清朝開国期の史料補録

 
オープンアクセスNDLJP:301 
 
清朝開国期の史料補録
 
 最近、在奉天の金梁君〈字は息侯〉より瓜圃叢刊叙録并続編を贈られたるが、其中に満洲老檔秘録序、崇謨旧檔跋の二篇がある、即ち其文は左の如くである。

満洲老檔秘録序

盛京故宮旧蔵満洲老檔一百七十九冊。分紀天命天聡崇徳朝事。多三朝実録、開国方略、東華録所不載。見所未見。聞所未聞。誠三百年来之秘史也。原本為無圏点体満文字。近蒙古。与通用満洲文字不同。繙訳至難。経満漢学士十余人之手。費時二載。今始脱稿。当分編百巻。以巻帙過多。校刊非易。遂択要摘録。名曰満洲老檔秘録。分上下両編。先付繕印。此不及全書二十分之一。以索観者多。聊快先睹云爾。戊午中秋。瓜圃老人。金梁。〈又徐世昌の満洲老橋序、及び林紆の跋あれども、今茲に之を略す。〉

崇謨旧檔跋

盛京大内崇謨閣。蔵有旧檔二種。一為満文百数十冊。所載皆太祖太宗朝事。オープンアクセスNDLJP:302 編年分紀。金息侯総管輯訳成書。世伝満洲老檔是也。一為漢文六冊。分載勅諭奏疏及朝鮮国書。皆天聡崇徳年事。息候録副編次。名曰崇謨旧檔。即是編也。息候留心掌故。抱残守闕。嘗輯刻国故零刊十数種。名曰瓜円叢刊。自撰叙録。流伝海内外。無不重之。是編所録奏疏。皆開国儒臣密籌帷帳。有署書房秀才者。即後来上書房南書房所自本。想見草創規模之簡略焉。羅叔言参事刊大庫史料。曽取以編入。与他種同託為庫書。其実非也。盖即崇謨旧蔵耳。崇謨両檔。久為各国所重視。日本早摂照為図。俄徳学者亦時訪息候。研討満檔。並借影其副本以去。而邦人知者転稀。満文老檔冊帙過多。未易付印。是編当早刊行。既免散失。且補国史所不及。幸息候速起図之。无補老人趙爾異。

 金氏は杭州駐防八旗の出身にして、満洲人中の学者なるが、其の満文老檔を見たとある記事に、単に無圏点老檣のみを見て、余が撮影したる加圏点老檔を見なかつたのは不審である。ともかく全部繙訳したのは感心すべきことで、余が撮影後十八年、未だ之を十分利用し得ないのは愧づべきことである。其の略本たる秘録は已に付印したとあるが、余はまだ之を見る機会を得ない。

 又趙氏の崇謨旧橋序によれば、金氏は漢文旧楷の副本をも写録したらしく、羅氏の史料叢刊中に付印された各項稿簿、奏疏稿は金氏の手から出たことが分る。憶ひ起す、明治三十八年に余が之を藍写真に取つた際は、実に親しく之を当時盛京将軍たりし趙氏の手より借り受け、又之を趙氏に還したが、趙氏は将軍署中で余から受取る時、この史料は自分も始めて拝見するので、珍らしい者であると話されたが、これは余が盛京宮殿の史料を一応全部閱覧した後、趙氏に依頼して借り出したものであるから、史料の発見は余が始めて為したのである。趙氏が日本早摂照為図とあるは、即ち余の事を指したのである。この旧檔は近頃市村博士が雑誌「史苑」の附録として、付印しつゝあるから、全部世に出づることも遠くはなからう。

 余は明治三十五年春に陳毅士可より元典章の猶ほ世に存せることを聞き、其年冬、清国に游んだ折、羅叔言よりも繆筱珊太史が之を蔵せるよしを聞いたが、杭州の丁氏八千巻楼に於て、亦偶然其の写本を見出し我が領事館在職中の岸倉松氏を頬して、全部録副した。処が後年清廷で修訂法律館を設けた際に、余が此書を録副しオープンアクセスNDLJP:303 た事が動機となつて、遂に之を付印することになつた。今通行する元典章は即ち其本である。他国の貴重なる史料が、屢々余の訪書に刺激せられて世に出づるやうになつたことは、聊か快心を感ずる事である。

 金氏は奉天に在て、其の故宮に就て東三省博物館を設立することに尽力して居らるゝやうで、其の故物陳列冊一本を併せ送られたが、其附録たる各閣庫存物総冊に左の目録を挙げて居る。

清寧宮等処   歴代帝王昼像九十六軸      分懸各宮

飛龍閣後七間楼 変架等物另有単         均多残欠

翔鳳閣後七間楼 殿板書籍四百零八種       経史子集均有

同       歴朝聖訓五十箱         満漢文均在内

同       上諭黄白摺二十二件       上諭督撫等摺

同       御筆墨拓三百四十一種      臨帖及題字等

翔鳳閣後三旗庫 布疋棉線皮革薬材及食塩等另有単 内務府三旗旧存貢品

敬典閣     玉牒二百五十五包二百三十五包       自順治至光緒年均全

崇謨閣     実録一千五百十三包       自太祖至文宗各朝全以後欠

同       実録図二包           絵太祖太宗戦蹟

同       聖訓三百八十包         自太祖至文宗全

同       老檔十四包           載太祖太宗朝事均老満洲文

太廟      玉冊玉宝全           自太祖至穆宗帝后全

文溯閣     四庫全書全

同       図書集成全

 余が記憶する明治三十八年より四十五年に至る頃の状態では飛龍閣後七間楼は磁器庫と称せられ、十万点程の磁器を蔵してあつたが、今は皆北京に運び去られてしまつて、勿論その後散佚した者が多く、一部分は武英殿に陳列されてあるらしい。其の当時の目録は余は之を写録してある。其頃は変架等物は清寧宮後の廂屋、変架庫と称する処に蔵せられて居た。翔風閣後七間楼は元と書庫と称せられてあつたが、其中の書籍が大方旧のまゝに残つてあるらしいのは喜ばしいことである。当時の目録は余はやはり之を写録してあるから、いづれ之を公表するつもオープンアクセスNDLJP:304 りである。余は其の中より満蒙二文の蒙古源流、西域同文志、旧清語等の書を借りて藍写真に取つてある。敬典閣、崇謨閣中の玉牒実録其他は旧のまゝに存してあるらしく、余は大正七年に故の張作霖雨亭を訪問した時も、其事を気遣つて、これら諸閣の一覧を請うたが、やはり旧のまゝであるのに安心した事を思ひ出す。其中にいふ所の実録図とは、即ち本文にいふ所の満洲実録で、其の写録し得なかつたことを今も遺憾に思つて居るものであるが、猶ほ完全に存在して居る以上、いつかは写録の機会があるだらうと楽しんで居る。其他に就ては余が満洲写真帖を参看せられたい。

(昭和四年六月記)

 
 

この著作物は、1934年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。