武蔵野の田園風景


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「武蔵野のおもかげ今纔わずか入間いるま郡に残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見たことがある。そして其地図に入間郡「小手指原こてさしはら久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦ふ事一日か内に三十余度日暮れは平家三里退て久米川に陣を取るあくれは源氏久米川の陣へ押寄るとせたるは此辺なるべし」と書込んであるのを読んだ事がある。時分は武蔵野の跡の纔に残って居る処とは定めて此古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行って見るつもりで居てだ行かないが実際は今も矢張り其通りであろうかと危ぶんで居る。かく、画や歌でばかり想像して居る武蔵野を其おもかげばかりでも見たいものとは自分ばかりの願ではあるまい。それほどの武蔵野が今は果していかがであるか、自分はわしく此間に答えて自分を満足させたいとの望を起したことは実に一年前の事であって、今は益々ますます此望が大きくなって来た。
さて此望が果して自分の力で達せらるるであろうか。自分は出来ないとは言わぬ。容易でないと信じて居る、それけ自分は今の武蔵野に趣味を感じて居る。多分同感の人も少なからぬことと思う。
それで今、少しく端緒をここに開いて、秋から冬へかけての自分の見て感じた処を書いて自分の望の一小部分を果したい。先ず自分がかの問に下すべき答は武蔵野の美今を昔に劣らずとの一語である。昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら、それは想像にも及ばんほどであったに相違あるまいが、自分が今見る武蔵野の美しさはかかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かして居るのである。自分は武蔵野の美と言った。美といわんよりむしろ詩趣といいたい、其方が適切と思われる。


そこで自分は材料不足の処から自分の日記を種にして見たい。自分は二十九年の秋のはじめから春の初まで、渋谷村の小さな茅屋ぼうおくに住んで居た。自分がかの望を起したのも其時の事、又た秋から冬のみを今書くというのも其のわけである。
九月七日〇〇〇〇――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時にきらめく、――」
これが今の武蔵野の秋の初である。林はまだ夏の緑の其ままでありながら空模様が夏と全く変ってきて雨雲あまぐもの南風につれて武蔵野の空低くしきりに雨を送る其晴間には日の光水気すいきを帯びて彼方かなたの林に落ち此方こなたもりにかがやく。時分は屡々しばしば思った、こんな日に武蔵野を大観することが出来たら如何どんなに美しい事だろうかと。二日置いて九日の日記にも「風強く秋声にみつ、浮雲変幻たり」とある。恰度ちょうど此頃はこんな天気が続いて大空と野との景色が間断なく変化して日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしく〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇極めて趣味深く時分は感じた。
先ずこれを今の武蔵野の秋の発端ほったんとして、自分は冬の終るころまでの日記を左に並べて、変化の大略と光景の要素とを示して置かんと思う。
九月十九日〇〇〇〇――「朝、空曇り風死す、冷霧寒露、虫声しげし、天地の心なお目さめぬが如し」
同二十一日――「秋天ぬぐうが如し、木葉火の如くかがやく
十月十九日――「明かに林影黒し」
同二十五日――「朝は深く、午後は晴る、夜に入りて雲の絶間の月さゆ、朝まだき霧の晴れぬ間に家を出てを歩みおとなう」
同二十六日――「午後林を訪う。林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視し、黙想す」
十一月四日――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し、星光一点、暮色ようやく到り、林影漸く遠し」
同十八日〇〇〇〇――「月をんで散歩す、青煙地をい月光林に砕く」
同十九日〇〇〇〇――「天晴れ、風清く、露冷やかなり。満目黄葉の中緑樹をまじゆ。小鳥こずえに囀る。一路人影なし。独り歩み黙思口吟くぎんし、足にまかせて近郊をめぐる」
同二十二日〇〇〇〇〇――「夜けぬ、戸外は林をわたる風声ものすごし。滴声頻なれども雨はすでに止みたりとおぼし」
同二十三日〇〇〇〇〇――「昨夜の風雨にて木葉ほとんど揺落せり。稲田も殆ど刈り取らる。冬枯の淋しき様となりぬ」
同二十四日〇〇〇〇〇――「木葉未だ全く落ちず。遠山を望めば、心も消え入らんばかりなつかし」
同二十六日〇〇〇〇〇――夜十時記す「屋外は風雨の声ものすごし。滴声応ず。今日は終日たひこめて野や林や永久とこしえの夢に入りたらんごとく。午後犬を伴うて散歩す。林に入り木坐す。犬眠る。おりおり時雨しめやかに林を過ぎて落葉の上をわたりゆく音静かなり」
同二十七日〇〇〇〇〇――「昨夜の風雨は今朝なごりなく晴れ、日うららかに昇りぬ。屋後の丘に立ちて望めば富士山真白に連山の上にそびゆ。風清く気澄めり。げに初冬の朝なるかな。
田面に水あふれ、林影さかしまに映れり」
十二月二日〇〇〇〇〇――「今朝霜、雪の如く朝日にきらめきて美事なり。しばらくして薄雲かかり日光寒し」
三十年一月十三日〇〇〇〇〇〇〇〇――「夜更けぬ。風死し林黙す。雪頻りに降る。ともしびをかかげて戸外をうかがう。降雪火影ほかげにきらめきて舞う。ああ武蔵野沈黙す。しかも耳を澄ませば遠き彼方かなたの林をわたる風の音す、果して風声か」
同十四日〇〇〇〇――「今朝大雪、葡萄棚ぶどうだなちんぬ。
夜更けぬ。梢をわたる風の音遠く聞ゆ。ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒よさむこがらしなるかな。雪どけの滴声軒をめぐる:
同二十日〇〇〇〇――「美しき朝。空は片雲なく、地は霜柱白銀の如くきらめく。小鳥梢に囀ず。梢頭針の如し」
二月八日〇〇〇〇――「梅咲きぬ。月漸く美なり」
三月十三日〇〇〇〇〇――「夜十二時、月傾き風急に、雲わき、林鳴る」
同二十一日〇〇〇〇〇――「夜十一時。屋外の風声をきく、たちまち遠く忽ち近し。春や襲いし、冬やのがれし」


昔の武蔵野は萱原かやはらのはてなき光景を以て絶類の美を鳴らして居たように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といってもい。すなわち木はおもならたぐいで冬はことごとく落葉し、春はしたたる計りの新緑え出ずる其変化が秩父嶺ちちぶれい以東十数里の野一斉に行われて、春夏秋冬を通じかすみに雨に月に風に霧に時雨しぐれに雪に、緑蔭に紅葉に、様々の光景を呈するのである。元来日本人はこれまでならの類の落葉林の美を余り知らなかった様である。林といえば重に松林のみが日本の文学美術の上に認められて居て、歌にも楢林の奥で時雨を聞くという様なことは見当らない。自分も西国に人となって少年の時学生として初て東京に上ってから十年になるが、かかる落葉林の美を解するに至ったのは近来の事で、それも左の文章がおおいに自分を教えたのである。
「秋九月中旬というころ、一日十分がさるかばの林の中に座していたことが有ッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま暖かな日かげも射してまことに気まぐれな空合そらあい。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこちまたたく間雲切れがして、無理に押し分けたような雲間から澄みて怜悧さかに見える人の眼の如くに朗かに晴れた蒼空あおぞらがのぞかれた。自分は座して、四顧しこして、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上でかすかにそよいだが、その音を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、面白そうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌しゃべりでもなかったが、只漸く聞取れるか聞取れぬ程のしめやかな私語ささやきの声で有った。そよ吹く風は忍ぶように木末を伝ッた、照ると曇るとで雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変ッた、あるいはそこに在りとある物すべて一時に微笑したように、くまなくあかみわたッて、さのみ繁くもない樺のほそぼそした幹は思いかけずも白絹めく、やさしい光沢を帯び、地上に散りいた、細かな落ち葉はにわかに目に映じてまばゆきまでに金色を放ち、頭をかきむしッたような「パアボロトニク」(わらびの類い)のみごとな茎、加之しかえ過ぎた葡萄めく色を帯びたのが、際限もなくもつれつからみつして目前にかして見られた。
或はまた四辺あたり一面俄かに薄暗くなりだして、瞬く間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積ッたままでまた日の眼にわぬ雪のように、白くおぼろに霞む――と小雨が忍びやかに、怪し気に、私語するようにバラバラと降ッて通ッた。樺の木の葉はいちじるしく光沢がめても流石さすがお青かッた、がただそちこちに立つ稚木のみはすべて赤くも黄ろくも色づいて、おりおり日の光りが今ま雨に濡れた計りの細枝の繁みを漏れて滑りながらに脱けて来るのをあびては、キラキラときらめいた。
則ちこれはツルゲーネフの書きたるものを二葉亭が訳して「あいびき」と題した短篇の冒頭にある一節であって、自分がかかる落葉林の趣きを解するに至ったのは此微妙な叙景の筆の力が多い。これは露西亜ロシアの景で面も林は樺の木で、武蔵野のは林は楢の木、植物体からいうとはなはことなって居るが落葉林の趣は同じ事である。自分は屡々思うたし武蔵野の林が楢のたぐいでなく、松か何かであったら極めて平凡な変化に乏しい色彩一様なものとなって左まで珍重するに足らないだろうと。
楢の類だから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨が私語ささやく、こがらしが叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群かの如く遠く飛び去る。木の葉落ち尽せば、数十里の方域にわたる林が一時に裸林はだかになって、あおずんだ冬の空が高く此上に垂れ、武蔵野一面が一種の沈静に入る。空気が一段澄みわたる。遠い物音があざやかに聞える。自分は十月二十六日の記に、林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視ていしし、黙想すと書いた。「あいびき」にも、自分は座して、四顧して、そして耳を傾けたとある。此耳を傾けて聞くというのがどんなに秋の空から冬へかけての、今の武蔵野の心にかなつているだろう。秋ならば林のうちより起る音、冬ならば林の彼方かなた遠く響く音。
鳥の羽音、さえずる声、風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。くさむらの蔭、林の奥にすだく虫の音。空車荷車の林をめぐり、坂を下り、野路のじを横ぎる響。ひづめで落葉を蹶散けちらす音、これは騎兵演習の斥候か、さなくば夫婦連れで遠乗に出かけた外国人である。何事をか声高こわだかに話しながらゆく村の者のだみ声、それも何時しか、とおざかりゆく。ひとり淋しそう道をいそぐ女の足音。遠く響く砲声。隣の林でだしぬけに起る銃音つつおと。自分が一度犬をつれ、近処の林を訪い、切株に腰をかけてほんを読んで居ると、突然林の奥で物の落ちるような音がした。足もとにて居た犬が耳を立ててきっと其方を見詰めた。それぎりで有った。多分栗が落ちたのであろう。武蔵野には栗樹くりのきも随分多いから。若しれ時雨の音に至ってはこれほど幽寂なものはない。山家の時雨は我国でも和歌の題にまでなって居るが、広い、広い、野末から野末へと林を越え、もりを越え、田を横ぎり、又た林を越えて、しのびやかに通りく時雨の音の如何いかにもしずかで、又た鷹揚おうような趣きがあって、やさしくゆかしいのは、実に武蔵野の時雨の特色であろう。自分がかつて北海道の深林で時雨に逢ったことがある、これは又た人跡絶無の大森林であるから其趣は更に深いが、其代り、武蔵野の時雨の更に人なつかしく、私語ささやくが如き趣はない。
秋の中ごろから冬の初、試みに中野あたり、或は渋谷、世田ヶ谷、又は小金井の奥の林をおとのうて、暫くすわって散歩の疲を休めて見よ。此等の物音、忽ち起り、忽ち止み、次第に近づき、次第に遠ざかり、頭上の木の葉風なきに落ちてかすかな音をし、其も止んだ時、自然の静肅せいしゅくを感じ、永遠エタルニテーの呼吸身に迫るを覚ゆるであろう。武蔵野の冬の夜ふけて星斗闌干らんかんたる時、星をも吹き落しそうな野分のわけがすさまじく林をわたる音を、自分は屢々日記に書いた。風の音は人の思を遠くにいざなう。自分は此物凄い風の音の忽ち近く忽ち遠きを聞きては、遠い昔からの武蔵野の世界を思いつづけた事もある。
熊谷直好の和歌に
よもすから木葉かたよる音きけは
しのひの風にかよふなりけり
というのがあれど、自分は山家の生活を知って居ながら、此歌の心をげにもと感じたのは、実に武蔵野の冬の村居の時であった。
林に座って居て日の光のもっとも美しさを感ずるのは、春の末より夏の初であるが、それは今ここには書くべきでない。其次は黄葉の季節である。半ば黄ろく半ば緑な林の中に歩いて居ると、澄みわたった大空が梢々の隙間すきまからのぞかれて日の光は風に動く葉末葉末に砕け、其うつくしさ言いつくされず。日光とか碓氷うすいとか、天下の名所はかく、武蔵野の様な広い平原の林がくまなく染まって、日の西に傾くと共に一面の火花放つというも特異の美観ではあるまいか。若し高きに登りて一目に此大観を占めることが出来るなら此上ないこと、よし其れが出来難いにせよ、平原の景の単調なる丈けに、人をして其一部を見て全部の広い、殆ど限りない光景を想像さする者である。其想像に動かされつつ夕照に向って黄葉の中を歩ける丈け歩くことがどんなに面白かろう。林が尽きると野に出る。


十月二十五日の記にを歩み林を訪うと書き、又十一月四日の記には、夕暮に独り風吹くに立てばと書いてある。そこで自分は今一度ツルゲーネフを引く。
「自分はたちどまった、花束を拾い上げた。そして林を去ッてのら〇〇へ出た。日は青々とした空に低くただよッて、射す影も蒼ざめてひややかになり、照るとはなく只ジミな水色のぼかしを見るように四方にちわたった。日没にはまだ半時間も有ろうに、モウゆうやけがほの赤く天末を染めだした。黄ろくからのびた刈株をわたッて烈しく吹付ける野分に催されて、そりかえッた往来を横ぎって、自分の側を駈け通ッた。のら〇〇に向ッて壁のようにたつ林の一面は総てあわざわわつき、細末の玉のくずを散らしたようにきらめきはしないがちらついていた。また枯草かれくさはぐさわらの嫌いなくそこら一面にからみついた蜘蛛くもの巣は風邪に吹きなびかされて波たッていた。
自分はたちどまった……心細く成って来た。眼にさえぎる物象はサッパリとはしていれど、おもしろもおかし気もなく、さびれはてたうちにも、どうやら間近となッた冬のすさまじさが見透みすかされるように思われて。小心なからすが重そうに羽ばたきをして、はげしく風を切りながら、頭上を高く飛び過ぎたが、フト首をめぐらして、横目で自分をにらめて、急に飛び上ッて声をちぎるようにきわたりながら、林の向うへかくれてしまッた。鳩が幾羽ともなく群をなして勢込んで穀倉の方から飛んで来た、がフト柱を建てたように舞いのぼッて、さてパッと一斉に野面のづらに散ッた――アア秋だ!誰だか禿山はげやまの向うを通ると見えて、から車の音が虚空こくうに響きわたッた……」
これは露西亜ロシアの野であるが、わが武蔵野の野の秋から冬へかけての光景も、およそこんなものである。武蔵野には決して禿山はない。しかし大洋のうねりの様に高低起伏して居る。それも外見には一面の平原の様で、むしろ高台の処々が低くくぼんで小さな浅い谷をなして居るといった方が適当であろう。此谷の底は大概水田である。畑はおもに高台にある、高台は林と畑とで様々の区劃をなして居る。畑は即ち野である。されば林とても数里にわたるものなく否、恐らく一里にわたるものもあるまい、畑とても一眸いちぼう数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一傾いっけいの畑の三方は林、という様な具合で、農家が其間に散在して更らにこれを分割して居る。すなわち野やら林やら、ただ乱雑に入組んで居て、忽ち林に入るかと思えば、忽ち野に出るという様な風である。それが又た実に武蔵野に一種の特色を与えて居て、ここに自然あり、ここに生活あり、北海道の様な自然そのままの大原野大森林とは異って居て、其趣も特異である。
稲の熟する頃になると、谷々の水田がきばんで来る。稲が刈り取られて林の影がさかさに田面たのもに映る頃ろとなると、大根畑の盛で、大根がそろそろ抜かれて、彼方此方の水溜みずため又は小さな流のほとりで洗われる様になると、野は麦の新芽で青々となって来る。或は麦畑の一端、野原のままで残り、尾花野菊が風に吹かれて居る。萱原の一端が次第に高まって、其はてが天際をかぎって居て、そこへ爪先つまさきあがりに登って見ると、林の絶え間を国境をつらなる秩父の諸嶺が黒くよこたわッて居て、あたかも地平線上を走っては又た地平線下に没して居るようにも見える。さてこれより又た畑の方にくだるべきか。或は畑の彼方の萱原に身を横え、強く吹く北風を、摘み重ねた枯草でけながら、南の空をめぐる日の微温ぬるき光に顔をさらして畑の横の林が風にざわつききらめき輝くのを眺むべきか。或は又た直ちにかの林へとゆく路をすすむべきか。自分はかくためらった事が屢々しばしばある。自分は困ったか。否、決して困らない。自分は武蔵野を縦横に通じているは、どれをえらんで行っても自分を失望ささないことを久しく経験して知っているから。


自分の朋友がかつて其郷里から寄せた手紙の中に「此間も一人夕方に萱原を歩みて考え申候もうしそうろう、此野の中に縦横に通ぜる十数のこみちの上を何百年の昔より此かた朝の露さやけしといいては出でゆうべの雲花やかなりといいてはあこがれ何百人のあわれ知る人や逍遥しょうようしつらん相悪あいにくむ人は相避けて異なる道をへだたりて往き相愛する人は相合して同じ道を手に手とりつつかえりつらん」との一節があった。野原の径を歩みてはかかるいみじき想も起るならんが、武蔵野の路はこれとは異り、相逢わんとて往くとても逢いそこね、相避けんとて歩むも林のまわり角で突然出逢う事があろう。されば路という路、右にめぐり左に転じ、林を貫き、野を横ぎり、真直まっすぐなること鉄道線路の如きかと思えば、東よりすすみて又東にかえるような迂回の路もあり、林にかくれ、谷にかくれ、野に現われ、又た林にかくれ、野原の路のようにく遠くの別路ゆく人影を見ることは容易でない。しかし野原の径の想にもまして、武蔵野の路にはいみじきじつがある。
武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へゆけば必ず其処そこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物えものがある。武蔵野の美はただ其縦横に通ずる数千条の路をあてもなく歩くことによって始めて獲られる。春、夏、秋、冬、昼、夕、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨しぐれにも、ただ此路をぶらぶら歩いて思いつき次第に右し左すれば随処に吾等を満足さするものがある。これが実に又た、武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じて居る。武蔵野を除いて日本に此様な処が何処どこにあるか。北海道の原野には無論の事、奈須野にもない、其外何処にあるか。林と野とがの様に密接して居る処が何処にあるか。実に武蔵野に斯る特殊の路のあるのは此の故である。
されば君し、一つの小径を往き、忽ち三条に分るる処に出たなら困るに及ばない、君の杖を立てて其倒れた方に往き玉え。或は其路が君を小さな林に導く。林の中ごろにて又た二つに分れたら、其小なる路を撰んで見玉え。或は其路が君を妙な処に導く。これは林の奥の古い墓地でこけむす墓が四つ五つ並んで其前に少し計りの空地あきちがあって、其横の方に女郎花おみなえしなど咲いて居ることもあろう。頭の上の梢で小鳥が鳴いて居たら君の幸福である。すぐ引きかえして左の路を進んで見玉え。忽ち林が尽きて君の前に見わたしの広い野が開ける。足元から少しだらだらさがりに成りかやが一面に生え、尾花の末が日に光って居る、萱原の先きが畑で、畑の先に背の低い林が一叢ひとむら繁り、其林の上に遠い杉の小杜こもりが見え、地平線の上に淡々しい雲があつまって居て雲の色にまがいそうな連山が其間に少しずつ見える。十月小春の日の光のどかに照り、小気味よい風がそよそよと吹く。若し萱原の方へ下りてゆくと、今まで見えた広い景色がことごとく隠れてしまって、小さな谷の底に出るだろう。思いがけなく細長い池が萱原と林との間に隠れて居たのを発見する。水は清く澄んで、大空を横ぎる白雲の断片を鮮かに映している。水のほとりには枯芦かれあしが少しばかり生えている。此池の潯のみちを暫くゆくと又た二つに分れる。右にゆけば林、左にゆけば坂。君は必ず坂をのぼるだろう。兎角とかく武蔵野を散歩するのは高い処高い処と撰びたくなるのはなんとかして広い眺望を求むるからで、それで其の望は容易に達せられない。見下ろす様な眺望は決して出来ない。それは初めからあきらめたがいい。
若し君、何かの必要で道を尋ねたく思わば、畑の真中に居る農夫にきき玉え。農夫が四十以上の人であったら、大声をあげて尋ねて見玉え。驚いて此方を向き、大声で教えてれるだろう。若し少女おとめであったら近づいて小声できき玉え。若し若者であったら、帽を取って慇懃いんぎんに問い玉え。鷹揚に教えて呉れるだろう。怒ってはならない、これが東京近在の若者の癖であるから。
教えられた道をゆくと、道が又二つに分れる。教えて呉れた方の道は余りに小さくて少し変だと思っても其通りにゆき玉え、突然農家の庭先に出るだろう。果して変だと驚いてはいけぬ。其時農家で尋ねて見玉え、門を出るとすぐ往来ですよと、すげなく答えるだろう。農家の門を外に出て見ると果して見覚えある往来、なる程これが近路だなと君は思わず微笑をもらす、其時初めて教えて呉れた道の有難さが解るだろう。
真直まっすぐな路で両側共十分に黄葉した林が四五町も続く処に出る事がある。此路を独り静かに歩む事のどんなに楽しかろう。右側の林の頂は夕照鮮かにかがやいて居る。おりおり落葉の音が聞える計り、四辺あたりはしんとして如何にも淋しい。前にも後ろにも人影見えず、誰にもわず。若しそれが木葉落ちつくした頃ならば、路は落葉に埋れて、一足毎にがさがさと音がする、林は奥まで見すかされ、梢の先は針の如く細く蒼空あおぞらを指している。猶更なおさら人にわない。愈々いよいよ淋しい。落葉をふむ自分の足音ばかり高く、時に一羽の山鳩あわただしく飛び去る羽音に驚かされる計り。
同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷った処が今の武蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困る事もあるまい。帰りも矢張りおよそその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色こがねいろに染って、見るがうちに様々の形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖の様な雪が次第に遠く北に走って、終は暗憺たる雲のうちに没してしまう。
日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れんとする、寒さが身に沁む、其時は路をいそぎ玉え、かえりみて思わず新月が枯林の梢の横に寒い光を放っているのを見る。風が今にも梢から月を吹き落しそうである。突然又た野に出る。君は其時、
山は暮れ野は黄昏たそがれすすきかな
の名句を思いだすだろう。


今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居ぐうきょを出でて三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直まっすぐに四五町ゆくと桜橋という小さな橋がある。それを渡ると一軒の掛茶屋がある、此茶屋の婆さんが自分に向って、「今時分、何にしに来ただア」と問うた事があった。
自分は友と顔見合せて笑って、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑って、それも馬鹿にした様な笑いかたで、「桜は春咲くこと知らねえだな」と言った。其処で自分は夏の郊外の散歩のどんなに面白いかを婆さんの耳にも解るように話して見たが無駄であった。東京の人は呑気のんきだという一語で消されて仕了った。自分等は汗をふきふき、婆さんがいて呉れる甜瓜まくわうりを喰い、茶屋の横を流れる幅一尺計りの小さなみぞで顔を洗いなどして、其処を立出でた。此溝は水は多分、小金井こがねいの水道から引いたものらしく、能く澄んで居て、青草の間を、さも心地よさそうに流れて、おりおりこぼこぼと鳴いては小鳥が来て翼をひたし、喉を湿うるおすのを待って居るらしい。しかし婆さんは何とも思わないで此水で朝夕、鍋釜を洗うようであった。
茶屋を出て、自分等は、そろそろ小金井の堤を、水上の方へのぼり初めた。ああ其日の散歩がどんなに楽しかったろう。成程小金井は桜の名所、それで夏の盛に其堤をのこのこ歩くも余所目よそめには愚かに見えるだろう、しかし其れは未だ今の武蔵野の夏の日の光を知らぬ人の話である。
空は蒸暑むしあつい雲がきいでて、雲の奥に雲が隠れ、雲と雲との間に蒼空が現われ、雲の蒼空に接する処は白銀の色とも雪の色ともたとえ難き純白な透明な、それで何となくおだやかな淡々しい色を帯びて居る、其処で蒼空が一段と奥深く青々と見える。ただ此ぎりなら夏らしくもないが、さて一種の濁った色の霞のようなものが、雲と雲との間をかき乱して、べての空の模様を動揺、参差しんし、任放、錯雑の有様と為し、雲をつんざく光線と雲より放つ陰翳いんえいとが彼方かなた此方こなた交叉こうさして、不羈奔逸の気が何処ともなく空中に微動して居る。林という林、梢という梢、草葉の末に至るまでが、光と熱とに溶けて、まどろんで、怠けて、うつらうつらとして酔って居る。林の一角、直線にたれて其間から広い野が見える。野良のら一面、糸遊上騰いとゆうじょうとうして永くは見つめて居られない。
自分等は汗をふきながら、大空を仰いだり、林の奥をのぞいたり、天際の空、林に接するあたりを眺めたりして堤の上をあえぎ喘ぎ辿たどってゆく。苦しいか?どうして!身うちには健康がみちみちあふれて居る。長堤三里の間、ほとんど人影がない。農家の庭先、或るはやぶの間から突然、犬が現われて、自分等を怪しそうに見て、そしてあくびをして隠れて仕了しまう。林の彼方では高く羽ばたきをして雄鶏おんどりが時をつくる。それが米倉の壁や杉の森や林や藪にこもって、ほがらかに聞える。堤の上にも家鶏にわとりの群が幾組となく桜の陰などに遊んで居る。水上を遠く眺めると、一直線に流れてくる水道の末は銀粉をいたような一種の陰影のうちに消え、間近くなるにつれてぎらぎら輝いて矢の如く走ってくる。自分達は或橋の上に立って、流れの上と流れのすそと見比べて居た。光線の具合で流の趣が絶えず変化して居る。水上が突然暗くなるかと見ると、雲の影が流と共に、またたく間に走って来て自分達の上まで来て、ふと止まって、急に横にそれて仕了うことがある。暫くすると水上がまばゆくかがやいて来て、両側の林、堤上の桜、あたかも雨後の春草のように鮮かに緑の色を放って来る。橋の下では何とも言いようのない優しい水音がする。これは水が両岸に激して発するのでもなく、又浅瀬のような音でもない。たっぷりと水量みずかさがあって、それで粘土質の殆ど壁を塗った様な深い溝を流れるので、水と水とがもつれからまって、み合って、おのずから音を発するのである。何たる人なつかしい音だろう!
”―――Let us match
This water's pleasant tune
With some old Border song, or catch,
That suits a summer's noon.”
の句も思い出されて、七十二歳のおきなと少年とが、そこら桜の木陰にでも坐って居ないだろうかと見廻したくなる。自分は此流の両側に散点する農家の者を幸福しあわせの人々と思った。無論、此堤の上を麦藁むぎわら帽子とステッキ一本で散歩する自分達をも。


自分と一所に小金井の堤を散歩した朋友は、今は判官になって地方に行って居るが、自分の前号の文を読んで次の如くに書いて送って来た。自分は便利のためにこれを此処に引用する必要を感ずる――武蔵野は俗にいうかん八州の平野でもない。また道灌がかさの代りに山吹の花を貰ったという歴史的の原でもない。僕は自分で限界を定めた一種の武蔵野を有して居る。其限界はあたかも国境又は村境が山や河や、或は古跡や、色々のもので、定めらるるように自ら定められたもので、其定めは次の色々の考から来る。
僕の武蔵野の範囲の中には東京がある。しかしこれは無論はぶかなくてはならぬ、なぜなれば我々は農商務省の官衙かんが巍峨ぎがとしてそびえて居たり、鉄管事件の裁判が有ったりする八百八街によって昔の面影を想像することが出来ない。それに僕が近ごろ知合にあった独乙ドイツ婦人の評に、東京は「新しい都」ということが有って、今日の光景では仮令たとえ徳川の江戸で有ったにしろ、批評語を適当と考えられる筋もある。斯様なわけで東京は必ず武蔵野から抹殺せねばならぬ。
しかし其市の尽くる処、即ち町外まちはずれは必ず抹殺してはならぬ。僕が考には武蔵野の詩趣を描くには必ず此町外れを一の題目とせねばならぬと思う。例えば君がすまわれた渋谷の道玄坂の近傍、目黒の行人坂ぎょうにんざか、また君が僕と散歩した事の多い早稲田の鬼子母神きしもじんあたりの町、新宿、白金しろかね……
また武蔵野の味を知るにはその野から富士山、秩父山脈国府台こうのだい等を眺めた考のみでなく、また其中央に包まれて居る首府東京をふりかえった考で眺めねばならぬ。そこで三里五里の外に出で平原を描くことの必要が有る。君の一篇にも生活と自然とが密接して居るということが有り、いかにも左様だ。僕はかつて斯ういうことが有る、家弟をつれて多摩川の方へ遠足したときに、一二里行き、また半里行きて家並やなみが有り、また家並に離れ、また家並に出て、人や動物に接し、また草木ばかりになる、此変化のあるので処々に生活を点綴てんてつして居る趣味の面白いことを感じて話したことが有った。此趣味を描くために武蔵野に散在せる駅、駅といかぬまでも家並、即ち製図家の熟語でいう聯檐家屋れんたんかおくを描写するの必要がある。
また多摩川はどうしても武蔵野の範囲に入れなければならぬ。六つ玉川などと我々の先祖が名づけたことが有るが武蔵野の多摩川の様な川が、外にどこにあるか。其川が平らな田と低い林との連接する処の趣味は、あたかも首府が郊外と連接する処の趣味と共に無限の意義がある。
また東の方の平面を考えられよ。これは余りに開けて水田が多くて地平線が少し低い故、除外せられそうなれど矢張武蔵野に相違ない。亀井戸の金糸堀きんしぼりのあたりから木下川辺きねがわへんへかけて、水田と立木と茅屋ぼうおくとが趣を成して居る矩合ぐあいは武蔵野の一領分である。殊に富士で分明わかる。富士を高く見せて恰も我々が逗子ずしの「あぶずり」で眺むるように見せるのは此処に限る。又た筑波つくば分明わかる。筑波の影が低く遥かなるのを見ると我々はかん八州の一隅に武蔵野が呼吸して居る意味を感ずる。
しかし東京の南北にかけては武蔵野の領分が甚だせまい。殆ど無いといってもよい。れは地勢のしからしむる処で、かつ鉄道が通じて居るので、すなわち「東京」が此線路によって武蔵野を貫いて直接に他の範囲と連接して居るからで有る。僕はどうもう感じる。
そこで僕は武蔵野は先ず雑司谷ぞうしがやから起って線を引いて見ると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越かわごえ近傍まで達し、君の一編に示された入間郡を包んでまるく甲武線の立川駅に来る。此範囲の間に所沢、田無たなしなどいう駅がどんなに趣味が多いか……殊に夏の緑の深い頃は。て立川から多摩川を限界として上丸かみまる辺まで下る。八王子は決して武蔵野には入れられない。そして丸子まるこから下目黒に返る。此範囲の間に布田ふだ登戸のぼりと二子ふたこなどのどんなに趣味の多いか。以上は西半面。
東の反面は亀井戸辺より小松川へかけ木下川きねがわから堀切ほりきりを包んで千住近傍へ到って止まる。此範囲は異論が有れば取除いてもい。しかし一種の趣味が有って武蔵野に相違ない事は前に申した通りである――


自分は以上の所説に少しの異存もない。ことに東京市の町外まちはずれを題目とせよとの注意はすこぶる同意であって、自分も兼ねて思付いて居た事である。町外ずれを「武蔵野」の一部に入れるといえば、少し可笑おかしく聞えるが、実は不思議はないので、海を描くに波打ち際を描くも同じ事である。しかし自分はこれを後廻しにして、小金井堤上の散歩に引きつづき、先ず今の武蔵野の水流を説くことにした。
第一は多摩川、第二は隅田川、無論此二流のことは十分に書いて見たいが、さてこれも後廻しにして、更らに武蔵野を流るる水流を求めて見たい。
小金井のながれの如き、其一である。此流は東京近郊に及んでは千駄ヶ谷、代々木、角筈つのはずなどの諸村の間を流れて新宿に入り四谷上水となる。又た井頭池いのかしらいけ善福池などより流れ出でて神田上水となる者。目黒辺を流れて品海へ入る者。渋谷辺を流れて金杉かなすぎに出ずる者。其他名も知れぬ細流小溝しょうきょに至るまで、若しこれを他所で見るならば格別の妙もなけれど、これが今の武蔵野の平地高台のきらいなく、林をくぐり、野を横切り、隠れつ現われつして、しかも曲りくねって(小金井は取除け)流るる趣は春夏秋冬に通じて吾等の心をくに足るものがある。自分はもと山多き地方に生長したので、河といえば随分大きな河でも其水は透明であるのを見慣れたせいか、初めは武蔵野の流、多摩川を除いては、ことごとく濁って居るので甚だ不快な感をいたものであるが、だんだん慣れて見ると、やはり此少し濁った流れが平原の景色にかなって見えるように思われて来た。
自分が一度、今より四五年前の夏の夜の事であった、かの友と相携あいたずさえて近郊を散歩した事をおぼえて居る。神田上水の上流の橋の一つを、夜の八時ごろ通りかかった。此夜は月冴えて風清く、野も林も白紗はくさにつうまれしようにて、何とも言い難き良夜であった。かの橋の上には村のもの四五人乗って居て、欄にって何事をか語り何事をか笑い、何事をか歌って居た。其中に一人の老翁がまざって居て、頻りに若い者の話や歌をまぜッかえして居た。月はさやかに照り、此等の光景を朦朧もうろうたる楕円形のうちに描き出して、田園詩の一節のように浮べて居る。自分達も此画中の人に加わって欄に倚って月を眺めて居ると、月はるやかに流るる水面に澄んで映って居る。羽虫が水をつ毎に細紋起って暫らく月のおもに小皺がよる計り。流れは林の間をくねって出て来り、又た林の間に半円を描いて隠れて仕了しまう。林の梢に砕けた月の光が薄暗い水に落ちてきらめいて見える。水蒸気は流れの上、四五尺の処をかすめて居る。
大根の時節に、近郊を散歩すると、此等の細流のほとり、到る処で、農夫が大根の土を洗って居るのを見る。


必ずしも道玄坂といわず、又た白金しろかねといわず、つまり東京市街の一端、或は甲州街道となり、或は青梅道おうめみちとなり、或は中原道なかはらみちとなり、或は世田ヶ谷街道となりて、郊外の林地田圃たんぼに突入する処の、市街ともつかず宿駅ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈し居る場処を描写することが、すこぶる自分の詩興をび起すも妙ではないか。なぜ斯様な場処が我等の感を惹くだろうか。自分は一言にして答えることが出来る。即ち斯様な町外れの光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思をなさしむるからであろう。言葉を換えて言えば、田舎いなかの人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、或は抱腹するような物語が二つ三つ其処らの軒先に隠れて居そうに思われるからであろう。更らに其特点を言えば、大都会の生活の名残なごりと田舎の生活の余波とが此処で落合って、ゆるやかにうずを巻いて居るようにも思われる。
見給え、其処に片眼の犬がうずくまって居る。此犬の名の通って居る限りが即ち此町外れの領分である。
見給え、其処に小さな料理屋がある。泣くのとも笑うのとも分からぬ声を振立ててわめく女の影法師が障子に映って居る。外は夕闇がこめて、煙のにおいとも土の臭ともわかち難きかおりよどんで居る。大八車が二台三台と続いて通る。其空車のわだちの響がやかましく起りては絶え、絶えては起りして居る。
見給え、鍛冶工かじやの前に二頭の駄馬が立って居る其黒い影の横の方で二三人の男が何事をかそ密そと話し合って居るのを。鉄蹄の真赤になったのが鉄砧かなしきの上に置かれ、火花が夕闇を破って往来の中程まで飛んだ。話して居た人々がどっと何事をか笑った。月が家並やなみの後ろの高いかしの梢まで昇ると、向うの片側のやねろんで来た。
かんてらから黒い油煙が立って居る、其間を村の者町の者十数人が駈け廻ってわめいて居る。色々の野菜が彼方此方に積んで並べてある。これが小さな野菜市、小さな糶売場せりばである。
日が暮れると直ぐ寐て仕了しまう家があるかと思うと夜の二時ごろまで店の障子に火影ほかげを映して居る家がある。理髪所とこやの裏が百姓家で、牛のうなる声が往来まで聞える、酒屋の隣家となり納豆売なっとううりの老爺の住家で、毎朝早く納豆々々と嗄声しわがれごえで呼んで都の方へ向って出かける。夏の短夜みじかよが間もなく明けると、もう荷車が通りはじめる。ごろごろがたがた絶え間がない。九時十時となると、せみが往来から見える高い梢で鳴きだす、だんだん暑くなる。砂埃すなほこりが馬のひづめ、車のわだちあおられて虚空こくうに舞い上がる。はえの群が往来を横ぎってから家から家、馬から馬へ飛んであるく。
それでも十二時のどんかすかに聞えて、何処となく都の空の彼方で滊笛の響がする。


此文第五までは国民之友三百六十五号に掲載し第六以下は三百六十七号に載せ第五までは秋より冬、第六は特に夏の武蔵野の一端を描きし也、ともに明治三十一年一月の作。
 

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。