日本女性美史 第三十話

三十話

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明治時代の女性(二)

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明治時代の初期において、男女同權論や女權擴張の啓蒙的な言說が雜誌や書物にあらはれた。それは福澤諭吉の婦人論や、クリスチヤンの一夫一婦强調論、さては自由民權の政治運動などによつて一だんと力を與へられてゐた。然し、つまりは一部の先覺者の理想を描く言說であつただけで、日本婦人全體の思想行動に影響するにいたらなかつた。ことに、明治三十三年の治安警察法によつて、女子は政談演說會を聽くことも、することも禁じられ、且つ一切の政治結社をつくりまたは加盟することを禁止されるにいたつて女子の政治運動は根こそぎ絕やされて了つたのである。この時において奧村五百子の愛國婦人會の創立は婦人の社會的活動に機緣を與へたのであつた。
婦人運動はこのやうに振はなくなつたけれど、女子敎育は明治時代において長足の進步をした。ことに、明治時代において女流敎育家が自己の敎育信條によつて私立の女學校を建設し、公立の女學校におけるよりも何となく潑剌たる校風を發揮してゐた。然し、どんなに潑剌としてゐても、女子訓育の根本方針が、良妻賢母をつくるにあつたことは全國その軌を一にしてゐた。但し、少數ながらミツシヨン・スクールにあつては信仰生活をすゝめており、そこを出た女子の何パアセントかは生涯を信仰で貫いてゐる。
この良妻賢母主義の敎育はまた、家庭における從順なる良妻を往々にして不幸に泣かしめた――家庭主義、家長中心主義、姑の嫁に對する固陋なる考へ方などが、いはゆる家庭悲劇をかもし出したのであつて、それを題材とせる小說は多くの女子を惹きつけてゐた。德富蘆花の「不如歸」や、尾崎紅葉の「金色夜叉」は、かかる時代の女性を描いたものである。
「不如歸」の浪子は姑に忍從しつつ良人の愛に陶醉せんとした病弱の美女であつた。モデルによる興味もあつたけれど、この小說の魅力は要するに姑と嫁、若夫人の愛情の描寫にあつた。明治女性の心に迫る女の身の上であつた。
「金色夜叉」の宮は、親のすすめによる、義理人情の結婚のために、眞の戀愛を棄てさせられた。これには今一つ、金の力と云ふ題材がはいつてゐるが、この點はのちの批評家も指摘してゐるやうに、金の持つ社會的意義とその力に充分觸れてゐないために、宮の眞の愛人である間貫一が高利貸の手代としての言動や、宮の形式上の良人である富山の金持ぶりに小說構成上の效果はあつても、金の力そのものを曝露するにはいたらなかつた。然しとも角、この小說は宮をして修身で敎へる通りの良妻賢母たらしめ得なかつたその原因をうなづかせるに足りた。
このほかに、「乳姉妹」「コブシ」「魔風戀風」などの多くの名作がこの時代の女性の姿をまざまざと見せてくれた。明治後半期の女性はかくも豐かに戀愛の夢を與へられ、特異の境遇に置かれる女性の運命を芝居でも見るやうに享樂することができた。事實、よい小說が舞臺にのぼせられて女性の淚をしぼりとつたことは、今もそのころも同じであつた。


凡そこのやうな狀態に置かれたる女性をみづから自覺させ、思想的にも社會的にも新らしい女として生かして行かふと云ふ、婦人解放の運動が起つた。明治四十四年に平塚明子らが靑踏社を組織して「新らしい女」が何であるかを身をもつて示した。その機關雜誌「靑踏」の創刊號に平塚明子の書いた、「原始女性は太陽であつた」と云ふ論文は敎養ある若い夫人を狂喜させた。
新らしい女とは何であらう。
それは北歐文學によつて提起された婦人の自己解放の思想が日本の若い婦人の心の扉を開かせたのである。


近代劇の先驅者と云はれるイプセンの作つた「人形の家」は、お人形のやうに良人に愛されてゐた主婦が、一個の人間として目ざめて家出することを題材としたものである。
靑年辯護士ヘルマーの婦人ノラは、ヘルマーの轉地療養費を自分の獨斷で借金してとゝのへた。債權者クログスタツトはノラの親友リンデン夫人に戀慕して振り棄てられた。今はさる銀行の支店でからくも生活を營んでゐる。その支店に、健康になつたヘルマーが支配人として就任した。ヘルマーはクログスタツトがノラに金を貸したとも知らず、危ふくクログスタツトを解雇しようとしてゐる。そこでクログスタツトは一身の大事とばかり、ノラ夫人に手紙を出した。ノラの借用證文は良人に內緖で良人の名を使つて勝手につくつた證文だから、文書僞造の罪になる、但し自分はそれを訴へないから、さるかはりヘルマーに賴んで解雇しないでくれ――と、云ふ意味を含めた强迫狀である。その手紙をノラより先にヘルマーが見てびつくりした。愛妻ノラのしたことはまさに私文書僞造である。これが世間にわかると身の破滅だ。夫婦の間に爭が起つた。そこへ、クログスタツトから第二の手紙が來る。その內容は、ノラ夫人の親友でかねて時分の思慕してゐたリンデン夫人がもと通りクログスタツトと仲よしになりたいから、さるかはりノラ夫人を强迫することは一刻も早くやめてほしい、と云ふのだ、だからもう文書僞造は問題にしない――と、前言取消の手紙である。これを讀んでヘルマー大に悅んだ。
「私は救われた」
ノラ夫人が、
「私は?」
と冷たく聞くと、
「無論お前もだ」
と愛撫の言葉を云ふ。すると、ノラ夫人が別室に退く。あんまり出て來ないのでヘルマーが言葉をかけると、ノラ夫人が答へた。
「人形の着物を脱ぐのです」
さうして、ヘルマーも三人の子供もあとにして家を出ると云ふ。
「私は何よりも先に一個の人間です」
と宣言する。
ノラが何をして生活するつもりかは問題でない。たゞ人形のやうに愛されてゐた主婦が、法律上はどうあらうとも、良人のためにしたことを、罪として非難される、その强迫が無くなると、再び妻として愛される――これでは妻は良人の玩弄品だ、何等人格を認められてゐない――これがノラ夫人の反省であつた。
イプセンの國ノールウエーの民衆と同じやうに、日本の敎養ある女性はこの劇の提供した女の人間としての自覺と云ふことに强い共鳴を感じたのである。共鳴はしたらしいが日本女性は思想的にも行動の上にもここまで行くだけの元氣を持たなかつた。このやうな世界があると云ふことを觀念的には受け入れたが、やはり嫁しては良人に從ふ良妻であり、そして「どうせわたしは女だから」と云ふあきらめの裡に安住した。
ただ、これを思想として鵜吞にし、更に言動の上に「新らしい女」らしいところを表現したがる女は出て來た。それが「靑踏」の連中であり、酒盃を手にし、遊郭に乘り込んで世人の眉をひそめさせた。その中心となつてゐた者は平塚明子であつた。


平塚明子は明治十九年東京に生れた。父定次郞は官吏であつた。女子高師附屬高女に在學中は三人の仲よしと「海賊組」をつくり、お洒落の生徒の中にあつて、わざと粗野な風をしてわれとわが反抗的氣分に醉つてゐた。女子大學に學んで哲學や宗敎の香を知つた。さうして世に出ると最も敏感に時代の思想に共感した。そののちの彼女については彼女自身をして語らしめる。
「日本の家族制度の分解期ともいふべき時代に、たまたま成長期をすごした私は、その時代に全盛を極めてゐた個人主義思想の洗禮を受け、當然の結果として自己以外に一切の權威を認めず、古い祖先などといふものを考へたこともなければ、また家族の歷史を知らうと思つたこともありませんでした。私にとつては自己といふものの存在がすべてであつて、祖先崇拜とか、家族制度とか、さういつた昔から傳はつてきたものは重苦しい壓迫或は束縛としか考へられず、むしろそれらの傳統的な血緣的なものとのはげしい戰ひのなかに、神聖な個人の確立と自由な自我の解放を求めてゐたのでもありました。まるで自分ひとりでこの世の中へ生れてきたやうな氣持で生き通してきた私も、年をとつたせゐとでもいひますか、七、八年この方なんといふことなく祖先といふものを想ふ心が自然湧いてくるやうになりました。祖先は私の過去であり、私は祖先の延長である――さういつた血のつながりが、なつかしいもの、あたゝかいものに感じられるやうになつてきたのでした」
これは彼女が昭和十五年に婦人公論に發表した「靑踏を出でて」の冒頭の一篇であつて彼女の僞はらざる吿白であつた。五十そこそこで「年より」と云ふのはなべての婦人のトリツクで、「まだあなたはお若くゐらつしやいます」と云ふ慰めの言葉を釣り上げるための餌であるが、明子は思想的に早熟(でもあるまいが)の氣味があつたから、かう自覺してみると自分の過去にそくばくの悔恨無きを得なかつた。尤も「靑踏社」それ自體は決して仲間の一時の行動に見るやうな輕佻浮薄なものではなかつた。「本社は女流文學の發展を圖り、各自天賦の特性を發揮せしめて、他日女流の天才を生まむことを目的とす」と云ふ規約第一條は「靑踏社」同人中の一部の女子をして文學への精進に入らしめてゐる。「靑踏社」はやがて無くなつた。


婦人解放運動はこのやうに、その出發點に於いて思想的であり、その發展過程において自己批判を缺いでゐたので長つづきがしなかつた。然し、このやうな、婦人自身についての考へ方は、多くの家庭婦人をして惱みを抱く女性らしめた。たちまち、ジヤーナリズムの煽情的な編輯方針の下に、この惱みは讀み物とされ、反對に男子をして惱む女性についても考へさせる結果となつたが、惱む本人たちはその解決を宗敎家、ジヤーナリスト、先覺者たちに求めざるを得なかつた。
この惱み、いづこよりか來る。のちに出づる左翼の連中は一切の罪と缺陷の原因を社會組織の中に見出さうとしたが、眞の原因はもつと手近にあつた。良人たる男性の女性に對する輕蔑と壓迫がそれである。
 

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