メインメニューを開く

Wikisource β

死者の書

折口信夫著の小説。1939年発表、その後大幅に改訂し1943年に再発表。

  • 底本は『折口信夫全集』24巻、中央公論社、1975年11月25日印刷、同年12月10日発行に拠った。
  • 成る丈底本通りにするよう努めたが、JIS X 0208にない字体・包摂される字体はJIS X 0208にある、最も近いものを選び、特に断らなかった。選びうる字体がなかった場合、補遺に示した。示し方は非JIS漢字表現に拠った。
  • フリガナに就いては字の後ろに()を以って示した。
  • 傍点等はフリガナに同じくした。
  • 原文にある、ノなどの送りがなは、を以って示した。

目次

編集

彼(カ)の人の眠りは、徐(シヅ)かに覺めて行つた。まつ黒い夜の中に、更に冷え壓するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて來るのを、覺えたのである。
した した した。耳に傳ふやうに來るのは、水の垂れる音か。たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫と睫とが離れて來る。
膝が、肱が、徐ろに埋れてゐた感覺をとり戻して來るらしく、彼(カ)の人(ヒト)の頭に響いて居るもの――。全身にこはゞつた筋が、僅かな響きを立てゝ、掌・足の裏に到るまで、ひきつれ(ひきつれに傍点)を起しかけてゐるのだ。
さうして、なほ深い闇。ぽつちりと目をあいて見廻す瞳に、まづ壓(アツ)しかゝる黒い巖の天井を意識した。次いで、氷になつた岩牀(ドコ)。兩脇に垂れさがる荒石の壁。したと岩傳(イハヅタ)ふ雫の音。
時がたつた――。眠りの深さが、はじめて頭に浮んで來る。長い眠りであつた。けれども亦、淺い夢ばかりを見續けて居た氣がする。うつら思つてゐた考へが、現實に繋がつて、ありと、目に沁みついてゐるやうである。

あゝ耳面刀自(ミヽモノトジ)。

甦(ヨミガヘ)つた語が、彼の人の記憶を、更に彈力あるものに、響き返した。

耳面刀自。おれはまだお前を……思うてゐる。おれはきのふ、こゝに來たのではない。それも、をとゝひや、其さきの日に、こゝに眠りこけたのでは、決してないのだ。おれはもつと長く寢て居た。でも、おれはまだ、お前を思ひ續けて居たぞ。耳面刀自(ミヽモノトジ)。こゝに來る前から……こゝに寢ても、……其から覺めた今まで、一續きに、一つの事を考へつめて居るのだ。

古い――祖先以來さうしたやうに、此世に在る間さう暮して居た――習(ナラハ)しからである。彼の人は、のくつと(のくつとに傍点)起き直らうとした。だが、筋々が斷(キ)れるほどの痛みを感じた。骨の節々の挫けるやうな、疼きを覺えた。……さうして尚、ぢつと、――ぢつとして居る。射干玉(ヌバタマ)の闇。黒玉の大きな石壁に、刻み込まれた白々としたからだの樣に、嚴かに、だが、すんなりと、手を伸べたまゝで居た。耳面刀自の記憶。たゞ其だけの深い凝結した記憶。其が次第に蔓(ヒロガ)つて、過ぎた日の樣々な姿を、短い聯想の紐に貫いて行く。さうして明るい意思が、彼の人の死枯(シニガ)れたからだに、再立ち直つて來た。

耳面刀自。おれが見たのは、唯一目――唯一度だ。だが、おまへのことを聞きわたつた年月は、久しかつた。おれによつて來い。耳面刀自。

記憶の裏から、反省に似たものが浮び出て來た。

おれは、このおれは、何處に居るのだ。……それから、こゝは何處なのだ。其よりも第一、此おれは誰(ダレ)なのだ。其をすつかり、おれは忘れた。
だが、待てよ。おれは覺えて居る。あの時だ。鴨が聲(ネ)を聞いたのだつけ。さうだ。譯語田(ヲサダ)の家を引き出されて、磐余(イワレ)の池に行つた。堤の上には、遠捲きに人が一ぱい。あしこの萱原、そこの矮叢(ボサ)から、首がつき出て居た。皆が、大きな喚(オラ)び聲を擧げて居たつけな。あの聲は残らず、おれをいとしがつて居る、半泣きの喚(ワメ)き聲だつたのだ。
其でもおれの心は、澄みきつて居た。まるで、池の水だつた。あれは、秋だつたものな。はつきり聞いたのが、水の上に浮いてゐる鴨鳥(ドリ)の聲(コヱ)だつた。今思ふと――待てよ。其は何だか一目惚れの女の哭き聲だつた氣がする。――をゝ、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉體と一つに、おれの心は、急に締め上げられるやうな刹那を、通つた氣がした。俄かに、樂な廣々とした世間に、出たやうな感じが來た。さうして、ほんの暫らく、ふつ(ふつに傍点)とさう考へたきりで……、空も見ぬ、土も見ぬ、花や、木の色も消え去つた――おれ自分すら、おれが何だか、ちつとも訣らぬ世界のものになつてしまつたのだ。
あゝ、其時きり、おれ自身、このおれを、忘れてしまつたのだ。

足の踝(クルブシ)が、膝の膕(ヒツカヾミ)が、腰のつがひ(つがひに傍点)が、頚のつけ根が、顳*1(コメカミ)が、ぼんの窪が――と、段々上つて來るひよめきの爲に蠢いた。自然に、ほんの偶然強ばつたまゝの膝が、折り屈められた。だが、依然として――常闇(トコヤミ)。

をゝさうだ。伊勢の國に居られる貴い巫女(ミコ)――おれの姉御(ゴ)。あのお人が、おれを呼び活けに來てゐる。
姉御。こゝだ。でもおまへさまは、尊い御(オン)神に仕へてゐる人だ。おれのからだに、觸(サハ)つてはならない。そこに居るのだ。ぢつとそこに、蹈み止(トマ)つて居るのだ。――あゝおれは、死んでゐる。死んだ。殺されたのだ。――忘れて居た。さうだ。此は、おれの墓だ。
いけない。そこを開(ア)けては。塚の通ひ路の、扉をこじるのはおよし。……よせ。よさないか。姉の馬鹿。
なあんだ。誰も、來ては居なかつたのだな。あゝよかつた。おれのからだが、天日(テンピ)に暴(サラ)されて、見る、腐るところだつた。だが、をかしいぞ。かうつと――あれは昔だ。あのこじあける音がするのも、昔だ。姉御の聲で、塚道の扉を叩きながら、言つて居たのも今(インマ)の事――だつたと思ふのだが。昔だ。
おれのこゝへ來て、間もないことだつた。おれは知つてゐた。十月だつたから、鴨が鳴いて居たのだ。其鴨みたいに、首を捻ぢちぎられて、何も訣からぬものになつたことも。かうつと(かうつとに傍点)――姉御が、墓の戸で哭き喚(ワメ)いて、歌をうたひあげられたつけ。「巖石(イソ)の上(ウヘ)に生ふる馬醉木(アシビ)を」と聞えたので、ふと(ふとに傍点)、冬が過ぎて、春も闌(タ)け初めた頃だと知つた。おれの骸(ムクロ)が、もう半分融け出した時分だつた。そのあと(あとに傍点)、「たをらめど……見すべき君がありと言はなくに」。さう言はれたので、はつきりもう、死んだ人間になつた、と感じたのだ。……其時、手で、今してる樣にさはつて見たら、驚いたことに、おれのからだは、著こんだ著物の下で、*2(ホジヾ)のやうに、ぺしやんこになつて居た――。

臂(カヒナ)が動き出した。片手は、まつくらな空(クウ)をさした。さうして、今一方は、そのまゝ、岩牀(ドコ)の上を掻き搜つて居る。

うつそみの人なる我や。明日よりは、二上(フタカミ)山を愛兄弟(イロセ)と思はむ

誄歌(ナキウタ)が聞こえて來たのだ。姉御があきらめないで、も一つつぎ足して、歌つてくれたのだ。其で知つたのは、おれの墓と言ふものが、二上山の上にある、と言ふことだ。
よい姉御だつた。併し、其歌の後で、又おれは、何もわからぬものになつてしまつた。
其から、どれほどたつたのかなあ。どうもよつぽど、長い間だつた氣がする。伊勢の巫女樣、尊い姉御が來てくれたのは、居睡りの夢を醒まされた感じだつた。其に比べると、今度は深い睡りの後(アト)見たいな氣がする。あの音がしてる。昔の音が――。
手にとるやうだ。目に視るやうだ。心を鎭めて――。鎭めて。でないと、この考へが、復散らかつて行つてしまふ。おれの昔が、ありと訣つて來た。だが待てよ。……其にしても一體、こゝに居るおれは、だれなのだ。だれの子なのだ。だれの夫(ツマ)なのだ。其をおれは、忘れてしまつてゐるのだ。

兩の臂は、頸の廻り、胸の上、腰から膝をまさぐつて居る。さうしてまるで、生き物のするやうな、深い溜め息が洩れて出た。

大變だ。おれの著物は、もうすつかり朽つて居る。おれの褌(ハカマ)は、ほこりになつて飛んで行つた。どうしろ、と言ふのだ。此おれは、著物もなしに、寢て居るのだ。

筋ばしるやうに、彼の人のからだに、血の馳け廻るに似たものが、過ぎた。肱を支へて、上半身が闇の中に起き上つた。

をゝ、寒い。おれを、どうしろと仰るのだ。尊いおつかさま。おれが惡かつたと言ふのなら、あやまります。著物を下さい。著物を――。おれのからだは、地べたに凍りついてしまひます。

彼の人には聲であつた。だが、聲でないものとして、消えてしまつた。聲でない語(コトバ)が、何時までも續いてゐる。

くれろ。おつかさま。著物がなくなつた。すつぱだかで出て來た赤ん坊になりたいぞ。赤ん坊だ。おれは。こんなに、寢床の上を這ひずり廻つてゐるのが、だれにも訣らぬのか。こんなに、手足をばたやつてゐるおれの、見える奴が居ぬのか。

その唸き聲のとほり、彼の人の骸(ムクロ)は、まるでだゞをこねる赤子のやうに、足もあかゞに、身あがきをば、くり返して居る。明りのさゝなかつた墓穴の中が、時を經て、薄い氷の膜ほど透(ス)けてきて、物のたゝずまひを、幾分朧ろに、見わけることが出來るやうになつて來た。どこからか、月光とも思へる薄明かりが、さし入つて來たのである。

どうしよう。どうしよう。おれは。――大刀までこんなに、錆びついてしまつた……。

編集

月は、依然として照つて居た。山が高いので、光りにあたるものが少かつた。山を照し、谷を輝かして、剩る光りは、又空に跳ね返つて、殘る隈々までも、鮮やかにうつし出した。
足もとには、澤山の峰があつた。黒ずんで見える峰々が、入りくみ、絡みあつて、深々と畝つてゐる。其が見えたり隱れたりするのは、この夜更けになつて、俄かに出て來た霞の所爲(セヰ)だ。其が又、此冴えざえとした月夜をほつとり(ほつとりに傍点)と、暖かく感じさせて居る。
廣い端山(ハヤマ)の群(ムラガ)つた先(サキ)は、白い砂の光る河原だ。目の下遠く續いた、輝く大佩帶(オホオビ)は、石川である。その南北に渉つてゐる長い光りの筋が、北の端で急に廣がつて見えるのは、凡河内(オホシカフチ)の邑のあたりであらう。其へ、山間(アヒ)を出たばかりの堅鹽(カタシホ)川―大和川―が落ちあつて居るのだ。そこから、乾(イヌヰ)の方へ、光りを照り返す平面が、幾つも列つて見えるのは、日下江(クサカエ)、永瀬江(ナガセエ)、難波江(ナニハエ)などの水面であらう。
寂かな夜である。やがて鷄鳴近い山の姿は、一樣に露に濡れたやうに、しつとりとして靜まつて居る。谷にちらする雪のやうな輝きは、目の下の山田谷に多い、小櫻の遲れ咲きである。
一本の路が、眞直に通つてゐる。二上山の男嶽(ヲノカミ)、女嶽(メノカミ)の間から、急に降(サガ)つて來るのである。難波(ナニハ)から飛鳥(アスカ)の都への古い間道なので、日によつては、晝は相應な人通りがある。道は白々と廣く、夜目には、芝草の蔓(ハ)つて居るのすら見える。當麻路(タギマヂ)である。一降りして又、大降(クダ)りにかゝらうとする處が、中だるみに、やゝ坦(ヒラタ)くなつてゐた。梢の尖つた栢(カヘ)の木の森。半世紀を經た位の木ぶりが、一樣に揃つて見える。月の光りも薄い木陰全體が、勾配を背負つて造られた圓塚であつた。月は、瞬きもせずに照し、山々は、深く*1を閉ぢてゐる。

こう こう こう。

先刻(サツキ)から、聞こえて居たのかも知れぬ。あまり寂けさに馴れた耳は、新な聲を聞きつけよう、としなかつたのであらう。だから、今珍しく響いて來た感じもないのだ。

こう こう こう――こう こう こう。

確かに人聲である。鳥の夜聲とは、はつきりかはつた韻(ヒヾキ)を曳いて來る。聲は、暫らく止んだ。靜寂は以前に増し、冴え返つて張りきつてゐる。この山の峰つゞきに見えるのは、南に幾重ともなく重つた、葛城の峰々である。伏越(フシゴエ)・櫛羅(クシラ)・小巨勢(コヾセ)と段々高まつて、果ては空の中につき入りさうに、二上山と、この塚にのしかゝるほど、眞黒に立ちつゞいてゐる。
當麻路をこちらへ降つて來るらしい影が、見え出した。二つ三つ五つ……八つ九つ。九人の姿である。急な降りを一氣に、この河内路へ馳けおりて來る。
九人と言ふよりは、九柱の神であつた。白い著物、白い鬘(カツラ)、手は、足は、すべて旅の裝束(イデタチ)である。頭より上に出た杖をついて――。この坦(タヒラ)に來て、森の前に立つた。

こう こう こう。

誰の口からともなく、一時に出た叫びである。山々のこだま(こだまに傍点)は、驚いて一樣に、忙しく聲を合せた。だが、山は、忽一時の騷擾から、元の緘默(シヾマ)に戻つてしまつた。

こう。こう。お出でなされ。藤原南家(ナンケ)郎女(イラツメ)の御魂(ミタマ)。
こんな奧山に、迷うて居るものではない。早く、もとの身に戻れ。こう こう。
お身さまの魂(タマ)を、今、山たづね尋ねて、尋ねあてたおれたちぞよ。こう こう こう。

九つの杖びとは、心から神になつて居る。彼らは、杖を地に置き、鬘を解いた。鬘は此時、唯眞白な布に過ぎなかつた。其を、長さの限り振り捌いて、一樣に塚に向けて振つた。

こう こう こう。

かう言ふ動作をくり返して居る間に、自然な感情の鬱屈と、休息を欲するからだの疲れとが、九體の神の心を、人間に返した。彼らは見る間に、白い布を頭に捲きこんで鬘とし、杖を手にとつた旅人として、立つてゐた。

をい。無言(シヾマ)の勤(ツト)めも此までぢや。
をゝ。

八つの聲が答へて、彼らは訓練せられた所作のやうに、忽一度に、草の上に寛(クツロ)ぎ、再杖を横へた。

これで大和も、河内との境ぢやで、もう魂ごひの行(ギヤウ)もすんだ。今時分は、郎女さまのからだは、廬(イホリ)の中で魂をとり返して、ぴちして居られようぞ。
こゝは、何處だいの。
知らぬかいよ。大和にとつては大和の國、河内にとつては河内の國の大關(オホゼキ)。二上の當麻路(タギマヂ)の關(セキ)――。

別の長老(トネ)めいた者が、説明を續(ツ)いだ。

四五十年あとまでは、唯關と言ふばかりで、何の標(シルシ)もなかつた。其があの、近江の滋賀の宮に馴染み深かつた、其よ。大和では、磯城(シキ)の譯語田(ヲサダ)の御館(ミタチ)に居られたお方。池上の堤で命召されたあのお方の骸(ムクロ)を、罪人に殯(モガリ)するは、災の元と、天若日子(アメワカヒコ)の昔語りに任せて、其のまゝ此處にお搬びなされて、お埋(イ)けになつたのが、此塚よ。

以前の聲が、まう一層皺がれた響きで、話をひきとつた。

其時の仰せには、罪人よ。吾子(ワコ)よ。吾子の爲了(シヲフ)せなんだ荒(アラ)び心で、吾子よりももつと、わるい猛び心を持つた者の、大和に來向ふのを、待ち押へ、塞(サ)へ防いで居ろ、と仰せられた。
ほんに、あの頃は、まだおれたちも、壯盛(ワカザカ)りぢやつたに。今ではもう、五十年昔になるげな。

今一人が、相談でもしかける樣な、口ぶりを插んだ。

さいや。あの時も、墓作りに雇はれた。その後も、當麻路の修復に召し出された。此お墓のことは、よく知つて居る。ほんの苗木ぢやつた栢(カヘ)が、此ほどの森になつたものな。畏(コハ)かつたぞよ。此墓のみ魂(タマ)が、河内安宿部(アスカベ)から石擔(モ)ちに來て居た男に、憑いた時はなう。

九人は、完全に現(ウツ)し世の庶民の心に、なり還つて居た。山の上は、昔語りするには、あまり寂しいことを忘れて居たのである。時の更け過ぎた事が、彼等の心には、現實にひしと感じられだしたのだらう。

もう此でよい。戻らうや。
よかろ よかろ。

皆は、鬘をほどき、杖を棄てた白衣の修道者、と言ふだけの姿(ナリ)になつた。

だがの。皆も知つてようが、このお塚は、由緒(ユヰシヨ)深(フカ)い、氣のおける處ゆゑ、まう一度、魂ごひをしておくまいか。

長老(トネ)の語と共に、修道者たちは、再魂呼(タマヨバ)ひの行(ギヤウ)を初めたのである。

こう こう こう。
をゝ……。

異樣な聲を出すものだ、と初めは誰も、自分らの中の一人を疑ひ、其でも變に、おぢけづいた心を持ちかけてゐた。も一度、

こう こう こう。

其時、塚穴の深い奧から、冰りきつた、而も今息を吹き返したばかりの聲が、明らかに和したのである。

をゝう……。

九人の心は、ばらの九人の心々であつた。からだも亦ちりに、山田谷へ、竹内谷へ、大阪越えへ、又當麻路へ、峰にちぎれた白い雲のやうに、消えてしまつた。
唯疊まつた山と、谷とに響いて、一つの聲ばかりがする。

をゝう……。

編集

萬法藏院の北の山陰に、昔から小な庵室があつた。昔からと言ふのは、村人がすべて、さう信じて居たのである。荒廢すれば繕ひして、人は住まぬ廬(イホリ)に、孔雀明王像が据ゑてあつた。當麻(タギマ)の村人の中には、稀に、此が山田寺である、と言ふものもあつた。さう言ふ人の傳へでは、萬法藏院は、山田寺の荒れて後、飛鳥の宮の仰せを受けてとも言ひ、又御自身の御發起(ゴホツキ)からだとも言ふが、一人の尊いみ子が、昔の地を占めにお出でなされて、大伽藍を建てされられた。其際、山田寺の舊構を殘すため、寺の四室の中、北の隅へ、當時立ち朽りになつて居た堂を移し、規模を小さくして作られたもの、と傳へ言ふのであつた。
さう言へば、山田寺は、役君小角(エノキミヲヅヌ)が、山林佛教を創める最初の足代(アシヽロ)になつた處だと言ふ傳へが、吉野や、葛城の山伏行人(ヤマブシギヤウニン)の間に行はれてゐた。何しろ、萬法藏院の大伽藍が燒けて百年、荒野の道場となつて居た、目と鼻との間に、こんな古い建て物が、殘つて居たと言ふのも、不思議なことである。 夜は、もう更けて居た。谷川の激(タギ)ちの音が、段々高まつて來る。二上山の二つの峰の間から、流れくだる水なのだ。
廬の中は、暗かつた。爐を焚くことの少ない此邊(ヘン)では、地下(チゲ)百姓は、夜は眞暗な中で、寢たり、坐つたりしてゐるのだ。でもこゝには、本尊が祀つてあつた。夜を守つて、佛の前で起き明す爲には、御燈(ミアカシ)を照した。
孔雀明王の姿が、あるかないかに、ちろめく光りである。
姫は寢ることを忘れたやうに、坐つて居た。
萬法藏院の上座の僧綱たちの考へでは、まづ奈良へ使ひを出さねばならぬ。横佩家(ヨコハキケ)の人々の心を、思うたのである。次には、女人結界(ケツカイ)を犯して、境内深く這入つた罪は、郎女自身に贖(アガナ)はさねばならなかつた。落慶のあつたばかりの淨域だけに、一時は、塔頭(タツチユウ)々々の人たちの、青くなつたのも、道理である。此は、財物を施入する、と謂つたぐらゐではすまされぬ。長期の物忌みを、寺近くに居て果させねばならぬと思つた。其で、今日晝の程、奈良へ向つて、早使(ハヤヅカ)ひを出して、郎女(イラツメ)の姿が、寺中に現れたゆくたて(ゆくたてに傍点)を、仔細に告げてやつたのである。
其と共に姫の身は、此庵室に暫らく留め置かれることになつた。たとひ、都からの迎へが來ても、結界を越えた贖ひを果たす日數だけは、こゝに居させよう、と言ふのである。
牀(ユカ)は低いけれども、かいてあるにはあつた。其替り、天井は無上に高くて、而も萱のそゝけた屋根は、破風の脇から、むき出しに、空の星が見えた。風が唸つて過ぎたと思ふと、其高い隙から、どつと吹き込んで來た。ばら落ちかゝるのは、煤がこぼれるのだらう。明王の前の灯が、一時(イツトキ)かつと明るくなつた。
その光りで照し出されたのは、あさましく荒(スサ)んだ座敷だけでなかつた。荒板の牀の上に、薦筵(コモムシロ)二枚重ねた姫の座席。其に向つて、ずつと離れた壁ぎはに、板敷に直(ヂカ)に坐つて居る老婆の姿があつた。
壁と言ふよりは、壁代(カベシロ)であつた。天井から吊りさげた堅薦(タツゴモ)が、幾枚も幾枚も、ちぐはぐに重つて居て、どうやら、風は防ぐやうになつて居る。その壁代に張りついたやうに坐つて居る女、先から*1嗽(シハブキ)一つせぬ静けさである。
貴族の家の郎女は、一日もの言はずとも、寂しいとも思はぬ習慣がついて居た。其で、この山陰の一つ家に居ても、溜め息一つ洩すのではなかつた。晝(ヒ)の内此處へ送りこまれた時、一人の姥のついて來たことは、知つて居た。だが、あまり長く音も立たなかつたので、人の居ることは忘れて居た。今ふつと明るくなつた御燈(ミアカシ)の色で、その姥の姿から、顏まで一目で見た。どこやら、覺えのある人の氣がする。さすがに、姫にも人懷かしかつた。ようべ家を出てから、女性(ニヨシヤウ)には、一人も逢つて居ない。今そこに居る姥(ウバ)が、何だか、昔の知り人のやうに感じられたのも、無理はないのである。見覺えがあるやうに感じたのは、だが、その親しみ故だけではなかつた。

郎女(イラツメ)さま。

緘默(シヾマ)を破つて、却てもの寂しい、乾聲(カラゴヱ)が響いた。

郎女は、御存じおざるまい。でも、聽いて見る氣はおありかえ。お生まれなさらぬ前の世からのことを。それを知つた姥でおざるがや。

一旦、口がほぐれると、老女は止めどなく、喋り出した。姫は、この姥の顏に見知りのある氣のした訣を、悟りはじめて居た。藤原南家(ナンケ)にも、常々、此年よりとおなじやうな媼(オムナ)が、出入りして居た。郎女たちの居る女部屋(ヲンナベヤ)までも、何時もづか這入つて來て、憚りなく古物語りを語つた、あの中臣志斐媼(ナカトミノシヒノオムナ)――。あれと、おなじ表情をして居る。其も、尤もであつた。志斐老女が、藤氏(トウシ)の語部(カタリベ)の一人であるやうに、此も亦、この當麻(タギマ)の村の舊族、當麻眞人(マヒト)の「氏(ウヂ)の語部(カタリベ)」、亡び殘りの一人であつたのである。

藤原のお家が、今は、四筋に分かれて居りまする。ぢやが、大織冠さまの代どころでは、ありは致しませぬ。淡海公の時も、まだ一流れのお家でおざりました。併し其頃やはり、藤原は、中臣と二つの筋に岐れました。中臣の氏人で、藤原の里に榮えられたのが、藤原と、家名の申され初めでおざりました。
藤原のお流れ。今ゆく先も、公家攝*2(クゲセフロク)の家柄。中臣の筋や、おん神仕へ。差別(ケジメ)々々明らかに、御代(ミヨ)々々の宮守(マモ)り。ぢやが、今は今、昔は昔でおざります。藤原の遠つ祖(オヤ)、中臣の氏の神、天押雲根(アメノオシクモネ)と申されるおん方の事はお聞き及びかえ。
今、奈良の宮におざります日の御子さま。其前は、藤原の宮の日のみ子さま。又其前は飛鳥(アスカ)の宮の日のみ子さま。大和の國中(クニナカ)に、宮遷し、宮奠(サダ)め遊した代々(ヨヽ)の日のみ子さま。長く久しい御代(ミヨ)々々に仕へた、中臣の家の神業(ワザ)。郎女(イラツメ)さま。お聞き及びかえ。
遠い代の昔語り。耳明らめてお聽きなされ。中臣・藤原の遠つ祖(オヤ)あめの押雲根命(オシクモネ)。遠い昔の日のみ子さまのお喰(メ)しの、飯(イヒ)と、み酒(キ)を作る御料の水を、大和國中(クニナカ)殘る隈なく搜し覓(モト)めました。その頃、國原の水は、水澁(ソブ)臭く、土(ツチ)濁りして、日のみ子さまのお喰(メ)しの料(シロ)に叶ひません。天(テン)の神高天(タカマ)の大御祖(オオミオヤ)教へ給へと祈らうにも、國中(ナカ)は國低し。山々もまんだ(まんだに傍点)天(テン)遠し。大和の國とり圍む青垣山では、この二上山。空行く雲の通ひ路と、昇り立つて祈りました。その時、高天(タカマ)の大御祖(オオミオヤ)のお示しで、中臣の祖押雲根命(オヤオシクモネ)、天の水の湧(ワ)き口(グチ)を、この二上山に八(ヤ)ところまで見とゞけて、其後久しく、日のみ子さまのおめしの湯水は、代々の中臣自身、此山へ汲みに參ります。お聞き及びかえ。

當麻眞人(タギマノマヒト)の、氏の物語である。さうして其が、中臣の神わざと繋りのある點を、座談のやうに語り進んだ姥は、ふと口をつぐんだ。
外には、瀬音が荒れて聞えてゐる。中臣・藤原の遠祖が、天二上(アメノフタカミ)に求めた天八井(アメノヤヰ)の水を集めて、峰を流れ降り、岩にあたつて漲り激(タギ)つ川なのであらう。瀬音のする方に向いて、姫は、掌(タナソコ)を合せた。
併しやがて、ふり向いて、仄暗くさし寄つて來てゐる姥の姿を見た時、言はうやうない畏しさと、せつかれるやうな忙しさを、一つに感じたのである。其れに、志斐姥の、本式に物語りをする時の表情が、此老女の顏にも現れてゐた。今、當麻(タギマ)の語部(カタリベ)の姥(ウバ)は、神憑りに入るらしく、わな震ひはじめて居るのである。

編集

ひさかたの  天二上(アメフタカミ)に、
我(ア)が登り   見れば、
とぶとりの  明日香(アヌカ)
ふる里の   神南備山隱(カムナビゴモ)り、
家どころ   多(サハ)に見え、
豐(ユタ)にし    屋庭(ヤニハ)は見ゆ。
彌彼方(イヤヲヂ)に   見ゆる家群(イヘムラ)
藤原の    朝臣(アソ)が宿。

 遠々に    我(ア)が見るものを、
 たかに  我(ア)が待つものを、
處女子(ヲトメゴ)は   出で通(コ)ぬものか。
よき耳(ミヽ)を   聞かさぬものか。
青馬の    耳面刀自(ミヽモノトジ)。
 刀自もがも。女弟(オト)もがも。
 その子の   はらからの子の
 處女子の   一人
 一人だに、  わが配偶(ツマ)に來(コ)よ。

ひさかたの  天二上(アメフタカミ)
二上の陽面(カゲトモ)に、
生ひをゝり  繁(シ)み咲く
馬醉木(アシビ)の   にほへる子を
 我(ア)が     捉(ト)り兼ねて、
馬醉木の   あしずりしつゝ
 吾(ア)はもよ偲(シヌ)ぶ。藤原處女

歌ひ了へた姥は、大息をついて、ぐつたりした。其から暫らく、山のそよぎ、川瀬の響きばかりが、耳についた。
姥は居ずまひを直して、嚴かな聲音(コワネ)で、誦(カタ)り出した。

とぶとりの 飛鳥の都に、日のみ子樣のおそば近く侍る尊いおん方。さゝなみの大津の宮に人となり、唐土(モロコシ)の學藝(ザエ)に詣(イタ)り深く、詩(カラウタ)も、此國ではじめて作られたは、大友皇子か、其とも此お方か、と申し傳へられる御方(オンカタ)。
近江の都は離れ、飛鳥の都の再榮えたその頃、あやまちもあやまち。日のみ子に弓引くたくみ、恐しや、企てをなされると言ふ噂が、立ちました。
高天原廣野姫尊(タカマノハラヒロヌヒメノミコト)、おん怒りをお發しになりまして、とう池上の堤に引き出して、お討たせになりました。
其お方がお死にの際(キハ)に、深く思ひこまれた一人のお人がおざりまする。耳面(ミヽモ)刀自(トジ)と申す、大織冠のお娘御でおざります。前から深くお思ひになつて居た、と云ふでもありません。唯、此郎女も、大津の宮離れのときに、都へ呼び返されて、寂しい暮しを續けて居られました。等しく大津の宮に愛着をお持ち遊ばした右の御方が、愈々、磐余(イハレ)の池の草の上で、お命召されると言ふことを聞いて、一目見てなごり惜しみがしたくて、こらへられなくなりました。藤原から池上まで、おひろひでお出でになりました。小高い柴の一むらある中から、御樣子を窺うて歸らうとなされました。其時ちらりと、かのお人の、最期に近いお目に止りました。其ひと目が、此世に殘る執心となつたのでおざりまする。

もゝつたふ 磐余(イハレ)の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや、雲隱りなむ

この思ひがけない心残りを、お詠みになつた歌よ、と私ども當麻(タギマ)の語部(カタリベ)の物語りには、傳へて居ります。
その耳面刀自と申すは、淡海公の妹君、郎女の祖父(オホヂ)君南家太政(ナンケダイジヤウ)大臣には、叔母君にお當りになつてゞおざりまする。
人間の執心(シフシン)と言ふものは、怖(コハ)いものとはお思ひなされぬかえ。
其亡き骸は、大和の國を守らせよ、と言ふ御諚で、此山の上、河内から來る當麻路の脇にお埋(イ)けになりました。其が何(ナン)と、此世の惡心も何もかも、忘れ果てゝ清々(スガヽヽ)しい心になりながら、唯そればかりの一念が殘つて居る、と申します。藤原四流の中で一番美しい郎女が、今におき、耳面刀自と、其幽界(カクリヨ)の目には、見えるらしいのでおざりまする。女盛りをまだ婿どりなさらぬげの郎女さまが、其力におびかれて、この當麻(タギマ)までお出でになつたのでなうて、何でおざりませう。
當麻路に墓を造りました當時(ソノカミ)、石を搬ぶ若い衆にのり移つた靈(タマ)が、あの長歌を謳うた、と申すのが傳へ。

當麻語部媼(タギマノカタリノオムナ)は、南家の郎女の脅える樣を想像しながら、物語つて居たのかも知れぬ。唯さへ、この深夜、場所も場所である。如何に止めどなくなるのが、「ひとり語(ガタ)り」の癖とは言へ、語部の古婆(フルバア)の心は、自身も思はぬ意地くね惡さを藏してゐるものである。此が、神さびた職を寂しく守つて居る者の優越感を、充すことにも、なるのであつた。
大貴族の郎女は、人の語を疑ふことは教へられて居なかつた。それに、信じなければならぬもの、とせられて居た語部の物語りである。詞の端々までも、眞實を感じて、聽いて居る。
言ふとほり、昔びとの宿執(シユクシフ)が、かうして自分を導いて來たことは、まことに違ひないであらう。其にしても、つひしか(つひしかに傍点)見ぬお姿――尊い御佛と申すやうな相好が、其お方とは思はれぬ。
春秋の彼岸中日、入り方の光り輝く雲の上に、まざと見たお姿。此日本(ヤマト)の國の人とは思はれぬ。だが、自分のまだ知らぬこの國の男子(ヲノコヾ)たちには、あゝ言ふ方もあるのか知らぬ。金色(コンジキ)の鬢、金色の髮の豐かに垂れかゝる片肌は、白々と袒(ヌ)いで美しい肩。ふくよかなお顏は、鼻隆く、眉秀で夢見るやうにまみ(まみに傍点)を伏せて、右手は乳の邊に擧げ、脇の下に垂れた左手は、ふくよかな掌を見せて……あゝ雲の上に朱の唇、匂ひやかにほゝ笑まれると見た……その俤。
日のみ子さまの御側仕へのお人の中には、あの樣な人もおいでになるものだらうか。我が家(ヤ)の父や、兄人(セウト)たちも、世間の男たちとは、とりわけてお美しい、と女たちは噂するが、其すらも似もつかぬ……。
尊い女性(ニヨシヤウ)は、下賤な人と、口をきかぬのが當時の世の掟である。何よりも、其語は、下ざまには通じぬもの、と考へられてゐた。それでも、此古物語りをする姥には、貴族の語もわかるであらう。郎女は、恥ぢながら問ひかけた。

そこの人。ものを聞かう。此身の語が、聞きとれたら、答へしておくれ。
その飛鳥の宮の日のみ子さまに仕へた、と言ふお方は、昔の罪びとらしいに、其が又何とした訣で、姫の前に立ち現れては、神々(カウヾヽ)しく見えるであらうぞ。

此だけの語が言ひ淀み、淀みして言はれてゐる間に、姥は、郎女の内に動く心もちの、凡は、氣(ケ)どつたであらう。暗いみ燈(アカシ)の光りの代りに、其頃は、もう東白みの明りが、部屋の内の物の形を、朧ろげに顯しはじめて居た。

我が説明(コトワケ)を、お聞きわけられませ。神代の昔びと、天若日子(アメワカヒコ)。天若日子こそは、天(テン)の神々に弓引いた罪ある神。其すら、其後(ゴ)、人の世になつても、氏貴い家々の娘御(ゴ)の閨(ネヤ)の戸までも、忍びよると申しまする。世に言ふ「天若(アメワカ)みこ」と言ふのが、其でおざります。
天若みこ。物語りにも、うき世語(ヨガタ)りにも申します。お聞き及びかえ。

姥は暫らく口を閉ぢた。さうして言ひ出した聲は、顏にも、年にも似ず、一段、はなやいで聞えた。

「もゝつたふ」の歌、殘された飛鳥の宮の執心(シフシン)びと、世々の藤原の一(イチ)の媛に祟る天若みこも、顏清く、聲心惹く天若みこのやはり、一人でおざりまする。
お心つけられませ。物語りも早、これまで。

其まゝ石のやうに、老女はぢつとして居る。冷えた夜も、朝影(アサカゲ)を感じる頃になると、幾らか温みがさして來る。
萬法藏院は、村からは遠く、山によつて立つて居た。曉早い鷄の聲も、聞えぬ。もう梢を離れるらしい塒鳥が、近い端山(ハヤマ)の木群(キムラ)で、羽振(ハブ)きの音を立て初めてゐる。

編集

おれは活(イ)きた。

闇い空間は、明りのやうなものを漂してゐた。併し其は、蒼黒い靄の如く、たなびくものであつた。
巖ばかりであつた。壁も、牀(トコ)も、梁(ハリ)も、巖であつた。自身のからだすらが、既に、巖になつて居たのだ。
屋根が壁であつた。壁が牀であつた。巖ばかり――。觸(サハ)つても觸つても、巖ばかりである。手を伸すと、更に堅い巖が、掌に觸れた。脚をひろげると、もつと廣い磐石(バンジヤク)の面(オモテ)が、感じられた。
纔かにさす薄光りも、黒い巖石が皆吸ひとつたやうに、岩窟(イハムロ)の中に見えるものはなかつた。唯けはひ(けはひに傍点)――彼の人の探り歩くらしい空氣の微動があつた。

思ひ出したぞ。おれが誰だつたか、――訣つたぞ。
おれだ。此おれだ。大津の宮に仕へ、飛鳥の宮に呼び戻されたおれ。滋賀津彦(シガツヒコ)。其が、おれだつたのだ。

歡びの激情を迎へるやうに、岩窟(イハムロ)の中のすべての突角が哮(タケ)びの反響をあげた。彼の人は、立つて居た。一本の木だつた。だが、其姿が見えるほどの、はつきりした光線はなかつた。明りに照し出されるほど、纒つた現(ウツ)し身(ミ)をも、持たぬ彼(カ)の人であつた。
唯、岩屋の中に矗立(シユクリツ)した、立ち枯れの木に過ぎなかつた。

おれの名は、誰も傳へるものがない。おれすら忘れて居た。長く久しく、おれ自身にすら忘れられて居たのだ。可愛(イト)しいおれの名は、さうだ。語り傳へる子があつた筈だ。語り傳へさせる筈の語部(カタリベ)も、出來て居たゞらうに。――なぜか、おれの心は寂しい。空虚な感じが、しくと胸を刺すやうだ。
――子代(コシロ)も、名代(ナシロ)もない、おれにせられてしまつたのだ。さうだ。其に違ひない。この物足らぬ、大きな穴のあいた氣持ちは、其で、するのだ。おれは、此世に居なかつたと同前の人間になつて、現(ウツ)し身の人間どもには、忘れ了(ヲフ)されて居るのだ。憐みのないおつかさま。おまへさまは、おれの妻の、おれに殉死(トモジ)にするのを、見殺しになされた。おれの妻の生んだ粟津子(アハツコ)は、罪びとの子として、何處かへ連れて行かれた。野山のけだものゝ餌食(ヱジキ)に、くれたのだらう。可愛さうな妻よ。哀なむすこ(むすこに傍点)よ。
だが、おれには、そんな事などは、何でもない。おれの名が傳らない。劫初(ゴフシヨ)から末代まで、此世に出ては消える、天(アメ)の下(シタ)の青人草(アヲヒトグサ)と一列に、おれは、此世に、影も形も殘さない草の葉になるのは、いやだ。どうあつても、不承知だ。
惠みのないおつかさま。お前さまにお縋りするにも、其おまへさますら、もうおいでゞない此世かも知れぬ。
くそ――外(ソト)の世界が知りたい。世の中の樣子が見たい。
だが、おれの耳は聞える。其なのに、目が見えぬ。この耳すら、世間の語を聞き別けなくなつて居る。闇の中にばかり瞑(ツブ)つて居たおれの目よ。も一度くわつと*1(ミヒラ)いて、現し世のありのまゝをうつしてくれ、……土龍の目なと、おれに貸しをれ。

聲は再、寂かになつて行つた。獨り言する其聲は、彼の人の耳にばかり聞えて居るのであらう。丑刻(ウシ)に、静謐の頂上に達した現(ウツ)し世(ヨ)は、其が過ぎると共に、俄かに物音が起る。月の、空を行く音すら聞えさうだつた四方の山々の上に、まづ木の葉が音もなくうごき出した。次いではるかな谿のながれの色が、白々と見え出す。更に遠く、大和國中(クニナカ)の、何處からか起る一番鷄のつくるとき(ときに傍点)。
曉が來たのである。里々の男は、今、女の家の閨戸(ネヤド)から、ひそと歸つて行くだらう。月は早く傾いたけれど、光りは深夜の色を保つてゐる。午前二時に朝の來る生活に、村びとも、宮びとも忙しいとは思はずに、起きあがる。短い曉の目覺めの後、又、物に倚りかゝつて、新しい眠りを繼ぐのである。
山風は頻りに、吹きおろす。枝・木の葉の相軋(ヒシ)めく音が、やむ間なく聞える。だが其も暫らくで、山は元のひつそ(ひつそに傍点)としたけしきに還る。唯、すべてが薄暗く、すべてが隈を持つたやうに、朧ろになつて來た。
岩窟(イハムロ)は、沈々と黝(クラ)くなつて冷えて行く。
した した。水は、岩肌を絞つて垂れてゐる。

耳面刀自(ミヽモノトジ)。おれには、子がない。子がなくなつた。おれは、その榮えてゐる世の中には、跡を貽(ノコ)して來なかつた。子を生んでくれ。おれの子を。おれの名を語り傳へる子どもを――。

岩牀(ドコ)の上に、再白々と横つて見えるのは、身じろきもせぬからだである。唯その眞裸な骨の上に、鋭い感覺ばかりが活きてゐるのであつた。
まだ反省のとり戻されぬむくろ(むくろに傍点)には、心になるものがあつて、心はなかつた。
耳面刀自の名は、唯の記憶よりも、更に深い印象であつたに違ひはない。自分すら忘れきつた、彼の人の出來あがらぬ心に、骨に沁み、干からびた髓の心(シン)までも、唯彫(ヱ)りつけられたやうになつて、殘つてゐるのである。

萬法藏院の晨朝(ジンテウ)の鐘だ。夜の曙色(アケイロ)に、一度騒立(サワダ)つた物々の胸をおちつかせる樣に、鳴りわたる鐘の音(ネ)だ。一(イツ)ぱし白みかゝつて來た東は、更にほの暗い明(ア)け昏(グ)れの寂けさに返つた。
南家の郎女は、一莖の草のそよぎでも聽き取れる曉凪(アカツキナ)ぎを、自身擾すことをすまいと言ふ風に、身じろきすらもせずに居る。
夜(ヨル)の間(マ)よりも暗くなつた廬(イホリ)の中では、明王像の立ち處(ド)さへ見定められぬばかりになつて居る。
何處からか吹きこんだ朝山颪(オロシ)に、御燈(アカシ)が消えたのである。當麻(タギマ)語部(カタリ)の姥も、薄闇に蹲つて居るのであらう。姫は再、この老女の事を忘れてゐた。
たゞ一刻ばかり前、這入りの戸を搖つた物音があつた。一度 二度 三度。更に數度。音は次第に激しくなつて行つた。樞がまるで、おしちぎられでもするかと思ふほど、音に力のこもつて來た時、ちようど、鷄が鳴いた。其きりぴつたり、戸にあたる者もなくなつた。

新しい物語が、一切、語部の口にのぼらぬ世が來てゐた。けれども、頑(カタクナ)な當麻(タギマ)氏(ウヂ)の語部の古姥(フルウバ)の爲に、我々は今一度、去年以來の物語りをしておいても、よいであらう。まことに其は、昨(キゾ)の日からはじまるのである。

編集

門をはひると、俄かに松風が、吹きあてるやうに響いた。
一町も先に、固まつて見える堂伽藍――そこまでずつと、砂地である。
白い地面に、廣い葉の青いまゝでちらばつて居るのは、朴の木だ。
まともに、寺を壓してつき立つてゐるのは、二上山(フタカミヤマ)である。其眞下に涅槃佛(ネハンブツ)のやうな姿に横つてゐるのが麻呂子山だ。其頂がやつと、講堂の屋の棟に、乘りかゝつてゐるやうにしか見えない。こんな事を、女人(ニヨニン)の身で知つて居る訣はなかつた。だが、俊敏な此旅びとの胸に、其に似たほのかな綜合の、出來あがつて居たのは疑はれぬ。暫らくの間、その薄緑の山色を仰いで居た。其から、朱塗りの、激しく光る建て物へ、目を移して行つた。
此寺の落慶供養のあつたのは、つい四五日前(アト)であつた。まだあの日の喜ばしい騷ぎの響(トヨ)みが、どこかにする樣に、麓の村びと等には、感じられて居る程である。
山颪(オロシ)に吹き暴(サラ)されて、荒草深い山裾の斜面に、萬法藏院(マンホフザウヰン)の細々とした御燈(ミアカシ)の、煽られて居たのに目馴れた人たちは、この幸福な轉變(テンペン)に、目を*1つて居るだらう。此郷に田莊(ナリドコロ)を殘して、奈良に數代住みついた豪族の主人も、その日は、歸つて來て居たつけ。此は、天竺の狐の爲わざではないか、其とも、この葛城郡に、昔から殘つてゐる幻術師(マボロシ)のする迷はしではないか。あまり莊嚴(シヤウゴン)を極めた建て物に、故知らぬ反感まで唆られて、廊を踏み鳴し、柱を叩いて見たりしたものも、その供人(トモビト)のうちにはあつた。
數年前の春の初め、野燒きの火が燃えのぼつて來て、唯一宇あつた萱堂(カヤダウ)が、忽痕もなくなつた。そんな小な事件が起つて、注意を促してすら、そこに、曾て美(ウルハ)しい福田と、寺の創められた代(ヨ)を、思ひ出す者もなかつた程、それは、微かな遠い昔であつた。
以前、疑ひを持ち初める里の子どもが、其堂の名に、不審を起した。當麻(タギマ)の村にありながら、山田寺(デラ)と言つたからである。山の背(ウシロ)の河内の國安宿部(アスカベ)郡(ゴホリ)の山田谷から移つて二百年、寂しい道場に過ぎなかつた。其でも一時は、倶舍(クシヤ)の寺として、榮えたこともあつたのだつた。
飛鳥の御世の、貴い御方が、此寺の本尊を、お夢に見られて、おん子を遣され、堂舍をひろげ、住侶の數をお殖しになつた。おひ境内になる土地の地形(チギヤウ)の進んでゐる最中、その若い貴人が、急に亡くなられた。さうなる筈の、風水(フウスヰ)の相(サウ)が、「まろこ」の身を招き寄せたのだらう。よし墓はそのまゝ、其村に築くがよい、との仰せがあつた。其み墓のあるのが、あの麻呂子山だと言ふ。まろ子といふのは、尊い御一族だけに用ゐられる語で、おれの子といふほどの、意味であつた。ところが、其おことばが縁を引いて、此郷の山には、其後亦、貴人をお埋め申すやうな事が、起つたのである。
だが、さう言ふ物語りはあつても、それは唯、此里の語部(カタリベ)の姥(ウバ)の口に、さう傳へられてゐる、と言ふに過ぎぬ古(フル)物語りであつた。纔(ワヅ)かに百年、其短いと言へる時間も、文字に縁遠い生活には、さながら太古を考へると、同じ昔となつてしまつた。
旅の若い女性(ニヨシヤウ)は、型摺りの大樣な美しい模樣をおいた著る物を襲うて居る。笠は、淺い縁(ヘリ)に、深い縹(ハナダ)色の布が、うなじを隱すほどに、さがつてゐた。
日は仲春、空は雨あがりの、爽やかな朝である。高原(カウゲン)の寺は、人の住む所から、自(オノヅカ)ら遠く建つて居た。唯凡、百人の僧俗が、寺(ジ)中に起き伏して居る。其すら、引き續く供養饗宴の疲れで、今日はまだ、遲い朝を、姿すら見せずにゐる。
その女人は、日に向つてひたすら煇く伽藍の廻りを、殘りなく歩いた。寺の南境(ザカヒ)は、み墓山の裾から、東へ出てゐる長い崎の盡きた所に、大門はあつた。其中腹と、東の鼻とに、西塔・東塔が立つて居る。丘陵の道をうねりながら登つた旅びとは、東の塔の下に出た。
雨の後の水氣の、立つて居る大和の野は、すつかり澄みきつて、若晝(ワカヒル)のきらしい景色になつて居る。右手の目の下に、集中して見える丘陵は傍岡(カタヲカ)で、ほのと北へ流れて行くのが、葛城川だ。平原の眞中に、旅笠を伏せたやうに見える遠い小山は、耳無(ミヽナシ)の山であつた。其右に高くつつ立つてゐる深緑は、畝傍山。更に遠く日を受けてきらつく水面は、埴安(ハニヤス)の池ではなからうか。其東に平たくて低い背を見せるのは、聞えた香具山(カグヤマ)なのだらう。旅の女子(ヲミナゴ)の目は、山々の姿を、一つに辿つてゐる。天(アメノ)香具山をあれだと考へた時、あの下が、若い父母(チヽハヽ)の育つた、其から、叔父叔母、又一族の人々の、行き來した、藤原の里なのだ。
もう此上は見えぬ、と知れて居ても、ひとりで、爪先立てゝ伸び上る氣持ちになつて來るのが抑へきれなかつた。
香具山の南の裾に輝く瓦舍(カハラヤ)は、大官大寺(ダイクワンダイジ)に違ひない。其から更に眞南の、山と山との間に、薄く霞んでゐるのが、飛鳥の村なのであらう。父の父も、母の母も、其又父母も、皆あのあたりで生ひ立たれたのであらう。この國の女子(ヲミナゴ)に生れて、一足も女(ヲンナ)部屋(ベヤ)を出ぬのを、美徳とする時代に居る身は、親の里も、祖先の土も、まだ踏みも知らぬ。あの陽炎(カゲロフ)の立つてゐる平原を、此足で、隅から隅まで歩いてみたい。
かう、その女性(ニヨシヤウ)は思うてゐる。だが、何よりも大事なことは、此郎女(イラツメ)――貴女は、昨日の暮れ方、奈良の家を出て、こゝまで歩いて來てゐるのである。其も、唯のひとりでゞあつた。
家を出る時、ほんの暫し、心を掠めた――父君がお聞きになつたら、と言ふ考へも、もう氣にはかゝらなくなつて居る。乳母があわてゝ探すだらう、と言ふ心が起つて來ても、却てほのかな、こみあげ笑ひを誘ふ位の事になつてゐる。
山はづゝしりとおちつき、野はおだやかに畝つて居る。かうして居て、何の物思ひがあらう。この貴(アテ)な娘御(ゴ)は、やがて後をふり向いて、山のなぞへについて、次第に首をあげて行つた。
二上山、あゝこの山を仰ぐ、言ひ知らぬ胸騷ぎ。――藤原・飛鳥の里々山々を眺めて覺えた、今の先の心とは、すつかり違つた胸の悸(トキメ)き。旅の郎女は、脇目も觸らず、山に見入つてゐる。さうして、靜かな思ひの充ちて來る滿悦を、深く覺えた。昔びとは、確實な表現を知らぬ。だが謂はば、――平野の里に感じた喜びは、過去生(クワコシヤウ)に向けてのものであり、今此山を仰ぎ見ての驚きは、未來世(ミライセ)を思ふ心躍りだ、とも謂へよう。
塔はまだ、嚴重にやらひ(やらひに傍点)を組んだまゝ、人の立ち入りを禁(イマシ)めてあつた。でも、ものに拘泥することを教へられて居ぬ姫は、何時の間にか、塔の初(シヨ)重の欄干に、自分のよりかゝつて居るのに、氣がついた。さうして、しみと山に見入つて居る。まるで瞳が、吸ひこまれるやうに。山と自分とに繋(ツナガ)る深い交渉を、又くり返し思ひ初めてゐた。
郎女の家は、奈良東城、右京三條第七坊にある。祖父(オホチ)武智麻呂(ムチマロ)のこゝで亡くなつて後、父が移り住んでからも、大分の年月になる。父は勇壯(ヲトコザカリ)には、横佩(ヨコハキ)の大將(ダイシヤウ)と謂はれる程、一ふりの大刀のさげ方にも、工夫を凝らさずには居られぬだて(だてに傍点)者(モノ)であつた。なみ(なみに傍点)の人の竪にさげて佩く大刀を、横(ヨコタ)へて吊る佩き方を案出した人である。新しい奈良の都の住人は、まださうした官吏としての、華奢な服装を趣向(コノ)むまでに到つて居なかつた頃、姫の若い父は、近代の時世裝に思ひを凝して居た。その家に覲(タヅ)ねて來る古い留學生や、新來(イマキ)の歸化僧などに尋ねることも、張文成などの新作の物語りの類を、問題にするやうなのとも、亦違うてゐた。
さうした闊達な、やまとごゝろの、赴くまゝにふるまうて居る間に、才(ザエ)優れた族人(ウカラビト)が、彼を乘り越して行くのに氣がつかなかつた。姫には叔父、彼――豐成には、さしつぎの弟、仲麻呂である。その父君も、今は筑紫に居る。尠くとも、姫などはさう信じて居た。家族の半以上は、太宰帥(ダザイノソツ)のはなしい生活の裝ひとして、連れられて行つてゐた。宮廷から賜る資人・傔仗(トネリタチ)も、大貴族の家の門地の高さを示すものとして、美々しく著飾らされて、皆任地へついて行つた。さうして、奈良の家には、その年は亦とりわけ、寂しい若葉の夏が來た。
寂かな屋敷には、響く物音もない時が、多かつた。この家も世間どほりに、女部屋は、日あたりに疎い北の屋にあつた。その西側に、小な蔀戸(シトミド)があつて、其をつきあげると、方三尺位な*2になるやうに出來てゐる。さうして、其内側には、夏冬なしに簾が垂れてあつて、戸のあげてある時は、外からの隙見を禦いだ。
それから外廻(ソトマハ)りは、家の廣い外郭になつて居て、大炊屋(オホヒヤ)もあれば、湯殿火燒(ヒタ)き屋なども、下人の住ひに近く、立つてゐる。苑(ソノ)と言はれる菜畠や、ちよつとした果樹園らしいものが、女部屋の窓から見える、唯一の景色であつた。
武智麻呂存生(ゾンジヤウ)の頃から、此屋敷のことを、世間では、南家と呼び慣はして來てゐる。此頃になつて、仲麻呂の威勢が高まつて來たので、何となく其古い通稱は、人の口から薄れて、其に替る稱へが、行はれ出した樣だつた。三條七坊をすつかり占めた大屋敷を、一垣内(ヒトカキツ)――一字(ヒトアザナ)と見做して、横佩墻内(ヨコハキカキツ)と言ふ者が、著しく殖えて來たのである。
その大宰府からの音づれが、久しく絶えたと思つてゐたら、都とは目と鼻の難波(ナニハ)に、いつか還り住んで、遙かに筑紫の政を聽いてゐた帥(ソツ)の殿であつた。其父君から遣された家の子が、一車(ヒトクルマ)に積み餘るほどな家づとを、家に殘つた家族たち殊に、姫君にと言つてはこん來た。
山國の狹い平野に、一代々々都遷しのあつた長い歴史の後、こゝ五十年、やつと一つ處に落ちついた奈良の都は、其でもまだ、なか整ふまでには、行つて居なかつた。
官廳や、大寺が、によつきり、立つてゐる外は、貴族の屋敷が、處々むやみに場をとつて、その相間々々に、板屋や瓦屋が、交りまじりに續いてゐる。其外は、廣い水田と、畠と、存外多い荒蕪地の間に、人の寄り付かぬ塚や岩群(イハムラ)が、ちらばつて見えるだけであつた。兎や、狐が、大路小路を驅け廻る樣なのも、毎日のこと。つい此頃も、朱雀大路(シユジヤクオホヂ)の植ゑ木の梢を、夜になると、*3鼠(ムサヽビ)が飛び歩くと言ふので、一騷ぎした位である。
横佩家の郎女(イラツメ)が、稱讃淨土佛攝受經(シヨウサンジヤウドブツセフジユキヤウ)を寫しはじめたのも、其頃からであつた。父の心づくしの贈り物の中で、一番、姫君の心を饒(ニギ)やかにしたのは、此新譯の阿彌陀經一卷(イチクワン)であつた。
國の版圖の上では、東に偏(カタヨ)り過ぎた山國の首都よりも、大宰府は、遙かに開けてゐた。大陸から渡る新しい文物は、皆一度は、この遠(トホ)の宮廷領(ミカド)を通過するのであつた。唐から渡つた書物などで、大宰府ぎりに、都まで出て來ないものが、なか多かつた。
學問や藝術の味ひを知り初めた志の深い人たちは、だから、大唐までは望まれぬこと、せめて太宰府へだけはと、筑紫下りを念願するほどであつた。
南家(ナンケ)の郎女(イラツメ)の手に入つた稱讃淨土經も、大和一國の大寺(オホデラ)といふ大寺に、まだ一部も藏せられて居ぬものであつた。
姫は、蔀戸(シトミド)近くに、時としては机を立てゝ、寫經をしてゐることもあつた。夜も、侍女たちを寢靜まらしてから、油火(アブラビ)の下で、一心不亂に書き寫して居た。
百部は、夙くに寫し果した。その後は、千部手寫の發願をした。冬は春になり、夏山と繁つた春日山も、既に黄葉(モミヂ)して、其がもう散りはじめた。蟋蟀は、晝も苑一面に鳴くやうになつた。佐保川の水を堰(セ)き入れた庭の池には、遣(ヤ)り水傳ひに、川千鳥の啼く日すら、續くやうになつた。
今朝も、深い霜朝を、何處からか、鴛鴦の夫婦鳥(ツマドリ)が來て浮んで居ります、と童女(ワラハメ)が告げた。
五百部を超えた頃から、姫の身は、目立つてやつれて來た。ほんの纔かの眠りをとる間も、ものに驚いて覺めるやうになつた。其でも、八百部の聲を聞く時分になると、衰へたなりに、健康は定まつて來たやうに見えた。やゝ蒼みを帶びた皮膚に、心もち細つて見える髮が、愈々黒く映え出した。
八百八十部、九百部。郎女は侍女にすら、ものを言ふことを厭ふやうになつた。さうして、晝すら何か夢見るやうな目つきして、うつとり蔀戸(シトミド)ごしに、西の空を見入つて居るのが、皆の注意をひくほどであつた。
實際、九百部を過ぎてからは筆も一向、はかどらなくなつた。二十部・三十部・五十部。心ある女たちは、文字の見えない自分たちのふがひなさ(ふがひなさに傍点)を悲しんだ。郎女の苦しみを、幾分でも分けることが出來ように、と思ふからである。
南家の郎女が、宮から召されることになるだらうと言ふ噂が、京・洛外に廣がつたのも、其頃である。屋敷中の人々は、上(ウヘ)近く事(ツカ)へる人たちから、垣内(カキツ)の隅に住む奴隷(ヤツコ)・婢奴(メヤツコ)の末にまで、顏を輝(カヾヤ)かして、此とり沙汰を迎へた。でも姫には、誰一人其を聞かせる者がなかつた。其ほど、此頃の郎女は氣むつかしく、外目(ヨソメ)に見えてゐたのである。
千部手寫の望みは、さうした大願から立てられたものだらう、と言ふ者すらあつた。そして誰ひとり、其を否む者はなかつた。
南家の姫の美しい膚は、益々透きとほり、潤んだ目は、愈々大きく黒々と見えた。さうして、時々聲に出して誦(ジユ)する經の文(モン)が、物の音(ネ)に譬へやうもなく、さやかに人の耳に響く。聞く人は皆、自身の耳を疑うた。
去年の春分の日のことであつた。入り日の光りをまともに受けて、姫は正座して、西に向つて居た。日は、此屋敷からは、稍坤(ヒツジサル)によつた遠い山の端(ハ)に沈むのである。西空の棚雲の紫に輝く上で、落日(ラクジツ)は俄かに轉(クルメ)き出した。その速さ。雲は炎になつた。日は黄金(ワウゴン)の丸(マルガセ)になつて、その音も聞えるか、と思ふほど鋭く廻つた。雲の底から立ち昇る青い光りの風――、姫は、ぢつと見つめて居た。やがて、あらゆる光りは薄れて、雲は霽れた。夕闇の上に、目を疑ふほど、鮮やかに見えた山の姿。二上山である。その二つの峰の間に、ありと莊嚴(シヤウゴン)な人の俤が、瞬間顯れて消えた。後(アト)は、眞暗な闇の空である。山の端も、雲も何もない方に、目を凝して、何時までも端坐して居た。郎女の心は、其時から愈々澄んだ。併し、極めて寂しくなり勝(マサ)つて行くばかりである。
ゆくりない日が、半年の後に再來て、姫の心を無上(ムシヤウ)の歡喜に引き立てた。其は、同じ年の秋、彼岸中日(チュウニチ)の夕方であつた。姫は、いつかの春の日のやうに、坐してゐた。朝から、姫の白い額の、故もなくひよめいた(ひよめいたに傍点)長い日の、後(ノチ)である。二上山の峰を包む雲の上に、中秋の日の爛熟した光りが、くるめき出したのである。雲は火となり、日は八尺(ハツシヤク)の鏡と燃え、青い響きの吹雪を、吹き捲く嵐――。
雲が切れ、光りのしづまつた山の端は、細く金の外輪を靡かして居た。其時、男嶽・女嶽の峰の間に、ありと浮き出た 髮 頭 肩 胸――。 姫は又、あの俤を見ることが、出來たのである。
南家の郎女(イラツメ)の幸福な噂が、春風に乘つて來たのは、次の春である。姫は別樣の心躍りを、一月も前から感じて居た。さうして、日を數(ト)り初めて、ちようど、今日と言ふ日。彼岸中日、春分(シユンブン)の空が、朝から晴れて、雲雀は天に翔り過ぎて、歸ることの出來ぬほど、青雲が深々とたなびいて居た。郎女は、九百九十九部を寫し終へて、千部目にとりついて居た。
日一日、のどかな温い春であつた。經卷の最後の行、最後の字を書きあげて、ほつと息をついた。あたりは俄かに、薄暗くなつて居る。目をあげて見る蔀窓(シトミド)の外には、しとと――音がしたゝつて居るではないか。姫は立つて、手づから簾をあげて見た。雨。
苑の青菜が濡れ土が黒ずみ、やがては瓦屋にも、音が立つて來た。
姫は、立つても坐(ヰ)ても居られぬ、焦燥に悶えた。併し日は、益々暗くなり、夕暮れに次いで、夜が來た。
茫然として、姫はすわつて居る。人聲も、雨音も、荒れ模樣に加(クハヽ)つて來た風の響きも、もう、姫は聞かなかつた。

編集

南家の郎女の神隱(カミカク)しに遭つたのは、其夜であつた。家人は、翌朝空が霽れ、山々がなごりなく見えわたる時まで、氣がつかずに居た。
横佩墻内(ヨコハキカキツ)に住む限りの者は、男も、女も、上(ウハ)の空になつて、洛中洛外を馳せ求めた。さうした奔(ハシ)り人(ビト)の多く見出される場處といふ場處は、殘りなく搜された。春日山の奧へ入つたものは、伊賀境までも踏み込んだ。高圓山の墓原も、佐紀の沼地・雜木原も、又は、南は山村(ヤマムラ)、北は奈良山、泉川の見える處まで馳せ廻つて、戻る者も戻る者も、皆空(カラ)足を踏んで來た。
姫は、何處をどう歩いたか、覺えがない。唯家を出て、西へと辿つて來た。降り募るあらしが、姫の衣を濡した。姫は、誰にも教はらないで、裾を脛(ハギ)まであげた。風は、姫の髮を吹き亂した。姫は、いつとなく、髻(モトヾリ)をとり束ねて、襟から着物の中に、含(クヽ)み入れた。夜中になつて、風雨が止み、星空が出た。
姫の行くてには常に、二つの峰の竝んだ山の立ち姿がはつきりと聳えて居た。毛孔の竪つやうな畏しい聲を、度々聞いた。ある時は、鳥の音であつた。其後、頻りなく斷續したのは、山の獸の叫び聲であつた。大和の内も、都に遠い廣瀬・葛城(カツラギ)あたりには、人居などは、ほんの忘れ殘りのやうに、山陰などにあるだけで、あとは曠野。それに――、本村(ホンムラ)を遠く離れた、時はづれの、人棲まぬ田居(タヰ)ばかりである。
片破れ月が、上(アガ)つて來た。其が却て、あるいてゐる道の邊(ホトリ)の凄さを照し出した。其でも、星明りで辿つて居るよりは、よるべを覺えて、足が先へと出た。月が中天へ來ぬ前に、もう東の空が、ひいわり(ひいわりに傍点)白(シラ)んで來た。
夜のほの明けに、姫は、目を疑ふばかりの現實に行きあつた。――横佩家の侍女たちは何時も、夜の起きぬけに、一番最初に目撃した物事で、日のよしあしを、占つて居るやうだつた。さう言ふ女どものふるまひに、特別に氣は牽かれなかつた郎女だけれど、よく其人々が、「今朝(ケサ)の朝目(アサメ)がよかつたから」「何と言ふ情ない朝目でせう」などゝ、そはと興奮したり、むやみに塞ぎこんだりして居るのを、見聞きしてゐた。
郎女は、生れてはじめて、「朝目よく」と謂つた語を、内容深く感じたのである。目の前に赤々と、丹塗(ニヌ)りに照り輝いて、朝日を反射して居るのは、寺の大門ではないか。さうして、門から、更に中門が見とほされて、此もおなじ丹塗りに、きらめいて居る。
山裾の勾配に建てられた堂・塔・伽藍は、更に奥深く、朱(アケ)に、青に、金色に、光りの棚雲を、幾重にもつみ重ねて見えた。朝目のすがしさは、其ばかりではなかつた。其寂寞たる光りの海から、高く抽(ヌキ)でゝ見える二上の山。
淡海(タンカイ)公の孫、大織冠(タイシヨククワン)には曾孫。藤氏(トウシ)族長(ゾクチヤウ)太宰帥、南家(ナンケ)の豐成、其第一孃子(ダイイチヂヤウシ)なる姫である。屋敷から、一歩はおろか、女部屋を膝行(ヰザ)り出ることすら、たまさかにもせぬ、郎女(イラツメ)のことである。順道(ジユンタウ)ならば、今頃は既に、藤原の氏神河内の枚岡(ヒラヲカ)の御神(オンカミ)か、春日の御社(ミヤシロ)に、巫女(ミコ)の君(キミ)として仕へてゐるはずである。家に居ては、男を寄せず、耳に男の聲も聞かず、男の目を避けて、仄暗い女部屋に起き臥しゝてゐる人である。世間の事は、何一つ聞き知りも、見知りもせぬやうに、おふしたてられて來た。
寺の淨域が、奈良の内外(ウチト)にも、幾つとあつて、横佩墻内(カキツ)と讃(タヽ)へられてゐる屋敷よりも、もつと廣大なものだ、と聞いて居た。さうでなくても、經文の上に傳へた淨土の莊嚴(シヤウゴン)をうつすその建て物の樣は想像せぬではなかつた。だが目(マ)のあたり見る尊さは唯息を呑むばかりであつた。之に似た驚きの經驗は曾て一度したことがあつた。姫は今其を思ひ起して居る。簡素と豪奢との違ひこそあれ、驚きの歡喜は、印象深く殘つてゐる。
今の太上天皇樣が、まだ宮廷の御あるじで居させられた頃、八歳(ハツサイ)の南家の郎女(イラツメ)は、童女(ワラハメ)として、初(ハツ)の殿上(デンジヤウ)をした。穆々(ボクヾヽ)たる宮の内の明りは、ほのかな香氣を含んで、流れて居た。晝すら眞夜(マヨ)に等しい、御帳臺(ミチヤウダイ)のあたりにも、尊いみ聲は、昭々(セウヽヽ)と珠を搖る如く響いた。物わきまへもない筈の、八歳の童女が感泣した。
「南家には、惜しい子が、女になつて生れたことよ」と仰せられた、と言ふ畏れ多い風聞が、暫らく貴族たちの間に、くり返された。其後十二年、南家の娘は、二十(ハタチ)になつてゐた。幼いからの聰(サト)さにかはりはなくて、玉・水精(スヰシヤウ)の美しさが益々加つて來たとの噂が、年一年と高まつて來る。
姫は、大門の閾(シキミ)を超えながら、童女(ワラハメ)殿上(デンジヤウ)の昔の畏(カシコ)さを、追想して居たのである。長い甃道(イシキミチ)を踏んで、中門に屆く間にも、誰一人出あふ者がなかつた。恐れを知らず育てられた大貴族の郎女は、虔(ツヽマ)しく併しのどかに、御堂々々を拜(ヲガ)んで、岡の東塔に來たのである。
こゝからは、北大和の平野は見えぬ。見えたところで、郎女は、奈良の家を考へ浮べることも、しなかつたであらう。まして、家人たちが、神隱しに遭うた姫を、探しあぐんで居ようなどゝは、思ひもよらなかつたのである。唯うつとりと、塔の下(モト)から近々と仰ぐ、二上山の山肌に、現(ウツ)し世(ヨ)の目からは見えぬ姿を惟(オモ)ひ觀(ミ)ようとして居るのであらう。
此時分になつて、寺では、人の動きが繁くなり出した。晨朝(ジンテウ)の勤めの間も、うとして居た僧たちは、爽やかな朝の眼を*1いて、食堂(ジキダウ)へ降りて行つた。奴婢(ヌヒ)は、其々もち場持ち場の掃除を勵む爲に、ようべの雨に洗つたやうになつた、境内の沙地に出て來た。

そこにござるのは、どなたぞな。

岡の影から、恐る頭をさし出して問うた一人の寺奴(ヤツコ)は、あるべからざる事を見た樣に、自分自身を咎めるやうな聲をかけた。女人の身として、這入ることの出來ぬ結界を犯してゐたのだつた。姫は答へよう、とはせなかつた。又答へようとしても、かう言ふ時に使ふ語には、馴れて居ぬ人であつた。
若し又、適當な語を知つて居たにしたところで、今はそんな事に、考へを紊されては、ならぬ時だつたのである。
姫は唯、山を見てゐた。依然として山の底に、ある俤を觀じ入つてゐるのである。寺奴(ヤツコ)は、二言(コト)とは、問ひかけなかつた。一晩のさすらひでやつれては居ても、服裝から見てすぐ、どうした身分の人か位の判斷は、つかぬ筈はなかつた。又暫らくして、四五人の跫音が、びたと岡へ上つて來た。年のいつたのや、若い僧たちが、ばらと走つて、塔のやらひの外まで來た。

こゝまで出て御座れ。そこは、男でも這入るところではない。女人は(ニヨニン)は、とつとゝ出でお行きなされ。

姫は、やつと氣がついた。さうして、人とあらそはぬ癖をつけられた貴族の家の子は、重い足を引きながら、竹垣の傍らまで來た。

見れば、奈良のお方さうなが、どうして、そんな處にいらつしやる。
それに又、どうして、こゝまでお出でだつた。伴の人も連れずに――。

口々に問うた。男たちは、咎める口とは別に、心はめい、貴い女性をいたはる氣持ちになつて居た。

山ををがみに……。

まことに唯一詞(ヒトコト)。當の姫すら思ひ設けなんだ詞(コトバ)が、匂ふが如く出た。貴族の家庭の語と、凡下(ボンゲ)の家々の語とは、すつかり變つて居た。だから言ひ方も、感じ方も、其うへ、語其ものさへ、郎女の語が、そつくり寺の所化輩(ハイ)には、通じよう筈がなかつた。
でも、其でよかつたのである。其でなくて、語の内容が、其まゝ受けとられようものなら、南家の姫は、即座に氣のふれた女、と思はれてしまつたであらう。

それで、御館(ミタチ)はどこぞな。
みたち……。
おうちは……。
おうち……。
おやかたは、と問ふのだよ――。
をゝ。家はとや。右京藤原南家……。

俄然として、群集の上にざはめきが起つた。四五人だつたのが、あとから後から登つて來た僧たちも加つて、二十人以上にもなつて居た。其が、口々に喋り出したものである。
ようべの嵐に、まだ殘りがあつたと見えて、日の明るく照つて居る此小晝(ビル)に、又風が、ざはつき出した。この岡の崎にも、見おろす谷にも、其から二上山にかけての尾根(ヲネ)々々にも、ちらほら白く見えて、花の木がゆすれて居る。山の此方(コナタ)にも小櫻の花が、咲き出したのである。
此時分になつて、奈良の家では、誰となく、こんな事を考へはじめてゐた。此はきつと、里方の女たちのよく(よくに傍点)する、春の野遊びに出られたのだ。――何時からとも知らぬ、習(ナラハ)しである。春秋の、日と夜と平分(ヘイブン)する其頂上に當る日は、一日、日の影を逐うて歩く風が行はれて居た。どこまでもどこまでも、野の果て、山の末、海の渚まで、日を送つて行く女衆が多かつた。さうして、夜に入つてぐたになつて、家路を戻る。此爲來りを何時となく、女たちの咄すのを聞いて、姫が、女の行(ギヤウ)として、この野遊びをする氣になられたのだ、と思つたのである。かう言ふ、考へに落ちつくと、ありやうもない考へだと訣つて居ても、皆の心が一時、ほうと輕くなつた。
ところが、其日も晝さがりになり、段々夕光(ユフカゲ)の、催して來る時刻が來た。昨日は、駄目になつた日の入りの景色が、今日は中日(チユウニチ)にも劣るまいと思はれる華やかさで輝いた。横佩家の人々の心は、再重くなつて居た。

補遺編集

JIS外字や註釈などはまとめてここに掲載する。

補遺一編集

  • *1 顬 - {需頁:ジュ} Unicode: U+986C
  • *2 腊 - {月昔:セキ} Unicode: U+814A

補遺二編集

  • *1 眶 - {目匡:キョウ、まぶた} Unicode: U+7736

補遺三編集

  • *1 欬 - {亥欠:ガイ、せき} Unicode: U+6B2C
  • *2 籙 - {竹/金_(碌-石):ロク} Unicode: U+7C59

補遺五編集

  • *1 睜 - {目爭:セイ、めつき} Unicode: U+775C
子ども
底本ママ。

補遺六編集

  • *1 補遺五 *1 に同じ。
  • *2 牕 - {片(聰-耳):ソウ、まど} Unicode: U+7255、窓の異体字
  • *3 鼯 - {鼠吾:ゴ、むささび} Unicode: U+9F2F
はひる
底本ママ。
涅槃
底本では「涅」の「土」は「工」であったが、誤字と看做す。
初める
底本ママ。
風水(フウスヰ)
底本ママ。以下同様。
ひとりでゞ
底本ママ。
大刀
底本ママ。
資人・傔仗(トネリタチ)
トネリタチは資人・傔仗全体へのルビ。
稱讃淨土佛攝受經
底本ママ。
奴隷
底本ママ。
時々聲に
底本では時時だが、行頭に繰り返し符号を使わない慣習によるものとして時々に直した。
蔀窓
底本ママ。

補遺七編集

  • *1 補遺五 *1 に同じ。
着物
底本ママ。
寺奴(ヤツコ)
ヤツコは寺奴全体へのルビ。