「半七捕物帳 第一巻/海坊主」の版間の差分

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:「むむ、そんな話が去年もあったな。おめえは知らねえか」
:「知りませんね」と、幸次郎は首をかしげた。「やっぱりそんな話ですかえ」
:「まあ、そうだ。なんでもそれは{{r|麻布|あざぶ}}辺の奴らだ。町人が三、四人で品川へ夜網に行くと、海のなかから散らし髪の男がひょっくり浮き出したので、船の者はびっくりしていると、その男はいきなり船に飛び込んで来て、なにかを食わせろと云うんだ」
:「へえ、よく似ていますね」と、幸次郎は不思議そうに眼を見はった。「それからどうしましたえ」
:「こっちは{{r|呆気|あっけ}}にとられているから、なんでも相手の云うなり次第さ。船に持ち込んでいる酒と弁当を出してやると、息もつかずに飲んで食って、また海のなかへはいってしまったそうだ」
:「まるで{{r|河童|かっぱ}}か海坊主のような奴ですね。そうすると、ゆうべの奴もやっぱりそれでしょうよ」
:「きっとそれだ」と、半七は云った。「いくら広い世のなかだって、そんな変な奴が幾人もいるわけのものじゃあねえ。きっとおなじ奴に相違ねえ。このあいだの潮干狩に出て来た奴もやっぱりそれだろう。だが、妙な奴だな。人間の癖に水のなかに棲んでいて、時々に{{r||おか}}や船にあがってくる。まったく河童の親類のような奴だ。{{r|葛西|かさい}}{{r|源兵衛堀|げんべえぼり}}でも探してみるかな」
:「ちげえねえ」と、幸次郎も笑った。
:この頃、顔やからだを真っ黒に塗って、なまの{{r|胡瓜|きゅうり}}をかじりながら、「わたしゃ葛西の源兵衛堀、かっぱの倅でござります」と、唄ってくる一種の乞食があった。したがって河童といえば生の胡瓜を食うもの、河童の{{r|棲家|すみか}}といえば源兵衛堀にあるというように、一般の人から冗談半分に伝えられて、中にはほんとうにそれを信じている者もあったらしい。半七は笑いながら又訊いた。
:「ゆうべの奴は匕首のようなものを出したと云ったな」
:「そうです。なんでも光るものを船頭の眼のさきへ突き付けたそうですよ」
:「いよいよ変な奴だな。そんな奴を打っちゃって置くと、世間の為にならねえ。しまいには何を{{r|仕出来|しでか}}すか知れねえ。おれもよく考えて置こう。おめえも気をつけてくれ」
:幸次郎を帰したあとで、半七はいろいろに考えた。幸次郎の報告で、ゆうべの出来事も大抵は判っているものの、念のためにもう一度、その船頭の千八に逢ってくわしい話を聴いたらば、又なにかの手がかりを探り出すことがないとも限らない。半七は{{r||}}って窓をあけると、一旦晴れそうになった今朝の空もまた薄暗く{{r||くも}}って来た。
:「しようがねえな」
:舌打ちしながら半七は神田の家を出ると、横町の角でわかい男に逢った。男は{{r|築地|つきじ}}の山石の船頭清次であった。
:「親分さん。お早うございます」
:「やあ、清公。どこへ行く」
:「おまえさんの{{r||うち}}へ……。丁度いいところで逢いました」と清次はすり寄って来てささやいた。「実はね、このごろは毎日天気が悪いので、商売の方もあんまり忙がしくないもんですから、きのうの午ずぎに{{r|小梅|こうめ}}の友達のところへ遊びに出かけました。すると、その途中でひとりの女に逢ったんですよ。その女は近所の湯から帰って来たとみえて、七つ道具を持って{{r||じゃ}}{{r||}}の傘をさしてくる。どうも見おぼえのある女だと思って、すれちがいながら傘のなかを覗いてみると、それがね、親分さん。それ、いつかの{{r|潮干|しおひ}}の時の女なんですよ」
:半七は無言でうなずくと、清次は左右を見かえりながら話しつづけた。
:「こいつ、見逃しちゃあいけねえと思ったから、わっしはそっとその女のあとをつけて行くと、それから小半町ばかり云行ったところに瓦屋がある。そのとなりの{{r|生垣|いけがき}}のある家へはいったのを確かに見とどけたから、それとなく近所で訊いてみると、その女は'''{{傍点|おとわ'''}}といって深川辺の旦那を持っているんだそうです。なるほど、庭の手入れなんどもよく行きとどいていて、ちょいと小奇麗に暮らしているようでした」
:「そうか」と、半七は笑いながら又うなずいた。「それは御苦労、よく働いてくれた。その女は三十ぐらいだと云ったっけな」
:「ちょいと見ると、二十七八ぐらいには化かすんだけれども、もう三十か、ひょっとすると一つや二つは{{r||つら}}に出しているかも知れません。{{r|小股|こまた}}の切れあがった。垢ぬけのした女で、生まれは{{r|堅気|かたぎ}}じゃありませんね」
:「判った。わかった。路の悪いのによく知らせに来てくれた。いずれお礼はするよ」
:清次に別れて半七は往来に突っ立って少しかんがえた。清次が乗せた潮干狩の客は、かの怪しい男となにかの関係があるらしい。現にそのひとりの女は颶風の最中に彼と話していたらしいという。かたがたこの潮干狩の一と組を詮索すれば、自然に彼の正体もわかるに相違ない。これは神田川へ行って千八を詮議するよりも、まず小梅へ出張ってその方をよく突き留めるのが近道らしい。こう思案して、半七はまっすぐに小梅へゆくことにした。陰るかと思った空は又うす明るくなって、{{r|厩橋|うまやばし}}の渡しを越えることには濁った大川の水もひかって来た。
:「傘はお荷物かな」
:半七はまた舌打ちをしながら、向う河岸へ渡ってゆくと、その頃の小梅の{{r||なか}}{{r||ごう}}のあたりは、{{r|為永春水|ためながしゅんすい}}の『{{r|梅暦|うめごよみ}}』に描かれた世界と多く変らなかった。{{r|征木|まさぎ}}の生垣を取りまわした人家がまばらにつづいて、そこらの田や池では雨をよぶような蛙の声がそうぞうしく聞えた。{{r|日和|ひより}}下駄の歯を吸い込まれるような{{r|泥濘|ぬかるみ}}を一と足ぬきにたどりながら、半七は清次に教えられた瓦屋のまえまで行きついた。
:となりと云っても、そのあいだにかなりの{{r|空地|あきち}}があって、そこには古い井戸がみえた。井戸のそばには大きい{{r|紫陽花|あじさい}}が咲いていた。半七はその井戸をちょっと覗いて、それから生垣越しに隣りをうかがうと、おとわという女の家はさのみ広くもないらしいが、なるほど清次の云った通り、ここらとしては小奇麗に出来ているらしい造作で、そこの庭にも紫陽花がしげっていた。
:「しようがないねえ。また庭の先へ骨をほうり出して置いて……。お{{r|千代|ちよ}}や。{{r|掃溜|はきだ}}めへ持って行って捨てて来ておくれよ」
:縁先で女の声がきこえたかと思うと、女中らしい若い女が{{r||ほうき}}{{r||ごみ}}取りを持って庭へ出て来て、魚の骨らしいものをかき集めているらしかった。犬か猫が食いちらしたのかと思ったが、半七は別に思いあたることがあるので、ぬき足をして裏口へまわってゆくと、女中はその骨のようなものを掃溜めへなげ込んで、すぐに台所へはいった。
:半七はそっと掃溜めをのぞいてみると、魚の骨はみな生魚であるらしかった。犬や猫がこんなに綺麗に生魚を食ってしまうのは珍らしい。更に注意して窺うと、掃溜めの底にはやはり生魚の骨らしいのが重なっていた。
:半七は引っ返して元の井戸ばたへ来ると、瓦屋の女房らしい女が洗濯物をかかえて出て来たので、道を訊くような風をして{{r|如才|じょさい}}なく話しかけて、となりの家ではどこの魚屋から魚を買っているかということを半七は聞き出した。それは半町ほど離れた魚虎という店で、ちょっとした料理も出来ると女房は口軽に話しかけた。
:魚虎へ行って、半七は更にこんなことを聞き出した。おとわの家はお千代という女中と二人暮らしで、深川の木場の番頭を旦那にしているということで、なかなか贅沢に暮らしているらしい。旦那が来た時には、いつもで{{r|三種|みしな}}{{r|四種|よしな}}の仕出しを取る。そのあいだにも毎日なにかの魚を買うが、三月の末頃から生魚の買物が多い。別人もふえた様子はないが、たしかに買物は多くなった。犬や猫は一匹も飼っていない。これだけのことが判って、半七の{{r||はら}}のなかには此の事件に対するひと通りの筋道が立った。
 
=== 四 ===