日本女性美史 第二十三話
二十三話
編集江戶時代の女性(一)
編集- 德川幕府のつづいた三百年ばかりを江戶時代と稱してゐるが、女性史の上から云へば、江戶上方時代と云ひたいくらゐに、上方の女性の色どりが目立つてゐる。
- 何さま、三百年は長いことだが、この間の世相の變遷によつて、女性も變つてゐたわけである。先づあらましを見て行かう。
- 家康、江戶に幕府を開いたころは、世はまだ殺伐の風絕えなかつた。彼は儒學を以て治世の基とした。仕える學者も儒學を外來の思想としては敎へなかつた。林羅山は、「本朝の神道はこれ王道、王道は是れ儒敎」と說き、熊澤蕃山は、「神道と聖人の道とは名こそかはりたれども同じく人道にして、三綱後常の道にもれず」と敎へた。もちろん神道をこのままに受け入れるのはまちがつてゐるが、兎も角儒學をもつて人心をととのへ和らげて行くことには、あやまりは無かつた。そして、江戶時代の女訓と云ふものはすべて儒學の敎に基いて作られてゐた。五代將軍綱吉のことの學者、貝原益軒の著はした「女大學」は、江戶時代の女訓の標本になつてゐるが、その一二節を御覽に入れる。
- 「女子はをさなき時より、男女の別を正しくして、かりそめにも戲れたることを見、聞かしむべからず。古しへの禮に、男女は席(しきもの)を同じくせず、衣裳をも同じ所に置かず、同じ所にて浴せず、物をうけとり、渡すことも、手より手へ直(ぢき)にせず、夜行く時は必ず燭をともしてゆくべし、他人は云ふに及ばず、夫婦兄弟にても、別を正しくすべしとなり・・・・。
- 婦人は夫(おつと)の家を我家とする故に、唐土(もろこし)にては嫁を歸るといふ。我家に歸ると云ふことなり。たとへ夫の家貧賤なりとも、夫を怨むべからず。天より我に與へ給へる家の貧しきは、我が仕合のあしきゆへなりと思ひ、一度嫁してはその家を出でざるを女の道とすることは、古の聖人の敎なり。もし女の道に背き去らるゝ時は一生の恥なり。されば婦人に七去とて惡き事七あり。一には、しうと、しうとめに順(したが)はざる女は去るべし。二には、子なき女は去るべし、是、妻をめとるは、子孫相續の爲なればなり、然れども婦人の心正しく、行儀よくして、妬く心なくば去らずとも、同姓の子を養ふべし、或は妾に子あれば妻に子なくとも去るに及ばず。三には、淫亂ならば去る。四には、悋氣(りんき)深ければ去る。五には、癩病などの惡き病あれば去る。六には、多言(くちまめ)にて、愼(つゝしみ)なく物いひ過(す)ごすは親類とも仲惡くなり、家亂るゝものなれば去るべし。七には、物を盜む心あるは去る。この七法は皆聖人の敎なり。女は一度嫁して、その家を出されては、たとひふたゞび富貴なる夫に嫁すとも、女の道にたがひて大なる辱なり」
- 儒學の七去は、かうまで男を喜ばせるやうには說いてないのだが、女は出典まではしらべないにきまつてゐるから、親切に解說したのである。このほか、女の心得一切を口調よく書き集めた「女實語敎」がひろく世に行はれた。その中には、「容(かたち)、美はしきが故にたつとからず、才あるをもつてよしとす」などの敎もあるが、多分に佛敎の敎をとり入れ、「四恩を報ずる心なくんば誰か八苦の身を保たん、女は地獄の使なり、佛の種子(たね)を絕(た)つ、面(おもて)は菩薩に似て、心は夜叉の如しと說きたまへり」などと敎へてゐる。この本は寺子屋の敎科書にも使はれたが、女の子ども、この一節を讀まされてさぞ、釋迦をうらんだことであらう。
- 然し、江戶時代の婦德はその根底において儒敎の倫理によつたことは云ふまでもない。前にあげた女大學はもとよりであるが、このほか、尾本某の作つた「女訓孝經」にしても熊澤蕃山の「女子訓」にしても、徹頭徹尾儒敎でこりかたまつており、「女子訓」のごときは全編「詩經」の周南、召南の二篇を解釋して女子を訓戒したものである。
- 天下治まり、人心やうやく定まると、商人江戶にあつまり、金銀の衣服服飾品を尙び、遊女市井にはびこり、風呂屋で媚を賣る女まで出現した。ところが、明曆の大火で、江戶にある限りの美衣、美品は燒けて了つた。
- 明曆の大火とは、三代將軍家光の死後七年目、明曆三年正月十八日、本鄕丸山本妙寺から發火した大火事を云ふ。「明曆大火由來」によると、淺草諏訪町の大增十右衞門娘きく、振袖を着て觀音樣におまゐりした時、雷門前で振袖姿の美少年を見染めた。戀わづらひで遂に死んだので、親は娘の振袖を棺の上にかけてやつた。そののちに、この振袖は轉々して古着屋、質屋の手を經ては年ごろの娘に着せられたが、着るほどの娘が皆死んで行くので、大增屋、事情を知つて最後に手に入れた人に乞ひ受け、きくの三回忌の施餓鬼にその振袖を燒いた。時に一陣の西北風吹き來つて、燃える振袖を本堂の棟に吹き上げた。十二の寺々は見る見る炎に包まれ、燃えひろがつて火炎は江戶をなめつくした。これ卽ち明曆の大火である。
- この大火で江戶の大名町人の榮華は終つた。江戶の女の着物はもつぱら京都にあつらへられた。かくして再び豪奢な衣服はひろまつた。齋藤隆三氏の「近世世相史概觀」によれば、「慶長から寬永に至るまでを建築美の時代であつたとすれば、寬文延寶から元祿は正に衣裳美の時代であつたとせなければならない。それも婦人の衣裳に於て最も特殊の光輝を見せたものであつた」
- 江戶の衣裳を一手に引き受けた京都は、すぐ一時代前に、豪快な桃山文化を形成した。今や江戶からの注文によつて、多くの手數もかけず、費用もかけず、尙且つ美くしく立派に見える意匠をこらさねばならなかつた。寬文模樣は果然、江戶の婦女子に歡迎された。江戶にけんらんたる美服時代が現出された。遊女の美裝はこの傾向を一だんと助長した。
- 以上は元祿ごろまでの風俗と、凡そそのころの女の倫理のあらましである。この思想と世相との上にどのやうな女性が現はれてゐたか。それを幕府城中、武士、町人の間に見る。
- 五代將軍綱吉は十五代の中では先づ名君と云はれる方であつたが、側用人(そばようにん)の柳澤吉保を寵用したため大奧、大にみだれ、また、奢侈にふけり、金、銀貨を粗惡なものにしたので物價騰貴して士民大に困難した。
- 綱吉の大奧の主人公は、綱吉の母、桂昌院殿である。綱吉の周圍に三人の女性があつて公私の生活に干涉した。桂昌院はよく綱吉を敎へ育てたが、また政道に容喙して、よいことばかりもなかつた。次に、中﨟於傳の方がある。父は城內の掃除夫で、小屋權兵衞と云つた。於傳はお風呂の係女中をつとめてゐる間に綱吉に見出され、學問、謠曲などの相手ともなり、なかなか總明であつた。當時有名な畫工英(はなぶさ)一蝶は當世百美人の一人に於傳の方を描いたので流罪となつた。今一人は中納言水無瀨宗信(みなせむねのぶ)の女、常盤井である。於傳の方が卑賤の出をもつて權勢すさまじきため、その抑へとして、幕府の重臣が京都から公卿の娘を入れたのである。常盤井の局は、初め綱吉の御臺所付(みだいどころつき)として仕へ、和歌、香合、双六、圍碁、何でもよくできて御臺所の趣味の伴侶であり得たばかりでなく、學問を好み、自分で源氏物語の講義をして女中たちに聽かせた。綱吉は於傳の方好みで謠曲そのほか藝ごとに凝り出したので、大奧の中﨟は、上品な御臺所派、下品な將軍派と二つにわかれた。綱吉、流石に上品な方に心を惑かれ、常盤井の局を愛するやうになつた。
- そのころ、江戶城中に狐や狸が繁殖して、大料理の間から大奧の床下にまではびこり出した。これに困り果てたあげくの分別で城中に犬を飼ふことにしたら、忍〔ママ〕ち狐狸の姿が消えた。それより綱吉、犬をいたはり、市中の犬を愛護する令(ふれ)を出したので市民は大いに迷惑した。
- 桂昌院はもと、京都の八百屋の娘である。緣あつて三代將軍家光の妾となり、家光の御臺所が京都の出なので、その江戶に下る時伴はれ、やがて綱吉を生んだのである。綱吉は妾腹の出とて、少年時代は上州舘林の城主となつてゐたが、桂昌院の信仰と好學の天資とによつて老中の間に支持者を得て、遂に將軍となつた。桂昌院は綱吉にすすめて、多くの社寺を造營させたが、中にも江戶小石川の護國寺は有名である。桂昌院は七十九歲でながらへた。
- 綱吉の治世の間に元祿の年號がありいはゆる元祿時代と云ふ華やかな時代を現出した。元祿時代が市民の衣裳に奢る時代であつたことは前にも記した。女のみかは、武士、町人なども驕奢にふけるやうになり、士風やうやく惰弱に流れた。このやうな時に赤穗義士の快擧あり、その蔭にすぐれた女性があつてこの快擧を成就せしめた。
- 淺野內匠頭の夫人は備後三次(みよし)城主淺野因幡守長治の女、元祿十四年の刄傷の時は二十八歲の花ざかりである。內匠頭の弟大學があわてゝ城中の異變を夫人に吿げると、「相手は誰でございますか、その相手は死にましたか」と、尋ね、大學が答へ得ないので、「そのやうなことでどうなされます」ときめつけ、爾後、大學とは交を絕つた。夫人は黑髮をおろして瑤泉院となつた。瑤泉院は江戶にあつては里方の淺野土佐守長澄方に引きとられ、貞淑にして質素なる生活に入つた。彼女は、はじめ大石らの蹶起に期待してゐたが、大石の亂行を聞くに及んで心を暗うした。然し、そのうち、義士の往來を知り、團結を知るにおよんで、蔭ながら團結と決心とを刺戟してゐた。ある時は自分の身邊に吉良方の廻し者が侍女として樣子をうかがつてるゐ〔ママ〕のを看破して取りおさへた。
- 義士の妻では小野寺十內の妻丹子がえらかつた。丹子がいかに同志に重んぜられてゐたかは、大石義雄が京都の彼女に與へた書簡でわかる。
- 「いよいよ御そく才(さい)のよし、おり〱十內殿御便りに承はり、珍重に存候。ここもと、十內殿一だんと御無事、拙者相宿にて(討入前に日本橋石(こく)町三丁目小山屋方に、變名で他の義士たち十人と合宿してゐた)晝夜御心易く申し談じ、大慶に存候。(中略)前々申す通り、十內殿御一家方、大勢御揃ひ、此度忠志の御事、誠に御しんせつの御志、後代までの御外聞と、さて〱御うら山しく存候。(十內、十內の妹の子大高源吾、一男幸右衞門、一族の岡野金右衞門、いづれも義士の中である)我等一家ども大腰拔どもにてのこり留まり候は我等父子、同名とては瀨左衞門ばかりにて候、面目なき事に候」
- 義士の妻で大石義雄からこれほどの手紙を貰つた者は他にない。尤も、かくまでほめられた小野寺十內一族のうち、丹子の兄灰方藤兵衞は中途から變心し、脱退したので、十內も、丹子も、ともに交を絕つた。十內が討入の目的を達して、細川邸に預けられるや、丹子から返書にそへて一首の歌を送つた。
- 筆のあと看るになみだの時雨來ていひかへすべき言の葉もなし
- 十內から丹子への手紙の一節。
- 「われら御仕置に逢ふて死するなれば、かねて申含め候ごとくに、そもじに安隱にてもあるまじきか、左候はゞかねて覺悟の事、驚き給ふ事もあるまじく、取り亂し給ふまじきと心易く覺え候」
- 十內、いよいよ元祿十六年二月自刄して果てたとのしらせを受けて、丹子はその年六月夫に殉じて死んだ。辭世の歌
- つま(夫)や子の待つらんものを急がまし何かこの世に思ひおくべき
- 江戶時代に出た女流俳人に加賀千代がある。安永四年に七十四歲で死んだ。十一二のころから俳人の家に奉公し、小娘の時に
- ほととぎすほととぎすとて明にけり
- と云ふ句を吟じたのだから、六代將軍家宣から十代將軍家治のことまで、凡そ江戶時代の中ごろ半世紀以上を俳句でくらしたことになる。
- 奉公生活に入つたのは松任の表具師の娘として貧乏のうちに育つたからである。十八の年に金澤藩の足輕福田某に嫁して男の子を產んだが、六、七年にして良人、子と相ついで亡くなつた。子の思ひ出の句二つ。
- 破る子のなくて障子の寒さかな
- とんぼ釣今日はどこまで行つたやら
- 實家に歸つて、やがて尼となつた。
- 髮を結ふ手のひまあけて炬燵かな
- 尼姿の千代女はたいてい旅に出てゐた。長い時は二年近くも旅路に暮した。信仰の句。
- 淸水(しみづ)には裏も表もなかりけり
- 三界唯心
- 百なりや蔓一すじの心より
- 親らん聖人五百年忌
- おしなべて聲なき蝶も法(ほり)の場所
- 地も雲も染まらぬはなきすみれ哉
- 安心
- とも角も風にまかせてかれ尾花
- 辭世
- 月と見てわれはこの世をかしくかな
- 淸水(しみづ)には裏も表もなかりけり
- このやうに生涯を眞宗讃仰の女性の一人として終つた。「朝顏につるべとられてもらひ水」の句も、やはりこの信仰の句の一つである。
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