半七捕物帳 第一巻/海坊主

海坊主うみぼうず 編集

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「残念、残念。あなたは運がわるい。ゆうべ来ると大変に御馳走があったんですよ」と半七老人は笑った。
それは四月なかばのうららかに晴れた日であった。
「まったく残念でした。どうしてそんなに御馳走があったんです」と、わたしも笑いながらいた。
「と云って、おどかしただけで、実はさんざんのていで引き揚げて来たんですよ。浅蜊あさりッ貝を小一升と、木葉こっぱのようなかれいを三枚、それでずぶ濡れになっちゃあ魚屋さかなやも商売になりませんや。ははははは」
よく訊いてみると、きのうは旧暦の三月三日で大潮おおしおにあたるというので、老人は近所の人たちに誘われて、ひさしぶりで品川しながわ潮干狩しおひがりに出かけると、花どきの癖でひるから俄か雨がふり出して来た。船へ逃げ込んで晴れ間を持ちあわせていたが、容易に晴れるどころか、ますます強降りになって来るらしいので、とうとう諦めて帰ってくると、意地のわるい雨は夕方から晴れて、きょうはこんな好天気になった。なにしろ前に云ったような獲物だからお話にならない。浅蜊はとなりの家へやって、鰈は老婢ばあやとふたりで煮て食ってしったというのであった。
昨日の不出来は例外であるが、一体に近年はお台場の獲物がひどく少なくなったらしいと老人は云った。それからだんだんと枝がさいて、次のような話が出た。


安政あんせい二年三月四日の午過ひるすぎに、不思議な人間が品川沖にあらわれた。
この年は三月三日の節句に小雨が降ったので、江戸では年中行事の一つにかぞえられているくらいの潮干狩があくる日の四日に延ばされた。きょうは朝から日本晴れという日和ひよりであったので、品川の海には潮干狩の伝馬でんま荷足船にたりぶねがおびただしく漕ぎ出した。なかには屋根船で乗り込んでくるものもあった。安房あわ上総かずさの山々を背景にして、見果てもない一大遊園地と化した海の上には、大勢の男や女や子供たちが晴れた日光にかがやく砂を踏んで、はまぐりや浅蜊の獲物をあさるのに忙がしかった。
かれらの多くは時刻の移るのを忘れていたので、午飯ひるめしを食いかかるのが遅かった。ある者は船に帰って、家から用意してきた弁当の重詰をひらくのもあった。ある者は獲物のはまぐりの砂を吐かせる間もなしに直ぐに吸物にして味わうにもあった。ある者は貝のほかに小さい鰈やこちをつかんだのを誇りにして、煮たり焼いたりして賞翫しょうがんするのもあった。砂のうえに毛氈もうせん薄縁うすべりをしいて、にぎり飯や海苔巻のりまきすしを頰張っているのもあった。彼等はあたたかい潮風に吹かれながら、飲む、食う、しゃべる、笑うのに余念もなかった。
その歓楽の最中であった。ひとりの奇怪な人物が影のようにあらわれて来たのであった。勿論、どこから出て来たのか知れなかったが、かれは年のころ四十前後であるらしく、髪の毛をおどろに長くのばして、その人相もよくわからない。顔のなかから鋭い眼玉ばかりが爛々と光っていた。身には破れた古袷ふるあわせをきて、その上に新らしいみのをかさねて、手には海苔ヒビのような枯枝の杖を持って素足でぶらぶらと迷い歩いている。その風体ふうていがここらの漁師ともみえなかった。さりとて普通の宿無し乞食とも思われない。まずは気ちがいか、絵にかいてある仙人のたぐいかとも見られるので、彼の通る路々の人はいずれも眼をみはって見送っていた。こうして、不思議そうに見かえられ見送られながら、彼は一向平気で潮干の群れのあいだをさまよい歩いているので、若い女などは気味わるそうに人のかげに隠れるものもあった。船のなかへ逃げ込むのもあった。
しかしこの奇怪な男は、別に他人に対して何事をするでもないらしかった。さりとて諸人が遊びたわむれているのを見物してあるいているのでも無いらしかった。唯その鋭い眼をひからせて、なにを見るともなしに迷いあるいているだけのことであったが、そのうちに彼は職人らしい一群に取り囲まれた。酔っている職人のひとりは彼のまえに立ちふさがって、大きい猪口ちょこを突きつけた。
「おい、大将。頼む、一杯のんでくれ」
奇怪な男はにやにや笑いながら、無言でその猪口を受け取って、相手のついでくれた酒をひと息にぐっと飲みほした。
「やあ、馬鹿に飲みっぷりがいいぜ、もう一杯たのもう」と、ほかの一人が入れ代って猪口を突き出すと、かれは猶予なしにそれをも飲んでしまった。
それが一種の興をひいたらしく、ほかの群れから食いのこりの握り飯を持って来たものがあったが、彼はそれをも快くむしゃむしゃと食った。海苔巻のすしや塩せんべいや、なんでもかでも彼のまえに突き出されたものは忽ちにみんな彼の口のなかへはいってしまった。しかし彼は唯ときどきににやにや笑うばかりで、かつて一と言も云わなかった。なにを話しかけても、なにをいても、かれはつんぼうであるかのように、一切その返事をしなかった。かれは面白半分に職人から突き付けられた酒や食い物を、ただ黙って飲み食いしているだけであるので、まわりを取り巻いている人々も少しくきて来た。彼もさすがに満腹したらしく、勿論なんの挨拶もなしに、諸人の囲みをぬけて又ふらふらとあるき出した。
彼はそれから何処へ行ったか、別に詮議せんぎするものもなかった。どこの船でも午飯をすませて、再び潮干狩をつづけていると、やがて夕七ツ(午後四時)を過ぎたかと思うころに、かの男は又ふらふらとあらわれた。かれは誰に云うとも無しに、遠い沖の方を指さして叫んだ。
「潮がくる、潮がくる」
その声におどろかされて、ある人々はかれの指さす方向に眼をやったが、広い干潟ひがたに潮のよせてくるような景色はみえなかった。きょうの夕潮までにはまだ半刻はんときあまりの間があることは誰も知っていた。かれは高い空を指さして又叫んだ。
颶風はやてがくる。天狗が雲に乗ってくる」
今度かれが指さしたのは沖の方ではなかった。かれは反対におかの方角を仰いで、あたかも愛宕山あたごやまあたりの空を示しているのであった。この気ちがいじみた警告に対して、別に注意の耳をかたむける人も少なかったが、それでも品川の海に馴れている者は少しく不安を感じて、かれの指さす方角をみかえると、春の日のまだ暮れ切らない江戸の空は青々と晴れて鎮まっていた。
「颶風がくる」と、かれは又叫んだ。
天気晴朗な日でも品川の海には突然颶風を吹き起すことがある。船頭たちは無論それを知っているので、この奇怪な男の警告を笑って聞き流すわけには行かなかったが、そうした恐ろしい魔風を運び出して来るらしい雲の影はどこにも見えないので、かれらはやはり油断していると、男はつづけて叫んだ。
「潮が来る。颶風が来る」
かれの声はだんだんに激して来た。かれはいよいよ物狂おしいようになって、そこらじゅうを駈けまわって叫びあるいた。
「颶風が来る。潮がくる」
颶風が襲って来るのと、潮が満ちて来るのとは、別問題でなければならなかった。それを知っている者はやはり笑っていたが、彼は諸人の危急がいま目の前に迫っているかのように、片手に空を指さし、片手に沖を指さして、おどりあがって叫びつづけた。
「颶風がくる」
跳り狂って飛びまわっているうちに、彼は砂地の窪んだところへ足をふみ込んで、引き残った潮溜りのなかに横ざまに倒れた。倒れながらも彼はやはり其の叫び声をやめなかった。
「この気ちがいめ」
気の早い者は腹を立てて、そこらに転がっている貝殻をつかんで投げつけた。ある者は砂をつかんで浴びせかけた。それでも彼は口をとじなかった。貝殻がばらばらと飛んでくるうちに、その大きい一つが彼の額にあたって左の眉の上からなま血が流れ出したので、血に染み、砂にまぶれた彼の顔は物凄かった。かれはその眼をいよいよ光らせて、颶風と潮とを叫んだ。こうなると一方に気ちがい扱いにしていながらも、かれの警告に対して諸人の胸の奥に一種の不安が微かに湧き出して来た。女子供を多く連れている組では、そろそろ帰り支度に取りかかる者もあった。そのうちに或る船の船頭……それは老人で、さっきからの男と同じように、小手こてをかざして陸上の空を仰いでいたのであるが、俄かに突っ立ちあがって大声に呶鳴どなった。
「颶風だ、颶風だぞう。早く引きあげろよう」
海の上に生活している彼の声は大きかった。それが遠いところまでも響き渡って諸人の耳をおどろかした。愛宕山の上かと思われるあたりに、たったひとつかみほどの雲があらわれたのである。ほかの船頭共も俄かにさわぎ出した。かれらも声をそろえて、颶風だ颶風だと叫んで触れまわった。潮の退いている海ではあるが、それでも颶風の声は人々の胸を冷やした。遠いも近いも互いに呼びつれて、あわただしく自分たちの船へ引きあげようとする時、一陣のすさまじい風が突然に天から吹きおとして来た。黒い雲はちっとも動かないで、ゆう日の沈み切らない西の空はやはり明るく晴れているのであるが、海の上には眼に見えない風がごうごうと暴れ狂って、足弱あしよわな女子供はとても立ってはいられなくなった。ある者はよろめき、ある者は吹き倒されて、いずれも砂浜の上にうつ伏してしまった。船の軒にかけてあるほおずき提灯ちょうちんや、そこらに敷いてある毛氈や薄縁うすべりのたぐいは、何者かに引っ摑まれたように虚空こくう遥かに巻きあげられた。人々は悲鳴をあげてうろたえ騒いだ。
船頭どもは駈けまわって、めいめいが預かりの客をともかくも船のなかへ助け入れようとあせっているうちに、きょうはどうしたものか、予定の時刻より出潮でしおが少し早いらしく、砂地のそこからもここからも無数の蟹が群がったように白い泡をぶくぶく噴き出して来たので、船頭どもは又あわてた。
「潮がさして来る。潮が来る」と、かれらはつよい風と闘いながら叫びまわった。
颶風も幸いに長くなかった。しかし潮はだんだんに満ちてくるので、人々はいよいようろたえて船へ逃げあがった。死人は一人もなかったが、颶風は吹いて通るときに木の枝や何かを叩きつけられて、顔や手足に負傷した者もあった。吹き倒されて貝殻や石に傷つけられた者もあった。手拭などは吹き飛ばされて、男も女もみな散らし髪になってしまった。船にぬいで置いた上衣うわぎなどは大抵どこへか飛んで行った。男の紙入れ、女のかんざし、そんな紛失物はかぞえ切れなかった。
はまぐりや浅蜊の獲物も大抵捨てて帰った。命に別状のなかったのをせめてもの仕合わせにして、きょうの潮干狩の群れはさんざんの体でみな引き揚げた。

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めいめいの宿許やどもとへ引き揚げて、やれよかったと初めて落ちつくと共に、どの人の口にのぼったのもかの奇怪な人間の噂であった。その風体ふうていや挙動が奇怪であるのは云うまでもない、更に奇怪を感ぜしめたのは、彼が誰よりも先に颶風や潮を予報したことであった。老練の船頭すらもまだそれを発見し得ない間に、かれがどうして逸早いちはやくそれを予覚したのであろうか。はじめは気ちがいの囈言うわごとぐらいに聞きながしていた彼の警告が一々図星にあたっていたのである。人か神か、仙人か、諸人はその判断に迷った。
混乱の折柄で、彼がそれからどうしたか、どこへ行ってしまったか、誰もたしかに見とどけた者はなかったが、最後にここを引き揚げたのは、築地河岸つきじがしの船宿山石やまいしの船で、その船頭は清次という若い者であった。乗合いは男五人と女ひとりで、船には酒肴しゅこうをたくさん積み込んで、潮干狩は名ばかりで、大抵は船のなかで飲み暮らしていたが、午すぎになってから、船を出て、人真似に浅蜊などを少しばかり拾いはじめると、かの颶風に出逢って狼狽して、五人のうち二人は早々に船へ逃げ込んで来たが、ほかの三人と女とが戻って来ないので、ふたりは心配して又探しに出た。
清次も見ていられないので、一緒にそこらを探してあるいたが、何分にも風が烈しいので、叩きつけるような砂や小石を眼口めくちに打ち込まれて、度をうしなって暫く立ちすくんでいるうちに、ふたりの男のゆくえを見失ってしまった。やがて眼をあいて再びそこらを探しあるいていると、よほど離れた砂の上にひざまついて、ひとりの女がひとりの男と何か話しているらしいのを遠目に見た。女はどうやら自分の船の客らしいので、清次はもしもしと呼びながら近寄ろうとする時に、又もや颶風がどっと吹きおろして来たので、清次も堪まらなくなって砂地にうつ伏した。かれが頭をあげた時には、その女も男ももう見えなかった。船へ帰ると、五人の男もかの女客もいつの間には無事に戻っていた。
ただそれだけであれば、別に仔細もないが、その時かの女客と話していたらしい男が奇怪な人間の姿であったように清次の眼に映ったのである。混雑の場合でもあり、又そんなことを詮議すべきでもないので、清次はなんにも云わずに漕いで帰った。
そこでは何も云わなかったが、かの奇怪な男の噂が出るたびに、清次はそれを人にしゃべった。自分の船の女の客がどうもの奇怪な男と知り合いででもあったらしいと吹聴した。その日の客のうち男ふたりは二度ばかり山石に船をたのみに来たことがあったが、馴染が浅いのでどこの人だか知れなかった。ほかの三人と女ひとりは初めての客であった。したがって彼らのすべてが何者であるか一向判らなかったが、なんでも下町したまちの町人らしい風俗で、船頭の祝儀も相当にくれた。
それが半七の耳にはいった。かれはすぐ築地河岸へ出向いて、まず船頭の清次をしらべたが、清次は前にも云ったほかには何も知らないと云った。船宿では猶更なおさら知らなかった。
「もしその客のどれかが又来たら、きっとおれの所へ知らせてくれ。悪くすると飛んだ引き合いを食うぞ」
半七は念を押して帰った。それはもうかの潮干狩から半月ばかり後であった。神田三河町の家へ帰ると、半七はすぐに子分の幸次郎をよんで、清次という若い船頭の身許をしらべろと命令した。幸次郎は受け合って帰ったが、そのあくる日すぐに出直して来た。
「親分、大抵はわかりましたが、船頭仲間でもいてみましたら、あの清次という野郎は今年二十一か二で、これまで別に悪い噂もなかったと云います」
「なんにも道楽はねえか」
「商売が商売だから、酒も少しは飲む、小博奕ばくちぐらいは打つようだが、別に鼻につままれるようないやなこともしねえそうですよ。品川の女に馴染なじみがあるそうだが、これも若い者のことでしょうがありますめえ」
「身にひきくらべて贔屓ひいきするな」と、半七は笑った。「だが、まあ、いいや。そこまで判れば大抵の見当は付いた。御苦労ついでに品川へ行って、あいつが此の頃の遊びっぷりをしらべて来てくれ。店の名は判っているだろうな」
「わかっています。化伊勢ばけいせのお辰という女です。すぐに行って来ましょう」
幸次郎は又出て行ったが、その晩、かれが引っ返して来ての報告は半七を少し失望させた。
「清次は月に四、五たびは来るそうですが、まあ身分相当といったくれえの使いっぷりで、今月になって二度来たが、別に派手なこともしねえと云いますよ。どうでしょう。もう少しほかを洗ってみましょうか」
「まあ、よかろう。今になんとかなるだろう」と、半七は云った。「だが、まあ、これだけじゃあ済まねえ。これからもあの野郎に気をつけてくれ」
「ようがす」
幸次郎はかさねて受け合って帰ったが、別に取り留めたことも探し出さないとみえて、それから又半月ほど過ぎるまで、この一件に就いてはなんの新らしい報告も持って来なかった。人の噂も七十五日で、潮干狩の噂はだんだんに消えて行った。半七もほかの仕事に忙がしく追われていたが、それでも彼の頭にはまだこの一件がこびり付いて離れなかった。
「あの船頭はどうした」と、半七はときどきに催促した。
「親分も執念ぶけえね」と、幸次郎は笑っていた。「わっしも如才じょさいなく気をつけてはいますが、どうもなんにも当りがねえんですよ」
「その客というのもそれぎり来ねえか」
「それぎり顔をみせねえそうです」
こうして四月も過ぎ、五月になって梅雨つゆらしい雨が毎日ふりつづいた。五月十日の朝である。半七がいつもより少し朝寝をして、楊枝ようじをつかいながら縁側へ出ると、となりの庭の柘榴ざくろの花があかく濡れていた。外では稗蒔ひえまきを売る声がきこえた。
「ああ、きょうも降るかな」
鬱陶うっとうしそうに薄暗い空をみあげていると、表の格子ががたぴしと明けて、幸次郎があわただしく飛び込んで来た。
潮干狩の一件以来、幸次郎は半七に催促されるのが苦しいので、築地河岸の船頭はいうまでもあく、芝浦しばうらから柳橋やなぎばし、神田川あたりの船宿をまわって、絶えずなにかの手がかりを見つけ出そうとあせっているうちに、けさ偶然にこんなことを聞き出したのである。しかもそれはゆうべのことで、神田川の網船屋の船頭の千八せんぱちというのがおなじみの客をのせて隅田川すみだがわかみの方へ夜網に出た。客は本郷の湯島に屋敷をかまえている市瀬三四郎いちせさんしろうという旗本の隠居であった。あずま橋下からだんだんに綾瀬あやせの方までのぼって行ったのは夜も四ツ(午後十時)をすぎた頃で、雨もひとしきり小歇こやみになった。もちろん濡れる覚悟であったから、客も船頭も蓑笠みのかさをつけていたが、雨がやんだらしいので隠居は笠をぬいだ。笠の下には手ぬぐいで頰かむりをしていた。
素人しろうとは笠をかぶっていると、思うように網が打てない」
隠居は自分でも網を打つのである。今夜はあまり獲物が多くないので、かれは少しれ気味でもあった。
「網を貸せ。おれが打つ」
船頭の手から網を取って、隠居は暗い水の上にさっと投げると、なにか大きな物がかかったらしい。こいなまずかと云いながら、千八も手つだって引き寄せると、大きい獲物は魚ではなかった。それはたしかに人の形であった。水死の亡骸なきがらが夜網にかかるのは珍らしくない。船頭はこれまでにもそんな経験があるので、又お客様かといやな顔をした。かがり火の光りでそれが男であることを知ると、彼はすぐに流そうとした。
「むかしの船頭仲間には一種の習慣がありましてね」と、半七老人はここでわたしに説明してくれた。「身投げのあった場合に、それが女なら引き上げて助けるが、男ならば助けない。なぜと云うと、女は気の狭いものだから詰まらないことにも命を捨てようとする。死ぬほどのことでもないのに死のうとするのだから助けてやるが、男の方はそうでない。男が死のうと覚悟するからには、死ぬだけの理屈があるに相違ない。どうしても生きていられないような事情があるに相違ない。いっそ見殺しにしてやる方が当人の為だ、と、まあこういうわけで、男の身投げは先ず助けないことになっている。それが自然の習慣になって、ほかの水死人を見つけた時には、女は引き上げて介抱してやるが、男は大抵突き流してしまうのが多い。男こそいいつらの皮だが、どうも仕方がありませんよ」
ここの船でも船頭が男の水死人を突き流そうとするのを、隠居は制した。
「まあ、引き上げてやれ。なにかの縁でおれの網にはいったのだ」
こう云われて、千八も争うわけには行かなかった。かれは指図の通りに網を手繰たぐって、ともかくもその男を船のなかへ引き上げると、かれは死んでいるのではなかった。網を出ると、彼はすぐにあぐらをかいた。
「なにか食い物はないか。腹がった」
隠居も千八もおどろいていると、男はそこにある魚籠びくに手を入れて、生きた小魚をつかみだしてむしゃむしゃと食った。二人はいよいよ驚かされた。
「まだ何かあるだろう。酒はねえか」と、彼はまた云った。「ぐずぐずしていやあがると、これだぞ」
かれは腹巻からでも探り出したらしい、いきなりに匕首あいくちを引きぬいて、二人の眼さきに突きつけたので、船頭は又びっくりした。しかし一方は武家の隠居である。すぐにその刃物をたたきおとして再び彼を水のなかへ投げ込んでしまった。
「はは、悪い河獺かわうそだ」と、隠居は笑っていた。
しかし、それが河獺でないことは判り切っていた。千八はただ黙っていると、隠居はこれに興をさましたらしく、今夜はもうこれで帰ろうと云った。船頭はすなおに漕いで帰った。
この報告を終って、幸次郎は半七の顔色をうかがった。
「どうです。変な話じゃありませんか」

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半七は黙ってその報告を聞いていたが、やがて思い出したようにうなずいた。
「むむ、そんな話が去年もあったな。おめえは知らねえか」
「知りませんね」と、幸次郎は首をかしげた。「やっぱりそんな話ですかえ」
「まあ、そうだ。なんでもそれは麻布あざぶ辺の奴らだ。町人が三、四人で品川へ夜網に行くと、海のなかから散らし髪の男がひょっくり浮き出したので、船の者はびっくりしていると、その男はいきなり船に飛び込んで来て、なにかを食わせろと云うんだ」
「へえ、よく似ていますね」と、幸次郎は不思議そうに眼を見はった。「それからどうしましたえ」
「こっちは呆気あっけにとられているから、なんでも相手の云うなり次第さ。船に持ち込んでいる酒と弁当を出してやると、息もつかずに飲んで食って、また海のなかへはいってしまったそうだ」
「まるで河童かっぱか海坊主のような奴ですね。そうすると、ゆうべの奴もやっぱりそれでしょうよ」
「きっとそれだ」と、半七は云った。「いくら広い世のなかだって、そんな変な奴が幾人もいるわけのものじゃあねえ。きっとおなじ奴に相違ねえ。このあいだの潮干狩に出て来た奴もやっぱりそれだろう。だが、妙な奴だな。人間の癖に水のなかに棲んでいて、時々におかや船にあがってくる。まったく河童の親類のような奴だ。葛西かさい源兵衛堀げんべえぼりでも探してみるかな」
「ちげえねえ」と、幸次郎も笑った。
この頃、顔やからだを真っ黒に塗って、なまの胡瓜きゅうりをかじりながら、「わたしゃ葛西の源兵衛堀、かっぱの倅でござります」と、唄ってくる一種の乞食があった。したがって河童といえば生の胡瓜を食うもの、河童の棲家すみかといえば源兵衛堀にあるというように、一般の人から冗談半分に伝えられて、中にはほんとうにそれを信じている者もあったらしい。半七は笑いながら又訊いた。
「ゆうべの奴は匕首のようなものを出したと云ったな」
「そうです。なんでも光るものを船頭の眼のさきへ突き付けたそうですよ」
「いよいよ変な奴だな。そんな奴を打っちゃって置くと、世間の為にならねえ。しまいには何を仕出来しでかすか知れねえ。おれもよく考えて置こう。おめえも気をつけてくれ」
幸次郎を帰したあとで、半七はいろいろに考えた。幸次郎の報告で、ゆうべの出来事も大抵は判っているものの、念のためにもう一度、その船頭の千八に逢ってくわしい話を聴いたらば、又なにかの手がかりを探り出すことがないとも限らない。半七はって窓をあけると、一旦晴れそうになった今朝の空もまた薄暗くくもって来た。
「しようがねえな」
舌打ちしながら半七は神田の家を出ると、横町の角でわかい男に逢った。男は築地つきじの山石の船頭清次であった。
「親分さん。お早うございます」
「やあ、清公。どこへ行く」
「おまえさんのうちへ……。丁度いいところで逢いました」と清次はすり寄って来てささやいた。「実はね、このごろは毎日天気が悪いので、商売の方もあんまり忙がしくないもんですから、きのうの午ずぎに小梅こうめの友達のところへ遊びに出かけました。すると、その途中でひとりの女に逢ったんですよ。その女は近所の湯から帰って来たとみえて、七つ道具を持ってじゃの傘をさしてくる。どうも見おぼえのある女だと思って、すれちがいながら傘のなかを覗いてみると、それがね、親分さん。それ、いつかの潮干しおひの時の女なんですよ」
半七は無言でうなずくと、清次は左右を見かえりながら話しつづけた。
「こいつ、見逃しちゃあいけねえと思ったから、わっしはそっとその女のあとをつけて行くと、それから小半町ばかり云行ったところに瓦屋がある。そのとなりの生垣いけがきのある家へはいったのを確かに見とどけたから、それとなく近所で訊いてみると、その女はおとわといって深川辺の旦那を持っているんだそうです。なるほど、庭の手入れなんどもよく行きとどいていて、ちょいと小奇麗に暮らしているようでした」
「そうか」と、半七は笑いながら又うなずいた。「それは御苦労、よく働いてくれた。その女は三十ぐらいだと云ったっけな」
「ちょいと見ると、二十七八ぐらいには化かすんだけれども、もう三十か、ひょっとすると一つや二つはつらに出しているかも知れません。小股こまたの切れあがった。垢ぬけのした女で、生まれは堅気かたぎじゃありませんね」
「判った。わかった。路の悪いのによく知らせに来てくれた。いずれお礼はするよ」
清次に別れて半七は往来に突っ立って少しかんがえた。清次が乗せた潮干狩の客は、かの怪しい男となにかの関係があるらしい。現にそのひとりの女は颶風の最中に彼と話していたらしいという。かたがたこの潮干狩の一と組を詮索すれば、自然に彼の正体もわかるに相違ない。これは神田川へ行って千八を詮議するよりも、まず小梅へ出張ってその方をよく突き留めるのが近道らしい。こう思案して、半七はまっすぐに小梅へゆくことにした。陰るかと思った空は又うす明るくなって、厩橋うまやばしの渡しを越えることには濁った大川の水もひかって来た。
「傘はお荷物かな」
半七はまた舌打ちをしながら、向う河岸へ渡ってゆくと、その頃の小梅のなかごうのあたりは、為永春水ためながしゅんすいの『梅暦うめごよみ』に描かれた世界と多く変らなかった。征木まさぎの生垣を取りまわした人家がまばらにつづいて、そこらの田や池では雨をよぶような蛙の声がそうぞうしく聞えた。日和ひより下駄の歯を吸い込まれるような泥濘ぬかるみを一と足ぬきにたどりながら、半七は清次に教えられた瓦屋のまえまで行きついた。
となりと云っても、そのあいだにかなりの空地あきちがあって、そこには古い井戸がみえた。井戸のそばには大きい紫陽花あじさいが咲いていた。半七はその井戸をちょっと覗いて、それから生垣越しに隣りをうかがうと、おとわという女の家はさのみ広くもないらしいが、なるほど清次の云った通り、ここらとしては小奇麗に出来ているらしい造作で、そこの庭にも紫陽花がしげっていた。
「しようがないねえ。また庭の先へ骨をほうり出して置いて……。お千代ちよや。掃溜はきだめへ持って行って捨てて来ておくれよ」
縁先で女の声がきこえたかと思うと、女中らしい若い女がほうきごみ取りを持って庭へ出て来て、魚の骨らしいものをかき集めているらしかった。犬か猫が食いちらしたのかと思ったが、半七は別に思いあたることがあるので、ぬき足をして裏口へまわってゆくと、女中はその骨のようなものを掃溜めへなげ込んで、すぐに台所へはいった。
半七はそっと掃溜めをのぞいてみると、魚の骨はみな生魚であるらしかった。犬や猫がこんなに綺麗に生魚を食ってしまうのは珍らしい。更に注意して窺うと、掃溜めの底にはやはり生魚の骨らしいのが重なっていた。
半七は引っ返して元の井戸ばたへ来ると、瓦屋の女房らしい女が洗濯物をかかえて出て来たので、道を訊くような風をして如才じょさいなく話しかけて、となりの家ではどこの魚屋から魚を買っているかということを半七は聞き出した。それは半町ほど離れた魚虎という店で、ちょっとした料理も出来ると女房は口軽に話しかけた。
魚虎へ行って、半七は更にこんなことを聞き出した。おとわの家はお千代という女中と二人暮らしで、深川の木場の番頭を旦那にしているということで、なかなか贅沢に暮らしているらしい。旦那が来た時には、いつもで三種みしな四種よしなの仕出しを取る。そのあいだにも毎日なにかの魚を買うが、三月の末頃から生魚の買物が多い。別人もふえた様子はないが、たしかに買物は多くなった。犬や猫は一匹も飼っていない。これだけのことが判って、半七のはらのなかには此の事件に対するひと通りの筋道が立った。

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これだけのことが判った以上、すぐにおとわを呼び出して吟味してもいいのである。しかし彼女は三十を越して旦那取りでもしているような女であるから、ひと筋縄では素直に口を明かさないかも知れない。女の強情な奴は男よりも始末がわるい。半七はたびたびそれに手懲りをしているので、彼女がいかに強情を張ろうとも、抜きさしの出来ないだけの証拠をつかんで置かなければならないと考えながら、魚虎の店を出てまた引っ返してくると、途中で若い女に逢った。それはおとわの家の女中で、小風呂敷を持って何か買物にでも出てゆくらしかった。
「お千代さん、お千代さん」
自分の名をよばれて、若い女中は不思議そうに見かえると、半七は近寄って馴れなれしく声をかけた。
「わたしは魚虎の親類の者で、二、三日前からあそこへ泊まりに来ているんですよ。きのうもお前さんが買物に来たときに、奥の方にいたのを知りませんでしたかえ。そら、お前さんがぼら一尾ぴきますを二尾、そうだかつおの小さいのを一尾、取りに来たでしょう。こちらから届けますというのに、いや急ぐからと云ってお前さんがすぐに持って行ったでしょう」
お千代は黙っていた。空はいよいよ明るくなって、裂けかかった雲のあいだから日の光りが強く漏れて来たので、半七は彼女を誘うようにして、路ばたの大きいえのきの下に立った。
「ねえ、魚虎の帳面をみると、仕出しが時々にある。それは木場きばの旦那だろう」
お千代は無言でうなずいた。
「それは判っているが、もうひとりのお客様だ。そのお客は四、五日ぐらい途切れて又来ることがある。きのうは来たんだね」
お千代はやはり黙っていた。
「そうして、日の暮れから出て行って、夜なかに帰って来たかえ。それとも今朝になって帰って来たかえ。なにしろ生魚をむしゃむしゃ食って、その骨を庭のさきなんぞへむやみに捨てられちゃあ困るね」
相手はまだ黙っていたが、一種の不安がさらに恐怖に変ったらしいのは、その顔の色ですぐさとられた。
「ねえ、まったく困るだろう」と、半七は笑いながら云った。「あんな仙人だが乞食だか山男だが判らねえお客様に舞い込まれちゃあ、まったく家の者泣かせよ。あの人はなんだえ。うちの親類かえ」
「知りません」
「名はなんというんだえ」
「知りません」
「時々に来るのかえ、始終来ているのかえ」
「知りません」
「嘘をつけ」と、半七は少しく声をあらくしてお千代の腕をつかんだ。「あすこの家に奉公していながら、それを知らねえという理屈があるか。まったく来ねえものなら、初めからそんな人は来ませんとなぜ云わねえ。家の親類かと訊けば、知らねえという。名はなんというと訊けば、知らねえという。それが確かに来ている証拠だ。さあ、隠さずに云え。おまえはいくつだ」
「十八です」と、お千代は小声で答えた。
「よし、少しおしらべの筋がある。おれと一緒に番屋へ来い」
お千代は真っ蒼になって泣き出した。
「番屋へ連れて行くのも可哀そうだ。魚虎まで来い」
半七はかれを引っ立てて再び魚虎の店へ引っ返すと、魚屋の亭主や女房も半七が唯の人でないことを覚ったらしく、奥へ案内して丁寧に茶などを出した。夫婦は泣いているお千代をなだめて、もうこの上はなんでも正直に申し上げるのがお前の為であると説得したので、年の若い彼女はとうとう素直に白状した。
去年の冬の夜に、乞食だか仙人だか山男だか判らないような男がおとわをたずねて来た。どこから来たのか、それは知らないとお千代は云った。なんでもおとわが金をやっているらしかったが、男はそれを受け取らなかった。おとわは結局かれを物置へ連れ込んで住まわせることにした。男はときどきに抜け出して何処へかゆく。そうして、又ふらりと帰ってくる。不思議なことには、かれは好んで生魚を食う。勿論、普通の煮物や焼物も食うのであるが、そのほかに何か生物を食わせなければ承知しない。かれは生魚を頭からむしゃむしゃ食うのである。かれはふところに匕首を忍ばせていて、生魚を食わせないと直ぐにそれを振り廻すのである。それにはおとわも困っているらしい。お千代も気味を悪がって、なんとかして暇を取りたいと思っているが、主人からは余分の心付けをくれて、無理に引き留められるので困っている。どう考えても、あの男は一種の気ちがいに相違ない。しかし主人とどういう関係にあるのか、それはちっとも知らないとお千代は云った。
それにしても、そんな怪しい人間が出這入ではいりするのを、近所で気が付かない筈はないと半七は思った。その詮議に対して、お千代はこう答えた。かれは昼のあいだは物置に寝ていて、日が暮れてから何処へか出てゆく。帰って来る時も夜である。ここらは人家が少ない上に、大抵の家では宵から戸を閉めてしまうので、今まで誰にも覚られなかったのであろう。現にゆうべも宵からどこかへ出て行って、夜の明けないうちに戻って来て、あさ飯に小さいそうだ鰹一尾を食って、その骨を庭さきへ投げ出して置いて、物置へはいって寝てしまったとのことであった。
半七はすぐにお千代を案内者にして、おとわの家へ踏み込んだが、生魚を食う男のすがたは物置のなかから見いだされなかった。あるじのおとわも見えなかった。簞笥たんすや用簞笥の抽斗ひきだしが取り散らされているのを見ると、かれは目ぼしい品物を持ち出して、どこへか駈け落ちをしたらしく思われた。
木場の旦那は今夜来るはずだとお千代が云ったので、半七は幸次郎とほかに二人の子分をよびあつめて、おとわの空巣あきすに網を張っていると、果たして夕六ツ過ぎに、その旦那という男が三人連れでたずねて来た。
連れの二人はすぐに押えられたが、旦那という四十前後の男は匕首をぬいて激しく抵抗した。子分ふたりは薄手を負って、あやうく彼を取り逃がそうとしたが、とうとう半七と幸次郎に追いつめられて、泥田のなかで組み伏せられた。
彼等はすべて海賊の一類であった。
おとわの旦那は喜兵衛きへえというもので、表向きは木場の材木問屋の番頭と称しているが、実は深川の八幡前に巣を組んでいる海賊であった。ほかにも六蔵、重吉、紋次、鉄蔵という同類があって、うわべは堅気の町人のように見せかけながら、手下の船頭どもを使って品川やつくだの沖のかかり船をあらしていた。時には上総かずさ房州の沖まで乗り出して、渡海の船を襲うこともあった。おとわは木更津きさらづの茶屋女あがりで、喜兵衛の商売を知っていながら其の囲い者になっていたのである。
疑問の怪しい男は、外房州そとぼうしゅうの海上から拾いあげて来たのであると喜兵衛は申し立てた。去年の十月、かれらが房州の沖まで稼ぎに出て、相当の仕事をして引き揚げて来る途中、人のようなものが浪をかいて彼らの船を追ってくるのを見た。人か、海驢あしかか、海豚いるかかと、月の光りで海のうえを透かしてみると、どうもそれは人の形らしい。伝え聞く人魚ではあるまいかと、かれらも不思議に思って船足をゆるめると、怪しい人はやがてこちらの船へ泳ぎついて来た。喜兵衛は度胸を据えて引き上げさせると、かれは潮水に濡れたままで船端ふなばたへ坐り込んで、だしぬけに何か食わせろと云った。云うがままに飯をあたえると、かれは平気で幾杯も食った。物も云えば、飯も食うので、それが普通の人間であることは判ったが、一体かれは何者で、どうして海のなかに浮かんでいたのか、その仔細は判らなかった。なにを訊いても、かれの返事は要領を得なかった。かれは自分を江戸に連れて行ってくれと云った。
こんな者を連れて帰ってもしようがないので、喜兵衛は残酷に彼を元の海へ投げ込ませると、かれは再び浮き出して、執念ぶかく船のあとを追って来た。それが大抵の魚より早いので、喜兵衛もなんだか恐ろしくなって来た。迷信の強い彼等は、この怪しい男をすてて帰って、それがために何かの禍いをまねくことを恐れたので、再び彼を引き上げさせて、とうとう江戸まで連れて帰ることになった。
金杉かなすぎの浜へ着いて、ここで怪しい男と別れようとしたが、男は飽くまで付きまとって離れないので、喜兵衛らは持て余した。一つ船に乗せて来て、自分たちの秘密を薄々覚られたらしいおそれもあるので、いっそ彼を殺してしまおうかとも思ったが、人の腹の底を見透かしているような彼のするどい眼にじろりと睨まれると、きもの太い海賊共も思い切って手をくだすことが出来なかった。子分のひとりが品川に住んでいるので、喜兵衛はひと先ずそこに預けて彼を養わせることにしたが、かれは正覚坊しょうがくぼうのように大酒を飲んだ。不思議に生魚を好んで食った。そうしているうちに、どうして探し出したか、深川の喜兵衛の家へたずねていた。更に進んで、小梅のおとわの家へもその怪しい姿を見せるようになった。時によると、どうしても帰らないので、おとわはよんどころなく物置のなかに泊めてやることもあった。かれは品川に泊まって、今まで小半年こはんとしの月日を送っていたが、それが人の眼に立たなかったのは、いつまでも隅田川から大川へ出て、更に沖へ出て、水のうえを往来していた為であろう。かれは魚とおなじように、どんな冷たい水でも平気で泳いだ。ただ、水中で鮫なぞに襲われる危険を防ぐ為だと云って、常に匕首をふろことに忍ばせていた。
ことしの三月四日、喜兵衛が同類四人とおとわを連れて品川の潮干狩へ出てゆくと、かの怪しい男がそこらを徘徊はいかいしているのを見た。悪い奴が来ていると思いながら、わざと素知らぬ顔をしていると、午すぎになって彼は「颶風が来る、潮が来る」と叫んであるいた。そうして、その警告の通りに恐ろしい颶風が吹き出して、潮干狩の人々を騒がしたので、喜兵衛はいよいよ驚かされた。その以来、かれらは仕事に出るたびに、かならずこの怪しい男を一緒に乗せてゆくことにした。彼を乗せてゆくと、いつも案外のいい仕事があるので、かれらの迷信はますます高まった。かれらは彼の名を知らないので、冗談半分に誰かが云い出したのが通り名になって、かれらの仲間では先生と呼ばれていた。
喜兵衛と同時に召し捕られたのは、重吉と鉄蔵のふたりで、その白状によって他の六蔵と紋次もつづいて縄にかかった。子分の船頭共もみな狩りあげられた。ただ、かの男とおとわのゆくえだけは当分知れなかったが、それから半月ほど経った後、羽田はねだの沖に女の死骸が浮かびあがった。それはかのおとわで、左の乳の下を刃物でえぐられていた。


「大体のお話は先ずこれまでですが、どうです、その変な男の正体は……。お判りになりましたか」と、半七老人は云った。
「わかりませんね」と、わたしは首をかしげた。
「そはね。上総かずさ無宿の海坊主万吉まんきちという奴でした」
「へえ、その生魚を食う奴が……」
「そうですよ」と、半七老人はほほえんだ。「九十九里ケ浜の生まれで、子供のときから泳ぎが上手で、二里や三里は苦もなく泳ぐというので、海坊主という綽名あだなを取ったくらいの奴です。そいつがだんだん身状みじょうが悪くなって、二十七八の年にとうとう伊豆いずの島へ送られた。十年ほども島に暮らしていたのですが、もう辛抱が出来なくなって、島ぬけを考えた。といって、めったに船があるわけのものではありませんから、泳ぎの出来るのを幸いに、いっそ泳いで渡ろうと大胆に工夫して月のない晩に思い切って海へ飛び込んだのです。いくら泳ぎが上手だからといって、一気に江戸や上総房州まで泳ぎ着ける筈はありませんから、その途中で荷船でも漁船でもなんでも構わない。見あたり次第に飛び込んで、食い物をねだって腹をこしらえて、あるところまで送って貰って、そうしてまた海へ飛び込んで泳ぐという遣り方をしていたんです。なにしろ変な人間が海のなかから不意に出てくるんですから、大抵の者はおどろいてしまって、まあ、云うなり次第にしてやるというわけで、廻り廻って房州の方へ……。はじめは故郷の上総へ帰る積りだったそうです」
「おそろしい奴ですね」
まったく恐ろしい奴ですよ。ところで、房州沖で喜兵衛の船に泳ぎついて、そこで飯を食っているうちに不図かんがえ直して、故郷へうかうか帰るのは剣呑けんのんだ。いっそ此の船へ乗って江戸へ送って貰おうと……。それから先は喜兵衛の白状通りですが、こいつがなかなか図太い奴で、島破りのことなぞは勿論云いません。わざと気違いだか何だか得体えたいのわからないような風をして、ずうずうしく江戸まで付いて来たんです。しかもじゃの道はへびで、この船が唯の船でないことを万吉は早くもにらんだものですから、江戸へ着いてからも離れようとしない。離れたらすぐに路頭に迷うから、執念ぶかく食いついている方がとくです。こっちにも弱味があるから、どうすることもできない。結局、品川の子分のところへ預けられて、鱈腹たらふく飲んで食って遊んでいる。さすがの海賊もこんな奴に逢ったのが因果です。そのうちにだんだん増長して喜兵衛の家へ押し掛けて行く。おとわの家へも行く。それも飲み倒しだけならいいが、しまいには手籠てごめ同様にしておとわを手に入れてしまったんです。おとわも勿論素直すなおに云うことをく筈はありませんが、旦那の喜兵衛も一目いちもく置いているような変な奴にみこまれて、怖いのが半分でまあ往生してしまったんでしょう。しかしそれを喜兵衛に打ち明けるわけにも行かないので、忌々いやいやながら万吉のおもちゃになっているうちに、わたくし共がだんだんに手を入れ始めて、女中のお千代が魚虎へ引っ張られて行ったので、おとわもこれはあぶないと感付いたんでしょう。物置にかくしてある万吉をよび出して、早くここを逃げてくれと云うと、万吉はそれならおれと一緒に逃げろと云って、例の匕首をふりまわす、もう旦那と相談するひまも無しに、おとわは目ぼしい品物や有り金をかきあつめて、無理無体に万吉に引き摺られて、心にもない道行みちゆきをきめたんです。昼のうちは近所の藪のなかに隠れていて、夜になってから千住の方へまわって、汐入堤しおいりつづみあたりのどての下に穴を掘って棲んでいましたが、それも人の目に着きそうになったので、又そこを這い出して今度は神奈川の方へ落ちて行く途中、おとわが隙をみて逃げようとしたのが喧嘩の始まりで、とうとう例の匕首で命を取られることになってしまったんです」
「その万吉はどうしました」と、わたしは又訊いた。
「神奈川の町で金に困って、女の着物を売ろうとしたのから足がついて、ここでいよいよ召し捕られることになりましたが、その時には髭なぞを綺麗に剃って、あまたは毬栗いがぐりにしていたそうです。島破りの上に人殺しをしたんですから、引き廻しの上で獄門になりました。生魚を食うのは、子供のときから浜辺で育って、それから十年あまりも島に暮らしていたせいですが、だんだんに詮議してみると、なにも好んで生魚を食うというわけでもない。人を嚇かすためにわざと食って見せていたらしいんです。それがほんとうでしょう。こう煎じつめてみると別に変った人間でもないんですが、ただ不思議なのは潮干狩の日に颶風の来るのを前以って知っていたことです。それは長い間、島に暮らしていて、海や空を毎日ながめていたので、自然に一種の天気予報をおぼえたのだということですが、それはほんとうか、それとも人騒がせのまぐれあたりか、確かなことは判りません。しかし万吉が牢内できょうは雷が鳴ると云ったら、果たしてその日の夕方に大きい雷が鳴って、十六ヵ所も落雷したと云って、明治になるまで牢内の噂に残っていました」
「じゃあ、きのうはその海坊主に天気予報を聞いて行けばよかったですね」と、わたしは云った。
「まったくですよ。ところが、きのうは生憎あいにくにそんな奴が出て来なかったので。あははははは」と、老人は又笑った。
 

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。