微妙公御夜話/国史研究会
微妙公御夜話 目次
【 NDLJP:59】微妙公御夜話
一、少將光高樣へ大姫君樣御輿入の後、江戶桶町より出火の節︀、風烈しく大火に成り候節︀、上使として、能勢治左衞門殿を以て、少將樣へ上意には、風强く次第に大火に成り候へば、增上寺危く思召され候に付、火防がれ候樣に、御賴みなされ候旨、之に依りて、卽刻御出で遊ばされ候、其砌誰やらん、上使にて候間、罷通り候樣にと、御行列を乘切り申すべしと仕られ候時、少將樣御意には、手前も上使にて罷通り候と仰せられ候へば、其仁脇道へ參られ候、誠に能き御當話、諸︀人感じ奉り候、さて增上寺へ御著︀、上下共に必死の御樣子にて、防ぎ留め申し候、上樣【前田氏の幕府へ盡す道】御滿足遊ばされ、諸︀人御手柄と申慣られ候、然る所、翌日御登城にて、酒井雅樂頭殿へ、利常公御遭ひなされ、仰せられ候、昨日火事に付、增上寺へ罷越し、父を防ぎ候旨承り候、筑前守若き者︀故、尤に候へども、沙汰の限りなる儀、叱り申し候、向後仰付けらるゝとも、昨日の樣には御座あるまじく候、其仔細は、火事にて過【 NDLJP:60】など仕り候はゞ、御奉公には罷成るまじく候、其御奉公には、增上寺など燒け候はゞ、何箇度にても作り候て上げ申すべく候、筑前守儀は、何ぞと申す時、御奉公仕るものに御座候間、火事などにて過仕り候へば、詮なき儀に候、重ねて左樣に御心得なさるべき旨、仰せられ候處、讚岐守殿始め御手打ち、御尤〳〵と御感、追付上聞に達し候處、中納言申さるゝ處、尤も至極に思召し候、昨日筑前守に御賴み遊さるゝ儀、御誤なされ候旨、上意之ある由、
一、本鄕御下屋敷にて、御出入衆御客、富士見の御亭にて御咄の砌、織田左衞門殿申され候は、あの富士山の頂上に池之あり、水出で申す由、不審なる儀と申され候、其時利常公御意には、左衞門、其合點致されず候は、人の頭を打割り候へば、血出づると同じ事と、仰せられ候へば、一座の衆さて〳〵御頓作なる儀と、感じ申され候、
【橫山康玄を武者奉行とす】一、少將樣へ御家督御讓りなされ候以後、中納言樣へ御訴訟なされ候は、國仕置第一と申すは、公事にて御座候、橫山大膳能く候間、公事聞に仰付けらるべく候やと、御伺ひ遊ばされ候へば、大膳は武者︀奉行に申付くべしと、手前存じ候、公事と申し候は、勝ち申す者︀は奉行人能しと思ひ、負け申す者︀は身の誤を辨へず、奉行頭人片寄り申すの、依怙を致すの、贔屓を致すのなどゝ、存ずるものに付、武者︀奉行など致させ申す者︀は、左樣の役人に懸り申す儀とは、思召されず候、大膳に申付けられ候とも、請け申すまじくと仰せられ候、後に承り候へば、夫より以前に、御內證にて武者︀奉行仰付け置かれ候由、
【富山大聖寺兩支藩の士を預る】一、淡路守樣・飛驒守樣御兩人より、中納言樣へ御訴訟なされ候、御貸銀多く、何とも御難︀儀なされ候間、御銀御貸し下され候、分限よりも人も多く候間、少々加賀守樣へ御預け、其知行を以て、御除知になされ、夫にて御返辨なされたきの旨、仰上げられ候、其段相調へ、御預の御家來名ども、御書付上げ候へば、淡路守・飛驒守に惡しき者︀共を、加賀守へ遣し候へば、何の役にも立ち難︀く候間、成程能き者︀共を遣し候へと御意にて、書付は御覽之なく、金澤老中へ御渡しなされ候、富山・大聖寺より御預の者︀共、御用にも立たざる故、金澤へ遣さると、存氣もふるく仕り、罷在り候處に、此御一言にて、金澤へ罷越し候者︀共、肩をひろぎ、何れも辱く悅び申し候、是にて御預の侍共、疵も付き申さず、有難︀き儀と、御名將を感じ奉り候、【 NDLJP:61】【圍ひ女の風止む】一、小松に於て、中納言樣御意には、金澤侍共、妾女を方々小家に召置き、圍ひ女と之を申す由、聞召され候、沙汰の限りに候、小人目付を申付け、誰々圍ひ置き候や、書付上ぐべき旨仰出され候、則ち小人目付共、方々小家共聞出し、慥に知る人々五六人書上げ申す處、津田玄蕃へ仰出さるゝは、此書付六人の內、妻子持ち申す者︀候や、御尋ねなされ候處、玄蕃存じ候は、此御樣子にては、妻子を持ち、其上にて圍ひ女仕り候儀、定めて迷惑にも仰付けらるべく候かと、爾とは覺え申さざる由申上げ候、一兩日過ぎ候て、此書付御爪點遊され候、是々は妻子持ち申し候、此妻子持共の圍ひ女は、聞えたる事に候、仔細は、山神︀共が政道を致す故、內には置き難︀く、外に置きたる、尤に候、妻子持たざる者︀は、何樣にも手前に抱へ置き申すべき所、ゑやうに候と、仰出され候、諸︀人承り、存寄らざる御意の趣、御尤なる儀に候、然る所、萬人の分別に及ばざる儀と感じ奉り候、其後、兎角の仰出されも、之なく候へども、夫よりは妻子持も園ひ女を止め、持たざる者︀は、猶以て園ひ女も仕らず候、
一、利常公、不斷召上られ候御膳木具にて、三汁・十菜計りにて御座候を、岡島兵庫・九里覺右衞門御膳奉行にて、兩人申し候は、是は結構なる儀、何れも上り候へば、拵へ候ても能く候へども、此內二色・三色ならでは上り申さず候、其上尾張樣・水戶樣など御膳は、二汁・五菜と承り候、あなたへ御出入り申す町人共に尋ね申し候處、左樣申聞け候、此儀は伺ひ申すべしと申談じ、小林檢校を以て申上げ候處、覺右衞門・兵庫、合點せぬか、三人の衆は公方樣御一族にて、今日の位職には、身共及ばず候へども、知行は又身共が眞似はなるまい、結構なる事致され候はゞ、【大名は大名らしくするが善し】一興々々、又あの衆の事を我等にせれば、其事に懸る商人共、身過ぎがならず、大名は大名の樣なるぞよけれ、小身は又其位々に致したるがよし、之を分限相應といふものなり、孔子もこゝを大事と申し置かれ候と御意、御名言と兵庫も覺右衞門、其外承り申す者︀感じ奉り、賣人共辱がり申す由、
一、利常公、小松に於て、御家中年頭の御禮請けさせられ、御居間へ入らせられ、以ての外御
一、少將樣へ御家督進ぜらるゝ後、鹿島檢校を以て、仰上げられ候は、見物場・傾城町へ加賀者︀多く參り候由、殿中にても、又は江戶中にても、沙汰仕り候由、承り候に付、目付共遣し候ひて、樣子見させ候處、手前の者︀御座なく候、御前厩に召仕はれ候者︀共、多く參り候由申し候間、少々仰付けらるべく候やと、仰上げられ候へば、利常公御聞きなされ候て、筑前守左樣に存ぜられ候は、家來共不便なる事に候、拙子も左樣の事數度聞き候へども、其手前存には、家久しく代々役にも立ち、骨折り申す者︀の子孫にて、加增取らせ申したく候へども、只今は知行も少分取らせ申すべき餘慶なく、朝夕不便に存じ候、せめて斯樣の事にても、樂ませ置き候へば、悅び候て、奉公も能く仕り候、筑前守思はくにては、家來共不便なる事と仰せられ候、檢校承り、其通り少將樣へ申上げ候へば、手前存寄誤り候、重ねて此段申上ぐべしと、御意なされ候、侍共承り、有難︀しと申し候、
一、小松に於て、かぶき者︀之あり、辻立など仕り候由、御聞きなされ、長谷川庄太夫と申す御小人頭を仰付けられ、町をも𢌞り申す所、泥町を通り候へば、侍共の子、此頃、庄太夫、切々通り申し候條、少し痛め申すべしとて、二三人待ち受け候て、庄太夫通り申し候節︀、當鞘仕り、何かと申し候はゞ、切り申すべき體に候、庄太夫直に御城に罷上り、右の體申上げ候へば、御意には、謂れざる侍町を通り申す事かな、なぜに町屋計りを𢌞らずして、あぶなき事に遭ひ申し候と御意にて、其後侍町をば、忍びて漸く通り申す由、右の親共承り候て、狼藉なる儀致し候故、いか樣に仰付けらるべくも、計り難︀く候處、扨々有難︀き御事、何れも何事も之あり候はば、一番に駈込み申すべき心底、各申し候、
一、小松に於て、御慰に鯉を御捕らせなされ候御留川へ、山崎長門舟にて參り、唐網を打たせ、鯉を多く取り申し候、御目付け共、其段言上仕り候へば、重寶なる事に候、長門祖︀父閑齋と申す武邊者︀、大坂にても武者︀大將申付け、祕藏に存じ候【一番館︀より上の手柄】者︀の筋の故、大分の知行を取らせ置き候處、長門もうい奴と相見え候、拙者︀法度に申付け置き候處へ罷越し、魚を取り申す儀は、一番鎗より上の手柄と、御悅にて御座候、長門承り、彌〻武勇を勵み、鯉取り申す儀は止め申し候、杉江兵助も長門に連れられ、參り候由物語候、【 NDLJP:63】【隱居の後は藩政に容喙せず】一、御隱居以後、筑前守樣より仰上げられ候は、馬𢌞組頭に明御座候間、此內御差圖遊され下され候樣にと、侍十人計り御書付なされ、小林檢校を以て、御伺ひなされ候處、暫し御思案なされ、筑前に家督相渡す上は、何にても目利次第に仕るべく候、我等隱居の上は、差圖に及ばず候と、御書付を御返しなされ候、其段光高樣へ檢校申上げ候處、未だ御若年故、御差圖も下さるべき御事と思召し候處、御行當の御樣子に候、其後右御書付御覽遊され候へば、御爪點懸り之ある旨、夫に就き仰付けられ候、之に依つて、家中の人々存じ候は、中納言樣より諸︀事御差圖なさるまじと御意の上は、筑前守樣思召次第と存じ奉り、彌〻諸︀事嗜み、御奉公仕り候故、筑前守樣御威光付き申し候、
一、小松邊御鷹場、猥に殺︀生仕り候に付、重ねて急度觸れ申し、彌〻法度强く、野𢌞の者︀も油斷なく出で申し候、其後御法度場の內、小島村にて、若城小兵衞、雁を鐵炮にて打ち申す所を、野𢌞見附け、其段書付上げ申し候、御覽なされ、小兵衞は鐵炮稽古仕り候か、呼に遣し候へと仰出さる、小兵衞定めて御仕置にも仰付けらるゝかと、人々存じ、小兵衞了簡仕り候て、罷出で候處、御次へ召出され、小兵衞は小島にて雁を二つ打ち申し候由、玉二つにて打ち申し候やと、御尋之あり、小兵衞申上げ候は、つなぎに打ち申し候由申上げ候處、扨々能く打ち申すと、御感遊され、今時の雁は渡り懸けにて、料理にはなり難︀きものに候、鐵炮の內が羨しくと御意にて、小兵衞安堵仕り、有難︀き儀と、後々まで語り申し候、
一、栗田四郞左衞門、御法度場にて鷹仕り候由、御橫目書付上げ候へば、津田玄蕃まで仰出さるゝは、四郞左衞門
一、中納言樣、小松に御座なされ候節︀、くし村に茶屋女七八人之あり、小松の若者︀共參り、遊び申し候、或時、小松町人共の子供參り、七八人一所に寄合ひ、酒など給べ、遊び申し候處、小松より侍衆の小供、牢人など同道にて、罷越し候へば、此跡飛驒守樣の御道具持にて候者︀、筋氣を痛み、くしへ引籠り罷越し、其家を借り候て、右町人共遊女集め居り申し候、然る所、跡より參り候侍共腹立ち、邪魔を入れ申すべしとて、草履取共をば海︀老町の松原まで遣し置き、右寄合ひ申す家へ礫【 NDLJP:64】を打ち申し候、是れ狼藉とて、亭主刀を拔き、棒を突︀き、大戶より覗き、中々我等足にては、追駈け申す儀はなるまじとて、立歸り候へば、彼町人共、脇差を拔き連れ、一度に罷出で、狼藉者︀遁すまいと申す所を、外に居申す衆、心得候とて、追捲り、町人共大方手負ひ遁込み、侍方には手負もなく、小松へ引取り申し候、其節︀、小松町奉行神︀尾藏人・淺野藤右衞門に案內申すと、兩人早々くしへ參り、見分致し、翌朝言上致され候、子共の親竝に一類︀共、是は苦々しき儀を仕出し、其身は勿論、親一類︀まで迷惑仕るべしと、難︀儀致し候處、御意には、手前召仕ひ候侍の子供が、町人に
一、小松に御座なされ候節︀、靑山織部未だ五百石にて、能州に在鄕致し罷在り候、其時分、能州に鹿御放ち置きなされ候を、織部家來、鐵炮にて鳥打に罷出で、岩越に見候を鳥と存じ、鹿を打殺︀し申し候、早々罷歸り、織部へ申聞け候に付、織部迷惑致し、早々用意仕り、小松へ罷越し候處、粟生の松原にて、大橋又兵衞に行合ひ候、織部見候て、御自分は何方へ御越と申し候へば、されば能州にて御放ちなされ候鹿を、何者︀やらん、鐵炮にて打殺︀し申し候由、百姓共申上げ候に付、早々穿鑿仕るべき由、仰出され候故、罷越し候由、又兵衞申し候、織部申し候は、其鹿を打ち申すは、我等家來にて、只今罷越し、言上仕り候間、是までの儀に候はゞ、御越には及ばずとて、又兵衞同道致し、小松へ罷越し、右の段々申上げ候へば、御意には、岩の上に頭計り上に動き申すを、鳥かと存じ、打ち申す段、左樣にも之あるべく候、織部に振舞給はせ申すべき旨仰出され、御小袖二つ拜領仕り、有難︀き仕合と悅び、罷歸り申し候、
【大橋長成の諫言】一、故飛驒守樣、何やらん、中納言樣御意、以ての外惡しく御座候、大橋市右衞門、御前へ罷出で、飛驒守樣御如才御座なき旨、申上げ候處、以ての外御機嫌惡しく、其方生駒監物と咄し申す故、賴まれ取合を申すか、親子の中にて不調法なる事、能く知つたる事と、御意なされ候、其時重ねて、市右衞門申上げ候は、監物などが賴み申すとて、取合ひ申すべきか、飛驒守樣、御如才なき儀と、承る故に候、御爲を存じ、斯樣に申上げ候と申し候時、さて〳〵憎︀き奴めかな、是へ寄れと御怒り、【 NDLJP:65】御脇差に御手懸けられ候故、御手打に遊さるべしと存じ、自分の脇差を次の間へ投げ、丸腰にて御前近く罷出て候へば、御脇差を鞘共に御拔き候て、己めに取らせんと仰せられ候て、御出でなされ候を頂戴致し、存じ寄らざる仕合、有難︀しとて、感淚流し罷出で候、
一、利常公、御年若の時分より、召仕はれ候權內と申す御草履取、後に多田權內と名字附け、御露地方へ召仕はれ候、或時、御露地御出て、權內御呼び候處、町へ罷出て、居申さゞる由に候へば、暫し御立留り、權內、親果て候て、三十三年かと思召し候、今月祥︀月に候間、定めて寺へ參りたる物にて候はん間、御尋ね候へと、御意に付、尋に遣し候へば、其通りに候、則ち御聽に立ち候へば、弔ひ仕り候へとて、銀二枚下され候、下々の事まて、斯樣に御心付、上下有難︀く存じ奉り候、
一、或時、御鷹野に御出て遊され、晝時分に御供中へ御菓子下さるべしとて、何れも芝草の上に、畏り罷在り、赤飯︀下され候、御鷹匠宇野七郞右衞門、御鷹居ゑ畏り罷在り候、膝の脇に、四五寸計りの竹の筒之あるを、御覽遊され、子小姓衆を以て、其竹筒は何にて候やと御尋ね候へば、殊の外迷惑仕る體に候故、心得難︀く、迫付き相尋ねられ候へば、小聲になりて、痲病を强く疼み申すに付、之を箝め候て罷出で候へば、蹲ひ申すに、つかへ申し候に付、はづし置き申し候と、申上げ候へば、御前近く御聞きなされ、扨々奉公に、精︀を出し申す者︀と御意にて、小判三兩拜領仕り候、
【光高夫人の淑德】一、少將樣御逝去二三年過ぎ、淸泰院樣へ、御拜領の御伽羅御座候はゞ、下さるべき旨、仰進ぜられ候處、御返事に、筑前樣御離れ遊さるゝ後、左樣の物も、下々へ取らせ、只今は御座なく候由、仰せ進めらる、中納言樣、殊の外御感遊され、御尤千萬と御意なされ候、
一、中納言樣御姫樣の內、御竹樣と申すを、本多長松〈後安房守政長〉方へ遣され、小松より金澤へ御嫁娶の節︀、道中長柄十本御持たせ然るべき由にて、其段、仰上げられ候へば、其通りと仰出さる、小松會所奉行方より、御拵はいかゞに仰付けらるべく候やと、相伺ひ申し候處、何鑓にても遣すべく候、安房方に、常々長柄等多く拵へ置き申し候間、道中さへ持たせ遣し候へば能しと、御意なされ候
一、御草履取半九郞と申す者︀、御露地などへ御出での節︀、每度御供罷出で申し【 NDLJP:66】候、或時、品川左門に仰付けられ候は、半九郞儀、身𢌞むさく候間、取らせ申すべき由、御意なされ候、左門心得にて、了簡計らひ難︀く、晩方、半九郞に何を下さるべくやと、伺ひ候へば、御聞き遊され、先づ木綿一匹十二匁・裏表の染賃三匁五分・綿三匁、以上十八九匁にては、大方綺麗になり申すべく候へども、小判三兩取らせ候へと、御意なされ候、斯樣の細かなる儀までも、御存知遊され候と、驚き申す旨、左門物語なり、
一、少將樣より御使小塚︀監物を、中納言樣へ遣され候へば、御前へ召出され、御返事直に仰付けらる、竹田市三郞を召し、御召下の小袖を、監物に取らせ申すべき旨、仰付けられ候に付、御納戶奉行へ申渡され、御小袖二の廣蓋に入れ、御前へ持たせ、出されければ、納戶に之ある分、殘らず遣し申すべき由仰せられ、御衣桁三つに之ある分、御小袖殘らず拜領仕り、人足七八人に持たせ遣し申すべき由、少將樣へ監物、此儀申上げ候へば、さりとては御器︀用なる御生付と、御意なされ候由、是も御心得之あり、下され候樣に、市三郞申し候由、
一、或時、岩松樣〈後彈正大弼〉御越しなされ、御歸り、市三郞を召され、大弱岩松近所に遣ひ申し候子小姓、扨々むさき裝束にて仕へ申すと、御意なされ候、安藝守樣御差圖にて、諸︀事御心任せには罷成り難︀く候はんと、申上げ候へば、土藏に之ある卷物、一長持持參すべしと御意にて、昔渡りの純子・繻珍百四五十卷之あり候なり、此卷物を、岩松方へ遣し申すべしと御意にて、則ち右の長持取寄せ申すべき由、御意にて、御移させ、其卷物共の表二尺計り宛裁切り、割き遺すべく候、安藝守殿吝き人にて候間、主の土藏に入れ申さるべく候間、切懸遣し然るべしと、仰せられ候由、
一、高岡瑞龍院御建立遊され候節︀、百姓旦那共、御菩提所に、下々位牌立て置き申し候儀、憚多く御座候間、似合しき寺へ、位牌を引き申すべしと、寺へ斷り申し候を、住持下にてはいかゞ心得難︀き由にて、小松へ參られ、右百姓旦那共斷り申す【百姓佛侍佛の差別なし】由、申上げられ候へば、御意には、百姓佛・侍佛と申す事候や、佛は何れも一つと思召し候間、苦しからざる事、然れども生きて之ある內は、差別之ある事に候間、旦那共參詣仕り候處、別に作り遺すべく候間、跡々の通り、致し申すべき旨、御意にて、住持罷歸られ、其段百姓旦那共へ申渡され候へば、扨々佛になり候へば、殿樣も我々體も、一つにて候や、有難︀き御事かなと悅び勇み、彌〻信心になり、時々【 NDLJP:67】の出來物の初穗、幷に藁・薪等に至るまで、寺へ先づ上げ、代々後住も辱がり、寺も富貴に御座候、とかく御名將の御言葉は、以後々々迄も朽ち申さず候、
一、或時、上海︀道江戶へ御越の節︀、日坂にて、所の名物にて候間、蕨餅召上るべしとて、上り申す所、御扶持人の御菓子師共の仕り候とは、格別風味も能く候間、之を仕り候者︀は、如何なる者︀に候やと、御尋ね候へば、七十計りの老女がねり申し候由、申上げ候へば、夫れ雇ひ參り候へと、仰出され候、則ち御菓子道具入れ、御長持の上に、毛氈を敷き載せ候ひて參るべき旨、仰せられ候故、其通りにして參り候處、當中にて用間等嚴知通り、跡に
一、谷與右衞門に御加增下さるべく候間、左樣に相心得申すべき旨、竹田市三郞に仰付けられ候處、今晩は夜も更け候間、御折紙明日相調へ申すべくやと、申上げられ候へば、明日までの內、何事あらんも計り難︀し、さ候へば、遺し候はんとの思召も、無になり候へば、早く調へさせ、一時も早く悅ばせ申すべきの旨、御意にて、其夜下され候、
一、高澤牛之助に、御加增百石下され候處、親平右衞門方に罷在り候陪臣の儀に候へば、身に餘り有難︀しとて、小松へ夜通しに罷越し、御肴上げ申したしと、出頭を賴み候へば、彼方此方と仕り候內、御聽に達し、牛之助父平右衞門悅び、金澤より夜通しに參り候由、御聞きなされ候、左樣に悅び申すに、百石はいかゞに候間、今百石取らせ候へと、以上二百石下され候、
一、或時、江戶へ上通り御越し遊され候時、關ケ原にて、道脇に人多く之あるを、御覽遊され、あれは何事にて候やと、谷與右衞門に御尋ねなされ候故、罷越し、與右衞門相尋ね候處、東門跡御通りと承り、拜みに、近江より出で申すと、其段、申上【 NDLJP:68】げ候へば、御機嫌惡しく、乞食坊主めを何拜み申すべくやと、御意にて、明くる日、熱田を御通り遊され候節︀、又昨日の通り、人多く罷出で候を御覽遊され、笠間源六に、あれは何事にて、人多く出で申すやと、御尋に付、源六罷越し、相尋ね候處、是も門跡を拜みに罷出で申す由に付、其段申上げ候へば、扨々誰もなるまい生佛とは、門跡の事と仰せられ候、
一、遠州金谷に御泊りなされ候、御宿の後に、人多く群集仕り候、あれは何事にて候やと、子小姓共參り見申し候へと、御意にて、一兩人參り見申し候ひて罷歸り、小寺に江湖を附け、夫にてわやつき申し候、蓮の美しく御座候故、貰ひ申し候へども、吳れ申さず候と、申上げ候へば、いかゞ思召し候や、銀子五十枚、御使者︀を以て遣さる、斯樣の所にて、江湖など置き申さるゝ事、殊勝候、之に依つて遣さるゝの旨、其寺に寄り申す僧︀三百人餘之あり、何れも肝を潰し、感じ申す由、集僧︀共本國へ歸り、何れも物語り仕り候故、諸︀國に隱なく、御信心なる殿樣と、申しならし候、
一、大猷院樣、御氣色惡しく候由にて、一年計り、諸︀大名衆御目見も御座なく、いかゞの樣子ならんと、何れも不審をなし申す時分、肥前島原一揆起り、近々追手遣さるゝの節︀、中納言樣は本鄕御屋敷、築山なされ、八丁堀、其外所々より、大石・作り木、每日修羅・牛車にて引き申し候、町より木戶共につかへ申す所をば、大工大勢遣され、毀ち引通し申す跡より、又結構に建て遣され候へば、あはれ肥前殿の石・植木通り候へかしと、願ひ申す由にて御座候、其內、島原彌〻募り申し候へば、肥前殿に普請之ある體は、定めて嚴めしき事はあるまじと、申しならし候、【島原の亂出陣の許可を幕府に請う】然る所、筑前樣召させられ候ひて、島原一揆共、鎭り兼ね申す旨候間、罷越し、鎭め申すべき旨、上樣申上げられ、退治致され候へと仰せらる、筑前樣御意には、陣用意に〔をカ〕も致さず、俄には如何之あるべくやと、仰せられ候へば、其段、何ともなるべき儀と、御意に付、御老中を以て、御望みなされ候へば、誠に御滿足に思召され候、御自分、馬を出さるゝ程の事にては之なく候間、今般は御願ひなさるまじく候と、上意にて御座候、其後金澤老中へも、自然、筑前樣、島原へ入らせらるゝ事も之あるべく、御左右次第、關ケ原迄、御人數を繰出しなさるべき由、御內意之ある由、扨中納言樣より仰上げられ候は、昔より加賀國は、一揆切々起り申し候間、斯【 NDLJP:69】樣の節︀に候間、淡路守儀、國の締に遣し申したく存じ奉り候、筑前守と幷に私儀は、江戶に相詰め申すべき由、御訴訟なされ候へば、一段御尤なる御事の由、上意にて、淡路守樣へ御暇進ぜられ、御歸りなされ候由、是も御心得之ある事と申し候、其以後、追手西國大名衆、島原へ遣され、大坂まで下り申され候處、西國通の大船共、加賀の肥尉嚴より御雇ひ候間、貸し申きず候、手
【岡島內膳】一、小松へ御隱居の後、御老中より切々進物上り、御奉書抔下され候刻、岡島內膳方より、樹木の枇杷一籠上げ申し候處、御覽なされ、枇杷は我等嫌物とて、召上られず候、其後、又枇杷を上げ申し候へば、異な物吳れ申すと、御意にて暫く之あり、御意には、內膳律義者︀に候、近習の者︀共へ、手入を仕らず候故、我等嫌物の段、知らせ申す者︀之なしと思召され、見事なる物を度々吳れ候て、御滿足遊され候段、御奉書下され候、御名將の思召は、格別の儀と、何れも感じ奉り候、
一、葭島御數寄屋にて、金澤老中を始め、御茶下され候、其後、小身者︀共四五人、御茶下され候節︀、今日の客に、六かしき者︀之ある由にて、御自身御飾抔も遊され候を、御近習、誰にて候やと、不思議に存じ候處、市川長左衞門上座候處、大雨降り申す節︀にて、笠を冠り脇をも見ず、足早にて御數寄屋へ入り、會席下され、御茶濟み、罷出で候刻、笠をも著︀けず、雨に濡れ、心靜に御露地のそこ〳〵まで拜見致し、罷歸り候、夫を御勝手より御覽遊され、さればこそ、長左衞門六かしき客と、御意なされ候、彼長左衞門儀出頭、古田織部方へ、切々御使に遣され候故、肥前守樣より遺され候者︀の由、
【利常の諸︀名將觀】一、利常公御代には、御咄衆とて、古事ども見聞きたる者︀四五人、每夜御夜詰に罷出で、四方山の事共申し候、其內太閤樣の儀、咄し申し候時分は、太閤抔は無類︀なる御生得と、御意なされ候、信長公の儀、咄し申し候節︀は、武勇なるお人と仰せ【 NDLJP:70】られ候、越後謙信公の儀、咄し申す節︀は、餘程なる生付と仰せられ候、楠又は信玄などの咄之ある時は、小くて役に立たぬと、御頭を度々振りなされ候、
【尾張家の光高招請を辭せしむ】一、大姫樣〈淸泰院樣なり〉御輿入候ひて後、尾張樣より、筑前樣を御振舞なさるべき由、仰遣され候、今枝民部を以て中納言樣へ、いかゞ仕るべく候やと、御伺ひ遊ばされ候へば、御意には、尾張殿など筑前召寄せられ候に、何かと申し難︀き事に候と、御意に付、筑前樣御禮に御越し、御日限も明後日と申す日、中納言樣、今枝民部を召され、尾張殿へ近日參られ候由、入らざる儀と御意なされ候、民部行當り、最前私を以て、御談じなされ候へば、尾張殿など召寄せらるべしと之あるを、否とは申し難︀き儀と、御意なされ候に付、日限まで御極め、旣に明後日と相極め、殊の外御造作も、御用意共、大方相調ひ候由承り候、只今になり、いかゞ御申しなさるべく候やと、申上げ候へば、持病差發り、參らるまじくと申遣し、然るべく候、造作をなされ候事は、筑前參られず候ても、御馳走を請け申す事は同前、表向參り候儀、宜しく之あるまじと、御頭御振りなされ候、民部罷歸り、其段、筑前樣へ申上げ、其通り仰せ遺され候、
【武藝の奬勵】一、利常公、江戶へ御立ちなさるべき二十日計り前、侍共の子供に、弓能く射申す者︀共、御吟味なされ、十人餘召出され候、其內、大久保五郞左衞門・久保庄左衞門・奧村彥四郞・不破甚助四人は、江戶への御供仕るべき旨にて、俄に拵へ、罷越し候處、越中境にて、四人共に御知行下され候、是にて御家中子供、弓稽古精︀に入れ申し候故、能く射申す者︀多く出寒、亦御供をと御出され候へば、
一、淡路守樣御守は、生駒內膳御附け置きなされ候、或時江戶にて、何やらん、目出たき折節︀、御酒宴御座候ひて、中納言樣より筑前樣へ、御腰物進ぜられ候、其夜御寢間の次まで內膳參り、竹田市三郞に申し候は、筑前樣へ今日御道具進ぜられ候、筑前樣は御大名にて御座候、淡路守樣は御小身に御座候、御道具も進ぜられず候事と、つぶやき申し候、御聞きなされ、市三郞を召され、內膳は、酒に醉ひ參り候やと、御尋ね遊され候、左樣には相見え申さず候、淡路守樣へ御道具抔、進ぜられず候事を申し候と、申上げ候へば、扨々主の事大切に存じ候者︀とて、翌日、結構なる御道具進ぜられ候由、
一、筑前樣へ大姫樣入らせられ候後、將軍樣上意には、手前餘程の年に候へど
【 NDLJP:71】【將軍家光光高を養子にせんとす】も、男子も之なく候間、筑前を養子なさるべき旨、思召され候間、肥前にも、其段相談申すべしと、老中迄仰出され候、何れも御尤と申され候、筑前樣へ此旨御申し候處、上樣、未だ御子の御出產遊さるまじき御歲にても、御座なく候間、追付若君樣御誕生なさるべく候、先づ御延引遊され候樣にと、仰せられ候へば、御相談も止み居り申す所、翌年、上樣御召仕の女中、懷胎にて候由、御聞きなされ、肥前樣、仰上げられ候儀、殊の外御滿足に御召され候、此程竹千代樣御出生なされ候處、上樣御悅にて、先づ肥前に早々聞かせ申すべしと、上意にて申來り候、夜中の事にて候度。此間模、畢畢務計もにて御々し、早々御出て、
一、江戶に於て、御出入の衆、御出の節︀、內藤外記殿御申し候は、諸︀大名衆、何れも諸︀事上樣の御風樣々致され候、此方の御家と政宗殿には、左樣御座なく候と、【昔は內府大納言として兩輪の如し】取沙汰仕り候由、御申し候へば、御機嫌惡しくならせられ、昔は內府・大納言と申して、兩輪の如く、太閤の御時節︀は申し候、大納言は早世、內府は長生にて、天下を御取り、身共は御下になり候へども、御取立の者︀の樣には、之あるまじく候、政宗も身共に次いでは、其心得にて候はんと、仰せられ候、
一、或時、江戶御屋敷へ、中納言樣入らせられ、御式臺に、御番張紙之あるを御覽【 NDLJP:72】なされ、筑前樣へ御意にて、番張の次第、高知先に書き申し候、高知の者︀にも、親・祖︀父より取らせ來り候故、是非なく知行を多く遣し候へども、小身なる者︀にても、器︀量次第に書き來るものなり、家老・組頭抔の調べ申すには、高知を先に書き申す筈、主人見候ひては、働のある者︀を先に、然るべしと御意なり、
【乘打の百姓の罪を赦す】一、或時、越中へ御鷹野に御越し、新庄に御座なされ候ひて、其近邊御鷹御
【利常本多政重横山長知の硬直を謝す】一、小松へ御隱居、葭島に御露地なされ候ひて、佃源太左衞門に仰せられ、金澤玉泉院丸に之ある石を持たせ參るべき旨、人足多く差添へられ遺さる、源太左衞門罷越し、御庭へ入れ申すべしと仕り候處、番人共、安房守・山城守申渡さず候へば、入れ申す事ならず、勿論石など出し申す儀は、罷成らず候由、申すに付、是非なく源太左衞門、安房守方へ參り候て、其段申し候へば、小松より仰下さるゝ儀に候へども、筑前樣御預の御城の事に候へば、申付け難︀く候、罷歸り候樣にと申【 NDLJP:73】され候に付、山城守方へ參り、其通り申入れ候へば、安房守同事に付、源太左衞門、色々申し候へども、承引之なくに付て、小松へ罷歸り、委細申上げ候へば、何の仰出されもなく、打過ぎ申し候、其後小松にて、定めて御機嫌惡しく候はんと、筑前樣へ山城自筆にて、兩人より江戶へ言上致され候へば、此以後も、小松より御用と之あり候はゞ、何によらず、氣遣なく上げ申すべしと、御自筆の御書下され候て、其奧に、
蘆の葉を音せば雁の聲立てゝすなほなき子に親のわづらひ
斯樣に遊され下され候、兩人頂戴仕り候、其以後、小松へ伺ひ申す儀候て、安房守・山城守兩人罷越し候處、御意なされ候は、兩人の者︀共へ、禮を申したき事之あり候へども、使を以ても申遣さず候、是へ呼び候へと、竹田市三郞に仰付けられ、兩人御前へ罷出で候處、內々兩人に會ひ候て、禮申すべき事之あり候、日外金澤城中へ石取に、佃源太左衞門遣し候處、越し申さず候、兩人共に賴もしものと思召し、筑前へ遣し候へども、我等申す儀さへ、筑前より申渡さず候へば、越し申すまじき段、尤至極、是程とは思召されず候、御安堵なされ候由、御意候へば、兩人有難︀く存じ奉り候、山城は淚を流し申し候、安房は、左樣に思召し候やと計り申し候、何れも馳走して、返し申すべき旨仰付けられ、御振舞下され歸り候由、
一、利常公、正宗殿へ御振舞に御越しなされ候處、ゆる〳〵と御咄御座候處、陸奧殿、中納言樣の御腰物見、譽め申され候、御所望の體に相見え、御相伴衆も左樣見請けられ、正宗殿あれ程御望の體候間、御出しなさるべしと、存ぜられ候處、少しも御頓著︀なく御歸り、上屋敷へ御立寄り、御相伴衆も參られ候、其節︀仰せられ候は、今日我等雲次の刀、正宗望の體に申され候間、遣し申すべき儀と、何れも存ぜらるべく候へども、定めて正宗所持の名物、貞宗の刀を給はるべき體に察し候故、遺し申さず候と、御意なされ候、其後、正宗殿にて勝手に居申され候衆へ、御相伴衆御物語候へば、主の家傳の貞宗を、中納言樣へ進じたしと申され、袋へ入れ、次の間まで取出し置き申され候、名譽なる儀と、何れも申され候、
【母玉泉院の爲め自ら導師となる】一、玉泉院樣御逝去なされ、御死骸の御番に、野田桃雲寺仰付けられ候處、前廉寶圓寺伴翁和尙より御請け候血脈を、御枕本の御屛風に、小太夫と申す女中、懸け置き申す所に、番仕り候出家、之を取り隱し、見え申さず候、其上にて導師を致【 NDLJP:74】すべしと存ぜらるゝ體、御聞きなされ、導師は人に致させ申すに及ばず、我等仕るべき由にて、御自身導師遊さる、寺は時宗寺へ御移し、其後、玉泉寺と寺號御附け遊され候、其節︀は、僅かなる寺に御座候處、右仕合にて候、
一、小松にて、奧村五兵衞前に、火を付け申すべき由、札を立て候處、近所にも騷ぎ、町奉行共夜行の儀强く改め、騒動仕り候處、五兵衞方より召仕ひ候若黨、主人に申し候は、此札を立て申す者︀、私にて御座候、御恨御座候へども、私式の儀候へば、別に意趣仕るべき樣御座なき故、札を立て申し候、何分にも仰付けらるべく候由申し候、則ち五兵衞より其段申上げ候へば、若黨以下には、似合ひ申す事仕り候、其身より罷出で、斯樣に申すは、奇特なる者︀と思召し候間、五兵衞召仕へ、目をも懸け候はゞ、一度は役にも立ち申すべき者︀と、御意なさせられ候、扨々名譽なる御儀と申し候、
一、江戶より御歸國の刻、越後山下御通りの節︀、波餘程立ち申し候、御供衆大方山の方へ付き申す所、今枝伊兵衞、海︀方に付き、御供仕り候所、波高くなり、餘程濡れ參り候、堺の御泊へ入らせられ、伊兵衞御目通りにて、通ひ致させ申すべき旨、仰渡され候故、罷出で御通ひ仕り候處、子小姓衆御前にて食給べ候故、食鉢を持參、つぎ申す時、御笑ひ遊され、伊兵衞初心者︀、女や子小姓には、食多くつぎ申す物にて、少しあてつぎ申す事、初心者︀故と、御意なされ候、是は山の下にて、波を懸り、御供仕り候儀、御意に應じ候故かと、皆々勇み申す由、
一、京都︀買手役、高田彌右衞門仰付けらるべく候由御座候處、御前に在合ひ申す衆、彌右衞門儀、殊の外勝手摺り切り、中々京都︀へ遣され候ひても、罷成り申すまじき旨、申し候へども、御意には、夫は惡しき批判、人を仕ふは、心を仕ふ物にて、利根なる者︀に候間、なるべくと思召し候間、仰付けらるべしと、思召し候由にて、罷立ち候時分、宗乘の三物一通・祐︀乘の目貫一具・緞子の卷物十卷下さる、是は賣り候ても、早速賣れ申すべく候間、銀に致し遣ひ候へと、御意なされ候、金銀をも下さるべく候へども、御家來他國へ遣され候節︀、手前罷成らざる者︀の例にも、如何思召し候故、御道具下され候やと、何れも不審仕り候由、
【本多政重横山長知の諫言】一、中納言樣、未だ金澤に御座なられ候節︀、子小姓御好き召仕はれ候、安房守・山城守申し候は、御國に人多く、御譜代も多く候に、他國者︀召置かれ、御近習に召仕【 NDLJP:75】はれ候儀、いかゞに候間、此儀兩人罷出て、申上ぐべしと相談にて、登城致され、申上げられたき儀候間、罷出で候由、取次にて申上げられ候へば、何ぞ急御用かと思召し、御出で兩人召出され候に付、右の段申上げ候へば、以ての外、御機嫌損じ、推參なる儀、糞をくらへと仰せられ、奧へ御入りなされ候處、兩人腹を立て、退出仕り候へば、いかゞ思召し候や、兩人の者︀に振舞給べさせ申すべしと、淺香左京に仰付けられ候故、左京下馬まで追懸け、其段申し候へば、安房守申し候は、終に給べ付け申さぬ物を給べ候へば、腹ふくれ、振舞などは食はれ申すまじと、乘物に乘り、歸り申し候に付、其段申上げ候へば、兩人腹立ち仕り候やと、御意にて、おもかげの御壺御取寄せ、御自身口を御切り、茶二袋御取出しなされ、御臺所より御肴一種宛御添へ候て、安房守へは大橋市右衞門、山城守へは荒木六兵衞御使にて、兩人へ給はり申すべき旨にて下され候、山城守は上下著︀用仕り、罷出で頂戴仕り、御請申上げ候、安房守は、市右衞門會ひ申すべく候へども、先刻、太郞殿より、給べもつけぬ物を下され候故、食傷致し、臥して居り申し候間、能き樣申上げ候へと、使にて申出で候、市右衞門申し候は、御直に仰渡され候御使に候故、左樣の儀申上げ難︀く候間、是にて覺悟申すと申し候へば、左候はゞ通り候へとて、居間寢所へ呼び、會ひ申す所に、市右衞門、御使の趣申述べ候へば、扨は御機嫌も直り候と見え候とて、肩衣取寄せ著︀候て、兩種頂戴置くと申され、御請の由、
一、或年、江戶より上通御歸り候折節︀、安房守も在江戶にて罷在り候所、筑前樣、安房守召連れられ、品川まで御見送御出でなされ候、其節︀中納言樣、御乘物の內にて、御寢御座なされ候を、脇田三郞四郞御供仕り、御駕籠の戶を明け候へば、御目覺め、筑前樣御出てと申上げ候へば、御駕籠より御下り、御暇乞なされ、安房守にも御挨拶なされ候へば、存の外御暇早く仰出さる、御國中何れも悅び、待請け申すべしと申上げ候、淡路守樣・飛驒守樣御會の節︀は、御乘物召しながら御通り、筑前樣御會ひ候節︀は、何時にても御下りなされ候て、御挨拶御座候由、
一、神︀尾主殿十五六の時分、松の枝おろさせ申す奉行、仰付けられ候へば、腹を立て、元服仕るべしとて、御訴訟申上げ候へば、主殿は役を申付け候事、腹を立て申すと思召し候、あれらは何事も之ある時は、一方の下知をもさせ申す者︀に候故、海︀山嶮難︀をも見せ置き申すべしと、夫故申付け候、合點仕らずと思召し候由、【 NDLJP:76】御意の由、
一、上木殿と申す女中、御前にて、此間、私方へ熊野比丘尼參り、地獄極樂の繪を懸け申し候由、申上げ候へば、御意には、御覽なさるべしとて、中土居の御座敷にて懸けさせ、比丘尼其譯を解き候、番人ども其外在合ひ申す者︀共、何れも參り、見物仕り候へと仰せられ、何れも罷出て、見物仕り候由、
一、伊藤內膳、檢地奉行致し候節︀、在々に一向宗之あり、寺地下され罷在り候、是等御取上げ、地子に仰付けられ候へば、大分の御銀、上り申すべしと、申上げ候へば、內膳は合點せぬか、國々の仕置、大方門跡より致され、我等仕置は少分の事、【一向宗が重寶々々】一向宗が重寶々々と、御意の由、
一、或時、內藤外記殿、御屋敷へ御出で、此間、前田右近殿、高尾と申す傾城を御請出の由、殿中にても、脇々にても、沙汰仕り候由、申上げられ候へば、御意には、若き者︀に似合ひたる儀致し候、されども小身に候間、銀子などは遣ひ樣に、惡しき首尾も候はゞ、銀子取らせ申すべき物をと、御意なされ候、其後外記殿、方々にて物語に、右近はたわけかと存じ候へば、悧發者︀にて候、中納言殿の樣なる、銀を吳れる後立持つならば、
【今枝伊兵衞】一、江戶にて、片桐石見守殿へ、御茶の湯に御越し遊され候節︀、御袷三つ、溝口金十郞殿まで、持たせ遣し置き申すべしと、其節︀の御召料奉行、今枝伊兵衞・野村半兵衞に仰付けられ候處、宰領を付け遣し申し候處、金十郞殿へ罷越し候へば、直に石見殿へ御越申す說を承り、石見殿へ罷越し申し候、中納言樣は金十郞殿へ御越し遊され、御袷御乞ひ候へども、右の持參人居申さず、御機嫌損じ、御歸りなさる、伊兵衞罷出で、御目見仕り居り候刻、沙汰の限りと、御叱り遊され候、伊兵衞、何事とも合點仕らず、何事にて候やらんと、存じ居り申し候處、左門を以て、段々御叱り、伊兵衞も宰領まで付け、念を入れ、申付け候へども、御點に合ひ申さゞる段、迷惑仕り候と、申上げ候へば、宰領二人と持參人四人と、牢舍仰付けられ候、伊兵衞申上げ候は、手前申譯に立ち候へども、其分にては差置き難︀く存じ候間、御近習衆まで申上げ候は、尤念入れ申付け候へども、間違ひ申し候、私持參仕【 NDLJP:77】り、殿樣入らせられ候を相待ち申すべき所、其儀なく、御點に合ひ申さず候段、遂惑仕り候、牢舍の者︀共御免︀遊され、私を迷惑に仰付けらるべき旨、申上げ候へども、其段は早く候間、相待ち候へと、何れも申され候へども、是非に〳〵と申し候て、品川左門を以て申上げ候處、伊兵衞、左樣に申し候はゞ、牢舍人共許し候へと仰出され、事濟み、有難︀き仕合の由申し候、
一、下通道中にて、板垣小平、步行御供仕る刻、殊の外草臥れ申す體を御覽なされ、御召の草鞋を取らせ候へと、御意にて、辱く存じ戴き、穿き替へ、又一里計り續き申し候、勘左衞門も草臥れ申すと御覽遊され、是には御馬御貸し、扨其晩御泊にて、板垣には
一、淡路守樣へ、御人分渡邊助右衞門と申す者︀遣され候、所の御代官にて、引負仕り候、其外私曲御座候に付、御成敗もなさるべき旨、林小右衞門を以て、中納言樣へ仰上げられ候へば、以ての外御機嫌惡しくならせられ、助右衞門一門は、誰々に候や、左樣の奴をば、淡路守律儀にて、我等に申聞け候、早々引張り切に致さいてと、御意なされ候、近親類︀共も迷惑に及び申すべき體に御座候、民部に、渡邊は何時分よりの奉公人に候やと御尋ね、民部も存ぜず候故、其日の當番人の內に、能く存じ候者︀、大納言へ召出され、御奉公仕る似合に、心ばせも之ある者︀と承り候由に付、其段、民部申上げ候處、左樣の者︀の筋が盜人せぬ筈、とかく氣遣たるべく候間、左樣淡路守へ申すべき旨御意にて、一門は申すに及ばず、御家久しき者︀、何れも辱がり申し候、渡邊彌三郞は、助右衞門弟にて御座候故、一入有難︀がり申し候由、
一、江戶に於て、御出入衆、御前にて色々御咄之ある節︀、先祖︀より取來り候儀は御差置き、牢人の身に致し候ては、手前など何程に抱へ申すべくやと、御申しなされ候へば、或は一萬石計りにも、御在付きなさるべく候やと申す方、又は四五千石計りもと申す方、之あり候へども、夫は皆分限なしに申され候、我等賣物に【賣物とならば四百五十石は取るべし】なり候はゞ、四百五十石までは取り申すべしと仰せられ候、皆々先祖︀より取り來り候のみにて、一分の身の程を知れぬと、御意なされ候、其時、岡田將監殿申され【 NDLJP:78】候は、渡奉公をなされ候はゞ、傍輩付は惡しく御座あるべしと、申され候へば、御笑ひなされ、夫はさうもあらうずと、御意なされ候、四百五十石との御意は、御家中は馬持の身代に候へば、馬は持ち申すべしとの思召に候やと申し候由、
一、中村久越、上方より罷下り、御前へ召出され、色々咄共、道中の事など、咄し申され候序に、越前の舟橋は、荷物を下し、雨降りなどには、迷惑仕り候由、申し候へば、舟橋より半道上り參り候へば、大方步渡と御意なされ候、他國の河等の儀まで、能く御存知なされ候と、久越語り申し候、
【領分の者︀多く江戶に來る】一、江戶に入らせられ候刻、津田玄蕃申上げ候は、御領分の人、多く江戶へ參り、方々に罷在り候間、御國へ御呼集めなさるべくやと、伺ひ申し候へば、其儘置き申すべく候、國の者︀江戶へ多く參り之あり候、幸の儀一段の事に候、何ぞと申す時は、本國に一門之あり、生國へ歸りたがる物に候、扶持をも吳れずに、江戶に多く居申すは、一段々々と仰せられ候、
一、奧村故河內、病氣に付、京都︀へ參り、養生仕りたき旨、申上げ候へば、御暇下され、其後、津田玄蕃に仰せられ候は、手前などの樣なる大名の家老、養生に上京致し候事は、遠慮之あるべき儀に候、京都︀は遊山共多き所に候故、養生には氣を ほう〔はらカ〕したるが能きものに候、然る所、誰家老が養生に上り、斯樣の仕方抔と風聞致し、あれにても大國の仕置仕り候やと申し候へば、國主の爲め、然るべからざる旨、御意なされ候、
【牢人の口過ぎ軍法】一、伴八矢を賴み、他國より西田覺右衞門と申す牢人參り、軍法を敎へ申し候、小松に於て、弟子多く取り、人持の內にも、弟子になり申す方之あり候處、津田玄蕃へ仰せられ候は、軍法を家中に習ひ申す者︀之ある由、人は隙に候へば、惡しき遊なども仕り候間、夫よりは斯樣の事習ひ申すが能く候へども、岩乘・弓・鐵炮稽古には劣り申し候、信長・太閤御時代より、手前家の軍法之あり候、之を折角守り申すが第一に候、左候へば、陣をも見申さず候、牢人の口過ぎ軍法は、何の役にも立ち申さず候、結句害になり申す儀は、御座あるべしと、御意なされ候、
【旅籠と木賃】一、中村久越申上げ候は、東海︀道折々通り承り候に、只今國大名中御供中、下々罷通り候に、
【操の見物】一、廣島御前樣より仰上げられ候は、此間堺町にて、日蓮の本地と申す
【利長の鑑識】一、或時御意に、故肥前守殿は、人々の目利よくなされ候、橫山山城・山崎閑齋、其外誰彼仰せられ、先づ第一我々を御見立てなされ候と御意の由、
【大坂出陣】一、大坂御陣觸に、何れも早々用意仕り候へ、三日の內、御立ちなさるべしと、御觸れられ候へば、奧村快心出で、申上げ候は、御日限今少し御差延べ、然るべく存じ奉り候、大坂までは餘程候間、其上、御家中用意も仕兼ね申すべしと、申上げ候へば、御意には、其方申す處、尤に候へども、申觸れ候事、はや違ひ候へば、此度の陣は、我等下知はきかぬ筈にて候間、其儘致し置き候へと仰せられ候、御尤なる儀と、快心も申し候、扨三日目に御立ち、道中程靜に御越故、御跡より何れも追付き申し候由、松任に一兩日御逗留にて、追々駈付け申す由、
一、大坂御陣の節︀、岡山に中納言樣御陣取り、高き所に、床机に御腰懸けられ御座候處、眞田左衞門陣より、鐵炮殊の外打ち申し候間、山蔭へ御下りなされ候樣、【山崎長德】誰彼申上げ候へども、御返事も遊されず候、然る所へ山崎閑齋參り候て、今日は【 NDLJP:80】風烈しく、自然風など御引き候へば、物前にいかゞに候間、山蔭へ御下り遊され候へと、申され候へば、誠に風烈しく候と仰せられ、山蔭へ御下り遊され候、閑齋尤なる申され樣と、何れも感心致し候、
【利常毛利秀就の足袋の紐を結ぶ】一、松平長門守殿、殿中に出仕候節︀、足袋の紐解け申し候、大太りにて、行步等不自由に付、中納言樣御覽遊され、紐を御結び遣され候、長門守殿辱がり、其節︀より御家來の樣に存ぜらるゝ體の由、
一、殿中に於て、松平大和守殿、諸︀大名衆の中にて、大坂御陣の咄など致され、人もなげに之ある體を御覽なされ、大和守殿の側へ御寄りなされ、御足を捲り、慮外がましき體を大和殿御覽じ、眼色替り、旣に事出來申すべき體に思召され候へども、何事も之なし、大和守殿、堪忍の樣體にて御座候、其後、十日餘過ぎ候へば、淡路守樣、大和守殿へ御會ひ候へば、肥前殿へ參り候て、申したく御座候へども、公儀を憚り、參ること申さず候、然るべき樣、御心得候て下さるべき旨、御申故、先日の御樣體御覽候故、是は異な事と思召し、其後安藝守樣へ、右の樣子御物語なされ候へば、夫は先日、中納言殿の、拙者︀を以て、大和守殿へ仰遣され候は、犬千代、幼少に候間、殿中などにて、御介抱賴み入る由、仰せられ候、大和守殿大に悅び候間、其儀たるべしと、安藝守樣仰せられ候、斯樣の儀、御方便と存ぜられ候、
【猪︀突︀の功を賞せず】一、金澤にて、小立野へ御鷹野に御座候て、淺野川河原に鷲〔鷺カ〕居申すを、鐵炮にて遊され候へば、かすり當りにて、河原を羽︀たゝき、步き申すを御覽候て、あれ捕へ候へと、御意なされ候處に、梶川彌左衞門、二三間高き
【 NDLJP:81】一、小松にて、或夜、古市左近方にて、竹田權兵衞に能を致させ、御近習に召仕はれ候者︀共に、見せ申し候へども、山岸三十郞をば呼び申さず候處、其段御耳を立て候や、御前へ三十郞を召され、夜もすがら仕舞など仰付けられ、御懇の事ども、常より勝れ申す由、諸︀事御心附、何れも有難︀がり候由、
一、江戶にて、御天守臺御普請の總奉行、久世大和守殿より、家老の內一人、明日五つ時過ぎ、差越さるべく候、御用の儀、申渡すべき由、奉書參り候故、今枝民部は、中納言樣御屋敷に罷在り候、靑山將監は加賀守樣御屋敷に罷在り、奉書の趣、御請の案紙調へ、民部方迄申上げ候所、御聽に達し、品川左門を以て申上げ候處、【利常に家老なし】其奉書左門讀み候へと、御意にて讀み候へば、其內に、家老と申す者︀は、持ち申さず候、家來の內一人遣し申すべしと、御請に調ひ申すべき旨御意にて、其通り調ひ遣し申し候、然れども誰を遣さるべしとも、仰出され之なく、はや御夜詰も過ぎ、御手水遊され候節︀、左門罷出で、明日、大和守殿へ誰を遣さるべく候やと、伺ひ申し候へば、家老は持たぬ、今枝民部なりとも、遣し候へと、仰出され候、其節︀、本多安房守・奧村因幡など、罷越し居り申し候へども、右の通り仰出され候、御心得之ある儀と存ぜられ候由、
一、小松へ御隱居の後、越中へ御鷹野に御座なされ、御餌柄の雲雀十宛、脇田九兵衞・黑坂吉左衞門方へ下され候、品川左門方より申越し候は、御意に、雲雀は年寄り候藥にて候間、兩人給べ申すべく候、御禮申上げ候には及ばず候、此儀、竹田市三郞・古市左近に仰付けられ、折々兩人方へ下され候、御意の趣申來る、何れも有難︀き儀と、淚を流し、辱がり申し候、
【將軍より拜領の鶴︀】一、未だ金澤に御座なされ候節︀、公儀樣より御餌柄の鶴︀御拜領、御披の御料理、家老中より物頭まで下さる、何れも頂戴仕り、給ベ申す所、金の土器︀二つ、三方に居ゑさせ、今日は有難︀く目出たく思召し候間、御酒をたべ、祝︀ひ申すべく候、野村左馬始め申すべきよし、仰出され候、左馬を羨しと存じ、辱き儀、身に餘り申し候由、
一、御隱居前後、公方樣御餌柄鶴︀御拜領遊され、御家中へ御披の節︀、安房・山城兩人前々には、食の椀添へ、御持たせ候て、御出で遊さる、兩人は年寄り、食の溫かなるが、能く候はむ間、之を給べ候へと、御意にて、兩人辱がり申す事、限りも御【 NDLJP:82】座なく候由、
【城代前田丹後を戒む】一、金澤城代奧村故因幡果て申す後、前田丹後城代仰付けられ候、其後異風の內、不破四郞三郞當番の節︀、番所に臥せり、中敷居より足を下げ居り申し候處、丹後通り合ひ、不沙汰なる體と、番所へ立寄り申し候へども、四郞三郞、丹後を見知り申さず、番人は揃ひ居り申し候へば、別に不沙汰之なしと申す、丹後、道より若黨を返し、今日の當番、誰々に候や、書付參るべき由、丹後申す由、申し入れ候へば、其後、四郞三郞驚き番歸り、異風裁許の岡島五兵衞方へ罷越し、樣子申入れ候へば、五兵衞申し候は、定めて丹後殿、小松へ此儀言上たるべく候、其前我等參り、先達て言上仕るべしと、早々參られ、右の樣子書付を以て申上げ候へば、何の仰出されも之なく、追付丹後も參り、此儀言上仕り候處、御意なされ候は、此儀、丹後仕樣惡しき故と思召し候、四郞三郞儀、丹後へ慮外仕るべき譯之なく候、丹後を見知らず候故に候間、向後番人共切々呼び、振舞申し候へと仰出され候、其後は、御番衆を切々振舞申し候由、
【利常殿中に睾丸を取出す】一、或時、中納言樣御不快にて、御出仕御斷り、仰上げられ候へば、其後、御登城の節︀、酒井讚岐殿申され候は、先日、肥前殿御出仕なされず候、御氣隨出で申すと、笑ひ笑ひ申され候へば、左樣に思召し候や、年寄る我等、疝氣持にて、差出で候へば、行步仕り難︀く候、之を御覽候へとて、御睾丸を御取出し、御見せなされ候へば、一座の御衆、又々肥前殿のおどけが出て申すと、御挨拶候へば、いや〳〵おどけにては御座なく候、之を出し申さず候へば、申譯立ち申さずと、仰せられ候由、
【早飛脚に對する用意】一、小松に御座なされ候內、江戶より急々御用之あり、早飛脚・足輕四人にて參著︀、御聽に達す、其飛脚は何方に居申すと御尋ね、御玄關前に罷在り候由、申上げ候へば、其飛脚の者︀、早々搦め候て、會所部屋へ入れ置き、嚴しく申付くべき旨仰出され、いかゞの罪科に候やと、人々申す所、一時計り過ぎ、先程の飛脚・足輕奴、申す儀も之あるべく候、湯漬給べさせ申すべき旨仰付けられ、下され候、曉方になり、如何樣の體にて罷在り候と、御尋之あり候、草臥れ候や、たわいなく臥せり、只今目覺め罷在り候旨、申上げ候へば、繩を解き申すべき旨、仰出され候、其後御意には、扨々早く參り候旨、重寶なる奴に候、精︀を揉み申す者︀、安堵致し候へば、死申す者︀に候故、其の通り申付け候、最早苦しからず候、食を給べさせ、返し【 NDLJP:83】て休ませ申すべき旨にて、銀子三枚下され、罷歸り候、存寄らざる儀と、皆々申し候由、
一、或時御上屋敷にて、御出入衆、御料理以後、色々御咄之ある刻、岡田豐前殿御申し候は、世間學問
【淸泰院屋敷取拂に付幕府へ抗議】一、淸泰院樣へ、公儀より遺され候御屋敷は、牛込の末、高田に之あり候、御逝去加賀福︀臨時以後、御屋敷に居られ候御附衆も、此方より附け置かれ候御奉行・足輕等も、急に引取り候樣にとの事に候由、其段、利常公御聞なされ、以ての外御不快にて、御老中へ兼松小右衞門遣され、淸泰院殿御屋敷、御追立なされ候儀、如何の御事に候やと、仰遣され候へば、尾張大納言殿御望み、御拜領に付、能瀨治左衞門へ申渡し候、其段にて之あるべき旨申來り候、彌〻御機嫌惡しく、御用番の御老中へ御越しなされ、淸泰院殿屋敷、筑前守家來共、大勢罷在り候處に、急に御追立なされ候に付、行當り難︀儀致し申し候、淸泰院殿御拜領の地に候へば、犬千代筑前屋敷の儀に候、さ候へば、手前へ御相談も御座あるべき儀の處に、曾て承らず候段、心得難︀く候、尾張殿御取立て候由、然れば屋敷望み次第、取勝と存じ奉り候、さ候へば、此方にも了簡御座候、此段承りたく、參る事に候旨、仰せられ候處、御老中御行當り、右の趣、御自分樣へ申入れず候儀、同役中無念の仕合に御座候、仰の通り、尤至極に候、申談じ、是より申進ずべく候間、左樣に御心得下され候樣に、御挨拶にて、御歸りなされ候處、松平美作守を以て、同役中無念の儀、迷惑仕り候、御家來中差置かれ候御替地、何方にてなりとも、御望み次第、御拜領候樣、申談ずべく候間、早速御見立なされ、仰上げらるべく候由、申來り候、御返事には、委細仰聞けられ候通り、承知致し候、取勝候樣に存ぜられ候に付、さ候はゞ存寄之あるに付、相伺ひ申し候、此上は、替地下され候に及び申さず候間、右の御屋敷差上げ申し候旨、仰上げられ候、然れば替地御拜領なされず候へば、底意解け申さず候と、御老中思召し候や、達て御望みなされ候樣に、再三申來り候に付、さ候へば、所は何方【 NDLJP:84】にても構なく候間、御渡しなされ候樣にと、仰遣され候間、駒込の御屋敷、御請取なされ候、右の御屋敷は、牛込穴八幡の邊、尾州樣へも、外にて遣され候、右の御屋敷は、其後小身衆大勢へ渡し、只今其邊を、淸泰院屋敷と申し候、
【公事場奉行の任命】一、奧村源左衞門、公事場奉行仰付けられ候前、世上にて源左衞門は、片口の贔屓强き者︀に候、公事聞などには、不相應の者︀と取慣らし候、此段、橫目書上げ候處、源左衞門呼寄せ申すべき旨仰出され、罷出て候に付、老中召連れ、御前へ罷出て候處、御意なされ候は、源左衞門儀、公事場奉行仰付けられ候處、片口に贔屓强き者︀にて、公事聞には不相應と、何れも申す由に候、源左衞門、贔屓强き者︀と御聞にて、仰付けられ候、源左衞門を仕る者︀は、我等
【孝行故の盜】一、御長柄の四郞兵衞と申す者︀、盜賊に入り候て、召捕へられ、牢舍仕り候、御耳に相立ち候處、彼者︀儀、常々親に孝行にて、其上、盜など仕る心立の者︀には之なしと、御聞き遊され候、近所の者︀、其外にも相尋ね、賊盜紛なく候や、吟味仕るべき旨、仰出され候に付、穿鑿之ある處、近所其外知音の者︀共、何れも御念の通り申し候、然れども其身は盜に入り申すと申し候、精︀々吟味候處、母一人養ひ申し候處、力なく仕り候て、朝夕給べ申すものなく、母を餓死致させ申す儀、迷惑仕り、盜に入り申し候由、此段申上げ候處、子細あるべしと、思召し候故、僉議仰付けられ候、不便なる事に候、母に一人扶持取らせ申すべき旨仰出され、御扶持下され、其身も御免︀なされ、本の如く御奉公仕り候、前代未聞の儀と申し候、
【前田氏に限りて塀の高さを八尺以上とす】一、何の頃か、江戶諸︀大名方の屋敷、塀の高さ八尺御定、仰渡され之あり候、此方樣御屋敷の儀は、塀卑く候ては、見越し御難︀儀なされ候間、只今までの通り、差置かれたき旨、御老中まで御願ひ候へども、埓明き申さゞるに付、度々酒川讚岐守殿へ仰入れられ候處、讚岐守殿難︀澁にて、嚴有院樣へ右の段々申上げらる、私共心得にて、上聞にも達せずと、肥前守存ずる體に候間、御直に上意仰渡され候樣、仕りたき旨にて、例月出仕の時分、御用御座候由にて、御殘し遊され候處、御座の間へ召させられ候て、今般塀の高下の儀、一統申渡し候處、段々斷の趣、聞召屆けられ候へども、諸︀大名一統に申渡す儀、天下の御仕置に候故、御三人を始め、御用【 NDLJP:85】捨なされ難︀く候間、此度の儀は、右の趣相心得られ、仰渡さるゝを相守られ候樣、上意之あり候へば、今般塀の儀、一統に仰渡され候へども、願の趣、御聞屆け遊され、願の通りに仕るべき旨、有難︀き仕合に存じ奉り候旨、御請仰上げられ候處、重ねて左樣にては之なく候、重き御仕置に候故、御聞屆けなされ難︀き旨、上意候處、近年年寄り、耳遠に罷成り申し候、段々有難︀き上意、願の通り仰渡され、辱く存じ奉る旨、仰上げられ候て、御退出遊さる、夫より直に御禮の爲め、御老中方御勤めなされ候、之に依つて如何之あるべくやと、御老中方詮議も之ある由に候へども、存違にても、御禮の爲め、御老中方まて、相勤めらるゝ上は、願の通り、御免︀遊さるべき儀と申すにて、事濟み申す旨、竹田氏咄に候、
【將軍に蠣を獻ず】一、嚴有院樣御代、吉崎の蠣宜しく候間、獻ぜられ候樣に、小松へ申來り候に付、早速取らせ遣さるべき旨にて、夜中取り候て差上げ、早飛脚も拵へ置き、其段、津田玄蕃申上げ候處に、御聽き遊され候て、何の御意も之なく、二日・三日過ぎ候に付、先日の蠣は、最早御用に立ち兼ね申すべく候、何日頃遣され候や、其時分、取らせ申すべき旨、相伺はれ候處、扨々御失念遊され候、只今又取りては、彌〻日も延び候間、右の蠣未だ損じ申す事にて之なく候、早速認め遣すべき旨、仰出され候て、玄蕃は、合點の惡しき事を申し候、百里の所へ、生蠣などを取りに越し候は、老中の途方なしといふ物なり、此度、宜しく致し遣し候はゞ、每度取りに參るべく候、無用の費と申す物に候、損じ候て、重ねて申越さゞるが能しと申す了簡は、之なく候やと、御意の由、竹田氏咄に候、
一、前田肥後殿喧嘩の儀、早飛脚にて江戶へ申來り候、其節︀、御庭に入らせられ、例の御出入之ある旗本衆大勢にて、御咄し遊され候處へ、金澤老中言上の紙面到來、則ち御覽に入る、何の御意も之なきに付、玄蕃如何仰渡され候やと、相伺はれ候へども、御返答之なく、御旗本衆へ御向ひ候て、金澤より飛脚越し候、同苗肥後儀、家中の侍共と申分致し、何れも成敗致し候旨、申越し候とまで、御意にて、其後も何の仰出されも之なく、相濟み申し候、竹田氏咄、
一、或時、金澤生駒內膳より、小松へ蛤を差上げ候處、召上られ候へば、御中り遊され候、然る所、又十日計り立ち、蛤を同人より獻上候故、如何之あるべしと、氣の毒に存じながら、御覽に入れ候處、さすが內膳ほどあり、近習に心安き者︀之な【 NDLJP:86】きにやと、御意なり、九里氏物語、
【幕府の殿中にて頭巾を許さる】一、いつの頃か、尾張樣へ公方樣より御頭巾進ぜられ候て、殿中に於て召させられ候、或時肥前守樣、紫の御頭巾を召し、御登城遊され候處に、御目付衆、御停止の儀如何と之あり、御側へ參られ候て、頭巾御免︀之なくては、なり申さゞる旨、申され候へば、扨々不念なる事、心付き申さずと、御意にて、御取り遊され、御目付衆退き申さると、又召し候に付、又外の御目付衆參られ候て、右の通り申され候へば、只今も誰殿仰聞けられ候、近頃不調法の仕合に候、頭冷え申し候て、難︀儀を致し候故、忘著︀致し、迷惑候、早々取り候と仰せられ、御取りなされ候、又召して、度々右の通りに付、上聞に達し、とかく御免︀遊され候はでは、なり申すまじき由にて、御手自ら紫の御頭巾を進ぜられ候、御歸り遊され候て、市三郞、此頭巾一つ貰はんとして、頭巾を冠り、扨々難︀儀にて之ありと、御意遊され候、竹田氏咄、
別所三平物語に、右の趣にて、御目付衆度々申され候へども、御承知なされ候旨にて、又御召し遊され候故、何ともなり申さず候、諸︀大名の御締になり申さず候間、御老中方へ御達せられ然るべき旨、讚岐守殿へ申入れられ候へば、讚岐守殿申され候は、皆々の御心得惡しく、狹き事を仰せられ候、肥前守殿の眞似を仕る大名、外に一人も之あるべく候や、天下の大老と申すもの候故、其通りに仕置きたるが、一段見事の旨申され候由、
一、龍の口御屋敷にて、年頭御客之あり候て、小堀遠江守殿・岡田將監殿始め、歷歷の御旗本衆、御詰め候處へ、子小姓衆まで御供にて、御出で遊され、御座敷を御覽なされ、御床に御具足の餅之あり候、是は取申さゞるか、早く取り候樣にと、子小姓衆へ御意候へども、幼少の衆、中々手に合ひ申さず候處、右御出の御方々へ、子共中々手に合ひ申すまじく候、少し手傳へ〳〵と、御意なされ候へば、何れも御立ち御舁き、御勝手へ御
【野崎宗八と今枝伊兵衞】一、江戶へ入らせられ候と、御番割御張紙にて、御廣間に張り之あり候、或年、野崎宗八と今枝伊兵衞と、御番帳に之なく候、然れども構はず、每日々々御番に出で申し候へども、御意之なく候、御歸國なされ候時、仰出され之なく候へども、御道中御供にも能出で候て相勤め候處、靑海︀川にて御馬の脇にて、御刀持御子小姓轉び候を、伊兵衞手を取り引上げ候、宗八存じ候は、扨々苦々しき事仕り候、晩は【 NDLJP:87】定めて御成敗もなさるべく候と存じ、罷越し候へば、川を御上り遊され候て、伊兵衞と御意にて、御使遊され候、宗八は夫より餘程行き、草鞋切れ候故、店に之ある
一、大猷院樣御他界、竹千代樣、未だ西の丸より御出て遊されず、天下靜かなら【奧村庸禮】ず候節︀、何御用に候や、御直書御調へ遊され候て、奧村因幡〈十八歲庸禮〉召し候て、此狀箱、酒井讚岐守殿へ持參、何卒直に相渡し申すべき旨、仰付けらる、則ち讚岐殿へ持參候處、取次申し候は、讚岐守儀、先日より御城に之あり、未だ下宿仕らず候間、追付相達すべき旨、申すに付、因幡申され候は、御直に差上げ候樣に、申付け候間、さ候へば、御城へ持參仕るべき旨、申し候へば、御城へ御越し候ては、外の衆一圓入れ申さず候間、さ候へば詮なき事、時刻も移り候間、追付持たせ遣すべき旨、申し候に付、相渡し罷歸り、右の趣具に申上げられ候へば、宜しと御意にて、退き申さるゝ時、御呼び遊され、斯樣の使は、受取を取り來るが能しと、御意なされ候時、因幡、懷中より受取を取出し、上げられ候て、退出候へば、扨々用立ち申すべき者︀かな、齊の玉とは、此者︀の事にてあらんと、御意遊され候、竹田氏咄、
一、或時、御道中御泊宿にて、每夜々々御次へ、若き御小姓・御手𢌞の衆集り、色々遊事致し、居相撲音引樣々の事にて、夜明くるまて、以ての外
【密に軍書を寫す】一、或時京都︀町人、珍しき軍書、御覽に入れ候へば、一返御覽遊され候て、御棚へ御入れ置き、四五日立ち、先日の軍書返し候やと、御意に付、未だ相返し申さゞる由、申上げられ候へば、早や〳〵返し候へ、さて〳〵何にもならぬ、やくたひなき書物に候間、此通り申聞け、金子取らせ、相返し候樣仰付けられ、相返し申し候、いつ御寫させ候や、御寫し置き遊され候て、珍しき書物の由、御祕藏遊され候、竹田氏咄、
【つくも髮の茶入】一、御家のつくも髮の茶入、京都︀より賣りに來り、御求め遊され候處、金百枚より負け申す事、成難︀き旨申し候、伊藤內膳御使にて、御隱居の事に候へば、百枚と申す御道具は、召上げられ難︀く候、せめて一枚負け候樣にと、仰付けられ候へば、畏り奉り候由申上げ、負け申し候、代金相渡し、其上金子三枚取らせ申すべき旨仰渡さる、直に小堀遠江守殿へ內膳遣され、右の樣子委細申入れ候て、名を附け遣され候樣、申入るべき旨にて、內膳持參候て、右の趣申入れ候處、遠江守殿、つくも髮と附けられ候、竹田氏咄、
一、或人云ふ、江戶富士見御亭は、白山公事最中、御立て遊され、出來候て、御老中方御招請にて、右御亭へ御越し、何れも扨々珍しき御物數寄にて候、駿河の富士を、御庭に直に御懸け候と、御挨拶候へば、何と御申し候、富士は駿河にて候かと、御意候て、伊豆守殿へ御伺ひ遊され候て、富士は駿河にて候かと、又仰せられ候へば、伊豆守殿、外の事に申紛かされ候由、
一、或時江戶火事にて、御城も氣遣しきに付、御人數大下馬先まで遣し置かれ候て、度々替へさせ候樣仰付けられ、漸く火事鎭寄り候時、御父子樣御出で遊され候て、暫く之あり、御乘物御取寄せ召させられ、筑前守樣にも、寒氣强く候間、御乘物御召し候樣に、仰入れられ候て、扨御小夜著︀御取寄せ、御乘物の中に召させられ候て、入らせられ候、明方火鎭り候て、御老中方退出候時分、橋爪に御乘物之あるに付、何れも御立寄り候へば、先づ以て御城御別條無く、御機嫌能く、恐悅の至に存じ候、拙者︀父子も、大火になり候に付、早速罷出で候て、御用も之あるべきかと、宵より此所に人數立て罷在り候、餘り寒く候故、馬上も仕り難︀く、此の如く候、筑前は若き者︀に候へども、風引き候へば、入らざる事と、達て申付け候と、御【 NDLJP:89】意遊され候へば、何れも御尤と存じ奉り候、御屋敷近く候へば、是まで御出にも及ばざる儀と、御申し候由、此時に龍の口に入らせられ候、竹田氏咄、
【淸泰院の淑德】一、筑前守樣御逝去、一兩年之あり、俄に御客之あり候て、御伽羅御用に候へども、折節︀御前にも拂底に候、御土藏へ取りに參り候間、之なく候故、御意なされ候は、淸泰院樣へ參り候て、下され候樣、申上ぐべき旨、委細仰進ぜられ候處に、淸泰院樣御返答に、伽羅御用の旨、易き御事に御座候、然しながら、筑前守樣に御離れ遊され候ては、左樣の品、何方に御置き遊され候も、御存じ遊されず候、御近所には御座なく候間、御急の御用と、仰進ぜられ候へば、御用に御立ちなされ難︀く思召し候旨、仰進ぜられ候、中納言樣御聞き遊され、扨々此方の誤に候、御返事御尤と御意にて、御落淚遊され候、竹田氏咄、
【利常寵愛の小姓を光高に隸せしむ】一、中納言樣、九藏とやらん申す御子小姓、器︀量勝れたる者︀にて、其頃、餘り之なき程の小姓に候、筑前守樣兼ねて御貰ひ遊されたく思召され候て、竹田市三郞まで御內談遊され候、市三郞、易き御事、御機嫌次第、申上ぐべき旨にて、或時申上げ候へば、中々なり申さず候、されども深き所望候はゞ、直に申聞けらるべく候、人傳などにて、遣すものにて之なしと、御意に付、其段申上げられ候へば、何程大望にても、御直には仰上げらるべき樣之なき事、是非もなき事と、御意に付、市三郞、御尤に存じ奉り候、されども宜き時分に、御前にて私御挨拶申上ぐべく候間、其時、何卒仰上げられ候樣にと、申上げられ候へば、然らば何卒宜しき樣に、御賴み遊され候由、御意にて候、或時、小堀遠江守殿御夜咄にて、筑前守樣にも入らせられ候て、御咄し遊され候時、九藏茶持參候樣、中納言樣御意に付、御茶持出で候へば、今一つと御意にて、又筑前守樣へ上げ候時、市三郞、御敷居越に之あり、內々の儀、仰上げられ候樣にと、申上げられ候へども、筑前守樣、暫く御意も之なく候へば、中納言樣、何ぞ〳〵と御意遊され候時、市三郞、九藏儀御貰ひ遊されたき由、申上げ候へば、望か〳〵と御意に付、筑前守樣にも、市三郞申上げ候通りと、仰上げられ候へば、進ぜらるべき旨御意にて、其後御客相濟み、筑前守樣御歸り遊され候時分、御跡より遺さるべき旨御意、追付參り候樣、千石下され候、追付御禮として罷出で候に付、其段、市三郞申上げられ候へば、知行何程取らせ候と、御意に付、千石下さるゝ旨、申上げ候へば、扨々吝き事かな、二千石は取らせ【 NDLJP:90】申すべしと、思うたにと仰せらる、何ぞ取らせて返すべき旨、御意候へども、御夜詰濟み候故、只今は何も御座なき旨、申上げ候へば、御物置見申すべき由にて、見申し候へども、何も相應の物御座なく候、御衣桁に御小袖三つ・御單袴懸け御座候と、申上げ候へば、其衣桁共に取らせ申すべしと、御意にて、御寢所へ召し候て、御目見仰付けられ候、隨分能く勤め候へ、筑前は若く候間、諸︀事大切に仕るべく候、重ねて此方へも參り候儀無用と、御意遊され候、御直に御貰ひ遊され候樣にと御座候は、深き思召共之ある事の由、竹田氏咄、
一、江戶にて、或時御客之あり、御料理漸く濟み候時分、御料理の間の上に、淡路守樣・飛驒守樣・前田日向守殿、其外橫山家・本多家の衆竝居り、御料理參り候、御膳部等も御客の通りにて候處、中納言樣御出で候て御覽、以ての外御機嫌惡しく、圍爐裏の際に御座なされ、御料理御乞ひ遊され候、則ち上げ申し候處に、御椀・御皿皆々下へ御下し、塗木具の御本膳・二の膳とも、足を御手自ら御押折り遊され候て、御投げ出し、御椀等下に御置き遊され、召上られ候、淡路守樣始め、何れも御迷惑遊され候て、漸く御退き遊され候、其以後御客之あり、御勝手へ御越しなされ候時分は、代る〳〵御料理の間、圍爐裏の際に御座候て、御膳なしに、御椀下に御直し候て、御給仕も之なく、直々に御替も御乞ひ候て參り候、竹田・九里・野村咄、
一、正月御具足の餅、三箇日過ぎ申さゞる內より、大御式臺御小姓中、射手・異風中など御番の時分、御鏡餅の所へ參り、後の方より缺き取り候て、燒き給べ候、後は半過ぎまでも取り申し候、或年いかゞ致し候や、取り申さず候を、御覽遊され、今年は具足の餅に鼠がつかず候事、如何の事に候や、氣懸りなると、御意遊され候、何れも申談じ候て、其夜より缺き取り申し候、右同斷、
【隱居後は政務に干渉せず】一、或時、筑前守樣、御役替仰付けらるべしと思召され、面々御書付遊さる、板津檢校を以て、御伺ひ遊され候に付、檢校持參仕り候へば、御數寄屋に入らせられ候故、則ち持參、筑前守樣より御伺ひなされたき御紙面の由、申上げ候て、差上げ候へば、さし口御覽遊され、隱居候て之あり候へば、斯樣の相談、差引き仕るべき樣之なく候、必ず無用に候間、此書立も見屆け申さず候と、御意にて、御卷き遊され候て、檢校へ御返し遊され候に付、罷歸り候て、其趣申上げ候へば、筑前守樣御【 NDLJP:91】意には、さて〳〵氣の毒なる事かな、御內談申上げ候へば、御構へなされず候旨に候、御一人の御了簡にては、篤と御心得遊され難︀き儀も、之あり候へば、如何遊さるべく候や、重ねて今一度御伺ひ遊さるべきかと、御意の時、檢校申上げ候は、篤と御書付御覽遊さるべく候、右の通り御意遊され〳〵、慥に御爪點遊さるゝを承り請け申す由、申上げ候に付、能々御覽遊され候へば、何れも御爪點遊され置き候由、竹田氏咄、
【利常封を光高に讓る】一、微妙院樣、四十八の御歲、御參觀なされ候砌、筑前守樣、板橋まで御迎に御出でなされ候處、御對面なされ、御意には、道中無事に參り候、當年は能き土產之あり候間、左樣に御心得候へと、御意なされ候故、陽廣院樣、夫は何にて御座候や、早々見申したき儀に御座候旨、仰上げられ候へば、如何にも早々見せ申すべしとて、御著︀きなされ、又能き土產之あり候と、御意に付、陽廣院樣、何にて御座候やと仰上げられ候へば、追付參覲の御禮申上げ、其以後又追付相願ひ、隱居仕るべく候、左候へば、其方へ家を讓り申す事に候、是程の土產は之あるまじと、仰出され候改、御
【 NDLJP:92】一、右の節︀、件の上意前に、隱居致し、大國讓り申され候儀に候へども、迚もの事に、鶴︀翕の事も讓り申さるゝ樣にと、上意御座候處、肥前守樣御請には、上意候儀に御座候間、鶴︀の儀辱く畏り奉り候由、仰上げられ候、
【末森の戰】一、微妙院樣、常々御咄に、佐々內藏助、人數多く持ち居り申し候、二萬程之ありたる由に候、末森の時も、二萬の人數にて候、大納言樣は漸く三千御座候由、御咄し遊され候、
一、末森の節︀の事、申傳へ候は、大納言樣、御上帶をから結びに遊され、端を御切りなされ候て、御出でと申し候へども、左樣にても之なく、御草鞋の緖をから結びになされ御切り、最早此度負け候へば、二度草鞋は履き申さず候と、仰せられ候て、右の通りに遊され候旨、微妙院樣度々御咄し遊され候、御客衆へも每度之ある御咄にて、末森は親ながら出來合戰にて候由、御意遊され候由、藤田氏咄、
一、佐々內藏助家來、北村平次郞と申す者︀、牢々の體にて、越中に罷在り候を、微妙院樣聞召され、召出され候、此者︀古き咄存じ居り申すべく候間、御聞き遊され候樣、陽廣院樣へ仰せられ候、或時金澤にて、陽廣院樣御夜詰に召出され、咄御聞き遊され候、末森にて大納言樣後詰遊され候時、佐々方より道へ人數を出し置き、押へ申さず候は如何と、御尋ね遊され候へば、成程人數を出し置き候、其時私儀も使番相勤め、罷出で申し候、其夜は大雨にて御座候、大納言樣は濱手御越しなされ候を、何れも聊か存ぜず候て、押へ申さず候、佐々方運命天道に盡き、御通りを存ぜず候て、其儀御座なく候、存じ候はゞ、中々通しは仕るまじと申す事と御座候由、申上げ候、
一、佐々內藏助人數は、何程計り之ありやと、陽廣院樣、平次郞へ御尋ね遊され候へば、人數餘程持ち居り申し候、鳶羽︀の一羽︀には
一、陽廣院樣御前にて、平次郞御咄申上げ候時分、御前に常々罷在り候て、御咄仕り候立花半入と申す者︀罷在り候て、平次郞咄の末を、折り申す儀共之あり候故、御前に於て、左樣の儀申上げ候事如何、咄の末を折り申すと、叱り候へば、陽廣院【中川淸秀の首を擧げしもの】樣御意には、半入儀も賤ケ嶽にて、中川瀨兵衞と
一、右同夜、御咄彼是相濟み、夜も更け、寒く御座候、御前に繻子のめかりの御小袖、
一、玉泉院樣御逝去の砌、寶圓寺反納和尙と申し候、是へ御逝去の儀仰遣され、【玉泉院の取立】罷出で候樣、中納言樣御意の由、申出で候處、其頃追剝はやり、町中、夜は步き申す事氣遣ひ候、御使に參り候者︀、輕き者︀故、和尙申され候は、左樣にては之あるまじく候、定めて追剝にて之あるべく候、玉泉院樣御死去ならば、今少し急度仕たる御使、參るべく候事に候、罷出でらるまじき由、返答申越し候へば、中納言樣御怒り遊され、さ候はゞ、此方導師仕り申すべく候、必ず呼び申すまじき旨、仰出され候、夫より右住持、御意に違ひ申し候、中納言樣仰せられ候は、玉泉院樣、外に常々御可愛がりなされ候、出入の出家寺方は之なく候やと、御尋ね候處、別に御座なく候、玉泉院樣、常々白山へ御參詣の節︀、御立寄り御休みなされ候時宗寺御座候、成程輕き寺にて御座候由、申上げ候へば、幸の事、此寺へ移し申すべく候、則ち時宗寺も御建てなされたく候間、幸の儀と仰出され候、玉泉院樣御遺骸入れさせられ候、其以後、玉泉院と御付け、只今の通りに罷成り候、右の時節︀、遊行囘國にて幸と仰せられ、諸︀事結構になり候由、申傳へ候、右時宗へ御移し候事、寶圓寺承り、道へ出で、奪取り申すべき旨、申され候由中納言樣御聞きなされ、沙汰の限りに候、出家にて、誰に左樣の儀仕り候、棒伏に仕るべき旨、荒く仰出さる、夫より寶圓寺、中納言樣御前惡しく、高德院樣御位牌も、天德院へ御移し、御位牌所仰【 NDLJP:94】付けられ候、其住持之ある內は、寶圓寺へ御寺詣り遊され候由、
一、瑞龍寺に信長公幷に城之助殿御石塔之あり候、御院號・年月日まで、慥に之あり候、是は瑞龍院樣は信長公の御婿故、御殺︀害後、御墓仰付けられ候由、古き者︀申傳へ候、野田桃雲寺に、大納言樣幷に芳春院樣の御影之あり候、
【富山大聖寺兩支藩の領高】一、微妙院樣、御隱居の時分、御知行分之あり、淡路樣へ十萬石、飛驒樣へ七萬石進ぜられ候事、前廉より大猷院樣へ御願ひ置き遊され候、家光公上意に、其主多き樣思召され候、淡路へ五萬石、飛驒へ二萬石遣し申し然るべき旨、上意之あり候へども、夫にては何とも遊され難︀く御座あるべく候間、强く御願ひ候故、十萬石・七萬石と相極り申し候、此儀、後には微妙院樣、殊の外御悔︀み遊され候、筑前存達て願ひ候故、大分遣し、後悔︀に候、庶子は大名仕らざる事に候旨、度々御意遊され候、藤田氏咄、
一、大納言樣、御奧へ入らせられ候時分は、誰とも目には見え申さず候へども、數百人御跡より追懸け申す音、聞き申し候、其時は其儘御腰物に御手懸けられ、御よりかへり、御睨み遊され候へば、其音相止み申し候、三池傳太の御腰物、御差し遊され候時は、右の音嘗て仕らざる旨、慥なる儀に御座候段、微妙院樣、度々御意遊され候を、後藤程乘・八幡久越・藤田平兵衞など。切々承り申し候、其節︀平兵衞は三十郞と申し、御近習相勤め罷在り候、藤田氏咄、
一、肥前守樣・筑前守樣御同道にて、御座敷より御庭へ御出での時分、筑前守樣、御先へ御下り遊され、御緣の下、飛石の上に御座候御草履を御直し、肥前守樣へ召させられし、肥前守樣、左樣にはなされざる物に候と、御時宣御座候て、御召し遊され候、藤田氏咄、
一、微妙院樣御詩分、陽廣院樣御前にて、板坂平內、化物に遭ひ申す儀と、野々村勘左衞門、牛鬼に遭ひ申し候儀、共々御咄し申上げ候を、藤田平兵衞承り候、野々村勘左衞門、或夜若黨一人・草履取一人召連れ、外へ咄に罷越し、宅へ罷歸り候道にて、夜半過の事に候、雪も餘程之あり、所々の塀下などにも、搔集め置き申す程に候、先より提燈二つ參り申し候に付、見申し候へども、常より提燈殊の外高く、塀の上程に高く相見え申すに付、不思議に存じ、側に之ある塀越へ寄添ひ、相控へ罷在り候內、程近く參り候を見申し候へば、提燈にて之なく、大きなる牛の頭の【 NDLJP:95】如くにて、牛の角の大きなる、左右に生じ、其角の元より、はつ〳〵と火出で申し候、其火の光、提燈の樣に、遠くよりは相見え申し候、胴より下は見え申さず候、勘左衞門頭の上を、通り申すに付驚き、刀を拔き、切拂ひ候へども、餘程高く候て、當り申さず候、其內に通り過ぎ申し候、尤も何の障も之なく、右の通りまでにて候、若黨・草履取も見申し候、金澤松原町邊にての事に候旨、其頃、替りたる儀と申慣らし候、藤田氏咄、
一、板坂平內、化物に遭ひ申し候は、前廉より、下人共色々の物に遭ひ申す由、沙汰之あり候、松原町邊、不開門の際に之あり候、屋敷にての事に候、或夜、下女
【天德院の逝去】一、天德院樣の御局は、
一、天德院樣、御逝去遊され候時分、微妙院樣御不行儀故、御局の業にて、天德院樣御逝去の樣に、大猷院樣御聽に立つ、夫故三年、江戶に御詰め遊され候、然れども御如才御座なく候に付、御國への御暇仰出され候節︀、只一通りの御暇にては、成り申すまじき旨、殿中にて御詮議之あり候へども、一決仕らず候處、井伊掃部頭【家光賴房の女を養ひて光高に嫁せしむ】殿申上げられ候は、公方樣御爲に、大事の儀は、大名の恨に候、五三萬石の御加增と申すにても之あるまじく候、所詮水戶黄門樣の御息女を御養子になされ、筑前守へ御輿入御座候は、肥前守爲には、是に過ぎず大慶仕るべき旨、申上げられ候、尤なる儀と、是に相極り、其上にて春日の局抔御取持ち申さるゝ分にて、夫より御輿入に相極り申し候、井上淸左衞門母など始め、春日の局の樣に申し候へども、實は右の御內談にて決し申す事と、生駒內膳委しく存じ、不破覺之丞などへ每度申聞け候、
【大坂陣の論功行賞】一、微妙院樣、御陣後、高名穿鑿仰付けられ候、其批判橫山山城守相勤め申し候、〈長知なり〉、殊の外依怙贔屓之あり、手柄仕り候者︀も、御知行下されず、いかう宜しからざる儀共、多く之あり候、山崎閑齋、此儀を殊の外腹立ち、閑齋へ、山城守仕方宜しからざる旨、申す者︀之あり候へば、よいはさて、大坂陣を屁にこいたと思へば、宜しく候と申され候、常々承り候旨、藤田氏咄にて候、
一、大坂以後、御穿鑿なされ、並々の者︀、御知行二百石當て、御加增下され候、天下に之なき、結構なる加增の由、申慣らし候、其以後、重ねて大坂の高名批判仰付けられ、御加恩之ある者︀も御座候、斯樣の儀、公儀より微妙院樣へ御不審御座候內の由、有澤氏咄し申され候、
一、微妙院樣御代、稻野九郞兵衞と申す者︀之あり候、藤田平兵衞など筋目も御座候、極めて貧なる人に候、或夜の夢に、誰ともなく、白張
一、微妙院樣、小松に御座なされ候時分、山よりのぶすまと言ふものを取り、打殺︀し持參り候、則ち微妙院樣へ御覽に入れ、奧御小姓共に、見せ置き候樣に仰出さる、藤田三十郞、家へも參り見物仕り候、顏は獺の如く、胴も同じ頃にて、恰好に應じ、獺の如くなる尾之あり、胴の左右に、羽︀の如く、四方に平き薄き物出で、それに網の如く、毛生へ之あり候、其四角に爪付く、夫が則ち足にて候、三尺四方程の物に候由、藤田氏咄に候、
【光高の薨去】一、微妙院御時分、陽廣院樣御逝去、金澤へ吿げ來るべき朝、板津八兵衞、鷹を据ゑ、門前へ罷出て候へば、人三人通り申し候、一人は殊の外貌の形橫へ長く、今一人は竪へ顏長く、又一人は顏殊の外丸く之あり、何れも常の人にて之なく、懸り通り申し候、餘り不思議に存じ、何とも心得難︀き事と、心の中に考へ候て、長く・丸く・横長三つにて候間、何卒三箇國へ響︀く程の事、出來申すべき前表にて候やと存じ、家へ入り、其儘書狀調へ、近所の脇田九兵衞へ差遣し候、此頃遭ひ申さず候趣、扨は三箇國へ響︀き申す程の珍事は之なくや、替りたる儀御座候故、尋ね申し候、委細は會ひ候て、申すべき旨申來り候、然る所に、其日の夕飯︀後、江戶より早飛脚參著︀、四月五日、陽廣院樣御逝去の旨、吿げ來り候、不思議なる事の旨、藤田平兵衞咄し申し候、通る程の者︀、足が地に付き申さゞる樣に、八兵衞見申すと申す說、之あり候へども、右實正の由に候、八兵衞は近き頃まで、物頭にて罷在り候、板津權佐親にて候、
【加賀と水戶】一、明暦酉の年、江戶大火事の時分、微妙院樣は御國に御座なされ、江戶には加賀守樣入らせられ、今枝信齋罷在り候、大火事故、以ての外物騒にて、兵亂の如く存じ罷在り候、水戶西山中納言樣、其頃、森川宿の御屋敷に御座なされ候、本鄕の御屋敷隣に候處、垣を破り、信齋を御招ぎ、若し自然の時は、加州まで程遠く候【 NDLJP:98】間、加賀守樣を御領分水戶へ退き申すべく候、天下を引請け候ても、要害宜しき所に候旨、御直に仰せられ、色々御懇なる思召御座候旨、信齋後々咄にて候、
【明曆の大火と加賀藩】一、右火事の時分、飛驒守樣は御在江戶、微妙院樣は小松に御座なされ候、江戶中火事、御城も燒け、未だ火も鎭り申さず候、江戶表、何とも合點參り申さず、兵亂の沙汰も之あり候處、加賀守樣人數少く、氣の毒に存じ、此中四日間、晝夜臥せり申さず、案じ申す旨、御直筆にて御書遊され、早飛脚を以て進ぜられ候、右の御書、小松へ到來、微妙院樣御披見遊され、以ての外御機嫌損じ、若猫めが〳〵と御意にて、品川左門を召し、飛驒守たわけを盡し、此の如く申越し候、若者︀五七日臥せり申さず候とて、苦に仕る事に之なく候、加賀守人數少しと申越し候、若猫めが人の物を我物にする事を知らぬわいと、御意遊され候、則ち藤田平兵衞も、其節︀、御側に罷在り承り候、之に依つて、先づ御取合なされず、前田對馬を江戶へ遣され、夫より橫山左衞門を遣され、其後淡路守にも、御越し候樣に御意にて、俄に江戶へ御出で遊され候、此時對馬始め、何れも東海︀道參られ候、對馬には、加賀守樣への御書遣され候て、持參仕られ候、對馬は殊の外人數少く召連れ、罷越し候故、今切の渡にも、難︀なく罷通り候由、左衞門などは、人數多く、難︀儀仕る由に候、藤田氏咄、
一、右江戶大火の儀、金澤へ相聞え候へば、微妙院樣御意遊され候は、老中氣が付き申さず候、町中に假舞臺を建て、能をさせて、諸︀人に見せ、心を安堵仕らせ申すべき事に候、太閤ならば、左樣になさるべく候、皆老中氣が付き申さずと、御噂御座候、
一、微妙院樣は、太閤の家風を、殊の外御譽め遊され候、何かと御座候へば、早御引言には、太閤の事を仰せられ、信長の事は、少しも御意御座なく候、只太閤の御軍法を、御感遊され候、甲陽軍鑑などは、曾て御覽遊されず候、常々太平記・徒然草など御覽、又は猿のほうなどと申す草紙を御覽遊され候、東鑑假名書に御寫させ置き、每度御覽遊され候、藤田氏咄、
【白山の附屬】一、微妙院樣、或時、江戶に御座なされ候內、御國より早飛脚參り、白山を越前の山と申立て、牛首風嵐へ越前より人數を上げ、御國の者︀共を追下げ〳〵致し、橫逆を致し候旨、註進之あり、書狀御披見遊され、殊の外御立腹にて、越前守年若に候【 NDLJP:99】故、是の如くに候旨、御意にて、卽刻遠藤數馬を御呼び、松平伊豆守殿へ御使遣され、只今國元より斯樣々々に申越し候へども、此方よりは、必ず以て頓著︀仕るまじき旨、堅く申遣し候、御案內の爲め、申入れ候旨、御口上にて仰遣され候へば、伊豆守殿御返答に、御尤至極に存じ奉り候旨、殊の外感心の御返答申來り候、御國へも、尤も曾て取合ひ申すまじく候旨、仰遣され候、御早き殿樣、御尤至極なる御儀に候、取合ひ候へば、早や一揆諍論の樣相聞え候故、此所を早く御察し遊され、御老中へ早速、御取合之なき旨、御屆けなされ候、其後公事になり、畢竟此方の御理になり申し候、此御飛脚參り候節︀も、藤田御前に罷出で、御樣子之を承り候由、藤田氏咄、
【三浦乘賢前田氏に仕ふ】一、三浦勘右衞門は、微妙院樣御代、池田宮內少輔殿家を立退き、御家へ召出さる、此事、勘右衞門も隱密に致し、御奉公相勤め罷在り候處、御城中へ上下にて、御供に召連れられ候節︀、宮內少輔殿、御城內にて、勘右衞門を見懸けられ、殊の外睨み申され候、此儀一兩度も之ある故、何とやらん、微妙院樣を睨み申さるゝ樣に、思召さるべきかと存じ、宮內殿立退きの樣子、憎︀しみ之あり、每度睨み申され候首尾に候、其分差置き難︀き儀も、御座あるべき旨、言上仕り候へば、微妙院樣聞召され、必ず以て左樣の存心あるまじく候、無益の事に候間、存じ留り申すべく候旨、御意にて、其後、御城への御供は、召連れられず候故、何事なく相濟み候、藤田氏咄、
一、微妙院樣御代、熊澤兵庫は、三千石計りの身上の由、只今靑山將監屋敷に罷在り候、西尾先隼人婿の由に候、兵庫相果て候以後、跡目仰付けられず候故、御暇申上げ、他國へ罷越され候、此子細は、兵庫忰與市郞、隱なき美男にて候、御子小姓に召出さるべき旨、御意之あり候處、病身なる由申立て、御奉公に出し申さず候、其內に兵庫相果て候へども、早速病身の由申立て候者︀故、跡目仰付けられず候、其故江戶へ罷越し、他所へ奉公仕り見申し候へども、生付疎く候故、爾々奉公もなり申さず、又後は金澤へ罷歸り、西尾家に懸り罷在り、相果て候旨、藤田氏咄、
【稻葉左近の切腹】一、稻葉左近は、微妙院樣御代、二千石計りの身上出頭人にて、御領國の代官仰付けられ、第一能州の事など、取計らひ申し候旨に候、時々御意を得ず、心の儘差【 NDLJP:100】圖仕り、隨分利口なる者︀にて、仕落も御座なく候旨に候、諸︀勘定承り屆け候事も之なき故、其頃の取沙汰に、若し勘定も御尋に御座候はゞ、分立て申すまじき旨申慣らし候、後は私曲も出で候や、微妙院樣より勘定の儀仰付けられ候所、時々の樣子も知り申さず候旨、勘定はなり難︀き旨の御請仕るに付、曲事に思召され、切腹仕るべき旨、仰出され候所、御後閣き儀御座なく候間、切腹仕るまじく候、討手を下され候へば、一勝負仕り、打果し申すべき旨申上げ候、只今の中川淸六隣屋敷、前田五左衞門・野村五郞兵衞抔屋敷の所、則ち左近屋敷に候、取籠り大𢌞の塀に候、鐵炮を仕懸け、屋敷の內に鹽硝藏も之あり、左近父子・兄弟、取籠り申す由に候、微妙院樣は江戶に御座なされ候、御國には陽廣院樣入らせられ候、然る所に、陽廣院樣より、御使を以て、仰遣され候は、微妙院樣の御意に背き申す段、何とも御氣の毒に思召し候、陽廣院樣御頼み遊され候間、切腹仕り候樣にと仰下され候、そこにて左近申し候は、御若き殿樣の御意に候へば、聊か違背仕るべき樣御座なく候、成程切腹仕る旨にて、則ち切腹仕り候、若し違背仕り候へば、陽廣院樣御馬を出され、押潰し遊さるべきにて、左近切腹の日は、御鷹野の由にて、御城へ御小姓殘らず、其外頭分侍中揃ひ申し候へども、右の仕合故、無難︀に事濟み申す由、藤田氏・不破覺之丞覺え罷在り、物語に候、此兩人若き頃まで、堤町後に左近屋敷跡之あり、其時の土藏相殘り之あるを見申す由、申聞け候、
一、高槻勘兵衞は八百石にて、微妙院樣御代、御使番相勤め、殊の外高上者︀、子細らしき者︀に候、或時、猥なる樣子之あり、奧小姓の內へ、艶書を遣し申し候、然る所、右の如く仕り候方、兩人之あり、則ち奧小姓中仲間故、斯樣々々と咄出し候へば、今一人の者︀、私共へも斯樣と、則ち書狀取出し見せ、大笑ひ仕り候、不屆千萬、惡くきことに候間、返書御兩人連名にて仕るべき旨申合せ、御執心の方は、いづれに候や、一人に御極め、仰聞けらるべく候と、連名の返事遣し候へば、勘兵衞、殊の外行當り、難︀儀を致し候、其時の笑草にて候由、藤田氏咄、微妙院樣御逝去以後、餘り久しき間は之なく、御暇申上げ、他國へ罷越し候、上方に後罷在り、道也と申す由に候、
【利常の視︀カ】一、微妙院樣、或時、釘隱を御大工に御打たせ遊され候時分、長押にあてがひ、ろくを極め、御目に懸け候へば、御覽遊され、少し脇へ寄り申し候と、御意に御座【 NDLJP:101】候、八幡久越も御側に罷在り、御大工も曲尺を當て申し候故、ろくに御座候旨、申上げ候へば、兎角脇へ寄り、相見え申し候間、又曲尺を當て、見申すべく候旨、仰せられ候に付、曲尺を當て候へば、一分餘り脇へ寄り之あり候、何れも感じ奉り、久越申上げ候は、扨も强き御
一、微妙院樣、御七つの御歲、小松丹羽︀五郞左衞門殿へ、證人に御越し御座なされ候、五郞左衞門殿、殊の外御いとほしがり、自身梨子の皮などを取り、進ぜられ候、其外御懇になされ候旨、度々御咄なされ候、此儀は、酒井空印も御咄の旨、藤田氏咄に候、右の頃、五郞左衞門殿よりの證人には、御老母差越され候旨に候、
【利常の祕計】一、境の奉行に、長谷川惣兵衞と申す者︀之あり候、其者︀娘を、微妙院樣御內意を以て、市振の者︀方へ、綠に付け置き候、然る所に、微妙院樣御逝去以後、年寄中詮議之あり、惣兵衞仕方、何とも心得難︀く候、境の奉行にて罷在り、娘を市振の者︀方へ遣し候儀、不屆千萬なる儀に候間、切腹申付け然るべき旨、詮議極め申し候、惣兵衞申し候は、是には段々子細之ある事に候へども、證據之なく候故、此節︀に到り、申出で候ても、詮なき事に候旨、申し候て、切腹致し候、其子細は、市振の者︀と緣者︀に罷成り候事、之あり候へば、若し御用の節︀、御味方に引付け申さすべき御內意と相聞え候、微妙院樣御逝去以後、此詮議之あり、右の樣子、御墨︀附・御覺書等も、惣兵衞所持仕らず候故、誠に仕る者︀之なく、了簡なくも切腹致し候、年寄中の詮議迄にて、此の如く候、仕樣も之あるべき所に、未熟なる詮議にて、斯樣の儀共、間々之ある旨に候、
一、微妙院樣、小松へ御隱居遊され候以後の事に候、靑山織部內熊野才之助、〈後伊左衞門と申し候、〉中宮へ湯治仕り、罷在り候處に、其時分まで、御國に鹿之なく候、金澤の人、鹿を見申す者︀は、少き程に候、微妙院樣、中宮邊に鹿御放させ遊され、子を生み、段々鹿多くなり申す、或時才之助、中宮の邊に、替りたる獸、角を振立てゝ出で申し候に付、怪しく存じ、鐵炮にて打留め申し候て、所の者︀呼び、見せ候へば、【 NDLJP:102】所の者︀肝を潰し、是は微妙院樣御放させ遊され候鹿にて御座候、御聞き遊され候はゞ、只事にあるまじく候、早々御算用場へ、註進仕り候旨申し候故、才之助肝を消し、終に鹿を見候事之なき故、此の如く候へども、兎角其分には仕置き難︀き事に候、早速罷歸り、織部へ相達し、其以後如何樣とも、首尾次第と、覺悟極め、早々金澤へ罷歸り、之ある樣子、織部へ申入れ候へば、織部も肝を消し、是は大方ならぬ事に候間、早速小松へ罷越し、言上仕るべき旨にて、取敢ず金澤を罷立ち申し候、夜更け候ての事故、寺井まで罷越し、一宿致し候、織部、常々伊勢を信仰仕られ候、然る處、寺井に罷在り候內、暫くまどろみ申され侯夢に、白張裝束仕り候神︀主一人罷越し、才之助事申出し、氣遣ひ仕るまじく候、首尾好く濟み申すべく候、其禮には、蚫十を上げ申すべき旨、あり〳〵と夢に見え申し候、其儘起き、夫より罷越し、小松へ參り候處に、御用も御聞き遊され候時節︀故、右の段々年寄中へ申入れ、御聽に達す、兎角不調法至極なる儀、鹿を見知り申さゞる儀ながら、粗忽なる儀に候間、いか樣とも申付くべき旨、申上げられ候所に、旨趣御聞き遊され、其身存せざるの儀にて、打ち申す事に候へば、是非なき事に候間、其分にて差置くへき旨、早速結構に仰出され候、織部、殊の外有難︀がり、年寄中も、斯樣にあるべしとは存ぜず候處、結構なる仰出されに候間、當座の御禮に、何ぞ差上げ然るべく候、早速上げ候樣にと、申さるゝに付、差當り仕るべき樣之なき故、御臺所奉行上木金左衞門へ申遣し候處、御臺所に只今有合せ候御肴、借用仕りたき旨、御臺所へ申遣し候所、心得申す旨にて、蚫十を臺に積み出し申し候、不意に蚫有合せ候儀、寺井にて見申し候夢想に、少しも違ひ申さず、あらたなる儀と、人々存じ、織部彌〻伊勢信仰仕り候、才之助も有難︀がり申し候、慥かなることに候旨、藤田氏咄に候、
【家中金澤在住者︀と小松在住者︀の爭】一、日夏市郞右衞門と申す者︀、御大小姓御番頭にて罷在り、身上四百五十石か五百石の由、微妙院樣御代より、相公樣御幼少の御時迄は、右役儀相勤め罷在り申し候、陽廣院樣御逝去以後、金澤者︀奢り候て、御隱居樣者︀を輕しめ申す旨、每度微妙院樣御意遊され、御立腹遊され候、然る所、其頃は金澤中、今の如く、大小姓町𢌞に出で申し候、是は相公樣御幼少、微妙院樣は小松に入らせられ候故、町中締の爲め、𢌞り申す由に候、金澤に檢地の御用之あり、小松より與力小塚︀惣右衞門と【 NDLJP:103】申す者︀、罷越之ある處、或夜宵の內、松原町不開門の邊を通り候時分、町𢌞衆に出合ひ候へば、如何の首尾に候や惣右衞門小者︀、町𢌞衆を見、逃げ申し候、仕方宜しからず候故、扨は子細之ある者︀と、町𢌞衆見尤め追詰め、足輕共叩かせ申し候、後承り候へば、何の子細もなく、惣右衞門小者︀と申す儀、相知れ申し候、此旨、微妙院樣聞召され、小松者︀を輕しめ申す旨にて、殊の外御立腹遊さる、其時分町𢌞御小姓、殘らず切腹仰付けらるべき旨に候處、色々御詫言の上、何れも御知行召放され候、總名代に日夏市郞右衞門切腹仕るべき旨にて、名代に切腹仕り候、小塚︀惣右衞門は閉門仰付けられ候、藤田氏咄、
一、微妙院樣、小松に御座なされ候時分、御進物に鯉二つ到來申し候、御覽に入れ、何の仰出されも御座なき故、御臺所へ遣し置き申し候、其夜、前田對馬守御夜詰に罷出で、御用相勤め罷在り申し候處、御臺所奉行、右鯉之ある事を、對馬へ申聞け候へば、先程御覽に入れ、何の仰出されも之なし、急ぎ御吸物に申付け、何れも有合の者︀へ給べさせ、然るべき旨申付けらる、則ち御吸物に認め、對馬も給べ、其外の者︀共も給べ申し候、然る處に、暫く間之あり、先刻參り候鯉、御用に候間、上ぐべきの旨、仰出され候に付いて、對馬差圖にて、御吸物に仕り、皆々給べ候段、御聽に達し候へば、沙汰の限り、人の物を斷なしに取り申し候品々對馬に
【水野勘兵衞の殉死】一、微妙院樣御代、水野勘兵衞と申す者︀、千石にて相勤め罷在り候、陽廣院樣へも、御懇に召仕はれ候、然る所に、陽廣院樣御逝去の時分、殉死仕るべき者︀の樣に、沙汰之あり候を、勘兵衞承り、尤も御懇に遊され下され候へども、さして殉死仕るべき程の私に御座なく候、此方よりは、殉死仕るべき面々、未だ之ありと、相見え候へども、夫さへ何の沙汰もなく候、何れの家へ罷越し候ても、千石取り兼ね申す私に之なく候へば、さして御知行過分とも存ぜられざる旨申し、罷在り候、總べて不首尾と申す程にては之なく候へども、其以後御暇申上げ、御家を出で申し候、其節︀申し候は、若し他國へ罷越し、千石取り申さず候はゞ、其節︀は何時によらず罷歸り、切腹致すべき』日申し、罷越し候、他國へ參り、かせぎ候へども、千石に抱へ申す仁之なく候、程經て金澤へ立歸り、何方へ罷越し候ても、千石に抱へ申【 NDLJP:104】す方之なく候、最前申して罷出で候口も之ある事に候間、檢使を下さるべく候、切腹仕るべき旨、年寄中まで斷り申し候へども、今更頓著︀に及び申す事に之なき旨にて、檢使も出し申さゞるに付、寶圓寺に於て、密に切腹致し、相果て候由、藤田氏咄にて候、
一、微妙院樣御代、落合勘解由と申す者︀、千石にて陽廣院樣へ御奉行申上げ、御懇に召仕はれ候、奧向相勤め罷在り申し候、陽廣院樣御逝去の時分、殉死仕るべき者︀に候處、其身天性不實者︀にて、殉死の氣色、聊か之なき故、何れも恥しめ候て、腹仕らせ申し候、夫故殉死の內にはなり申さゞる旨、藤田氏咄にて候、
【具足の製作】一、或時、微妙院樣御意遊され候は、與力共具足持ち申すまじく候、仰付けられ下さるべく候間、人々乳繩取らせ申すべき旨仰出さる、是は有難︀き儀と、何れも與力共、乳繩を取り、差上げ申し候、則ち具足仰付けられ、段々出來申し候に付、兼ねて仰付けられ候、與力共の具足出來、下さるべくやと、奉行より相伺ひ申し候へば、殊の外御機嫌損じ、いつ左樣の事仰出され候や、やくたいもなき事仕り候、麁末なる儀に候間、何方へなりとも、遺し置き候へと、御意に付、皆々御藏へ入れ置き申し候、是は兼ねて與力具足仰付けられたき思召に候へども、俄に仰付けられ候ては、目立ち申すに付、右の通り仰出され、時々出來仕り候樣子に候旨、前田氏咄に候、
【利常の出仕】一、微妙院樣、御勤に御出て遊さるべしと、思召し候時分は、御
一、微妙院樣、常に御烟草召上られ候、御火入は、大きなる蓋之ある釣付の御火入にて、御烟管一本、御烟草盆は御座なく候、何ぞ御意に應ぜざる事御座候て、仰出さるゝ時分は、御烟管にて御火入を御叩き、態と御機嫌惡しき樣に、外樣へ相聞え候樣に遊され候、每度の事に候旨、福︀島氏咄に候、且又、强く御立腹遊され候時分は、御鬢の髮立ち申す旨、同人物語にて候、
一、或時、定家卿筆にて、歌の讀方の書記し候文の懸物、京極安智求められ、殊の外珍しき物にて、微妙院樣へ御目に懸けられ候、勝れたる物に候故、御覽置きなされ候樣に、陽廣院樣へ仰進ぜられ、御寫し遊さるまじき旨、仰進ぜられ候處、陽【 NDLJP:105】廣院樣御覽遊され、珍しき物に候間、何卒御寫し置き遊されたく思召され、脇田九兵衞抔へ御相談にて、則ち御自身御寫し遊され候處、御寫し仕舞ひ遊され候時分、ふと御筆御取落し、墨︀附き申し候、殊の外御迷惑がり、如何遊さるべくやと、御意に付、九兵衞申上げ候は、私持參仕り、如何樣にも宜しき樣に申上ぐべき旨、申すに付、さ候はゞ、如何樣にも宜しき樣に仕り候へと、御意に付、則ち持參仕り、右の御樣子、微妙院樣に申上げ候へば、左樣の事御座あるべしと御思召され、御寫し遊されず候樣に、仰進ぜられ候、安智へは然るべき樣に仰進ぜらるべく候間、此段申上げ候樣に、御意に付、罷歸り其趣申上げ、御安堵遊され候、安智へ、微妙院樣より御使者︀を以て、右の旨趣仰遣され、餘り珍しき物故、筑前守寫し申し候處、墨︀を附け、麁末なる儀に御座候、爲し申さざる樣に、仰越され候へども、右の趣の旨、御斷仰遣され、墨︀の附きたるまゝにて遣され候、安智、御口上の趣御聞き候て、御使者︀に御會ひ、御念を入れられ候趣、御答御座候て、扨是は御使者︀への物語に候、斯樣に墨︀附き候ても、落し申す儀、いとやすき事に候間、御落させ、何事なく御返しなさるべき所、御貞信なる御事、感心奉る旨御申し、見事なる御樣子に御座候、其以後、墨︀を御落させ候て、又遣され、御目に懸けられ候旨に候、九兵衞物語に御座候旨、
一、微妙院樣御代、坂井與右衞門、〈後瀏閑といふ、〉喧嘩場にて、首尾一段宜しく候旨、其時分の樣子、則ち與右衞門孫坂井八右衞門方に、與右衞門時分よりの覺書之あり候、夫を所望仕り、其儘に寫し置き申し候、則ち覺書の通り、左の趣に候、
寬永十九壬午五月、江戶へ相詰め、三十九月九日、當番有澤太郞左衞門、自分取次役、其日の御禮衆書付上げ申すに付、御步行澤田三郞右衞門・帳付三人、御番所御屛風の外に之あり、同じ御番所御屛風の同〔內カ〕に、水原淸左衞門、〈知閑なり、〉幷に御中小姓津田與三郞・井上六左衞門一座に之あり、然る所に、井上淸兵衞通り懸り、大脇差にて、太郞左衞門背中を二刀切る、三刀目、拙者︀見付け、淸兵衞を突︀立て、廊︀下口
一、寬永二十年未四月、利常樣御參觀、御上屋敷より、或夜、御使罷越し候處、杉本次郞左衞門御使にて仰出され、御自筆にて、兼卷の御腰物・金子二枚、御書出拜領仕り候、此儀、存寄御座なき段、次郞左衞門まで相伺ひ候處、存寄らざる旨、其身申し候は、去年御番衆所に於て、御小姓共、申分仕り候刻、裁許宜しく仕り候段、聞召し上げられ候に付いて、思召し付けられ候由、申聞ゆべき旨、御意の由、次郞左衞門申し候間、其節︀の儀、御聽に相達し候程の儀に御座なき處、有難︀き仕合に存じ奉る旨、御請申上げ候、其夜、御上屋敷へ罷歸り、委細申上げ候處、御前へ召出され、御機嫌能く、今夜の內、御禮に罷越すべく候、小泉小左衞門を御添へなされ、御禮に遣さるゝ由、辱き御意にて罷越し候處、御夜詰濟み候て、杉本旅宿へ、小左衞門同道、罷越し申置き、其後、有難︀き御噂仰出さるゝ旨、承り置く、
一、同年六月、光高樣御歸國、御供勤め罷歸り、金澤に於て、屋敷渡奉行相勤め、同十月、重ねて江戶へ御下向、拙者︀御供に召連れらるべき旨仰出され、辱き御【 NDLJP:107】意にて、御請申上げ、相勤むる、
一、正保元年甲申、御在江戶、落合勘解由取次ぎ、舊冬、重ねて御供相勤め、御滿足に思召され候由、辱き御意の上、銀子二十枚拜領致し候、同暮、新戶御鷹野・熱海︀へ御供勤め、御歸府なされ、極月十五日、御加增二百石拜領致し候て、名を與右衞門になされ、御一行をも御書替へ、頂戴仕る、
一、正保二乙酉四月五日、光高樣御逝去、同七月、江戶替、中仙道蹄る、
一、正保四丁亥、京都︀に相詰め候、稻垣三郞右衞門代として、俄に、十月、上京仕るべき旨、御年寄衆仰渡され罷登り、拙者︀三十七歲、三箇年相詰め、慶安己丑十月、御國へ歸る、則ち御算用を遂げ候處、津田玄蕃殿仰渡され候は、當春、中納言樣江戶へ御立の刻、與右衞門、京都︀より歸り候はゞ、足輕十五人御預けなされ候間、中渡すべき旨、仰出され候の間、御請け申上ぐべきの旨仰渡され、御請之を申上ぐ、
右古人之覺書之通無㆓相違㆒記㆑之畢、
享保三年九月中旬、武陽於㆓ニ鴨鴨寓居㆒書㆑之、
右享保十四己酉七月、前田之家臣所㆓持之㆒、朋友林氏借㆑之、
于㆑時八月中五烏、春秋三十三歲而記㆑之者︀也、 丹羽︀正審
【草履取三太郞の立身】一、長故九郞左衞門代、家老長新之丞といふ者︀の草履取、三太郞といふ者︀あり、能州田鶴︀ケ濱百姓の子にて、新之丞へ始めて奉公に出づる、或夜、小者︀傍輩打寄り、茶飮咄に、人々の望を云ふに、或は銀を持つ町人になりたしといひ、或は大百姓になりたしと、取々咄の內、三太郞云く、我望は何卒馬に乘り、鑓を持たせたしといふ、傍輩共謂れざる大望かなと打笑ひぬ、或時、主人に暇も取らず、伊勢へ拔參せしに、越前福︀井にても、道具屋へ立寄りいひけるは、我脇差を遣すべき旨、何にても苦しからず、大小に替へて吳れ候へとて、銀子差添へ渡しければ、則ち大小二腰にして與へぬ、それを差して參宮し、直に京へ出て、町屋を借りて、長監物と名乘り居住す、其屋主硏屋なりしが、三太郞身代
一、享保六年八月廿三日、御城坊主利倉善佐、當御屋形へ來り語り候由、去る十五夜、小姓組仙石因幡守殿組、御番所の次の間中程へ、四つ時頃、天井より石落ち申し候由、右の石大さ、茶白の上石程之ある由御座候、天井の板など、損じ申さず候由に候、
【將軍家光前田氏邸を訪ふ】一、大猷君、當御家へ御成の日、本多故安房守、大夢皮袴に戾子肩衣にて、御式臺白洲へ出で、中腰になり、御駕に向ひ、今日御機嫌能き樣に願上げ候、御機嫌惡しければ、父子の者︀、機嫌惡しく候間、是々に御座候と、手を合せ申さる、大猷君、成程成程心得たと、御意なりしとぞ、
【富士山を越すは鷺のみ】一、富士の絕頂を越ゆる鳥なし、鷺のみ越すなり、鷺は諸︀鳥に勝れて鈍なる故なりと、淸水長兵衞物語りしとぞ、【 NDLJP:110】一、百足に刺されたるに、妙藥は蕨なり、之なき時は、嚴繩を附けて良し、
一、相國樣は小松大臣以來の名將と、天下の者︀沙汰なりけれども、權現樣には御及びなされざるなり、只其家の元祖︀には及び難︀きか、權現樣は梅︀の如く、相國樣は櫻の如くと評せり、
【金澤移轉の議】一、利常樣、御若年の御時、金澤御城、未だ御普請の手合申さゞるに付いて、御普請御取立てなさるべしと、安房・山城へ仰出され候事あり、兩臣申上げられ候、此御城も目出たき地形に候へども、能美郡御幸塚︀へ御移り遊さるべきかと申上げらる、利常樣、暫し御思案なされ、御意には、女共煩重きにより、入らざるものと、御意なり、兩臣御前を退出の後、兎角御智惠が御勝れなされたりと、賀し奉り申す由、
【家康自殺︀の風說と井伊兵部】一、權現樣、伏見御在城の時分、或夜、密に御城中に沙汰仕るに、今夜、權現樣御生害なりといふ時に、上にも此事を聞召され、井伊兵部を召され候へども、御城內に居られず、一時計り過ぎて、御門外より、馬を早めて參られ、御前へ出でられ候時、何方へ參りたるぞと、御尋ね遊されければ、兵部殿言上に、御屋形怪しき事を申し候間、外聞に罷出で候、殿樣などの御大將が、御生害と思召され候は、京・伏見・大坂に參觀の大小の武士、御屋敷𢌞り、其外、辻々所々に押寄せ申すべしと存じ、御屋形近所の儀は申すに及ばず、近所在々まで、少々心元なき所、見𢌞り申し候へども、成程靜に御座候と、申上げければ、御屋形靜りけり、諸︀人、兵部殿を譽めけるとや、
【本多重次刑釜を碎く】一、權現樣、濱松御在城の時分、駿河へ御打入りなされ、御歸城の時、阿部川の端に人煎る釜あり、權現樣上覽なされ、此釜を濱松へ持參仕り候へとて、奉行に仰付けらるゝ故、奉行は釜を持たせ、濱松へ歸る、道にて、本多作左衞門、此釜を見て、子細を聞きて、人足共に打碎かせ捨てさせ、奉行人に申付くるは、濱松へ行き、殿に申上ぐべき樣は、殿は餘りうつけを御盡しなさるゝな、天下をも望む志ある者︀が、人を釜へ入れ、煎殺︀すべき罪人之ある樣に、仕置する物にて御座候やと、申し候て、釜を打碎かせたると、具に申上げよ、若し殘り候はゞ、後惡かるべしと、申付け候故、濱松へ歸り、具に申上げければ、權現樣、御顏に紅葉を御散らしなされ、作左衞門を召され、仰聞けらるゝは、汝が申す所、一々尤なり、免︀し候【 NDLJP:111】へと、御斷り仰せられ候へば、作左衞門も淚を流し、御前を罷立ちけり、
【將軍家綱望遠鏡を手にせず】一、家綱樣御十一歲にて、將軍宣下の後、三階の御櫓へ御成の時に、御守衆、遠目鏡持參し給ひて、諸︀方見て後、少し御慰に御上覽遊さるゝ樣にと、言上ありければ、御揚げ遊されず候故、一一三度申上げ候時、上意に、何と存じ、左樣には申上げ候、家光樣御他界に付、將軍宣下蒙りたるが、汝知らずや、一度遠目鏡見ば、每日將軍は櫓へ上り、遠目鏡にて江戶中見ると言ふ時は、諸︀人の苦み、如何計り多かるべき、家光樣御在世の時は、如何樣とも、身苦しかるまじきが、今身持左樣に輕く致す時、諸︀人の難︀儀なる事知らざるか、一度取上げずば、子細あるべしと思ひて、嗜むべき由、仰出されけるなり、
【福︀島正則遠流に處せられ廣島城を明渡す】一、福︀島正則遠流廣島城引渡の覺
天和五己未曆、安藝・備後兩國、四十九萬八千石拜領主、從四位下侍從福︀島左衞門大夫正則事、元和四己未年六月廿三日、領主召放され、出羽︀庄內へ流罪、最上源五郞義俊に御預に付、藝州廣島の城請取覺
一上使家中侍共へ上意申聞 本多美作守
一城請取總奉行御奏者︀番 永井右近大夫直勝
一同副役御詰衆 安藤對馬守 重信
一同副役御詰衆 松平甲斐守 忠良
一御目付 日下部五郞八
一御目付 加藤伊織
一廣島城番 作州津山十八萬石 森美作守
一福︀島家人異議に及ぶ時、蹈禿し候樣に、御下知に依りて藝州へ詰寄る、
堀尾山城守 忠晴︀
一石州津和野より 龜井豐前守 政矩
同濱田より 古田大膳亮 重治
同長門より 松平長門守 秀就
右長門守若年故、毛利甲斐守秀之陣代出づる、備前より、是は中まで出張、右の面々、猶更日を重ね、人數不足の時は、永井右近大夫・安藤對馬守差圖次第、早速馳向ひ、攻禿し候樣に御下知の事、
因幡より(伯耆よりともいふ) 松平新太郞 光政
伊豫より 加藤左馬助 吉則
讚岐より 生駒讚岐守 正俊
阿波より 松平波阿守 忠英
右詰寄の大小名、在府の輩は歸國す、
豐後竹田より 竹中采女
是は正則と由緖之ある家中、別して通達をなす故、此度藝州案內に、永井安藤に御副ひ下向す、之に依つて、竹中方より福︀島家老方へ、上使に先達て、廣島へ使者︀を遣し申して曰く、
今度正則、兩國召上げられ御預け、之に依つて正則仰渡され、次に御請は、家中の者︀へ申聞け候樣に、上使本多美作守殿下向、城は永井右近大夫殿・安藤對馬守殿抔下し、我等は右の案內同道なり、正則へ上意、次に御請別紙書付、內見に入るゝの間、何れも其旨覺悟尤なり、委細書付、今度江戶に於て、正則宅八上使と【正則の罪狀】して、近藤石見守幷に御目付豐島主膳を以て仰付けらる、上意の趣は、福︀島左衞門大夫事、已前大權現に對し奉り、忠節︀を顯す、之に依つて大祿を賜ひ、人に勝れて御憐愍を加へらるゝ所に、功に誇りて我意に任せ、伊奈圖書に切腹致さす、是れ一つ、父子共に秀賴に志を通ずるの由、今度露顯す、其虛實を知らず、是れ二つ、次に父子隱謀を企て、家人隨はざれば、醉狂に事寄せ、手討にす、是れ三つ、小過を以て大科と號し、誅戮せしむ、偏に狂亂と謂ふべし、是れ四つ、躬備後守、大坂の役に至ると雖も、一度も其志を顯さず、不審なきに[〈あらずノ三字脫カ〉]、是れ五つ、今世人叛謀の企ある由謳歌す、是れ六つ、次に備後守、京都︀に於て、弓箭・兵具、數を盡して之を調ふの由、最兼備の武具なり、其節︀に就いて惡しき不審なり、是七つを以て、安藝・備後を召放るべし、但し父子に於ては、死罪を宥め、遠流せらるべし、若し七箇條申分あらば、聞召屆けられ、免︀許すべき旨申渡【正則の答辯】さる、正則、御請申上げらるゝは、仰を蒙る七箇條、縱令申分ありと雖も、身に於て、實に陳謝に及ぶべけんや、兩國沒收の事、是又畏り奉る所なり、正則少忠を感ぜられ、大祿を賜はる、是れ偏に大權現の厚恩たり、當將軍の御恩にあら【 NDLJP:113】ず、予が忠も、又權現の爲めにする所なり、當將軍に忠なし、奚ぞ大祿を豪らむや、召上げらるゝ事、當理と謂ふべし、正則に於ては、敢て憂へず、則ち返上ぐる所なり、此旨、言上を願ひ奉る由、御請申上げらる、其後、兩人の上使に申さるるは、是は御請にあらず、御兩人に對する物語なり、正則、隱謀を企つるの由、誠に可笑の事か、若し逆心を企つるならば、關ケ原一戰の砌、正則變心、大權現を討つべき事易かるべし、然れども日頃の御入魂を報ずべき爲め、忠を勵して石田を討ち、大祿を賜ふに依つて、何の不足あつて、叛逆を企てむや、其上正則、一己の力を以て、豈天下に敵すべくや、推量あるべし、次に正則を誅せむ爲め、大小名等に仰せ、辻々を堅め、家宅を圍み、且つ大鐵炮を仕懸く、是何事ぞや、勇士一人を遣され、正則が首を刎ねらるゝに、何事か候はむや、正則、戰はむと欲せば、當時の大名、何人ありといふとも、可笑の事を恐れむやと申され、上使を送る、兩人登城、右の趣言上なり、是に於て、出羽︀庄內へ流罪にて、最上源五郞義俊に預けられ、四萬石賜ふべしと、仰出さるゝと雖も、流人の身、其用なしと返上【家老福︀島治重將士を籠城せしむ】故、配所に於て、一萬石賜ふなり、家老共之を內見す、中にも福︀島丹波、少しも驚かず、竹中采女に、是より御返答仕るべしと、使を返し、扨丹波は家中侍共へ、正則、江戶に於て、御改易之あり、依つて安藝・備後請取の爲め、數輩下向之ありといふ、正則父子の生死不分明により、何れも籠城して、主人の生死を糺すべし、面々妻子引具して、今日中の下刻までに籠城あるべし、右の刻限延引せば、狹間潛りの帳記すべしと相觸る、諸︀士七つ時前に、悉く城に籠る、其內馬𢌞りの侍二人、遠方へ出で、此觸を知らず、下人走り行き、之を吿ぐ、兩人驚き馳歸る、刻限過ぐる故、門を閉ぢ、入れざるに付、一人は力なくして歸る、今一人は種々詫ぶると雖も用ひず、時に高聲に呼びていふ樣は、我遠方へ行き、心ならず延引す、然るを理不盡に門に入れず、狹間潛りの數に入れむと欲す、豈士勇士は、名を捨てゝ、生きらるべけむやといひて、則ち自害す、番人驚き走り出て、抑留すと雖も、忽ち死す、丹波甚だ之を惜む、件の者︀は、正則家にて一二の剛の勇士、林龜之助弟龜之丞といひし者︀なり、扨丹波は、福︀山城代大崎玄蕃へも牒し合せ、何れも籠城相調ひ、其以後、丹波方より竹中采女殿へ使者︀として、吉村又右衞門・大橋茂右衞門を差遣す、外に添使者︀として、福︀島式部を遣す、是れ兩使、上使に對し、お【 NDLJP:114】ぢ恐れ、丹波が口上申殘すや否やと差添ふなり、三人備後の尾の道にて、上使へ出會ひ、竹中へ使の趣を達す、采女、永井右近大夫・安藤對馬守の止宿に相具【治重上使に正則の墨︀附を求む】す、吉村・大橋兩將の前に出で、口上を述べて曰く、一昨夜竹中采女殿より內意に依つて、仰を蒙り、上意の趣畏り奉り候、主人左衞門大夫、御勘氣を蒙り、遠流せられ候間、安藝・備後を召上げらるべきの旨、是又異議に及ぶべからず、併し正則父子生死の儀、承知仕らず候、凡そ兩國は、去る慶長五年に、關ケ原軍功に依りて、大權現より廣島・福︀山・三原の城、安藝・備後兩國召預けられ候時、正則郞從を招ぎ、汝等が軍忠に依りて、兩國を預けらる、今又廣島・福︀山の兩城は、丹波玄蕃に預け置くの間、自然の時は、面々城を枕にして討死すべし、譬ひ上意と雖も、正則下知なく、城渡すべからずと申付くる、定めて正則より兩城相渡すべき旨、下知の墨︀附、之を差越し、披見仕り、其上にて城を相渡すべき由申し候、さなくば城を枕に仕るとも、渡す事叶ふべからず候、此旨、采女殿まで申す樣、丹波返答と少しも憚らず、丹波が口上に過ぐるまで、風情して之を申す、永井・安藤聞屆け、尤の儀なり、墨︀附は各不念にて取來らず、則ち江戶へ申遣し、墨︀附取り見るべしと、返答せられたり、其時、兩使又曰く、丹波何某等に申含め候は、若し墨︀附御持參なく、取りに遣さるとの御事ならば、其御使往來の間は、正則が領分引除かれ、他國に御陣居ゑられ下さるべく候、其儀相叶はれずとの事ならば、是非なく此方より推參仕り、一戰を遂げ申すべき旨、申含め候と申す、上使幷に御目付評議あり、丹波が申す所、尤至極せり、墨︀附の儀、早速江戶へ申遣すべし、其內傾分引除くる事、云甲斐なしと雖も、引除かざれば、一戰を遂ぐべき旨、今天下靜謐の處、亂をせば不忠なり、尤も正則領分に在住し、右の使ならば、全く引取るべからずと雖、其身配流にして、家士は牢々の者︀共なり、彼が忠を空しくせんは、若輩の仕方なり、心ある者︀、何ぞ臆したりとか言はんやと、衆議一決して、各返答に、墨︀附の事、取寄せ渡すべきなり、次に領分を引除くる事、是は其意を得と、使を返され、則ち三里備中の內に引除かれたり、丹波・玄蕃は、其間に堅固に籠城して、靜り返つて居たりけり、日を經て、正則墨︀附到來して、竹中采女より城々へ送る、丹波以下之を見、正則の自筆自判疑なし、尤も城を相渡すべしの旨趣なり、丹波重ねて、福︀島式部・林龜之助を上使衆へ遣し、正則【 NDLJP:115】墨︀附到來の上は、異議に及ばず候、【開城に決す】併正則妻・家中の侍共妻子、步行跣にて立退く事、其恥を思はず候、願はくば、近國に仰せ、𢌞船四五百艘、御恩志に預り、妻子・財寶見苦しきを乘せ、舟にて攝州へ送り遺し度候、其後、城中掃除以下申付け、城明渡し申すべく候、其事叶はざれば、力なく妻子を害し、速に自害仕り、城を燒き、死骸を隱し、死後の恥を見させざる樣に仕るべしと申上ぐる、上使衆聞召され、答に曰く、舟の事、其意を得候、則ち申付くべし、城中仕𢌞の事、心靜に仕るべき旨、返答之あり、使を歸さる、四五日經て、𢌞船五百艘、追々に集る、此間に丹波は、家中の輩姓名を記し、武功を書入る、此度、籠城の樣子能き者︀、城に入らずして申分能き者︀、或は林龜之丞切腹の次第、或は立退きし者︀、又は高名度々之ある、銘々大廣間の四方に之を張る、扨又弓・鐵炮・鑓・長刀・矢・玉藥・大筒・右火矢、其外武具・諸︀道具、間每に見安き樣に、城中を仕𢌞ひ、扨正則の妻子・家中の妻子・財寶・家財、見苦しき物共、五百艘の舟に取積み、家中屋敷每に、家附諸︀道具、目錄に記し、番人を置き、引渡し候樣に下知して、其後、城を渡すべき旨案內して、侍大將・物頭・使番の者︀、上下を著︀して、上使に向ひ、一番本多美作守幷に御目付、城に入り、上意の趣を達し、永井・安藤等、次第を守り城に入る、其後、旗奉行・鑓奉行、其役々を守り、足輕大將は足輕を引付け、鐵炮を持たせ、玉を込め、火繩を懸けて、次第を追つて、城門より左に付き、追手南の門へ出づる、旗奉行以下、家中侍以下袴羽︀織を著︀す、上使御役人は、上下を御著︀、家人は悉く甲冑を帶す、是も火繩に火を附け、鐵炮に懸け、城の方右に付く、入替る侍共、互に色代して出づる、丹波以下は使番迄、上下を著︀用の輩は、城に殘り引渡す、段々上使衆御心入に預り、悉く願の通り御免︀、有難︀き旨、御禮申上ぐる、其作法尤も嚴重なり、其後、何れも城を退出す、萬事在町以下、一々尤の支配なりと言ふ、永井・安藤より花房助兵衞に渡し、城番森美作守へ、花房又引渡す、上使御請取り、各城を出てられしとぞ言ふ、今度、福︀島丹波が所爲、天下の人褒美すれば、福︀島家の牢人、數多ありと雖も、一人も餘さず、在付くなり、主人の勇武、丹波が仕方、張紙を證據の故なり、皆信を以て本知せり、殊更升波事は、諸︀大名より招がるゝと雖も、吾は正則恩顧の者︀なり、二君に仕ふべからずとて、剃髮入道して一生終る、人之を惜む、誠に至勇武鑑に、義士と謂ふべき者︀【 NDLJP:116】歟、智才共に兼備調ひたる臣下なるべし、正則が跡安藝・備後は、同年七月十五日、古淺野但馬守長晟、紀州和歌山三十七萬四千石より轉じ、安藝・備後の內、四十二萬六千石餘を賜ふ、備後福︀山十萬石にして、水野日向守勝成に賜ひしなり、但馬守は、泉州樫井の軍功を報ずと言ふ、
【正則の將士】 正則の士籠城の頭分千石以上
一
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但し廣島城代なり、三原の城は城番持なり、
一
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一同 二萬石 木造大膳 一人持分 七千石 揖田出雲
一同 六千石 牧野數馬 一同 五千五百石 村上彥右衞門
一同 五千石 林龜之助 一同 五千石 山本長右衞門
ー同 四千石 梶田右近 一同 四千石 本條勘解由
一同 四千石 荒川與三右衞門 一同 五千石 仙石新八郞
一人持分 五千石 福︀島筑後〈此筑後は式部といひ、丹波嫡子なり〉 一同 三千石 山口若狹
一同 三千石 柴田源左衞門 一同 同 鎌田主殿
一同 同 武藤修理 一同 二千石 星野加賀
一同 二千石 水野治左衞門 一同 同 間鍋五郞右衞門
一同 同 山本織部 一同 同 海︀老名伊賀
一同 同 上月萬右衞門 一同 同 加藤五郞右衞門
一同 同 吉村又右衞門 一同 同 大橋茂右衞門
一同 千五百石 伊藤圖書 一同 同 福︀田字右衞門
一同 千石 山堀右近 一同 同 星野又四郞
右役儀持なり、
一同 三萬石 福︀島備前守殿部屋住領
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