋にはあらずやと疑はる。若し然らば殷人は開闢と共に干支を名とすることありしなり。但だ其の父祖、其他の字を加へざるに就きては、羅氏は左の如く解したり。

商家以日為名。殆即取十幹或十二枝一字為之。不復加他字。金文中毎有日甲日乙等是也。而帝王之名。称大甲小甲大乙小乙大丁中丁者。殆後来加之以示別。蓋有商一代帝王。就史記所載三十人中。以甲名者六。以乙名者五。以丁名者六。以庚名者四。以辛名者四。以壬名者二。惟以丙与戊己名者僅一帝耳。使不加字。後来史家記事。無以別為何代何帝矣。然在嗣位之君。則承父者運称其所生為父某。承兄者運称其所先者為兄某。則当時已自了然。

此説は甚だ確なり。但だ其の区別の為に大小父祖等の字を加ふる外に、又一種の本名ありしことは、白虎通の説も棄つべからず、上甲微の如きは、甲は十干名、上は区別の為に加へたる字、微は本名なりとすることを得。梁玉縄の史記志疑には、湯の天乙名は履、紂の帝辛名は受をも此例としたり。因りて夏殷人の名につきては、左の如き論断を下したく思ふ。

、夏殷人は皆生日の干支を以て名とし、父子祖孫の同名を嫌はざれども、之を区別するが為に字を加へたり。〈夏の孔甲、履癸も其の例とすべし。〉

オープンアクセスNDLJP:190 、干支によれる名は、主として廟に於て祭の為に用ゐられたり。之に就ては殷本紀の索隠に引ける誰周の説も取るべき所あり。〈蓋し其著古史考に載せたる説ならん。譙周は又夏殷の礼生称王。死称国主。皆以帝名配之といひしこと素隠に見ゆ。〉或は廟に於て祭る時、其の死日を用ゐずして、其の生日を用ゐしならん。

、干支の名は廟に於て用ゐらるゝが故に、其外の本名の如き者も亦之ありしことを想像し得べし。王亥以前の殷人の名、夏代の帝王の名の如きは、或は其の廟号已に失はれて、其の本名のみ存せしにはあらざるか。殷代の臣名にても伊尹、甘盤、巫賢、伝説微子啓、王子比干の若きは其の例なり。

、古公亶父、季歴等の名に干支を用ゐざるは、或は夏殷人は共に黄河の下流に住せる同一民族なるも、周人は渭水の上流に住せし異種族なりしによる者ならん[2]

、王亥は十二支を用ゐし名として知らるゝ最古の者にて、妣乙の簡狄たることは、姑らく疑問とするも、皇甫謐が上甲微を以て商家に日を以て名と為すの始とせるの然らざることを知るべし。

、成湯といへる名につきては、梁玉縄は成周と同じく地を以て号と為せるにて、名に非ずと為せり、従ふべし。但し成とは城郭の義にして城ある邑を特称せるならん。

 殷虚より発見せらるゝ亀版は皆卜の用を為したる者にして、其帝王の名も亦之を祭らんが為に、其牲数等を卜せる者なれば、其名ある者必ず古其人ありと信ぜられし者なるべし。されば湯の祖先たる王亥は姑らく殷人の記録に存せる最古の人と為すことを得べし。若し更に研究の結果契より冥に至る人々の廟号を知り得るに至らば、古代史の光明は更に加へらるべし。

 
 作者としての王亥
 
 前に巳に引ける竹書紀年、並に山海経には皆僕牛といへる語あり、郭璞は河伯と共に皆人の姓名なりと釈したれども、然らざるが如し。周礼、礼記等の正義によれば、世本には本と作篇ありて、古来文明の利器を制作せる人々の名を列挙せり。中

オープンアクセスNDLJP:191   胲作服牛〈初学記、太平御覧其他に引く所による〉

の句ありて、注には胲黄帝臣也。能駕牛とあり。然るに御覧には又世本を引きて少昊時人。始駕牛ともあり。古史の時代は確実なる者なければ、必ずしも拘はらずして可なり。呂氏春秋勿躬、篇、始めて利器を作りし二十官の中に王氷作服牛の句あり、王静安は氷は形似を以て亥の字を訛りしなりとせり。楚辞天問には、該秉季徳。厭父是減の句あり、又別に恒秉季徳。焉得夫朴牛の句ありて、両処に出づれども、或は一事を説きし者ならんとの疑あり、恒字は胲字の訛りなるべし。顔師古の漢書注には垓の字を骸と音したり。山海経の記事にも殺王亥僕牛の句あり。彼此参互して考ふるに、服牛、僕牛、朴牛ともに一語の転ぜしにて、王亥が始めて牛を駕御して耕作を為すことを発明せるを言へるなるべし。されば竹書及び山海経の中に存せる伝説は、

王亥が有易〈今の直隷の易州地方にありし国〉の国主並に河伯〈黄河の九河地方を領せし国主ならん〉の土地に客となりて、其の長処たる牧牛を為せしに、其の易国に賓たりし時、易主の妻に通じたるより、易主綿臣は王亥を殺して、其の畜牧せる多数の牛を奪ひたれば、王亥の子上甲微は師を河伯に仮りて有易を滅し、其君を殺して復讐したり。

といふに在るが如く、山海経には其下に河念有易、有易潜出為国于獣方食之。名曰揺民の文あれば其後河伯は又有易の旧好を思ひ、其国を回復して獣方に立てさせたりとの事なるべし。揺民とは都懿行の説にては、今の広西の猺民は疑ふらくは其類ならんといへり。王亥の祖先たる相土は、世本にては乗馬を作れる人として伝へられたれば、殷人が相土、王亥の如き伝説中の祖先を以て、牧畜時代の人と想像せしことを知るべく、是れ其高祖と想像する人に亀版に刻するの義を有する契字の名を負はせ、卜を尚ぶの風を見はしたると参照して、古代人の智識を推知すべし。

 
 殷人が有せる洪水伝説
 
 王亥の父たる冥に就きては、史記の集解に

  宋忠曰。冥為司空。勤其官事。死於水中。殷人郊之。

といひ、索隠には、

  礼記。曰冥勤其官而水死。般人祖契而郊冥也。

オープンアクセスNDLJP:192 といへり。礼記は祭法篇にして之と頗る類似するは国語なり。魯語に展禽の語を述べて、

昔烈山之氏有天下也。其子曰柱。能殖百穀百蔬。夏之興也。周棄継之。故祀以為稷。共工氏之伯九有也。其子曰后土。能平九土。故祀以為社。黄帝能成百物。以明民共財。韻項能修之。帝誉能序三辰以固民。尭能単均刑法以儀民。舜勤民事而野死。鲧郭洪水而殛死。禹能以徳修鲧之功。〈[#「鲧」は底本では「鮌」]〉契為司徒而民輯。冥勤其官而水死。湯以寛治民而除其邪。稷勤百穀而山死。文王以文昭。武王去民之穢。故有虞氏稀黄帝而祖顳項。郊尭而宗舜。夏后氏稀黄帝而祖顓頊。郊鯨而宗禹。商人稀舜而祖契。郊冥而宗湯。周人稀誉而郊稷。祖文王而宗武王。幕能帥韻項者也。有虞氏報焉。杼能帥禹者也。夏后氏報焉。上甲微能帥契者也商人報焉。高囲大王能帥稷者也。周人報焉。

冥勤其官而水死。の句、韋昭の解に、冥契後六世孫。根囲子也。為夏水官。勤於其職而死於水也とあり。祭法には烈山氏を厲山氏とし、柱を農とし夏之興を夏之衰とし、其他の異同は大なる関係なきが故に録せず。有虞氏以下は祭法には、

有虞氏稀黄帝而郊誉。祖顳項而宗尭。夏后氏亦福黄帝而郊鲧。祖韻項而宗禹。般人稀畧而郊冥。祖契而宗湯。周人福誉而郊稷。祖文王而宗武王。

とあり。是を以て観れば、夏に在て舷と禹とが洪水の伝説に関係あるが如く殷人に在ては冥が洪水の伝説に関係あることを知るべし。竹書紀年には帝小康の十一年に

  使商侯冥治河

とあり、帝杼の十三年に

  商侯冥死于河

とあり。冥の治河を以て夏の中葉の事となせども、此等の伝説は固より夏の時に於て記録せられたるにあらず、夏人は其の滅亡後も、舷禹以来の伝説を保持し、殷人も同じく契若くは冥以来の伝説を保持し、共に有史以前の時代を経過せし者が、一旦記誦書契の発達に伴て、各自に歴史的自覚を生ぜし時、其伝説が結集し編成せられたるに過ぎざれば、舷万の洪水が前にして、冥の洪水が後なりとは決して断ずべからず。余は此の自覚を以て、書契の始めて発達せる殷代に在りと謂はんとす。オープンアクセスNDLJP:193  大和の朝廷が、其の以前に尾張、物部諸氏の祖神が中原を領せしことを知り、高勾麗の桂婁部が王たる時、其以前に涓奴部が王たりしことを知り、殷人が其以前に夏后氏ありしことを知るは、有り得べきことなり。三統の相代りて、夏后氏と殷人と截然として先後の区別ある如く記せしは、周人の諸誥より始まれるならん。然れども後の史家が夏般周の初祖をば、皆同一時代に並置せるは、夏殷の開闢の先後し難きによりて、晩出の周をも之に均霑せしめしなり。されば殷人が有せる冥の伝説を以て、夏人の有せる舷禹の伝説と、一神話の分化と見るも差支なきことなり。

 鄭玄は祭法に注して、冥契六世之孫也。其官玄冥。水官也。といへり。玄冥は春秋左伝、呂氏春秋の十二紀、淮南子の天文訓等に従へば、皆北方、水、冬を治むる神たるなり。其の五方の神の配当する所を示せば左の如し。

左伝五官  呂氏春秋十二紀  淮南子五星

木正句芒  春〈帝太皡神句芒〉  東方本〈帝太睥佐句芒〉

火正祝融  夏〈帝炎帝神祝融〉  南方火〈帝炎帝佐朱明〉

金正蓐収  秋〈帝少皡神蓐収〉  西方金〈帝少昊佐蓐収〉

水正玄冥  冬〈帝額頊神玄冥〉  北方水〈帝顔頊佐玄冥〉

土正后土             中央土〈帝黄帝佐后土〉

 此の如く殷の王亥の父たる冥が水神として五官に列することは、古来巳に伝ふる所なり。こゝに注意すべきは舷と禹となり、禹の名は史記其他によれば文命といふ。命の音は冥に近く、舷の字は県にも作り、鰥にも作れども、鲧に作れば玄に従ふ。故に父子の名を合すれば、亦玄冥と相近し。此れ舷禹の説と冥の説と、其の源同じからんと推せらるゝ一の理由なり。

 又山海経海外経の東西南北各篇の尾に、各方の神を記せる中に、

  北方禺彊。人面鳥身。珥両青蛇。践両青蛇。

 郭璞注に字玄冥。水神也。荘周曰。禺彊立於北極。一曰禺京。とあり。郝懿行は禺京玄冥声相近。越絶書云。玄冥治北方。白弁佐之。使主水。といひ、又尚書大伝、呂氏春秋高誘注を引き、玄冥即ち禺京、禺京即ち禺彊、京と彊と亦声相近しといへり。

 又大荒東経に、

オープンアクセスNDLJP:194   東海之渚中有神人。云々。名曰禺号。黄帝生禺号。禺号生禺京。

とあり。郭注禺京即禺彊也とあり。郝懿行は云はく、荘子釈文引此経云。北海之神。名曰禺彊。霊亀為之使。今経無此語。と

 又大荒北経に

  禺号子食穀北海之渚中。

とあり。郝懿行は禺号即禺号なりとせり。

 列子湯問篇にも亦帝が禺彊に命じ、巨鼇十五をして首を挙げて五山を戴かしむることあり、張湛注に神仙伝を引て北方之神。名曰禺彊、号曰玄冥子とあり。是れ禺蔵、禺京、禺彊、禺号、皆禺を以て名とし、其声禹に近し、亦鉉禹と玄冥と其源同じからんと推せらるゝ二の理由なり。以上の二の理由により夏人の舷、禹と殷人の冥と同一洪水伝説の分化なりと断ずるも不可なきに似たり。

 
 夏殷周伝説の略論
 
 但だ世本作篇に拠るも、夏后氏には鯀の城郭を作り、禹の宮室を作り、奚仲の車を作り、儀狄、杜康、少康の酒を造り、少康の箕帯を作り、杼の甲を作り、逢蒙の射を作る等の事ありて、射猟生活の跡を窺ふべきも、畜牧、農耕に関することは、孔甲の時劉累が豢龍氏〈龍は爾雅に所謂馬八尺を龍と為すの義なり〉たること、史記其他に見えたる外甚だ乏しければ、相土の乗馬、王亥の服牛等を主とせる殷人よりも、其生活の原始的なりしを想はしめ、殊に書契に関すること、又世本にいふ所湯の五祀を作れることは、殷人の文化が進歩せるを証する者と謂ふべし。周人の若きは始めより洪水の伝説を有せず、后稷は巳に農耕の神として祀られ其他公劉に関する伝説が、全く農耕に関する者なること、大王以前の歴代中、皇僕、高囲、亜囲等の名が畜牧に関する等、皆其の開国の夏殷に比して晩きを証すべし。其の皇僕、高圉、亜圉等が后稷、公劉の後に列せらるゝは、殷に於て畜牧に関係ある相土曹囲が冥の前に列せらるゝ如く、晩出の伝説が毎に旧伝の説より前に置かるゝ古伝説に有り勝なる事情によるなるべし。

(大正五年七月芸文第七年第七号)


  附註

  1. 白虎通の文は陳立の疏証に校訂せしものに拠る
  2. 史記の斉太公世家によれば、斉の初期の諸侯に丁公、乙公、癸公あり、此時未だ証号あらざれば、猶ほ生日を以て名とせしなるべし。又万攸从黒の銘文中に皇祖丁公あり、王静安の通教跋に引ける献侯囂尊に丁侯あり。然れば周初には、諸侯が生日を以て名とせし者ありしこと明かなるに、殷代に然らざりしとの白虎通の説は拠るに足らず。周家の生日を以て名とせざるも、見存の書にのみ拠りて決し難き者あるべし。

(昭和三年十二月記)

 
 

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