柿の木

• 底本:『聲』昭和十六年八月号
• 初出:『聲』昭和十六年八月号
• 註: この文書ではルビが使用されています。ここでは「単語（ルビ）」の形で再現しています。一部の古いブラウザでは、ルビが正しく見えない場合があります。
• 註: 底本の状態が悪いためルビ・異体字の判読が難しく、推測によって補った箇所がある。

柿　の　木

―癩者︀の療養生活より―

東條　耿一

　こないだ知（ち）人（じん）から貰（もら）つて庭󠄁（には）の隅（すみ）に植（う）ゑて置（お）いた柿（かき）の苗（なへ）木（ぎ）が、今朝（けさ）みるともう五分󠄁（ぶ）程󠄁（ほど）にやはらかな芽︀（め）をつけてゐる。私（わたし）は根（ね）づいた事（こと）を確（たしか）めて思（おも）はずほつとした。一木（ぼく）一草（さう）の類︀（たぐひ）にも神︀（かみ）に與（あた）へられた生命（せいめい）がある。それを枯（か）らしてしまふのはすまなく惜（お）しまれる。

　この柿（かき）は知（ち）人（じん）が丹（たん）誠（せい）して接（つぎ）木（き）したもので、まだ私（わたし）の背（せ）丈󠄁（󠄁たけ）にも足（た）らぬが、成︀（せい）長（ちやう）した曉（あかつき）には見（み）事（ごと）な實（み）を結（むす）んでくれることであらう。これを植（う）ゑる時（とき）、この木（き）に實（み）がなつたところを見（み）て死（し）にたいわね、と妻（つま）がいつた。根（ね）下（もと）に水（みづ）をやつてゐた妹（いもうと）は、――ほんとね、切（せつ）角（かく）植（う）ゑたんだから私（わたし）は一（ひと）つ位（ぐらゐ）味（あぢ）をみなくちやつまんないわ、と相（あひ）槌（づち）をうつた。

　――まあ此（こ）の柿（かき）がなる頃（ころ）には君（きみ）達󠄁（たち）の方（はう）が納󠄁骨堂（なふこつだう）に納󠄁（をさま）つてゐるよ。その時（とき）には俺（おれ）がさんざん食󠄁（く）つてから殘（のこ）つたのを 供（そな）へてやるよ、まあそれを樂（たの）しみにしてるんだね。と恰（ちやう）度（ど）來（き）合（あは）せてゐた友人（いうじん）が笑（わら）ひながら言（い）つた。　――さうかもしれん。然（しか）しそれでもいゝよ。と私（わたし）も笑（わら）ひ乍（なが）ら答（こた）へた。すると友人（いうじん）は又󠄂（また）いつた。

　――だが何（なん）だつて柿（かき）なんか植（う）ゑる氣（き）になつたんだい。そんな先（さき）の長（なが）い物（もの）よりトマトや西（すゐ）瓜（くわ）でも作（つく）つた方（はう）が、勝󠄁（しよう）負（ぶ）が早（はや）くていゝぢやないか。

　――いや勝󠄁（しよう）負（ぶ）は遲（おそ）くつても勝󠄁（か）つた方（ほう）がいゝよ。今（いま）これを植（う）ゑて置（お）けば、俺（おれ）達󠄁（たち）が食󠄁（く）へなくても、次（つぎ）の人（ひと）達󠄁（たち）が食󠄁（く）へるからね。

　然（しか）しこの友（とも）の眼（め）には、この小（ちひ）つぽけな苗（なへ）木（ぎ）と、もう見（み）る影（かげ）もなく繃帶（ほうたい）に󠄁包󠄁（つゝ）まれてゐる私（わたし）や妻（つま）の姿（すがた）を見（み）較󠄁（くら）べて、憐（あは）れな事（こと）ともつまらぬ植（しよく）樹（じゆ）とも映（うつ）るのであらう。昨（き）日（のふ）まで讀（どく）書（しよ）して居（ゐ）た者︀（もの）が、今日（けふ）ははや眼帶（がんたい）をして暗󠄁黑（あんこく）の世（せ）界（かい）に呻吟（しんぎん）しなければならない。かと思（おも）へば夕方（ゆふがた）まで元（げん）氣（き）に働（はたら）いてゐた者︀（もの）が一夜（や）の疾（しつ）患（くわん）に足（あし）を切斷（せつだん）し、咽頭（のど）を切開（せつかい）しなければならない。まことに癩（らい）者︀（しや）の病（びやう）狀（じやう）は今日（けふ）あつて明日（あす）を知（し）らぬ激（はげ）しい變（かは）り樣（やう）を示（しめ）すが、それかといつて唯（たゞ）目前󠄁（もくぜん）の事（こと）のみを追󠄁求（ついきう）し刹（せつ）那（な）刹（せつ）那（な）に生（い）きるのは餘（あま）りにも蕪（ぶ）雜（ざつ）でありすぎる。

　明日（あす）の生命（せいめい）は誰（だれ）も知（し）らぬ。目前󠄁（もくぜん）に迫󠄁（せま）つてゐる死（し）すら感（かん）知（ち）する事（こと）は出來（でき）ぬ。それ故（ゆゑ）にこそ却（かへ）つて生（い）きる事（こと）が貴（たふと）く愉（たの）しいのである。遠󠄁大（ゑんだい）な計（けい）畫（くわく）も樹（た）てられ、希（き）望󠄅（はう）も持（も）てるのである。明日（あす）を望󠄅（󠄂のぞ）み得（え）ないなら、尚（なほ）のこと今日（けふ）を生（い）きる事（こと）はむづかしい。十年（ねん）二十年（ねん）先（さき）が考（かんが）へられぬなら、目前󠄁（もくぜん）五分󠄁間（ふんかん）の事（こと）も考（かんが）へられぬ筈（はず）である。　五分󠄁間（ふんかん）も十年（ねん）二十年（ねん）の歲月（さいげつ）も所󠄁（しよ）詮（せん）は五十步（ほ）百步（ほ）である。明日（あす）の生命（せいめい）は知（し）らずとも、明日（あす）のために今日（けふ）を備（そな）へて生（い）きるのは、人（ひと）の踏（ふ）むべき道󠄁（みち）であり、正（たゞ）しい心（こゝろ）であつて明日（あす）を思（おも）ひ煩（わづら）ふ心（こゝろ）では決（けつ）してない。

　明日（あす）の爲（ため）に思（おも）ひ煩わづら）ふこと勿（なか）れ、明日（あす）は明日（あす）、自己（じこ）の爲（ため）に思（おも）ひ煩（わづら）はん、その日（ひ）はその日（ひ）の勞（ろう）苦（く）にて足（た）れり。

　私（わたし）は柿（かき）の芽（め）をあかず眺（なが）めた。この芽（め）の一（ひと）つ一（ひと）つが愛（あい）の心（こゝろ）の現（あらは）れである。私（わたし）が飽󠄁（󠄁あ）かずに眺（なが）めるのもまた愛（あい）の心（こゝろ）からである。このひと時（とき）の私（わたし）の生（せい）を、私（わたし）はしみ〴〵貴（たふと）く思（おも）ふ。