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永享記
 
仁王五十六代之帝清和天皇第六の皇子貞純親王、始て賜源氏之姓を、其子経基号六孫王と、其子多田新発意満仲と云、其三男河内守頼信、其一男伊予守入道頼義、其一男八幡太郎義家、義家一男対馬守義親、二男河内判官義忠、三男式部大輔義国、四男六条判官為義、為義の嫡子下野左馬頭義朝、義朝三男右大将征夷将軍頼朝也、此御代寿永元暦の頃、源平両家之闘諍あり、平家追討之蒙院宣、御弟範頼義経を大将軍として、諸国の源氏を相催し、数万騎之軍兵を引率して、在々に合戦す、中にも摂州一の谷、雀の松原、深草の森、八島、水島、壇の浦にて合戦、或は海上にて日を暮し、船中にて夜を明し、或は鎧の袖を片数、甲の鉢を枕として、治承の秋の初より、元暦の春に至て、斯やかしこに相戦、暫くも安堵の思ひをなさす、雖然、矢島壇の浦において被祖父清盛公之戚縁に、帝海底に沈み給ひしかは、一門の卿相雲客も皆亡ひ給ひ、三種の神器も海底に沈み畢、適々残る公達も、或は入水し、或は討死し、平家の一門悉滅亡す、陰謀野心の輩悉く令誅伐、日本一遍に治て後、諸国の惣追捕使と成て、号征夷大将軍、彼御子二人、頼家実朝、相双て号三代将軍、扨又式部大輔義国、康和年中常陸国佐竹冠者追討の大将軍として、下野国足利太郎基綱の舘に下着有て、基綱の息女を最愛すと云々、其御腹に子二人出来給ふ、嫡子大炊助義重法名上西、新田殿の先祖也、二男足利判官義康、其一男義長十九にて早世、二男義清号矢出判官、三男義兼号赤御堂殿、長九尺二寸、母熱田大宮司藤原秀範二女なり、法名号□□(梵字)駿河守殿と云、其一男義純岩松殿、二男義助桃井殿、三男左馬頭義氏法名号法楽寺、其一男長氏、今川吉良の元祖也、二男泰氏平岩殿、法名証阿、号知光寺、其一男家氏斯波殿の先祖、二男義顕渋川殿之元祖也、三男治部大輔頼氏、法名義仁、号玄祥寺、其子家持伊予守、号報国寺、其子讃岐守貞氏、号浄妙寺、其一男左馬助高義、号延福寺殿、二男高氏治部大輔、後には征夷大将軍尊氏公是なり、号等持院殿、又号長寿寺、法名仁山妙義大禅門、其弟直義、三条錦の小路殿法名恵源、号大林寺、尊氏の御子四人あり、嫡子竹君殿、元弘三年之乱の時、伊豆の走湯山密厳院頼中御坊にて自害す、次男直冬、号筑紫左兵衛佐、今も其子孫九州にあり、三男義詮、宰相中将、号宝策寺殿、是京都公方の先祖也、四男基氏、鎌倉殿、関東公方の先祖なり、法名道新、号瑞泉寺殿、其御子氏満、法名道仙、永安寺殿、其御子満兼、号勝光院殿、其御子持氏、長春院殿、其御子正四位下左兵衛督成氏公の御時こそ、初て鎌倉を去て、下総国下河辺庄古河の城に移り給ふ、其由来を尋るに、永享八年丙辰、信濃国住人小笠原大膳大夫と、村上中務大輔と確執の事有て、合戦に及ふ、村上連々関東の公方へ申通しける間、御加勢を請奉らんとて、家の子布施伊豆守を鎌倉へ指越ける、明窓和尚是を吹挙し給ひけれは、御加勢可遣由被仰出ける、
 
公方管領不和の事
 
去程に村上加勢として、桃井左衛門督を大将として、上州一揆武州一揆那波上総介高山修理亮等、已に打立よし聞えける、鎌倉の管領上杉安房守憲実、諫言を以申されけるは、信州は京都の御分国也、小笠原は彼守護人、京都の御家人也、彼を御退治、京部への御不義たるへしと、オープンアクセス NDLJP:370頻りに被申ける間、此加勢は事ゆかす、同九年四月、上杉陸奥守憲直を大将として、武州本一揆打立へき由被仰付けるを、如何なる野心の者か申出したりけん、是者信濃へ御加勢に非す、管領を誅伐せらるへきよし風聞しけれは、憲実の被官旧功恩顧の輩、国々より馳集る、あはや天下の大事と、人肝をひやさすといふ事なし、同六月六日より、鎌倉中猥に騒不斜、上下男女逃迷ひ、資財道具を持運ふ、依て公方七日之暮方に、憲実の宿所へ御出あり、いろ被仰分しかは、少し静りける、然れ共、世上あふなくみえける問、管領父子同月十五日、藤沢へ罷退き給ひしか、猶身の上不安とて、憲実の嫡子七歳に成給ひしを、ひそかに上州へ落し給ふ、是は直兼憲直等、色々の讒言を以、無故憲実蒙御勘気、身におゐては無誤旨頻りに被申聞けれは、讒者の実否を糺して、同廿七日、一色宮内大輔直兼等、三浦へ追下さる、又管領家にて、大石石見守憲重長尾左衛門尉景仲、色々讒説をかまゆる由、公方被仰出ける間、景仲憲重、山内殿の御前に参り、我々在鎌倉故、屋形の御為悪しく候はんにおゐては、下国いたすへきよし頻りに申けれとも、縦ひ両人下国致すと云とも、世上無異たるへからすと見えけれは、扨留りぬ、同八月十三日、公方持氏、憲実の屋形に御出有て、色々なため給ひ、管領職政務の事、如元被仰付、再三辞退被申けれとも、強て被仰付ける、然れとも、武州の代官職不施判形をいたされす、万事苦々敷て、其年は暮ぬる、明る永享十年六月、公方の若君吉王殿御元服有へしとて、御祝義の用意、善尽し美尽せり、管領被申けるは、代々御元服は、みな京都へ御使ありて、一字を御申あり、任先規御字御申有へし、節に莅て御使御難義ならは、某か弟上杉三郎重方、幸用意の馬なんとも候、罷登候へき由被申けれとも、此条曽て無御承引して、彼御祝義に付て、国々より名字を指て御勢を被召、直兼憲直等も、蒙御免許罷帰る、又何者か申出したりけん、御祝義の時、憲実出仕の時、於殿中誅由聞えけれは、憲実虚病して出仕を止め、舎弟重方代官として出仕し給ふ、管領是を漏聞給ひ、弥君を恨み奉る、公方も是を聞召、房州無実の説を信し、予を恨る事短慮の至なり、然は若君義久公も憲実の宿所に奉置へし、此上は遺恨有へからすと被仰下けれは、管領忝き由申上、諸人も開喜悦眉けり、かゝりける所に、若宮の社務尊仲、ひそかに参り、此条不然と、色々讒言しけるを信し給ひ、若君を憲実の屋形へ移らせ給はす、依て管領弥奉恨ける、誠に君臣不快の基ひ、歎ても余りあり、此世の中はさても歎かしく、長尾尾張入道芳伝、同八月十二日、御前近ふ参り、只憲実をなためせさ給ひて、世上無為に可成由、再三諫言を以申けれとも、無御許容、其後上杉修理大夫持朝〈于時弾正少弼〉千葉介胤直等、一味同心して、色々管領和融の義、世上無為の由を訴訟申けれとも、無御領掌、放生会を限として、十六日に武州一揆を初として、奉公外様の軍勢、山の内へ可押寄申聞えけれは、憲実大きに驚き、身に於て誤りなくして、被御旗、御敵分に成て討れん事、不忠之至り、末代迄の瑕瑾也、所詮御糺明以前に、自害して御憤を散し、忠儀を可残とて、押肌抜て、已に刀を抜給へは、御近習数十人走寄、奉腰物て、前後左右より令警固、かゝりける所に、長尾新四郎実景と、大石源三郎重仲進出て申けるは、道にもあらぬ長僉儀して、頓て討手を被向、闇々と御損命は一定也、御分国へ御下向有て、無科旨オープンアクセス NDLJP:371再三歎き御覧候得かし、相州河村之舘へ御開き尤に候、若さもなく御自害候はゝ、各我等雑人等か手にかゝり、浅ましき死をすへき事必定せり、同しく死せん命を、御馬廻と打合、晴なる討死すへきそや、各大蔵辺へ打出て、殿中にて屍を曝すへき由、詞を不残、血眼に成て申けれは、憲実つくと聞召、いや某自害したりとも、各左様にあらんに、憲実か悪名末代まて遁難し、さらは今宵鎌倉を開へし、乍去河村は分国豆州の境也、河村にて不申開、豆州へ令下向は、上様の御悪名を、京都へ申立る様に、人之思ひ給ふへし、上州へ下向すへし、其用意せよとて打立けれは、同名修理大夫持朝、同名庁鼻性順、長井三郎人道、小山小四郎、那須太郎以下、一味同心の大名相伴ひ、八月十四日戌刻計に、山の内殿を御出ある所に、光明赫奕たる日輪一ツ出現して、憲実の馬の草頭の上に掩ひけれは、諸人大に驚き、希代不思儀哉と訇りける、如何様是は氏神春日大明神の、行末迄守り給へき御霊光可成、此時御運を可開事疑なしと、賀し申さぬ者無りけり、
 
三浦介逆心事
 
去程に、武州一揆とも馳集て、上雷坂に陣を取て、憲実を待懸たり、管領の勢共是を聞て、何程の事か有へき、蹴散して捨んとて、各甲の緒をしめ、旗の手を下しけれは、憲実堅く制して、いや然、某下向する事、無罪由可申開ためなり、御勢に向て、弓を引へからす、あなたより切てかゝらは、無力防き戦ふへし、従是打てかゝるましき由、強に下ちし給へは、無力皆陣を取て、忿を押へ対陣す、一揆の勢とも、管領の大勢を見て、叶はしとや思ひけん、其夜上雷坂の陣を払て、散りに成にけり、扨しも道開け憲実上州へ下り給ふ、鎌倉には宗徒の兵かけ参り、憲実の下向の事如何と、評定区々也、或尊宿貴僧達を御使として、下向の子細を御尋尤也と云義勢もあり、又は召返しなためさせ給へと申族も多かりけり、然共是を次てに可追討とて、其夜両一色直兼并同名刑部少輔時家を大将として、御旗を賜り、十五日の夜半計、其勢二百騎計、路次の人数を駆催し、上州へ下向す、公方持氏、同十六日の未の刻、武州高安寺へ御動座なり、御留守の警固、任先例三浦介時高被仰付、時高近年領地少く、軍兵なけれは、不肖の身として、如何難叶旨辞し申けれとも、御成敗厳重たる上、先々奉仰、時高思ふやう、先祖三浦大介、右大将家に忠ありしより以来、代々功を積て、御賞翫他に異也、然るに当御代になりて、出頭人に覚え劣り、内々失面目無念に思ける処に、持氏公内々勅命に背き給ひ、京公方より、三浦方へ御内書を被成けれは、則此留守を打捨て、忽に逆意を起し、鎌倉を罷退、わか宿地へ帰りけり、十月三日、三浦介鎌倉を退きけれは、此由公方へ早馬を以申けれは、大きに驚き給ひ、誰を打手に遣すへき由被仰ける処に、同十七日、三浦介二階堂一家の人々と引合て、鎌倉へ押寄、大蔵犬懸等へ令夜懸、数千軒の在家へ火を懸たり、鎌倉中の僧俗、上を下へと北迷ふ、営中変化の分野、目も当られぬ次第也、
 
箱根早川尻合戦の事
 
抑今度京都鎌倉不和と成ける濫觴は、持氏関東中の禁中の御料、京方の所帯等、御支配の事不然と諫申けれは、忠言逆耳、還而憲実を被亡、上意の儘に可有由思召ける由、京都へ聞オープンアクセス NDLJP:372えけれは、大に忿り給ひ、則奏聞あつて、綸旨を賜り、御旗を被下、不日に追討すへきよし、御教書を被成ける、

カウムツテ綸旨称従三位源朝臣持氏累年忽緒朝憲近日興擅兵啻失忠節於関東剰致是鄙輩於上国天誅不遁帝命何又容早当課虎豹武臣豺狼賤徒者綸聞如斯以此旨洩入仍執達如件

  永享十年八月廿九日       左少弁資任奉

    謹言   三条少将殿

右御幡には、辱も帝御詠歌を被遊と云々、

  禅振チハヤフル海中ヤヘタツ雲の幡の手に東の塵を払ふ秋風

去程に、同九月十日、京都よりの討手大勢、足柄箱根二手に分押寄る、箱根へは横地勝間田の軍兵共、伊豆の守護代寺尾四郎左衛門尉を案内者として、既に山を越んとしけれは、大森伊豆守箱根の別当是を聞、水呑の辺に、究竟の悪所の有ける所をかたとり、搔楯かいて待懸たう、箱根山と申は、西方嶮岨にて、谷深く切れ岸高く峙り、敵を見おろし、我勢の程敵に不見、虎賁狼卒かはる射手を進めて戦ひけれは、敵縦何万騎ありとも、難近付見えけれとも、寄手は大勢、防く兵は小勢なれは、何まて此山に怺へきと、哀なる様に覚て、掌に入たる心地しけれは、五百騎皆馬より下り、射向の袖を差簪し、太刀長刀の鋒を揃へて、只一息にあかりける、大森か兵箱根の衆徒、石弓を懸、一度にはつとはなす、数万の軍勢、是にまくり落され、遥の深き谷底へ、人雪頽ナダレをつかせて落重なれは、敵に討たれ死する着は少といへとも、己か太刀長刀に貫れて、死する者数を不知、大森伊豆守勝に乗て、短兵急に撫んと、揉に揉んて攻ける間、石巌苔滑にして、荆棘道を塞たれは、引者も不延得、返す者も敢て不被打といふ事なく、横地は討死す、寺尾兄弟三人共に深手を負けれは、十方へ分れて落行ける、軍散して四五ヶ月は、山中草腥して、血野草に淋き、尸は路径に横たはれり、大手の軍は味かた打勝といへとも、搦手の軍勢、足柄山を越て、相州西郡まて押寄ると聞えしかは、上杉陸奥守を大将として、二階堂一党、宍戸備前守海老名上野介、安房国の軍兵を相添て、西の郡の敵に押向らるゝ所に、此人々九月廿七日、相州早川尻へ押寄、鬨声を合、矢一筋射違ふる程こそあれ、大勢の中へ掛入て責けれは、魚鱗鶴翼の陣、旌旗雷戦(戟カ)の光、須臾に変化して万法(方イ)に相当れは、野草紅に満て、汗馬の蹄血を蹴立て、河水チマタせかれて、士卒の尸忽に流を断、かゝりけれとも、続く味方もなし、只今を限と戦けれとも、目に余る程の大勢なれは、憲直の頼切たる肥田勘解由左衛門蒲田弥次郎足立萩窪を初として、一族若党悉く討死し、憲直海老名終に討負て、散々に成て落行けり、

 
持氏鎌倉へ飯給ふ事附鎌倉合戦事
 
同廿九日、持氏相州海老名道場へ被移御陣、千葉介胤直、初より憲実と御和談ありて可然旨、再三申けれとも、少も御承引なかりしか、武州府中にて、亦諫め申けるに、初も再三申けれとも、御許容なく候に、申上る条は憚有といへとも、主暴不諫は非忠臣也、畏死不言非オープンアクセス NDLJP:373勇士と云事あれは、縦ひ蒙御勘気とも、指当る一事なとか申さゝらん、管領は全く異義なく見え給へは、召返され、本の如く政務を給り、水魚の思ひを被成、関東静謐の謀りことを廻し、御座ますへし、彼憲実は、内には匡君の過、外には揚君美、無双の良臣に候へは、召に参らすと云事有へからす、但讒者群狂に恐て、遅参之儀も有へし、君達を御使として、召返させ給ふへくもや候はん、某若君御伴申て、憲実を同道仕り、帰参すへき事は案の内に候と、憚所なく申けれは、当座の評定一決して、九月廿四日、既に若公御下向に究りし所に、若宮の社務尊仲、此由を聞て、簗田河内守方へ以飛脚、彼御下向不然旨、しひて申けるを信し給ひ、若君御下向止けれは、千葉介諫言徒に成し程に、胤直大に忿りて、相州へ御動座の時、御供不申罷留る、分陪河原に安駕可参と、御使有けれは、畏て承候とは申けれとも不参詰、為関戸山御越の時、千葉介手勢引具し、神田寺原へ打出、下総国市川へ張陣、是のみならす海道の討手大手搦手一に成り、筥根の陣を押破て、大将上杉中務少輔持房、相州高麗寺に陣を取、さらは是を防くへきとて、木戸左近大夫将監持季を大将として、御旗を給はりて、相州八幡林に陣を取、篝を焼て待明す、又憲実追討の為に、下向し給ふ両一色の人々も、相伴ふ軍兵は、管領の方へ駆付けれは、手勢計にて、大敵を可除様なくして、一戦にも不及、同四日海老名の御陣へ引返す、上杉安房守数万の軍勢を相具して、同四日上州を打立て、同月十九日に分陪に着陣す、是を見て御旗本に有し人々、御内外様の侍奉行頭人に至る迄、公方を捨置申、管領の勢へそ馳加はる、今は宗徒の御一揆、普代旧功の御勢より外は、残り止る人もなし、去程に同十一月一日、三浦介時高を大将にて、二階堂の人々、持朝の被官一味同心して、大蔵の御所へ押寄ける、折節警固の兵少なけれは、案内は知たり、大庭へ乱入る、御所方の人々、若公をは扇か谷へ奉落て後、殿中鳴を静て待かけたり、三浦介を始め、一枚楯を引側め、門の内へ込入けれは、甲の鉢を傾け、鎧の袖をゆり合切捨て、天地を動し、火を散す、切て落し、突落し、爰を先途と防けるか、寄手若干疵を被て、一度にはつと引たりけり、寄手は大勢なれは、追出せは荒手を入替、責入々々戦けれは、簗田河内守、同出羽守、名塚左衛門尉、河津三郎を初として、防矢射ける人々、一人も不残討れにけり、去程に方々より乱入、人々の屋形に火を懸、神社仏閣に入て、戸帳を下し、神宝を奪取、狼藉止事なかりしかは、三浦介か被官佐保田豊後守、馳廻て制止てけれは、軍勢暫く静りけり、同十一月一日、長尾尾張入道芳伝、為鎌倉警固、分陪を立て上りける所に、同二日、持氏海老名より帰らせ給へは、相州葛原にて参合、あはや敵と見てんけれは、御供の人々、甲の緒をしめ、馬の腹帯を固めて、色めき渡る所に、一色持家を御使として、憲実の代官芳伝か方へ被仰けるは、累祖等持院殿、天下の武将たりしより以来、汝等か先祖上杉民部少輔長尾弾正、当家譜代の家僕として、主従の礼儀を不乱、而に重代忘身恩、穏に不子細、大軍を起す、是縦持氏を滅すとも、天の譴を不遁、心中に憤る事あらは、退て所存を可申、但讒人の真偽に事を寄せ、国家を傾んとの企ならは、再往の問答に不及、自害白及の前に命を止め、忽に黄泉の下に汝らか連を可見と、只一言の中に若干の理を尽して被仰けれは、芳伝馬より下り、いや是迄の仰を可承とは不存、只讒オープンアクセス NDLJP:374臣憲直直兼、(欠文アルカ)誤所を申披き、讒者の張本を承て、後人の悪習を申こらさん為にてと、楯をふせて畏る、依て憲実申給に任せ、憲直直兼罪科に可処と被許けれは、芳伝喜悦の眉を開て、則装束を改め、遂出仕銀劔一振進上す、則又御劔を被下けるにそ、諸人皆色を直し、安堵の思を成けれは、子細なく鎌倉へ帰らせ給ふ、芳伝御供申ける、永安寺へ入らせ給ふへきと、御駕を進めける所に、三浦介か郎等佐保田豊後以下、八幡宮辺赤橋に馳塞り、凱の声をそ上にける、依て御駕を被返、浄智寺へ入御なる、芳伝大に忿て、豊後に近付、以の外狼藉なりとて、荒らゝかに申けれは、赤橋の軍勢引退ぬ、扨こそ事故なく、永安寺に入らせ給ける、
 
持氏御出家憲直以下自害の事
 
同月四日、金沢の称名寺といふ律宗の寺へ移らせ給ふ、猶も角ては始終の御身の為悪かるへしとて、世に望なく御身を捨られたる心の中知せんとにや、同月五日に御髪を落し給ひけり、未強仕齢幾程も不過に、剃髪染衣の姿に帰し給ひし事、盛者必衰の理とは云なから、方見ウタテかりける事とも也、法名をは長春院殿揚山道継とそ号し奉る、同月七日、長尾尾張守入道大将として、憲直以下の讒臣退治の為に、数千騎金沢へ発向す、憲直も一色も運の窮達を見て、有(是イ)非を不悲、主憂則臣辱らる、主辱らる則臣死すと云り、今何の為に命を惜むへきとて、心閑に最期の出立して、静り飯て居たりけり、去程に追手の大将芳伝入道、あはひ半町計に成て、馬を一足に颯とかけ居へて、同音に鬨を作る、直兼の郎等草壁遠江と名乗、紺糸の鎧に、同毛の五枚甲の緒をしめ、瓦毛なる馬に乗て、最前に進み、父子四人少も不擬議大勢の中へ懸入、馬烟を立て切合けるか、切ては落し、八方をまくりて、一足も不引討死す、是を見て、帆足斎藤饗庭場喜、并板倉西大夫以下の侍、声々に名乗、敵の真中へ会釈もなく懸入て、一騎も不残被討にけり、其隙に直兼父子三人憲直父子二人、并浅羽下総守以下一族門葉の人々、心静に念仏申、指違々々算を乱したることくに、重り合て死にけり、憲直の次男上杉小五郎持成、山の内の徳善寺に在けるか、是を聞て乳母の鱸豊前を呼、已に自害に及ひけるか、又居直り、硯を取寄、筆を染て、辞世の詞に云

   合受百年煩悩業、今朝端帰転身清、滅却心頭化、緑尽本来空 性行

くると押畳み、西にむかひ手を合、念仏百返計唱へて、雪の肌を押肌抜、九寸五分の刀を抜、左の脇より右の乳の下迄引廻す所を、豊前守後より主の首を打落す、其太刀を取直し、己か心もとへ、鍔本迄指貫てそ失にける、誉ぬ人こそなかりけれ、其外三戸治部少輔をは永安寺の内、平雲庵と云寺にて、長尾出雲守討てけり、海老名尾張守人道は、六浦引越の道場にて自害しぬ、其弟上野介をは、上杉大夫持朝の家人とも取籠、扇谷の会下寺海蔵寺にて腹を切ける、此人は兄には不似して、公方へ度々諫言を以、世上無為こそ肝要に候へと、申上られける由聞えけれは、命計助け置へき由、管領以専使被申けれと、其使以前に自害しける、不運の至り余りあり、若宮の社務尊仲も被生捕けるを、是は張本の讒人なれは、尋仰らるゝ事もあるへしとて、京都へ上せけるか、終被誅とかや、同月十一日、持氏永安寺へ帰り入せ給ふ、上オープンアクセス NDLJP:375杉修理大夫持朝、大石源左衛門尉憲儀、千葉介胤直等、番替て奉警固、ざなから禁籠の如くなり、

 
持氏満貞御最期の事
 
去程に持氏の御命計助け奉り、自今以後、政務綺はせ奉るましき由、再三京都へ被申けれとも、年来の無道重畳せり、奢侈梟悪不誠におゐては、後日の禍となり、天下の変マノアタリなるへしと評定有て、終に可討に定りしかは、永享十一年二月十日、持朝胤直奉押寄、永安寺を稲麻竹葦の如く取巻、打囲て御自害を奉勧、依て御近習祗候の人々是を聞て、木戸伊豆入道、冷泉民部少輔、小笠原山城守、設楽因幡守、印東伊勢守、武田因幡守、加島駿河守、曽我越中守、設楽遠江守、治田丹後守、木内伊勢守、神崎周防守、中林壱岐守、敵の中を破て、蜘手十文字に懸散さんと喚て蒐る、追つ返しつ、引組々々差違、寄手左右へ颯と分て、散々に射る、御所方引色に成けるか、取て返し討死す、満貞の御馬廻り、南山上総入道、同左馬助、里見治部少輔、今川左近入道蔵人、二階堂伊勢入道、同民部少輔、下条左京亮、逸見甲斐入道、右川民部少輔、新五十郎左衛門尉、岩淵修理亮、泉田掃部助、横合に懸て、両方の手騎を追ひまくり、真中へ会釈もなく懸入て、引組て落差違て死す、其間に公方持氏、御舎弟満貞御自害、哀成ける次第也、御馬廻り旧功の人々も、一人も不残討死す、神妙にこそ見えにけれ、二階堂信濃守は、此公に深く頼まれまいらせたりしか、如何思ひけん、御没落以前より、行方不知落行けり、同廿八日、若公義久、十歳にならせ給ひけるを、奉討へき由聞えけれは、報国寺に御坐せしか、人々馳集て、此由申されけれは、仏前に焼香被成、念仏十返唱へさせ給ひ、御守り刀を引ぬき、左の脇に突立て引廻し、うつふきに伏給ふ、哀といふも愚也、討手に参し人々、一同にあつと感して、袖を顔に押し当て、泣々帰り参りけり、栴檀は二葉より香はしとは、是等之事をや申へき、天晴武門の棟梁ともならせ給ふへき御器と、惜まぬ人こそなかりけれ、 大艸公弼氏所蔵一本以此章以下直接湘山星移集以至記太田道灌之事章而行文有異同大旨無毫異者総称曰湘山星移集題下註永享記嘉吉記之六小字今帰小中村清矩氏曽借対一校
 
憲実出家之事
 

玆管領上杉安房守憲実、しはらく関東の成敗を司て、鎌倉に在しかは、諸大名頻に媚をなし、彼下風に立んこととを望ける、元来忠有て誤なしといへとも、虎口の讒言に依て、君臣不快となりし事を思へは、未来永却迄の業障也、公方連々京方御退治の企を申止めんとて、度々上意に背し故なれとも、有為無常の世の習、明日をも不知命の中なれは、因果歴然、忽身に報せん事を思ひ、又譜代の主君を傾け奉る、末代の嘲を恥て、其身の罪を謝せん為にや、俄に出家し給ひて、法名を高岳長棟庵主と号す、舎弟同兵庫頭清方を、越州より呼寄て、子息成人の間の名代と定て、管領を譲り、永享十一年己未六月二十八日、長春院へ参詣して、公方の御影の前にて、焼香念仏し、泪を流して申されけるは、臣今度讒者の申様にて、御勘当を蒙り、不意御敵と成る、雖然心中に無不義、宜天鑑と云もはてす、腰の刀を引抜て、左の脇に突立給処を、御供の侍高山越後守、那波内匠介、走寄て懐付、御脇差を奪取、其時皆々馳集て、屋形へ還し奉て、能々養生し奉れは、定業ならぬ事なれは、程なく平愈し給ける、同十一月二十日、山内殿を辞し、藤沢へ御出あり、猶も世間物憂て、同十二月六日、伊豆国名越の国清寺に引籠オープンアクセス NDLJP:376り給ひけり、

春村云以下鎌倉大草紙巻三に同し
 
結城籠城事
 

同十二年庚申正月十三日、一色伊予守鎌倉を落て逐電し、相州今泉に有と聞えけれは、あはや天下の乱近に有と云程こそあれ、今度降人に成て命を続たる人々、世の聞耳を口惜く思、哀謀叛を起さはやと思けるに、所願の幸哉と悦て、即与力して、密に寄合々々評定すと聞えけれは、事の大にならぬ先に退治すへしとて、長尾出雲守憲景、太田備中守資光を大将として、相州今泉の館に押寄けれは、国内通計して、往方不知落にけり、依て同類なれはとて、舞木駿河守持広をは、長尾入道芳伝か方へ謀寄て、管領へ出仕をいたし、本領安堵可然と云けれは、持広実と心得、太刀一腰馬一疋用意して、正月廿二日、尾張守か宿所へ行けれは、究竟の兵共五十人物具せさせ、窃に是を隠置、亭主出合、勧酒好時分を見て、前後左右より出合、持広をは討てけり、持広か寄騎の侍、赤井若狭守、腰刀許にて切て入る、尾張守か郎等数多討取、終に討死してんけり、爰にまた故長春院殿の御子達、去年御滅亡の刻、近習の人々日光山へ落し申たりけるか、其後是禅院彼律寺に一夜二夜を明し、世上の様を隠聞てましませしか、何まて斯て可有、急一味同心の輩を招き、再関東を治め、先考の欝憤をも可散申とて、便宜の大名を憑まれける所に、結城氏朝無二奉憑、子息七郎光久御迎に参られける、其後氏朝家老一門を召集め、此条如何と評定す、家老ともは未御請とおもひけれは、水谷伊勢守簗修理亮同将監黒田民部丞一同に申けるは、当家は及累代差せる名家にあらされとも、代々与義士、一日も未不忠之名を、依之関東にては、誰かサミし可申なれは、若君達の憑敷思召事、さる事なれとも、去年の一乱に、京方へ御和談ありしかは、京公方も管領も、殿をは二心あらしと深く頼み給ふ処を引替、謀叛の張本とならせ給ふへき御恨何事そや、人而無遠慮、則必有近憂と云へり、能々可御思案と申も終らす、厚木掃部介馳参して、若君達御入有と申処に、氏朝の一男結城七郎御供申し、若君御入有けれは、家老一門大に驚き、扨々是程の一大事を、吾々に被仰合迄にも不及、思召立事。人々をは屑共思召さりけるそや、今度の御大事に逢て無詮とて、水谷以下四人の家老共、髻切て一同に遁世者とそなりにける、其中に水谷伊勢守許様々問答して、乱を見て捨るは、弓箭の道ならす、無力所なり、討死するより外之事有間敷とて、取て返す、残三人は終に出家入道してんけり、然とも近国他国の牢人、并に志の大名少名馳集り、結城の城に楯籠る、元来構密なれとも、俄に又大堀を堀、塀を塗り、櫓を搔せ、見せ勢を出し、御旗を打立、白旗赤旗二引左巴釘貫カヂの葉の紋書たる旗とも、其数風に翻て充満たり、又野田右馬介を大将として、矢部大炊介以下、古河城を繕て楯籠る、此由早馬を以て、京都へ披露しけれは、急可追伐由、被下御教書、御旗を下され、依之自管領清方、武蔵国司上杉同庁鼻性順に罷向ひ、可退治と下知し給へは、無勢にて難叶と申けるによりて、長尾左衛門尉景仲を加勢として被進ける、同三月十五日、両大将二手に成て鎌倉を立つ、性順は苔(苦又芳イ)林に張陣、景仲は入間河原に取陣、馳付勢を待居たり、又其比新田田中佐野小太郎高階傍士飯塚修理亮桃井か被官の輩、野田右馬介か郎等加藤伊豆守以下、御所方に成オープンアクセス NDLJP:377て、足利荘高橋郷野田の要害に馳集て揚旗、可平一(上イ)評定す、上州之守護代大石石見守憲重、当国一○〔揆を催促して是を退治の為に発向すへき由相触る所に両以大草紙補之〕方の安否をや伺けん、一人も不催促、然れとも非黙止置とて、手勢許にて、四月四日同国角淵に出陣す、去程に近所の人々、少々馳付ける程に、是を待合せ、同九日、高橋の城へ押寄、堀際に楯を突双へ、大勢を一所に集め、向城の如くに備へたれは、城に籠る敵の軍勢。機を屈し、勢を呑れて、不叶とや思ひけん、寄手は大勢なり、城の構へ、末始終如何あるへし是を落て、重て可大軍とて、其夜払城引て行、雑色国府野美濃守同舎弟等残留て、為大石討れにけり、鎌倉の警固には、三浦介時高、同四月廿日馳参る、又上杉中務少輔持房、同五月一日京都の御旗を帯して、鎌倉へ下向す、上杉兵庫頭清方、同修理大夫持朝は、四月十九日、鎌倉を立、在々所々を催促して、軍勢を集らる、東海道は不申、武蔵上野の一揆の輩、越後信濃之軍勢数万騎馳集事、不之、亦安房入道長棟禅門も、伊豆国に御座けるを、京都より頻に被仰ける程に同四月六日、伊豆国を立、山田庄へ帰参り、長尾郷に令滞留、同五月十一日、神奈川へ出勢ある、

 
村岡合戦事
 
同七月一日、一色伊予守、武州北一揆を相語ひ、利根川を馳越て、武州の一騎須賀土佐入道か宿城へ押寄、悉く焼払、須賀か郎等共暫支て討死すと聞えけれは、同三日、庁鼻性額、長尾景仲、成田の舘へ発向す、一色少も不騒、馬を東頭へ立直し、閑に敵を待懸たり、両陣馳合、追つ返つ、烟塵を捲て戦事十余度に及へり、一日戦暮し、夜に入けれは、相引にしけるに、同四日、両方戦屈して見えけるところに、一色方へ馳加る軍兵雲霧の如し、味方に加る軍兵、入西には毛呂三河守、豊島には清方の被官の輩許にて、以の外無勢也、此勢計にて如何にと引色に成処に、伊予守是を見て、すはや敵は引けるそや、何迄も追蒐て、討捕者共とて、荒河を馳渡し、村岡河原に打立る、乗勝所はさる事なれとも、無手分の沙汰も、事体余りに周章して見えたりける、性順景仲、只一手に成て、魚鱗に連て、荒手を先に立、蜘手十文字に懸破しかは、伊予守急に討負、一返も不返、手負を助けん共せす、親子の討るをも不顧物具を〔捨て大双紙〕小江山迄引退、其より散々に成て落行ける、修理大夫持朝、此由を聞て、岩筑より後詰の人衆を出しけれとも、軍は退散しけれは、引遠し給ひける、​无イ​​勝​​ ​豊後守逆徒に与してんけれは、同七月廿五日、足利の町屋にて、同名八人為持朝誅にき、長棟庵主は、七月八日、神奈川を立、野本唐子に逗留し、同八月九日、小山庄祇園の城に著給ふ、其比信濃国住人大井越前守持光、御所方に成、揚旗、白井峠迄押来ると聞えけれは、為之、上杉三郎重方、国分に取陣、為相州警固、上杉修理大夫、相州高麗寺の下徳宣に取陣、又箱根別当、大森伊豆守元来無弐の御所方なりけれは、為結城後攻、馳参共申けれは、今川上総介、平塚に取陣、蒲原播磨守は、国府津の道場に陣取て待懸たり、持朝与管領清方は、路次の軍勢を駆催し、同七月二十九日結城にこそ着給ふ、
 
結城落城の事
 
彼結城城と申は、天然形勝の地、要害之便有、兵粮​沢山​​卓散​​ ​にて、籠る所の人々は、一騎当千の兵オープンアクセス NDLJP:378なれは、力攻には落かたし、城中の人々は、結城中務大輔、同右馬頭、同駿河守、同七郎、同次郎、今川式部丞、木戸左近将監、宇津宮伊予守、小山大膳大夫。子息九郎、桃井刑部大輔、同修理亮、同和泉守、同左京亮、里見修理亮、一色伊予六郎、小山大膳大夫、舎弟生源寺、寺岡左近将監、内田信濃守、小笠原但馬守○〔以下〕究竟の軍兵数を尽して籠りける、寄手は八方を包て攻寄たれは、先坤の方の惣大将清方、諸卒を下知して張陣、西は上州一揆、乾は持朝を大将として、安房国の軍兵、坎良は京勢并宇津宮新右馬頭、土岐刑部少輔、上杉治部少輔、小田讃岐守、常陸の北条駿河守、震異は越後信濃の軍兵、武田大膳大夫入道、南は岩松三河守、小山小四郎、武田刑部、武蔵一揆、千葉介、上総下総の軍勢也、敵の陣味方の間、僅に三町許を隔たり、其間に大堀二重堀逆茂木を引、是は城中の兵粮運送の路を止んためなり、清方持朝千葉土岐等か陣の前には、十余丈の井楼を二重三重に組上たり、然とも城中には死生不知の溢者共、是を先途と捨命戦ふ、寄手は功高く禄重き大名共か、只味方の大勢を憑計に、誠吾一大事と思ひ入たる事なけれは、毎日の軍に、無勝事、因玆城衆聊雖機、寄手は日本半国の兵、四方に成囲、味方は此城一ツにて、始終如何か有へからん、城の本人氏朝の舎弟山内兵部大輔、降人と成て、管領の方へそ出てにける、是は若討負結城一門今度絶終らん事を歎て、為結城之跡とそ見し、即属長沼子細を申けれは、即蒙免許、可在陣由宣ける、管領上杉兵庫頭、以太田駿河守、諸大将へ合戦の意見を尋給ふ、宇津宮右馬頭申けるは、結城事非他国事、某如以前一族被官同心申候者、可退治事不他力、雖然近年無勢罷成、其上此城如此大勢籠候へは無力、他国之軍勢御発向無面目候、急て御責尤と存候、自然攻損手負多く出来なは、古河山川の御敵、乗弊蜂起出張せは、勇々敷御大事なるへし、信濃の大井、甲州の逸見等縦五百騎千騎出張候て、後攻に来候とも、此御勢にて御退治容易かるま​へオ​​し​​ ​、御延引候ても、敵の労れたる様に御計ひ尤と存候と、余義もなげに申ける、長沼か申けるは、此城殊に寄手大勢にて候得は、致惣攻候はゝ、外城易攻候へし、然とも先年某か要害僅の事候得とも、被御所之御旗に、桃井岩松以下之人々、七十日迄責しか共、某手勢軍兵三十騎、上下百余騎にて、度々討勝、御敵被討、况や是は広大の名城、数万の軍勢籠候得は、山川以下案内者に相謀て、以策可攻候覧、但愚按短才の身、非サミシ申公義を、兎も角も可御下知候と申す、京勢仙波常陸介申けるは、去年永安寺にて、長春院殿御最後の時、随分四方の警固したりしか共、此君達を落し申させ、及箇様の御大事候、况や是は大城にて合戦の紛、二三人も落させ給へは、重ての御大事不遠候得は、能々廻謀、急可城候、若猶予の評定候者、必可後悔候、但当所不按内にて候者、諸勢の僉議に任へくとそ申ける、城中の兵共、構究竟城、為置数万石兵粮者、見勢程懸合々々合戦をする共、又籠で戦とも、一年二年の内には容易に落されし物をと、初は勇詈ける、凱箭叫の音、毎日止隙なく、上は梵天四天王、下は黄泉金輪際迄響らんと覚えける、要害善けれは、寄手敢不(付オ)、城中の兵被四方、気疲勢减しかは、懸合て不戦、打立て不散、敵互に掛目対陣して、徒にのみそ過しける、去程に改年立回り、翌永享十三年辛西、改元有て嘉吉と云、四月十五日、大将兵庫頭清方、向諸軍オープンアクセス NDLJP:379ひけるは、自昔攻敵城事、対陣而雖二三年、其は五百騎千騎の国静也、是は日本半国の勢か向て、一城を攻兼て、当地にて数月不合戦、而徒煩(里オ)事非本意、京都の公方も定て、未練にそ思めすらん、且可末代の恥辱明日吉日なれは、可惣攻と相触、嘉吉元年四月十六日長の刻に打立、靡旗進兵けれは、城中の兵共、元来機変蒐引心に得て、死を一時に決たる気分なれは、何かは少も可擬議、大勢の真中に蒐入々々懸散し、鶴翼魚鱗に連て、東西南北に為悩、馬足不留敵の勢を駆靡たれは、朱に成し放馬不其数、蹄の下に切て落したる敵、算を乱して臥たりける、蒐りける処に、如何成野心の者のしたりけん、城の櫓に火を放ち、時節大風吹落、塀(城オ)の内へ吹懸、屋形城中一宇も不残焼けれは、防兵共烟に咽て、悉く東西に失気引ける間、寄手乗機、追懸攻ける程に、引立たる者共か、難所に追懸られ、なしかはよるへき、城の東の切岸田川に被追入討、溺水者其数をしらす、一日の合戦に被討兵数万人、籠る所の人々、一人も不残討死す、惣大将安王との春王殿をは、越後勢の大将長尾因幡守虜申ける、則乗籠興に御上洛とそ聞えし、其御弟六才にならせ給ふをは、御乳母潜に落し奉りけるを、伊佐の庄にて、小山小四郎生捕申ける、小山大膳大夫兄弟は落たりしを、長尾因幡守に被虜、是も京へそ上ける、同十七日、可古河城をよし、被相触所に、野田右馬介以下の人々、結城を為根城と楯籠けるか、聞落城之由を、寄手未近以前に、舟に取乗て、不行方知落にける、矢部大炊介以下残留て、野田讃岐守に被誅ける、又今度所討捕首共、同十七日、被著到、被実検、惣大将上杉兵庫頭清方、小具足許にて出給へは、侍所長尾出雲守憲景、紫下濃の鎧に、鍬形の五枚冑、瀬下治部少輔景秀、黒糸の鎧に同毛の三枚冑、鹿の角を打立て著たりける、此両人付役にて、参ける迄を以て大草紙の中巻の本文とす是れに次きて大名小名の城討捕る所の首級の交名をのせて中巻終る是より後は
大草紙とは別物なり
其外伺候の人々半袴にて参ける、見てける大名小名僧俗貴賤、哀かな、昨日迄も詞を通し、双方見馴し朋友なれは、拭泪を悲あへり、大将分の首二十九、若君に添申し、五月四日、京都に著、若君を濃州乗井の道場金蓮寺迄、両佐々木参迎て、同五月十六日、御兄弟共奉害、是歳十三十二にそ成せ給ひける、自関東上る処の頸共は、六条河原に被懸ける、若君の乳夫二人、徳利文左衛門漆桶三四郎共に出家す
 
成氏の御事
 
去程に関東鎮りけれは、憲実弥世を物憂思て、徳丹清蔵主二人の子を相伴ひ、諸国修行に出給、三男龍若丸をは、伊豆の国に打捨給へは、上杉之一門家老寄合て、奉(訴カ)京都、関東にも、公方管領なくて不叶事なれは、故長春院殿の末の御子永寿王殿とて、信濃の住人大井越前守持光か隠置申けるを取立、元服有て、左兵衛督成氏と号す、龍若丸を元服させ、管領に居申ける、右京亮憲忠是なり、山内殿に移り、長尾一家の長者共左右に相連て、政務を補佐し、関東無為になりけるか、蒐る所に、幾程なくて、嘉吉元年六月廿四日、赤松左京大夫満祐、京都四職の其一にて、無双の出頭人なりけるか、企逆心、其頃の公方普光院殿義教公を奉討ける、其前にて一の不思議あり、縦は京都室町殿の御殿の或小座敷に、二寸計の人形数多出来て、猿楽をしけるに、鵜飼の能をそ囃しける、諸人不思議に思ひ、集て見て、余りに珍事なれはとて、彼人形散りに成し時、一ツ捕て入鳥籠置しかとも、食物をも不知は、頓て其儘飢死オープンアクセス NDLJP:380けるとそ聞えし、其後程なく、赤松入道の舘に有御成て、御遊始りけるに、猿楽等舞台に出て、鵜飼をそ拍子ける、能未終に、軍兵ともを隠置て、切て出、奉公方を申て、天下黒闇に成はてゝ、本国播州へ馳下、己か城に楯籠る、細川畠山山名各責下、討捕赤松を、義教公の若君義政公を奉征夷大将軍に、天下如旧の成にけるとは申せとも、已澆季に及験にて、臣弑君子敵父世と成て、下尅上奴原か王公貴人をも不恐翔ふ有様、時節到来とは申なから、三年の内に忽報て、京都公方の御生害に及はせ給ふ、因果の程こそ怖けれ、関東の管領憲忠、雖若輩也と、涯分執行政道を、責己施徳しかは、国豊に民楽む、是は扇谷修理大夫持朝の聟にて在せしかは、持朝以下の御一門、政務を補佐し給へは、国静にして、十ヶ年の春秋を送迎る所に、享徳三年甲戌十二月二十七日、公方成氏、鎌倉西の御門にて、管領右京亮憲忠を被誅けり、是者父長春院殿持氏、為憲実か被亡給ふ事を、御思召ける故に、上杉一家を有御退治、可御憤との御企とそ聞えし、爰に上杉の老臣、長尾左衛門尉入道昌賢、知謀無双の古兵なりしかは、廻謀其比上杉民部大輔顕定十四才にて、越州におはせしを呼越申し、楯籠上州の境に〈[#底本では直前に返り点「一」なし]〉、与公方家合戦事已に四ヶ年なり、竟に退治八ヶ国の軍兵を、而顕定移山内殿に、司関東の成敗を、可執権之由、自京都御教書到来す、公方成氏終に討負給ひて、打捨鎌倉、下総国下河辺庄古河の郷に被移居給ふて、奉古河御所とける、自是関東大に乱れ、三十余年、在々処々の戦ひ、一日も静成事なし、委く記さは、筆の海も底竭すへし、されは此時、山内殿顕定、扇谷殿〈定政持朝子〉此二人、与公方家の侍、或ハ酸となり、或​本マヽ​​者​​ ​閱となつて、鬨争更無止時、依て国弊民窮、年貢をも不脩、王化をも不恐、利潤を先として、暴悪頻りなりけれは、只国土可滅亡時節到来しぬと歎あへり、
 
堀越御所御下向之事
 
兎角自京、被御馬、被四海逆浪、可然とて、勝鏡院殿政知〈義教公御子〉伊豆の北条へ御下向あつて、被御旗しかは、関東中は不申、伊豆駿河甲斐信濃の軍勢参集、不靡草木も無けり、先達て被御教書、其書曰

関東発向事に、可触出羽陸奥両国之軍勢等条々、

成氏誅罰未落居之事

右敵及鋒楯、挿不忠、構私曲之条、非疑貽々於進発不参之族者、一段可其沙汰矣、

諸軍士多勢無勢之類出陣之事

分限に各可忠節之処、御成敗於難渋之仁体者、可進交名、但可在処之遠近、子細同前也、

関東隣国之士卒等出陣之事、不遠国、所而可遅々一条、且令野心歟、且引組朝敵(畢)、太(大)避其科所詮左右一途に、可付近所之輩焉、

官軍等猥称遺恨之族、着陣之日、対顔之義不快之類、事互閣宿意成和融之様、可忠功由、被仰出候事、

諸勢雖参陣、不大将之儀、任雅意之事、甲乙人等共以被停止者也、所詮云手負之オープンアクセス NDLJP:381浅深、云当病之軽重、可糺明之沙汰焉、

右任条目之旨、厳密可廻之、依忠否之次第、毎度載起請文、其詞註進於戦功者可恩賞之趣、皆可合軍兵等矣、

 寛正二年〈幸巳〉十月日

去程に堀越殿伊豆国に御座ける程に、関東の両上杉、已に公方と奉仰、政知卿有御逝去、御子茶々丸君を北条に留め給ふ、是を後に成就院と申ける、山内扇谷の両管領、東海の掟を司り、関東の執権たり、中にも山内殿は、上杉の惣領にて、長尾一家の長者とも家を補佐し、政務を執行ふ、上州越州豆州武州等、分国なれは不申、其外家来共の領知も広大なれは、軍勢凡二十万騎とそ記しける、扇谷殿は、上杉家にても庶流にて、分国も少し、御家老にも大軍の兵なし、漸々山内の家中、長尾の領知程ならてはなし、少身なれとも、大将定政智謀深き人にて、諸家も重く、万人傾首寄心、中にも家老太田備中守入道、智仁勇の三徳を兼たりき、君明に臣正く、国福あれは、其下の軍勢、何も義を専にして畏天命、国土豊饒にして、民富俊人自ら去、賢臣更に集しかは、大家の山内より人の渇仰も多かりき、古河殿は、只公方の御名計にて、御牢人の体なれは、分国もなし、簗田一色とて、御家風少々ありしかとも、軍勢も領知も少けれは、増て東国の成敗を綺はせ給ふ事もなし、然とも公家家の旧功を思人々も有繋サスカ多けれは、今更上杉の下知に付なん事も口惜とて、上州武州両総州之間にて、上杉の両勢と公方家の軍兵と、国を争ひ処を論し、挑戦ふ事限なし、

 
京都軍之事
 
関東はかく乱しかとも、五畿内西国は静なりし処に、応仁元年丁亥五月二十六日、京都に合戦起て、天下大に乱ける、其由来を伝聞くに、其比公方義政公、可御代御子、而浄土寺殿を還俗せさせ奉り、為御養子公方しに、其後実子の若子出来給へしかは、公方是を取立申て、御代を続せ参らせんと思召て、御台所の御方より、山名右衛門佐持豊入道宗全を憑せ給へは、浄土寺殿〈号今出川義視〉管領細川右京兆勝元、京極武田以下一味同心の大名を引率し、謀叛を起して、今出川殿を取立公方に仰き申さんとす、山名入道畠山義就以下一味して、若君を取立申さんとて、京都に有て大合戦あり、洛中焼払けるとそ聞えし、
 
古河城の事
 
其後世治り、公方御代を続せ給ひしに、又関東は弥乱て、文明三年辛卯関東の公方成氏、古河の城をも為上杉責落、憑千葉介千葉城給ふ、世已に雖澆季、偏に衰行は今の武士の心根なり、弓矢取の本意にて、死を善道に守り、名を義路に不失とこそ嗜へきに、僅の欲心を含て、譜代の主君を傾け、聊遺恨を憤て、年来の恩顧を忘れ、忽に背て敵となり、閱

(味方イ)となる、等持院贈左府公、為武将以来、戴恩荷徳事、諸人皆是幾千万そや、持氏将軍御運尽果て、終に御自害の後、諸家忽に翻て、鎌倉を追落し申、剰古河城さへ落させ給ひし事、如何に口惜く思召けん、然とも末世雖濁乱有繋サスガ日月未堕地にしるしには、随ひ奉る者多くして、其後度々の軍に打勝給ひ、終には君臣和睦在て、文明九年丁酉七月十七日、古河オープンアクセス NDLJP:382の城へ、還入らせ給ふ、其比は御歳四十二歳にならせ終ふ、即古河の続、関宿の城に、簗田中務大輔を被籠、成氏之移らせ給ふは、故下河辺庄司行平か舘と聞えし右河城也、其後城南鵠の巣と云処に在御所作て、自京都御和睦の事調りて、関東の権柄をこそ、御心に任せ給はねとも、両上杉も八家も、先古河殿と崇申けり、所謂八家とは、千葉小山里見佐竹小田結城宇津宮那須是なり、此古河の城は、昔日源三位(頼朝(政カ)卿)の御弓の師と聞えし、下河辺庄司行平より代々住ける旧館なり、城南東方に龍崎と云所に、有源三位頼政之廟〈一説伊豆守仲綱〉其来由、三位入道於平等院自害之後、郎等下河辺三郎行吉と云人、此地之住人也けるか、頼政の首を討て、衰老の頸を獄門にさらさん事を、無念なりと宣しとて、不遺言、作山伏之姿、彼首を入桶納笈裡、諸国修行して後帰本国に、此処に笈を置けるに、此笈少も不動、大石のことく、是は不思議なり、此地に住せ給へき験にやとて、此舘の鎮守に奉祝、崇一社神、金銀幣帛の祭奠蘋蘩薀藻の礼物、善尽美尽せり、されは霊神感応、日々に新にして、当城凶事有らんとては、此社鳴動す、其験掲焉也、此社前に、菩提樹生たり、寄特なりける事多かりき 信名蔵本太田道灌条以下無之為是以下宜削去

 
太田道灌之事
 
爰に扇谷の老臣太田備中守資清入道道真者、武州都筑郡太田郷地頭也、此人若年よりも文道に心をよせ、政道を佐け、武備を以て乱を治めける程に、関東の諸将靡随事、吹風の草木を如動すか、道真の一男鶴千代丸とて、世に隠なき童形あり、九歳の比より学聡に入、十一歳の秋迄終に不父家、蛍雪の功積て、五山無集の学者たり、十一歳の冬の比、父入道の方へ文を造て送りけれは、其時父始て家へ迎へ取給ふ、其名誉天下に聞えし程に、管領の重宝、政務の噐量共可成とて、自山内殿、彼児を有御所望しかとも、扇谷殿万金にも不換とて、彼鶴千代を召寄給ひて、頓有加冠、太田源六資長と号し給ふ、後には備中守といふ、道灌是也、此人十能七芸に心を寄て、好所一として無名、されとも和歌の道は、父の入道には少劣りや侍らんとも沙汰しけるとなん、其後​トコシナヘニ​​弥鎮入​​ ​学窓、専ら五常守三徳、鑑和漢之記録、賞罰是非を分て、善悪明察にして、慈悲を行給へは、諸将是を重しもてなしける、謀を行は、張良か伝へし道を学ひ、陣を破る事、孫呉か秘する術を得たり、扇谷殿は、山内より分国は少く、軍勢も微なれとも、太田父子の善政を聞及ひ、武功之者集事不其数、武道未練の族は、自身を退ける、依て人も礼を学、公方管領も聞義諮道給ふ、されは大名高家も重之、万民傾首をけり、今の如ならは、末々扇谷殿、上杉家を主とり、関東は一向に彼下風に随ひなんと、人々さゝやきけれは、山内殿の御内の侍、并越後の相摸守房定も、偏執の思を成し給ふ、其比資長思ひけるは、上杉関東を治る事三十余年、果報の浅深により、聊国を治と云とも非真実、山内殿雖大名、昌賢死去の後、彼一流も一人而善政を不為、欲心熾盛にして、君臣の礼をも不思、只空他の国を我者にせんと許の貪心多し、国家乱ん事近かるへし、然者当方に、諸大名可随付事無疑、如何にもして取名城、大勢を籠んと宣ひける、扨資長は、武州荏原郡品川の舘に居住したりしか、有霊夢告とて、同国豊島郡江戸の舘に移り給ふ、勝れたる名地にて、雖山見下四辺を、有入海諸国往遠の便、誠に目出度処なれはとて、此城を静勝軒とオープンアクセス NDLJP:383号す、康正二年丙子の年より始て、長禄元年〈丁丑〉四月八日に、功匠の功成就しけるとそ聞えし、峻宇高台は雲を凌き、松風の薫篇を動す声も、万歳をとなへる響かと疑はる、白峰の金屏に映するは、千秋の窓雪を含るに似り、宝塔の林間より見たるは、遠寺を画くに似たり、釣舟の蘆辺に浮めるは、帰帆を移かと訝、西湖十景もよそならす、此城之景を述て、五山の名宿詩を題せり、

                         景臣(正宗イ)

兵鼓声中築受降  聞君延客日臨牕  風帆多少載詩去  吹雪士峰晴堕

                         龍​无イ​​沢​​ ​

籍々威名関以東  又知天下有英雄  鼓声(撃イ)起城辺静  駆使江山殻中

                         景三(相国寺横川イ)

江戸城高不  我公豪気甲東関  三州富士天辺雪  収作青油幕下山

(有イ)人聞者賞歎するに堪たり、太田資長、是歳二十五才迄、数多の城を取しかとも、此城に勝りたるは無とて、登櫓四方を詠め、一首の和歌あり、

  我庵は松原遠く海近し富士の高根を軒端にそ見る、と読れしより、此江戸城此櫓を富士見亭と号す、

長禄元年、管領広感院殿年十四歳にておはしけるか、太田入道命して、武州河越の南仙波 (南波イ)城を、今の河越三芳野郷に移し、要害の縄張畢て、即城を築けり、北方此城の鎮守三芳野太政威徳天神の宮居まします、是を三芳野天神と申す、何の御代より御埀跡ありて、如何成霊感之故やらん、御神体は、銅の五本骨の扇を納め奉り、御宝前の厳飾にも、みな扇の絵に書たり、神秘iの事は不知共、風は靡かし炎蒸を去なれは、如何​本マヽ​​よふ​​ ​此城より霊陽之北院中院とて、三十余箇寺並薨へたり、かゝる砌に建られたる城なれは、勇々敷かりし事共也、或記曰、文明年中、道灌江戸城にも河越の如くに、仙波の山王を城の鎮守に崇め、三芳の天神を平河へ移し給ふ、文明十年戊戌六月五日、日河社に​ナリヲ​​視​​ ​(順カ)へ、津久戸明神を崇め給、又神国(田カ)の牛頭天王、洲崎大明神は、安房洲崎明神と一体にて、武州神奈川品川江戸、何も此神を祝ひ奉る、或人の云、平親王将門の霊を、神田明神と奉崇とかや、又城東浅草寺は、推古天皇御宇定居二年戊子に建立せり、仏法最初の霊場にして、関東無双効験掲焉の観音なり、此道灌をは、世人太公望か再来と云へり、されは、文明八年丙申四月廿三日、豊島合戦に、敵二百余騎を、五十騎にて、平場の軍に討勝、同十年戊戌正月五日に、平塚の城の敵七百余騎を、五十余騎にて責落し、伐頸事三百余、同十一年己亥七月十五日、下総国白井城を責しにも、鴻台に初搆城、七十余騎にて二百余騎を責落す、文明十五年癸卯十月五日、上総長南城を責落したりしに、味かたの旗の上に山鳩二つ飛来、羽を体しこそ不思議なれ、是等非凡夫之所為、偏是生摩利支天なるへしと、人みな不思議の思をなせりとかや            永享記終 以下東乱記ニ同シ非永享記恐後人攙入也別本無之可除去

 
太田最後之事
 
逸政には忠臣多く、労政には乱子多き風俗なれは、上杉家の出頭人評定の輩共、太田入道、扇谷の執事として、万心に任せたる事を猜し、境に着て吹毛の咎を挙て、讒言する事度々なり、オープンアクセス NDLJP:384然とも扇谷殿定政、道灌なくては、誰か天下の乱を静むる者可有と、無直事被思けれは、少々の咎をは耳にも不聞入給、只佞人讒者の世を可乱をそ悲給ふ間、道灌の出頭も自若也、かゝる所に道灌江戸河越の城を搆へ、その普請に心を労して隙なかりしかは、久敷出仕もせさりけれは、彼讒臣共よき隙也と悦ひ、道灌父子為退治山内殿、構要害候条無疑と申上ける間、自山内此事を扇谷へ有談合、定政大に驚き、事実ならは是一家不和の基、国土乱逆の端たるへしと、度々被専使しかは、道灌父子、嵯乎竪子不謀、近年当家不才庸愚の者、争政務真なれは、讒者の糺明も可有、只忠功之下死を賜て、衰老の尸を曝さん事、何の傷か有へきとて、兎角の陳謝にも不及、依之讒臣頻なりけれは、文明十八年丙午七月廿六日、扇谷殿定政、相州扇谷へ被御馬、道灌を退治し給ふ、山内殿顕定も、鉢形の城より加勢として、高見原迄旗を出されたり、去程に道灌入道打て出たりしを、鑓にて突倒し、首をとらんとしけれは、道灌其鑓の柄に取付て、

 かゝるときさこそ命の惜からめ兼てなき身と思ひしらすは只忠のみ有て咎なかりつる道灌、一朝讒せられて、百年の命を失ふ、彼左納言右大史、朝受恩夕賜死と、白居易か書しも理哉、道灌の馬廻斎藤加賀守安元をは、分別才覚軍法故実有とて定政へ被召出けり、扨河越へは、朝良の執事曽我兵庫頭を被籠、江戸城には同豊後守をそ居住せられける、

 
山内扇谷不和之事
 
翌年改元有て、長亨元年〈丁未〉に移る、其比山内顕定憲房有談合、扇谷修理権大夫定政を可退治と聞えける故、道灌か子息太田源六郎甲州へ忍出て、山内殿御下知に随ひ、軍勢を催しける、関東八州の大名小名、道灌有し程こそ、扇谷殿へ志を寄んに、いつしか扇谷の柱石を摧ぬ、因何扇谷殿へ可参とて、みな山内殿へ馳参る、定政朝良は糟谷有なから、河越に曽我を籠、小田原に大森式部少輔を置、僅に三百騎許にて、八箇国の大軍を覆さんと、少も不騒気色なり、定政使者を古河の公方へ参らせ、今度太田入道当家へ無弐忠功を積、度々の労動不勝計、然とも山内へ対し、企逆意候間、加誅罰候得者、無程自山内当方退治之企、抑依何事一家之好、可定政支度難心、東八ケ国滅亡の基なり、縦自山内退治当方之企、於御所者任正理、当方へ被御下知御旗本安否由、尽言被申けれは、古河公方政氏有御納得而、定政へ為御加勢御動座しかは、上杉譜代之老臣長尾左衛門尉景春入道伊玄、定政へ馳着ける、是を初として、左右良臣何も勝たる義士有けれは、縦小勢の味かたにても、敵何万騎ありとも不恐と、案のなかに推量して、気色かはらすおはしける、長亨二年戊申二月五日、山内の軍勢を引具して、顕定憲房両大将にて一千余騎、相州実蒔原に出陣す、依て定政僅逞兵二百騎相具して、長途を一日一夜に打越て、填然として少も不擬議、不を勇鋭追かゝりて、鬨を三度作て、颯と乱て、追つ捲つ半時計戦て、両陣互に地をかへ、南北に分て、其跡を顧れは、原野染血、山林易緑、暫休て又乱合て、縦横無碍戦しか、山内大勢、扇谷の小勢に打負て、四方に乱て落行は、定政も以小勝大、喜悦の眉を開つ、凱歌を唱て還りける、
オープンアクセス NDLJP:385
 
高見原合戦之事
 
其後所々の雑合止時なく、不昼夜戦けり、就中長亨二年戊申六月八日、山内殿上杉民部大輔顕定同兵庫頭憲房、須賀原へ出陣す、坂東八ケ国の勢兵、我もと馳集て如雲霞、甲胄の光は輝わたりて、明残る夜の星の如くして、鳥□の陣をそ堅めける、扇谷殿上杉修理大夫定政子息五郎朝良、古河の公方の御動座を申し成し、打立御旗、長尾景春入道参りしか、小勢なれとも家の安否身の浮沈、唯此一軍に可定と、各勇進て、敵東西に有とも不思気色也、然とも、定政弟ならひに子息五郎朝良若輩にて、今日初の戦なれは、真先かけ、長尾新五郎同修理亮に掛合、散々に追立られて、顕定憲房是に横合に掛て、散々に追立て、諸軍機を得て抜連て掛る所に、定政高処に馬を打揚、追返せと下知して懸出し給ふ、左右の軍兵大将の前に馳抜々々、一度に破乱離と切てかゝる、喚叫に戦ふこゑ、さしも広き武蔵野に余許そ聞えける、かゝる処に、長尾伊玄入道藤田□□□と掛合追散して、其軍勢を其儘横に立直し、山内殿の旗本へ突て懸る、顕定憲房両方の敵に追付られて、終に打負引退く、其後軈定政、公方の御動座を申成、高見原へ出張す、顕定聞て即押寄攻給ふ、扇谷の先手の軍兵被懸悩、引色に成ける所に、定政と伊玄入道、荒手を替て攻立けれは、顕定の兵戦疲で引退く、是迄い扇谷殿毎度雖勝、人馬皆疲ぬ、若党不其数被討けり、されは山内方は何も大名高家にて、軍勢沢山なれは、縦軍に負る事度々なりといへとも、分国広けれは、重て大勢を催し退治せ​んイ​​し​​ ​に、最容易るへしとそ申ける、
 
早雲蜂記之事
 
爰に伊勢平氏葛原親王の裔孫伊勢新九郎長氏入道宗瑞と云人あり、備中の国の住人たりしか、壮年の頃より京へ上り、公方に奉仕しける、少年の初より漁猟を好て、身を山林河海に寄て、馬に乗ては悪処を落し、越巌石事得神変、偏造父か執御、千里に不疲も是には不過とそ覚ける、水練は憑夷か道を得て、驪龍領下珠をも自奪つへし、弓は養由か跡を追しかは、弦を鳴して遥なる樹頭の棲猿をも落しつへし、射巧にして人を懐け、気健にして膚不撓しかは、戦場に臨度毎に、堅に当り強を破て、敵を靡けすと云事なし、されは似たるを友とする事なれは、其頃伊勢国に荒木山中多目荒河佐竹大道寺早雲、以上七人何も不劣人々也、此勇士共常に親遊ひけるか、或時七人一同に関東へ弓矢修行に下ける時、七人神水を飲て誓けるは、此七人如何なる事有とも、不和の事有へからす、互に助成して軍功を励し高名を極めつへく、中にも一人勝て大名とならは、残人々家来と成て、其一人を取立、国を数多可治とて、各東国に下つく、思々に有付ける、伊勢守新九郎は、駿河の国司今河氏親へ仕へてけり、度々の戦功ありけれは、今川殿其功を感し、富士郡下方の庄を賜て、高国寺城に居す、于時長亨二年戊申十月韮山へ移ける、此時伊豆国は上杉の分国也、幸高国寺より程近けれは、如何にもして伊豆国を討取はやと、宗瑞常に思ひけるに、伊豆国に堀越城御所とて、公方おはします、政知の御子也、成就院殿是也、彼御所時に外山豊前守秋山新蔵人と云忠功の者有しを、佞人放埓の奸臣共、渠か出頭を猜み讒言しけるを、御所御蓮の末にて、無御糺明も二人の侍をオープンアクセス NDLJP:386討給ふ故、家中の面々大に騒き、各心を置合て、国中更に静ならす、蒐る時を得て、早雲伊豆国に湯治して有しか、此形勢を見澄して思けるは、今日此比両上杉の合戦に、伊豆国中の軍兵并御所侍共、跡を払て関東に発向し、残る人々纔なれは、早雲大に悦ひ、彼荒木山中大道寺多目荒川佐竹六人の兵を招きぬ、今川殿へも此旨を申、加勢を請、伊豆へ急発向せり、御所方には俄事にてあるなれは、無楯籠、如何せんと驚て、即山林に引籠らせける、御所の侍関戸播磨守と名乗て切て出、シハ々たゝかひけるか終に討死してけり、其のち堀越殿も不叶して自害ありしかは、早雲伊豆へ推移り、北条に旗を立、韮山に在城し、家を興して、竟爾五代の栄耀を開き、武勇の名をそ残しける、

  明治十七年八月                近藤瓶城校

  明治三十四年十一月再校了           近藤圭造

 
 

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