懲戒裁判と官吏免職 (1888年)
本文(現代表記)
問
ドイツ各国にては懲戒裁判を設て官吏の過失を審判し、罪状の証あるを待ちて始めて免職及その他の懲罰を科す。英国においては懲戒裁判の設ありや。またその設なきときは官吏職務上の過失は何等の方法をもってこれを統治するや。官吏の免職は長官の随意に任じ、他に要件あることなきか。またある官吏には免職の為めに要件を設て他の官吏には長官の随意に任ずるか。
官吏の免職並に官吏に対する救正
右の点につき余に下附せられたる問題に答うるに当て、余が先に「大臣民事上の責任」を草するに際し陳述したる所を再三するを避くべし。かの答案において断言したる主義は、英国官吏の上下を論ぜず均しく適用する所なり。
その主義とは何ぞや。これを略言すれば左の如し。その行政官たるとき、即ち帯官者一定の職務を行うの任あるものに対して、その職務を破りたるが為めに損害を被りたる者は、これを普通の法廷に訴うるを得べし。
然れども、その官裁判官たるとき、すなわち帯官者その才能と判断力とを盡してもってその職務を行うの任あるときは、その職務は純を正直に動作するをもって足れりとし、その悪意あるを証明するにあらざれば訴訟を提出することを得ず。 右に述べたるものの外、条例をもって新官を設け、その職務章程を定むるに当てはその条規に反するものに罰金を課することあり。この罰金はあるいは被害者に与へ、あいいはこれを国王に与へ、あるいはこれを告訴人に与へ、あるいはこれを国王と告訴人とに折半す。後三者においてはその職務を犯したるにより実際損害の蒙りたる者は、なお要償の件を失わざるものとす。
尾に一言せん。官吏はその官等の如何を論ぜず、全て国の刑事裁判所の法権に服せざるものとす。然れどもこの問題は「官吏の過失」なる広漠たる問題に属するなり。
陸海軍のために設たる軍法裁判所を除き、英国には未だかつて懲戒裁判所なるものあるを聞かず。バリスター及ソリシターは各々懲戒裁判(前者はその法院の判事、後者は高等裁判所)に属すれども、両者は真の官吏と称すべきものにあらざるなり。(ソリシターは高等裁判所の官吏と見做さるるといえども)
また一種の官吏あり、年々その任命を受け、その職務に堪うるの間は毎年再任あるものとす。
(判事が)国会議員選挙権を有する者の目録を校正せんがために任命するバリスターのごとき、これなり。これらにして再任を得ざるの例、甚だ稀なり。けだし、その再任を得ざるものは過激なる政論を吐露することその原因をなすがごとし。この他の場合においては、在官者に説論し再任を請はざらしむるもののごとし。 判事は、国王の勅命を受けてその官に就く、その制行良善なるの間その職に在るものとす。ただし、国会両院の国王に対し請求するを待て、これを免職するを得。
これを要するに、英国の文官は皆国王の吏員にして国王の意に称う(かなう)の間その官を有す。国王はまた、その不良の故をもってこれを免職するを得。この免職権は最高の官より最下の官に至るまでこれを行うことを得。ただし、他の大権と同じく、責任宰相の勧告あるにあらざればこれを行うことなし。けだし、免職するにはその理由を示すを要せず。然れども、その疑わしきものあるときは国会において質問を受ること、他の大権に異ならず。現今檀に官吏を免職するがごときは極めて稀にして、犯考のためにこれを免職するがごときもまた、屢々有ることにあらず。
然れども、この問題に関してはなお、進で論ずべきものあり。すなわち「懲戒裁判を設くるの可否」の問題、これなり。余は未だかつてその効用を実験したることなきをもって、単に余の所見をもってこれに答うべし。夫れ英国の制はすこぶる称賛すべく、また調和的に連動せり。文官各々その業に励み、その名誉を重じ、その長官(永久のものと国会より来るものを論ぜず)に服し、国王に忠なり。しかのみならず官吏にして罪を犯すもの、はなはだ少く、しかして、その免職せるべからざるに至てこれを免職するが故に、与論は概ねその処罰に異論を措くことなし。予以なく、たとい懲戒裁判を設くるもこれに勝るの結果を生ずる能わざらん。
懲戒裁判に関して、さらに論ずべきものあり。
懲戒裁判官は、いかなる法律を適用するや、もし普通の法律ならんには、普通の裁判所をもって足れりとす。 もし普通法にあらずとせば、これがために特に法律を設けざるべからず。これまた実に困難の業にして新に「官吏犯罪律」なるものを設くるものなり。これを設くればまた精確なる定解を下さざるべからず。これまた実に非常に難事とす。老練なる刑事はもって免職すべしとするの罪を犯すものあるも、その犯罪人を如何ともすべからざるものあらん。この如きの法典においては道徳を解釈するの必要あるべく、また単に嫌疑のみをもって免職することあるを公告するの必要あるに至るべし。前者をなすは甚だ困難にして、後者をなさば正当の攻撃を被らん。然れども、不道徳または嫌疑のみをもって免職することあらば、与論のこれに一致するや疑を容れざる所なり。
次に裁判官を論ぜん。今これを設くれば、ために莫大の費用を擁するのみならず、適当なる判事を得るに困らん。けだし、この判事は行政の事務に熟達したるの士たるを要す。この如き人物は、他にこれを求めんとするも得べからず。 ここに才能に乏しきか、または長官の命を用いざるの例あらん。これを裁判するは、長官より良きはなかるべし。しかして、これに関する長官の観告は、専ら証拠のために法廷に陳述したるものに比すれば、その軽重、果して如何。かつ、長官をしてその説を陳述せしむるは、単にその意見を乞うに過ぎざるべく、またいかなる原因よりしてこの意見を来すに至りしや、他人をしてこれを知らしむるは、はなはだ難しとす。殊に、判事のごときはただ事実を権衡するの責あるものなれば、到底これを了解すること能わざるべし。果してこのごとくんば予は疑う、この裁判官は実際、長官とその所属官吏との間に、教戒と調和とを来し得べや否やを。
この問題の全局は「免職の理由はこれを制定するを要するや否や」の一に帰す。この点に付き、グレイ卿の説(載セテトツド第635頁にあり)は、はなはだ珍重すべきものなり。卿は、その否を断言せられたり。
1888年5月
(林田亀太郎訳)
本文
問
獨逸各國ニテハ懲戒裁判ヲ設テ官吏ノ過失ヲ審判シ、罪狀ノ證アルヲ待チテ始メテ免職及其他ノ懲罰ヲ科ス。英國ニ於テハ懲戒裁判ノ設アリヤ。又其ノ設ナキトキハ官吏職務上ノ過失ハ何等ノ方法ヲ以テ之ヲ統治スルヤ。官吏ノ免職ハ長官ノ隨意ニ任ジ、他ニ要件アルコトナキ乎。又或ル官吏ニハ免職ノ爲メニ要件ヲ設テ他ノ官吏ニハ長官ノ隨意ニ任ズル乎。
官吏ノ免職竝ニ官吏ニ對スル救正
右ノ點ニ就キ餘ニ下附セラレタル問題ニ答フルニ當テ、餘ガ曩ニ「大臣民事上ノ責任」ヲ草スルニ際シ陳述シタル所ヲ再三スルヲ避クベシ。彼ノ答案ニ於テ斷言シタル主義ハ英國官吏ノ上下ヲ論ゼズ、均シク適用スル所ナリ。其主義トハ何ゾヤ。之ヲ畧言スレバ左ノ如シ。其行政官タルトキ、卽チ帶官者一定ノ職務ヲ行フノ任アルモノニ對シテ、其職務ヲ破リタルガ爲メニ損害ヲ被リタル者ハ、之ヲ普通ノ法廷ニ訴フルヲ得ベシ。然レドモ其官裁判官タルトキ、卽チ帶官者其才能ト判斷力トヲ盡シテ以テ其職務ヲ行ウノ任アルトキハ、其職務ハ純ヲ正直ニ動作スルヲ以テ足レリトシ、其惡意アルヲ證明スルニアラザレバ訴訟ヲ提出スルコトヲ得ズ。右ニ述ベタルモノノ外條例ヲ以テ新官ヲ設ケ、其職務章程ヲ定ムルニ當テハ其條規ニ反スルモノニ罰金ヲ課スルコトアリ。此罰金ハ或ハ被害者ニ與ヘ、或イハ之ヲ國王ニ與ヘ、或イハ之ヲ告訴人ニ與ヘ、或イハ之ヲ國王ト告訴人トニ折半ス。後三者ニ於テハ其職務ヲ犯シタルニヨリ實際損害ノ蒙リタル者ハ仍要償ノ件ヲ失ハザルモノトス。
尾ニ一言セン。官吏ハ其官等ノ如何ヲ論ゼズ、全テ國ノ刑事裁判所ノ法權ニ服セザルモノトス。然レドモ此問題ハ「官吏ノ過失」ナル廣漠タル問題ニ屬スルナリ。
陸海軍ノ爲メニ設タル軍法裁判所ヲ除キ、英國ニハ未ダ曾テ懲戒裁判所ナルモノアルヲ聞カズ。「バリストル」及「ソリシトル」ハ各々懲戒裁判(前者ハ其法院ノ判事、後者ハ高等裁判所)ニ屬スレドモ、兩者ハ眞ノ官吏ト稱スベキモノニアラザルナリ。(「ソリシトル」ハ高等裁判所ノ官吏ト見做サルルト雖)
又一種ノ官吏アリ、年々其任命ヲ受ケ其職務ニ堪フルノ閒ハ每年再任アルモノトス。
(判事ガ)國會議員選擧權ヲ有スル者ノ目錄ヲ校正センガ爲メニ任命スル「バリストル」ノ如キ是レナリ。是等ニシテ再任ヲ得ザルノ例甚ダ稀ナリ。蓋シ其再任ヲ得ザルモノハ過激ナル政論ヲ吐露スルコト其原因ヲ爲スガ如シ。此他ノ場合ニ於テハ在官者ニ說論シ再任ヲ請ハザラシムルモノノ如シ。
判事ハ國王ノ敕命ヲ受ケテ其官ニ就ク、其制行良善ナルノ閒其職ニ在ルモノトス。但國會兩院ノ國王ニ對シ請求スルヲ待テ之ヲ免職スルヲ得。
之ヲ要スルニ英國ノ文官ハ皆國王ノ吏員ニシテ、國王ノ意ニ稱ウノ閒其官ヲ有ス。國王ハ又其不良ノ故ヲ以テ之ヲ免職スルヲ得。此免職權ハ最高ノ官ヨリ最下ノ官ニ至ル迄之ヲ行ウコトヲ得。但他ノ大權ト同ジク責任宰相ノ勸告アルニアラザレバ之ヲ行フコトナシ。蓋シ免職スルニハ其理由ヲ示スヲ要セズ。然レドモ其疑ハシキモノアルトキハ國會ニオイテ質問ヲ受ルコト他ノ大權ニ異ナラズ。現今檀ニ官吏ヲ免職スルガ如キハ極メテ稀ニシテ、犯考ノ爲メニ之ヲ免職スルガ如キモ亦屢々有ルコトニアラズ。
然レドモ此問題ニ關シテハ尙進デ論ズベキモノアリ。卽チ「懲戒裁判ヲ設クルノ可否」ノ問題是ナリ。餘ハ未ダ曾テ其效用ヲ實驗シタルコトナキヲ以テ、單ニ餘ノ所見ヲ以テ之ニ答フベシ。夫レ英國ノ制ハ頗ル稱贊スベク、又調和的ニ連動セリ。文官各々其業ニ勵ミ其名譽ヲ重ジ、其長官(永久ノモノト國會ヨリ來ルモノヲ論ゼズ)ニ服シ、國王ニ忠ナリ。加之官吏ニシテ罪ヲ犯スモノ甚ダ少ク、而シテ其免職セルベカラザルニ至テ之ヲ免職スルガ故ニ、輿論ハ槪ネ其處罰ニ異論ヲ措クコトナシ。豫以爲ク、假令懲戒裁判ヲ設クルモ之ニ勝ルノ結果ヲ生ズル能ワザラン。
懲戒裁判ニ關シテ更ニ論ズベキモノアリ。
懲戒裁判官ハ如何ナル法律ヲ適用スルヤ、若シ普通ノ法律ナランニハ普通ノ裁判所ヲ以テ足レリトス。
若シ普通法ニアラズトセバ之ガ爲メニ特ニ法律ヲ設ケザルベカラズ。是レ又實ニ困難ノ業ニシテ新ニ「官吏犯罪律」ナルモノヲ設クルモノナリ。之ヲ設クレバ又精確ナル定解ヲ下サザルベカラズ。是又實ニ非常ニ難事トス。老練ナル刑事ハ以テ免職スベシトスルノ罪ヲ犯スモノアルモ、其犯罪人ヲ如何トモスベカラザルモノアラン。此ノ如キノ法典ニ於テハ道德ヲ解釋スルノ必要アルベク、又單ニ嫌疑ノミヲ以テ免職スルコトアルヲ公告スルノ必要アルニ至ルベシ。前者ヲ爲スハ甚ダ困難ニシテ、後者ヲ爲サバ正當ノ攻擊ヲ被ラン。然レドモ不道德又ハ嫌疑ノミヲ以テ免職スルコトアラバ、輿論ノ之ニ一致スルヤ疑ヲ容レザル所ナリ。
次ニ裁判官ヲ論ゼン。今之ヲ設クレバ爲メニ莫大ノ費用ヲ擁スルノミナラズ、適當ナル判事ヲ得ルニ困ラン。蓋シ此判事ハ行政ノ事務ニ熟達シタルノ士タルヲ要ス。此ノ如キ人物ハ他ニ之ヲ求メントスルモ得ベカラズ。茲ニ才能ニ乏シキカ又ハ長官ノ命ヲ用ヒザルノ例アラン。之ヲ裁判スルハ長官ヨリ良キハナカルベシ。而シテ之ニ關スル長官ノ觀告ハ專ラ證據ノ爲メニ法廷ニ陳述シタルモノニ比スレバ、其輕重果シテ如何。且ツ長官ヲシテ其說ヲ陳述セシムルハ單ニ其意見ヲ乞フニ過ギザルベク、又如何ナル原因ヨリシテ此意見ヲ來スニ至リシヤ、他人ヲシテ之ヲ知ラシムルハ甚ダ難シトス。殊ニ判事ノ如キハ只事實ヲ權衡スルノ責アルモノナレバ、到底之ヲ了解スルコト能ワザルベシ。果シテ此ノ如クンバ豫ハ疑フ、此裁判官ハ實際長官ト其所屬官吏トノ閒ニ敎戒ト調和トヲ來シ得ベヤ否ヤヲ。
此問題ノ全局ハ「免職ノ理由ハ之ヲ制定スルヲ要スルヤ否ヤ」ノ一ニ歸ス。此點ニ付キグレイ卿ノ說(載セテトツド第六百三十五頁ニ在リ)ハ甚ダ珍重スベキモノナリ。卿ハ其否ヲ斷言セラレタリ。
一千八百八十八年五月
(林田龜太郞譯)
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