日本女性美史 第三話

第三話

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神功皇后

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古代の日本女性の、純眞で優しいうちにも凛然たる氣性をひそめてゐたことはすでにのべた。しかし、古代日本女性の特性はここに盡きるのではない。更に、國のため、民族のために、外征の軍をすべて遠く出てで立ちませる神功皇后の御事蹟を語り、日本女性の雄々しさをしのびたい。
仲哀天皇の御后、神功皇后は、おわかい時から御總明で御姿いとも美はしくおはした。仲哀天皇は九州の熊襲が、日本武尊の御討伐ののちにも皇威に服しないので、群臣に熊襲征伐のことを謀りたまふた。
皇后はかねてから朝鮮半島の狀勢に御くわしく、新羅が熊襲をそそのかしてゐることを見拔いてゐられたのであるが、ある日、皇后に神のお吿げがあつた。それは、熊襲よりも金銀財寶あまたある新羅を討ちさへすれば、熊襲も自づから從ふであらう、との神託であつた。よつて、皇后はそのままを天皇に奏上された。天皇はこれをお取り上げにならないで、熊襲を征伐あそばれたが、勝ちたまふことのないうちに、陣中に御崩御遊ばれた。皇后は天皇の崩御を祕したまひ、御宿望の新羅征伐の計畫を進めたまふた。
これは大計畫であつた。皇后の御身で、この大計畫を遂行あそばされるには思慮深き準備を必要とした。
先づ何よりも神意をただし、ひたすら神託によつて人心を外征にむかはしめられることが大切であつた。皇后は小山田邑に齋宮(いつきみや)を造らしめたまひ、親ら神主となられ、老臣武內宿禰に命じて琴をひかしめたまひ、神意をうかがひたまふた。神事によつて、神々をお招きになり、伺ひを立てられるとやはり、熊襲を討つためには新羅を討てとの神託であつた。のみならず、皇位は、今、皇后のお腹にゐらせられる皇男子お方がつがせられるべきであるとの御吿であつたので、皇后はいよいよ御決心あそばれた。
然しその上にも群臣に、新羅征伐は神意によるとの確信を持たせようとの御心から、二回までも占ひによつて神意をたしかめられた。
一どは、松浦の里なる小川のほとりで釣をあそばした。鈎に飯粒をつけて川に投げ、
「われ西の方
財の國を求めんと欲す。
若し事を成すこと、ならば
河の肴、鈎を食へ」
かく、のたまはせられて、竿をお上げになると、香魚が釣り上げられてゐた。
そののち長く、この川で女が香魚を釣る行事がつづけられた。男が釣らうとしても、決して香魚が餌を食はなかつたさうである。
一どは、橿日浦にて、海の水で御髮を洗ひたまふた。その時、海に向つてかく仰せられた。
「われ、神祇のみことをうけ
皇祖の神靈により
靑海原をわたりて
みづから西を征たんとおもふ
これを以て今頭を海水にすすぐ
若し驗(しるし)あらば
髮自ふから分れてふたつになれ」
そして御髮を海水に入れたまふと、御髮はあざやかに二つに別れた。
かくて皇后は、群臣に改めて外征をはかりたまふと、群臣みな、つつしみて詔を承け、したがひ奉る旨っを奏した。そこで、皇后は男裝して、皇軍を統べ、船舶をあつめ、兵を練りたまふた。いよいよ御出征に際しては、全軍に令して軍紀をおごそかにしたまふた。
皇軍は和珥津(わにつ)から船出した。順風、船をやり、忽ちにして新羅に着いた。
新羅王は皇軍の威風に屈して降り、貢を納めることを誓つた。
高麗、百濟の兩國も皇軍をおそれ相ついで來り服した。
九州の熊襲はその元をほろぼされたので、苦もなく降參してしまつた。
朝鮮からは貢を奉るほかに、いろいろの文物を傳へるやうになつたので、日本の文化はこれにより大に向上した。
 

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