日本女性美史 第二十九話

二十九話 編集

與謝野晶子 編集

さても、北淸事變のにち、更に三年して日露戰爭となり、日本の大陸進出となり、やがて大東亞の盟主たらんずらん基礎をきづいてゐたのである。この時、この國の文學は、詩に、歌に、小說に、れうらんの春を現出したが、わけても歌壇における與謝野晶子は、自由、奔放、絢爛の詠みぶりに一世の騷人をして目を見はらしめた。
與謝野晶子は堺の人。明治十一年に生れた。堺市立女學校を卒業したのち、三十三年以來新詩社同人となり、歌壇に新運動を起した。これより先、明治二十年に萩野由之の「和歌改良論」あらはれ、現在の詞で現在の事物を讀むことを要求した。古來の歌のうそをしりぞけてあるがままの事柄、風景を歌へと敎へた。然し和歌はすでに千年の昔に萬葉の心と調とをはなれて祕傳にまでなつており、題詠の言葉のたくみさがよろこばれること、昔も今も變らぬさまであつた。このやうな時代にあつて、歌を根本的に改めるためには、倫理、思想、鑑賞、表現のあらゆる方面において奮來のものから脱却した情熱の歌人の出現する必要があつた。尤も、だれもその必要を論じてもゐなかつた時に、明治三十四年八月に晶子の歌集「みだれ髮」は世に出たのである。時に晶子二十四歲。いまだ鐵幹との結婚生活に入らぬ前だつたので、鳳晶子の名で公刊された。
その子二十(はたち)櫛にながるる黑髮のおごりの春のうつくしきかな
淸水へ祇園をよぎる櫻月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき
やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を說く君
なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな
道を云はず後を思はず名を問はずここに戀ひ戀ふ君と我と見る
「やは肌の」や「道を云はず」にこの歌よみ下品なりとあざける人も「なにとなく」の淸楚優雅の心境に醉ひ、「淸水へ」の可憐にもまた艷麗なる歌の境地に心ひかれた。しかもその底にひそむものは人間讃仰の詩心であつた。しかも當代歌壇の一方の重鎭である「心の華」の一批評家は敢然として評し去つた。
「みだれ髮一卷ことごとくこれ春畫なり」(小田切秀雄氏の「萬葉の傳統」中の引用による、但し氏も「・・・・と書いた旨傳へられてゐる」とぼかした)
晶子の詩情は「みだれ髮」一卷で燃えつくれたのではなかつた。否、これよりのち死にいたるまで彼女の心は上田敏のいはゆる「吹上の泉を受ける水盤のやうに、いつも水、なみ〱と盛り高になつてゐる」のであつた。上田敏こそは晶子とその詩を最大限度に受け入れたる詩の愛人であつたのだ。彼は明治四十四年一月に刊行された晶子の歌集「春泥集」の序において、右の一句をふくめる詩論をこころみ、さて晶子につて云ふのであつた。
「詩が一世の感情に投合して、不斷はこれに緣遠い人までを動かすには、まづ婦人の手と脣とに觸れられることが必要だ。婦人が詩の花のなかに、其顏を漬けるやうになつてはじめて、ほかの詩も理解される。女詩人は實に詩の宣傳者、弘布者であつて、巧に周圍の感情にふさはしい情緖の琴の緖を彈じ、自然に時代の空氣中に浮ぶ新思想を吸收咀嚼して、一の新體を造り出す者だ。これは模倣で無い、靈妙な同化である。精神上に於ける婦人の地位と知識の低い時代はいざ知らず、其他の場合では、女詩人の作に一時代の感情が綜合されて現はれる例は少なくないので、殊に抒情詩の域內では、なまじい、淺薄な理性に囚はれないだけ、却つて面白い天眞の流露を見る。與謝野夫人の場合もこれではないか」
いさゝか高等學校の生徒めいてゐるが、晶子を語らうと努力してこれだけの言葉を列ねたのである。「明治詩壇が晶子夫人の絕間無き政策の精力あるが爲に、常に公衆の視聽を惹きつつあるは、文藝を愛する者の深く感謝する所である」とも稱へてゐる。いやそればかりではない、「日本歌壇に於ける與謝野夫人は、古の紫式部、淸少納言、赤染衞門等はものかは、新古今集中の女詩人、かの俊成が女に比して優るとも劣る事が無い」そして、「後世は必らず晶子夫人を以て、明治の光榮の一とするだらう」と結んだ。これを全文四號で二十六頁に組んで序とした晶子の得意やおもふべく、「友を撰まば書を讀んで」の鐵幹の詩のいつはり無きを上田敏に發見したであらう。卽ち私はここに、その序についてゐる「春泥集」から選み出さないで拾い集めるであらう。
男をも灰の中より拾ひつる釘のたぐひに思ひなすこと
戶をあくればニコライの壁わが閨(ねや)にしろく入りくる朝ぼらけかな
わが胸はうつろなれどもその中にいとこころよき水のながるる
ひとり居て夜の藤椅子のかなしさはおほよそごとの忘られぬため
三十路などそらはづかしき年かぞへ君がかたへにあらじと思ひぬ
「みだれ髮」からうづけて讀むと晶子の心のさびを思はせる。これより更に四年を經て世に問ひたる詩歌集「さくら草」のうちに、
よきことは君に敎へて世の常の女となりぬ戀もあさまし
を發見し、まさか「世の常の女」でもあるまいと思ふ者豈一人私のみであり得ようや。
ところで、晶子は評論家として常識的ながら總明な批判を下し得る女性であつた。母としてはその息子をすぐれたる官吏とし、その娘をよき夫人とした。さうして、昭和十七年の初夏に眠るやうに安らかに死んだ。
詩は畢に彼女の生涯の靈であつた。私のある女のお友達は晶子の死について次のやうに語つた。
「何かうわごとをおつしやつてゐたさうですけれど、それがみんな詩の世界の言葉ばかりだつたさうでございます」


明治時代には、藝能の世界においてそこばくのすぐれたる女性を出してゐた。義太夫における呂昇と綾之助とは相前後して出でたる巨星であつた。綾之助はその美貌をもつて市井のひいきを獲得した。
劇壇の片隅に女役者があつた。新派劇の勃興に伴ふて女優また進出した。師匠による仕込でなく集團的に訓育されてゐた。その中に森律子があつた。社會的な一名士を父として持つてゐたことと、特色ある麗容とが、そのすぐれたる技倆のほかなる人氣の原因となつてゐた。
 

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