日本女性美史 第二十二話

第二十二話 編集

春日局 編集

春日局は美濃齋藤家の一族、內藏介(くらのすけ)利光(としかず)(明智光秀に仕へ、山崎合戰の時誅せらる)の女である。初の名は福。稻葉佐渡守正成朝臣に嫁して美濃に住んでゐた。時の將軍は二代秀忠である。慶長九年竹千代が生れた。のちの三代將軍家光である。
竹千代の乳母は京都の女を、との將軍家の希望だが、なかなか見當らない。京都所司代板倉伊賀守、思案に餘つて京の粟田口に札を立てた。それを福に知らせた者があつた。福そのころ、良人正成の不身持から仲が惡くなつてゐたので、良人に內緖で京に上て伊賀守に申入れた。身元がよいので伊賀守、早速福を江戶に送つた。直ちに竹千代の乳母ときまつた。幕府では良人正成にも出仕をすゝめたが、妻のお蔭と云はれてはいやでござりますると、ばかりに辭退し、三兒(男ばかり)をも江戶に送つて、福を離別した。
福が上がつて三年目の慶長十一年に國松が生れた。秀忠夫妻とも弟國松を愛して、竹千代をうとんじた。竹千代、痘瘡を病んだ時、御膳所の係が國松の食膳をつくるため竹千代の粥をつくらずにゐた。土井利勝、義憤のあまり國松の御膳を取つて竹千代にすすめた。氣骨無き大名ども、いづれも國松を拜して竹千代を見向きもしない。
福、大に憂ひ、旅立と稱してみづから駿府(靜岡)に出かけ、家康に事情を吿げた。芝居では家康が庭先で會つてゐるが、まつたく、福の身分で直々家康に會ひ將軍の世づぎについて語るなどは以ての外の振舞であつた。福は命がけであつた。家康は流石に事の重大なると知つて、一應福をたしなめて歸らせ、やがて鷹狩と稱して江戶城に入つた。江戶城では先振がなかつたので大さわぎである。秀忠は急ぎ出迎へた。家康は上座に着くと、久々にて竹千代に會ひたく、まかり出たと云つた。
ここからは芝居の「春日局」で親しまれてゐる場面であるが、作者福地櫻痴が學者だつたので舞臺はだいぶ史實に近い。家康上段にまつて先づ竹千代を招き、國松つづいて上らうとすると、「もつたいない〱」と手を振つて下らせる。それからお菓子が出ると、竹千代には紙にのせて與へ、國松には箸ではさんで二つ三つ投げてやる。それから秀忠に向ひ、「竹千代はそこ許の幼少の時に少しも違はぬ、さぞ名將軍となるであらう」と云ふ。秀忠も「さては」とさとつて頭を下げた。
これ以來秀忠は厚く福に信賴し、大奧の總取締とした。大奧は將軍の私的生活の世界である。いろいろな役目の美女がむせ返るほど居る。福は先づ風紀を正すため、中奧と大奧の堺に銅(あかがね)の戶を立て、「是より內に男入るべからず」と揭示した。福は大奧のことばかりでなく公のことにも口を出した。德川家安泰のためを思ふあまり出すぎたことも少なくなかつた。
寬永五年、福じゃ、本光國師の訴によつて、敕許により紫衣を着けたる僧數十人に對し、諸宗法度にたがふとの理由で悉く紫衣を返させた。聖上、後水尾天皇、幕府の處置を御憤りあり、にわかに、御位を、秀忠の女の生みまゐらせる女一宮(によいちのみや)に御ゆづりあるべき旨關東に仰せ下された。幕府は大に驚懼した。その時、福は伊勢參宮と淸水寺參詣の振れ出で京都に入り天顏を拜し叡慮の程をうかがはうとした。朝廷では、いかに大奧で權勢があつても、無位無官の女を參內をゆるすさへ畏れ多いことだと、初はゆるさなかつたが、評定の末、武家傳奏たる三條院大臣實條公の妹分として、緋袴をゆるされた。福、天顏を拜し奉り、退下して尙ほ宮中の御樣子をしらべ、兎も角朝廷の重臣に幕府の處置の諒解を求め、事を收めて江戶に歸つた。公卿の土御門泰重このことを悲憤のあまり日記に記した。尙ほ、この時、福は春日局の名を賜はつた。
春日局、これよりいよいよ大奧と政治向とに權勢をふるひ出した。なんしろ、幕府の重臣はほとんど皆、お小姓時代から彼女の世話になつてゐるのだから、誰一人として局に頭が上らない。
竹千代、長じて三代將軍家光となつた。家光は壯年のこと美童を愛し、女を近づけなかつた。局は內々いさめたが家光は聽き入れない。そこで、局は方々から美女を召寄せて部屋子としたが、いづれも品位乏しく家光にすゝめるほどの女がゐない。たまたま、伊勢內宮(社僧神祇にたづさわる役僧で、中には神宮よりも地位の高いのがあつた)慶光院比丘尼が登城した。六條宰相布純の息女で年十六歲、天成の美貌は見る者を恍惚たらしめた。春日局、六條宰相に承諾を求め、やがて比丘尼を還俗させて、名も於萬の方と改めさせ、家光にすすめた。家光、これより美童を遠ざけるようになつた。ところが春日局考へた。萬一、於萬の方に子が出來ると、堂上家に外戚を親を結ぶことになり、幕府の施政に支障を來すかも知れない、と。よつて於萬の方が懷姙せぬやうに、局の計らひで服藥させた。
春日局、ある日、上野參詣の歸途、ふと街頭の一少女の、於萬の方そつくりなのを發見した。召して、家光にすすめると、やがて男兒出生。これ卽ちのちの四代將軍家綱である。
局、視眼、(みるめ)、嗅鼻(かぐはな)(ともにスパイ。昔はすべてに役名が平易であつたが、これは少し卑俗の役名である)によつて大名のこと、市井のことをさぐり、大小輕重悉く家光に知らせた。ある時、松平伊豆守が伺候すると、家光が「そちは今朝何を御禮に貰ふたか」と尋ねた。伊豆守ハツと思つたが、「何某より時候見舞として何々を送られました」と答へると「それだけか」と追及した。伊豆守肝をつぶし、袂にあつた書付を見ながら委細を述べると、「それならばよし」と云つた。それ以來、伊豆、絕對に贈物を受けぬことにした。また、ある時、山本源左衞門と云ふ旗本が辻斬の罪で捕へられ、老中から處置を伺ふと、家光は「その者は前齒が二枚缺けたのを銀で入齒しておると聞いたがその通りか」と尋ねた。老中がそこまでは知らぬ旨を答へると、「その者のことは八年前からわかつてゐた」と云つた。
春日局の勢威と、視眼、嗅鼻の働らきには諸大名みなへきえきした。前田利常(加能越百二十萬石)は鼻毛をのばして阿房をよそほふた。伊達政宗(仙臺六十萬石)はわざと大角鍔の長脇差を帶びて登城し、將軍の酒宴に大盃を受けて、醉ふて眠つた。家光が長脇差を拔いて見たら木刀であつた。兩大名ともに、春日局の視目〔ママ〕嗅鼻による內偵をおそれて、その裏を行き、わづかに身を完ふしてゐたのである。
これほどの局の權勢を、大名一人としてよく制し得なかつたが、ここに痛快な士があらはれた。春日局、ある日、濱なる稻葉丹後守の下邸を訪づれ、夜更けて歸つたら大手門はすでに鎖されてゐた。「春日なるぞ」と家來に云はせたが、門番の武士は「春日だらうと鐘馗だらうと夜中勝手に通ることまかりならん、一應伺つて見るからしばらく待たれよ」と荒々しく云ひ放つた。局は一時間も待たされた。やがて伴の武士が顏をのぞけて、「この所からは通されぬ、平川口(今の外語の前)へお廻りなされ」と云つた。翌日、春日局門番の士が三河武士の近藤登之助と知り、家光にそのことを吿げると、家光笑つて、「それでこそ余は枕を高くして眠られる」と云つた。局も感心して登之助に上等のお菓子を贈つた。
寬永十四年(家光將軍となつて十四年目)天草、島原に切支丹の一揆が起つた。幕府では討手の大將をだれにしようかと城中で評定を開いた。そこへ大久保彥左衞門が來合せて、評定のきまらぬことを聞き、「だれかれのせんさく無用、討手も御目代(ごもくだい)も、春日局と南光坊(天海大僧正)に限る」と云つた。みんな、女や坊頭ではと笑ひ出すと、彥左衞門いよいよ眞面目になり、「上樣日ごろ御目かけられ、大切に思召さるゝは、かやう時の御用に立てんためでござる」と云つた。
春日局もやうやう老いて後生を思ふやうになつた。そこで自分の菩提寺を建立したき旨家光に願ひ出てやがてゆるされ、湯島臺に五千坪の地を貰つて禪宗臨濟派の天澤寺(湯島麟祥院)を建てた。これより江戶に臨濟派がさかんになり、家光も心を寄せるにいたつた。家光、ある時兵法指南役柳生但馬守宗矩(むねのり)に、當代臨濟派の碩德(せきとく)は誰かと尋ねると、澤庵和尙の名を擧げた。天海僧正も澤庵和尙を推擧した。當時、澤庵和尙は寬永六年の紫衣敕許のことにつき、諸宗法度に背犯した咎で、出羽の上山に配流されてゐたが、この推挽(すゐばん)によつてゆるされて江戶にのぼつた。澤庵は江戶に臨濟派の盛になつたのは春日局の權勢によることを知つて
お召なら歸り澤庵思えども武藏うるさし江戶(穢土、卽ち娑婆のことに洒落たのである)はきたなし
との狂歌を詠んで田舍にこもらうとしたがゆるされず、將軍家禪法御師範となり、のち大名建立の品川東海寺、牛込長安寺の開基となつた。
老年となつた春日局は城中、田安門內に壯大な邸宅を造つてもらつた。吳服部屋、女中部屋數多く、蒸風呂までついてゐた。寬永二十年病んで死するや、江戶中鳴物停止となり御三家始め諸大名登城して弔意を表した。
 

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