横浜市震災誌 第二冊/第5章
第五章 本市第五方面
編集青木町 - 神奈川町 - 高島町九・十丁目 - 表高島町 - 林町 - 山内町 - 新浦島町 - 千若町 - 橋本町 - 子安町
第1節 一般状況
編集青木町・神奈川町・子安町は、本市の第五方面で、市の東北部の広い地域を占め、東は港内に面し、西と東北は丘陵を負うて、橘樹郡の諸村に隣接している。地震は市内の中心地と較べれば、激しいというほどではなく、丘陵地などは極めて軽微であった。しかし平地は多少倒潰家屋を出し、火災は免れなかったので、被害は相当であった。その焼失戸数は、青木町は約千七百戸、神奈川町は約千四百戸、合計全焼約三千四百戸である。このほか各地域を通じて、全焼約三千四百戸を算した。また各地域を通じて、全壊約千戸、半壊二千戸、全潰・半潰・全焼を合すれば六千百戸である。崖地、神奈川町字神明町七百十一番地地先の京浜電車の堤が、幅約五間崩壊して、その下の家屋七戸を埋め、数名が圧死した。橋梁は漣橋・碧海橋・裏海橋・裏高島橋・海運橋・八千代橋等が破壊し、あるいは焼失墜落した。殃死者の数は関内・関外方面に較べれば少なく、約七十八である。当時罹災者は主として最寄りの丘地へ避難し、幾分は海辺の町や、高島駅構内へ逃れた。
神奈川方面はその一部を除き、火災が襲って来るまでに、相当の余裕があったので、家財を出した者が多く、そのために生命を捨てた者が多かった。幸い焼け残った家が多かったので、多くは手蔓を求めて、しばらくそこに寄寓した。頼る辺なき人々約一千人は、青木小学校・捜真女学校・その他に収容された。他の地域から避難して来た人は非常に多く、一時は数万人であった。
第2節 各町誌
編集第1項 青木町 高島町 高島町九・十丁目 表高島町 林町 山内町
編集青木町は本方面の中、最も広い地域を占めている。南は浅間町と岡野町に接し、東は港内に臨み、地内の約七分通りは丘陵で、その辺りは、戸口が少ないが、港内に面する方には商業地も、住宅地もあって、各種の工場もある。震災は埋立地である町に酷しかった。
1 字滝下町および宝町
編集両字の戸数は約二百戸で、宝町は二十五戸、人口約九百を有していた。一帯に埋地ではあるが、建物が新しいのと、小柄な家か多いので、倒潰は一戸もなく、ただ二三の土蔵が壊れたに過ぎなかった。幅三尺長さ約五十間の地割れを生じ、地盤は一帯に低下した。住民は主とし宝町の空地に避難したが、海嘯〔津波〕の噂に驚いて、さらに反町の裏山に転じた。高島町方面よりの火が、午後四時頃に襲って来て、町内ことごとく焼き払われ、橋梁も焼け落ちた。罹災の主なる建物は、宝町なる関東製鎖株式会社である。死者は出先にて二人あった。
2 字宮洲町および大野町
編集一帯に埋立地で、宮洲町は約百二十戸、大野町は約三十戸、人口合せて約七百であった。全戸数の約半は倒潰、他は半潰であった。川岸は至る所崩壊した。午後二時頃、七軒町二丁目からの火が延焼して来て、まず町の左側を焼き、風位の変わると共に、さらに右側を燃き、一戸も残らず、焼失し、ただ大野町の横浜船渠会社の一仕事場を残したのみであった。罹災大建物としては、久保田造船所・山田造船所・渡邊鉄工所・浦賀船渠会社出張所・横浜船渠会社分工場・同倉庫・新鉄工場等である。宮洲橋・漣橋・海運橋いずれも焼け落ちた。死者は六名である。
3 字七軒町
編集七軒町は神奈川駅の東北にある字地で、鉄道線路が地内を横断し、線路の東側は海辺に沿う埋立地であり、西北側は丘陵が迫っている。戸数約二百、人口約九百五十。震災としては第二震に於いて影響甚だしく、家屋の倒潰は全戸数の約七分通り、その他もおおむね半潰した。ことに三千六百十九番地は、近く明治三十年前後の埋め立したところであるから、一戸も残らす倒潰し、石垣はほとんどことごとく崩落した。地内の丘上に在る曹洞宗本覚寺は神奈川開港の際、しばらく米国領事館となっていた著名な寺院であるが、その本堂が倒潰した。当字地内は所々に地割れを生じ、その大なるものは幅三尺におよんで濁水を噴出し、川岸はほとんど全部崩壊した。震後まもなく、高島町十丁目より発した火は、おりからの烈風に煽られて、みるみるうちに延焼し来たり、地内を一舐めにして元町方面に向かった。その間僅に一時間足らず、かくて地内は本覚寺下に約三十戸を残存しただけであった。安田銀行支店は倒潰を免れたけれども、火災は防ぐことを得なかった。二丁目との間に架せる碧海橋は中ほどで折れた上焼失した。何分火脚急にして住民は一物をも持出し得ず、本覚寺山や高島山に避難したのであった。地内の死者十二人、中にも待合業金福方では女将ほか二名、堀田薬店では主婦および母、小山勝也方では妻および子、中村貞之助方では夫婦、いずれも圧焼死を遂げた。
七軒町二丁目は七軒町と、宮洲町との間にある埋め立で、戸数は百四十七戸、人口は約七百人であった。この辺は花柳地で芸者屋・待合・料理店等多くあった。埋立地ではあるが、家屋は比較的小さく、ただ三千六百十三番地の川岸が崩壊したため、その辺の四十戸が倒潰しただけであった。火はまもなく神奈川駅附近から発し、同町を焼き払った。火は午後零時半頃早くも同町を襲ったので、一戸も残さず焼失した。住民は碧海橋・漣橋が焼けないうちに、いち早くこの橋を渡って、浅野船渠会社の埋立地および権現山へ避難したので、死者は僅に二名であった。なお他所へ出たる者で、二名の死者があった。
4 字上台町 字台町下 字台町一部
編集上台町は青木町の西南部にある丘陵地で、戸数百六十、人口四百五十六を有していた。全潰一戸、半潰八戸、他は小破程度で、たいした被害なくて済んだ。震害は極めて軽微であったけれども、午後四時頃、鶴屋町から延焼し来た火のために、四百二十番地より四百五番地まで約十戸を焼払い、自然に鎮火した。一方下台町方面の火も迫って来たが、これは町民が必死となって消防に努めたので、無事なることを得た。死者は他町に勤務中の者に数名あった。戸外に逃れ出でた人々は、百八十八番地附近の空地に避難した。他町より避難民が数百人入込んだ。
5 字下台町および字台町の一部
編集両字は上台町の下に連なる平地で、被害はたいしたことはなかった。倒潰家屋は全部一割であった。午後三時頃、火は鶴屋町方面から延焼して来たが、おりから巡邏中の神奈川署の石井巡査が大声を挙げて、町の若者を呼び集め、自ら先に立って一同を指揮し、極力破壊消防に努めたので、辛くも火を消し止めることができた。一方西口でも、町民が出動して、手押し喞筒(ポンプ)を出し、これを井戸に掛けたところが、誤って吸入管を水底に落してしまったので、使うことができなくなって一同困っていた時、町内の大綱神社の社掌吉田氏が身を躍らして、井戸の中へ飛び込み吸入管を拾い上げて来たので、喞筒を使って火を消すことができた。焼失家屋九十戸で済んだのは全く石井巡査と、吉田社掌との働きによるものである。死者は一人も出さなかった。
6 鶴屋町
編集鶴屋町は上台町の下なる平地で、戸数二百八十、人口二千二百五十を有していた。倒潰家屋六戸、他は半壊、もしくは大破に近き程度であった。新田間川の岸は、大半崩れた。午後二時頃スタンダート石油会社の火災で、火の流れは川中に注ぎ入り、筏材の数多を焼いて、大日本水道木管会社に延焼し、ますます勢を得て、神奈川駅方面に向い、上台町までを焼き払った。一方軽井沢方面より焼け来た火は、住民必死の努力により、関東製鉄会社のあたりで消し止めた。罹災の主なる建物は、倒潰で大日本楽器製造株式会社、倒潰後焼失で東亜肥料株式会社、単に焼失で大日本ベニヤ製材株式会社等である。他行中で死者五名、他町よりの避難者約二千名あった。
7 字元町
編集元町は神奈川の中枢地域で、一部は丘状を成し、戸数百四十七、人口約七百五十を有していた。家屋の全潰したのは唯一戸であったけれど、半潰または大破は少なからずあった。初め神奈川駅附近から出火したと聞いて、一旦避難した人々はすぐに立戻り、家財を取纏めて、洲崎神社・普門寺・甚行寺・本覚寺の各境内または鉄道線路へ避難したが、午後一時頃になって、火は七軒町および宮之町の二方面から襲って来て、高木山に在る二十一戸を残したのみでことごとく焼失し、人々はさらに避難場所を換えて、持出だした家財の多くを焼くに委かせた。罹災の大建物は神奈川郵便局で、倒潰はしなかったが焼失してしまった。死者は只一人、別に他町に出でて一人であった。
8 字幸ケ谷および字栗田谷の一部
編集両字は一帯の丘陵地で、幸ケ谷は三百十戸、栗田谷の一部は、俗に岩崎山と称えられ、戸数三十戸、人口合せて一千三百二十を有していた。家屋の倒潰三戸、半潰は全戸数の約三分の一、その他は大破もしくは小破であった。飯田町との境なる土橋は半壊した。午後四時頃、洲崎神社方面よりの火で、七戸と土蔵一棟を焼き、久保町よりの火で、十九戸を焼き、さらに横町よりの火で四戸を焼いたが、いずれも附近の町民の必死の努力に依って消し止め得た。浄滝寺は本堂が傾き、表門側の長さ五十間の煉瓦塀が倒れ、岩崎邸の建築半ばの大建物と長さ四十間の煉瓦塀とが倒れた。勤め先にての死者二名、その一人は巻検事である。十月中旬頃より、憲兵隊分遣所を浄滝寺に設けられた。
9 字宮之町
編集当字は、戸数百五十六、人口約六百五十を有していた。倒潰家屋とてなく、殆んど被害がなかったが、午後一時頃になって、元町および対岸の七軒町よりの火が襲来したため、全町は烏有に帰した。避難場所は大野町の埋立地・神奈川方面および岩崎山等であった。出先での行方不明者二人あった
10 字久保町および字幸ケ谷の一部
編集久保町は平地、幸ケ谷は丘陵地で、戸数七十二、人口約二百五十を有していた。家屋の倒潰なく、多くは大破もしくは小破程度であったが、午後二時半頃、宮之町を焼いた火先は、たちまちのうちに丘沿いの片側を焼き、一方停車場方面よりの火先は、七軒町・宮洲町・滝下町を順次に焼払って、さらに対岸なる当地区に延焼し、内堀に沿った片側を焼いて一戸もあまさなかった。罹災の大建物は名古屋料理店・高見病院・武相銀行等である。勤め先にての死者は二人ある。
11 字滝ノ町
編集当字は平坦地で、戸数八十戸、人口四百五十人。家屋の倒潰は一戸もなく、多くは小破であった。午後二時頃に至り、火災が宮之町より迫って来た頃、神奈川消防署の喞筒(ポンプ)が、柳町の火を消し止めての帰途、すぐに消防に掛り、地元住民もまたこれに協力していたが、横町の宗興寺前より発した火が、遂に延焼して、全町を焼失した。死者は外出先で三人、避難場所は主に旧台場であった。
12 字横町
編集当字は戸数七十四、人口二百八十あった。家屋の倒潰はなかったが、三百二十三番地の土蔵より発火して、権現山の民家を除く六十三戸を焼き、さらに滝之町・猟師町・西之町方面に延焼した。主なる罹災建物は宗興寺。避難先は反町の裏山。死者は他出中の者で一人あった。
13 字反町の中上反町
編集上反町は神奈川の鉄道以西、丘陵地に沿い、戸数約五百戸、人口約一千五百人を有していた。震災では倒潰家屋なく、半潰二十三戸、その他大破程度を多少出したに過ぎなかった。戸外に飛び出だした人々は、四百八十三番地なる千五百坪の空地と、遊廓裏の空地に避難した。火は本町と桐畑との間にある某銭湯屋から発火したが、附近の人々が駈け集まって消し止めたことは大手柄であった。もし消し得なかったならば、このあたり人家密接せることとて、必ずや大火となったであろう。死者は関内方面への勤め人で数名あった。他町より避難者が約二千名ばかりも入込んだ。
14 字反町の中下反町
編集下反町は神奈川の鉄道に沿い、上反町の東に続く地域で、戸数約三百五十戸、人口約一千三百人を有していた。倒れた家約六戸、他に多少半潰に近き程度の家を出した。六百三十九番地に幅五寸長さ十二間ぐらいの地割れを生じたが、なおこのあたりは一帯に地盤が二尺ばかり低下したようである。滝ノ川の護岸各所に幾分崩壊箇所を生じた。戸外に出でた人々の中、約七分は東海道線路、三分は遊廓裏なる四百坪ばかりの空地に避難した。直後五百五十五番地から発火したが、人々は協力して消し止め、大事に至らなかった。他に通勤していた者が五名遭難した。
15 字反町の中遊廓反町
編集遊廓反町は上反町に続く地域で、遊廓はその一部を占め、災前の戸数約五百、人口約二千八百、その内で妓楼二十一、芸妓屋一、娼妓約百八十、芸妓二名であった。土地柄飲食店・遊戯場なども多い。この地域も神奈川一帯の例に違わず、震災の影響は大きいというほどでもなく、一般民家が約四十戸ほど半潰して、その他多少大破小破したぐらいに止まった。地割れとてもなく、廓内を流れる小川の岸も何のことはなかった。妓楼では第二金浦楼の裏三階家、伯島楼の裏二階家、および第四森谷楼の裏二階家がいずれも全潰した。料理店武蔵屋も全潰した。死者は娼妓一人に止まり、ほかに重傷者とてもなかった。火災も幸に起らずに済んだ。さればかかる際、横浜に於いても東京に於いても、遊里といえばどこも、惨状を極めたに拘らず、この地域のみはさしたることはなかったのである。
16 字反町の中桐畑
編集桐畑とは俗称で、反町の一部である。一帯の丘陵地で、戸数約二百戸、人口約一千人、中流以上の住民が多い。震害は軽徴で、全潰一戸、大破約十戸、その他多少小破あった。全潰したのは湯屋で、すぐに発火したけれども、警察官および附近の人々が寄り集まって、消し止めた。死者は勤め先に於いて数名あった。他町から避難し来たもの約三千人あった。
17 字広台
編集広台は丘陵地と平地で、戸数二百三十六戸、人ロ一千百八十人あった。倒潰十七戸、半潰大破も多少あった。滝ノ川の岸が殆んど全部崩落した。主なる建物の被害としては、横浜脳病院は大破し、蓮法寺は附属建物の一部が倒潰した。多くは脳病院附近の畑中に、他は自宅附近の宅地に避難した。死者は他出中の者に三人あった。他よりの避難者は百六十人あった。
18 字太田町
編集広台下の平地で、戸数二百十戸、人口約九百人を有した。家屋の倒潰四戸、半潰二十戸ばかり、その他はおおむね、大破小破で天理数会も小破であった。火災なく、他行中の者が二名死した。他町よりの避雛者約一千人もあった。
19 字三ツ沢(南北中)
編集三ツ沢は青木町の北部にある広大な丘陵地域で、滝ノ川の渓流が流れ、その沿岸は低地をなしている。戸数僅かに八十戸、人口約四百名であった。民家の倒潰はなく、半潰五戸、その他多少大破したに過ぎなかった。主なる建物の被害を記るせば、日蓮宗豊顕寺は市内で著名な寺院であるが、講堂・経蔵・八幡堂・学生寄宿舎・檀林図書館・庫裡および番神堂は倒潰し、本堂は半潰した。第二中学校・山王社・ラミー製造株式会社はいずれも大破した。この地の名所なる横浜ガーデンの土手にも、崩壊した所があった。なお豊顕寺附近には、所々地盤に亀裂を生じた。死者は他出中の者に二名あった。本地域は岡野町・平沼町など被害のひどかった所に近かったので、その方面から避難民は沢山来て、豊顕寺界隈に避難した。その数は約千五百人に達した。震災後憲兵分遣所を中三ツ沢に置かれ、また陸軍工兵隊は約二週間各戸に分宿していた。
20 字東西軽井沢
編集東軽井沢は一部平地で、その一部および西軽井沢全部は丘陵地で、戸数五百七十戸、人口二千二百八十人を有していた。家屋の倒潰約五十、半潰約二百五十、大破約二百七十であった。百二十番地先から百四十三番地先までの間に地割れを生じ、岸は殆んど全部崩壊し、新田間橋は大破して、通行不能となった。死者は五名、ほかに外出中の者で八名あった。他町よりの避来者は約二千人あった。
21 松本の東部 字栗田谷の一部および字反町の一部
編集松本の東部、栗田谷の一部および反町の一部は、青木町の東北部を占め、松本および栗田谷は丘地が多い。すべて地域合せて戸数二百七十戸、人口千百十五人を有していた。被害は軽徽の方で、倒潰四戸、半潰二十戸、その他多少大破があり、山崩れが栗田谷に多少あった。地内二箇所から発火したが、附近の人々寄集まって、幸に消し止め得た。町に死者はなかったが、外出中の勤め人が十名ばかり、行方不明となった。人々は反町小学校建築予定地約四千坪の空地と、千三百三十五番地の約六百坪の空地に避難した。当日他より逃げ込んだ者は約三千人で、その後も引続き寓居する者が多かった。
22 字松本の西部および字栗田谷の一部
編集松本の西部および栗田谷の一部は丘陵地域で、戸数合せて百六十三戸、但しその約四十戸は空き家で、人口は約六百五十人を有した。全半潰十六戸、その他大破も少なからずあった。千百九十三番地の高さ一丈の石垣が約十間崩れた。死者一名、ほかに外出中の者四名、他町からの避難者約一千五百名。流言甚だしく、ために惨禍を見たことは遺憾であった。
23 高島町九・十丁目
編集高島町九・十丁目は埋立地で、普通民家は九十五戸、人口約四百五十人、別に九丁目に仲仕の合宿所が十二棟あって、三百五十人いたが、その多くは他で稼ぎ中であった。このあたり震害烈しく、家屋の倒潰約七分通りにおよび、その他も半潰もしくは大破した。火はまもなく十一丁目の停車場前から発して、北に向かって延焼、おりからの烈風に勢を得て、拡がりに拡がったのである。この火こそ実に神奈川方面の最初の火で、しかも最も猛威を振るったものであった。九丁目は風上であったけれども、ライジングサンの石油火を受けて延焼し、かくて九・十丁目とも一戸も残らす焼失した。高島橋も焼け落ちた。住民は初め鉄道線路および海辺の荷足船に避難したが、火の迫るにおよんで、高台に逃げ上ぼった。死者は地元で十四人と他町にいて死んだ者二人とであった。九丁目の仲仕宮崎某方では妻および子女五人、外に合居あわせた近隣の小児一人殃死を遂げ、主人は沖に稼いでいたので生き残った。
24 表高島町の一部および林町
編集この二町は埋立地で、周囲は水に囲まれ、水上には数多の筏材が繋いであった。民家はなく、表高島町には三菱の棉花倉庫十八棟があり、林町には横浜工作所・谷鉄工所などがある。地震ではいずれも倒潰を免かれたけれども、ライジングサン・スタンダート両石油会社に貯蔵してあった石油が爆裂し、帷子川を流れて海に入ったので、海上一面の猛火となって、筏も小舟もことごとく焼失した。その他の倉庫や工場もやがて襲われ、ことごとく焼失した。高島橋は焼失し、八千代橋は墜落した。倉庫内の人夫二名圧死した。
25 表高島町の一部および山内町一・二丁目
編集当町々は一帯の埋立地で、三方は水に囲まれ民家は無く、表高島町には貨物取扱の高島駅がある。被害はさしたることなく、駅舎も機関車も一寸破れたぐらいで、上屋が所々倒潰したに過ぎなかった。しかし地盤は一帯に低下し、所々に地割れを生じ、濁水を噴出した。地内三十箇所の建物、ライジングサン石油火で一時猛火に囲まれたけれども風向の関係で、ただ上屋の幾部と、数輛の貨車や、積入れの食糧品を焼いたのみで、他に延焼しなかった。附近街々の避難民が幾千となく構内に雲崩れ込み、中には海嘯〔津波〕を恐れて、他に立退いた者もあったが、多くは貨車の中に一時落付いて、食糧品にも不自由を感じなかったようである。
第2項 神奈川町 新浦島町 千若町 橋本町 山内町
編集神奈川町は、本方面の中部を占めている地域で、西南は青木町に接し、東は港内に向かい、その他は子安町や郡部に隣り合っている。中央から海岸までは平地で商店・工場等はあるが、丘陵地だから、戸口は少ない。震災の影響は青木町と同様に、やや大きく火災も各所に起り、ことに神奈川駅以東の目貫場所である各町、一斉に焦土となった。別町の東北部を占めている字柏町・富家町・稲荷町・新町・浦島町等の全部は焼失した。ことに町内には工場が多かったので、損害は多大であった。震災後略奪が各所で行われた。
1 字浦島町および新浦島町
編集この二町は戸数三百三十九戸、人口一千五百五十三人を有していた。家屋の倒潰七、半潰五、他はおおむね小破程度であった。新浦島町は埋地だったので亀裂多く、到る所濁水を噴出し、なお地盤も低下したために、満潮時には海水の上がった所もあった。人々は海嘯〔津波〕の噂に恐れて、浦島山へ避難していた際に、午後二時頃浦島町五百八十二番地の辺より発火した。当時現場には既に一人の住民もいなかったのであったが、附近子安町の平戸氏方に使役されていた鮮人数名は、それと見るよりすぐに駆けつけ、手に手にバケツ・手桶を携えて、下水を汲み上げ、必死となって消防に努めたため、僅かに十二戸を焼いたのみで、まもなく鎮火した。しかるにまたもや二時半頃に至り、新浦島町の人造肥料株式会社から硫酸の爆発によって発火し、遂に同社を全焼した。罹災の主なる建物は浦島町の名取倉庫・日本カーボン株式会社、新浦島町の人造肥料株式会社・横浜豆粕工場・食塩再製工場・日清製粉株式会社等であった。町内での死者は二名。他町よりの避難者は三百五十三名あった。
2 新町
編集当字は戸数約六百五十戸、人口約千六百人を有していた。家屋の倒潰十八戸、他はおおむね大破ないし小破程度であった。住民は渡邊山・浦島山、または能満寺の境内に避難していたが、午後五時頃になって、隣町の横浜製鋼会社から発した火が延焼して来て、京浜電車線路を隔てた丘の九戸を焼いた。町内での圧死者は二名であったが、出先にての死者は十五六名もあった。二日頃より残存家屋を頼って来た者が約一千七百名におよんだ。このあたり略奪盛に行われ、その難に遭った家が二十八戸、物品価格が二万八千余円におよんだそうである。
3 字神明町および千若町の一部
編集この町は戸数約八百、人口約三千五百人を有していた。倒潰は全戸数の約四分の一、他はおおむね小破程度であったが、大体に於いて千若町の被害が甚だしく、川岸は殆んどことごとく崩れ、所々に地割れを生じた。東神奈川駅構内にも地裂を生じた。常盤橋は破損したけれども、通行には差し支えなかった。主なる被害建物として能満寺・神明社小学校・慈雲寺は倒潰、東光寺は大破した。その他横浜倉庫・神奈川蒸綿所・日本製粉会社・浪花倉庫会社等は倒潰ないし半潰大破し、東神奈川駅は少しの破損であった。地元での死者四人、他町に出でての死者八人を算し、神明町の町民である市会議員石井政太郎氏も、南仲通を通行中不幸に遭ったのである。
4 字神明町通称仲木戸
編集当字は戸数二百六十戸、人口一千八十八人を有していた。約三分の一強の倒潰で、概して表通が被害甚だしかった。住民は東神奈川駅前の広場に避難した。金蔵院から発火したけれども、附近の者が駈け付けて消し止めた。九番町方面の火も幸にこの地域には来なかった。被害の主なる建物は真言宗金蔵院の庫裡および鐘楼倒潰、本堂半潰、庭前の大仏転落、その他では高津旅館表二階の全潰等である。死者は六名あった。
5 十番町および千若町の南西部
編集当町は戸数七十四戸、人口八百八十人を有していた。倒潰二十六戸、破壊した家屋六十戸であった。千若町の電燈株式会社・日清製油株式会社・古田コークス製造所等いずれも破壊した。火は仲の町九番地まで延焼して来たが、町民が極力消防に努めたので、遂に火災を免れた。しかし町民はライジングサンの燃えている石油の黒煙に恐れて、十日まで戸外に出ていた。
6 稲荷町および立町
編集当字は戸数約百六十戸、人口四百八十人を有していた。震害はこの辺ではかなり甚だしく、丘陵地域の立町はさほどではなかったが、稲荷町は殆んど倒潰した。立町の石垣は全部崩れて道を埋め、所々に大亀裂を生じたので、住民は丘へは避難することができないために、多くは鉄道沿線へ避難した。約三十分を経て富家町の某工場より発した火が、稲荷町へ延焼し来て、これに続く立町をもその渦中に入れ、山手の二十戸を残したのみで、他はことごとく焼失した。死者は地元では幸に一人もなかったが、負傷者は数十名に達し、なお外出先での遭難が五名あった。罹災の主なる建物は稲荷町の東京製鋼株式会社である。
7 浦島丘
編集当字は戸数百七十三戸、人口約六百人を有していた。震災が起るや、内田造船株式会社の社宅百十一戸、一般民家約三十戸が倒潰した。人々はいずれも山手の空地や、カーボン会社隣地の空地に避難していたところ、午後二時頃になって、稲荷町なる横浜製鋼株式会社から発火した。火は附近の民家を焼いて、たちまちこの町に延焼し来り、八方に飛火して、僅かに二十八戸を残したのみであった。羅災の大建物として、内田造船会社および合宿所および浦島小学校はいずれも焼失した。カーボン会社合宿所は大破したけれども火災は免かれた。内田造船所の社宅に居住していた者は、多く長崎地方から募集に応じて来た職工であったが、帰郷もできず、親戚知己とてもないので、困窮を極め、ようやく町内有志の助力に依り、倒れ木材や焼けトタンなどを拾い集めて、六十八戸の仮小屋を造り、配給品によって露命を繋いでいたが、その後各方面の焼け跡片付に使用された。県では九月十五日にバラック七棟を建てて、職工達を収容した。死者はなかった。
8 富家町
編集富家町は、戸数約三百戸、人口は約千二百人を有していた。この辺は水田を埋めた所であるが、倒潰家屋は十戸しかなかった。東海管鉛株式会社は倒潰して、二名の圧死者を出した。零時三十分頃、柳町より延焼した火は、約二百五十戸を焼き払った。焼死はなく、圧死者前記と合せて五名を出しただけであった。住民は鉄道線路・鳥越村・浦島村等に避難した。
9 字柳町
編集柳町は東神奈川駅の裏側であってこの辺での賑う土地である。戸数は約四百戸、人口約千六百人を有していた。倒潰家屋は約四十戸、半潰約五十戸で、一番多く倒潰した所は、街の中央から東北に至る幅十五間ぐらいの所であった。午後零時二十分頃リンネット会社から発火した火は、広大な同会社を一舐めにして、北方の民家を焼き払い、風が変わると共に、東方の鳥越町に移り、さらに柳町に戻って、富家町に延焼し、数百戸を焼きつくした。罹災した主なる建物は、帝国紡績株式会社・水野輸出品工場・横浜輸工株式会社・横浜合金株式会社等、リンネット株式会社では、女工一名圧死した。会社の焼け跡は非常に広くこの町の三分の一を占めている。同町の圧死者は二名、外出中死んだ者は九名であった。このあたりに井戸はなかったが、丘から清水が出ていたので、人々はこれを飲んで、喉の渇きを潤すことができた。震災後この辺の土地は住宅地となって戸数が増加した。
10 鳥越町
編集鳥越町は山沿いにある狭い町である。戸数約百六十戸、人口六百五十人であった。家屋の倒潰三戸、半潰一、大破の家屋も少なかったが、大抵は続いて居住することができた。午後一時頃柳町のリンネット会社を焼いた火が延焼して来て、たちまちのうちに、九十二戸を焼いたが、死者は一名も出さなかった。住民は後方の渡邊山に避難した。
11 白楽
編集当字は東白楽・西白楽に分かれ、背後に丘陵を負い、民家は少ししかない。家屋の倒潰は三戸しかなかった。死者もなかった。市内としてはこのあたりが最も被害の少なかった部分の一であった。
12 斉藤分
編集斉藤分は二本榎に連なる高台で、市営住宅百八十六戸とほかに倶楽部があった。半潰約三十戸、大破七十戸他はおおむね小破で、全然破損しない家が約十戸であった。死者は勤め先に於いて二人あった。他方面よりの避難者約六百人もあった。
13 二本榎
編集二本榎は大部分丘陵で、人家は少なく、丘沿いの平地は狭いけれど、商家は相当並んでいた。戸数は百九十戸で、人口は約七百六十人であった。この内倒潰家屋は十戸、半潰は三十戸であった。地内の石垣の土手が約百間ばかり崩壊した。死者は外出中の者四名であった。人々はパラテスト教会や、前の広場や、二谷の県立工業学校前に避難した。
14 中川
編集当字は平地で、戸数約百七十戸、人口約七百を有していた。家屋の倒潰は三十四戸、半潰は六十戸、その他は大抵少しの破損を見たくらいであった。二千三百六十六番地の附近に地割れを生じたところは、最近埋め立することになっている。
15 二ツ谷および平尾前の東南部
編集二ツ谷および平尾前の東南部は、東海道鉄道線路の西北に在って、このあたりでの賑やかな土地で、戸数約四百二十戸、人口約二千人を有していた。被害はこのあたりとしては比較的多かった方で、家屋の倒潰約七十戸、大破程度も多く、ことに町の表通りは被害が甚だしかった。滝ノ川の護岸も全部崩壊した。主なる建物の中、慶運寺の庫裡は半潰し、浦島観音堂の鐘楼は倒潰した。死者は地内に於いて約三名、外出先に於いて三名あった。住民は二本榎の丘地および東海道線路上に避難した。残存家屋を頼って来た他町の避難者は、一時一千人に上ぼった。火災を免れたので復興案外早く、年末までには町並みもほぼ元通りになった。
16 平尾前の西北部
編集平尾前の西北部はこの地の大部分を占め、地勢平坦で、戸数四百四十戸、人口一千百十六人であった。家屋の倒潰は十二戸、半潰約百戸その他大破も少なからずあった。県立工業学校および平尾前倶楽部は半潰し、ニツ谷小学校は大破した。二千七百五十五番地の地先に、幅約五寸長さ約二十間の地割れを生じ、工業学校周囲の石垣は崩壊し、柳町に通ずる小橋二箇所墜落した。死者は町内で三名、勤務先で三名あった。町民は町の後方にある青物市場の原、工業学校々庭、倶楽部等に避難した。他町より残存家屋を頼っての避難者が約五百人あった。
17 飯田町
編集飯田町は、戸数百十五戸、人口約五百七十人。家屋の倒潰は二戸、他はおおむね小破程度であった。飛火はしばしば来たけれども、町民が協力して防いだために、無事なることを得た。余震を怖れて婦女や老幼は成仏寺境内に避難した。他町からの避難者約三百人あった。
18 西之町
編集西之町は宇幸ケ谷丘地の真下に在って浜岸に近く。このあたりは賑った所であった。戸数八十三戸、人口約四百三十人を有していた。震災は軽徴で、屋根瓦や壁などが幾分落ち、古い家が一戸倒潰したぐらいのものであった。火は神奈川駅附近から発火しさらに午後二時頃、宗興寺附近からも発火して、四時頃には町の全部を焼失した。興信・平沼・安田の諸銀行はいずれも焼失した。死者は一名もなく、通行人の焼死者が一人あったのみであった。
19 仲ノ町
編集仲ノ町は西之町・九番町・十番町等と同様に、神奈川街道筋の中心地である。戸数百二十戸、人口六百四十人を有していた。震災の響影は軽微で、倒潰家屋六戸、倉庫三棟であったが、火災は免かれなかった。火災は神奈川駅前起った。同町は丁度風下に当たるので、町民は早くも家財を纏めて、十番町の熊野神社の境内や、金蔵院の境内や、京浜電車の軌道に避難した。果たして四時頃になって、西之町から火は延焼して来て、海に面する側を焼き払ったが、山に向っている方の側は、西之町の境目で神奈川消防部員・警察署員・その他住民総掛りで消防に努め、ようやく消し止めた。海側の火はこの町で五十一戸を焼き、九番町に延焼した。当町には死者は一名もなかった。幸いに神奈川署の近くなので、救護も警備もよく行き渡って、飲料水や食糧は早く行き届いた。火を免れた人達は、罹災した人々を助けて、町の復興のために努力し合った。年末頃にはほぼ建築もできて、歳暮の大売出しまでやって景気を添えた。
20 字御殿町
編集町内には多少道路に亀裂あったぐらいで、倒潰家屋は僅に十戸であった。後から火を受けたが町民が防火に努めたため、延焼しなかった。死者は一人もなかった。
21 字九番町 星野町 字渡邊町 橋本町
編集九番町は仲之町の東北に続いて神奈川街道筋に在る町で、字御殿はその西北に続き、渡邊町および橋本町二丁目・三丁目は、東南の海辺にある離れ地で、工場地である。この町の戸数は四百三十二戸、人口千八百九人であった。倒潰した家屋は三十戸で、その他工場・商店・住宅等は僅かな損失であった。住民の大部分は、金蔵院と熊野神社とに避難したが、仲之町を焼き払った火先は、夕刻になって、遂に九番町に延焼し、神奈川演芸館に至るまでの間に、七十八戸を焼失したが、消防署始め、住民の努力に依り、ようやく夜更けになって鎮火した。火脚が遅かったので、家財を出した者も多かった。死者は僅に四名であった。星野町の岩井製油株式会社・梅原鉄工場・三井貯炭所・石川屋筏部・渡邊造船所、橋本町の浅野船渠など大破損を被ったが、火災は免れた。
22 字小伝馬町
編集同町は仲之町の東に続く小さな所で、戸数五十五戸、人口約四百五十人を有し、その多くは漁民である。家屋の全潰はなく、半潰に近いものが三十戸あった。住民は地震ばかりを恐れて、遠い火事には気をかけなかったが、滝ノ橋辺に火が来たと聞いて、家財を持ち出し、海岸の旧台場や、内堀の埋め立や、附近に緊留してあった漁船などに避難した。午後五時頃になって、西町・猟師町を焼き払い、その火が遂に延焼して来て、全町はたちまちのうちに烏有に帰した。
23 字猟師町 字棉花町 字旧砲台
編集猟師町・棉花町・旧砲台は相続いて、海辺にある。猟師町には二百九十戸、棉花町には百十戸、人口は両町合せて一千五百六十を有していた。地震の被害は、極めて軽微で、いずれの家屋も、瓦や壁が落ちたぐらいのものであった。住民は余震を恐れて戸外に飛び出し、旧砲台・内堀の埋立地や、高島駅構内などへ避難したが、まもなく滝下町および西之町方面から来た火の手は、おりからの強風に煽られて、同町を焼き尽くした。火の子は町民達の避難している砲台内に盛んに落ちて、危険は眼の前に迫って来た。女子供は悲鳴を挙げて逃げ廻っていたが、海岸に繋いであったw:五大力船に避難して、一同無事なることを得た。死者は一人もなく、他町で死んだ者が二名あった。当日から各地の避難民が続々入って来た。その数は約三千人に上った。同町に漁家が四十戸もあったので、翌日より漁に出て、魚を町民に馳走して喜ばせた。
24 橋本町一丁目および山内町三・四丁目
編集橋本町一目と、山内町三・四丁目とは横浜船渠会社の倉庫所在地で、橋本町には九棟、山内町には十一棟あるばかりで、民家はない。この辺は海辺であるから、地盤も固く、倉庫も破損せず、避難民の安全地となった。
第3項 子安町
編集子安町は神奈川町の東にあって、東南は港内に面し、他の三方は郡部に接して、中部と海辺は大抵平坦地である。その辺には工場や人戸があったが、その他は丘ばかりで、人家はない。平坦地は所々火災を起した。
西子安町の字海道通 七島の一部 守屋町
編集西子安町と守屋町とは平坦地で、守屋町の大部分は埋立地である。子安町の一部は丘地をなしている。戸数は合せて千三百戸、人口約五千二百人を有した。平坦地は被害はやや多く、家屋の倒潰約五十戸、その他半潰が大分あった。倒潰した主な建物は、子安町の相応寺・大安寺・薬王寺で、守屋町では東洋化学工業株式会社・共栄造船所その他各大会社工場が倒潰した。守屋町には所々に地割れを生じ、富士見橋は墜落し、川岸は殆んど崩壊した。まもなく火は浦島町より発火したが、人々が寄り合って消し止めたので、この方面も火災は免れた。死者は町内で三名を出し、外出中の者で死んだ者二名あった。当時住民達は京浜電車の線路や浦島の丘などに、逃れていたが、その後町に帰って来て、半潰の家には柱を立てたりして住い、自分の家が全潰した者達は仮小屋を造って住んだ。他町からの避難民は、一時は三百余名あった。当時は鮮人騒ぎと掠奪が激しかった。
東子安と西子安とを含む各字および守屋町
編集東子安町の中には、神之木・打越・溝下等、西子安町には大口・七島等の各字がある。守屋町三・四丁目は、市の最も東に在り、鶴見町に隣接した町で全町埋立地であるが、他の地域は丘陵起伏せる地である。戸数は七百で、人口は約二千八百を有していた。当日はあたかも溝下の郷社一宮神社のお祭りであったので、今年こそは花々しいお祭をやろうと、各字では山車、神輿の行列を揃えて、笛音賑やかに、踊り狂っていたおりからであった。思わぬ大震が突如とし襲来したときには、今までの喜びどころか恐ろしさに一時は喪心してしまった。家屋はみるみる中に約二百戸倒潰し、百五十戸は半潰して、道路は道なきほどに埋められた。町民達は狼狽している中に、火は午後二時頃、新子安と字溝下の二箇所から発火し、東北に向かって延焼して、約百棟を焼いて、午後三時頃、風が変わると、また逆戻りをして自然に鎮火した。罹災建物の主なるものの中、焼失したのは守屋町の人造肥料会社・日本人造絹糸株式会社等で、倒潰したのは日本製銅株式会社・横浜化学工業会社・河西工業所、入江町のアセチリン株式会社、七島の半田製油株式会社等で、なお社寺・学校等も大破した。その中に本慶寺・一宮神社・浅野総合中学校等がある。町民等は海嘯〔津波〕を恐れ丘に避難していたが、すべて元の焼け跡に帰って、仮小居を建てて、復興に努めた。