漱石山房の冬
わたしは年少のW君と、旧友のMに案内されながら、久しぶりに先生の書斎へはひつた。
書斎は此処へ建て直つた後、すつかり日当りが悪くなつた。それから支那の五羽鶴の
しかしその外は不相変である。洋書のつまつた書棚もある。「無絃琴」の額もある。先生が毎日原稿を書いた、小さい紫檀の机もある。瓦斯煖炉もある。屏風もある。縁の外には芭蕉もある。芭蕉の軒を払つた葉うらに、大きい花さへ腐らせてゐる。
わたしは天井を見上げながら、独り
「天井は張り換へなかつたのかな。」
「張り換へたんだがね。鼠のやつにはかなはないよ。」
Mは元気さうに笑つてゐた。
十一月の或
それが当時のわたしだつた。もう一人の大学生、――袴をはいたのはKである。Kは或事件の為に、先生の歿後来ないやうになつた。同時に又旧友のMとも絶交の形になつてしまつた。これは世間も周知のことであらう。
又十月の或夜である。わたしはひとりこの書斎に、先生と膝をつき合せてゐた。話題はわたしの身の上だつた。文を売つて口を
更に又十二月の或夜である。わたしはやはりこの書斎に
その時若いW君の言葉はわたしの追憶を打ち破つた。
「和本は虫が食ひはしませんか?」
「食ひますよ。そいつにも弱つてゐるんです。」
Mは高い書棚の前へW君を案内した。
× × ×
三十分の
「あの書斎は冬は寒かつたでせうね。」
W君は太い杖を振り振り、かうわたしに話しかけた。同時にわたしは心の中にありありと
「寒かつたらう。」
わたしは何か興奮の湧き上つて来るのを意識した。が、何分かの沈黙の
「あの
わたしは
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