憲法制定の経過に関する小委員会報告書/アチソン大使の指示項目


二 アチソン大使の指示項目

 10月8日、近衛公は憲法改正についての近衛公が総司令部側と協力するにあたっての一般的方針および具体的方法について意見を徴するために高木八尺博士、松本重治牛場友彦の3氏とともに、アチソン大使と会見した。この会見において、アチソン大使は、次の12項目を改正点として示唆した[1]


1 衆議院の権威、特に予算に対する権威の増大
2 貴族院の拒否権の撤回
3 議会責任原理の確立
4 貴族院の民主化
5 天皇の拒否権廃止
6 天皇の、詔勅、命令による立法権の削減
7 有効な権利章典の規定
8 独立な司法府の設置
9 官吏の弾劾ならびにリコールの規定
10 軍の政治への影響まっ殺
11 枢密院の廃止
12 国民発案(レファレンダム)および一般投票による憲法改正の規定


 この12項目は、文書で示されたものではないため、同席した高木博士のとったメモ[2]による項目とは若干の相違があるが、高木博士はさらに、後に次のように整理している[3]


1 内閣は、公選による代議機関の助言と承認によって作られ、この代議機関に対して責任を負わなければならないこと。
2 国会の解散権は、政府が政治的コントロールの手段として用いてはならず、何らかの形の議院内閣制が、創設されなければならないこと。
3 国会の公選による議院が予算を完全にコントロールすること。
4 勅令は、国会の立法権をせばめてはならないこと。
5 立法事項について拒否権をもつ貴族院や枢密院のような機関は、存在してはならないこと。
6 市民の基本権を保障すること。
7 過度の中央集権 - 警察制度および教育における - は、排除すること。
8 国務大臣は、文民でなければならないこと。
9 憲法改正の方法を改めること。


 この会見の後、近衛公は木戸内大臣をたずね憲法改正問題に関する総司令部側の意向を伝えて、じんぜん時を過ごすならば総司令部側から改正案を突きつけられるおそれがある旨を述べた。木戸内大臣はすみやかに近衛公に対し勅命があるようにすると約し、11日、天皇より近衛公に対し「ポツダム宣言の受諾に伴い、大日本帝国憲法改正の要否、若し要ありとすればその範囲如何」につき調査の上奉答すべき旨を命ぜられた[4]。近衛公は内大臣府御用掛となり、佐々木惣一博士を同じく内大臣府御用掛に迎えて、調査に着手することとなった。


 次に、右のアチソン大使の指示はアチソン大使独自の措置として行なったものではなく、マッカーサー元帥の意思を受けて行なったものである。10月4日のマッカーサー元帥の行なった示唆が元帥の独自の措置でなかったことは前に述べたとおりであるが、このアチソン大使の12項目の指示についてはさらに本国政府との連絡があった。すなわち、アチソン大使の地位は、マッカーサー元帥から独立した国務省の代表というものでなく、最高司令官たるマッカ―サー元帥のポリティカル・アドバイザーであり、マッカーサー元帥の指揮監督下にあるものであった。10月2日総司令部に民政局の設置が決定されてからは、日本のガバンメントに関する事項はアチソン大使の手から民政局に移されることになったのであるが、その後においても日本管理政策について国務省から直接にアチソン大使あてに訓令が発せられる場合もあったようであり、国務省や統合参謀本部の指揮系統の下にあるマッカーサー元帥およびその下の民政局とアチソン大使との間の関係が円滑を欠くこともあったようである[5]。ただし、少なくともこの10月4日および10月8日の措置の時期においては、マッカーサー元帥とアチソン大使との間に意思の疎隔があったとは認められない[6]


 ただし、10月8日のアチソン大使の指示した12項目は、その後発せられた10月17日のアチソンに対する国務長官からの訓令の線に合致するものであった。


 この10月17日の訓令というのは、その成文を見ることができないが、その内容は後のSWNCC-228とほほ同様のものであって、改正日本憲法に盛らるべき基本的条項のアウトラインを示すものである。


 この訓令が正式に決定されて訓令として出される前に、同一内容の文書が本国政府からマッカーサー元帥にもアチソン大使にも渡されていた。あるいは、アチソン大使は九月赴任する前にこの文書に盛られている内容について、本国政府当局と連絡、了解を遂げていたかもしれない。したがって、マッカーサー元帥もアチソン大使も憲法改正が基本的対日政策の一つであることを知っていたばかりでなく、憲法改正の大綱についての本国政府の考えはよく了解していたのである。そこで、マッカーサー元帥が近衛公に対し憲法改正を示唆し、次いで近衛公に対しアチソン大使が12項目を示唆したのはこのような事実を背景としているものであって、12項目は10月17日の訓令の線に沿うものであった[7]


 10月25日、高木博士がアチソン大使、エマソン、フェアリーなどとさらに懇談したとき、「最近にワシントンからから到着した情報によって補足する」とし、前の12項目をさらにふ延した説明がなされたが[8]、この情報とは右の10月17日の訓令をさすものと解される。


 以上のように、少なくともこの時期においては、マッカーサー元帥の意図していた憲法改正の方針と国務省がアチソン大使を通して示していた方針とは出所を異にする別個のものであるという主張には根拠がない[9]。すなわち、アチソン大使の12項目は、後に1946年2月3日にマッカーサー元帥がホイットニー民政局長に手交した憲法改正の三原則に酷似してはいない。特に、アチソン大使の12項目には、マッカーサー元帥の勧告の中の最も著しい特徴である戦争の放棄は言及されていないし、国民主権の原理も含まれていなかった[10]。しかし、これらの相違は、むしろ後に述べる1946年10月の時期における事態の変化に基づくものであって、この1945年の10月の時期におけるマッカーサー元帥とアチソン大使の見解の対立に基づくものではないというべきである。

原注

  1. 憲資・総1号 総司令部民政局編「日本の新憲法」23頁以下、憲資・総35号 マクネリー「日本の憲法改正にたいする国内的・国際的影響(抄)」 18 - 19頁
  2. 矢部貞治編「近衛文麿」下巻 591頁
  3. 憲資・総36号 高木八尺「日本の憲法改正に対して1945年に近衛公がなした寄与に関する覚書」 2頁以下、高木八尺参考人・制定委9回17頁以下36頁以下
  4. 矢部貞治編「近衛文麿」下巻 591頁以下、富田健治参考人・制定委9回8頁
  5. 高柳賢三会長・制定委9回38頁、坂西志保委員神川彦松委員・制定委16回17頁以下
  6. 高木八尺参考人・制定委9回38頁
  7. 渡米調査団の調査におけるボートンの談話・高田元三郎委員・制定委16回16頁
  8. 高木八尺参考人・制定委9回17頁37頁
  9. 高木八尺参考人・制定委9回18頁
  10. 前掲憲資・総35号 19 - 20頁


 

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