清朝初期の継嗣問題
実録にては清朝の祖を肇祖、諱は都督孟特穆とすれども、こは明人、若くは朝鮮人の記する所によれば、建州衛の酋長猛哥帖木児のことを誤り伝へたるのみならず、猛哥帖木児は、又た佟佳江站の湯を築む、附近なる董鄂部の祖にして、清朝の祖にあらざる疑あり[1]。されば興祖、諱は都督福満以前の事は、信拠するに足らざれども、興祖の父を錫宝斉篇古[2]といひ、肇祖の子たる充善の末子にして、祖居の地たる黒図阿喇居りしを見れば、蒙古其他の種族の如く、少子相続の制ありしにも似たれども、興祖の六子、即ち寧古塔貝勒[3]の中にて、第四子たる景祖諱は覚昌安[4]が祖基の黒図阿喇に【NDLJP:92 】居り、他の五人は分れて附近地方に居り、景祖の五子中、第四子たる顕祖諱は塔克世は[5]、又祖基の黒図阿喇に住せしを見れば、強ち少子相続制とも断じ難し。景祖の子にては、長子たる礼敦巴図魯尤も英勇なりしと実録に見ゆれども、其の子孫が宗家たりしにもあらず。太祖は顕祖の長子なりしが、継母の愛なかりしが為に、十九歳にして別居し、産を受くることも薄かりしといへり。されば此の時代に於て、継嗣に関する定制の認むべきなかりしなり。
太祖は一代に大なる版図を拓き、東は朝鮮に界し、北は吉林より今の露領沿海州に及び、南は旅順を尽し西は遼河を踰えて、一たびは寧遠に達せしことあり。此の如く大国を成せしことは、其の死後、継嗣を定むるの必要を来せし所以なること、蒙古に於てチンギスハン成吉斯汗の死後、其の国俗によりて、遺産分配の事は已に定まり、嫡妻たる孛児帖の少子拖雷が最も多く之を受けたるに拘らず、其の全版図の主として、更にクリルタイの決定を要せしが如くなりしなり。太祖の妻妾は数人ありて、其の生める子は左の如くなりき。
この外側妃庶妃生む所六子略す。
此の中長子褚燕、謀叛の罪ありとて殺されたるが、太祖の生存中より、毎月交る交る当直して、国政を視たる人々、一族中に四人ありき。即ち大貝勒代善、二貝勒阿敏、三貝勒莽古爾泰、及びチベイレ四貝勒皇太極なり。此四人は皆太祖の天命元年に封ぜられて和碩貝勒となりしなり。この内三人は太祖の子なれども、ひとり阿敏のみは太祖の同母弟舒爾哈斉の子なり。太祖実録及び宗室王公表伝によれば、舒爾哈斉は【NDLJP:93 】辛亥の歳〈万暦三十九年〉に死したるが其の諸子中阿敏の外にも、鄭親王済爾哈朗の若きは、後に容親王と共に順治の初年に政を輔けたれば、一族中重要なる地位に在りしは明らかなり。燃藜室記述〈巻二十三〉には丙子録を引きて、壬子奴児哈赤殺其弟速児哈赤。并其兵。侵兀剌諸会といへるが、太宗実録巻七に阿敏の罪状を数ふる項下に阿敏貝勒之父。乃叔父行也。当太祖在・時。兄弟和好。阿敏貝勒嗾其父。欲離太祖移居于黒扯木地方。令人伐造房之木。太祖聞其父子罪。既而欲宥其父。而戮其子。諸貝勒力諫。謂既宥其父。何必復殺其子。彼雖無状。不足深較。盍并養之。太祖于是収養其父子。及其父既終。太祖愛養阿敏貝勒。与己出三子。毫無分別。並名為四和碩四大貝勒。爾国人曽見為異父所生之子。而愛養有殊乎。とあれば、太祖が舒爾哈斉を殺せりとの説は信ずべからざるも、舒爾哈斉の一家が太祖を離れて独立するに足るの力ありしことは、粗ぼ推知すべく、是れ其の四大貝勒の一たりし所以なるべし。
太祖実録によれば、太祖は国家政事。子孫遺訓。平日皆予定告誡。臨崩不復言及。とあれども、其の継嗣に関して、何等言及さゞりしといふは疑はし。然れども是れ実は平日の予定せる所、死後に諸子が之を奉行せざりし者なるが如し。実録に曰く、
先是孝慈皇后崩後。立呉喇国満大貝勒女為大福金。大福金美丰儀。而心未純善。常払上意。雖有機巧。皆為上英明所制。上知之。恐其後為乱于国。預以書遺諸貝勒。曰我身後必令之殉。諸貝勒以上之遺命告大福金。大福金不欲従死。語支吾。諸貝勒堅請。曰先帝遺命。雖欲不従不可得也。大福金遂服礼服。篩以金玉珠翠珍宝之物。因涕泣。乃謂諸貝勒。曰吾年十二。事先帝。豊衣美食。二十六年。何忍離也。願相従地下。但吾二幼子多爾袞、多鐸。幸恩養之。諸貝勒皆泣而対。曰吾等若不恩養二幼弟。是忘父皇也。焉有不恩養之乎。大福金子辛亥辰刻。以身殉焉。年三十有七[7]。
この記事のみにては、継嗣問題と関係ありとは見えざれども、燃藜室記述に〈巻二十七〉に日月録を引けるに拠れば、
太宗実録巻一によれば太祖の崩後、大貝勒代善の二子、岳託、薩哈廉は皇太極は深く人心を得、衆の悦服する所なれば、速かに大位を継がしむべきことを、其父に告げたれば、代善は是れ吾が夙心なりとて書を作り、次日諸貝勒大臣の朝に衆りし時、之を出し示したれば、阿敏、莽古爾泰及び阿巴秦[9]、徳格類、済爾哈朗、阿済格、多爾袞、多鐸、杜度[10]、碩託[11]、豪格[12]等皆喜びて、遂に議を定めたり。太宗は父の遺命なしとて固く之を辞したれども、衆議堅くして郤くべからざるにより、位に即きたりとあり。但だ疑しきは、この会議中に、多爾袞、多鐸等のあることにて、恐らくは実録編纂の際の文飾に出でしならん。燃藜室記述に引ける丙子録には、
丙寅五月。建州奴曽奴児赤疽発背死。臨死命立世子貴栄〈一作冰二王子〉介。貴栄介譲弟弘他時。〈一作弘太始〉曰汝智勇勝於我。汝須代立。弘他時略不辞譲而立。
とあり。弘他時、弘太始も並に皇太極の対音なり、朝鮮所伝の説、必ずしも其の実を得ずといふべからざるに似たり。
かくの如くして太宗は国主となりたれども、所謂国主の地位は、如何やうのものなりけん。蒙古のチンギスハン成吉斯汗死後、オゴタイハン斡歌台汗の位に即ける時も、エリユチウツアイ耶律楚材の進言によりて察合台は、其の兄の位を屈して帳下に拝したるにて、蒙古にて尊属が拝礼あるは此より始まると元史の楚材伝に出でたる程なれば、王位と親属の位とは必ずし【NDLJP:95 】も一致せざる場合あるべし。太宗実録巻十によれば、天聡五年十二月丙申の上諭に
莽古爾泰貝勒因其悖逆。故科罰贖罪。革大貝勒称号。自朕即位以来。国中行礼時。曽与朕並坐。今不与坐。恐外国人聞見。不知彼過。反議我為不敬。彼年長于朕。仍令並坐何如。
といひしに、大貝勒以下の諸貝勒、不可なりといふ者半ばなりしが、代善は初め並坐を可としたれども、既にして、
切思我等既戴皇上為君父。又与上並坐。恐滋国人之議。謂我等奉上居大位。又如三尊仏。与上並列而坐。甚非礼也。(中略)自今以後。上南面居中坐。或与莽古爾泰侍坐上側。外国莽古諸貝勒[13]坐于我等之下。既奉為皇上。而不示独尊可乎。
とて諸貝勒に告げたれば、皆之を善しとして太宗も之に従へりといひ、実録巻十一には、此記事を承けて、天聡六年春正月己亥朔に
上率諸貝勒拝天謁神畢。出御殿。上両傍設二榻。命大貝勒代善、莽古爾泰貝勒坐。
とあり、又
朝罷。上以兄礼詣代善第拝之。上即位以来。歴五年所。凡国人朝見。上与三大貝勒倶同南面坐受。自是年更定上始南面独坐。
といへるを見れば、即位の始めは代善、阿敏、莽古爾泰と同坐して臣下に臨みしが如し。阿敏黜けられて後、所謂三尊仏となりしが、こゝに至りて独尊の位を正したれども、尚ほ家人の礼としては、兄代善を拝することを廃せざりしなり。故に国主の位は旗民の主といふ意義にて、支那の如き大一統の旨には合せざりし者の如し。其後莽古爾秦死し、数年を経て其の叛謀発覚せりとて、其遺せる属人財産を籍没し、長子豪格、及び庶弟阿巴泰に一部を分配せしが、其の大部分は自ら之を有せり。太宗は支那人主に有り勝なる雄猜なる性質を具へ、漸次に勢力を養ひ、阿敏去り、莽古爾泰死してよりは、其の最も親しかりし代善をも屢〻窘辱して頭の挙がらざるやうになしたり。代善の子薩哈廉は此際に処して非常に巧なる態度を取り、毎に其父をして太宗に逆らはしめざりしかば、太宗も薩哈廉には親頼し、之を好遇して、其【NDLJP:96 】の疾める時は之を臨視し、死するに及び親しく之を奠哭したるが、岳託は薩哈廉よりも素樸にして、倔強なる満洲人気質を脱せざりしかば、或る時較射の事ありしに弓を執ること能はずとて強ね、遂に弓を擲ちたれば、諸王より驕慢の罪死に当ると論ぜられたるが、太宗は之を寛うして爵を降し罰金を科したり。以て其の太宗に対し不満の意ありしを見るべし。
崇徳元年、太宗は内外諸貝勒、文武群臣の上れる寛温仁聖皇帝 尊号を受け、国を大清と号せり。蓋し此より以前は金国汗と称せしが、こゝに至りて明の皇帝と同様に皇帝となりしなり。此の位号を正すの議は亦薩哈廉の唱へし所なりき。但だ此に至りて疑問となるべきは、多爾袞の位置なり。多爾袞が太宗の時代に於て特に寵遇せられしことは、実録の記事に徴しても明白なるが、こは其の十七八歳の少時より軍に従ひて功あり、其の天性聡慧にして、メルゲンダイチン墨爾根岱青[14]の爵号を与へらるゝ程なりしが為のみとは思はれず。且つ満洲と朝鮮との交渉に関する史料に徴するに、甚だ解し難き処あり。朝鮮は太宗の天聡二年に於て金国[15]と戦ひ敗れて講和したるが、これより以後は金国汗と朝鮮国王とは対等の交際を為し居たるに、太宗が皇帝の尊号を称することを以て朝鮮に諮りし時、朝鮮は是れ明に対して独立する者にして、朝鮮をば其の臣属とする者なればとて、之を拒否したりしかば、崇徳元年より二年に亙りて清朝に攻められ、勢窮して降服し、之より清朝に対し、臣属の礼を取れり。奉天の崇謨閣に蔵せる旧檔中に[16]、朝鮮国来書簿なる者あり、即ち天聡、崇徳間の朝鮮国書の鈔本なり。之によりて朝鮮国王李倧(仁祖)が二月に降服して後、四月に始めて使を遣して謝恩表を上り、併せて貢物表単をも副へたるが、此時太宗に上れる以外に皇太子に上る箋、並に進物単を送りたることを知るを得たり。来書簿は崇徳六年までの分を収めたるが、歳時の朝貢には、必ず皇帝以外に中宮及び皇太子にも箋若くは貢単を上りたり。然るに此の来書簿にては、皇太子の何人たるを知ること能はず、清朝の実録も亦当時皇太子の位に在りし人あることを載せす。元来清朝が朝鮮を征伐するに至りし原因は、太祖の末年以来、明と絶ちたるが為に、従前明より輸入せる織物を獲ること能はず、又明に対抗せんが為に、其の都城附近に、言語風俗を同じうせる種族を移植し、為に食料の匱乏を告げたるより、両つながら之を朝鮮に仰がんとせるに在りたれば、或は貢物の多きを貪りて空位の皇【NDLJP:97 】太子を作りたるにあらずやとも猜したれども、猶ほ妥穏ならざれば、更に天聡年間の各項稿簿といへる旧檔を検せるに、左の二種の文牘を発見したり。
(一)天聡四年七月十一日一張同盟一張帯去
金国汗黄太吉。執政衆王、歹善、忙吾児太、阿把太、徳革雷、吉児哈郎、阿吉革、阿革朶児紅、朶朶、都都、岳托、何革、撒哈良等。告天盟誓事。為海島劉興治、劉興基、劉興良、劉興沛、劉興邦等殺其南朝官員。率各島官民。与我同心。恐後有違。故告天地。彼島中之人。或居島中。或上陸住。我不収納。合彼自作一国。待以客礼。及我先日走去金人蒙古断不問取。若違此言。不令作客国。及問取金人蒙古。或念劉家旧悪。及来見留住。天地鑑之。罪有所帰。夭折死亡。或劉家弟兄行詐。仍帰南朝。及懐二心。居中観望。則天地帰罪劉家弟兄。夭折死亡。若我両家。皆不違盟。誠信到底。則天地保祐。永受無疆之福。謹疏。
これ蓋し劉興祚の残党に対する誓書なるが、其列名の書き方を清朝官書に対照すれば、
黄太吉=皇太極 歹善=代善 忙吾児太=莽古爾泰
阿把太=阿巴泰 徳革雷=徳格類 吉児哈郎=済爾哈朗
阿吉革=阿済格 阿革朶児紅=阿格多爾袞 朶朶=多鐸
都都=杜度 岳托=岳託 何革=豪格
撒哈良=薩哈廉なり
(二)島中劉府来書
天聡四年八月分。遅秀才齎来。初一日到
客国臣劉興治、劉興基劉興梁、劉興沛、劉興邦等。致告於冥冥上帝。宥我不赦。敢数過愆。縁官不道。天数将終。我大金国汗。湯武尭舜之君。実有所以収拾人心者也。臣等有先見。遂戮職官陳継盛等。率衆帰服。金汗黄太吉。執政衆王、歹善、忙吾児太、阿把太、徳革雷、吉児哈郎、阿吉革、阿革朶児紅、朶朶、都都、岳托、何革、撒哈良等。対天盟誓。共図大業。自盟之後。彼此相信。永修和好。内有不軌。各踏喪亡。天誅其身。皇天後土[17]。共鑒斯言。伏仰汗威全獲畿邦。主客享福。国脈永綿矣。謹盟。
天聡四年七月二十三日 同盟官員
【NDLJP:98 】参将李登科 遊撃崔耀祖
都司馬 良 李世安 郭天盛 守備王才 何成功
この中の姓名も、全く前書と同じ。この中にて独り朶児紅の上に阿革の二字あるは注意すべきことなり。阿革即ち阿格は後世阿哥とも書せられ、満洲語にて王子の義にして、清文彙には王子の資格に冊封されし少き子と解したれども、冊封の義は元来の満洲には無かりし所なるべければ、単に王子の義にて、殆ど儲君の意を有するなるべし。太宗実録天聡九年正月丁丑の条に
礼部和碩薩哈廉貝勒遵旨伝諭曰。朝廷宗室。恐衆人莫弁。或致辱詈。已令繋紅帯。以表異之。又恐上下称謂顛倒。巳分別名号。如太祖庶子。倶称阿格六祖子孫。倶称覚羅。凡人称謂。就其原名。称為某阿格、某覚羅。(下略)
こと見えたり。実録の記述にも、此時より以前は阿格と称する者殆んど見えざれども、此時以後、太祖の庶子は皆某阿格と称し、大貝勒代善の子なども、碩托阿格と称せしこと見えたり。これ阿格の称を汎く宗室に及ぼせしが為にして、従前は阿格の称は更に尊貴なりしことなるべければ、朶児紅の阿革と称せられしは、其の皇太子の資格ありしによるにあらざるか。既にして崇徳年間に至り、太宗が皇帝と称せしを以て、更に改めて皇太子とせしならんか。
されば多爾袞は、太祖の最後の正妻の愛子として、当さに継立すべかりしも、丙子録、日月録に記せるが如き事情ありて、汗位は太宗に帰したるなるべく大福金が殉死に臨みて諸貝勒に付属したるも、其の継立を望む意ありしならん。
かくの如く太宗の立ちしは、一種の事情によりたれば、其の崩ぜし時又継嗣問題は紛糾を来せり。世祖実録巻一には崇徳八年八月乙亥の条に、和碩礼親王代善〈代善は崇徳元年和碩兄礼親王に封ぜられたり〉が諸王貝勒貝子公及文武群臣を会集し、大位久しく虚しうすべからざる以て、議を定めて太宗の第九子を奉じて位を嗣がしめ、共に誓書を立て、昭に天地に告げ、公議により和碩鄭親王済爾哈朗、和碩睿親王多爾袞を以て国政を輔理したりとあるのみなれども、此日の会議は決して無事に決定せしにあらず。朝鮮奎章閣所蔵の史料に藩陽日記及び瀋陽状啓といふ者あり。朝鮮の仁祖が清朝に降りし後、質子として其の世子及び二王子を奉天即ち瀋陽に送り置きたり。其の館所の旧址は、今も大南門内の地名に遺れり。日記は当時従行の臣の記せし所にし【NDLJP:99 】て、状啓は従臣より本国に時々送りし報告なり。其の秘密なる者には、特に秘密と記せり。日記によれば、癸未年八月初十日辛未の条に、夜分後皇帝猝殂とあり。而して状啓には左の一項あり。
承政院 開拆 秘密 癸未八月二十六日
十四日。諸王皆会於大衙門。大王発言曰。虎口帝之長子。当承大統云。則虎口曰。福小徳薄。非所堪当。固辞退去。定策之議。未及帰一。帝之手下将領之輩。佩剣而前曰。吾属食於帝。衣於帝。養育之恩。与天同大。若不立帝之子。則寧死従帝於地下而已。大王曰。吾以帝兄。当時朝政。老不預知何可参於此議乎。即起去。八王亦随而出。十王黙無一言。九王応之曰。汝等之言是矣。虎口王既譲退出。無継統之意。当立帝之第三子。而年歳幼稚。八高山軍兵。吾与右真王。分掌其半。左右輔政。年長之後。当即帰政。誓天而罷云。所謂第三子。年今六歳。是如為白乎弥。〈以下は別に下文に出す〉
是れ決して一通りの伝聞にはあらざるべく、確かに根拠ある記事ならん。此月の朔は壬戌なれば乙亥は十四日なり。大王とは即ち代善にして、虎口は又豪格の対音、即ち太宗の長子粛親王、八王は阿済格、崇徳元年武英郡王に封ぜらる。十王は多鐸、崇徳元年予親王に封ぜらる。九王は即ち多爾袞にして、時に睿親王たり。右真王とは済爾哈朗にして、時に鄭親王たり。世祖は実は実録に見ゆる如く、太宗の第九子なれども、当時の所伝かくの如くなりしならん。高山は即ち固山にして満洲語旗の義、八高山は即ち八旗なり。是如白為平弥は朝鮮吏道の文なり。此の立嗣会議は豪格、大統の多爾袞に帰すべき者たるを知りて、代善の己れを推せるを避けたるに、太宗に祭養せられし軍人は、尚ほ其の子を立てんことを望みたるが故に代善は此の紛議に預ることを欲せず、阿済格も多鐸も手を下すに由なく、纔かに多爾袞が臨機の措置の宜しきを得たるに因りて、議を定めたるなり。然れども此の決議は当時、一族間の意に満たざる者あり、越えて二日にして、忽ち一事変を生じたり。世祖実録、此月丁丑の条に曰く、
多羅郡王阿達礼往謂和碩容親王多爾袞曰。王正大位。我当従王。又往謂和碩鄭親王済爾哈朗曰。和碩礼親王命我。常至其府中往来。又固山貝子碩託遣呉丹至和碩容親王所言。内大臣図爾格及御前下等皆従我謀矣。王可自立【NDLJP:100 】為君。阿達礼、碩託又往視和碩礼親王代善足疾。与多羅貝勒羅洛宏同行。阿達礼、碩託登牀。附和碩礼親王耳語曰。衆已定議立和碩容親王矣。王何嘿嘿。于是和碩礼親王、和碩容親王白其言于衆。質訊倶寔。阿達礼、碩託坐擾政国伏誅。阿達礼母、碩託妻坐助逆誅。併誅所遣呉丹。羅洛宏因同詣和碩礼親王所収繋。以不知情免罪。(下略)
而して状啓に述ぶる所も、亦之と符合す。状啓には前文に続きて左の如く言へ、り。
俊王及小退密言子大王曰。今立稚児。国事可知。不可不速為処置云。則大王曰。既立誓天。何出此言。更勿生他意。往問於九王。則九王亦牢拒而入。往十王家要見。則十王曰。此非相訪之時。終始不出見。復問於大王。則大王曰。何為再発妄言。禍必立至。任汝所為。旋即発告。九王曰。吾亦聞知云。而十八日夕。捉致俊王小退於衙門。露体綁縛。并其俊王母及小退妻。即縊殺之。要退子及俊王弟二人。既縛而旋釈。党与皆不治。(中略)八王則心非其立幼。自退出之後。称病不出。帝之喪次。一不往来云々為白乎弥。(下略)
俊王とは即ち阿達礼にして、薩哈廉の子、代善の孫、時に頴郡王たり。朝鮮人が頴の音を訛り聞て俊と為せるならん。小退は碩託の対音朝鮮語の習として、名詞の尾にイ音を副ふるなり、碩託は代善の第二子にして、薩哈廉の兄なり。要退は即ち岳託にして、羅洛宏は其子なり。阿達礼の弟二人とは、勒克徳渾、杜蘭なり。実録に其の縛せられしことを明記せざれども、之を以て粛親王に給したりとあれば連坐せしに疑なし。此の二書の記する所によりて、此時猶ほ多爾袞に継立の資格あるを認むる者ありしことを知るべく、多爾袞は後に摂政王として、権勢熏灼せし時に当り、復た此際の事情を暴白して、其の世祖を立つるの意を明らかにしたることあり。世祖実録〈巻二十二〉順治二年十二月癸卯の条に曰く
摂政王多爾袞集諸王貝勒貝子公大臣等。遣人伝語曰。今観諸王貝勒大臣。但知語媚于予。未見尊崇皇上者。予豈能容此。昔太宗升遐。嗣君未立。諸王貝勒大臣等。率属意于子。跪請予即尊位。予曰。爾等若如此言。予当自刎。誓死不従。遂立皇上。以此危疑之時。以子為君。予尚不可。今乃不敬【NDLJP:101 】皇上而媚予。予何能容。自今以後。可悉識之。有尽忠皇上者。予用之愛之。其不尽忠。不敬事皇上者。雖媚予。予不爾宥也。溯茲鴻緒。創自太祖太宗。二聖所貽之業。予必力図保護。俟皇上春秋鼎盛。即行帰政。子之声名。豈眇小耶。夫太宗恩育予躬。所以特異于諸子弟者。蓋深信諸子之成立。惟子能成立之也。此意予洞知之。安知爾等之知与否也。其所以不立粛親王者。非予一人意也。諸王大臣皆曰。若立粛王。我等倶無生理。因此不立。乃彼時不肯議立。而今後市恩修好者有之。諸王貝勒皆以為然。惟和碩徳予親王多鐸不答。所遣大臣問曰。衆人皆言。惟王不出一語。是何意也。王以為未喩其意。是以不対。大臣還以此言啓摂政王。王笑而言曰。予遣与阿済格尼堪言。此言一出。予親王必黙然無語。今果如料。乃有如此之奸人耶。又令大臣往悉数其事曰。昔国家有喪時。予在朝門。坐帳房中。英王予王皆跪于予前。謂即尊位。謂両固山大臣属望我等者多。諸親戚皆親言之。此言豈為有耶。当爾等長跪時。予端坐不動曰。爾等若如此。予惟有一死而已。曽何時見兄至而不起耶。英王以為誠然。予親王復云。即請尊位之言有之。両固山属望我等之語。未之有也。大臣即以此言入告摂政王。王又令詰之曰。汝以此言為無。昔此言不出諸英王。而実出諸汝也。汝不曰固山額真阿山阿布泰在外。皆謂伊等親党属望于予耶。予王語塞引罪。諸王貝勒大臣以予王妄対于理不協。欲議罪。摂政王以事在赦前。且子之誠諭。原各令自省。非欲加之罪。免之。
多爾袞が此の如き与望を負ひながら、一部軍人太宗の恩顧に報ぜんとする者あるが為には、決然として尊位を棄てゝ、太宗の子に譲り、且つ之を保護して成立に至らしめしは、泰伯の譲徳に周公の輔相を兼ねたりと称すべく、其の定策の功、大なり。代善が其の子孫の言に惑はず、容親王に謀りて大義親を滅せしも、亦偉なり。顧ふに太宗は満洲興廃の一大戦たる薩児滸山の役に、最も勇武を見はし、代善も其の弟に如かずとの感を抱きたる程なれば、軍人の人望は、其子孫にも及び、且つ多爾袞に対しては、終始恩育して継立の際の私情を挟む形迹なかりしかば、多爾袞も其の崩後に於て之を報ぜし者ならん。かく満洲人の懿親に篤かりしは、其の興隆の一因とも謂ふべく、為めに紛糾せる継嗣問題も、声色を動かさずして決せられたるなり。【NDLJP:102 】是れ満洲、蒙古の若き半開民族の習慣には背くも、其の能く習慣を破る処、実に興隆気象の存する処なりしなり。容親王は太宗の崩後、其の皇后、即ち世祖の母と通ぜしとの説あり。其他にも囲門に於て失徳なきにあらざるも、是れ半開民族の英雄に有り勝の事なれば、深く咎むべからず。其の能く自己に纒繞せる事情に累せられずして、清朝の創業期に於ける難事を立談に定めたるを美とすべきのみ。
以上の事実によりて考ふるに、清朝の初期には正妻、特に最後の正妻の子を以て継嗣とするを常とすれども、創業時代の事情に拘せられて、太祖の諸子中、軍民に人望ある者が立つことゝなり、更に其の人望は其の子の時代まで勢力ありしことを見るべく、蒙古人が遺産相続と汗位とを別問題として考へしと同じからざりしなり。
附註
- ↑ 芸文第三年第三号、拙著「清朝姓氏考」
- ↑ 篇古は恐らく漢語にて官名なる百戸の転訛せる満洲語にして、満洲人が毎に少子に名くる所の者なり。金史国語解に蒲陽温曰幼子とあるも同語なり。
- ↑ 寧古塔は即ち満州語六の義にして、又之を六王といふ。今の事古塔の地に擬するは謬れり。
- ↑ 明人の記録には教場又は叫場とせり。
- ↑ 明人の記録には、塔失又は他失とせり。
- ↑ 又福晋に作る。蒙古語元真と共に漢語夫人より出でたり。
- ↑ 此の記事は伝鈔本清三朝実録に出でたれども、乾隆の時に修正せられたる実録には之を删去せり。故に王先謙の東華録にも載せず。但し盛京崇謨閣に蔵せられし満蒙漢三体太祖実録戦図には、尚存したれば、伝鈔本の方、原修本に同じきを知るべし。明治四十五年、奉天移庫の史書を写真せし時、実録戦図を影照せんと企てゝ事に礙げられて果さゞりしはかへす〴〵も遺憾なり。(「清朝開国期の史料」参照)
- ↑ 太宗実録には、其名が偶然にも漢語の皇太子、蒙語の黄台吉と暗合せりとて、其の大位に上るべき兆なることを説けり。原と漢語より出でしは明らかなり。
- ↑ 阿巴泰は太祖庶妃の子。
- ↑ 杜度は褚燕の子、太祖の長孫。
- ↑ 碩託は代善の子。
- ↑ 豪格は太宗の長子。
- ↑ 蒙古の対音。
- ↑ メルゲン墨爾根は蒙古語賢智の意、ダイチン岱青は蒙古の爵号。
- ↑ 即ち満洲なり。当時実は満洲の国号なし。
- ↑ 芸文第三年第十一号、「清朝開国期の史料」中に漢文旧橋とあるもの是なり。
- ↑ 皇天後土、后字後に作る、原書此の如し。
(大正十一年一月史林第七巻第一号)
附記
各項稿簿、劉府来書は、近年羅叔言の刊行せる史料叢刊中にも出でたれども、崇徳以後の朝鮮国王来書は朝鮮板の同文彙考の外、未だ刊行せられず。
伝鈔本実録にては、阿格の称は毎に名の下に附せらるゝ習慣なるが如くなれば、天聡四年七月十一日の誓書及び同年八月劉府来書の阿革も或は阿吉革(阿済格)に附すべき者ならんかとの疑あり、たゞ前後の事情より推して、阿済格は約喇福金の長子にてありながら、太祖の継嗣たりし資格ありしこと曽て之なかりしが如くなれば、之を朶児紅(多爾袞)に附すべき者と定めたるなり。
(昭和三年十二月記)
この著作物は、1934年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。