横浜市震災誌 第二冊/第2章
第二章 本市第二方面
編集戸部町自一丁目至七丁目、花咲町自七丁目至十二丁目、楼木町自四丁目至七丁目、内田町自六丁目至八丁目、橘町、緑町、入舟町、長住町、高島町自一丁目至八丁目、裏高島町、表高島町一部、浅間町、岡野町、南北幸町、軽井沢、平沼町 - 西平沼町、材木町、仲町、尾張屋町、酉戸部町、久保町、伊勢町、老松町、月岡町、宮崎町、南太田町一部
第1節 一般概況
編集第二方面は市の西北部を占めている広い地域である。南方は人家が多くあるので、その方面が激烈であったことはいうまでもない。この一帯は同様火災を併発して、丘地の一部にも延焼した。その惨害も他の方面と同じように激しかった。当地の被害状況について述べると、皇太神宮・杉山神社は全焼し、寺院は全焼六箇寺で、火災を免かれたのは四箇寺であった。戸部警察署・第一消防署・横浜税務署・専売局出張所・横浜駅前郵便局等は全焼におよんだが、半壊の所も少なくは無かった。傷者は十二名を出だしたのみで死者は一人も無かった。次に工場としては古川電気工業株式会社・同会社ケーブル工場・東洋麻糸紡績株式会社・メートル電球株式会社・宮川莫大小(メリヤス)株式会社・ライジングサン石油株式会社・平沼油槽所・横浜ゴム製造株式会社・帝国蓄音機商会等、全焼した主なるものである。横浜船渠株式会社は焼失し、死者二十八名を出だした。久保町の横浜帆布会社は火災を免れたが、死者二十三名を出だした。横浜ゴム会社では二十四名の死者があった。東京電灯株式会社横浜支店は全焼して六十八名の死者を出した。市立十全病院と済生会治療所・ほか私立病院五箇所は焼失した。横浜駅〔2代目〕は四万からの乗降者のある大停車場であるが、当時は東京発横須賀真鶴行の列車が着車にまもない時刻だったので、百数十名の乗客と見送人等は下りホームに、その他、階上の待合室や省電のホームにあった人々も、百名を越えていたが、幸い建物は新しい堅牢な建物であったから、倒潰を免れ、無事避難することができた。なお真鶴発東京行の第十二列車は、駅まで距てる約三町の地点で震災に遭ったが、脱線も転覆も免れ、乗客に死傷者を出さなかった。
惨状を極めた場所
編集各会社・各工場はいずれも就業中なので、その被害甚だしく、いずれも支柱の少ない建物だから、大震動と共に倒潰し、圧死者を出した。また地勢が悪いため避難することができなかったので、無残の焼死を遂げたものもあった。西戸部町御所山俗称鵯越(ヒヨドリゴエ)の険峻な九十九折の坂上に約七十名、中坂に約六十名の焼死体が晒された。裏高島町三十五番地の社会館に残っていた止宿人は百二三十名在ったが、建物は鉄筋コンクリートであったので皆無事であった。附近なるライジングサン石油会社では猛火が本館に吹きつけ、遂に第二十九号室・第四号室に延焼したので、館員一同大努力でこれを消すことができた。中央食品市場は、午前十時より営業を開始し、就業者や購買者等が約二百名群がっていたところ、脆くも倒潰して圧死者四名、下敷より救われた者十四名あった。まもなく同所は焼失した。
主なる避難地
編集避難地および避難者の概数を挙げると、一日午後雰時三十分より午後六時に至るまでに於いて、掃部山に一万人、高島駅に一万人、池ノ坂埋地に二万人、県立第一中学校に三万人、山王山に一万人、岡野町済生会病院庭に一万人、稲荷台小学校に二万人、伊勢山太神宮境内に五千人、掃部山に一万人、同水道山に三万人、東海道鉄道線路に五千人、保土ケ谷町岡野公園に五千人、久保町裏山と山麓とに一万人であった。右の中、掃部山公園は、最初は適当の避難場所であったが、周囲ことごとく火災に罹ったために、一万の人々は一時危惧を懐いたが幸に焼死者は出さなかった。高島駅は平地でしかも広漠なる土地であるため、避難には最も好適地であった。池ノ坂埋地は周囲三面小丘を以て囲繞された低地で、約二千坪の広場があったので、適当な避難地であった。西戸部町なる県立第一中学校は丘陵に建てられている校舎が火災を免がれ、地震に因る倒潰もなく、かつ広い土地なので好い避難地であった。山王山は高丘で、面積広く適地であったことは避難民に取っては幸いであった。しかし掃部山は、燃え盛る火炎が次第に襲って来たので、避難民は大いに困って、伊勢山を下って渡邊邸へと移動したが、同邸も火災に罹ったので、三度避難した。水道山は位置が高台で貯水池もありかつ面積は広大で、人家は稠密せず、すこぶる好適の地であった。東海道鉄道線路は相当の面積を有し、一時の避難地としては好適地であったけれど、小屋掛等は出求ないので、避難民は他へそれぞれ移転した。保土ケ谷町および岡野公園は広漠なる丘陵地を形成して、何等火災等の憂なく、最適当の地であった。久保町裏山と山麓は、面積も広く火災にも何等の間係なく、すこぶる好適地であった。その後これ等避難者は、通信および交通の機関を失って、極度の不安と恐怖とに怯えた。
第2節 各町誌
編集1 戸部町一 - 七丁目
編集戸部町一丁目 戸数は災前八十戸を算したが、全町にわたってその約半数を倒潰した。公共建物として、圧焼死者は、三十名を出した。中にも十二番地の印刷所と、十七番地の下宿屋とは、一家全滅の悲運に遭った。若尾邸の石垣、渡邊邸の石垣等が壊れたため、通行人の中に死亡者も多数あった。この附近の避難状況を見ると、町民は主に伊勢山に逃げたが午後四時頃には、周囲猛火が吹き付け、たちまち神殿に燃移り、多数の避難者は、一時全滅と覚悟したけれども、ようやくにしてそれを免かれたのであった。
戸部町二丁目 二丁目も一丁目に準じて震災・火災共に激甚を極め、戸部坂の両側にある町は、勾配急であるためか、約九分通りは将棋倒れに倒潰し、たちまち火と化してしまった。百四十戸世帯の中に四十名の死者があった。中にも哀れなのは、四十八番地の理髪店関親子五人が全滅したことであった。住民の多くは掃部山・伊勢山に、一分は水道貯水池または山王山方面に避難し、八日頃より焼け跡に舞戻り、復興に努めた。
戸部町三丁目 三丁目の表通り約半数は倒潰し、裏通りは比較的倒潰しなかったが、まもなく四丁目の火勢は、学校前と二丁目とに延焼し、たちまち二方火に取囲まれ、加うるに旋風が起ったので、全町はたちまち火と化した。町民は大急ぎで、伊勢山・掃部山・久保山方面に避難した。災前人口三百五十八人あった中、三十一名の圧焼死者を出した。中にも十五番地の高山吉之助方は一家三名全滅の悲運に遭った。
戸部町四丁目 四丁目は戸数約四百戸、人口千六百五十人を算していたが、ほとんど全部倒潰して、五十四名の圧死および焼死者を出した。震後町内の煎餅屋より発火して、一帯の火と成ったので、住民の多くは掃部山に避難し、逃げ後れた一部の者は辛くも池の坂方面へ逃れた。永楽銀行支店は支店長始め店員数名圧死した。百一番地畳屋萩原辰五郎氏は、妻子と共に焼死した。十月後になってぽつぽつ仮住居を建て、復旧に専心した。
戸部町五丁目 五丁目は戸数二百六、人口八百五十を算したが、約七分は倒潰して死者廿四名を出した。百五十八番地山崎昌平氏は一家四名全滅した。税務署の鉄筋コンクリート建も正面の柱が倒れて、二三名の死者を出だし、まもなく四丁目からの火災が飛火して、午後一時頃一帯に火と化した。町民は横浜駅前・高島駅構内または掃部山等に避難した。
戸部町六 - 七丁目 戸数三百三十、人口千六百を算したが、他町に比較して死者少なく十二三名に過ぎなかった。住民は横浜駅と高島駅構内とに避難し、一部の者は中学校方面に逃れた。
2 花咲町七 - 十二丁目
編集花咲町七丁目ないし十二丁目は、南は紅葉橋を起点として、東側桜川に沿った片側町で、十二丁目は横浜駅前である。災前の戸数は三百六十九、人口約千五百であった。大建物は横浜市瓦斯局・地方専売局横浜出張所・横浜劇場等がある。町民は野毛不動下に一時避難したが、猛火の追撃を受けて、さらに伊勢山に転じた。六・七丁目の住民は紅葉坂より伊勢山へ、八・九丁目の住民は多数掃部山へ、十丁目・十二丁目の住民は、主として横浜駅および高島駅方面へ避難したのであった。
3 桜木町四 - 七丁目
編集第一方面を見よ。
4 内田町 橘町 緑町
編集内田・橘・緑の三町は、横浜駅より桜木町駅に至る高架線と、横浜船渠株式会社および高島駅構内との中間に在る小さな町である。内田町六丁目の住民は、緑町一丁目の発火により高島駅構内に避難した。当時同地は海嘯〔津波〕の襲来を喧伝されたため、他に避難場所を転じた者もあった。
5 高島町一 - 十丁目 裏高島町(横浜駅を含む)
編集高島町三丁目からは広い工場地帯で、多くの大工場・会社等の大建物が並び建っていたが、四辺新しい埋立地だったので、大建物を初め全町家屋は、一斉に倒潰した。川岸は亀裂と埋没とで惨状を極めた。郵船会社附近から火の手を発し、みるみる内に四方に延焼した。この時火は早くも、ライジングサン石油会社の二つの石油クンクに入った。俄然轟然たる爆音が四辺を震動せしめた。黒煙はもうもうと揚がり、火の柱は天に冲され、その物凄さはなんとも名状できなかった。やがて火になった石油は、思うままに流れ出し、すべて物を焼きつくそうとかかった。毒煙は地上を覆ったので、無残にもそこここに窒息して死ぬものがあった。やがて火になった石油は、桜川の鉄橋を溶かして、川中に流れ込み、水面は火と化した。その時家財を小船に積んで逃げようとしていた町民があったが、船諸共焼死した。この辺の安全地帯としては、神奈川の高台や、高島町駅などで、この方面に馳せ寄せる者が無数であった。海岸方面に避難した者も少なからずあったが、海嘯〔津波〕襲来の予報を耳にしたので進退きわまったが、幸に海嘯〔津波〕はなく、噴きまくる毒煙に脅えながら、鎮火を待ち得たのであった。
6 浅間町
編集浅間町は戸数約一千三百、人口五千二百、南浅間町は戸数七百、人口三千五百であった。同町は旧東海道筋の一部と、保土ケ谷町とに接近した方面を埋め立てて住宅区とした所で、東方軽井沢に通ずる分岐点から西南は新田間川を隔てて岡野町に面し、北は隠谷戸・打越・大窪・追分・浅間下・明神下・霜之下・鹿島・社宮司・大新田等の平地である。すなわち新田間川と帷子川の一部を境とした東北方の区域であって、社宮司・大新田・鹿島附近は南浅間町と呼んでいる。倒潰した戸数は約四分の一ぐらいで、他はほとんど半潰に近い程度であったが、霜之下にある俗に魚油長星と呼ぶ九十二三戸、芹澤真麻田〔ママ〕工場・山内麻真田工場、浅間下にある俗称三州長屋の六十三戸、洪福寺・隣徳小学校等はひとたまりもなく倒潰して、木村隣徳小学校長は圧死した。区内に三十余名の圧死者を出し、なお外出先にての圧死者が約七十名あった。明神下では背後に直立する崖が崩壊して、倉庫一棟と物置一棟とが埋没し、二名を生埋めにした。南浅間町の五百二十九番地は材木溜池の在った所を埋め立てた地で、地盤軟弱のため、地裂を生じ、濁水噴出した所が多かった。おりから久保町東洋麻糸紡績株式会社が火を発し、帷子川に添った浅間町の一部に延焼したが、僅かに十六戸を焼いたのみで、他に同地区内からは火災を起さなかった。この混維中、各方面よりの避難民が一時に押寄せて雑鬧した。
7 岡野町 南幸町
編集岡野町・南幸町方面は、災前約二千戸、人口一万を算していた。同町は昔、岡野新田と称した埋立地であったため、第一震と同時に全町ほとんど全潰の有様で、女子師範学校および附属小学校・県立高等女学校・岡野小学校・横浜魚油株式会社・上原倉庫・関東絹業株式会社・横浜染工株式会社等の大建物も倒潰あるいは半潰した。また各所に地裂を生じ、濁水噴出して、膝を没し、他町に劣らず災害の度も大きく、圧死者約七十名を出した。おりから午後一時頃、町内数箇所に火災を起して、火は八方に拡がったので、住民は浅間橋・新田間橋を渡って、浅間町方面に、あるいは軍用線路を辿って、保土ケ谷方面に避難した。平沼町の護謨製造株式会社の大煙突は打倒れて、船の通行を絶った。後刻避難したものは、鉄道線路伝いに保土ケ谷方面に逃れた。高等女学校附近より西方は火災を免がれた所もあったが、女子師範附属小学校から再び発火し、同校は全焼したが、倒潰した女子師範学校および高等女学校とその他民家約三百戸は罹災を免がれた。
8 平沼町 材木町 仲ノ町 尾張屋町
編集同町一帯は帷子川、石崎川との中間区域で高島町・戸部町および西戸部町に接している。戸数千二百八十、人口五千百五十あったが、この中焼失戸数千百三十戸に及び、残存した家屋は水天宮およびその周囲に八十戸、尾張屋町に三十戸と百四十八番地の一部とで、約百五十戸に過ぎなかった。ことにこの地区は埋地の閏係で、震災そのものも大きく、圧死者百三十名を出した。なおこの地区は、工場地帯で、横浜市瓦斯製造所タンク・友田製薬工場・古川電気工業株式会社・横浜護謨(ゴム)製造株式会社・農工銀行・横浜工業会社・帝国蓄音機商会出張所・金輪社・横浜紡績株式会社・横浜電気工業株式会社・大野ガラス工場・京浜王冠コルク工業会社・東洋船底塗料製造合資会社・日ノ出金属株式会社・明治食料株式会社・東洋缶詰合資会社等の大建築、ほかに久成寺・由村座等があったが、これらの中、日ノ出金属・明治食料・東洋缶詰を除くのほかは、全部倒潰かつ焼失の厄に遭ったのみならず、多数の圧死者をも出だした。町内の鎮守水天宮の例祭は九月五日のこととて、町の若者はその準備に忙殺され、数年来好最気であったので、当年こそは大々的の祭典を催そうと意気込んでいた。しかるにおりからの大地震に、町内はたちまち修羅の巷と化したのであった。道路至る所に地裂を生じ、中にも西平沼町六十二番地附近は最も甚だしく、この地裂より渇水が盛んに噴出して、たちまち膝を没する迄に至った。住民はあまりの事にいずれも呆然としてなすことを知らなかった。おりから、東方は平沼町一二丁目の境なる友田製薬工場附近より、西方は電線工場方面より、および塩田方面より火災を起し、たちまち拡まって、友田製薬工場方面の火は、平沼町通より仲町・材木町および裏高島町二丁目東京電燈会社横浜支店に移り、同事務所および古河電気工業会社電線工場・横浜ゴム製造会者および高島町三丁目より八丁目南幸町まで焼き払い、なお神奈川方面に延焼した。西方よりの火は古河電気工業会社ケーブル工場コールタール釜より発火して、附近一帯を舐め、休業中の製油工場、横浜工業会社に延焼し、なお平沼町の火と合して、高島町方面を舐め尽さん有様となった。戸外に逃れ出た住民は家財を取出すもあり、老幼を扶けて避難するもあり、血に染む負傷者を安全地に移さんとするもあった。その混乱中に、瓦斯タンクが爆発するから早く逃げよと言い歩く者もあった。瓦斯タンクからは黒煙がもうもうとして吹出して強風に煽られている。これは瓦斯製造所で爆発を恐れて、瓦斯を放出するためであったが、爆発の前兆だと早合点した附近の住民は悲嗚を挙げて逃げ惑い、あるいは鉄道線路に、あるいは東海道線路に雪崩を打って押寄せた。路上一面の濁水に地割れの箇所がわからないので、地割れ内に落込んで、濡れ鼠になって逃げるものもあった。
西平沼町素封家平沼邸の如きは家屋倒潰して、六名が下敷にされていたが、容易に抜け出すことができなかった。ところへ高野某が宙を駈けて、火がつこうとしている屋根の上に飛び上って、中を掻き開け、ようやくのこと令嬢と女中とを救ったが、後の四名は既に圧死していたので、どうすることもできなかった。平沼町三丁目の横浜護謨製造会社も、鉄筋コンクリートの工場倒潰の際には、二十四名の圧死者を出だした。かくて火はますます拡大して、全町を襲ったので、住民は先を争って軍用線路あるいは東海道線路に逃れたが、海嘯〔津波〕が来るなどと宣伝する者があったのと、折角持出した家財が四囲の火炎に焦げて燃上ったので、やむなく線路伝いに保土ケ谷方面の風上へと逃げ、あるいは浅間町方面の山に逃れ去った。この方面は帷子川・石崎川の中間で、他町に通ずる橋梁は、ことごとく破壊されたので、避難民を困らした。前記のほかにも平沼町高崎三次氏方では六名の焼死者を出した。
9 西戸部町
編集西戸部町各字地区に於ける倒潰家屋は、全戸数の約二分の一、他は全部半潰の程度とみなされている。まず塩田・古井戸方面に当たって、黒煙が立昇った。町民等は中学校か久保山方面かが安全の場所だと教えられて、字石崎・御所方面の住民は、税務署前から保土ケ谷へ行く道、俗称菊花園通や、これに平行している通路から願成寺方面へ、また電車線路附近の住民は手近な鉄道線路へ、扇田・塩田以西の者は平戸橋通、その他の路線を辿って久保山・願成寺方面へと逃げ行くのであった。古井戸方面から起った火は、たちまち猛烈となり、塩田を襲ったが、同所は小さな家ばかりなので、火は縦横に狂って、さらに扇田方面に延焼した。東は緑・橘・戸部二・三丁目、南は伊勢町・池ノ坂附近から発火して、西戸部町の地帯と御所山一帯が包囲されたので、住民は安全地帯と思われる藤棚方面もしくは第一中学校方面に避難した。けれどこの方面は御所山の断崖に遮られて登る道なく、菊花園通から県庁官舎方面に行くよりほかに安全通路なく、また御所山丘上の西南鞍止坂(くらやみざか)上から池ノ坂方面へ向うより他に、安全の通路はなかったのである。最初発火地点と隔たった住民は、あるいはこの辺りを安全地となし、近きものは塩田の傍なる杉山神社境内と、西戸部小学校の運動場へと向かった。一方池ノ坂方面から起った火炎は、西に延焼し鞍止坂に迫って来た。石崎・御所方面の住民中、逃げ遅れた者はたちまち猛火に遮られ、久保山へも、中学校方面へも行くことができなかったという絶望に陥りながらも、前後左右から火に攻められつつ、やむなく御所山に向つたが、俗称鵯(ヒヨドリ)越の険坂に遮られて、ここで無惨にも約百三十名が焼死したのであった。(前節参照)
一方東海道線路に避難した者は、北にある平沼方面の火災と、西平沼町の瓦斯タンクの爆発とを憂い、線路伝いに横浜駅方面あるいは藤棚方面、あるいは第一中学校方面へと、避難場所を換えた。杉山神社境内や西戸部小学校運動場に入った数千人の避難民は、さらに愴惶として第一中学校学校方面に避難したが、これまた鞍止坂県庁官舎方面が盛に燃え上って、西へ延び、中学校方面の道路を遮断する形勢となったので、さらに鞍止坂の下に集まり、塩田方面よりの避難民と坂下に合して、ようやく危地を脱がれたが、中学校方面の安全地に着いた時には、またまた猛火は鞍止坂より願成寺に迫って来た。一方横浜駅前は避難民群がっていたが、やがて横浜駅も燃えだしたので、避難民等は高島駅へ逃れた。
(イ)西戸部町字扇田
編集同町は災前戸数五百九十二、人口二千三百六十八名であった。家屋は大部倒潰した。まもなく久保町方面より火災起り、扇田方面に延焼した。町民は附近の杉山神社境内・戸部小学校運動場・中学校運動場・久保山方面等に避難し、線路に近い住民は鉄道線路へ避難したが、まもなくこの方面も火の海となってしまった。町内にての死者は二十七八名を算する。
(口)西戸部町字御所山下附近および山上
編集西戸部町字御所山下附近および山上は、災前戸数四百六十三、人口約三千であった。塩田方面と戸部四丁目との火は、相合してたちまちにして襲い来た。死者は約二十名を出したが、一家全滅の家族はなかった。ただ当時同町方面に於ける惨鼻の中心となった鵯越には、多くの死体を残したが、これら死者の多くは他町よりの避難民であった。この附近に於いて奇しくも生命を取止めた者は、坂下の海老塚氏庭内なる小池の約三十名であった。住民の避難地は、主に中学校方面その他高島駅構内であった。
(ハ)西戸部町字羽沢方面
編集同町辺は倒潰家屋少なく、多少石垣が崩壊したに止まった。死者はやや多かったが、概して町外に於いてであるらしい。火は伊勢町方面と戸部町一丁目方面とより羽沢に迫り、入口丁字路の前面にある数戸を焼いた。同所一帯は、市立十全病院の大建物に接しているので、防火を怠らなかった結果、火は段々延焼したけれども、谷戸一帯の焼失を免かれ、全戸数約九百戸の内約百五十戸の焼失に止まった。町民は主に茂木別邸と野澤山および水道山に避難した。
(ニ)西戸部町字山王山
編集池ノ坂の上部すなわち山王山は、久保山道に於いて丁字形をなし、南側には税関官舎あり、前面は約一間半ぐらいの崖地となっている。約二十棟、七十戸は地震のためにあたかも貝穀を伏せた如く倒潰した。まもなく清水湯の裏手より火災を起した。一方メソヂスト数会・二号官舎を焼いた。附近住民は協力して防火に努めたが効なきを見てこれを見捨てて、さらに前面の三号官舎その他に延焼して来たのを極力防いで、幸いに効を奏した。また四号官含その他の窪地にあった官舎は皆助かった。税関長官舎裏手に在る愛隣女学校は焼失したが、他に延焼せず、大事にならなかった。住民の多くは一号官舎前およびそこと隣り合った丘、一本松方面に避難した。圧死者は四名であった。
(ホ)西戸部町字一本松 境ノ谷 富士塚
編集一本松・境ノ谷および富士塚方面一帯は高地で、百数戸の倒潰に止まり、火災を伴わず、附近町民の避難地として、最後まで安全を保ち得た。一本松小学校も倒潰を免がれた。火災を免がれた原因は、附近に森林を担え、さらに南方に水道貯水池の高台もあったので、自然に火除けとなったからであった。住民の多くは境ノ谷の松山に避難した。松山には各方面から押寄せる避難者で一杯になった。災後、この地を大掃除した時、避難民の食用した缶詰の空き缶が無数あった。それを人夫二十七人が五日間で取片づけたということだ。
(ヘ)西戸部町字伊勢町および山王山
編集この方面は災前戸数約四百戸、人口は千六百人であった。家屋は多くは倒潰し、圧死者は約二十名を出だした。道路の亀裂は伊勢町四丁目八十八番地附近、九十一番地附近等五六箇所もあった。火災は戸部三丁目、池ノ坂方面の二箇所から発した。町民の避難方向は、初め背後の一本松高地をさしたが、そこは崩壊していて果されず、やむなく伊勢山その他へ避難したのである。
(ト)西戸部町字掃部山および伊勢町の一部
編集伊勢山北の掃部山は、樹を植えて横浜市の小公園とされ、港を眼下に見渡す事ができる景勝地であった。北東に向かって港を見ている井伊掃部頭の銅像が、大震災と同時に半ば東に方向を転じたことは、災後話の種となっている。掃部山の南方は伊勢町の一部で、神奈川県庁の官舎となっている。火災は戸部町方面から襲って来て隣接せる大谷嘉兵衛氏の邸は瞬く間に類焼し、さらに伊勢町の県知事官邸に延焼した。一方紅葉坂西部の火は、その辺りに並び立つ大邸宅を舐めつくし、さらに北方花咲町八丁目より南方六丁目に延びた。かくて四囲は一帯の火となった。当時附近の避難民は山上に群がったが、四方から襲って来る猛火に堪え切れず、あわてて逃れ去ったのである。
伊勢山 伊勢町官舎は戸部四丁目の火を受けて焼失した。この火は花咲町の火と合しますます熾烈となった。人々は神の加護があるから大丈夫だと、伊勢山太神宮の境内へ続々と押し寄せた。ところが、戸部町一丁目・宮崎町・野毛町・花咲町・伊勢町官舎等の猛火は、野毛の切通を残すほか、三面よりこの伊勢山を包囲したので幾千の人は悲鳴を挙げて逃げ廻わり、さらに避難地を変えなければならないこととなった。一方火の襲わぬ野毛切通しは崩壊して一路を塞ぎ、加えるに襲い来る野毛・戸部方面の火は切通に迫って、交通ますます不可能に陥った。前に在る崖上の建物は、その時未だ火災に遭なかったけれども、崖が崩壊して登る道を塞いでいて、人々はただ焼死を待つのみであった。かかる絶体絶命の場合、不思議にも伊勢山山上から切通までの間に数条の電線が垂下された。これこそ命の網と雪崩るる人々は順次に一筋の針金に命を托して、向側の崖に向かった。幸いにもまた数条の電線は垂下っていた。群集は這い上っては落ちいくども繰り返して、ようやく野毛山の山上に攀じ登ったが、老人や子供を連れた者達はどうすることもできなかった。後日の話に依ると、電線は約三千人の命の網であったとのことである。一方山上に残された人々は、午後四時頃に至って一層四辺の火勢が加はり本殿も焼け始めたので、焼かれるやと思い苦しめられなが、あちこちへ逃げ惑っていた。しかし原田氏の別邸が延焼しなかったお蔭で、大多数は救われた。
(チ)西戸部町字石崎西部
編集石崎町の西部は、災前戸数千七百五、人口七千三百三十一であった。震害は電車通に最も激しく、倒潰した家屋は多数に上った。火は塩田・横枕方面と、四百六十六番地・百八十八番地附近より発した。町民は一目散に久保山・第一中学校方面に向い、一方東海道線路に、ある者は川中に入って、火の終熄するのを待ったのである。かくて全町焼失して死者七十名を出した。
(リ)西戸部町字石崎東部
編集石崎の東部は災前戸数五百五十四、人口二千四百三十七を算した。このあたりは甚だしい震害はなかったが、大半焼失した。住民は多く横浜駅構内に避難したが、中には鵯越に行って惨死したものもあった。一家全滅は二百三十三番地佐野軍次郎方で四人、二百六十八番地貫井八百八氏方四名などで、合計約二十名あった。
(ヌ)西戸部町字古井戸
編集古井戸は災前の戸数八百三十、人口二千六百を算した。家屋は二十余戸倒潰し、続いて久保町と古井戸との境より発火して、横浜駅方面に延焼したが、風が変わると再び火元の方に逆戻りをして、藤棚停留場附近を襲い、久保町方面に火勢を加えて燃え始めた。この時戸部警察署長遠藤警視は署員を派遣し、附近の町民と協力して、必死となって防火に努めたので、久保町方面よりの火はくい止めた。この功に依って同方面、久保町遠くは南太田町等が、火災を免かれたことは、町民の何より幸いであった。町民の避難地は久保山の高台一帯であった。焼失戸数約百戸に止まり、死者数名を算したのみで、他町に比し、被害は軽少であった。
(ル)西戸部町字西ノ前 池ノ坂 西ノ原 横枕 塩田
編集宮ノ前・池ノ坂・西ノ原・横枕・塩田の各地域を合して、災前の戸数約二千六百、人口九千を算していた。火災のために、約三百戸を残して、全町は灰儘に帰した。西前小学校・西戸部小学校・西戸部病院・杉山神社等も焼失した。最初は横浜駅方面に向かって燃焼したが、避難民は第一中学校あるいは久俣山・電車道・戸部小学校・杉山神社境内へと逃れた。しかるに最初に安全と目された西戸部小学校庭および願成寺も危機に瀕したので、附近の住民は協力して、池ノ坂九百三十四番地石原氏宅を防火線と定め、必死の活動をなして、ようやくにして火を食い止めた。それがため第一中学校は延焼を免かれたので、後日避難民の収容所とされた。池ノ坂にいた避難者二三千名も、これらがために無事に助かったのである。住民の圧焼死者十数名を算したが、このほか外出中の者で約百名もあった。
(ヲ)西戸部町字宮ノ前
編集宮ノ前は杉山神社の手前の左側の町である。昔刑場のあった鞍止坂(くらやみざか)に接しているが、今は昔の姿を変えて、県庁官舎の一角をなしていた。一帯の家屋は倒潰して、死者十二三名を出だし、続いて扇田・御所山方面より襲い来た猛火は、官舎を初め一帯を焼き尽くしたのであった。
10 久保町
編集災前戸数一千三百、人口四千六百を算した。震災では倒壊・半壊相半し、四百四十番地に至る道路約百二三十間にわたる間に、幅三尺ぐらいの大亀裂を生じたが、幸にして焼失家屋は僅か数戸で、住民の圧死者は三十七名であった。町は最近の新開地で、諸工場を除いては、人家も少なく、住民の多くは、自宅の裏庭などで一夜を明かしたぐらいで、被害は比較的軽かった。他方面より避難者が続々と集合して、約三万人に達した。地内の主なる建物は、東洋麻糸紡積株式会社・東洋電機株式会社・横浜帆布株式会社・変電所・河合寺・林光寺・横浜市火葬場・同斎場・円福寺・安楽寺・杉山神社・諸星インキ製造所等で、円福寺・安楽寺・杉山神社を除くほかは、いずれも倒潰し、東洋麻糸紡績会社は倒潰して火災を起し、四十五名の圧死者を出した。横浜帆布株式会社の煉瓦造りの工場も倒潰の際二十七名の圧死者を出した。震後変電所附近より発火し、水道路に向い延焼して、この久保町も危険に陥ったが、住民は必死と防火に努めた結果、水道路方面一帯に焼失を免かれた。別に東洋麻糸紡績会社より起った火先は、前面なる水道局の材料置場に延焼して、西戸部町・塩田方面に向かって燃え拡がり、なお火の粉は帷子川を隔てた対岸の浅間町にも延焼した。本地区内で焼失した戸数は、僅に数戸であったのは、発火場所が民家と幾分隔たった関係であった。もっともその他に数箇所からも発火したが、町民および避難民協力して消し止め、大事に至らしめなかったのである。本町に属する久保山には市の共同墓地があって、幾千の墓碑が倒れた。林光寺は本堂庫裡ともひとたまりもなく倒潰し、火葬場も打倒れた。それがため、しばらく露天火葬を行うのもやむなきに至った。川合寺も同じく全潰の厄に遭った。同寺にはまたと得られぬ日蓮像があった。それは後醍醐天皇の皇子大覚大僧正の刻まれた一木三体の日蓮の像で、備前国赤声郡葛城の香雲寺と、同国御津郡伊島村の妙善寺と、この川合寺とにあるだけの有名な宝物であるが、これも破壊されたが、今日はようやく修繕された。震災前、川合寺から約三町東に新墓地が設けられてあったが、ここに霞災で死んだ無縁者五千七百七十八名の遺骨を合葬して、大記念碑を建設し、その傍らに新たに法華道場を建てて、読経の声が常に絶えないのを見ては、おもむろに当時を追憶して、その凄惨の状を思い出させる。町内は焼失した民家が少なかったので、他方面よりの避難者は、各戸共に充満した。災後流言浮説が喧伝されたので、この辺りの不安状態はまた格別であった。
11 老松町 月岡町
編集この方面で平沼邸はただ一戸孤立して延焼を免がれたのである。同邸は戸部一丁目から野毛切通を下って老松小学校角を西に、十全病院に登る南側の坂の途中にあって、野毛町四丁目の一部と老松町南側の全部は、大部分同邸で占めている。野毛町方面で火囲に追われた者達は、同邸が安全な避難場所と信じて、数百名逃げて来た。しかし野毛切通方面や、野毛本通方面の火は、老松町坂下で一団となって老松小学校を焼き、一方月岡町方面にも延焼した。このため同邸は盛に火の粉を浴びたけれども、庭園広くかつ道路面から高さ一丈余におよぶ丘上であるので、それほど危険を感じなかったが、前面の老松町が火になるにおよんで、高層な建物からの火の粉は雨の如くに飛散して、邸内の樹木や建物に延焼し、しばしば大事に至らんとした。さらに老松町の火災は、次第に西方に延び、道路に接する家屋とその後方に在る大建築物の近藤病院とを舐め尽くして、まさに十全病院に延焼2とした。羽沢入口の防火は効を奏せずして、旧野毛坂に延焼し、みるみるこの辺りの陋屋を舐め尽くして、旧野毛坂百四五十番地を烏有に帰した。時はすでに日没で、炎々たる猛火は高く天に冲し、おりから吹き募る風は炎を煽り立てた。かくて火炎は道路を陥てる十全病院に延焼せんとした。同院にては、これが延焼を防がんと極力努力したが、一方反対側の田中邸に類焼し、同邸に連なる民家はたちまち猛火の襲う所となった。これに於いて十全病院は後方と側面に猛火に迫られ、遂に類焼の厄に罹り、さしもの大建物は燃焼一時間余で焼失した。
12 宮崎町
編集宮崎町は高台であるから、火がこの方面に延焼し来たのは、午後になってからであった。同町には伊勢山太神宮の広い境内があって、かつ樹木繁茂しているので、火は大丈夫と避難民続々押しかけた。しかしやがて午後三時頃になって、野毛坂方面から襲う猛火は、驚くべき威力を以て、宮崎町に延焼したのである。幾千の避難民は狐狽して、神宮の境内へと逃げたが、遂に猛火は境内にまで延焼し、社務所・本殿まで焼き尽くした。しかし原田邸が防火に努めたため、焼けなかったので、避難民は命拾いをして、死者は僅かに社務所裏の八名と鳥居側の二名だけであった。