江談抄/第一
被㆑命云、延長末貞信公(〈忠平〉)以㆓小野宮殿(〈実頼〉)〔〈貞信公息〉〕加級事㆒被㆑申㆓延喜聖主㆒。主上不㆓具許㆒。其後叙位日貞信公称㆓所労㆒不㆑令㆑参。于㆑時大臣只一人也。召㆓大納言道明卿㆒、又称㆓所労㆒不㆑被㆑参。依㆑無㆓中納言例㆒叙位停止。明日節会、道明卿参上、主上被㆑仰云、去夜称㆓所労㆒不㆑参。今日参仕如何、可㆓弁申㆒。道明退出之時歎曰、道明を有㆑私と思召にこそ有けれ。此外無㆑所㆑言、還㆑家之後有㆓所労㆒不㆑参、遂以薨逝(〈六月十七日〉)。
惟成弁任㆑意行㆓叙位㆒事。
又云、花山院御即位之日、於㆓大極殿高座上㆒、未㆑触㆓刻限㆒、先令㆑犯㆓馬内侍㆒給之間、惟【 NDLJP:165】成弁驚㆓玉佩并御冠玲声㆒、称㆓鈴奏㆒持㆓参叙位申文㆒、天皇以㆓御手㆒令㆑帰給之間、任㆑意行㆓叙位㆒云々。
内宴始事。
又被㆑命云、内宴始者嵯峨天皇之時始也。弘仁四年癸巳之歳、翫㆓桜花㆒之序、野相公篁書㆑之云々。翫㆓桜花㆒之題善相公進㆑之。
八十島祭日可㆑避㆓主上御衰日㆒事。
又云、八十島祭者、多以㆓酉日㆒為㆓使立并行㆑祭日㆒。若日次不㆑宜之時、雖㆑不㆑行㆑之、使立并行㆓祭日㆒之間、一日〔廿一日イ〕用㆓酉日㆒。而延喜主十四歳之時、被㆑立㆓件使㆒、酉日御衰日也。主上(〈堀川〉)廿二歳(〈康和二〉)仍以㆓酉日㆒為㆓御衰日㆒。依㆑然又避㆑之。
同祭日猶被㆑避㆓儲君御衰日㆒例。
又云、延久(〈後三条〉)之時、雖㆑不㆑当㆓主上御衰日㆒、以㆑当㆓儲君(〈白河〉)御衰日㆒、亦避㆑之。
仁王最勝講并臨時御読経仏具居様事。
又云、禁中仁王講・最勝講并臨時御読経、又御仏名等、仏具置様、并居様、皆以不㆑同也。講筵者多㆑自㆓御読経㆒、御読経多㆑自㆓仏名㆒云々。
石清水臨時祭始事。
又云、蔵人式云、石清水臨時祭者、安和□年三月中午日、所㆑被㆓始祭㆒也。使大入道殿(〈兼家〉)也。舞人装束下襲桜色之〔云イ〕非㆑常。宰相江〔以イ紅イ〕銅自〔白イ〕死〔臭カ〕不㆑次㆓納言㆒。
賀茂祭放㆔免着㆓綾羅㆒事。
被㆑命云、放㆔免賀茂祭着㆓綾羅㆒事、被㆑知哉如何。答云、由緒雖㆑尋未㆑弁。被㆑命云、賀茂祭日於㆓桟数㆒、隆家卿問㆓斉信卿㆒云、放㆔免着㆓用綾羅錦繍服㆒、為㆓検非違使供人㆒何故乎。戸部答云、非人之故不㆑憚㆓禁忌㆒也。公任卿云、然者雖㆑致㆓放火殺害㆒、不㆑可㆑加㆓禁遏㆒歟。他罪科者皆加㆓刑罰㆒、於㆘着㆓美服㆒条㆖、有㆓指証文㆒歟。斉信卿答云、贓物所㆓出来㆒物を染摺成㆓文衣袴等㆒。件日掲焉之故、所㆑令㆓着用㆒歟。四条大納言(〈公任〉)頗被㆓甘心㆒云々。
最勝講被㆓始行㆒事。
又被㆑談云、最勝講、一条院御時被㆓始行㆒也。長保四年五月七日以後被㆑行者也。三【 NDLJP:166】条院御時不㆑被㆑行歟。
相撲節日賜㆑禄公卿起
浄御原天皇始㆓五節㆒事。
又云、清御原天皇(〈天武〉)之時、五節始之〔也イ〕。於㆓吉野川㆒皷㆑琴。天女下降、於㆓前庭㆒詠㆑歌云々。仍以㆓其例㆒始㆑之。天女歌云、をとめごがをとめさびすもからたまををとめさびすもそのからたまをと云々。
五節時滝口殊饗応事。
又問云、五節時、滝口殊令㆓饗応㆒事何故。被㆑命云、無㆓指例㆒。只周防守通宗〈通俊兄也〉献㆓五節㆒之時相㆓語滝口等㆒、以㆓美麗装束等㆒、各令㆑与也云々。為㆑仕㆓五節之役㆒也。
賀茂臨時祭始事。
又云、亭子院(〈宇多〉)時、賀茂臨時祭始事。村上之時、主殿寮下部令㆑問㆓先朝作法㆒事。
仏名有㆓出居㆒否事。
仏名之時有㆓出居㆒否事、先年故資仲卿与㆓資綱卿㆒被㆑論云、是普通之事、何及㆓争論㆒哉。又立㆑磐之事、故経信卿与㆓隆俊卿㆒有㆓相論㆒、彼時未㆓一決㆒云々。
幼主御書始事。
被㆑談云、幼主御書始、是待㆓十二月庚寅日㆒、被㆑始事也。無㆓件日㆒年者不㆑被㆑行。
御馬御覧日、馬助以上可㆓参上㆒事。
往代御馬御覧之日、馬助以上参上云々。又被㆑命云、忠文民部卿為〔馬イ〕助之時、延喜聖主御馬御覧之日、参㆔入自㆓滝口陣方㆒、伺㆓候東庭㆒。〈于㆑時北下也。〉西之〔足イ〕駕㆓御馬二疋㆒、忽以相沛艾無㆑人。範当〔副イ〕忠文自進出取㆓放之㆒、事畢退出之間、寮御馬部宿老者、一人偸語云、阿波礼葉江奈幾与加奈、先朝乃御時奈良末之加波云々。主上聞㆓食此事㆒、令㆑恥給云々。
神泉苑修㆓請雨経法㆒事。
又云、神泉苑修㆓請雨経法㆒四箇度、人々大僧都空海一七箇日不㆓雨降㆒、延㆓二箇日㆒九箇日、龍破㆓神泉苑㆒上㆑天、即降雨。天下潤沢、陰陽師滋㆓岳川〔門イ〕㆒、人勤㆓五龍祭㆒。今度殊同㆓成精之度㆒云々。【 NDLJP:167】又云、大僧都元果一七箇日雨不㆑降、延㆓二箇日㆒至㆓九日㆒雨降。
又云、小僧都元真一七箇日雨不㆑降、延㆓二ヶ日㆒遂不㆑降。仍隠㆓居鎮西安楽寺㆒云々。
又云、阿闍梨仁海、寛仁二年六月四日始、五箇日之間雨降、可㆑任㆓律師㆒之状蒙㆓宣旨㆒。
八月十一日任㆓権律師㆒。陰陽師安倍吉平三勤㆓五龍祭㆒云々。
延喜聖主臨時奉幣出御間事。
或人語云、延喜聖主臨時奉幣之日出㆓御南殿㆒。先㆑是有㆓風気㆒、把㆑笏着㆑靴欲㆑奉㆑拝之間、風弥猛、御屛風殆可㆓顛倒㆒。被㆑仰云、阿奈美久留志乃風也。奉㆑拝㆑神之時爾、何有㆓玆風㆒哉。即時風気俄止。御起伏之間、御鬢委㆑地、自㆓靴後㆒見。甚以長く御座しけるにこそあめれと云々。宇治殿(〈頼通〉)所㆑被㆑仰也。
花山院御即位之後、太宰府不㆑帯㆓兵仗㆒事。
又被㆑命云、花山院御即位之後十日、太宰府帯㆓兵仗㆒之者無㆓一人㆒。是皇化無㆑程遠及之験也。
警蹕事。
或人云、警蹕問云、天子用㆑之。〈見㆓文選㆒。〉私行之時、何用㆑此哉。答云、公卿皆隠、公達隠也。秘事云々。
又云、警蹕者、文選云、出警入蹕。是天皇迎送〔近辺イ〕事歟。近衛司誡㆓諸人㆒之義也。卿相公達私行之時、誡㆓諸人㆒者、卿相皆隠公達隠也云々。此事都督之説也。
殿上陪膳番三番准㆓三壺㆒事。
又被㆑命云、殿上陪膳番定事、花山院御宇時始也。時人可㆑結㆓六番㆒之由定申也。而惟成弁議云、負㆓三壺巨鼇㆒結㆓四番㆒准拠、件無極家誓可㆑為㆓四番㆒者、尚可㆑結㆓三番㆒也。詳見㆓漢書㆒。時棟〔大江匡衡之子〕知㆓此事㆒、又殿上簡㆓三番㆒也。見㆓文選巨鼇之文㆒故也。
殿上陪膳番起事。
殿上葛野童絶了事。
紫宸殿南庭橘桜両樹事。
内裡紫宸殿南庭、桜樹橘樹者旧跡也。件橘樹地者、昔遷都以前橋本大夫宅也。枝条不㆑改及㆓天徳之末㆒云々。又秦川勝旧宅者、但是或人説也。
入道師(〈資仲〉)談曰、安嘉門額者、髪逆爾生之童乃着㆓靴沓㆒之体也。昔渡㆓行件門前㆒之者、時々依㆑被㆓踏伏㆒、窃人登行摺㆓損中央㆒云々。
大内門額等書人々事。
予問云、件額等誰人手跡乎。答云、南面者弘法大師、東面者嵯峨帝、北面者橘逸勢云々。就中皇嘉門額、殊有㆑霊害㆑人之由見㆓秘記㆒云々。又大極殿額者、敏行中将手跡也。但火災以前誰人書乎。
摂政関白賀茂詣共㆓公卿并子息大臣㆒事。
摂政関白賀茂詣共㆓公卿并子息大臣㆒、御前弁少納言、御後検非違使等令㆓供奉㆒、始㆓於何世㆒乎。此事不㆑載㆓指旧記㆒如何。江左大丞(〈斉光〉)云天慶以往凡無㆓父子共大臣之例㆒。 〈見㆓九条殿記㆒。〉而貞信公〔〈忠平〉〕御時、小野宮殿・九条殿両相府、被㆑候㆓御供㆒。但彼時必四月御祭之間、不㆑被㆓参詣㆒也云々。源右相府(〈師房〉)被㆑仰云、大入道殿〔〈兼家〉〕御摂籙之間、子姪大臣大納言以下一族之人、多以在㆑朝也。仍始㆑自㆓彼時㆒歟。又御後号㆓御武者㆒五六人計、而近代以㆓検非違使㆒被㆑具歟。小野宮殿者大臣之時、祭日早旦被㆓参詣㆒、還向之次、於㆓一条大宮㆒、若堀川之辺立㆑車見物、前駈纔十余人歟。強不㆑被㆑好㆓過差㆒、以㆓件前駈人人㆒、差㆓遣祭㆒渡㆓内侍前駈料㆒也。其以前引㆓率公卿㆒被㆑参事不㆑聞歟。但子姪人々各為㆓我志㆒被㆓参詣㆒之時、同御供にとて被㆑参也云々。非㆓定例㆒、只各用意也云々。行成卿幼少之時、祭日被㆑参㆓於社頭㆒、前駈廿余人、僕従等着㆓美服㆒云々。大略各被㆓参詣㆒歟。
治部卿(〈伊房〉)云、宇治殿少将にて御座之時、堀川大臣(〈顕光〉)賀茂詣令㆓前駈㆒給云々。宇治殿摂録之時、堀川大臣為㆓上卿㆒有㆓陣定㆒、内覧文遅来、経㆓数刻㆒語㆓傍人㆒云、為㆑我前駈之人也云々。又宇治殿仰云、一の人有㆑障不参之時、二の人必被㆓参詣㆒けり。近代無㆓殊事㆒也。又是当時前駈難㆓参来上㆒、可㆑如㆓二舞㆒之故停止歟。
治部卿(〈伊房〉)云、九条殿御遺誡云、為㆓我後人㆒者、賀茂春日御祭日、必可㆔参㆓詣社頭㆒也。【 NDLJP:169】但於㆓春日㆒者路遠有㆑煩、可㆑参㆓大原野㆒也者、而参㆓大原野㆒、已以断絶也。件事極秘事、不㆑載㆘流㆓布世間㆒之遺誡㆖。若件事在㆓別御記㆒歟。又故宇治殿御時、以㆓殿上人㆒為㆓舞人㆒、令㆔参㆓詣賀茂㆒給二ヶ度也。後一条院(〈敦成〉)御時一度、後冷泉院御宇一度、件度内大臣以下至㆓中納言資平卿㆒乗車、兼頼卿以下至㆓非参議三位㆒皆騎馬。件日儀式異㆓於例年㆒、下御社馬場西辺立㆓檜皮葺舎一宇㆒為㆓御在所㆒、有㆓上達部饗事㆒。先着㆓祓殿㆒御禊之後、着㆓件御所㆒差㆓使奉幣㆒、不㆘令㆑参㆓社内㆒給㆖。上御社祓儀同前歟。又上達部騎馬前駈始㆓于大入道殿御時㆒也。小一条〔〈師尹〉〕石大将(〈済時〉)不㆑知㆓内議㆒、被㆔参㆓会御出立所㆒。俄有㆘可㆓扈従㆒之儀㆖被㆑借㆑馬。是被㆑謀也。雖㆓腹立㆒愁被㆓供奉㆒云々。二条殿(〈教通〉)御摂籙之間無㆓件儀㆒。賢主臨㆑国、諸事皆決㆓於聖意㆒之故也。延久年中〈二三年間也〉而其後任㆓宇治殿御時例㆒可㆑行之由、殿下所㆑被㆑仰也。先人被㆑申云、先参㆓御内裏㆒依㆓御気色㆒可㆑及㆓披露㆒也。不㆑然者自称㆑有㆑障歟。殿下不㆘令㆓承諾㆒給㆖、命旨已出。人々遍聞㆓天気不_㆑快、不㆑遂㆓件事㆒、取㆑嗤㆓於路人㆒給也。為仲云、二条殿御時、上達部不㆑被㆓皆参㆒。時人謂㆑乖㆓先例㆒。宇治殿聞㆓食此由㆒被㆑仰云、賀茂詣日、上達部必皆不㆓参来㆒、故御堂御時、有㆓不㆑参人々㆒、時光中納言など参㆓御堂立所㆒、出御之後立㆑車見物被㆑仰云、彼平〔イ无〕尹丸為㆓舞人装束㆒、如何美也やと被㆓戯仰㆒しかば、時光は美麗候など社は被㆓戯仰㆒ければ、非㆓子姪之人㆒必不㆓扈従㆒先例也。我摂録初度故殿差㆓遣別使㆒被㆑仰云、関白物詣之日、無㆓別障㆒必可㆑被㆓来訪㆒之由被㆓催仰㆒之故、人々不㆓辞退㆒。何況一族之人乎。自㆑爾以降為㆓流例㆒也。非㆓親昵人㆒者雖㆑来不㆑共、何難㆑之有哉云々。又子息大臣被㆓参仕㆒事、大入道殿御時、内大臣〈道隆〉入道殿御時内大臣、〈宇治殿、〉宇治殿御摂関之間、久絶無㆓件事㆒、至㆓康平四年㆒又有㆓件儀㆒。内大臣〈師実〉左右内府并北政所被㆑参事、始㆑自㆓故大殿御時㆒也。
殿下騎馬事。
被㆑命云、後一条院御宇之間、行幸之日、殿下騎馬令㆔供㆓奉御輿之後㆒給也。
大嘗会御禊日殿下乗㆑車供奉事。
後朱雀院大嘗会御襖之日、始乗㆓御車㆒令㆓供奉㆒給也。其後為㆓常例㆒也。
大入道殿夢想事。
【 NDLJP:170】大入道殿〈兼家〉為㆓納言㆒之時、夢過㆓合坂関㆒、雪降関路悉白、令㆑見給天大令㆑驚天、雪は凶夢也と思天、占㆓夢解㆒欲㆑令㆓謝合㆒令㆑語給。夢解申云、此御夢想極吉夢也。慥以不㆑可㆑有㆑恐。其故人必可㆑令㆑進㆓斑牛㆒、即人令㆑進㆓斑牛㆒。夢解預㆓纒頭㆒也。大江匡衡令㆑参、此由有㆓御物語㆒、匡衡大驚、纒頭可㆔召㆓返合坂㆒、関者関白之関字也、雪者白字也。必可㆑令㆑到㆓関白㆒、大令㆑感給。其明年令㆑蒙㆓関白宣旨㆒給也。
大入道殿令㆔譲㆓申関白於中関白㆒給事。
大入道殿〔〈兼家〉〕臨終召㆓有国㆒曰、子息之中以㆓誰人㆒可㆑譲㆓摂籙㆒乎。有国申云、令執権者町尻殿〔〈道兼〉〕歟云々。是道兼之事也云々。又令㆑問㆓惟仲㆒。惟仲申云、如㆑此事可㆑有㆓次第㆒之理也云々。又令㆑問㆓大夫史国平㆒、国平申旨同㆓惟仲㆒。依㆓二人之説㆒遂被㆔譲㆓申中関白㆒、関白〈道隆〉摂籙之後、被㆑仰云、我以㆓長嫡㆒当㆓此任㆒、是理運之事也。何足㆓喜悦㆒。只以可㆘報㆓有国之怨㆒為悦上㆑耳云々。故無㆓幾程㆒及㆓除名㆒、父子被㆑奪㆓官職㆒云々。
町尻殿御悩事。
町尻殿〈道兼〉所悩危急之時、有国令㆑申云、書㆓譲状㆒可㆑被㆑譲㆓所職於入道殿㆒者、粟田殿被㆑命云、関白者非㆘書㆓譲状㆒之事㆖云々。
藤氏献㆑策始事。
藤氏献㆑策始者佐世也。昭宣公の家司にて、被㆓家起㆒に、天神も被㆓引添㆒て令㆑座給ひければ、時の儒者等皆悉不㆑用ければ、昭宣公被㆓歎息㆒て、切々被㆑請云々。予問曰、以㆓何故㆒不㆑請哉。答云、其事有㆑理。紀家良香等云、藤に麻幾多天良礼那波、我等が流は不㆓成立㆒、不㆑然藤氏は無㆑止流なれば可㆓昇進㆒也云々。雖㆑然遂以㆓献策㆒問㆓頭儒良香㆒也。献策之日は、昭宣公敷㆓荒薦㆒下㆑庭、令㆔申㆓請天道㆒給云々。
又問云、熊野三所本緑如何。被㆑答云、熊野三所は、伊勢太神宮御身云々。本宮并新宮は太神宮也。那智は荒祭、又太神宮は、救世観音御変身云々。此事民部卿俊明所㆑被㆑談也云々。
又被㆑談云、源頼国者、高名逸物也。而服中〔者イ〕仁天参㆓詣熊野三所㆒之処、還向之時、能々物凶也云々。
聖廟御忌日音楽可㆔停㆓止彼廟社㆒事。
経信卿、常被㆑示云、聖廟御忌日、音楽は彼廟社には可㆓停止㆒事也。菅家御作仲秋翫㆑月之遊避㆓家忌㆒、以長廃㆑之、句九日菊酒飲序令㆑作給也。然者音楽事可㆑無歟云々。倩案㆓此事㆒難㆑計也。神慮之趣、暗以難㆑測也云々。
経信北野前不㆑下事。
紀家参㆓長谷寺㆒事。
被㆑命曰、紀家為㆑望㆓大納言㆒参㆓長谷寺㆒祈請。夢有㆑人告曰、他国可㆑迎㆓文章人㆒云々。得㆓此告㆒之後、不㆑歴㆓幾程㆒逝去云々。
興福寺諸堂安㆓置諸仏㆒事。
又云、興福寺内被㆑置仏者、金堂置㆓釈迦仏并脇士薬王観音二体㆒、弥勒浄士講堂、置㆓阿弥陀仏観音虚空蔵㆒、南円堂置㆓不空�網索并四天王㆒、膀前西金堂置㆓釈迦仏并十一面観音㆒。東金堂置㆓薬師如来十二大将日光月光㆒、北円堂置㆓弥勒四天王阿難迦葉㆒、食堂置㆓千手観音㆒。
藤氏々寺事
又云、藤氏人々被㆑始事、自㆑古尚在大織冠建㆓興福寺・法華寺・施薬院㆒、淡海公建㆓佐保殿㆒、閑院大臣(〈冬嗣〉)立㆓勧学院㆒始㆓南円堂㆒。忠仁公〔良房イ〕始㆓長講会㆒。昭宣公点㆓木幡墓㆒、房前宰相手自作㆓南院堂不空網索并四天王㆒。貞信公立㆓法性寺㆒、九条右府建㆓楞厳院㆒、大入道殿建㆓法興院㆒、中関白建㆓積善寺㆒、入道(〈道長〉)殿造㆓木幡塔三昧堂㆒建㆓法成寺㆒、宇治殿建㆓平等院㆒。
聖徳太子御劒銘四字事。
丙毛槐林。〈吉切槐林是切㆓守屋大臣之頸㆒也〉
弘法大師如意宝珠瘞納札銘事。
又云、弘法大師如意宝珠痙納札銘云、宇一〔室生イ〕山精進峯竹木自々底志水道場、此【 NDLJP:172】文未㆑読云々。
弘法大師十人弟子事。
又云、弘法大師十人弟子、其五人伝㆓門徒㆒、五人立㆓門徒㆒。真済僧正伝㆓高尾㆒、真雅僧正伝㆓貞観寺㆒、実恵僧都伝㆓東大寺㆒、真然僧正伝㆓高野㆒、真如親王伝㆓超証寺㆒云々。
増賀聖慈恵〔〈恵心イ〉〕僧都慶賀前駈事。
教円座主誦㆓唯識論㆒事。
教円座主暗㆓誦唯識論十巻㆒之間、自㆑誦㆓始第一㆒次第十巻之時、住房松樹下春日大明神令㆑舞給事侍、尤憐有㆑興事也。
玄賓律師辞退事。
又云、弘仁五年玄賓初任㆓律師㆒、辞退歌云、三輪川の清き流に洗ひてし衣の袖は更にけがさじと云々。
同大僧都辞退事。
又云、辞㆓大僧都㆒歌云、外国は山水清し事多き君が都は住まずなりけり〔まされりイ〕又云、去㆓洛陽㆒赴㆓他国㆒道に、来合女人脱㆑衣奉㆑之侍りし歌に云、三輪川の渚の清き唐衣くると思ふなえつとおもはじ。
亡考道心事
被㆑命云、亡考(〈成衡〉)者道心者也。毎日念誦読経、敢以不㆑懈。雖㆓自不_㆑然、彼は道心堅固事非㆓他事㆒、吉々有㆑暇歟。又者頗可㆑謂㆓信心㆒。常頸紙不㆑差、水干の如㆓法師衣㆒なる結紐にて、五十計貫きたる珠誦を持ちて、不㆑論㆓精進㆒、雖㆑食㆓葷腥㆒、以先師助給土云為㆓其口実㆒、或又常披㆓累代之文書㆒、修㆓理其朽損㆒、皆悉捺印重㆑之無㆑極。或人問云、何故如㆑此なると問ひければ、弊身は江家の文預也とぞ被㆑命けると云々。
時棟不㆑読㆑経事。
又被㆑命云、時棟者全以不㆑読㆑経、只理趣分計受㆓習清範㆒也。観音をば観いんと読む也。
この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。