上杉輝虎注進状
【 NDLJP:131】上杉輝虎註進状
一、乍恐謹而言上。抑某去十日於㆓信州川中島㆒、甲州武田と令㆓参会㆒、一合戦仕、甲州勢致㆓敗北㆒候趣。
一、輝虎事、以㆓御厚恩㆒居㆓関東管領職㆒候上者、私之備弓箭先切㆓随東国㆒令㆓上洛㆒候半と存念に付、村上義清に対為申分、輝虎・義清同道仕、去八月八日、越後国春日山打立、信州へ致㆓着陣㆒候事。
一、越後罷立候刻、輝虎老臣共に向而、今度は信玄人数半分為㆑捨、手詰之勝負決候由、荒言申渡事。
一、今度致㆓手引㆒候信州侍高梨・井上方へ、前廉申越候者、去年和田喜兵衛為㆓手引㆒、上州和田之城可㆓乗取㆒旨申越候間、輝虎令㆓出馬㆒候得者、
一、親父兵部大輔憲政入道立山因により、上州侍可㆑令㆓出馬㆒之旨候得共、一人も召連不㆑申候事。
一、輝虎者、今度実否之勝負と存詰候処、究竟之侍共勝罷出候刻、善光寺へ懸、犀川之市村之渡越丹波島着、川中島を過、御幣川・千隈川蔵品川三つの大河を越、赤坂山より清野へ罷出、西条山に陣取申候。是は態致㆓深入㆒、信玄に為㆓跡切㆒、味方之上下心を一存切候様にと存、如此に候事。
一、輝虎は西条山へ上、海津之城見下、是非乗取候、訖と沙汰を聞、海津之城主高坂弾正驚、早打を以、甲州へ令註進候付、信玄入道三万の着到にて、八月十八日甲府罷立、同廿四日筑摩川を越、土減・八代より、筑摩・雨宮近辺、無㆓錐立地㆒陣取、雨宮を限、旗を立申候。則輝虎兼々如㆓下墨㆒、雨宮の橋を焼落、越後の通路留申候。謙信之対陣仕候。然共両陣の間に、赤坂山候而、合戦不㆓罷成㆒候。其上輝虎少も働不㆑申候故、信玄色々不審を候而、八月廿七日昼の下刻にても候訖。信玄三十騎計にて、赤坂山へ登、輝虎陣所致㆓看得㆒体見え申候。後承候得者、越後勢合戦を持候はゞ、此中の間放れの勝負にても、少可㆑有㆑之処、謙信一向取合不㆑申候得者、如何様不審と信玄申候由。信玄は同廿九日五つ時分、雨宮を引、松原之町を通り、海津之城へ取込申候。後承候得者、越後への通路を開候者、謙信定て川を越、可㆓引取㆒之条、其引足を従㆓海津㆒追懸、可㆓討果㆒と評定仕、致㆑如㆑是候事。然者輝虎、少も動転不㆑仕候故、色々信玄
【 NDLJP:133】 一、九日の夜より、信玄陣所海津の城中、兵糧支度の火焼動揺仕候煙気を、輝虎西条山より致看得候処へ、輝虎家にて、団を預け候宇佐見駿河守定行入道参候て、信玄軍を持候由申候故、共々宇佐見と相議を究、扨村上義清・長尾近景を呼申渡候は、某十八歳、信玄廿七歳の秋より弓箭を企、度々挑戦候得共、信玄一度も不脱候故、終一度も勝負不仕候。是より信玄に備を付けさせ、為㆑可㆑軍持摺懸挑、芝居を引除て、後れ色を顕候処、甲信の説に、信玄と取組ては、度々軍を廻し、芝居被㆑取、空引除由、取沙汰仕候由承候。然るに軍神八幡の冥感にかかり、輝虎多年の本望可㆓相叶㆒見申候仔細は、今夜信玄人数を二手に分、其一手は、此陣へ押寄て合戦を始ば、謙信不㆑寄㆓勝負㆒、筑麻・御幣川を越可㆓引取㆒候。左候処を、信玄は旗本を以、川中島に待請、可㆓討取㆒と有、行手に取様覚候条、今夜頓て輝虎川を越、川中島にて夜を明し、日出ば合戦を取懸、信玄旗本を、輝虎旗本を以為㆑懸、勝負を決し、此表へ向たる武田か先手の不㆓懸着㆒以前に、信玄は輝虎と勝負を決し、刺違死か、組討にするか、何れ明日は有無の合戦可㆑仕と申渡、兼て定候により、飛脚を以、鳥討坂へ申越、其夜の四ツ過、輝虎致㆓物具㆒、西条山を卸下り、清野を過、赤坂の渡を越、御幣川を渡し、川中島へ移、綱島を左に当、御幣川を右になし、丹波島を後に当て、原の町の西北に、東へ向て十二備に立候。宇佐見定行入道は、二千余にて、胴勢の放、大塚の西に遊軍にて相備候事
一、輝虎申付候。西条山へ向候武田先勢、河を越駈付候は、防可申旨にて、本城弥次郎重長・色部・大川・神幡・下条以上五組、筑麻川の端へ差向申候。此人数、大塚村の異の川縁を伝、筑麻の寺尾の渡より、三町余南に北へ向陣取申候事。
一、夜に越申候飛脚により、鳥討より、信州侍井上清正・高梨摂津守近頼二頭は、筑麻陣ヶ瀬を越、筑麻を致左、綱島を右に当、何も備申候事。
一、輝虎小荷駄奉行中条兵次郎を申付候。是は塩崎之渡の南北に、備を立申候事。
一、輝虎は如㆑此備を堅め罷在候得共、信玄は是を不㆑存、九日の夜の暁に、海津を立、寺尾之渡を越、川中島へ罷出候事。
一、前夕九日の夜は、月寒へ天気能候得共、夜半より雨降、東西見分不㆑被㆑申候により、信玄旗本組も、西条山へ向候先勢も、油断仕候由。殊信玄旗本は、十日朝霧深より、西条山の方のみ見申候て、今や〳〵と、先手一戦を待申候処に、十日の旭出で、霧晴上り、見申候得者、輝虎【 NDLJP:134】一万の勢を丸備に作、毗字の旗を真先に進、如何にも近々と備罷在候。其時信玄法師、始て仰天仕候由。然所へ何の手合になく、弓・鉄炮を放懸。輝虎団を挙、今日之合戦、輝虎一世之天運有焉。軽㆓身命㆒可㆑揚㆓名於万天㆒之旨、諸軍を励喚叫。此方諸手何も一備の内、物首計馬に乗、其外は悉下立、馬をば跡に曳せ、鑓取て懸。左は長尾越前守正景を先下して、三備右は斎藤下野守始、四備中筋は柿崎和泉守、柴田因幡守、先手に申付、二の手に輝虎押続、旗をうつ伏、軍勢三筋に分れ、鑓を調鬨を作突懸、合戦を始。信玄度々於武辺越度を不取、勇を関東に秀侍也。此度の一戦に、於㆑得㆓敗名㆒者、生涯之恥辱存切、進事有無退事、諸軍勢八千余騎に詞を懸、鑓玉を取待懸喚叫、一同に鉄炮を放懸ば、平地如霰降、輝虎先手の兵共、鑓衾を作甲を傾、死人を乗越々々、上下念仏を唱、無明の闇に突懸、両方より寄、鑓を打合、散々入乱、黒烟立攻戦、我先にと先登を争。信玄先手飯富三郎兵衛尉昌景・穴山伊豆守精兵七百人、弓手妻手打双、散々に切合、破入追立、両方の兵共、玉の汗を流、戦疲味方息終不論、死人啜㆑血息を継事多。信玄が剛兵共、捨㆓身命㆒防戦。故に輝虎が先手柿崎・柴田両備被㆓切立㆒、輝虎旗本の左右へ別、二町余致㆓敗軍㆒候。飯富・穴山之を追て、左右へ別進候に付、武田備組間腹に成候透間を幸と存、毗字の旗を真先押立。輝虎団を挙、諸軍を励し、すは懸れと下知を成、真先に進ば、相随兵共、混甲八百余、飯富・穴山が跡へ入違、中筋真一文字に切て懸候。向敵には、信玄嫡子太郎義信・今福・諸角等数千の兵渡合、切相突合、算を乱相戦。輝虎馬の左右にして、手柄高名勝負区々也。然処信玄法師が子息太郎義信致㆓下知㆒、近々と見申故、輝虎自身敵中に乗込、彼義信と令㆓参会㆒候。輝虎太刀を抜、義信を及㆓三刀㆒切附、已可㆑刎㆓彼首㆒処、義信恐㆓輝虎之太刀影㆒令㆓落馬㆒。彼が左右の勇士捨㆓身命㆒推隔之条、不㆑達㆓本望㆒、無念至極、不㆑可㆑尽㆓筆紙㆒候。然所に高梨摂津守正頼・井上三郎兵衛清正等、西の河原より鬨を作、横鑓入立候故、信玄が頼切たる士諸角豊後守、討死訖。甲州勢乱立候処へ、柿崎・柴田・長尾正景・同右金吾・川田等備崩押懸、右の方は斎藤下野守利実・松本大学・三条・山吉・長尾遠江守景治・村上義清等、原之町を横切進、中筋町の手左の手、一度に箕手に廻、矢楯も不㆑溜押入追返、悉首取追㆑北、諸手共に追申候。就中輝虎旗本は、信玄が右備を追立々々、信玄旗本へ、輝虎旗本を以切懸、信玄馬廻混甲千余輩、身命捨火花を散雖防戦、終切崩、輝虎旗本の兵共、勇進追乱候処、於㆓大塚村㆒信玄下知して曰、大河後に有、此にて可㆓返合㆒之旨、眼を瞋し励㆓諸軍㆒、其身【 NDLJP:135】令㆓下馬㆒、床机に腰を懸候故、甲州勢取て返、推つ押れつ半時計、黒煙を立火花を散して、合戦逮㆓五六度㆒。渡辺越中守翔、手勢引連乗越鑓を入、武田胴勢を突崩、過半追散、算を乱切戦候。此に宇佐見駿河守定行入道は、上杉顕定以来、度々顕武勇、為大功之武士、殊更軍配の謀長ずる故、輝虎彼に軍配団を預、軍の意見を問。此度定行入道手勢二千余輩左右随、定行団を挙て諸軍を励し、信玄備の真中へ鑓を入、矢楯も不㆑溜追崩候故、信玄が総軍勢又致㆓配〔敗カ〕軍㆒候。甲州勢、海津の城を志と云共、本城重長〔庄繁イ〕・色部・下条・神幡等、筑麻河原に控候に恐、信玄が敗軍の勢、或筑麻川に逃入、或御幣川飛入、或塩崎指て落退の輩、如散蜘子。輝虎が総手の兵共、切先を双、追付追廻、竭数川中に切浸最中、輝虎、先刻信玄法師が小忰目義信冠者を討遁無念に存、信玄を志候て、輝虎甲を脱、白手巾にて頭を包、駕㆓早鹿毛馬㆒、大太刀抜持、甲州勢を破て入。信玄は何国に居と尋廻候得ば、甲州の兵共之を見とがめ、信玄を尋候は何者ぞと申候内、左に信玄入道団を持、床机罷在宛、運は在㆑天、一足も不㆑可㆑退旨下知仕候を見付、天之所㆑与優曇華と悦、輝虎真一文字乗寄、謙信是迄の来由名乗候得ば、信玄吃驚、意得たり餓鬼目、物々しやと訇、立上らんと仕候処を、輝虎馬上より畳県、切申候故、信玄太刀を抜無㆑隙、団にて請候得共、輝虎為㆓物共㆒ず、世忰目々々々と訇立上、頭下操付、信玄腋を二太刀迄切付、已組んと志候処、彼が左右の勇士に被㆓押隔㆒、不㆑達㆓本望㆒、無念至極残念之次第也。輝虎冥加に尽、被㆑放㆓天道㆒、信玄法師を討遁候段、口惜儀者、難㆓落涙押㆒。声を揚吠申候。乍㆑云村上義清自身手懸、信玄が弟典厩信繁切落、被㆑致㆓高名㆒候故、少機嫌を直、信玄敗軍仕候を追討候処、信玄軍配山本勘介をも、川際にて討取、直御幣川を追越、川原一面に追立、平討に追立候事。
一、御幣川・筑麻川・蔵品川を追越候故、敵・味方不㆑知㆑数流死申候。就中土口は、屏風を如㆑為㆑立成処故、幸と存候て、輝虎旗本にて追詰、信玄法師が頼切たる横田源助始、二千余討取、残甲州勢をば、信玄父子諸共に、生垣山追上げ申候。家来水原・竹股・安田・加治・新河等、輝虎眼前にて手柄を仕候。高梨・井上は、赤渡を為㆑押申候訖。輝虎は、昼の頭に川中島を通り、小市の渉を越、
一、本城重長・色部・下条・神幡大川等、原之町迄引取候処、宇佐見定行入道・直江大和守押来、【 NDLJP:136】一手に成、小市の渡へ懸引退申候。西条山へ向候甲州の先勢、追々に駈付向、寺尾・原之町・綱島辺一面に、新手の甲州勢押寄来候故、宇佐見定行・本城重長・直江大和守等防戦、火花を散合戦仕、其間輝虎、小市の渡を越申候。宇佐見・本城・直江、堅固に殿を相勤、小市の渡渉、輝虎一手罷成候事。
一、輝虎小荷駄奉行中条兵次郎は、信玄方致㆓敗軍㆒、被㆓追余㆒候処、地の百姓一揆共、物取に出候て、其荷物を奪取候故、中条兵次郎散々合戦仕候を見、信玄人数を押返合戦を始、味方余討死候得者、中条切払、堅固に罷除候事。
一、今度此方へ討取申候甲州之者共、武田左馬頭信繁・諸角豊後守・横田源助・武田大坊・板垣三郎・半菅善四郎。駿河今川より加勢に罷立候朝比奈左京進・武田弾正・栗田讚岐・浅田三郎左衛門・山本勘助入道・三枝新十郎・初鹿源五郎・帯兼刑部丞大将分十四人、都合五千五十人、首実検仕候事。
一、輝虎家中手柄仕、抽㆓大功㆒候輩は、宇佐見駿河守定行入道・渡辺越中守・高梨正頼・井上三郎兵衛・杉本大学・安田掃部・長尾平十郎・長尾包四郎・元井日向守・長尾修理進・青河十郎・小田切治部少輔・荒河伊豆守・諏訪部二郎右衛門・水間掃部・長尾七郎・白杵包兵衛・田原左門・三宝寺宮千代・直江五郎吉・吉江木工助・長尾兵衛尉・北条丹後守・斎藤八郎、廿四人の輩、何も感状遣申候事。
右之条尽㆓委細㆒之段、雖㆑似㆓無礼㆒、誠無道之輩者、対㆓天下㆒不忠節也。何可㆑残㆓心底㆒乎。此等之趣、宜様窺㆓御気色㆒、不㆑洩御披露奉㆑頼候。輝虎恐惶謹言。
管領上杉不識庵謙信
輝虎
九月十九日
大館伊予守殿
上杉輝虎註進状 大尾この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
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