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多摩川の二子(ふたこ)の渡(わたし)をわたって少しばかり行くと溝口(みぞのくち)という宿場がある。其中程に亀屋という旅人宿(はたご)がある。恰度(ちょうど)三月の初めの頃であった。此日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだに淋しい此町が一段と物淋しい陰鬱(いんうつ)な寒むそうな光景を呈して居た。昨日降った雪が未(いま)だ残って居て高低定(あだま)らぶ茅屋根(わらやね)の南の軒先(のきさき)からは雨滴(あまだれ)が風に吹かれて舞うて落ちて居る。草鞋(わらじ)の足痕(あしあと)に溜った泥水にすら寒そうな漣(さざなみ)が立って居る。闇(くら)い一筋町が寂然(ひっそり)として了った。旅人宿だけに亀屋の店の障子には燈火(あかり)が明(あか)く射(さ)して居たが、今宵は客も余りないと見えて内もひっそりとして、おりおり雁頸(がんくび)の太そうな煙管(きせる)で火鉢の縁を敲(たた)く音がするばかりである。
突然(だしぬけ)に障子をあけて一人の男がのっそり入ッて来た。長火鉢に寄(よ)っかかッて胸算用に余念も無かった主人(あるじ)が驚いて此方(こちら)を向く暇もなく、広い土間を三歩(みあし)ばかりに大股に歩いて、主人の鼻先に突(つった)ッた男は年頃三十には未だ二ツ三ツ足らざるべく、洋服、脚絆(きゃはん)、草鞋(わらじ)の旅装(なり)で鳥打帽をかぶり、右の手に蝙蝠傘(こうもり)を携(たずさ)え、左に小さな鞄包(かばん)を持って其(それ)を脇に抱(だ)いて居た。
「一晩厄介になりたい」
主人は客の風采(みなり)を視(み)て居て未(ま)だ何とも言わない。其時奥で手の鳴る音がした。
「六番でお手が鳴るよ」
哮(ほ)える様な声で主人は叫んだ。
「何方(どちら)さまで御座います」
主人は火鉢に寄っかかったままで問うた。客は肩を聳(そびや)かして一寸(ちょっ)と顔をしかめたが、忽(たちま)ち口の辺(ほとり)に微笑(ほほえみ)をもらして、
「僕か、僕は東京」
「それで何方(どちら)へお越しで御座いますナ」
「八王子へ行くのだ」
と答えて客は其処(そこ)で腰を掛け脚絆の緒(ひも)を解きにかかった。
「旦那、東京から八王子なら道が変で御座いますねェ」
主人は不審そうに客の様子を今更のように眺(なが)めて、何か言いたげな口つきをひた。客は直ぐ気が付いた。
「いや、僕は東京だが、今日東京から来たのじゃアない、今日は晩(おそ)くなって川崎を出発(たっ)て来たからこんなに暮れて了(しま)ったのさ、一寸と湯をお呉れ」
「早くお湯を持って来ないか。へェ随分今日はお寒むかったでしょう、八王子の方はまだまだ寒う御座います」
という主人の言葉はあいそが有っても一体の風(ふう)つきは極めて無愛嬌(ぶあいきょう)である。年は六十ばかり、肥満(ふと)った体軀(からだ)の上に綿の多い半纏(はんてん)を着て居るので肩から直(すぐ)に太い頭が出て、幅の広い福々しい顔の目眦(まなじり)が下がって居る。それで何処(どこ)かに気懊(きむずか)しいところが見えて居る。しかし正直なお爺(やじ)さんだなと客は直ぐ思った。
客が足を洗ッて了ッて、未(ま)だ拭(ふ)ききらぬうち、主人は、
「七番へ御案内申しな!」
と怒鳴ッた。それぎりで客へは何の挨拶もしない、其後姿(そのうしろすがた)を見送りもしなかった。真黒な猫が厨房(くりや)の方から来て、そッと主人の高い膝の上に這い上がって丸くなった。主人はこれを知って居るのか居ないのか、じっと眼をふさいで居る。暫時(しばらく)すると、右の手が煙草箱(たばこいれ)の方へ動いて其太い指が煙草を丸めだした。
「六番さんのお浴湯(ゆ)がすんだら七番のお客さんを御案内申しな!」
膝の猫が喫驚(びっくり)して飛下りた。
「馬鹿!貴様に言ったのじゃないわ」
猫は驚惶(あわ)てて厨房(くりや)の方へ駈けて往って了った。柱時計がゆるやかに八時を打った。
「お婆さん、吉蔵が眠そうにして居るじゃあないか、早く被中炉(あんか)を入れてやってお寝かしな、可愛そうに」
主人の声の方が眠そうである、厨房の方で、
「吉蔵は此処で本を復習(さらっ)て居ますじゃないかね」
「お婆さんの声らしかった。
「そうかな。吉蔵最(も)うお寝よ、朝早く起きてお復習(さら)いな。お婆さんは早く被中炉を入れておやんな」
「今すぐ入れてやりますよ」
勝手の方で下婢(かひ)とお婆さんと顔を見合わしてくすくすと笑った。店の方で大きな欠伸(あくび)の声がした。
「自分が眠いのだよ」
五十を五つ六つ越えたらしい小さな老母が煤(くす)ぶった被中炉を火に入れながら呟(つぶ)やいた。
店の障子が風に吹かれてがたがたすると思うとバラバラと雨を吹きつける音が微(かす)かにした。
「もう店の戸を引き寄せて置きな」と主人(あるじ)は怒鳴って、舌打ちをして、
「又た降って来やがった」
と独言(ひとりごと)のようにつぶやいた。成程風が大分強くなって雨さえ降りだしたようである。
春先とはいえ、寒い寒い霙(みぞれ)まじりの風が広い武蔵野を荒れに荒れて終夜(よもすがら)、真闇(まっくら)な溝口の町の上を哮(ほ)え狂った。
七番の座敷では十二時過ぎても未だ洋燈(ランプ)が耿々(こうこう)と輝いて居る。亀屋で起きて居る者といえば此座敷の真中(まんなか)で差向かいで話して居る二人の客ばかりである。戸外(そと)は風雨の声いかにも凄(すさ)まじく、雨戸が絶えず鳴って居た。
「此の模様では明日(あした)のお立(たち)は無理ですぜ」
と一人が相手の顔を見て言った。これは六番の客である。
「何(な)に、別に用事はないのだから明日一日位此処で暮らしても可(いい)んです」
二人とも顔を赤くして鼻の先を光からして居る。傍(そば)の膳の上には煖陶(かんびん)が三本乗って居て、盃(さかずき)には酒が残って居る。二(ふたり)とも心地よさそうに体をくつろげて、胡坐(あぐら)をかいて、火鉢を中にして煙草を吹かして居る、六番の客は袍巻(かいまき)の袖から白い腕を臂(ひじ)まで出して巻煙草の灰を落しては、喫煙(すっ)て居る。二人の話しぶりは極めて率直であるものの今宵初めて此宿舎(やど)で出合って、何かの糸汚いとぐち)から、二口三口襖越(ふすまご)しの話があって、余りの淋しさに六番の客から押しかけて来て、名刺の交換が済むや、酒を命じ、談話(はなし)に実が入って来るや、何時しか丁寧な言葉とぞんざいな言葉とを半混(はんまぜ)に使うように成ったものに違いない。
七番の客の名刺には大津弁次郎とある、別に何の肩書もない。六番の客の名刺には秋山松之助とあって、これも肩書がない。
大津とは即ち日が暮れて着いた洋服の男である。瘦形(やせがた)な、すらりとして色の白い処は相手の秋山とは丸で違って居る。秋山は二十五か六という年輩で、丸く肥満(こえ)て赤ら顔で、眼元に愛嬌があって、いつもにこにこして居るらしい。大津は無名n文学者で、秋山は無名の画家で不思議にも同種類の青年が此田舎の旅宿(はたご)で落合ったのであった。
「もう寝ようかねェ。随分悪口(あっこう)も言いつくしたようだ」
美術論から文学論から宗教論まで二人は可なり勝手に饒舌(しゃべ)って、現今(いま)の文学者や画家の大家を手ひどく批評して十一時が打ったのに気がつかなかったのである。
「まだ可(い)いさ。どうせ明日は駄目でしょうから夜通し話ししたってかまわないさ」
画家の秋山はにこにこしながら言った。
「しかし何時(いくじ)でしょう」
と大津は投げ出してあった時計を見て、
「おやもう十一時過ぎだ」
「どうせ徹夜でさあ」」
秋山は一向平気でる。盃を見つめて、
「しかし君が眠(ね)むけりゃあ寝てもいい」
「眠くは少(ち)ともない、君が疲かれて居るだとうと思ってさ。僕は今日晩(おそ)く川崎を立って三里半ばかしの道を歩るいた丈けだから何ともないけれど
「何に僕だって何ともないさ、君が寝るならこれを借りて去(い)って読んで見ようと思うだけです」
秋山は半紙十枚ばかりの原稿らしいものを取上げた。其表紙には「忘れ得ぬ人々」と書いてある。
「それは真実(ほんと)に駄目ですよ。つまり君の方でいうと鉛筆で書いたスケッチも同(おんな)じことで他人(ほか)にはわからないのだから」
といって大津は秋山の手から其原稿を取ろうとは為(し)なかった。秋山は一枚二枚開けて見て所々読んで見て、
「スケッチにはスケッチ丈けの面白味があるから少(す)こし拝見したいねェ」
「まア一寸借して見玉え」
と大津は秋山の手から原稿を取って、処々あけて見て居たが、二人は暫時(しばらく)無言であった。戸外(そと)の風雨の声が此時今更らのように二人の耳に入った。大津は自分の書いた原稿を見つめたままじっと耳を傾けて夢心地になった。
「こんな晩は君の領分だねエ」
秋山の声は大津の耳に入(い)らないらしい。返事もしないで居る。風雨の音を聞いて居るのか、原稿を見て居るのか、将(は)た遠く百里の彼方(かなた)の人を憶(おも)って居るのか、秋山は心のうちで、大津の今の顔、今の眼元は我が領分だなと思った。
「君がこれを読むよりか、僕が此題で話した方が可(よ)さそうだ。どうです。君は聴きますか。此原稿はほんの大要(あらまし)を書き止めて置いたのだから読んだって解らないからねェ」
夢から寤(さ)めたような目つきをして大津は眼を秋山の方へ転じた。
「詳細(くわし)く話して聞かされるなら尚(なお)のことさ」
と秋山が大津の眼を見ると、大津の眼は少し涙にうるんで居て、異様な光を放って居た。
「僕はなるべく詳しく話するよ、面白ろくないと思ったら、遠慮なく注意して呉れ玉え。その代り僕も遠慮なく話すよ。なんだか僕の方で聞いてもらいたい様な心持に成って来たから妙じゃあないか」
秋山は火鉢に炭をついで、鉄瓶の中へ冷めた煖陶(かんびん)を突込んだ。
「忘れ得ぬ人は必ずしも忘れて叶(かな)うまじき人にあらず、見玉え僕の此原稿の劈頭(へきとう)第一に書いてあるのは此句である」
大津は一寸と秋山の前にその原稿を差しいだした。
「ね。それで僕は先ず此句の説明をしようと思う。そうすれば自(おのず)から此文の題意が解るだろうから。しかし君には大概わかって居ると思うけれど」
「そんなことを言わないで、ずんずん遣(や)り玉えよ。僕は世間の読者の積りで聴いて居るから。失敬、横になって聴くよ」
秋山は煙草を啣(くわ)えて横になった。右の手で頭を支(ささ)えて大津の顔を見ながら眼元に微笑を湛(たた)えて居る。

「親とか子とか又は朋友知己其ほか自分の世話になった教師先輩の如きは、つまり単に忘れ得ぬ人とのみはいえない。忘れて叶うまじき人といわなければならない、そこで此処に恩愛の契(ちぎり)もなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れて了(しま)つたところで人情をも義理をも欠かないで、而も終(つい)に忘れて了うことの出来ない人がある。世間一般の者にそういう人があるとは言わないが少くとも僕には有る。恐らく君には有るだろう」

秋山は黙然(だまっ)て首肯(うなず)いた。
「僕が十九の歳(とし)の春の半頃(なかごろ)と記憶して居るが、少し体軀(からだ)の具合が悪いので暫時(じば)らく保養する気で東京の学校を退(ひ)いて国へ帰える、其帰途(かえりみち)のことであった、大阪から例の瀬戸内(せとうち)通(がよ)いの滊船(きせん)に乗って春海波平(しゅんかいなみたい)らかな内海(うちうみ)を航するのであるが、殆んど一昔(ひとむかし)も前の事であるから、僕も其時の乗合の客がどんな人であったやら、船長がどんな男であったやら、茶菓を運ぶ船奴(ボオイ)の顔がどんなであったやら、そんなことを少しも憶(おぼ)えて居ない。たぶん僕に茶を注(つ)いで呉れた客もあったろうし、甲板の上で色々と話かけた人もあったろうが、何にも記憶に止まって居ない。
「ただ其時は健康が思わしくないから余り浮き浮きひないで物思に沈んで居たに違いない。絶えず甲板(かんぱん)の上に出て将来(ゆくすえ)を描いては此世に於ける人の身の上のことなどを思いつづけていたことだけは記憶している。勿論若いものの癖で其れも不思議ではないが。其処で僕は、春の日の閑(のど)かな光が油のような海面に融(と)け殆んど漣(さざなみ)も立たぬ中を船の船首(へさき)が心地よい音をさせて水を切って進行するにつれて、霞たなびく島々を迎えては送り、右舷左舷の景色を眺めていた。菜の花と麦の青葉とで錦を敷(し)いたような島々が丸で霞の奥に浮いているように見える。そのうち船が或る小さな島を右舷に見て其磯(いそ)から十町とは離れない処を通るので僕は欄に寄り何心(なにげ)なく其島を眺めていた。山の根がたの彼処(かしこ)此処(ここ)に脊の低い松が小杜(こもり)を作っているばかりで、見たところ畑もなく家らしいものも見えない。寂(しん)として淋びしい磯の退潮(ひきしお)の痕(あと)が目に輝(ひか)って、小さな波が水際(みぎわ)を弄(もてあそ)んでいるらしく長い線(すじ)が白刃(しらは)のように光っては消えて居る。無人島でない事はその山より高い空で雲雀(ひばり)が啼(な)いているのが微かに聞えるのでわかる。田畑(たはた)ある島と知れけりあげ雲雀、これは僕の老父(おやじ)の句であるが、山の彼方(むこう)には人家があるに相違ないと僕は思うた。と見るうちに退潮の痕の日に輝(ひか)っている処に一人の人がいるのが目についた。たしかに男である、又た小供でもない。何か頻(しき)りに拾っては籠(かご)か桶(おけ)に入れているらしい。二三歩(ふたあしみあし)あるいてはしゃがみ、そして何か拾ろっている。自分は此淋しい島かげの小さな磯を漁(あさ)っている此人をじっと眺めていた。船が進むにつれて人影が黒い点のようになって了って、そのうち磯も山も島全体が霞の彼方(かなた)へ消えて了った。その後今日が日まで殆ど十年の間、僕は何度此島かげの顔を知らない此人を憶い起したろう。これが僕の「忘れ得ぬ人々」の一人である。
「その次は今から五年ばかり以前、正月元旦を父母の膝下(ひざもと)で祝って直ぐ九州旅行へ出かけて、熊本から大分(おおいた)へと九州を横断した時のことであった。
「ぼくは朝早く弟と共に草鞋(わらじ)脚絆(きゃはん)で元気よく熊本を出溌(た)った。其日は未だ日が高い中に立野(たての)という宿場まで歩いて其処(そこ)に一泊した。次ぎの日の未だ登らないうち立野を立って、兼ての願いで、阿蘇(あそ)山の白煙を目がけて霜を踏(ふ)み桟橋を渡り、路を間違えたりして漸(ようや)く日中(おひる)時分に絶頂近くまで登り、噴火口に達したのは一時過ぎでもあッただろうか。熊本地方は温暖であるがうえに、風のない好く晴れた日だから、冬ながら六千尺の高山も左(さまでは寒く感じない。高岳(たかたけ)の絶頂(いただき)は噴火口から吐き出す水蒸気が凝(こ)って白くなって居たが其外は満山ほとんど雪を見ないで、ただ枯草白く風にそよぎ、焼土(やけつち)の或は赤き或は黒きが旧噴火口の名残(なごり)を彼処(かしこ)此処(ここ)んい止めて断崕(だんがい)をなし、その荒涼たる、光景は、筆も口も叶わない、之れを描くのは先ず君の領分だと思う。
「僕等は一度噴火口の縁(ふち)まで登って、暫時(しばら)くは凄(すさ)まじい穴を覗(のぞ)き込んだり四方の大観を恣(ほしいまま)にしたりしていたが、さすがに頂は風が寒くって堪らないので、穴から少し下りると阿蘇神社がある其傍に小さな小屋があって番茶位は呑ませて呉れる、其処へ逃げ込んで団飯(むすび)を齧(かじ)って元気をつけて、又た噴火口まで登った。
「其時は日がもう余程傾いて肥後の平野を立籠(たてこ)めている霧靄(もや)が焦げて赤くなって恰度(ちょうど)其処に見える旧噴火口の断崕と同じゆな色に染(そま)った。円錐形に聳えて高く群峰を抜く九重嶺の裾野の高原数里の枯草が一面に夕陽(せきよう)を帯び、空気が水のように澄んでいるので人馬の行くのも見えそうである。天地寥廓(てんちりょうかく)、而も足もとでは凄(すさま)じい響をして白煙濛々(もうもう)と立騰(たちのぼ)り真直ぐに空を衝(つ)き急に折れて高岳を掠(かす)め天の一方に消えて了う。壮といわんか美といわんか惨といわん歟(か)、僕等は黙然(だまっ)たまま一言も出さないで暫時く石像のように立って居た。此時天地悠々の感、人間存在の不思議の念などが心の底から湧いて来るのは自然のことだろうと思う。
「ところで尤も僕等の感を惹いたものは九重嶺と阿蘇山との間の一大窪地であった。これは兼ねて世界最大の噴火口の旧跡と聞いて居たが成程、九重嶺の高原が急に頽(おち)こんで居て数里に亙(わた)る絶壁が此窪地の西を廻っているのが眼下によく見える。男体山麓(なんたいさんろく)の噴火口は明媚幽邃(めいびゆうすい)の中禅寺湖と変っているが此大噴火口はいつしか五穀実る数千町の田園とかわって村落幾個の樹林や麦畑が今しも斜陽静かに輝いている。僕等が其夜、疲れた足を蹈みのばして罪のない夢を結ぶを楽しんでいる宮地(みやじ)という宿駅も此窪地にあるのである。
「いつそのこと山上の小屋に一泊して噴火の夜の光景を見ようかという説も二人の間に出たが、先きが急がれるので愈々(いよいよ)山を下ることに決めて宮地を指して下(お)りた。下(くだ)りは登りよりかずっと勾配が緩(ゆ)るやかで、山の尾や谷間の枯草の間を蛇のように蜿蜓(うね)っている路を辿って急ぐと、村に近づくに連れて枯草を着けた馬を幾個(いくつ)か逐(おい)こした。あたりを見ると彼処此処の山尾(やまのお)の小路をのどかな鈴の音(ね)夕陽(せきよう)を帯びて人馬幾個となく麓をさして帰りゆくのが数えられる、馬はどれも皆な枯草を着けている。麓は直きそこに見えていても容易には村へ出ないので、日は暮れかかるし僕等は大急ぎに急いで終いには走って下りた。
「村に出た時は最早(もう)日が暮れて夕闇のほのぐらい頃であった。村の夕暮のにぎわいは格別で、壮年男女は一日の仕事のしまいに忙がしく子供は薄暗い垣根の蔭や竈(かまど)の火の見える軒先に集まって笑ったり歌ったり泣いたりしている、これは何処の田舎も同じことであるが、僕は荒涼たる阿蘇の草原から駈け下りて突然、この人寰(じんかん)に投じた時ほど、これらの光景に搏(う)たれたことはない。二人は疲れた足を曳きうって、日暮れて路遠きを感じながらも、懐かしいような心持で宮地を今宵の当(あて)に歩るいた。
「一村(いちむら)離れて林や畑(はた)の間を暫らく行くと日はとっぷり暮れて二人の影が明白(はっきり)と地上に印するようになった。振向いて西の空を仰ぐと阿蘇の分派の一峰の右に新月がが此窪地一体の村落を我物顔(わがものがお)に澄んで蒼味(あおみ)かかった水のような光を放っている。二人は気がついて直ぐ頭の上を仰ぐと、昼間は真白に立のぼる噴煙が月の光を受けて灰色に染って碧瑠璃(へきるり)の大空を衝(つ)いて居るさまが、いかにも凄じく又た美しかった。長さよりも幅の方が長い橋にさしかかったから、幸(さいわ)い其欄に倚(よ)っかかって疲れきった足を休めながら二人は噴煙のさまの様々に変化するのを眺めたり、聞くともなしに村落の人語の遠くに聞こゆるを聞いたりしていた。すると二人が今来た道の方から空車らしい荷車の音が林などに反響して虚空(こくう)に響き渡って次第に近づいて来るのが手に取るように聞こえだした。
「暫くすると朗々(ほがらか)な澄んだ声で流して歩るく馬子唄(まごうた)が空車の音につれて漸々(ぜんぜん)と近づいて来た。僕は噴煙を眺めたままで耳を傾けて、此声の近づくのを待つともなしに待っていた。
「人影が見えたと思うと『宮地ゃよいところじゃ阿蘇山ふもと』という俗謡(うた)を長く引いて丁度僕等が立っている橋の少し手前まで流して来た其俗謡(うた)の意(こころ)と悲壮な声とが甚麽(どんな)に僕の情(こころ)を動かしたろう。二十四五かと思われる屈強な壮漢(わかもの)が手綱を牽(ひ)いて僕等の方を見向きもしないで通ってゆくのを僕はじっと睇視(みつ)めていた。夕月の光を背にしていたから其横顔も明毫(はっきり)とは知れなかったが其逞(たくま)しげな体軀の黒い輪廓が今も僕の目の底に残っている。
「僕は壮漢(わかもの)の後影(うしろかげ)をじっと見送って、そして阿蘇の噴煙を見あげた。『忘れ得ぬ人々』の一人は則ち此壮漢である。
「其次は四国の三津ヶ浜に一泊して滊船便を持った時のことであった。夏の初めと記憶しているが僕は朝早く旅宿(はたご)を出て滊船の来るのは午後と聞いたので此港の浜や町を散歩した。奥に松山を控えている丈け此港の繁盛は格別で、分けても朝は魚市(うおいち)が立つので魚市場の近傍の雑沓(ざっとう)は非常なものであった。大空は名残なく晴れて朝日麗(うら)らかに輝き、光る物には反射を与え、色あるものには光を添えて雑沓の光景を更らに殷々(にぎにぎ)しくしていた。叫ぶもの呼ぶもの、笑声嬉々として此処に起れば、歓呼怒罵乱れて彼方(かしこ)に湧くという有様で、売るもの買うもの、老若男女、何れも忙しそうに面白そうに嬉しそうに、駈けたり追ったりしている。露天が並んで立食(たちぐい)の客を待っている。売っている品(もの)は言わずもがなで、喰っている人は大抵船頭船方(ふなかた)の類(たぐい)にきまっている。鯛(たい)や比良目(ひらめ)や海鰻(あなご)や章魚(たこ)が、其処らに投げ出してある。腥(なまぐさ)臭が人々の立騒ぐ袖や裾に煽(あお)られて鼻を打つ。
「僕は全くの旅客で此土地には縁もゆかりも無い身だから、知る顔も無ければ見覚えの禿頭(はげあたま)もない。其処で何となく此等の光景が異様な感を起させて、世の様を一段鮮かに眺めるような心地がした。僕は殆んど自己(おのれ)を忘れて此雑沓の中をぶらぶらと歩るき、やや静かなる街(ちまた)の一端(橋)に出た。
「すると直ぐ僕の耳に入ったのは琵琶(びわ)の音(ね)であった。其処の店先に独りの琵琶僧が立っていた。歳の頃よんじゅうを五ツ六ツを越えたらしく、幅の広い四角な顔の丈(たけ)の低い肥満(こえ)た漢子(おとこ)であった。其顔の色、其眼の光は恰度悲しげな琵琶の音に相応(ふさわ)しく、あの咽(むせ)ぶような糸の音につれて謡(うた)う声が沈んで濁って淀んでいた。巷(ちまた)の人は一人も此僧侶を顧みない、家々の者は誰も此琵琶に耳を傾ける風も見せない。朝日は輝く浮世は忙(せ)わしい。
「しかし僕はじっと此琵琶僧を眺めて、其琵琶の音に耳を傾けた。此道幅の狭い軒端(のきば)の揃わない、而も忙(せわ)しそうな巷の光景が此琵琶僧と此琵琶の音とに調和しない様で而も何処(どこか)に深い約束があるように感じられた。あの嗚咽(おえつ)する琵琶の音が巷の軒から軒へと漂うて勇ましげな売声や、かしましい鉄砧(かなしき)の音と雑(ま)ざって、別に一道の清泉が濁波の間を潜(く)ぐって流れるようなのを聞いていると、嬉れしそうな、浮き浮きした、面白ろそうな、忙しそうな顔つきをしている巷の人々の心の底の糸が自然の調(しらべ)をかなでているように思われた。『忘れ得ぬ人々』の一人は則(すなわ)ち此琵琶僧である」
此処まで話して来て大津は静かに其原稿を下に置いて暫時(しばら)く考え込んでいた。戸外(そと)の雨風の響は少しも衰えない。秋山は起き直って、
「それから」
「もう止そう、余り更(ふ)けるから、未だ幾らもある。北海道歌志内(うたしな)の鉱夫、大連湾頭の青年漁夫、番匠川(ばんしょうがわ)の瘤(こぶ)ある舟子(ふなこ)など僕が一々此原稿にある丈けを詳わしく話するなら夜が明けて了(し)まうよ。兎に角、僕がなぜ此等の人々を忘るることが出来ないかという、それは憶い起すからである。なぜ僕が憶い起すだろうか。僕はそれを君に話して見たいがね。
「「要するに僕は絶えず人生の問題に苦しんでいながら又た自己将来の大望に圧せられて自分で苦しんでいる不幸せ(ふしあわせ)な男である。
「そこで僕は今夜(こよい)のような晩に独り更(ふけ)て燈(ともしび)に向っていると此生(せい)の孤立を感じて堪えがたいほどの哀情を催うして来る。その時僕の主義の角(つの)がぽきりと折れて了って、何んだか人懐かしくなって来る。色々の古い事や友の上を考えだす。其時油然(ゆうぜん)として僕の心に浮んで来るのは則ち此等の人々である。そうでない、此等の人々である。我れと他(ひと)と何の相違があるか、皆な是れ此生を天の一方地の一角に享(う)けて悠々たる行路を辿り、相携えて無窮の天に帰る者ではないか、というような感が心の底から起って来て我知らず涙が頰をつたうことがある。其時は実に我もなければ他(ひと)もない、ただ誰れも彼れも懐かしくって、忍ばれて来る。
「僕は其時ほど心の平穏を感ずることはない、其時ほど自由を感ずることはない、其時ほど名刺競争の俗念消えて総ての物に対する同情の念の深い時はない。
「僕はどうにかして此題目で僕の思う存分に書いて見たいと思うている。僕は天下必ず同感の士あることと信ずる」
其後二年経過(たっ)た。
大津は故(ゆえ)あって東北の或地方に往っていた。溝口(みぞのくち)の旅宿(やど)で初めて遇った秋山との交際は全く絶えた。恰度、大津が溝口に泊った時の時候であったが、雨の降る晩のこと。大津は独り机に向って瞑想(めいそう)に沈んでいた。机の上には二年前秋山に示した原稿と同じの「忘れ得ぬ人々」が置いてあって、其最後に書き加えてあったのは「亀屋の主人(あるじ)」であった。
「秋山」では無かった。
 

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。