少しでもこの問題に悩まされている者のほとんどが、英語が悪化しつつあることを認めているであろうが、我々がそれに対して意識してできることは何もないと、普通は思われている。我らの文明は退廃の途上にあり、我らの言語も――その論旨によれば――必然的にその全体的な崩壊を共有せねばならない。これを受けてあらゆる言語の濫用に対する抵抗は、さながら電灯よりも蝋燭が、飛行機よりも二輪馬車が好まれるような、感傷的な懐古主義扱いされる。この根底には、言語とは我らがその目的に応じて形作る道具ではなく、自然な成長物であるという、ぼんやりとした信念が横たわっている。

現在、言語の衰退の究極的な原因が、政治と経済にあることは明白であり、それは単純にあちらこちらの個々の書き手の悪影響によりもたらされたものではない。しかし、結果は原因となることもあり、本来の原因を強化し、増大された形で同じ結果を生み出し、それは際限なく繰り返されていく。人は自分が落伍者であるとの思いから酒に手を出し、酒を飲むことでより一層の完全な落伍者となっていくことがある。これとほぼ同様の出来事が、英語に起きている。我らの思考が愚劣であるために、英語は醜悪で誤謬に満ちた言語となっているが、我らの言語のだらしなさもまた、我らが愚劣な思考を持つことをより容易にしている。大事なのは、この過程が可逆的であるという点である。現代英語、特に英語の文章は、人真似により広まった悪癖で満たされており、書き手が必要な労を厭わないのであれば、それらは避け得るものである。書き手がこれらの悪癖を捨て去れば、その思考はより明晰なものとなり、明晰な思考は政治の再生に向けた欠くべからざる一段階目となる。すなわち、この英語の悪文との戦いはつまらないことではなく、職業作家の独占する関心事ではないのである。いずれ私はこの話題に再び触れるつもりであり、その時までに私がここで言わんとしたことが、より明白になっているようにと期待する。差し当たって、現在慣習的に使われている英語の実例を五つ、ここに示す。

これらの五つの文章は特に悪い例として選ばれたのではなく――悪い例を選べば、遥かにひどい例を引用できたであろう――、我らが現在悩まされている様々な精神的悪習を示すものとして選ばれた。これらは水準よりはやや下であるものの、十分に代表的な例である。必要に応じて文例を参照できるように、文章に番号を振っておく。

1. I am not, indeed, sure whether it is not true to say that the Milton who once seemed not unlike a seventeenth-century Shelley had not become, out of an experience ever more bitter in each year, more alien [sic] to the founder of that Jesuit sect which nothing could induce him to tolerate.
Professor Harold Laski (Essay in Freedom of Expression)
1. 事実、17世紀のシェリーとかつては似ていないことはないように見えたミルトンが、年毎に過酷さを増す経験の中で、彼に寛容さを引き起こすことの何もなかったイエズス会分派の創設者に対しより局外者的にはならなかったということが真実ではないかどうか、私は確信できないのである。
ハロルド・ラスキ教授(『Essay in Freedom of Expression』)
2. Above all, we cannot play ducks and drakes with a native battery of idioms which prescribes egregious collocations of vocables as the Basic put up with for tolerate, or put at a loss for bewilder .
Professor Lancelot Hogben (Interglossa)
2. 何よりも我々は、tolerate(耐乏する)の代わりにput up with(我慢する)、bewilder(当惑する)の代わりにput at a loss(まごつく)と言ったベーシック英語の甚だしい連語を規定する自国語の構文の連なりに、だらだらと時間を割いている暇はないのである。
ランスロット・ホグベン教授(『Interglossa』)
3. On the one side we have the free personality: by definition it is not neurotic, for it has neither conflict nor dream. Its desires, such as they are, are transparent, for they are just what institutional approval keeps in the forefront of consciousness; another institutional pattern would alter their number and intensity; there is little in them that is natural, irreducible, or culturally dangerous. But on the other side, the social bond itself is nothing but the mutual reflection of these self-secure integrities. Recall the definition of love. Is not this the very picture of a small academic? Where is there a place in this hall of mirrors for either personality or fraternity?
Essay on psychology in Politics (New York)
3. ある面では、葛藤も夢想も含まず、神経的に定義されたものではない、自由な個性を我々は持っている。正に制度による承認が意識の最前部で保たれている中で、自由自体がそうであるように、個性の願望は無色透明である。別の制度上のパターンは個性の数と強度を変更する。それらの内で自然なものや減じえないものや文化的に危険なものはほとんどない。しかし別の面では、社会的な結束自体は自己の安全保証を相互に反映する以外のものではない。愛の定義を思い出して頂きたい。これが正に小学徒の典型ではないだろうか? この鏡の間のどこに個性や同胞愛のための場所があるだろうか?
ニューヨークの『Politics』所収の心理学に関するエッセイ
4. All the "best people" from the gentlemen's clubs, and all the frantic fascist captains, united in common hatred of Socialism and bestial horror at the rising tide of the mass revolutionary movement, have turned to acts of provocation, to foul incendiarism, to medieval legends of poisoned wells, to legalize their own destruction of proletarian organizations, and rouse the agitated petty-bourgeoise to chauvinistic fervor on behalf of the fight against the revolutionary way out of the crisis.
Communist pamphlet
4. 共通した社会主義への憎悪と大規模な革命運動の潮流への獣的な恐怖で結託した、紳士クラブのすべての「最上の人々」と、死に物狂いのファシストのすべての首魁が、挑発行為と、下劣な放火犯罪と、井戸に投げ込まれた毒という中世の伝説と、彼ら自身のプロレタリア組織破壊活動の合法化と、小市民を扇動してこの危機から逃れる革命への反抗に代表される盲目的愛国心を喚起せんとする道へ転じたのである。
共産主義者のパンフレット
5. If a new spirit is to be infused into this old country, there is one thorny and contentious reform which must be tackled, and that is the humanization and galvanization of the B.B.C. Timidity here will bespeak canker and atrophy of the soul. The heart of Britain may be sound and of strong beat, for instance, but the British lion's roar at present is like that of Bottom in Shakespeare's Midsummer Night's Dream -- as gentle as any sucking dove. A virile new Britain cannot continue indefinitely to be traduced in the eyes or rather ears, of the world by the effete languors of Langham Place, brazenly masquerading as "standard English." When the Voice of Britain is heard at nine o'clock, better far and infinitely less ludicrous to hear aitches honestly dropped than the present priggish, inflated, inhibited, school-ma'amish arch braying of blameless bashful mewing maidens!
Letter in Tribune
5. 新しい精神をこの古い国に吹き込むためには、取りくまねばならない苦痛に満ちた物議を醸す改革が一つあり、それは糜爛を示し精神を萎縮させている、当地の国営放送的お上品な喋り方に人間らしさと活発さを吹き込むことである。喩えるならばイギリスの心臓は強く鼓動を刻んでいるかもしれないが、イギリスというライオンの今現在の咆哮の声は、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』に登場するロバの頭を付けられたボトムの親方のように――乳離れしていないハトと同じくらいお淑やかである。新しい英国の成年男子は、ランガムプレイスの退廃的な無気力へ世界の目が、いや、むしろ耳が向けられる中、「標準英語」なる耳障りな仮面舞踏会を演じたままで、いつまでも中傷に甘んじているわけにはいかない。9時の『ボイス・オブ・ブリテン』を聞く時、現在の、品行方正で内気な箱入り娘が上げる、堅苦しくて思い上り、抑制的で女教師じみた小狡いロバの鳴き声を聞くよりは、いっそ素直に「h」を省略する下品な言葉を聞く方が、まだ遥かにましな上に、この上なく滑稽ではない!
『Tribune』に寄せられた投稿

これらの文章には各々の欠陥があるが、避けることのできた醜悪さは別にしても、すべてに共通する二つの特徴がある。一つ目は陳腐なイメージであり、二つ目は正確さの欠如である。書き手は言いたいことがあっても、それを説明できなかったり、ふらふらと別のことを言ってしまったり、自分の言葉に果たして意味があるのかということにまるで無頓着であったりする。この曖昧さと全くの無能さの混合は、現代英語の文章、特に政治的なあらゆる種類の文章の最も著しい特徴となっている。ある話題が取り上げられるや否や、具体的な内容は徐々に抽象的になっていき、陳腐でない語り口に立て直せる書き手は誰もいないようである。陳腐な文章を成しているのは、意味を表すために選ばれた非常に少数の言葉と、鶏小屋を組み立てる部品のように継ぎ合わされた非常に多数の決まり文句である。以下に注釈と実例を添えて、文章を組み立ててごまかしを行うのに慣習的に使われる様々なトリックを列記する。

死にかかっている隠喩。新たに考え出された隠喩は視覚的イメージを喚起することによって思考を補佐し、一方で技術的に「死んだ隠喩」(例:iron resolution、固い決意)は事実上通常の単語となって、文章の鮮明さを損なうことなく普通に用いることができる。しかし、これらの二つの区分の間には、その喚起力の全てを失い、単に書き手が新たな語句を考え出す手間を省くためにのみ使われているに過ぎない、使い古された隠喩の山が存在する。以下に例を挙げる:ring the changes on(~に変化を付ける)、take up the cudgel for(~のために戦う)、toe the line(歩調を合わす)、ride roughshod over(~を手荒く扱う)、stand shoulder to shoulder with(~と一致団結する)、 play into the hands of(~の術中に陥る)、no axe to grind(他意の無い)、grist to the mill(儲けの種)、fishing in troubled waters(漁夫の利を得る)、on the order of the day(当節流行の)、Achilles' heel(急所)、 swan song(最後の作品)、 hotbed(温床)。これらの多くがその意味への知識なしに用いられており(例えば、そもそも「rift(亀裂)」とは何か御存知だろうか?)、矛盾する隠喩が頻繁に並べられ、書き手が自分の言わんとすることに興味を持っていないことを如実に示している。その内容にすら気を配らずに使用する人々のために、いくつかの隠喩が現在ではその本来の意味から歪められている。例えば「toe the line」は、しばしば「tow the line(線を引く)」と書かれる。別の例に「the hammer and the anvil(金鎚と金床)」があり、今は常に金床が金鎚で駄目にされるという意味で使われている。実際には金鎚を壊すのが金床であり、その逆の場合はない。書き手が自分の言ったことを考えるために立ち止まれば、本来の文句を歪めることは避けられたであろう。

作用語および義足動詞。これらは適切な動詞や名詞を選び出す手間を省くと共に、各文章に均整の取れた外観を与える余分な言葉を水増しする。典型的な成句としてあるのは、render inoperative(効果を示さない)、militate against(~に作用する)、make contact with(~と会見の席を設ける)、be subjected to(~を支配下に置く)、give rise to(~を生じせしめる)、give grounds for(~に地歩を譲る)、have the effect of(~に効果を及ぼす)、play a leading part (role) in(~で主役を演じる)、make itself felt(好印象を与える)、take effect(効果を示す)、exhibit a tendency to(~の傾向を示す)、serve the purpose of(~の目的に適う)、エトセトラ、エトセトラ。これらの主目的は単一動詞の除去である。break(破る)、stop(止める)、spoil(損なう)、mend(改める)、kill(殺す)等の単語の代わりに、動詞はprove(判明する)、serve(供給する)、form(形成する)、play(演じる)、render(示す)等の何らかの汎用動詞を名詞や形容詞で飾り付けた成句にされる。更に、受動態が使用可能なあらゆる場所で能動態を差し置いて使われ、名詞構文が動名詞の代わりに使われる(by examining(~を調べて)の代わりにby examination of(~を試験して))。接尾辞-izeや接頭辞de-によって動詞の使用範囲はより一層削られ、接頭辞not un-によって平板な文書に見掛け倒しの深遠さが与えられる。単純な接続詞や前置詞はwith respect to(~に顧慮を払って)、having regard to(~に関しては)、the fact that(~という事実)、by dint of(~の力で)、in view of(~を考慮した上で)、in the interests of(~の利益のために)、on the hypothesis that(~という過程の上で)のような決まり文句に置き換えられ、文章の末尾ではgreatly to be desired(大いに期待を寄せられている)、cannot be left out of account(考慮せざるを得ない)、a development to be expected in the near future(近い将来における発展が予想される)、deserving of serious consideration(真剣に考慮に値する)、brought to a satisfactory conclusion(満足できる結論に至る)、等々のきらびやかで平凡な文章が、竜頭蛇尾に終わるのを防いでくれる。

持って回った言い回し。phenomenon(現象)、element(要素)、individual(個体)、objective(客観的な)、categorical(絶対的な)、effective(効果的な)、virtual(事実上の)、basic(初歩的な)、primary(根源的な)、 promote(助長する)、constitute(構成する)、exhibit(示す)、exploit(搾取する)、utilize(利用する)、eliminate(除去する)、liquidate(一掃する)のような言葉は、単純な構文を着飾らせ、偏った見解が科学的に公平であるかのような雰囲気を与える。epoch-making(画期的な)、epic(叙事詩的な)、historic(歴史的な)、unforgettable(忘れ得ぬ)、triumphant(大勝利の)、age-old(連綿と続く)、inevitable(必然の)、inexorable(容赦なき)、veritable(真実の)のような形容詞が、国際政治の下劣な過程にもったいを付けるために使われる一方で、戦争を賛美する目的を帯びた文章は、通例古風な雰囲気を帯びる。特徴的な単語は realm(領土)、throne(玉座)、chariot(チャリオット、古代ローマの二輪戦車)、mailed fist(鉄拳)、trident(トライデント、海神ネプチューンの三叉矛)、sword(剣)、shield(盾)、buckler(バックラー、手持ちの丸盾)、banner(軍旗)、jackboot(軍靴)、clarion(進軍ラッパ)である。cul de sac(窮地)、ancien regime(旧制度)、deus ex machina(機械仕掛けの神)、mutatis mutandis(準用して)、status quo(現状)、gleichschaltung(ナチス式統制)、weltanschauung(世界観)等の外国語の言葉や表現は、文化的で優雅な雰囲気をもたらす。i.e.(すなわち)やe.g.(例えば)、etc.(その他)等の役に立つ略語は別にして、現在の英語で使われている数百の外国語の文句は実際には不必要である。悪文の書き手、特に科学や政治や社会学の文章の書き手は、ラテン語やギリシャ語の言葉はサクソン語のそれよりも偉大であるとの観念に憑かれており、expedite(促進する)、ameliorate(改善する)、predict(予測する)、extraneous(異質の)、deracinated(根無し草の)、clandestine(秘密の)、subaqueous(水面下の)のような無数の不必要な言葉が徐々にアングロサクソンの言葉を脅かしつつある。[1]マルクス主義者の文章特有の専門用語(hyena(ハイエナ)、hangman(絞首人)、cannibal(人食い人種)、petty bourgeois(小市民)、these gentry(上流階級)、lackey(従僕)、flunkey(追従者)、mad dog(狂犬)、White Guard(白衛軍)等)には多数のロシア語やドイツ語やフランス語から翻訳された言葉が含まれているが、造語の作成にはラテン語かギリシャ語由来の言葉に適当な接辞を付け、必要に応じてサイズを調整して用いるのが一般的なやり方である。この手の単語(deregionalize(反地方主義化された)、 impermissible(許諾不可能な)、 extramarital(婚姻範囲外での)、 non-fragmentary(非断片的な) 他) をひねり出すのは、ある意味を表現する英語の言葉を考え出すよりもしばしば容易である。概してその結果、文章のだらしなさと曖昧さが促進される。

無意味な言葉。ある種の文章、とりわけ芸術批評や文学批評では、意味をほぼ完全に欠いた文章が長々と書き綴られているのが普通である。[2]romantic(ロマンティックな)、plastic(柔軟な)、values(様々な)、human(人間的な)、dead(生気のない)、sentimental(感傷的な)、natural(自然な)、vitality(活気のある)のような芸術批評で用いられている言葉は、筆者がいかなる発見も示していないだけではなく、読者がそうすることをほとんど期待できないという意味においても、全くの無意味である。ある批評家が「某氏の作品の傑出した特長はそのliving quality(生き生きとした品質)にある」と書く一方で、別の批評家が「某氏の作品で直ちに衝撃を受けるのは、そのpeculiar deadness(独特の生気のなさ)である」と書き、読者はこれを単なる意見の違いとして受け入れる。「living(生き生きとした)」や「dead(生気のない)」のような専門用語の代わりに「black(黒い)」と「white(白い)」のような言葉が用いられていたら、読者は直ちに言葉が不正確な用法で使われていると気付いたであろうに。多くの政治用語が同じく濫用されている。現在のFascism(ファシズム)という言葉には「望ましくない何か」を表現する以上の意味はない。用語democracy(民主主義)、socialism(社会主義)、freedom(自由)、patriotic(愛国的)、realistic(現実的)、justice(正義)は、そのいずれもが他の意味と相容れない複数の異なる意味を持っている。democracyのような言葉の場合には同意された定義がないばかりでなく、定義を与えようとする試みはあらゆる陣営からの抵抗を受ける。ある国がdemocratic(民主的)であると呼ばれるとき、普遍的に我々がそれを賞賛していると受け止められる。その結果、あらゆる体制の擁護者はそれがdemocracyであると主張し、もしdemocracyという言葉がいかなる一つの意味にでも結び付けられたならば、その言葉の使用を止めねばならぬのではないかと恐れる。この種の言葉はしばしば意図的に不誠実な用法で使われる。すなわち、言葉を使う者が彼自身の個人的な定義を持っているのに、聞き手には彼がまったく異なることを意味していると思わせるのである。「ペタン将軍は真のpatriot(愛国者)であった」とか「ソビエトの報道は世界一free(自由)である」とか「カトリック教会はpersecution(迫害)に反対している」とかの声明は、ほとんど常に人を欺く意図をもって行われる。多くの状況で大なり小なり不誠実に使われる、様々な意味を持つ他の言葉として、class(階級)、totalitarian(全体主義)、science(科学)、 progressive(進歩的)、 reactionary(反動的)、bourgeois(中産階級)、equality(平等)がある。

詐術と歪曲の一覧表を作り上げたところで、それらに通じる別の種類の文例を示してみるとしよう。今度の例はその性質から言って架空のものでなければならない。私は英語の良文を現代英語でも最悪の種類の悪文に翻訳してみるつもりである。以下に『伝道の書』からよく知られた詩句を挙げる。

I returned and saw under the sun, that the race is not to the swift, nor the battle to the strong, neither yet bread to the wise, nor yet riches to men of understanding, nor yet favour to men of skill; but time and chance happeneth to them all.
私は再び陽の下に見た。速い者が競走に勝ち、強い者が戦いに勝つとは限らず、賢い者がパンにありつくのでも、聡い者が富を得るのでもないし、器用な者が好意に恵まれるのでもない。しかし時と機会は誰にでも与えられている。

これが現代英語ではこうなる。

Objective considerations of contemporary phenomena compel the conclusion that success or failure in competitive activities exhibits no tendency to be commensurate with innate capacity, but that a considerable element of the unpredictable must invariably be taken into account.
現時点での諸現象の客観的な問題は競合的活動における成否が生得の能力に見合う傾向を示さないという帰結を強制するが、予測不能な要素の可能性を普遍的に考慮せねばならない。

これはパロディであるが、大袈裟な文例ではない。例えば上に示した例文(3)には、同種の英語のつぎ当てがいくつも含まれている。上の文で私が完全な翻訳を行っていないのが分かるであろう。文章の始まりと終りは原義にかなり忠実であるが、途中の具体的な描写――race(競走)、battle(戦い)、bread(パン)――は、「success or failure in competitive activities(競合的活動における成否)」という曖昧な語句に変換されている。ここで議論しているような類の現代の書き手――「objective considerations of contemporary phenomena(現時点での諸現象の客観的な問題)」のような語句を用いる能力のある書き手――でなければ、微に入り細を穿ちその思想を描写していたであろうに。現代の文章全般に、具体性を避ける傾向がある。今度は、上の二つの文章をもう少し細かく分析してみよう。一番目の文章は49語の単語に対し僅か60音節しか含んでおらず、その単語の全てが日常用語である。二番目の文章は38語の単語に90音節を含んでおり、その内の18語がラテン語及びギリシャ語由来の単語である。一番目の文章は6枚の鮮やかなイメージを含んでおり、曖昧な語句(「time and chance(時と機会)」)は一つだけである。二番目の文章には新鮮で人目を引く語句は一句も含まれておらず、90もの音節を費やしたにも拘わらず、最初の文章に含まれた意味の概略を伝えるのみである。それにも拘わらず現代の英語を席捲しつつあるのは、疑いなく二番目の類の文章なのである。誇張はやめておこう。この種の文章はまだ普遍的ではないし、最悪の頁の中でも平易な文章が至るところで顔を出している。しかし、あなたや私が人間の幸運の不確定性について一、二行の文章を書くように言われたならば、おそらくそれは『伝道の書』のそれよりも、私の考えた文章にかなり近くなるはずである。

私が示した通り、現代の文章はその最悪の場合において、その意味のために選ばれた言葉や、意味を明確にするために導入されたイメージを持っていない。他の誰かによって既に整えられた一連の言葉をべたべたと貼り合わせ、ペテンのみによる文章が体裁よく仕上げられる。この書き方が好まれるのは、それが楽だからである。「In my opinion it is not an unjustifiable assumption that(~ということは、私の見解では不合理な仮定ではない)」と書くのは、「I think(~と思う)」と書くよりもより楽で――習慣にしてしまえば、より手早くさえ――ある。出来合いの語句を使うようにすれば、あなたは言葉を探さずに済むばかりでなく、それらの語句は基本的に大なり小なり耳当たり良く整えられているため、文章のリズムに悩まされる心配もなくなる。急いで文章を組立てようとすると――例えば口述筆記や演説をしている時――、それは自然ともったいぶったラテン語風の文体になっていく。「a consideration which we should do well to bear in mind(我々がよく肝に銘じておかねばならない問題)」や「a conclusion to which all of us would readily assent(我々全員の一致するであろう結論)」と言った決まり文句は、多くの文で言葉につかえるのを防いでくれる。使い古された隠喩や直喩や構文の使用は、あなたの意図を曖昧にするという代償と引き換えに、多くの精神的な手間を省いてくれ、それはあなたの読者のためではなくあなた自身のためである。これは隠喩の混合で顕著となる。隠喩の唯一の目的は視覚的イメージを呼び起こすことにある。視覚的イメージが破綻している――例えば「The Fascist octopus has sung its swan song, the jackboot is thrown into the melting pot(ファシストの蛸は白鳥の歌を歌い、その軍靴はるつぼへと投げ込まれた)」――のなら、書き手が己の記している対象の心象風景を見ておらず、言い換えれば実際は考えていないのは確実である。私がこの随筆の最初で取り上げた例文を見返して頂きたい。ラスキ教授は例文(1)で53語の中に5語の否定語を使っている。これらの内の一つは余計であり、文章全体をナンセンスにしている上に、加えて文章を更にナンセンスにする――「akin(同族)」の意味で「alien(局外者)」を用いたりの――誤用と、文章全体の曖昧さを増している不必要なぎこちない単語が複数ある。ホグベン教授は例文(2)で処方箋に使われるような言い回しにだらだらと時間を割いている暇はあるのに、日常的な語句 put up with(我慢する)は受け入れず、辞書でegregious(甚だしい)を引いてその意味を調べるつもりもない。忌憚の無い意見を述べれば、(3)は単純に無意味である。ひょっとしたらこの文章が述べられている記事全体に目を通せば、意味が通るのかもしれない。(4)では、書き手は自分の言いたいことをそれなりに分かっているものの、紅茶の葉が流し台を詰まらせるように、陳腐な決まり文句の積み重ねが彼を窒息させている。(5)では、言葉と意味がほとんど生き別れになっている。概してこの手の文章を書く人間に共通する感情的な意図がある――あるものを嫌い、別のものとの連帯を説こうという意図である――、しかし自分の述べることの詳細に興味はない。慎重な書き手は己の書く一文ごとに、最低でも四箇条の自問自答を行うだろう。すなわち、「1.私は何を言いたいのか?」「2.それを示すのはどんな言葉か?」「3.どんなイメージや慣用句がそれを明確に表現するのか?」「4.そのイメージは効果を示すに足るほど新鮮か?」。そして更に二つ自問自答するかもしれない。「1.もっと短く書けないか?」「2.改善できる悪文はないだろうか?」。しかしあなたにこれだけの手間暇をかける義務はない。ただ心を開け放ち、陳腐な決まり文句が集まるに任せるだけで、あなたはこの面倒を避けられる。決まり文句があなたの代わりに文章を組み立ててくれて――ある程度は、あなたの代わりに考えてくれさえして――必要に応じてあなたの意図をあなた自身からも部分的に隠すという、重要な役目を引き受けてくれる。言語の劣化と政治との特別な関係が、ここで明らかにされる。

我らの時代において、政治的な文章は悪文であるというのが通念となっている。これが通用しないのは、基本的に書き手がある種の反逆者であり、「党の政策路線」ではなく彼個人の意見を述べている場合である。その性質に関わらず、正統派なるものは、生気の無い人真似の文体を要求するかのようである。パンフレット・社説・公約・白書・次官演説で見出される政治的な語法は、勿論党による違いはあるものの、新鮮で精彩に富んだ話者自身の手になる語調がほとんど見られないという点で、一様に似ている。演壇の上でお馴染みの決まり文句――bestial atrocities(残虐非道)、iron heel(独裁の鉄の踵)、bloodstained tyranny(血塗られた圧政)、free peoples of the world(世界の自由民)、stand shoulder to shoulder(一致団結する)――を機械的に繰り返している退屈な話し手を見ていると、しばしば生きた人間ではなく、ある種の人形を見ているような不思議な気持ちにとらわれる。光線の具合で話し手の眼鏡が反射し、後に目を持たない空っぽの円盤のように見える瞬間に、その気持ちはより一層強くなる。そして、これは全くの妄想ではない。この手の語法を使う話者は、自らを徐々に機械へと変えつつあるのである。適当な雑音は彼の咽喉部から出てはいるが、自分で言葉を選んでいたかどうかという点に関しては、彼の脳髄の与り知らぬところである。彼のしている演説が何度も何度も繰り返して習慣化しているのなら、教会で発される答唱と同様に、彼は自分の喋っていることをほとんど理解していないのかもしれない。そしてこの意思の低下状態は、それが回避不可能でなければ、いずれの場合も政治的な体制順応に好ましいものである。

我らの時代において、政治的な演説と文章は専ら擁護不可能なものを擁護する。インドにおけるイギリスの支配継続や、ロシアの粛清や国外追放、日本への原爆投下のような出来事すらも、ほとんどの人々の正視に堪えない残酷な議論によってのみ擁護できるが、これは政党の見せかけだけの目的とは一致していない。それ故に政治的な言葉は主に婉曲語法と論点先取と不明瞭な曖昧さから成り立っているのである。無防備な村が空襲を受け、住民が疎開を余儀なくされ、家畜が蜂の巣にされ、小屋が焼夷弾で焼かれる。これが「pacification(鎮定)」と呼ばれる。数百万人の農民が農地を奪われ、手荷物以外何ひとつ持たずにとぼとぼと道路を歩かされる。これが「transfer of population(人口の移送)」あるいは「rectification of frontiers(国境の改正)」と呼ばれる。裁判無しに人々を何年も投獄し、首筋に銃弾を打ち込み、北極圏の伐採キャンプに送り込んで壊血病で死ぬに任せる。これが「elimination of unreliable elements(不安要素の排除)」と呼ばれる。それらの情景を思い浮かべること無しにこれらの出来事を命名したいと望む時に、このような言い回しが必要となる。喩えばロシアの全体主義を擁護しているイギリスの裕福な大学教授を思い浮かべてみよう。彼は「I believe in killing off your opponents when you can get good results by doing so(それで良い結果が得られるなら、反対する者は皆殺しにすべきだと思う)」と率直には言えないだろう。だから、おそらく彼はこの様に言うはずである。

"While freely conceding that the Soviet regime exhibits certain features which the humanitarian may be inclined to deplore, we must, I think, agree that a certain curtailment of the right to political opposition is an unavoidable concomitant of transitional periods, and that the rigors which the Russian people have been called upon to undergo have been amply justified in the sphere of concrete achievement."(「人道主義者を嘆かせつつあるかもしれないというソビエト体制が示す幾つかの特徴を敢えて認める一方で、政治上の反対勢力への一定の権利の削減は過渡期に付随する不可避の現象であり、そしてロシアの民衆が蒙ることを要求された困難は、具体的な形で達成された業績によって充分に正当化されたことを我々は認めざるを得ないと考える」)

大袈裟な文体そのものが一種の婉曲表現である。大量のラテン語は柔らかい雪のように事実の上に降り積もり、輪郭をぼかして、その詳細全てを包み隠してくれる。明確な言語の最大の敵は不誠実さである。ある現実と言明したいことに食い違いがある場合、人はそれが本能の様に長い言葉と使い古された慣用句を選び取る。まるで煙幕を張るイカの様に。我らの時代には「政治を避ける」余地など存在しない。あらゆる問題が政治問題であり、政治自体が嘘と言い逃れと愚行と憎悪と統合失調症の塊である。社会の雰囲気が悪くなっている時には、言語に苦しまねばならない。――これは充分に実証された知識ではなく、推測であるが――ドイツ語、ロシア語、イタリア語のすべてが、独裁主義の結果として、この十年から十五年間にかけて悪化していると私は予想している。

しかし思想が言語を腐敗させるのなら、言語もまた思想を腐敗させ得るのである。悪文の用法は伝統と模倣によって、分別ある人々や分別を持てたはずの人々の間にすら広まり得る。私が論じている言葉の劣化は、ある意味では甚だ便利である。「a not unjustifiable assumption(不合理な仮定ではない)」、「leaves much to be desired(大いに遺憾である)」、「would serve no good purpose(いかなる善用も望めぬであろう)」、「a consideration which we should do well to bear in mind(我々がよく肝に銘じておかねばならない問題)」のような語句は、絶え間なく人を誘惑する肘先に置かれたアスピリンの箱である。この随筆を見返して頂ければ、正に私が糾弾している欠陥を、私自身が再三犯しているのに、あなたは確実に気付くであろう。今朝の郵便で私はドイツの状況を取り上げたパンフレットを受け取った。パンフレットの筆者はそれを書くことに「駆り立てられた」と述べていた。パンフレットを出鱈目に開いて、目に留まった最初の文章をここに書いてみよう。「[The Allies] have an opportunity not only of achieving a radical transformation of Germany's social and political structure in such a way as to avoid a nationalistic reaction in Germany itself, but at the same time of laying the foundations of a co-operative and unified Europe([連合国は]ドイツ自体の国家主義的な反応を回避する等の方法をもってドイツの社会的及び政治的構造の抜本的な改革を達成するばかりでなく、同時に統一ヨーロッパ及びヨーロッパ共同体の基礎を築く機会を持っている)」。ご覧の通り、彼は「駆り立てられた」――おそらく、自分の意見は新しいと感じていたであろう――にも拘わらず、彼の言葉は召集ラッパに応える騎兵隊さながらに、お馴染みの退屈な文章へと自動的に集合していった。この精神への決まり文句の侵略(「lay the foundations(基礎を築く)」、「achieve a radical transformation(抜本的な改革の達成)」)は、その侵略に対する絶え間のない防備でのみ防ぐことができて、それらのいかなる決まり文句も人間の脳の一部を麻痺させるのである。

前に私は我らの言語の退廃はおそらく治療可能であると述べた。これに反対する人々は、もし真っ向から反対するとすれば、言語とは単にそこにある社会状態の反映に過ぎず、我々がいかにその言葉と構造を繕おうとしても、その発展に影響は及ぼせないと主張するであろう。言語の風潮や精神全般に関する限り、これは本当かもしれないが、細部においては本当ではない。愚かな言葉や表現は、進化論的な過程を通じてではなく、少数者の意識的な行為により、しばしば消滅することがある。近年の例としては「explore every avenue(あらゆる手段を講じる)」と「leave no stone unturned(あらゆる手段を尽くす)」が挙げられる。これらは少数のジャーナリストの冷笑によって葬られた。同様に人々が充分に関心を持って取りくめば取り除けるかもしれない、蝿のたかった隠喩の長い一覧表がある。更には、「not un-」式の文章の存在を笑い飛ばし[3]、一般の文章のラテン語とギリシャ語の数を減らし、外国語の語句と場違いな学術用語を追い払い、総じてもったいを付けた文章を時代遅れにすることもできるかもしれない。しかし、これらは些細な点に過ぎない。英語の防衛はこれ以上の意味を含んでおり、おそらくはそれが何を含んでいないかということから話を始めるのが最善の方法であろう。

最初に、それは古風な文章、廃語の復活、ひねりの効いた言い回しとも、そこから外れてはならない「標準英語」を築き上げることとも無関係である。むしろ逆に、その価値を使い果たしたあらゆる言葉や構文の廃棄に特に関係がある。それは正確な文法や構文とは無関係であり(他者に意見を明瞭に伝えられる限り、これは問題ではない)、アメリカ英語の禁止や、いわゆる「文章作法」を身に付けることとも無関係である。その一方で、見かけだけの単純化や英語の書き言葉を口語化しようとする試みとも関わりがない。また、それは自分の意図を表現する最も少なく最も短い言葉を使うことを含んでいるが、あらゆる場合にラテン語よりもサクソン語を好むというわけでもない。意味のために言葉を選ぶということが何よりも大切なのであり、それが逆になってはならない。文章において人間が言葉にできる最悪の行為は、言葉に降伏することである。あなたが言葉を使わずに具体的な物事を考えている時には、自分が思い浮かべたものを描写したければ、それを正確に言い表せるであろうぴったりの言葉が見つかるまで探し続けるはずである。あなたが抽象的な物事を考えている時は、あなたは最初から言葉を使う傾向があり、それを意識して防がない限り、既存の語法が乱入して働き出し、あなたは自分の意図を曖昧にされ、時には変更されるという代償を支払うことになる。おそらくは可能な限り言葉を使うのは延期して、自分の意図を絵画や感覚を通したのと同じくらいに明らかにした方がいいであろう。然る後に、その意図を言い表す最良の言葉を――単に受け入れるのではなく――選び取り、それを置き比べて自分の言葉が他人にどんな印象を与えるかの判定を下すことができる。最後の精神上の手間は、全ての陳腐あるいは混合されたイメージと、全ての既成の語句と、不必要な反復と、全般的なごまかしと曖昧さの除去である。しかし、しばしばある言葉や語句の効果への疑問が起こり、直観が当てにならない場合に頼りになる規則が必要になるかもしれない。以下の規則はほとんどの状況を網羅すると私は考える。

(i) 印刷物で見慣れた暗喩や直喩、その他の比喩を使ってはならない。

(ii) 短い言葉で用が足りる時に、長い言葉を使ってはならない。

(iii) ある言葉を削れるのであれば、常に削るべきである。

(iv) 能動態を使える時に、受動態を使ってはならない。

(v) 相当する日常的な英語が思い付く時に、外国語や学術用語、専門用語を使ってはならない。

(vi) あからさまに野蛮な文章を書くぐらいなら、これらの規則のどれでも破った方がいい。

これらの規則は基本的なものに聞こえるだろうし、事実そうであるが、当節流行している文体に慣れ親しんで育った全ての者に、深い心構えの変化を要求する。これらの規則を全て守った上で、なお悪い英文を書くことは可能だが、この記事の初めで私が引用した五つの標本の類は書かずに済むであろう。

私はここで言語の文学的用法については考察しなかったが、言語とは単に思考を表現する道具であり、思考を隠蔽したり妨害するものではない。スチュアート・チェイスやある者らは、あらゆる抽象言語は無意味であるとの主張と共に、これを一種の政治的傍観主義を擁護する口実にしようとしている。「そもそもファシズムとは何かもわからないのに、どうやってファシズムと戦えるというのだ?」というわけだ。このようなたわ言を鵜呑みにする必要は無いが、現在の政治的混沌が言語の腐敗と関連しており、多弁を弄するのをやめることから何らかの改善を引き起こせることは認めるべきである。英語を単純にすることで、あなたは正統性の持つ最悪の愚かさから解放される。必須であった言い回しをまったく使えないことで、あなたが馬鹿な発言をすれば、その馬鹿さ加減があなた自身にさえ明白になるであろう。政治的な言語は――これは種類こそあれど、保守党から無政府主義者まであらゆる政党について事実であるが――、嘘を真実に、殺人を賞賛すべき行為に聞こえさせ、空虚な言葉に実体があるかのように見せかけるために設計されている。今すぐにこれを改めることはできないが、少なくとも自身の習慣を改めることはできるし、充分に大きな声で嘲笑しさえすれば、時には使い古された無駄な語句――jackboot、Achilles' heel、hotbed、melting pot、acid test(吟味する)、veritable inferno(真の地獄)、その他のくだらない多弁の塊――を、それに相応しい場所である、屑籠に送り込むことさえできるのである。


  1. この興味深い実例は、ごく最近まで使われていた英語の花の名前がギリシャ語名に追いやられた時の方法である。snapdragon(キンギョソウ)はantirrhinumとなり、forget-me-not(ワスレナグサ)はmyosotisとなった。おそらくはありふれた単語を避けようとする本能と、ギリシャ語は学術的であるとの曖昧な印象によるものであろうこの流行の変遷に、いかなる実用的な理由を見出すのも困難である。
  2. 例:"Comfort's catholicity of perception and image, strangely Whitmanesque in range, almost the exact opposite in aesthetic compulsion, continues to evoke that trembling atmospheric accumulative hinting at a cruel, an inexorably serene timelessness . . .Wrey Gardiner scores by aiming at simple bull's-eyes with precision. Only they are not so simple, and through this contented sadness runs more than the surface bittersweet of resignation.(知覚とイメージの快適さの普遍性は、奇妙にもホイットマン的な範囲内にあり、審美的強制とはほぼ対立しているが、苛酷でどうしようもなく平穏な永遠性をほのめかす、不安な雰囲気を喚起し続けている(中略)レイ・ガーディナーは、単純な正鵠に精密に狙いを付けて言い当てている。だが、その正鵠はそれほど単純なものではなく、この満足された悲哀の中には表面的な諦観以上のものが貫いているのだ。)" (『Poetry Quarterly』)
  3. 以下の文章を憶えておけば、「not un-」式の文章は自戒できる:「A not unblack dog was chasing a not unsmall rabbit across a not ungreen field(黒でなくはない犬が緑でなくはない野原を横切って小さくなくはないウサギを追いかけていた)」。

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