揚州十日記


揚州十日記

江都 王秀楚記

 乙酉の夏四月十四日〈西曆一六四五年明の福王卽位二年〉督鎭史可法(註一)は白洋河の守を失ひしよりよろめきながらとして揚州に奔り、城を閉ぢ敵を禦ぎて二十四日に至つた。城未だ破れざるの以前禁門の內には各々守兵が居て、揚姓の將校が之を率ゐて城の要處々々へは夫々吏卒が碁置〈布置といふに同じ〉せられてゐた。予が住宅は新城〈揚州には新舊兩城が有つた〉の東に在つたが二人の兵卒が宿泊してゐた。左右の隣家も亦同樣であつた。彼等の踐踏〈肆ままに室內に闖入して物を漁さるをいふ〉至らざる所なく供給〈兵卒の掠奪を緩和する爲めの賄賂あり〉日に千餘錢を費さし、將に繼ぐ能はざらむとする故、已むことを得ず近隣相共に謀りて主者〈隊長〉の爲めにさかづきを設け、且又予はいつはつて恭敬を爲し〈心なき世辭追從をいふこと〉酬好〈交際〉漸く洽ねきを得た。主者喜んで卒を誡めて稍々遠く去らしめた。主者は音律を喜び琵琶を善くした。仍て名妓を得て軍暇を娛まむと欲するに意があつた。一夕予を邀へて滿飮し歡を縱ままにせむことをはかりしに、忽ち督鎭〈乃ち史可法〉から寸紙〈紙片に書いた訓令〉が到來したので、彼は之を覽て色を變じ遽かに城に登つたので、予も亦衆と共に散會したのであつた。

 越えて二十五日の朝早くに督鎭から牌諭〈揭示の諭吿〉が出た。其の中に『一人之に當り〈督鎭一人國難に當るの意〉百姓を累さず』の語があつて、見る者聞く者感泣せざるは莫つた。道路又傳へて巡撫の軍小捷を得たことを報じたので、人々手を額に加へてよろこんだ。ひるすぎに予の姻戚某が興平伯〈高傑〉(註二)の逃兵を避けて瓜州から態々やつて來た。予がつまは久しく別れてゐたに緣つて相見てすゝりなきを禁ずることができなかつた。然るに予は不圖敵の大兵が城內に闖入したことを一度ならず二度ならず耳にしたので、急に寓宅を出でてれを人にひたるが、或人は曰く靖南侯〈黃得功〉(註三)の援兵が來たのであると。城上をみまはせば守兵尙嚴整であつたので較々意を安んじ、再び市上に至れば人言淘々として被髮跣足の者塵に繼いで至つた。試みに之を問へば心急ぎ口喘ぎて對ふる所を知らなかつた。忽ち數十騎があつて北よりして南し、奔騰狼狽して勢ひ波濤の湧くが如くなるが中に一人を擁しつつ去つた。之れ別人ならず督鎭史可法であつた。蓋し督鎭は東城に奔らむとせるも外兵逼り近づいて出づることができないで、更に南關に奔らむとして此道をよぎれるのであつた。是の時始めて敵兵の城に入つたことが疑の無いことを知つた。突如一騎の南より北に向てきづなを撤して緩步しつつ面を仰いで哀號し、馬前の二卒轡首〈馬の轡や首〉に依々として捨て去るに忍びざる如きものがあつた。今に至つて其の人さながら目に在るも恨らくはその姓名が判然しなかつた。騎稍々遠く去りしとき、守城の兵丁紛々として下りのがれ、冑を棄て戈を抛ち幷に首を碎き脛を折る者が有つた、城櫓を廻視すれば已に一空であつた。是より先督鎭は城狹くして礟を展べることが可能ないので、城のあづちに板を取りつけ前をばしろのみちに置き後を民屋に接し、展礟の餘地を作つて安置に便ならしめむとしたのであつたが、工未だ畢らないで敵兵のゆみつて先登せる者白刄もて亂下し、守城の兵民は相互におしあひして前路通塞せるを以て、皆置く所の木板上に奔り上りはらばひてひきあひして民屋に及ぶを得た。然るに新に置く所の木板は固定してゐないで、之に足を托すれば傾き倒れて人の轉ぶこと宛がら落葉の如く、死する者十中の八九であつた。其民屋に及びし者も足瓦裂を踏み或は劍戟相擊つの聲の如く、或は又雨雹はじきだまの聲の如く、鐘鼓の聲雜然として四もに響くことが絕えなかつた。屋中の人は皆おそれおどろきて出でて爲す所を知らなかつた。而して堂室の內外を深くねまに至るまで皆な守城の兵民共の屋によつて下れる者が惶々としてすきもとめて潜匿し、主人がそれを呵止することができないのであつた。おもてのきはいへなみは皆な戶を閉ぢて人煙屛息して了つた。予がやしきの後は城牆に面したれば、牕𨻶中より城上を窺ひ見れば兵南を循つて西し、步武嚴整で淋雨にも少しも紊れない所から予は之を節制あるのいくさかしらと思ふて心稍安じたのであつたが、忽ち門を叩くの聲急なるを聞けば、則ち隣人相約して共に王師を迎ふべく案を設け香を焚き敢て抗せざるを示さむとすと云ふ。予は事の已にらざる此の如きを知れるも然も亦衆議にもとる能はずして姑らく連應して唯々と對へ、きものを改めつつくびを引いて待つてゐたが良々久うして來なかつた。そこで予は復た後窗に往つて城上を窺へば則ち隊伍稍まばらで或は行き或は止まりつつ俄かにして婦女を擁して其間にまじり行くものがあつて、そのみなりは皆な揚州の風俗であつたので、予は始めて大いに駭き還つて婦に語つて曰く、敵兵城に入り倘しも不測の事があつたならば予なんぢは當さに自裁すべしと、婦曰く諾と。且つ正金若干を汝に付して收藏せしむ、我輩復た人世に生るるを想ふを休めよと。涕泣交々下り、盡く有る所の金を取り出して予に交付した。是に於て乎予は趨り出でて望めば北來の數騎皆な轡を按じて徐行し、王師に遇ひ迎ふる者皆な首を俯して語る所あるが如きであつた。是の時人々自から爲めに守りて往來が通ぜず、相ること咫尺なるも而かも聲息聞ゆることなく、稍々近づくに迨んで始めて此の數騎は戶每に金を索むるものなることを知つた。然も其の意は頗る奢らないのであつて、すこしにても得る所があれば卽ち置いて問はない。或は應ぜざる者があつて刀を採つて相向ふと雖其の刀は尙ほ人に及ばなかつた。〈原註、後ちに知りぬ捐金萬兩相獻じたることを、而して卒かに斃さるるものあるは揚人之を導ける也〉ついで予が門に及び一騎予を指し後騎を呼んで曰く我が爲に此の藍衣の者を詮索せよと、後騎方に轡を捨てて馬を下らむとせるときに予は逸早くも飛び遁れたので、後騎は遂に余を棄てて去つた。予心に計つて曰く、我が粗服は隣人に類したるに、何ぞ獨り隣人を舍いて予を欲したるやと。須臾にして予が弟至り予が兄も亦至つた。因て相共に謀つて曰く、此の居は左右皆かねもちあきんどであるので彼等も亦富賈をもつて我を視んとするので之を奈何せむと。遂に急によこみちからおほあにの家に一家族を擧げて身を托することとし、弟は婦女を扶け雨を冐して先づ仲兄に往つた。仲兄の宅は何家墳の後に在つて、みぎひだりは皆びんぼうにんいへであつた。而も予は獨り自家に留つて動靜を觀てゐた。にはかにして伯兄が來つて曰く、なかまちは血が濺いで危險千萬である、此に留まつて何をか待つや、伯仲生死一處ならば亦恨みなけむと、そこで予は遂に先人のゐはいを奉じて兄と偕に仲兄の宅に趨いた。當時兩兄、一弟、一嫂、一姪、及び一婦、一子、二外姨一內弟、皆同じく仲兄の家に避難した。日がすこし暮れかかつてきて、多勢の兵卒が人を殺すの聲が門外に透徹した。因つて一家內中屋上に登つて暫く避けてゐた。雨が尤もひどかつたので數人共に一枚のもうせんを擁したるがかみのけが皆濕ひ透つた。而も門外哀痛の聲は耳をよだて魄を懾れしめつつ延いて夜に至つて靜まつた。そこのきよぢて屋に下り火をたゝきて食を炊いた。城中の四圍は火の起ること近きものは十餘處、遠きものは其數を知らなかつた。赤光相映じていなづまの如し、ひのはしるおとの聲耳に轟きて絕えず隱々としてゐた。又ひとをむちうつの聲も熾んに聞えて哀風凄切、慘として名狀すべからざるものがあつたので、飯は熟したなれども一家中相顧みて驚き且つ憂へ、淚下つて箸を下すことが出來ず、また一謀をも設くることも出來なかつた。〈如何なる工夫もなかつたとの意〉予が婦はさきなる金を取つて之をくだき分ちて四と爲し、兄弟各々其の一を藏めもとどりくつ、衣、帶の內に隱し持つた。婦又一のやれごろもふるぐつを覓めて爲めに分ち着換へをはりて遂に目を張りて旦に達した。〈一睡もしなかつたとの意〉是の夜や鳥あつて空中に飛廻つてゐて、その鳴くことしやうふえの聲の如く、又小兒の啼哭する聲の如く、人のかうべの上に在つて遠からざる如くであつた。これを人にたづねしに皆之を聞きたりと謂つた。

 二十六日之をしばらくして火勢は稍々息み、天も亦漸く明けた。乃ち復た高きに乘り屋に升りてかくれ避けゐたりしに、旣に十數人の兵卒がみづはけの內に伏してゐた。忽ちひがしひさしの一人が墻を乘り越えむとして一卒が刄を持して之に隨ひ、追躡飛ぶが如きであつたが予が衆を望見し遂に追ふ所を舍てて予の所に向ふて奔り來つた。予はあわてふためいて屋を下りてにげかくれ、兄之に繼ぎ弟又之に繼いだ、走ること約百步にして止まつたのであつたが此れより遂につまこどもと相失し復た其の生死を知らなかつた。諸黠卒等避け匿るるものの多からむことを恐れ、衆人をあざむくに安民わりふを交付すれば又もとむることなけむと言ふた。匿れたる者竸ひ出でて之に從ひ共に集まるもの五六十人に至つて婦女のまじるものその半ばであつた。時に兄余に謂つて曰く、我がおちぶれたる四人或は悍卒に遇はば終に免るることが出來ないゆへ、若かず彼の大群に投ぜむには、勢ひ衆ければ則ち避け易く、不幸にして生死〈萬一のこと〉あるも相聚まれば恨みなき也と。時に各自の方寸〈思慮と分別といふに同じ〉已に亂れて生を救ふの良策が出でないで共に曰く唯々と、相與に之れに就いた。而して之を領する者は三個の滿人の兵卒であつた。予が兄弟の所持金を搜索して皆之を盡くし、獨り予のみをのこして未ださぐらなかつた。忽にして來りつつあつた婦人の內に予を呼ぶ者があつた。之を見れば乃余が友朱書兄の二妾であつたので、予は急に遮ぎり止めた、二妾皆散髮露肉、足深く泥中に入りて脛を沒し、一妾一女を抱いてゐたが、兵卒共が鞭つて之を泥中に擲たしめ旋で卽ち驅り走つた。一卒は刀を提げて前導し一卒は戈を橫へて後逐し、一卒は中に居て或は左し或は右し以て逃逸を防ぎつつ無慮數十人宛がら牛羊を驅る如きであつた。すこしにても進まざれば卽ちむちうちを加へ或は卽ち之を殺した。而してこれらの婦女にはながつなをもつて頸を繫ぐこと累々として貫珠の如く、一步に一つまづきして泥土身に遍く、地に滿つるものは皆みどりごであつて或は馬蹄になづみ或は人足にしかれ、肝腦地に塗れて泣く聲野に盈ち盈ちしてゐた。行いて一溝一池を過ぐればしかばねうづたかくつまれせられて手足相枕し、血は碧水に入つて赭く化して五色を現じ、つゝみは之が爲に平らかなるに至つた。

 此の如くにして予等一家族は夫の滿卒三人に護られつつ一の宅にいつた。之れ乃ち本の廷尉永言姚公のいへであつた。其の後門から直に入つた。いへのなかおくふかくて處々にしかばねが積み重ねられてゐたので、自分達は此所が死所だと心に思つてゐたのであつたが、めぐりおもてもんに達して街に出で復た一宅に至つた。ここは西商喬承望のへやで卽ち夫の三卒の巢穴であつた。門に入れば已に一卒が居て數人の婦女をとらへ、いれものえらびとり來つて綵緞〈反物〉山の如くであつたが、三卒の至るを見て大いに笑ひ、卽ち予輩數十人を驅つてうらざしきに至り、其內の婦人だけをかたのへやとどめおいた。旁室の中には二箇のつくえと三箇の裁縫臺が擱かれてあつて、一人の中年增の婦人が裁縫しつつあつた。該婦は本郡の者であつて、あつげしやうの上にはでしくきかざつてゐて予等を顧みつつゆびざしわらひし、欣然として得色があるのみならず、よきものに遇ふ每に卽ち卒に向つて乞ひ取りつつ媚態を曲盡してすこしも耻としなかつた。一卒甞て人に謂つて曰く我輩高麗を征せし時婦女をとりこにすること數萬人、而も一人の節を失ふものが無かつた。何ぞ堂々たる中國にして耻なき此に至るや、嗚呼是れ中國の亂るる所以なりと。三卒婦女をひきゐて盡く濕衣を解かしめ、表より裏に至りうなじよりかゝとに至つた。並に製衣の婦人をして修短を相し、寬窄を量り、易ふるに鮮新なるを以てせしめた。而るに諸の婦女卒等の威逼已まざるに因て遂に裸體に至つておほひおほふことが出來ず、羞澁して死せむと欲するものあるは言を待たざる所である。衣を換え畢るや卒等は乃ち諸婦女を擁しつつ酒を飮み肉を食ひ、爲さざる所なくして秋毫も廉耻を顧みないのであつた。忽ち一卒刀を橫へ躍り起ちて疾呼し、後に向て曰く蠻子〈奴僕の意〉來ると、近前〈眼前と同じ〉には數人旣に縛せられて吾が兄も亦その中に與つてゐた。仲兄曰く勢ひ已に此に至る、夫れ復た何をか言はむやと、急に予が手を持て前み、予が弟も亦予に隨ふた。是の時執へられたる男子は共に五十餘人であつた。刀を提げて一呼すれば魂魄皆喪ひ、一人の敢て動く者が無かつた。予は伯兄に隨ひ廳を出でてともの人を殺すの狀を見れば、衆皆次第によつて命を待つてゐた。予が初念も亦就縛を甘じてゐたが、忽にして心動きて神助あるが如きを感じ、身を潜めて一たび遁れて復び後廳に至つたのをば、五十餘人は一人も之を知るものが莫かつた。廳後の宅の西房には尙ほ諸老婦が殘存しゐて、かくれさくすることが出來難いによつて、穿ちて後面に至るに盡く駝馬〈駄馬と同じ〉を牧しつあつて又踰え走ることが可能ない。心愈急にして遂に俯して駝馬の腹下に就き、駝馬の腹下を歷數し匍匐して出た。若し駝馬を驚かして馬稍一たび足を擧ぐれば卽ち身は泥と化せむのみ。又た宅數層を歷たるも皆路なく、唯だ傍にろぢありて後門に通じてゐたのであつたが、而かもその巷門には長鐵釘のとざせるものがあつた。そこで予は復た後巷より前に至り、前堂に人を殺すの聲を聞き愈々惶怖して策なく、左側を回顧すれば厨中に四人の男子が居た、蓋し亦執へられて庖を治むるの人等であつた。予はその中に收め入れられむことを懇求し、ひたきみづくみの役に配し倖に或はまぬかるするあらむことを希ひしに、四人は峻拒して曰く、我等四人は點呼して役せらるる者である。若し再び點檢して增入する所あらば、必ず詐ありと疑はれて禍必ず我等に及ばむと。而も予は哀求して已まざりしかば、乃ち更に大いに怒りて予を執へて外に赴かむとした。予は乃ち出でて心は益々急であつた。視れば階前にたながあり架上にはかめが有つて此屋を去ることが遠くなかつた。乃ち架をとつて上り、手方に甕に及べば身は旣に傾き仆れた。蓋し甕は中虛であつたので、予が力を用ふることが猛烈であつた爲めであつた。仍りて急に趨つて巷門に旁ひ、兩手に錐〈尖端ある鐵〉を捧げてゆるがすたびしたが終に能く動く莫く、擊つに石を以てすれば則ち響が庭に達して覺られむことを恐れたので、已むを得ず復た搖撼を繰返へし、指破れ血流れて錐忽ち動きて錐は已に掌中に在つた。因りて急に門㧀〈門錠〉ひけば㧀は木槿であつて雨に濡ひ膨脹してその堅塞錐に倍してゐた。予迫ること甚しく但だ力めて㧀を取るも之を取り除くことが出來ずして而もとぼそ忽ち折れ、扉傾き垣頽れ聲雷震の如くであつた。予急に身をそびやかして飛び越えたのであつたが、亦力のいづくより來りしかを知らなかつた。疾く後門を趨りて出づれば外は卽ち城脚〈城壁の麓〉であつた。時に兵騎充斥して前進することが不能ず、卽ち喬が宅の左隣の後門から身をして入りしに、凡そ避くべき程の處は皆人があつて必らず容るることを肯んじなかつた。後門より前門に至ることが凡そ五たびであつたが皆是の如くであつた。直に大門に至れば旣に通衢に臨み、兵丁往來して絡繹として絕えなかつた。人は以て危地と爲して之を棄てたのであるが、予は乃ち急に入つて一卓を得たが、而も卓たふれて頂を仰いでゐた。因つて柱に緣つて之に登り身を屈めて之に匿れた。あへぎが方さに定つてから方さに牆を隔てて吾が弟の哀號の聲を聞き、又た刀を擧げてつの聲を聞いたが、約そ三たび擊つて遂にしづまつたのである。されどしばらくあつて復た仲兄の哀懇を聞いた。曰く、吾に金あり、家の穴藏の中に在り、我を放たば取り献ぜむと。一擊して復た寂然と聲が無つた。予時に神已にはなれて心もゆるあぶらの如く眼枯れて淚なく膓結んで斷えんと欲し、復た自ら主たらざる〈魂身に添はずとの意〉の境に在つた。

 たちまち一卒があつて一人の婦人を挾みて直に入つて此榻に宿らむとした。婦きかざりしも之を强ゐて後ちゆるし、而もその婦の曰く、此地市に近く身を居く可からずと。予幾んど免れざらむとした。頃くして卒は仍ほ婦人を挾んで去つた。そのへやには屛の仰げるがあつた。むしろもて之を爲せるに似て人にえないのであつたが、然も之によづれば以てうつはりに及ぶべきであつた。予兩手を以て梁をぢ、なはを行いて上り、足をけたに托すれば、下に席蔽があつて中の暗黑きこと漆の如くであつた。仍ほ兵の至るあつて矛を以て上りさぐつた、是れ空虛にして人其上に在るなきを料りしを知つたのである。予此に於て乎始めて日を竟ふるまで兵に遭はざることを得た。然れどもその下においてきりころされしもの又た幾何人なりしやを知らなかつた。街道に數騎の過ぐる每に必ず數十の男婦があつて、哀號してその後へに隨ふてゐた。此の日あめふらずと雖亦日色無く旦暮を知らなかつた。之を久うして軍騎稍やくまばらにして左右に惟だ人聲の悲泣するを聞いた。思ふに吾が兄弟は已にその半ばをいためた上に、伯兄も亦存亡を卜知することが可能なかつた。予が婦予が子何處に在ることを知らない、之を縱跡して或は一たび見ることを得んと欲し、よつて梁に附きて徐ろに下り、足をはやめて前街に至れば、街中には人の首級相枕藉し、而も天暝くしてその誰たるを辨ずることなく、かばねに俯して遍く呼べど應ずる者が更に無いのであつた。遙に南首〈南面〉を見れば數多の炬火蜂擁して來つたので、予は急に之を避け、郭〈城郭〉ふて走れば、積屍步をさまたげ數ばつまづきて數ば起ちつつ、驚く所ある每に卽ち地にふしのたれじにの如くにして、稍〻久うして小路に達するを得た。路人昏夜に互に相觸れて相驚駭した。大街上火を擧げ〈出火のこと〉照耀宛がら白日の如くで酉の刻から亥の刻に亘りて方さに兄の家に及んだ。而も家門閉ぢたれば敢て遽かにたたかず、俄に婦人の聲せるを聞くに、吾が嫂たることを知つたので、始めて輕く擊ちしに門に應ずるものは予が婦であつた。大兄は旣に先ちて返つてゐて、吾が婦と子とは俱に在つた。予は伯兄と與に哭泣したのであつたが、然も猶ほ未だ仲兄と季弟の殺されたることを吿げなかつた。嫂は之を予に詢ひしも予はぐづして曖昧の返事のみしてゐた。予は婦に何を以て免れしやと詢ひしに婦の曰く、卒の追逐せるに當りて子先づ奔り衆人之に繼ぎて獨り我を遺した。我は彭兒を抱いて屋下に投じたるに死するを得なかつた。我が妹も跌づきて足を傷きて亦臥してゐた。卒我等二人を持して一室に至るに屋中には男婦幾十人のものが皆魚貫〈珠數繫ぎにせられたること〉して縛られてゐた。因て卒は我を諸婦に殘して曰く、之を看守してのがれしむる勿れといひて刀を持して出て行つた。又た一卒入り來つて、吾が妹をおびやかしつつ去つた。久うして卒の至るを見ざりしかば予は遂に諸婦をあざむいて出て往つた。出づれば卽ち洪嫗に遇ひ相携へてもとの處に至つた故に幸に免れ得たのである云々と。洪嫗は仲兄のみよりであつた。婦はまた予に免れし所以を問ひしを以て、予は吿ぐるに故を以てして相哭泣することが良々久しかつた。洪嫗は宿飯〈炊きおきの飯〉を携へて相勸めたるもかなしみむせびて下すことが出來なかつた。外は復た四面火起り勢ひ昨夕よりも猛烈であつた。潜かに戶外に出でしに田中は橫屍いしだゝみに交はりあへぐいきの猶ほ微かに存するものがあつた。遙かに何家の墳中を見れば樹木陰森として哭聲籟を成しつつあつた。或は父の子を呼び或は夫の妻を覓むるのであつた。呱呱の聲は草畔溪間比々皆是れで慘として聞くに忍びなかつた。回て洪が宅に至れば予が婦は死を覓めむと欲したのであつたが、予が終夜與に語つてその間を得なかつたので、東方が白かつた。〈夜があけはなれた〉

 二十七日婦の避難所を問ふた。婦は予を引いてまがりまがりて一柩の後に至つた。そこには古瓦や荒磚が狼藉してゐて久しく人跡を絕つの處であつた。予は亂草中に蹲まりて子を柩上に置き覆ふに蘆席を以てし、婦はかゞみてその前に居り、我は曲りて後に附してゐた。首を揚ぐれば頂露はれ、足を展ぶれば踵見はるるを以て、微かにいきを出しつつ手足をかゞめてひとつゝみとなつてゐた。魂少しく定まると共に殺聲逼り至り、刀環響く處愴呼亂起し、聲を齊うして命を乞ふ者或は數十人或は百餘人。一卒の至るに遇へば南人其多寡を論ぜず皆首を垂れ匍伏し、頸を引いて刄を受け敢て一人の逃るる者とては無いのである。紛々たる子女に至つては百口交々啼いて哀鳴地を動かせることは言ふまでも無いことである。午後に至り積屍山の如く殺掠更に甚しいものがあつた。幸ひに晚に至つて予等逡巡しつつ走り出た。彭兒は柩上に酣臥しつつ朝より暮に至て啼かず言はず、亦食をも欲しない、唯だ渴する時飮を欲せば瓦片を取つて溝水を掬して口を潤せば乃ち睡り去るのであつた。仍て呼び醒まし、之を抱いて與に去つた。そこへ洪嫗も亦至つて玆に始めて吾が嫂も亦劫掠し去られたるを知つた。吾が姪〈卽ち嫂の女子〉は襁褓に在つたが竟にその所在を失ふた、嗚呼々々痛ましい哉。はじめの二日に兄嫂弟姪の四人を一齊に喪ふたのであつた。相與に臼中の餘米を覓めたるに得ることが出來なかつた。遂に伯兄と股を枕とし飢を忍んで旦に達した。是の夜予が婦又もや死を覓めて幾んど斃れたるを洪嫗に賴りて僅かに救免せられたのであつた。

 廿八日予は伯兄に謂て曰く、今日は誰の死するやを知らないのであるが、吾が兄にして幸につゝがなくむば、乞ふ彭兒と與に殘喘を保たれよと。兄は爲めに淚を垂れて慰藉是れ勉めつつあつたが、遂に袂を分ちて他處に逃れたのである。洪嫗予が婦に謂て曰く、我昨日柜中〈溝渠の中〉に匿れ終日やすらかであつた、當さに子とかはるべく子は此に避けられよと。婦は堅く欲しなかつた。仍ほ昨日の如く柩の後に匿れたのであつた。未だ幾くならざるに數賊入りて柩を破つて嫗を劫かし去り、捶擊百端したのであつたが、卒に一人をも供出しなかつた〈他人の所在を白狀せぬこと〉ので、予は頗る之を德とした。しばらくあつて兵の來ること益々多くして、予が避くる所に及べるもの前後踵を接したのであつた。然れどもその或るものは一たび屋後に至つて柩を望みて去つたのである。忽然十數の卒あつて哃喝しつつ來つたのであつたが、その勢ひ甚だけはしく俄に一人の柩前に至つて長竿を以て予が足をさらふを見た。予驚いて立ち出づれば乃ち揚州人の彼等の爲に嚮導せるもので、予はその面を熟知せるもその姓名を忘却せる者であつた。予は之に向ひて憐みを乞ふたところ、彼は且つ金を索めた。献ずるに金を以てして始めて予を釋したのであつたが、尙便宜爾ぢの婦をも出せといつたが、その頭だちし者が出でて諸卒に語つて曰く姑く之をけと。ここに於て乎諸卒は散じ去つた。驚きのあへぎが未だ定まらない中に忽ち一紅衣の少年が長刄を操つて直に予が傍に抵り鋒を擧げて相ひ向ふた、献ずるに又金を以てしたのであつたが、彼れは復た更に予が婦を索めた。婦時に姙娠方に九月であつて、地に死伏して起たなかつた。予紿いて曰く婦は臨月に近く、加ふるに昨屋に上りて跌き落ち、孕之が爲に壞れて萬々生くる能はないので安んぞ起來することが出來やうぞと、紅衣者之を信じない。因て腹を啓いて之をしめし、兼て驗するに先に塗りたる血の袴を以てしたりければ遂に顧みずして去つた。之にとらへられしもの一少婦、一幼兒、一小兒であつたが小兒は母を呼んで食を索めたるに、卒怒つて一擊しければ腦碎けて立ろに死んだ。仍て少婦と幼女との二人を拉し來つた。

 予謂へらく此地の人逕は已に熟し〈人皆此路を熟知せるの意〉て身を存することが不可能であるゆへ當さに善地を易へて之に處るべしと。而も婦は堅く自盡せむと欲するので、予も亦惶迫して自から主たることなく、〈心常軌を逸せるの意〉兩人共に遂に出でて並びに梁に縊れたのであつたが、忽ちうなじのしたの兩繩一時に斷ちて俱に共に地に跌き倒れたのであつた。而も足未だ起つに及ばずして而も兵又た門に盈ち々々し、直ちに堂上に趨り未だ兩廊を過ぐるに暇あらざるに予と婦は急ぎ奔りて門外に逃れ、一草房中に遁れしに、房中は悉く村間の婦女であつて、予が婦のみを留めて予を郤けたのである。予は急いで南首の草房中に奔つた。その草堆積して屋に連つてゐた。〈屋根裏に届いていたとの意〉予はその巓に登り首を俯して伏し匿れ復た亂草を以て其の上に置いた。自ら以爲らく患ひなしと。須臾に一卒が有つて一躍して上り來り、長矛を以てその下を搠つたので、予は草間より出でて命を乞ひ、復た献ずるに金を以てした。卒草中を搜りて更に數人を得たのであつたが、皆献ずる處があつて免れた。兵旣に去て數人亦草間に潜入した。予はその中を窺ひたるに方卓數張あつて外圍は皆草でその內廓然として虛しく、二三十人を容るべきであつた。予强いてその內に這入つて自ら計を得たりとおもふた。意はざりき敗垣半腰より忽ちくづれ、一穴の中外洞然として已に兵の爲に窺ひ見る所とならむとは、兵は乃ち穴外より長矛を以て直に刺したので、其の前に當るものは大創を被らざる無く、予が股も亦傷ついた。而も前なる者は悉く倒れけて出た。予は復た婦の所に至るに、婦は衆婦と一緖に皆積薪の間に伏し、血を以て體に塗り、糞を以て髮を綴り、すゝを以て面にり、形宛がらきよく〈蜮魊に通ず鬼と同じ〉の如くにして鑒別するに只だ聲を以てするのみであつた。予は衆婦に乞ひて草底に入ることを得て衆婦は相擁してその上に伏した。予は氣を閉ぢて敢て動かず幾んど悶絕せむとするとき、婦は竹筒を以て予が口に授け、その口を啣みてその端を上に出さしめ、氣正に達して僅かに死せざるを得た。戶外には一卒がゐて一時に二人を手殺した。而かもその事が甚だ怪しく筆も能く載することが出來ないのである。草中の諸婦戰慄せざるはなかつた。忽ち哀聲大いに擧れば兵已に室に入り復た大步して出で去つて、めぐりかへりみることをしなかつた。天漸くれたれば諸婦予を起して始めて出でしめたのであつたが、草中に流汗雨の如くであつた。夕に至りて復た婦と共に予が宅に歸つたのであつたが、洪老洪嫗共に內にゐた。伯兄も亦來りて云ふやう、是の日劫かされて負擔し去られ、つぐなふに千錢を以てしたるに、乃ち令旗〈保護の命令旗〉を附して放置せられたが、途中亂屍山疊し血流れて渠をなせりと。又た聞く滿將王爺なる者照陽の李の宅に居り、錢數萬を以て日に難民に給しつつあつて、其の黨の人を殺すを往々勸阻〈勸吿して阻止すること〉して全活する所多かりしと。是の夜悲咽の餘昏々として睡り去つた。次日は則ち二十九日である。

 廿五日から此日に至つて旣に五日である。私かに或は薄赦〈兵禍の薄らぐこと〉せらるべきをねがひしに、又た紛々として洗城〈洗ふが如く城中の住民を索めて餘蘖なからしむるの意〉の說を傳へたので、城中の殘喘〈生殘者〉死を冐し城にすがりて逃れ去る者大半であつた。舊と有し官溝は壅塞して流を通ずること能はざりしが、是に至つて坦途の如きであつた。〈逃竄者充滿せるの意〉然れども亦此を以て反つて其の鋒に罹るの慘を見た。城外に亡命せる者城中に在りしを利とし、伴を結びて夜る官溝に入つてかゞみかゞみてその金銀〈鋒鏑に罹りし者の衣帶につけたる金銀の謂ひ〉さぐれるを敢て誰何するの人も無かつた。予等念ふに險を踰えて逃るることも出來ず、伯兄も亦予の爲に獨り去るに忍びなかつたのであつたが、延いて平旦に至つてその念〈城外に逃避の念〉遂に止んだ。而も原との避難所は留まる可からざるを知り、予が婦も孕むの故を以て屢々全きを獲たるを以て、遂に獨り予を以て池畔の深草中に匿し、婦は彭兒と其の上をつゝみ臥した。數卒の至るあつて爲に劫出されしもの再び、皆少しく賂を献じて去らしめた。繼いで一狠卒〈很戾なる兵卒〉が來た、鼠頭鷹眼的其狀貌が頗る兇惡らしかつた。彼れは予が婦を劫かし去らむと欲した。婦ははらばひして前語を以て之に吿げしに〈前の兵卒に言つた通りの口實〉聽かないで、逼つて起立せしめむとしたが、婦はぢべたふしまろびつつ死すとも肯て起たなかつた。卒刀を擧げて亂打し、流血衣裳に濺いで表裏漬透〈浸透と同じ〉した。是より先婦は予を戒めて曰く、倘し不幸に遇はば吾必ず死せむ、幸に夫婦の故を以て哀を乞ひ併せて子を累はす勿れと。故に予は知らざる眞似してゐた。予亦謂へらく婦は將に死せむとすと、而も惡卒は仍ほ之を捨てず婦が髮をもつて臂に周らすこと數匝にして橫さまにひいて去りつつ怒打毒打し、田陌より深巷に至ること一箭多地、〈約四五十步の地〉めぐりて大街に出で、行くこと數步每に必ず擊つこと數數下つた。突如數騎の過ぐるに遇ひたるに其の中の一人該卒と滿語〈滿州語の應對〉すること數句、遂に予が婦を捨て去つたので、婦は始めて匍匐して返へるを得た。大哭一番その身に完膚が無かつた。忽ち又た烈火四もに起つた。何家墳の前後には草葺の家が多いのでたちどころに灰燼と化した。然もその寸壤の𨻶地があつて一二隱れて網を漏れたものは火の爲めに一たび逼まられ、奔竄して自ら出でざるは莫く、出づれば則ち害せられて百に一も免るる者が莫つた。然も亦戶を閉ぢて焚死せる者が數口から百口に至り、一室の中正に積骨の多少を辨じない程であつた。大約此際避くべきの所がなく、亦避くることが出來ず、縱令ひ避くとも敵一たび之を犯さば金なければ死し、金ある者も亦死するのであつた。惟だ路傍に露出して屍骸と雜處せば、生死反つて未だ知る可からずである。〈生くるの望あるの意〉予は婦並に子と塚後に往きて臥してゐたが、銘々首にはどろぬり足にはつちぬりて、殆んど人の形ち無きに至つた。時に火勢愈熾んにして、墓地の喬木を燒き、光りいなづまの如く、聲山崩の如く、風勢怒號、赤日慘澹として之が爲に光り無く、目前に無數の夜叉鬼が千百の地獄の人を驅り殺すを見るが如く、驚悸の餘り時々うととなつた。蓋し旣に此身の已に人世の間に在るを知らざるの有樣であつた。驟かに足聲の響きと慘呼の心に震ふを聞き首を回して牆畔を看れば則ち伯兄獲へられて正さに一卒と相持してゐたのであつたが、兄は力めて大いにはらふて脫するを得た。卒遂にせ去つた。此卒は卽ち前日吾が婦を劫かして復た捨てた者であつた。彼は凡そはんときばかり至ら莫つたのであつたが予が心は搖々たりであつた。伯兄忽ち走り來つた、赤身被髮卒の爲に逼られ已むことを得ずして予に向ひ金を索めて命を救はむとした。予は僅にその一錠を存するのみであつたが、出して以て卒に献じた。而も卒の怒ること甚しく、刀を擧げて兄を擊ちしかば、兄は地上に輾轉して流血滿身であつた。時に彭兒卒をとらへ、涕泣して免さんことを求めた。〈時に年五歲〉卒兒が衣を以て刀の血を拭ひ、再び擊ちて兄は將に死せむとした。旋いで予が髮を拉して金を索め、刀背もて亂打して已まなかつた。予は金の盡きたるを訴へて曰く、必しも金を欲せば卽ち甘じて死せむのみ、他物ならば可なりと。卒予が髪を牽きて洪が宅に至つた。予が婦の衣物の兩かめの中に置きたるを階下に倒し覆へし、盡く發いてその取るに供した。凡そ金珠の類は要めざるなく、而も衣服は好きを擇んで取つた。兒が項にぎんくさりあるを見て忽ち刀を將て割いて取り去つた。去る時予を顧みて曰く、吾儞を殺さざるも、自ら人ありて儞を殺さむと。予は後に前なる洗城の說の旣に確實なるを知つて必死を覺悟したのであつた。因て兒を宅に置き婦と共に急に出でて兄を看たるに前後の頂皆傷を被むること深さ八寸許り、胸前は更に烈しかつた。予兩人之を扶けて洪が宅に至りて之を問へば、亦痛楚の身に在るを知らないで、忽ちくらく忽ちよみがへつたのである。安置し畢りて予等夫婦は復た墳處に至りてかくれ避けたのであつた。隣人も亦俱に亂叢の中に臥した。忽ち人語を作すものがあつて曰く、明日城を洗はば必殺一盡〈城中のものを殘りなく屠るの意〉せむ、當さに汝の婦を棄てて我とともに走るべしと。婦も亦余に行かむことを勸めた。余は伯兄の危きに垂んとするを念へば豈捨て去るに忍びんや。又前に恃みし所は猶ほ餘金ありしを以てである。料るに萬々生くる能はじと、一たび痛んで氣絕しやゝ久うしてよみがへつた。火も亦漸く滅し遙かに礟聲を聞くことが三たびであつた、往來するの兵丁も漸く少れであつた。予が婦は兒を抱きてくそつぼの中に坐し、洪嫗も亦集つて相依つてゐた。數卒が有つて四五人の婦人を擄へてゐたが、その老いたるもの二人は悲泣し、少きもの二人は嬉笑すること自若であつた。後に二卒がありて追ひ來つて婦を奪はむとして相奮擊した。內の一卒滿語を以て之を勸解したれば、忽ち一卒少婦をもつて負ふて樹下に至つて野合し、餘の二婦も亦汚辱を被つたのであつた。老婦は哭泣して免れむことを求めたが、他の三少婦は毫も恥としなかつた。十數人互に奸淫を爲して後ち追ひ來りし二卒にわたしたのであつた。而して其の中の一少婦は旣に起ち走ることが出來なかつた。予は認めて焦氏のよめたることを知つた。其の家の平日爲す所は應さに此に至れるなるべしと〈因果應報の意〉驚駭の下また歎息に勝へなかつた。

 忽ち一人の紅衣佩劒し、滿帽にしてくろくつなる者を見た。年は三十に及ばず姿容俊爽にして、黃衣背甲して貌亦魁梧たる一人の卒を隨從せしめてゐて、その後に揚州人が四五人之に跟隨してゐた。紅衣の人予を熟視して曰く、爾を視るに他の儕輩中の如きでない、何等の人なる乎を實言せよ、予念ふに時に窮措大を以て免るるを獲たる者があり、措大を以て立ろに斃るる者が有るを以て敢て實を吐かず、ことばを飾りて以て吿げた。復た諸婦子を指してその誰なる乎を問ふたので、吿ぐるに實を以てした。紅衣の人曰く、明日王爺〈統帥の皇族〉命を下して刀を封ぜん、〈殺掠を禁ずるの意〉汝等生くることを得むと。隨人に命じて衣裳幾件及び金一錠を交付せしめ、且つ問ふて曰く、汝等幾日食はざりしと。予答ふるに五日を以てした。命ずらく我について來れと、予は婦と且つ信じ且つ疑ひ而も敢て行かない譯にいかなかつた。一宅に至れば蓄ふる所甚だ豐富であつて魚米充盈してゐた。一婦人に向ふて曰く、ニーハオ的此の四人を待遇せよと、予と別れ去つた。時に日旣に暮れた。予が內弟〈妻の弟〉卒の爲に劫め去られその存亡を知ることが出來ないで婦は特に之をいたんでゐた。しばらくあつて老嫗魚飯を搬出して予等に食はしめた。該宅は洪の居と遠くないので、予はその魚飯を取て予が兄に食はしめたのであつたが、兄の喉は最早のむことが出來ずして、數箸にして止んだ。予は兄の爲に髮を拭き血を洗ひつつ、心は刀もて割くが如くであつた。〈悲痛の極をいふ〉而も是の日刀を封ずるの語を聞き衆心稍々定まつた。明日は五月朔日であつた。勢ひ甚だ烈しからずと雖、然れども、未だ甞て殺掠を行はざる莫かつた。同時に富豪大室は方さに且つ搜括して餘すなく、子女十餘歲より起つて搶掠殆んど遺類なかつた。是の日興平伯復た揚城に入り來つたのであつたが而かも寸絲粒米も虎口に入り盡して、蕭條たる殘破は伯を奉迎し難いのであつた。

 初二日傳ふらく、府、道、州、縣には已に官吏を置き安民牌を執つて遍く百姓を諭して驚懼する毋らしめ、又寺院の僧人を諭して積屍を焚化〈火葬に附すること〉せしめた。而かも寺院中に藏匿せる婦女も亦少からずであつた。焚屍を査して簿に載せし數は總て八十餘萬であつた。其の井に落ち川に投じ、門を閉ぢて焚け、及び縊れたる者は之に與らないのであつた。とらへられたものも亦同じく之れに與らないのである。

 初三日は示を出して放賑〈施米のこと〉を行つた。予は洪嫗と偕に缺口關に至つて米をもらつた、米は卽ち督鎭〈乃史可法〉儲ふる所の軍糧であつて、邱陵の如くに積み重ねた數千擔の米が片時の間に蕩然として空しくなつた。往返の負戴者俱に焦頭爛額臂脛傷折して刀痕滿面なる、宛然燭淚のつらを成せるが如くであつた。米をるの際は親友と雖相顧みずして强者は去つて復た來り、老弱と重傷を被むる者とは日を終るも一升の米粒をだに之を得ることが出來なかつた。

 初四日天晴れ烈日蒸燻して屍氣人をふすべた。前後左右處々燒焚、煙は結んで霧の如く腥氣數十里にきこえた。是の日予は棉と人骨とを燒いて灰と成し以て兄のきずを療せむとした。兄淚を垂れて之を頷いたのみで聲を出すことが不可能であつた。

 初五日幽僻の地に避難の城民が稍々歸來し、相逢ふて各唯淚下りて一語を出すものが莫つた。予等五人は稍々甦するを得たるも、終に居宅の內に居るを敢てせず、晨起早食して卽ち出でて野畔に處り、其の粧飾は一に前日の如くであつた。蓋し往來の打糧者草賊數十輩を下らないで、戈を操らないまでも、各々杖槌もて恐嚇して人の財物をとれば、每日杖下に斃るる者があり、その一たび婦女に遇ふや、仍ほ肆ままに擄へ劫かし、殆んどそれ淸兵なるか、鎭兵なるか、亂民なるかを知らないのであつた。是の日伯兄は傷重く刀瘡迸裂した爲めに遂に死した。傷ましい哉、痛み言ふ可からずである。憶ふに予や初め難を被むりし時は兄弟嫂姪姉子の親共に八人であつたが、今僅にその三人を存するのみであつた。而も內弟外姨は此の數にいらないのである。四月廿五日に起り五月五日に止まつたのであるが、其の間皆身自から歷たる所、目親しく睹たる所であつて、故に之を漫記すること此の如しである。而も亦遠處の風聞は毫も之に載せないのである。後の人幸に太平の世に生れ、無事の樂を享ける、自らすこしの暴殄〈からきめに遇ふこと〉を修省經驗しないものにして之を閱せば當さに警め惕るべき耳。

〔註一〕史可法 揚州十日記を讀まむと欲する者は、豫め本篇の主人公とも謂つ可き揚州當時の守將史可法の人と爲りを知悉するの要がある。史可法字は憲之、大興藉祥府の人。崇禎元年の進士、推官(節度觀察兩使の僚屬)より身を起し、明の毅宗の朝累遷して兵部尙書大學士と爲つた。李自成京師を陷れ福王由崧位に卽くに及び、可法を召して高弘圖等と共に閣に入つて事を辨ぜしめた。已にして自から請ふて師を揚州に督し以て淸の師の南下を扼した。淸の攝政多爾袞書を可法に致して禍福を陳べた。可法之に答へて曰く逆賊李自成未だ天誅に伏せず、土を西秦陝西地方に捲き方さに報復を圖る。之れ獨り本朝の不俱戴天の仇のみならず、抑も貴國も亦惡を除いて未だ盡さざるの憂あり、願くは同仇の誼を固くし共に逆賊自成の頭を梟せむと。

乙酉(弘光元年)四月淸兵掩至して揚州城を圍み明の降將李遇春淸の宗室豫王の檄を持して城下に至て可法を招致せしめた。可法ひめがきに登て大いに之を罵つた。遇春曰く公の忠義は中華の齊しく識る所、而かも朝に信ぜられずば死するも益なからむ、宜しく節を淸朝に屈して名を成すに如かずと、可法怒て矢を發して之を射たが遇春走り免れた。

須臾にして豫王復た土民をして書を持し濠に入つて守者を呼んで入り見えむことを求めしめた。可法健卒を繩梯子で下ろしてその書を併せて使者を水に投ぜしめた。豫王愈々可法を生致せむと欲し諸軍を戒めて城に近づいて攻むる莫らしめ、復た人を遣はし書を持して至らしめたのであつたが、可法は之を啓かずして焚いた。是に於て乎豫王可法の終に屈す可からざるを知つて軍を麾いて急に攻めしめ、七日にして城遂に陷つた。是より先可法は預め死を期し書を作つて母と妻とに寄せて亡後のことを遺言し、また子が無いので當時の副將史德威(或は曰く莊子固)を彼れの後繼たらしめ、且曰く吾れ死せば高皇帝の陵側に葬れと。更に又威德に囑して曰く城陷れば吾が首を斬れと。威德纔かに之を諾した。已にして城の一隅火起り淸の士卒殺到したので可法頸を引いて威德に向ふたけれども、威德は介錯するに忍びなかつた。可法乃ち刀を拔いて自刎した。威德參將許謹と共に之を抱持し敵兵を避けた。流血淋漓として氣息未だ絕えなかつた。威德等之を擁して城を出でて小東門に及んで大兵に遇ふて威德及び許謹等は皆討死した。可法大兵に語つて曰く我は史閣部である。宜しく汝等が兵主に見えしむべしと、因て遂に豫王に見えた。豫王可法の爲に丁寧に瘡を裹ましめ之を勞ひて曰く、先生の忠義旣に成る、請ふ我が爲に江南を收拾せよと。可法曰く我れ此に來る、秖だ一死を索むる耳。王曰く君夫の洪承疇を見ず乎、降れば則ち富貴と。可法笑ふて曰く爾が國の承疇を待つ豈能く我が先帝に過んや、彼れ先帝の厚恩を受けて死せず、其の爾が國に不忠なるや明けし、我れ詎ぞ肯て其の爲す所に效はむやと。豫王その將宜爾頓なる者に命じて之をその營中に伴はしめて勸說すること三日、可法竟に從はないで豫王は淚を揮ふて之を斬らしめたのである。

可法は生れながらにして他の群童に異る所があつた。その母方さに娠み文天祥其の室に入ると夢みて生れたといふ傳說がある。幼時より親に事へて至孝、その門閭に旌表せられたことがあつた。可法が來つて揚州の督鎭たること幾んど一年、行くに蓋を張らず、食に味を重ねず、夏は箑(扇)せず、冬は裘せず、小冠窄衣にして部卒と雜處して平然としてゐた。年四十を過ぎて子が無かつた。その妻爲めに妾を置かむと欲した。可法曰く王事方さに殷んであるゆゑ敢て兒女の私に戀々たるべきの時でないと言つて之を劫けたので竟に一生子を有たなかつた。

軍中で或る時除夜にあたつたので當さに封印すべかりしに、南北の文檄交々至つたので手づから批答して辰より酉に至つた。その上に又將士に來月分の糧銀を分給し、夜三更に至つて事務尙畢らないで軍吏に謂つて曰く。今夕は除夜であるゆゑ少量の酒を索めて飮みたいものだと、酒未だ至らざるに復た軍吏を呼びて之に謂つて曰く。禮賢館の諸秀才と共飮すべき筈であるが、夜が更けて却て迷惑かも知れないので、宜しく酒資を齎らして之を分餽すべしと、軍吏命を領して已に往つた後で彼れは酒を命じて獨酌したのであつたが、庖人が黍肉は已に士を饗し盡して餘す所なき由を聽いて只だ少量のしほまめを索めて酒を佐けた。可法は素と善く飲み斗酒尙辭せざるの慨があつたが、愈飮て愈恭しく所謂る酒に亂れざるの人であつた。然も軍に至るより飮を絕つてあつたが此の夜は滿酌數十杯にして先帝を思ふて淚泫然として下つた。彼はまた衣を解いて寢に就かないことが已に七箇月であつたが、事珍らしくも當夜は微醺の餘頗るくつろいでつくえに隱れて臥した。將にあしたならむとした時に將士並に有司等皆軍門の外に集まりたるに門未だ啓かずして之を怪むものの如きであつた。知府任民育曰く、相公此の夕また得易からず、之を驚かす勿れと、且つ皷人を戒めて更に四皷を擊たしめた。須臾にして可法は眠りから覺むれば天已に明けてゐた。大いに驚き且つ怒つて曰く、誰か敢て我が軍法を破る者ぞ、縛し來つて速かに之を斬るべしと。諸將士跪いて彼を拜して曰く、相公久しく軍中に勞苦し始めて一夕の暇を得たので相驚かすに忍びず、故に皷聲を亂して以て待つ、此れ知府任君の意なりと。可法意始めて解けて曰く、奈何ぞ私愛を以て公法を變ぜむやと、乃ち急に盥嗽して門を啓きて文武臣と偕に北向遙賀し、將士皆賀詞を陳じた、而して任知府は更に前んで罪を請ふた。そこで始めて皷人を赦したが爾來可法は復た几に隱れて臥すことが一回もなかつた。

可法の執へられ屈せずして死するや、揚州の士民文天祥の再來を以て彼を追慕崇拜し、その遺す所の袍笏を郡城の梅花嶺に瘞め廟を建てて之を奉祀し且つ忠靖と謚した。淸の乾隆帝更に忠正公と追謚した。

可法詩文に巧みに兼て草書を善くした。彼の眞筆は今尙一字優に千金に値してゐる。彼の著に史忠正公集がある。

〔註二〕高傑(興平伯) 高傑は米脂の人、初め李自成部下の流賊であつた。賊中彼をあだなして翻山鷂といふてゐた。蓋しその鷙悍はやぶさの如であつたからである。終に自成の妻刑氏と通じ後ち刑氏を竊んで明に降り戰功を積みて官總兵に至つた。李自成京師を陷るるに及び傑南に走り福王に投じ興平伯に封ぜられた。福王淸兵の南下を防禦すべく鎭を淮上に設くるや、諸將皆揚州を得むと欲し傑先づ該地に嚮ふた。然るに揚州の民傑が淫毒を畏れてその城に入るを拒んだ。督鎭史可法議して瓜州を以て傑に與へて之に居らしめた。

已にして淸兵大擧して海に入り宿遷を破つた。督鎭可法諸鎭に檄して兵を出して之に備えしめた。高傑首として命を奉じて泗水を渡りその部將王之綱をして前驅せしめて睢陽城に薄つて、河南の總兵許定國と城を爭ふた。定國僞つて好みを高傑に納れ傑を城に誘ふて置酒し伏兵を置いて之を殺しその首を持つて淸に降つた。誥旦高傑の兵士城に入り之綱等大いに掠めて幾んど餘す所がなかつた。而も事倉卒に屬し睢陽の兵頗る歸趨に迷つたのであつたが、史可法は變を聞いて馳せて徐州に至つて綏撫に努めた。又高傑の參將李本身を用ひて都督と爲さむことを請ふて福王の允す所となつた。高傑は晚年史可法の爲めに大義名分を說かれて大いに感悟する所があつた。

〔註三〕黃得功(靖南侯) 號は虎山、合肥の人。本姓は王。崇禎中流賊を平ぐるの功を以て靖南伯に封ぜられ、福王の時更に侯に進む。淸兵の南下を拒ぐべく廬州を守り高傑劉良佐劉澤淸と共に江北を分鎭し、當時之を四鎭と稱した。會々高傑と𨻶があつて兵を構へたが史可法の調停に依つて事なきを得た。後ち移つて太平の督鎭たるの日淸兵來り攻め、得功は倉卒の間流矢に中り、事の爲すべからざるを知つてその箭を拔いて喉を刺して自殺した。得功は天資粗猛で文義を辨じない人であつたが、その行軍には軍規頗る嚴肅で秋毫の犯す所がなかつたので、その到る所民衆の爲めに感佩せられた。


揚州十日記

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