微妙公御夜話 目次

 

 
オープンアクセス NDLJP:59微妙公御夜話

一、少将光高様へ大姫君様御輿入の後、江戸桶町より出火の節、風烈しく大火に成り候節、上使として、能勢治左衛門殿を以て、少将様へ上意には、風強く次第に大火に成り候へば、増上寺危く思召され候に付、火防がれ候様に、御頼みなされ候旨、之に依りて、即刻御出で遊ばされ候、其砌誰やらん、上使にて候間、罷通り候様にと、御行列を乗切り申すべしと仕られ候時、少将様御意には、手前も上使にて罷通り候と仰せられ候へば、其仁脇道へ参られ候、誠に能き御当話、諸人感じ奉り候、さて増上寺へ御著、上下共に必死の御様子にて、防ぎ留め申し候、上様前田氏の幕府へ尽す道御満足遊ばされ、諸人御手柄と申慣られ候、然る所、翌日御登城にて、酒井雅楽頭殿へ、利常公御遭ひなされ、仰せられ候、昨日火事に付、増上寺へ罷越し、父を防ぎ候旨承り候、筑前守若き者故、尤に候へども、沙汰の限りなる儀、叱り申し候、向後仰付けらるゝとも、昨日の様には御座あるまじく候、其仔細は、火事にて過オープンアクセス NDLJP:60など仕り候はゞ、御奉公には罷成るまじく候、其御奉公には、増上寺など焼け候はゞ、何箇度にても作り候て上げ申すべく候、筑前守儀は、何ぞと申す時、御奉公仕るものに御座候間、火事などにて過仕り候へば、詮なき儀に候、重ねて左様に御心得なさるべき旨、仰せられ候処、讚岐守殿始め御手打ち、御尤と御感、追付上聞に達し候処、中納言申さるゝ処、尤も至極に思召し候、昨日筑前守に御頼み遊さるゝ儀、御誤なされ候旨、上意之ある由、

一、本郷御下屋敷にて、御出入衆御客、富士見の御亭にて御咄の砌、織田左衛門殿申され候は、あの富士山の頂上に池之あり、水出で申す由、不審なる儀と申され候、其時利常公御意には、左衛門、其合点致されず候は、人の頭を打割り候へば、血出づると同じ事と、仰せられ候へば、一座の衆さて御頓作なる儀と、感じ申され候、

横山康玄を武者奉行とす一、少将様へ御家督御譲りなされ候以後、中納言様へ御訴訟なされ候は、国仕置第一と申すは、公事にて御座候、横山大膳能く候間、公事聞に仰付けらるべく候やと、御伺ひ遊ばされ候へば、大膳は武者奉行に申付くべしと、手前存じ候、公事と申し候は、勝ち申す者は奉行人能しと思ひ、負け申す者は身の誤を弁へず、奉行頭人片寄り申すの、依怙を致すの、贔屓を致すのなどゝ、存ずるものに付、武者奉行など致させ申す者は、左様の役人に懸り申す儀とは、思召されず候、大膳に申付けられ候とも、請け申すまじくと仰せられ候、後に承り候へば、夫より以前に、御内証にて武者奉行仰付け置かれ候由、

富山大聖寺両支藩の士を預る一、淡路守様・飛騨守様御両人より、中納言様へ御訴訟なされ候、御貸銀多く、何とも御難儀なされ候間、御銀御貸し下され候、分限よりも人も多く候間、少々加賀守様へ御預け、其知行を以て、御除知になされ、夫にて御返弁なされたきの旨、仰上げられ候、其段相調へ、御預の御家来名ども、御書付上げ候へば、淡路守・飛騨守に悪しき者共を、加賀守へ遣し候へば、何の役にも立ち難く候間、成程能き者共を遣し候へと御意にて、書付は御覧之なく、金沢老中へ御渡しなされ候、富山・大聖寺より御預の者共、御用にも立たざる故、金沢へ遣さると、存気もふるく仕り、罷在り候処に、此御一言にて、金沢へ罷越し候者共、肩をひろぎ、何れも辱く悦び申し候、是にて御預の侍共、疵も付き申さず、有難き儀と、御名将を感じ奉り候、

オープンアクセス NDLJP:61囲ひ女の風止む一、小松に於て、中納言様御意には、金沢侍共、妾女を方々小家に召置き、囲ひ女と之を申す由、聞召され候、沙汰の限りに候、小人目付を申付け、誰々囲ひ置き候や、書付上ぐべき旨仰出され候、則ち小人目付共、方々小家共聞出し、慥に知る人々五六人書上げ申す処、津田玄蕃へ仰出さるゝは、此書付六人の内、妻子持ち申す者候や、御尋ねなされ候処、玄蕃存じ候は、此御様子にては、妻子を持ち、其上にて囲ひ女仕り候儀、定めて迷惑にも仰付けらるべく候かと、爾とは覚え申さざる由申上げ候、一両日過ぎ候て、此書付御爪点遊され候、是々は妻子持ち申し候、此妻子持共の囲ひ女は、聞えたる事に候、仔細は、山神共が政道を致す故、内には置き難く、外に置きたる、尤に候、妻子持たざる者は、何様にも手前に抱へ置き申すべき所、ゑやうに候と、仰出され候、諸人承り、存寄らざる御意の趣、御尤なる儀に候、然る所、万人の分別に及ばざる儀と感じ奉り候、其後、兎角の仰出されも、之なく候へども、夫よりは妻子持も園ひ女を止め、持たざる者は、猶以て園ひ女も仕らず候、

一、利常公、不断召上られ候御膳木具にて、三汁・十菜計りにて御座候を、岡島兵庫・九里覚右衛門御膳奉行にて、両人申し候は、是は結構なる儀、何れも上り候へば、拵へ候ても能く候へども、此内二色・三色ならでは上り申さず候、其上尾張様・水戸様など御膳は、二汁・五菜と承り候、あなたへ御出入り申す町人共に尋ね申し候処、左様申聞け候、此儀は伺ひ申すべしと申談じ、小林検校を以て申上げ候処、覚右衛門・兵庫、合点せぬか、三人の衆は公方様御一族にて、今日の位職には、身共及ばず候へども、知行は又身共が真似はなるまい、結構なる事致され候はゞ、大名は大名らしくするが善し一興々々、又あの衆の事を我等にせれば、其事に懸る商人共、身過ぎがならず、大名は大名の様なるぞよけれ、小身は又其位々に致したるがよし、之を分限相応といふものなり、孔子もこゝを大事と申し置かれ候と御意、御名言と兵庫も覚右衛門、其外承り申す者感じ奉り、売人共辱がり申す由、

一、利常公、小松に於て、御家中年頭の御礼請けさせられ、御居間へ入らせられ、以ての外御つかれなされ候由、中村久越へ仰せられ候、久越承り、大勢の御人にて、御長座なされ候間、御尤と申上げ候へば、大勢長座にてはつかれもせず、天下取らばいかゞすべき、大分の知行、何のたはけ共に取らせ置きたる事と思へば、困れるオープンアクセス NDLJP:62と仰せられ候由、

一、少将様へ御家督進ぜらるゝ後、鹿島検校を以て、仰上げられ候は、見物場・傾城町へ加賀者多く参り候由、殿中にても、又は江戸中にても、沙汰仕り候由、承り候に付、目付共遣し候ひて、様子見させ候処、手前の者御座なく候、御前厩に召仕はれ候者共、多く参り候由申し候間、少々仰付けらるべく候やと、仰上げられ候へば、利常公御聞きなされ候て、筑前守左様に存ぜられ候は、家来共不便なる事に候、拙子も左様の事数度聞き候へども、其手前存には、家久しく代々役にも立ち、骨折り申す者の子孫にて、加増取らせ申したく候へども、只今は知行も少分取らせ申すべき余慶なく、朝夕不便に存じ候、せめて斯様の事にても、楽ませ置き候へば、悦び候て、奉公も能く仕り候、筑前守思はくにては、家来共不便なる事と仰せられ候、検校承り、其通り少将様へ申上げ候へば、手前存寄誤り候、重ねて此段申上ぐべしと、御意なされ候、侍共承り、有難しと申し候、

一、小松に於て、かぶき者之あり、辻立など仕り候由、御聞きなされ、長谷川庄太夫と申す御小人頭を仰付けられ、町をも廻り申す所、泥町を通り候へば、侍共の子、此頃、庄太夫、切々通り申し候条、少し痛め申すべしとて、二三人待ち受け候て、庄太夫通り申し候節、当鞘仕り、何かと申し候はゞ、切り申すべき体に候、庄太夫直に御城に罷上り、右の体申上げ候へば、御意には、謂れざる侍町を通り申す事かな、なぜに町屋計りを廻らずして、あぶなき事に遭ひ申し候と御意にて、其後侍町をば、忍びて漸く通り申す由、右の親共承り候て、狼藉なる儀致し候故、いか様に仰付けらるべくも、計り難く候処、扨々有難き御事、何れも何事も之あり候はば、一番に駈込み申すべき心底、各申し候、

一、小松に於て、御慰に鯉を御捕らせなされ候御留川へ、山崎長門舟にて参り、唐網を打たせ、鯉を多く取り申し候、御目付け共、其段言上仕り候へば、重宝なる事に候、長門祖父閑斎と申す武辺者、大坂にても武者大将申付け、秘蔵に存じ候一番館より上の手柄者の筋の故、大分の知行を取らせ置き候処、長門もうい奴と相見え候、拙者法度に申付け置き候処へ罷越し、魚を取り申す儀は、一番鎗より上の手柄と、御悦にて御座候、長門承り、弥〻武勇を励み、鯉取り申す儀は止め申し候、杉江兵助も長門に連れられ、参り候由物語候、

オープンアクセス NDLJP:63隠居の後は藩政に容喙せず一、御隠居以後、筑前守様より仰上げられ候は、馬廻組頭に明御座候間、此内御差図遊され下され候様にと、侍十人計り御書付なされ、小林検校を以て、御伺ひなされ候処、暫し御思案なされ、筑前に家督相渡す上は、何にても目利次第に仕るべく候、我等隠居の上は、差図に及ばず候と、御書付を御返しなされ候、其段光高様へ検校申上げ候処、未だ御若年故、御差図も下さるべき御事と思召し候処、御行当の御様子に候、其後右御書付御覧遊され候へば、御爪点懸り之ある旨、夫に就き仰付けられ候、之に依つて、家中の人々存じ候は、中納言様より諸事御差図なさるまじと御意の上は、筑前守様思召次第と存じ奉り、弥〻諸事嗜み、御奉公仕り候故、筑前守様御威光付き申し候、

一、小松辺御鷹場、猥に殺生仕り候に付、重ねて急度触れ申し、弥〻法度強く、野廻の者も油断なく出で申し候、其後御法度場の内、小島村にて、若城小兵衛、雁を鉄炮にて打ち申す所を、野廻見附け、其段書付上げ申し候、御覧なされ、小兵衛は鉄炮稽古仕り候か、呼に遣し候へと仰出さる、小兵衛定めて御仕置にも仰付けらるゝかと、人々存じ、小兵衛了簡仕り候て、罷出で候処、御次へ召出され、小兵衛は小島にて雁を二つ打ち申し候由、玉二つにて打ち申し候やと、御尋之あり、小兵衛申上げ候は、つなぎに打ち申し候由申上げ候処、扨々能く打ち申すと、御感遊され、今時の雁は渡り懸けにて、料理にはなり難きものに候、鉄炮の内が羨しくと御意にて、小兵衛安堵仕り、有難き儀と、後々まで語り申し候、

一、栗田四郎左衛門、御法度場にて鷹仕り候由、御横目書付上げ候へば、津田玄蕃まで仰出さるゝは、四郎左衛門おれに呉れうとて、法度場にて鷹仕り候由、此の如く横目書付け上げ申し候、志は満足に候へども、無用に仕り候へと、申渡すべき由、御意候、

一、中納言様、小松に御座なされ候節、くし村に茶屋女七八人之あり、小松の若者共参り、遊び申し候、或時、小松町人共の子供参り、七八人一所に寄合ひ、酒など給べ、遊び申し候処、小松より侍衆の小供、牢人など同道にて、罷越し候へば、此跡飛騨守様の御道具持にて候者、筋気を痛み、くしへ引籠り罷越し、其家を借り候て、右町人共遊女集め居り申し候、然る所、跡より参り候侍共腹立ち、邪魔を入れ申すべしとて、草履取共をば海老町の松原まで遣し置き、右寄合ひ申す家へ礫オープンアクセス NDLJP:64を打ち申し候、是れ狼藉とて、亭主刀を抜き、棒を突き、大戸より覗き、中々我等足にては、追駈け申す儀はなるまじとて、立帰り候へば、彼町人共、脇差を抜き連れ、一度に罷出で、狼藉者遁すまいと申す所を、外に居申す衆、心得候とて、追捲り、町人共大方手負ひ遁込み、侍方には手負もなく、小松へ引取り申し候、其節、小松町奉行神尾蔵人・浅野藤右衛門に案内申すと、両人早々くしへ参り、見分致し、翌朝言上致され候、子共の親並に一類共、是は苦々しき儀を仕出し、其身は勿論、親一類まで迷惑仕るべしと、難儀致し候処、御意には、手前召仕ひ候侍の子供が、町人におどされてはまい、深手にて死申す奴原は損たるべし、浅手の奴原は、看病致し候様にと仰出さる、右の親共安堵仕り、さて有難き御事と、蘇生よみがへり申す様に申し候由、

一、小松に御座なされ候節、青山織部未だ五百石にて、能州に在郷致し罷在り候、其時分、能州に鹿御放ち置きなされ候を、織部家来、鉄炮にて鳥打に罷出で、岩越に見候を鳥と存じ、鹿を打殺し申し候、早々罷帰り、織部へ申聞け候に付、織部迷惑致し、早々用意仕り、小松へ罷越し候処、粟生の松原にて、大橋又兵衛に行合ひ候、織部見候て、御自分は何方へ御越と申し候へば、されば能州にて御放ちなされ候鹿を、何者やらん、鉄炮にて打殺し申し候由、百姓共申上げ候に付、早々穿鑿仕るべき由、仰出され候故、罷越し候由、又兵衛申し候、織部申し候は、其鹿を打ち申すは、我等家来にて、只今罷越し、言上仕り候間、是までの儀に候はゞ、御越には及ばずとて、又兵衛同道致し、小松へ罷越し、右の段々申上げ候へば、御意には、岩の上に頭計り上に動き申すを、鳥かと存じ、打ち申す段、左様にも之あるべく候、織部に振舞給はせ申すべき旨仰出され、御小袖二つ拝領仕り、有難き仕合と悦び、罷帰り申し候、

大橋長成の諫言一、故飛騨守様、何やらん、中納言様御意、以ての外悪しく御座候、大橋市右衛門、御前へ罷出で、飛騨守様御如才御座なき旨、申上げ候処、以ての外御機嫌悪しく、其方生駒監物と咄し申す故、頼まれ取合を申すか、親子の中にて不調法なる事、能く知つたる事と、御意なされ候、其時重ねて、市右衛門申上げ候は、監物などが頼み申すとて、取合ひ申すべきか、飛騨守様、御如才なき儀と、承る故に候、御為を存じ、斯様に申上げ候と申し候時、さて憎き奴めかな、是へ寄れと御怒り、オープンアクセス NDLJP:65御脇差に御手懸けられ候故、御手打に遊さるべしと存じ、自分の脇差を次の間へ投げ、丸腰にて御前近く罷出て候へば、御脇差を鞘共に御抜き候て、己めに取らせんと仰せられ候て、御出でなされ候を頂戴致し、存じ寄らざる仕合、有難しとて、感涙流し罷出で候、

一、利常公、御年若の時分より、召仕はれ候権内と申す御草履取、後に多田権内と名字附け、御露地方へ召仕はれ候、或時、御露地御出て、権内御呼び候処、町へ罷出て、居申さゞる由に候へば、暫し御立留り、権内、親果て候て、三十三年かと思召し候、今月祥月に候間、定めて寺へ参りたる物にて候はん間、御尋ね候へと、御意に付、尋に遣し候へば、其通りに候、則ち御聴に立ち候へば、弔ひ仕り候へとて、銀二枚下され候、下々の事まて、斯様に御心付、上下有難く存じ奉り候、

一、或時、御鷹野に御出て遊され、昼時分に御供中へ御菓子下さるべしとて、何れも芝草の上に、畏り罷在り、赤飯下され候、御鷹匠宇野七郎右衛門、御鷹居ゑ畏り罷在り候、膝の脇に、四五寸計りの竹の筒之あるを、御覧遊され、子小姓衆を以て、其竹筒は何にて候やと御尋ね候へば、殊の外迷惑仕る体に候故、心得難く、迫付き相尋ねられ候へば、小声になりて、痲病を強く疼み申すに付、之を箝め候て罷出で候へば、蹲ひ申すに、つかへ申し候に付、はづし置き申し候と、申上げ候へば、御前近く御聞きなされ、扨々奉公に、精を出し申す者と御意にて、小判三両拝領仕り候、

光高夫人の淑徳一、少将様御逝去二三年過ぎ、清泰院様へ、御拝領の御伽羅御座候はゞ、下さるべき旨、仰進ぜられ候処、御返事に、筑前様御離れ遊さるゝ後、左様の物も、下々へ取らせ、只今は御座なく候由、仰せ進めらる、中納言様、殊の外御感遊され、御尤千万と御意なされ候、

一、中納言様御姫様の内、御竹様と申すを、本多長松〈後安房守政長〉方へ遣され、小松より金沢へ御嫁娶の節、道中長柄十本御持たせ然るべき由にて、其段、仰上げられ候へば、其通りと仰出さる、小松会所奉行方より、御拵はいかゞに仰付けらるべく候やと、相伺ひ申し候処、何鑓にても遣すべく候、安房方に、常々長柄等多く拵へ置き申し候間、道中さへ持たせ遣し候へば能しと、御意なされ候

一、御草履取半九郎と申す者、御露地などへ御出での節、毎度御供罷出で申しオープンアクセス NDLJP:66候、或時、品川左門に仰付けられ候は、半九郎儀、身廻むさく候間、取らせ申すべき由、御意なされ候、左門心得にて、了簡計らひ難く、晩方、半九郎に何を下さるべくやと、伺ひ候へば、御聞き遊され、先づ木綿一匹十二匁・裏表の染賃三匁五分・綿三匁、以上十八九匁にては、大方綺麗になり申すべく候へども、小判三両取らせ候へと、御意なされ候、斯様の細かなる儀までも、御存知遊され候と、驚き申す旨、左門物語なり、

一、少将様より御使小塚監物を、中納言様へ遣され候へば、御前へ召出され、御返事直に仰付けらる、竹田市三郎を召し、御召下の小袖を、監物に取らせ申すべき旨、仰付けられ候に付、御納戸奉行へ申渡され、御小袖二の広蓋に入れ、御前へ持たせ、出されければ、納戸に之ある分、残らず遣し申すべき由仰せられ、御衣桁三つに之ある分、御小袖残らず拝領仕り、人足七八人に持たせ遣し申すべき由、少将様へ監物、此儀申上げ候へば、さりとては御器用なる御生付と、御意なされ候由、是も御心得之あり、下され候様に、市三郎申し候由、

一、或時、岩松様〈後弾正大弼〉御越しなされ、御帰り、市三郎を召され、大弱岩松近所に遣ひ申し候子小姓、扨々むさき装束にて仕へ申すと、御意なされ候、安芸守様御差図にて、諸事御心任せには罷成り難く候はんと、申上げ候へば、土蔵に之ある巻物、一長持持参すべしと御意にて、昔渡りの純子・繻珍百四五十巻之あり候なり、此巻物を、岩松方へ遣し申すべしと御意にて、則ち右の長持取寄せ申すべき由、御意にて、御移させ、其巻物共の表二尺計り宛裁切り、割き遺すべく候、安芸守殿吝き人にて候間、主の土蔵に入れ申さるべく候間、切懸遣し然るべしと、仰せられ候由、

一、高岡瑞龍院御建立遊され候節、百姓旦那共、御菩提所に、下々位牌立て置き申し候儀、憚多く御座候間、似合しき寺へ、位牌を引き申すべしと、寺へ断り申し候を、住持下にてはいかゞ心得難き由にて、小松へ参られ、右百姓旦那共断り申す百姓仏侍仏の差別なし由、申上げられ候へば、御意には、百姓仏・侍仏と申す事候や、仏は何れも一つと思召し候間、苦しからざる事、然れども生きて之ある内は、差別之ある事に候間、旦那共参詣仕り候処、別に作り遺すべく候間、跡々の通り、致し申すべき旨、御意にて、住持罷帰られ、其段百姓旦那共へ申渡され候へば、扨々仏になり候へば、殿様も我々体も、一つにて候や、有難き御事かなと悦び勇み、弥〻信心になり、時々オープンアクセス NDLJP:67の出来物の初穂、并に藁・薪等に至るまで、寺へ先づ上げ、代々後住も辱がり、寺も富貴に御座候、とかく御名将の御言葉は、以後々々迄も朽ち申さず候、

一、或時、上海道江戸へ御越の節、日坂にて、所の名物にて候間、蕨餅召上るべしとて、上り申す所、御扶持人の御菓子師共の仕り候とは、格別風味も能く候間、之を仕り候者は、如何なる者に候やと、御尋ね候へば、七十計りの老女がねり申し候由、申上げ候へば、夫れ雇ひ参り候へと、仰出され候、則ち御菓子道具入れ、御長持の上に、毛氈を敷き載せ候ひて参るべき旨、仰せられ候故、其通りにして参り候処、当中にて用間等厳知通り、跡にばゞを長持に通せて、何者に候やと、取々沙汰仕り候処、馬方共見知り、あれは日坂蕨餅仕る嫗にて候と申す、猶々不審仕り候、然る所、一度も蕨餅仰付けず、江戸へ三日路計りになり候て、右のばゞに銀子二枚下され、駕籠かごにて送らせ、御返し遊され候、罷帰り、則ち亦道中にて、以前のばゞこそ罷帰り候とて、馬継毎に様子尋ね候へば、大分の御銀下され罷帰り、有難き仕合とて、ばゞ、道すがら語り申し候、とかくに肥前守様の御意にさへ入り候へば、人になり申すとて、其後、茶屋・旅籠屋、其外売物に至るまで、御馳走の志を励し、日本国へ此事相聞え候由、

一、谷与右衛門に御加増下さるべく候間、左様に相心得申すべき旨、竹田市三郎に仰付けられ候処、今晩は夜も更け候間、御折紙明日相調へ申すべくやと、申上げられ候へば、明日までの内、何事あらんも計り難し、さ候へば、遺し候はんとの思召も、無になり候へば、早く調へさせ、一時も早く悦ばせ申すべきの旨、御意にて、其夜下され候、

一、高沢牛之助に、御加増百石下され候処、親平右衛門方に罷在り候陪臣の儀に候へば、身に余り有難しとて、小松へ夜通しに罷越し、御肴上げ申したしと、出頭を頼み候へば、彼方此方と仕り候内、御聴に達し、牛之助父平右衛門悦び、金沢より夜通しに参り候由、御聞きなされ候、左様に悦び申すに、百石はいかゞに候間、今百石取らせ候へと、以上二百石下され候、

一、或時、江戸へ上通り御越し遊され候時、関ケ原にて、道脇に人多く之あるを、御覧遊され、あれは何事にて候やと、谷与右衛門に御尋ねなされ候故、罷越し、与右衛門相尋ね候処、東門跡御通りと承り、拝みに、近江より出で申すと、其段、申上オープンアクセス NDLJP:68げ候へば、御機嫌悪しく、乞食坊主めを何拝み申すべくやと、御意にて、明くる日、熱田を御通り遊され候節、又昨日の通り、人多く罷出で候を御覧遊され、笠間源六に、あれは何事にて、人多く出で申すやと、御尋に付、源六罷越し、相尋ね候処、是も門跡を拝みに罷出で申す由に付、其段申上げ候へば、扨々誰もなるまい生仏とは、門跡の事と仰せられ候、

一、遠州金谷に御泊りなされ候、御宿の後に、人多く群集仕り候、あれは何事にて候やと、子小姓共参り見申し候へと、御意にて、一両人参り見申し候ひて罷帰り、小寺に江湖を附け、夫にてわやつき申し候、蓮の美しく御座候故、貰ひ申し候へども、呉れ申さず候と、申上げ候へば、いかゞ思召し候や、銀子五十枚、御使者を以て遣さる、斯様の所にて、江湖など置き申さるゝ事、殊勝候、之に依つて遣さるゝの旨、其寺に寄り申す僧三百人余之あり、何れも肝を潰し、感じ申す由、集僧共本国へ帰り、何れも物語り仕り候故、諸国に隠なく、御信心なる殿様と、申しならし候、

一、大猷院様、御気色悪しく候由にて、一年計り、諸大名衆御目見も御座なく、いかゞの様子ならんと、何れも不審をなし申す時分、肥前島原一揆起り、近々追手遣さるゝの節、中納言様は本郷御屋敷、築山なされ、八丁堀、其外所々より、大石・作り木、毎日修羅・牛車にて引き申し候、町より木戸共につかへ申す所をば、大工大勢遣され、毀ち引通し申す跡より、又結構に建て遣され候へば、あはれ肥前殿の石・植木通り候へかしと、願ひ申す由にて御座候、其内、島原弥〻募り申し候へば、肥前殿に普請之ある体は、定めて厳めしき事はあるまじと、申しならし候、島原の乱出陣の許可を幕府に請う然る所、筑前様召させられ候ひて、島原一揆共、鎮り兼ね申す旨候間、罷越し、鎮め申すべき旨、上様申上げられ、退治致され候へと仰せらる、筑前様御意には、陣用意〔をカ〕も致さず、俄には如何之あるべくやと、仰せられ候へば、其段、何ともなるべき儀と、御意に付、御老中を以て、御望みなされ候へば、誠に御満足に思召され候、御自分、馬を出さるゝ程の事にては之なく候間、今般は御願ひなさるまじく候と、上意にて御座候、其後金沢老中へも、自然、筑前様、島原へ入らせらるゝ事も之あるべく、御左右次第、関ケ原迄、御人数を繰出しなさるべき由、御内意之ある由、扨中納言様より仰上げられ候は、昔より加賀国は、一揆切々起り申し候間、斯オープンアクセス NDLJP:69様の節に候間、淡路守儀、国の締に遣し申したく存じ奉り候、筑前守と并に私儀は、江戸に相詰め申すべき由、御訴訟なされ候へば、一段御尤なる御事の由、上意にて、淡路守様へ御暇進ぜられ、御帰りなされ候由、是も御心得之ある事と申し候、其以後、追手西国大名衆、島原へ遣され、大坂まで下り申され候処、西国通の大船共、加賀の肥尉厳より御雇ひ候間、貸し申きず候、手つかへ申し候由、大名衆より早飛脚を以て、江戸御老中迄、断り申し参り候由、之に依つて、御老中より筑前守様へ申来り候に付、此段、肥前様へ仰上げられ候へば、左様之あるべき旨、銀を遣し、雇ひ置き申し候、其段申付くべき旨、仰遺され候、早々大船共御用相勤め候様、大坂へ飛脚遣され候由、是等も御国へ御内意の時、杉本治右衛門遣され、木屋・升屋に仰付けられ、前銀三十貫目余にて、御借りなされ候由、其時、升屋・木屋御馳走申す由にて、大坂御登米の裁許、仰付けられ候、

岡島内膳一、小松へ御隠居の後、御老中より切々進物上り、御奉書抔下され候刻、岡島内膳方より、樹木の枇杷一籠上げ申し候処、御覧なされ、枇杷は我等嫌物とて、召上られず候、其後、又枇杷を上げ申し候へば、異な物呉れ申すと、御意にて暫く之あり、御意には、内膳律義者に候、近習の者共へ、手入を仕らず候故、我等嫌物の段、知らせ申す者之なしと思召され、見事なる物を度々呉れ候て、御満足遊され候段、御奉書下され候、御名将の思召は、格別の儀と、何れも感じ奉り候、

一、葭島御数寄屋にて、金沢老中を始め、御茶下され候、其後、小身者共四五人、御茶下され候節、今日の客に、六かしき者之ある由にて、御自身御飾抔も遊され候を、御近習、誰にて候やと、不思議に存じ候処、市川長左衛門上座候処、大雨降り申す節にて、笠を冠り脇をも見ず、足早にて御数寄屋へ入り、会席下され、御茶済み、罷出で候刻、笠をも著けず、雨に濡れ、心静に御露地のそこまで拝見致し、罷帰り候、夫を御勝手より御覧遊され、さればこそ、長左衛門六かしき客と、御意なされ候、彼長左衛門儀出頭、古田織部方へ、切々御使に遣され候故、肥前守様より遺され候者の由、

利常の諸名将観一、利常公御代には、御咄衆とて、古事ども見聞きたる者四五人、毎夜御夜詰に罷出で、四方山の事共申し候、其内太閤様の儀、咄し申し候時分は、太閤抔は無類なる御生得と、御意なされ候、信長公の儀、咄し申し候節は、武勇なるお人と仰せオープンアクセス NDLJP:70られ候、越後謙信公の儀、咄し申す節は、余程なる生付と仰せられ候、楠又は信玄などの咄之ある時は、小くて役に立たぬと、御頭を度々振りなされ候、

尾張家の光高招請を辞せしむ一、大姫様〈清泰院様なり〉御輿入候ひて後、尾張様より、筑前様を御振舞なさるべき由、仰遣され候、今枝民部を以て中納言様へ、いかゞ仕るべく候やと、御伺ひ遊ばされ候へば、御意には、尾張殿など筑前召寄せられ候に、何かと申し難き事に候と、御意に付、筑前様御礼に御越し、御日限も明後日と申す日、中納言様、今枝民部を召され、尾張殿へ近日参られ候由、入らざる儀と御意なされ候、民部行当り、最前私を以て、御談じなされ候へば、尾張殿など召寄せらるべしと之あるを、否とは申し難き儀と、御意なされ候に付、日限まで御極め、既に明後日と相極め、殊の外御造作も、御用意共、大方相調ひ候由承り候、只今になり、いかゞ御申しなさるべく候やと、申上げ候へば、持病差発り、参らるまじくと申遣し、然るべく候、造作をなされ候事は、筑前参られず候ても、御馳走を請け申す事は同前、表向参り候儀、宜しく之あるまじと、御頭御振りなされ候、民部罷帰り、其段、筑前様へ申上げ、其通り仰せ遺され候、

武芸の奨励一、利常公、江戸へ御立ちなさるべき二十日計り前、侍共の子供に、弓能く射申す者共、御吟味なされ、十人余召出され候、其内、大久保五郎左衛門・久保庄左衛門・奥村彦四郎・不破甚助四人は、江戸への御供仕るべき旨にて、俄に拵へ、罷越し候処、越中境にて、四人共に御知行下され候、是にて御家中子供、弓稽古精に入れ申し候故、能く射申す者多く出寒、亦御供をと御出され候へば、きほひ申し候、

一、淡路守様御守は、生駒内膳御附け置きなされ候、或時江戸にて、何やらん、目出たき折節、御酒宴御座候ひて、中納言様より筑前様へ、御腰物進ぜられ候、其夜御寝間の次まで内膳参り、竹田市三郎に申し候は、筑前様へ今日御道具進ぜられ候、筑前様は御大名にて御座候、淡路守様は御小身に御座候、御道具も進ぜられず候事と、つぶやき申し候、御聞きなされ、市三郎を召され、内膳は、酒に酔ひ参り候やと、御尋ね遊され候、左様には相見え申さず候、淡路守様へ御道具抔、進ぜられず候事を申し候と、申上げ候へば、扨々主の事大切に存じ候者とて、翌日、結構なる御道具進ぜられ候由、

一、筑前様へ大姫様入らせられ候後、将軍様上意には、手前余程の年に候へど オープンアクセス NDLJP:71将軍家光光高を養子にせんとすも、男子も之なく候間、筑前を養子なさるべき旨、思召され候間、肥前にも、其段相談申すべしと、老中迄仰出され候、何れも御尤と申され候、筑前様へ此旨御申し候処、上様、未だ御子の御出産遊さるまじき御歳にても、御座なく候間、追付若君様御誕生なさるべく候、先づ御延引遊され候様にと、仰せられ候へば、御相談も止み居り申す所、翌年、上様御召仕の女中、懐胎にて候由、御聞きなされ、肥前様、仰上げられ候儀、殊の外御満足に御召され候、此程竹千代様御出生なされ候処、上様御悦にて、先づ肥前に早々聞かせ申すべしと、上意にて申来り候、夜中の事にて候度。此間模、畢畢務計もにて御々し、早々御出て、御髪みぐしは御解きなされ候故、束ね御髪にて御登城なされ候、其段、諸大名衆聞付け、追々御登城、何れも髪結ひ、上下にて御座候処、中納言様上座に御座候ひて、拙者儀承り候ひて、目出たく存ずるから、上下著申す事も、さばき髪も存付かず、罷出で候処、近習召仕ひ候子小姓共、此革袴を持出し候故、乗物乗り申す時節、漸く著候ひて、出て申すに付、此仕合と仰せられ候へば、何れも御尤と申され候、其御様体、見事なる儀と、何れも御感候由、上様にも御聞きなされ候ひて、肥前は余仁に勝れ、左様に思ひ申すべしと、上意の由、扨御帰の刻、何れも御出入衆、直に筑前方へ御出て候へと、夫々へ御約束、能役者共にも、是より直に筑前方へ参り、此御祝囃し候へと御意にて、何れも御城より直に御上屋敷へ御入り、役者共残らず参り、結構なる御振舞出で、目出たき儀と、御酒盛・御囃子之あり候、御三家様より、役者共宿へ呼びに遣され候へども、今日は御城より、直に筑前様へ召寄せられ、未だ罷帰らず候由にて、御祝当日はなり申さず、追つて御約束故、御三家様の内にも、五七日御祝相延び申す方御座候、

一、江戸に於て、御出入の衆、御出の節、内藤外記殿御申し候は、諸大名衆、何れも諸事上様の御風様々致され候、此方の御家と政宗殿には、左様御座なく候と、昔は内府大納言として両輪の如し取沙汰仕り候由、御申し候へば、御機嫌悪しくならせられ、昔は内府・大納言と申して、両輪の如く、太閤の御時節は申し候、大納言は早世、内府は長生にて、天下を御取り、身共は御下になり候へども、御取立の者の様には、之あるまじく候、政宗も身共に次いでは、其心得にて候はんと、仰せられ候、

一、或時、江戸御屋敷へ、中納言様入らせられ、御式台に、御番張紙之あるを御覧オープンアクセス NDLJP:72なされ、筑前様へ御意にて、番張の次第、高知先に書き申し候、高知の者にも、親・祖父より取らせ来り候故、是非なく知行を多く遣し候へども、小身なる者にても、器量次第に書き来るものなり、家老・組頭抔の調べ申すには、高知を先に書き申す筈、主人見候ひては、働のある者を先に、然るべしと御意なり、

乗打の百姓の罪を赦す一、或時、越中へ御鷹野に御越し、新庄に御座なされ候ひて、其近辺御鷹御あはせなされ候処、百姓、馬に乗り、御目通を通り申し候へば、悪くき奴とて、散々御打たせ、牢舎仰付けらる、四五日過ぎて、御餌柄の鶴を、武部九郎兵衛御使にて、本多安房守へ下され候、九郎兵衛、金沢へ参り候て、安房守へ案内申し罷越し候、安房守上下著仕り、有難く頂戴仕り候、此鶴料理を致し、頂戴申し候間、其方も料理相伴仕り候へと申され、程なく振舞出し申し候、汁は鶴の香計りにて、鶴の身一切もなく候故、九郎兵衛申し候は、鶴は御座なく、香計りにてと、申し候へば、左様に之あるべく候、其方、生鶴喰ひ難く候、我等に下され候儀に候へば、我にのみ呉れ候へと、料理人に申付け候間、之あるまじく候、之を喰はせ申すべしとて、ぬしの椀の内より、箸にて挿み、二切・三切、之を給べ候へとて給り候、扨新庄にて御機嫌損ね申す様、御沙汰仕り候、笑止致し候てと申され候、九郎兵衛申し候は、御前を百姓乗打ち仕り候を御打たせ、牢舎仰付けられ候、悪くき奴めと、何れも申し候と語り候へば、不運なる処へ出で申す奴、去りながら殿と存じ、多分乗打はせまいと申され候、扨御請御礼、呉々申され候、九郎兵衛罷帰り、其段、竹田市三郎を以て申上げ候へば、武部を御前へ召出され、安房守悦び申し候やと、御意にて、右の次第ども笑ひ申上げ、其百姓牢舎の儀も、物語仕り候趣、申上げ候へば、少し御思案の御機体にて、安房守申す所尤々、身共と知りては、乗打はせぬ筈、其者許し候へと、御意にて、御免なされ候、

利常本多政重横山長知の硬直を謝す一、小松へ御隠居、葭島に御露地なされ候ひて、佃源太左衛門に仰せられ、金沢玉泉院丸に之ある石を持たせ参るべき旨、人足多く差添へられ遺さる、源太左衛門罷越し、御庭へ入れ申すべしと仕り候処、番人共、安房守・山城守申渡さず候へば、入れ申す事ならず、勿論石など出し申す儀は、罷成らず候由、申すに付、是非なく源太左衛門、安房守方へ参り候て、其段申し候へば、小松より仰下さるゝ儀に候へども、筑前様御預の御城の事に候へば、申付け難く候、罷帰り候様にと申オープンアクセス NDLJP:73され候に付、山城守方へ参り、其通り申入れ候へば、安房守同事に付、源太左衛門、色々申し候へども、承引之なくに付て、小松へ罷帰り、委細申上げ候へば、何の仰出されもなく、打過ぎ申し候、其後小松にて、定めて御機嫌悪しく候はんと、筑前様へ山城自筆にて、両人より江戸へ言上致され候へば、此以後も、小松より御用と之あり候はゞ、何によらず、気遣なく上げ申すべしと、御自筆の御書下され候て、其奥に、

蘆の葉を音せば雁の声立てゝすなほなき子に親のわづらひ

斯様に遊され下され候、両人頂戴仕り候、其以後、小松へ伺ひ申す儀候て、安房守・山城守両人罷越し候処、御意なされ候は、両人の者共へ、礼を申したき事之あり候へども、使を以ても申遣さず候、是へ呼び候へと、竹田市三郎に仰付けられ、両人御前へ罷出で候処、内々両人に会ひ候て、礼申すべき事之あり候、日外金沢城中へ石取に、佃源太左衛門遣し候処、越し申さず候、両人共に頼もしものと思召し、筑前へ遣し候へども、我等申す儀さへ、筑前より申渡さず候へば、越し申すまじき段、尤至極、是程とは思召されず候、御安堵なされ候由、御意候へば、両人有難く存じ奉り候、山城は涙を流し申し候、安房は、左様に思召し候やと計り申し候、何れも馳走して、返し申すべき旨仰付けられ、御振舞下され帰り候由、

一、利常公、正宗殿へ御振舞に御越しなされ候処、ゆると御咄御座候処、陸奥殿、中納言様の御腰物見、誉め申され候、御所望の体に相見え、御相伴衆も左様見請けられ、正宗殿あれ程御望の体候間、御出しなさるべしと、存ぜられ候処、少しも御頓著なく御帰り、上屋敷へ御立寄り、御相伴衆も参られ候、其節仰せられ候は、今日我等雲次の刀、正宗望の体に申され候間、遣し申すべき儀と、何れも存ぜらるべく候へども、定めて正宗所持の名物、貞宗の刀を給はるべき体に察し候故、遺し申さず候と、御意なされ候、其後、正宗殿にて勝手に居申され候衆へ、御相伴衆御物語候へば、主の家伝の貞宗を、中納言様へ進じたしと申され、袋へ入れ、次の間まで取出し置き申され候、名誉なる儀と、何れも申され候、

母玉泉院の為め自ら導師となる一、玉泉院様御逝去なされ、御死骸の御番に、野田桃雲寺仰付けられ候処、前廉宝円寺伴翁和尚より御請け候血脈を、御枕本の御屏風に、小太夫と申す女中、懸け置き申す所に、番仕り候出家、之を取り隠し、見え申さず候、其上にて導師を致オープンアクセス NDLJP:74すべしと存ぜらるゝ体、御聞きなされ、導師は人に致させ申すに及ばず、我等仕るべき由にて、御自身導師遊さる、寺は時宗寺へ御移し、其後、玉泉寺と寺号御附け遊され候、其節は、僅かなる寺に御座候処、右仕合にて候、

一、小松にて、奥村五兵衛前に、火を付け申すべき由、札を立て候処、近所にも騒ぎ、町奉行共夜行の儀強く改め、騒動仕り候処、五兵衛方より召仕ひ候若党、主人に申し候は、此札を立て申す者、私にて御座候、御恨御座候へども、私式の儀候へば、別に意趣仕るべき様御座なき故、札を立て申し候、何分にも仰付けらるべく候由申し候、則ち五兵衛より其段申上げ候へば、若党以下には、似合ひ申す事仕り候、其身より罷出で、斯様に申すは、奇特なる者と思召し候間、五兵衛召仕へ、目をも懸け候はゞ、一度は役にも立ち申すべき者と、御意なさせられ候、扨々名誉なる御儀と申し候、

一、江戸より御帰国の刻、越後山下御通りの節、波余程立ち申し候、御供衆大方山の方へ付き申す所、今枝伊兵衛、海方に付き、御供仕り候所、波高くなり、余程濡れ参り候、堺の御泊へ入らせられ、伊兵衛御目通りにて、通ひ致させ申すべき旨、仰渡され候故、罷出で御通ひ仕り候処、子小姓衆御前にて食給べ候故、食鉢を持参、つぎ申す時、御笑ひ遊され、伊兵衛初心者、女や子小姓には、食多くつぎ申す物にて、少しあてつぎ申す事、初心者故と、御意なされ候、是は山の下にて、波を懸り、御供仕り候儀、御意に応じ候故かと、皆々勇み申す由、

一、京都買手役、高田弥右衛門仰付けらるべく候由御座候処、御前に在合ひ申す衆、弥右衛門儀、殊の外勝手摺り切り、中々京都へ遣され候ひても、罷成り申すまじき旨、申し候へども、御意には、夫は悪しき批判、人を仕ふは、心を仕ふ物にて、利根なる者に候間、なるべくと思召し候間、仰付けらるべしと、思召し候由にて、罷立ち候時分、宗乗の三物一通・祐乗の目貫一具・緞子の巻物十巻下さる、是は売り候ても、早速売れ申すべく候間、銀に致し遣ひ候へと、御意なされ候、金銀をも下さるべく候へども、御家来他国へ遣され候節、手前罷成らざる者の例にも、如何思召し候故、御道具下され候やと、何れも不審仕り候由、

本多政重横山長知の諫言一、中納言様、未だ金沢に御座なられ候節、子小姓御好き召仕はれ候、安房守・山城守申し候は、御国に人多く、御譜代も多く候に、他国者召置かれ、御近習に召仕オープンアクセス NDLJP:75はれ候儀、いかゞに候間、此儀両人罷出て、申上ぐべしと相談にて、登城致され、申上げられたき儀候間、罷出で候由、取次にて申上げられ候へば、何ぞ急御用かと思召し、御出で両人召出され候に付、右の段申上げ候へば、以ての外、御機嫌損じ、推参なる儀、糞をくらへと仰せられ、奥へ御入りなされ候処、両人腹を立て、退出仕り候へば、いかゞ思召し候や、両人の者に振舞給べさせ申すべしと、浅香左京に仰付けられ候故、左京下馬まで追懸け、其段申し候へば、安房守申し候は、終に給べ付け申さぬ物を給べ候へば、腹ふくれ、振舞などは食はれ申すまじと、乗物に乗り、帰り申し候に付、其段申上げ候へば、両人腹立ち仕り候やと、御意にて、おもかげの御壺御取寄せ、御自身口を御切り、茶二袋御取出しなされ、御台所より御肴一種宛御添へ候て、安房守へは大橋市右衛門、山城守へは荒木六兵衛御使にて、両人へ給はり申すべき旨にて下され候、山城守は上下著用仕り、罷出で頂戴仕り、御請申上げ候、安房守は、市右衛門会ひ申すべく候へども、先刻、太郎殿より、給べもつけぬ物を下され候故、食傷致し、臥して居り申し候間、能き様申上げ候へと、使にて申出で候、市右衛門申し候は、御直に仰渡され候御使に候故、左様の儀申上げ難く候間、是にて覚悟申すと申し候へば、左候はゞ通り候へとて、居間寝所へ呼び、会ひ申す所に、市右衛門、御使の趣申述べ候へば、扨は御機嫌も直り候と見え候とて、肩衣取寄せ著候て、両種頂戴置くと申され、御請の由、

一、或年、江戸より上通御帰り候折節、安房守も在江戸にて罷在り候所、筑前様、安房守召連れられ、品川まで御見送御出でなされ候、其節中納言様、御乗物の内にて、御寝御座なされ候を、脇田三郎四郎御供仕り、御駕籠の戸を明け候へば、御目覚め、筑前様御出てと申上げ候へば、御駕籠より御下り、御暇乞なされ、安房守にも御挨拶なされ候へば、存の外御暇早く仰出さる、御国中何れも悦び、待請け申すべしと申上げ候、淡路守様・飛騨守様御会の節は、御乗物召しながら御通り、筑前様御会ひ候節は、何時にても御下りなされ候て、御挨拶御座候由、

一、神尾主殿十五六の時分、松の枝おろさせ申す奉行、仰付けられ候へば、腹を立て、元服仕るべしとて、御訴訟申上げ候へば、主殿は役を申付け候事、腹を立て申すと思召し候、あれらは何事も之ある時は、一方の下知をもさせ申す者に候故、海山嶮難をも見せ置き申すべしと、夫故申付け候、合点仕らずと思召し候由、オープンアクセス NDLJP:76御意の由、

一、上木殿と申す女中、御前にて、此間、私方へ熊野比丘尼参り、地獄極楽の絵を懸け申し候由、申上げ候へば、御意には、御覧なさるべしとて、中土居の御座敷にて懸けさせ、比丘尼其訳を解き候、番人ども其外在合ひ申す者共、何れも参り、見物仕り候へと仰せられ、何れも罷出て、見物仕り候由、

一、伊藤内膳、検地奉行致し候節、在々に一向宗之あり、寺地下され罷在り候、是等御取上げ、地子に仰付けられ候へば、大分の御銀、上り申すべしと、申上げ候へば、内膳は合点せぬか、国々の仕置、大方門跡より致され、我等仕置は少分の事、一向宗が重宝々々一向宗が重宝々々と、御意の由、

一、或時、内藤外記殿、御屋敷へ御出で、此間、前田右近殿、高尾と申す傾城を御請出の由、殿中にても、脇々にても、沙汰仕り候由、申上げられ候へば、御意には、若き者に似合ひたる儀致し候、されども小身に候間、銀子などは遣ひ様に、悪しき首尾も候はゞ、銀子取らせ申すべき物をと、御意なされ候、其後外記殿、方々にて物語に、右近はたわけかと存じ候へば、悧発者にて候、中納言殿の様なる、銀を呉れる後立持つならば、幾人いくたりも請出し申すべき物を申され候、其後は悪しき沙汰止み申し候由、中納言様御一言にて、右近殿悧発沙汰になり申し候、誠に御頓作なる御儀と、何れも感じ申され候由、

今枝伊兵衛一、江戸にて、片桐石見守殿へ、御茶の湯に御越し遊され候節、御袷三つ、溝口金十郎殿まで、持たせ遣し置き申すべしと、其節の御召料奉行、今枝伊兵衛・野村半兵衛に仰付けられ候処、宰領を付け遣し申し候処、金十郎殿へ罷越し候へば、直に石見殿へ御越申す説を承り、石見殿へ罷越し申し候、中納言様は金十郎殿へ御越し遊され、御袷御乞ひ候へども、右の持参人居申さず、御機嫌損じ、御帰りなさる、伊兵衛罷出で、御目見仕り居り候刻、沙汰の限りと、御叱り遊され候、伊兵衛、何事とも合点仕らず、何事にて候やらんと、存じ居り申し候処、左門を以て、段々御叱り、伊兵衛も宰領まで付け、念を入れ、申付け候へども、御点に合ひ申さゞる段、迷惑仕り候と、申上げ候へば、宰領二人と持参人四人と、牢舎仰付けられ候、伊兵衛申上げ候は、手前申訳に立ち候へども、其分にては差置き難く存じ候間、御近習衆まで申上げ候は、尤念入れ申付け候へども、間違ひ申し候、私持参仕オープンアクセス NDLJP:77り、殿様入らせられ候を相待ち申すべき所、其儀なく、御点に合ひ申さず候段、遂惑仕り候、牢舎の者共御免遊され、私を迷惑に仰付けらるべき旨、申上げ候へども、其段は早く候間、相待ち候へと、何れも申され候へども、是非にと申し候て、品川左門を以て申上げ候処、伊兵衛、左様に申し候はゞ、牢舎人共許し候へと仰出され、事済み、有難き仕合の由申し候、

一、下通道中にて、板垣小平、歩行御供仕る刻、殊の外草臥れ申す体を御覧なされ、御召の草鞋を取らせ候へと、御意にて、辱く存じ戴き、穿き替へ、又一里計り続き申し候、勘左衛門も草臥れ申すと御覧遊され、是には御馬御貸し、扨其晩御泊にて、板垣には草鞋わらんぢ取らせ候へども、岩乗にて続き申さず候、勘左衛門は岩乗にて能く続き申し候故、馬に乗せ候と、御意辱さに、又余程続き申し候、斯様の事は、色々御あひしらひども之ある由、

一、淡路守様へ、御人分渡辺助右衛門と申す者遣され候、所の御代官にて、引負仕り候、其外私曲御座候に付、御成敗もなさるべき旨、林小右衛門を以て、中納言様へ仰上げられ候へば、以ての外御機嫌悪しくならせられ、助右衛門一門は、誰々に候や、左様の奴をば、淡路守律儀にて、我等に申聞け候、早々引張り切に致さいてと、御意なされ候、近親類共も迷惑に及び申すべき体に御座候、民部に、渡辺は何時分よりの奉公人に候やと御尋ね、民部も存ぜず候故、其日の当番人の内に、能く存じ候者、大納言へ召出され、御奉公仕る似合に、心ばせも之ある者と承り候由に付、其段、民部申上げ候処、左様の者の筋が盗人せぬ筈、とかく気遣たるべく候間、左様淡路守へ申すべき旨御意にて、一門は申すに及ばず、御家久しき者、何れも辱がり申し候、渡辺弥三郎は、助右衛門弟にて御座候故、一入有難がり申し候由、

一、江戸に於て、御出入衆、御前にて色々御咄之ある節、先祖より取来り候儀は御差置き、牢人の身に致し候ては、手前など何程に抱へ申すべくやと、御申しなされ候へば、或は一万石計りにも、御在付きなさるべく候やと申す方、又は四五千石計りもと申す方、之あり候へども、夫は皆分限なしに申され候、我等売物に売物とならば四百五十石は取るべしなり候はゞ、四百五十石までは取り申すべしと仰せられ候、皆々先祖より取り来り候のみにて、一分の身の程を知れぬと、御意なされ候、其時、岡田将監殿申されオープンアクセス NDLJP:78候は、渡奉公をなされ候はゞ、傍輩付は悪しく御座あるべしと、申され候へば、御笑ひなされ、夫はさうもあらうずと、御意なされ候、四百五十石との御意は、御家中は馬持の身代に候へば、馬は持ち申すべしとの思召に候やと申し候由、

一、中村久越、上方より罷下り、御前へ召出され、色々咄共、道中の事など、咄し申され候序に、越前の舟橋は、荷物を下し、雨降りなどには、迷惑仕り候由、申し候へば、舟橋より半道上り参り候へば、大方歩渡と御意なされ候、他国の河等の儀まで、能く御存知なされ候と、久越語り申し候、

領分の者多く江戸に来る一、江戸に入らせられ候刻、津田玄蕃申上げ候は、御領分の人、多く江戸へ参り、方々に罷在り候間、御国へ御呼集めなさるべくやと、伺ひ申し候へば、其儘置き申すべく候、国の者江戸へ多く参り之あり候、幸の儀一段の事に候、何ぞと申す時は、本国に一門之あり、生国へ帰りたがる物に候、扶持をも呉れずに、江戸に多く居申すは、一段々々と仰せられ候、

一、奥村故河内、病気に付、京都へ参り、養生仕りたき旨、申上げ候へば、御暇下され、其後、津田玄蕃に仰せられ候は、手前などの様なる大名の家老、養生に上京致し候事は、遠慮之あるべき儀に候、京都は遊山共多き所に候故、養生には気を ほう〔はらカ〕したるが能きものに候、然る所、誰家老が養生に上り、斯様の仕方抔と風聞致し、あれにても大国の仕置仕り候やと申し候へば、国主の為め、然るべからざる旨、御意なされ候、

牢人の口過ぎ軍法一、伴八矢を頼み、他国より西田覚右衛門と申す牢人参り、軍法を教へ申し候、小松に於て、弟子多く取り、人持の内にも、弟子になり申す方之あり候処、津田玄蕃へ仰せられ候は、軍法を家中に習ひ申す者之ある由、人は隙に候へば、悪しき遊なども仕り候間、夫よりは斯様の事習ひ申すが能く候へども、岩乗・弓・鉄炮稽古には劣り申し候、信長・太閤御時代より、手前家の軍法之あり候、之を折角守り申すが第一に候、左候へば、陣をも見申さず候、牢人の口過ぎ軍法は、何の役にも立ち申さず候、結句害になり申す儀は、御座あるべしと、御意なされ候、

旅籠と木賃一、中村久越申上げ候は、東海道折々通り承り候に、只今国大名中御供中、下々罷通り候に、旅籠はたごと申して、食買ひ候ひて給べ申し候、御国の人計り木賃きちんと申し、自分に食を仕り、昼飯も腰に付け、通り申し候由承り候と、申上げ候へば、総別武オープンアクセス NDLJP:79士の家には、食焼覚え、食を腰に附け申す様も、存ずる筈に候、乱国には旅籠はたごはなるまいと仰せられ候、其後江戸にて、侍の道の今にすたり申さゞるは、加賀の肥前殿の家中計り、腰兵糧附け申すと、沙汰之あり候、

操の見物一、広島御前様より仰上げられ候は、此間堺町にて、日蓮の本地と申すあやつりを、初め、夥しき見物と御聞き候間、御見せ下され候様、仰上げられ候に付いて、其時分の町買手、吉村九左衛門を堺町へ遣され、薩摩太夫御屋敷へ参り、右のあやつり仕るべしと申し候処、此あやつりは舞台・築屋共に、常のに替り、色々出来御座候間、之を壊ち持参候へば、三四日も芝居止め申さず候はでなり難き旨申すに付 九左衛門罷帰り、其段申上げ候処、御扶持人の御大工遣され、残らず絵図仕り、御屋敷に其通り仰付けらる、扨薩摩を御呼び、操仕り候へば、其夜、御小袖五・金二十両下され、辱がり罷帰り候節、明日も参り仕るべく候由、仰せられ候へば、其次の日も参り仕り候、御出入衆、何れも御呼び御見せ、只今の節、日蓮の様なる坊主の出来申さず候は、医師共の仕合、大方の病人は、日蓮の祈祷にて、能く致し候体と、御笑ひなされ候、其日も太夫に、銀子二十枚・御小袖など下され、一入辱き儀と、悦び申し候、大分拝領仕り候間、今日も下さるべしとは存ぜず候所、重畳辱き仕合と、悦び重畳辱き仕合と、悦び申し候由、

利長の鑑識一、或時御意に、故肥前守殿は、人々の目利よくなされ候、横山山城・山崎閑斎、其外誰彼仰せられ、先づ第一我々を御見立てなされ候と御意の由、

大坂出陣一、大坂御陣触に、何れも早々用意仕り候へ、三日の内、御立ちなさるべしと、御触れられ候へば、奥村快心出で、申上げ候は、御日限今少し御差延べ、然るべく存じ奉り候、大坂までは余程候間、其上、御家中用意も仕兼ね申すべしと、申上げ候へば、御意には、其方申す処、尤に候へども、申触れ候事、はや違ひ候へば、此度の陣は、我等下知はきかぬ筈にて候間、其儘致し置き候へと仰せられ候、御尤なる儀と、快心も申し候、扨三日目に御立ち、道中程静に御越故、御跡より何れも追付き申し候由、松任に一両日御逗留にて、追々駈付け申す由、

一、大坂御陣の節、岡山に中納言様御陣取り、高き所に、床机に御腰懸けられ御座候処、真田左衛門陣より、鉄炮殊の外打ち申し候間、山蔭へ御下りなされ候様、山崎長徳誰彼申上げ候へども、御返事も遊されず候、然る所へ山崎閑斎参り候て、今日はオープンアクセス NDLJP:80風烈しく、自然風など御引き候へば、物前にいかゞに候間、山蔭へ御下り遊され候へと、申され候へば、誠に風烈しく候と仰せられ、山蔭へ御下り遊され候、閑斎尤なる申され様と、何れも感心致し候、

利常毛利秀就の足袋の紐を結ぶ一、松平長門守殿、殿中に出仕候節、足袋の紐解け申し候、大太りにて、行歩等不自由に付、中納言様御覧遊され、紐を御結び遣され候、長門守殿辱がり、其節より御家来の様に存ぜらるゝ体の由、

一、殿中に於て、松平大和守殿、諸大名衆の中にて、大坂御陣の咄など致され、人もなげに之ある体を御覧なされ、大和守殿の側へ御寄りなされ、御足を捲り、慮外がましき体を大和殿御覧じ、眼色替り、既に事出来申すべき体に思召され候へども、何事も之なし、大和守殿、堪忍の様体にて御座候、其後、十日余過ぎ候へば、淡路守様、大和守殿へ御会ひ候へば、肥前殿へ参り候て、申したく御座候へども、公儀を憚り、参ること申さず候、然るべき様、御心得候て下さるべき旨、御申故、先日の御様体御覧候故、是は異な事と思召し、其後安芸守様へ、右の様子御物語なされ候へば、夫は先日、中納言殿の、拙者を以て、大和守殿へ仰遣され候は、犬千代、幼少に候間、殿中などにて、御介抱頼み入る由、仰せられ候、大和守殿大に悦び候間、其儀たるべしと、安芸守様仰せられ候、斯様の儀、御方便と存ぜられ候、

猪突の功を賞せず一、金沢にて、小立野へ御鷹野に御座候て、浅野川河原に〔鷺カ〕居申すを、鉄炮にて遊され候へば、かすり当りにて、河原を羽たゝき、歩き申すを御覧候て、あれ捕へ候へと、御意なされ候処に、梶川弥左衛門、二三間高きがけを飛び、右の〔鷺カ〕を捕へ、御前へ持参仕り候処、何とも御意なされず、其節、宜しき御意も候はば、諸人其以後、斯様の処、飛び申すべしと、思召す御考故、何とも仰せられず候、十年計り後に、くりから猿が馬場にて、梶川が飛び申すがけは、是程之あるべし、能く飛び申すと、大橋又兵衛に御意の由、又兵衛申し候、

一、小松にて葭島に御普請仰付けられ候節、御供に罷出で候侍中にも、御植木を持引き候へと、品川左門に仰付けられ候故、一先に山岸三十郎居申す所、三十郎には、左門何とも申さず、誰彼参り候へと、人差し仕り候を御覧なされ、贔屓の者を申すと思召し候や、其夜三十郎召し候て、大橋又兵衛と相奉行仕り、明日より中土居に松を植ゑさせ候へと御意にて、三十郎辱がり申し候、

オープンアクセス NDLJP:81一、小松にて、或夜、古市左近方にて、竹田権兵衛に能を致させ、御近習に召仕はれ候者共に、見せ申し候へども、山岸三十郎をば呼び申さず候処、其段御耳を立て候や、御前へ三十郎を召され、夜もすがら仕舞など仰付けられ、御懇の事ども、常より勝れ申す由、諸事御心附、何れも有難がり候由、

一、江戸にて、御天守台御普請の総奉行、久世大和守殿より、家老の内一人、明日五つ時過ぎ、差越さるべく候、御用の儀、申渡すべき由、奉書参り候故、今枝民部は、中納言様御屋敷に罷在り候、青山将監は加賀守様御屋敷に罷在り、奉書の趣、御請の案紙調へ、民部方迄申上げ候所、御聴に達し、品川左門を以て申上げ候処、利常に家老なし其奉書左門読み候へと、御意にて読み候へば、其内に、家老と申す者は、持ち申さず候、家来の内一人遣し申すべしと、御請に調ひ申すべき旨御意にて、其通り調ひ遣し申し候、然れども誰を遣さるべしとも、仰出され之なく、はや御夜詰も過ぎ、御手水遊され候節、左門罷出で、明日、大和守殿へ誰を遣さるべく候やと、伺ひ申し候へば、家老は持たぬ、今枝民部なりとも、遣し候へと、仰出され候、其節、本多安房守・奥村因幡など、罷越し居り申し候へども、右の通り仰出され候、御心得之ある儀と存ぜられ候由、

一、小松へ御隠居の後、越中へ御鷹野に御座なされ、御餌柄の雲雀十宛、脇田九兵衛・黒坂吉左衛門方へ下され候、品川左門方より申越し候は、御意に、雲雀は年寄り候薬にて候間、両人給べ申すべく候、御礼申上げ候には及ばず候、此儀、竹田市三郎・古市左近に仰付けられ、折々両人方へ下され候、御意の趣申来る、何れも有難き儀と、涙を流し、辱がり申し候、

将軍より拝領の鶴一、未だ金沢に御座なされ候節、公儀様より御餌柄の鶴御拝領、御披の御料理、家老中より物頭まで下さる、何れも頂戴仕り、給ベ申す所、金の土器二つ、三方に居ゑさせ、今日は有難く目出たく思召し候間、御酒をたべ、祝ひ申すべく候、野村左馬始め申すべきよし、仰出され候、左馬を羨しと存じ、辱き儀、身に余り申し候由、

一、御隠居前後、公方様御餌柄鶴御拝領遊され、御家中へ御披の節、安房・山城両人前々には、食の椀添へ、御持たせ候て、御出で遊さる、両人は年寄り、食の温かなるが、能く候はむ間、之を給べ候へと、御意にて、両人辱がり申す事、限りも御オープンアクセス NDLJP:82座なく候由、

城代前田丹後を戒む一、金沢城代奥村故因幡果て申す後、前田丹後城代仰付けられ候、其後異風の内、不破四郎三郎当番の節、番所に臥せり、中敷居より足を下げ居り申し候処、丹後通り合ひ、不沙汰なる体と、番所へ立寄り申し候へども、四郎三郎、丹後を見知り申さず、番人は揃ひ居り申し候へば、別に不沙汰之なしと申す、丹後、道より若党を返し、今日の当番、誰々に候や、書付参るべき由、丹後申す由、申し入れ候へば、其後、四郎三郎驚き番帰り、異風裁許の岡島五兵衛方へ罷越し、様子申入れ候へば、五兵衛申し候は、定めて丹後殿、小松へ此儀言上たるべく候、其前我等参り、先達て言上仕るべしと、早々参られ、右の様子書付を以て申上げ候へば、何の仰出されも之なく、追付丹後も参り、此儀言上仕り候処、御意なされ候は、此儀、丹後仕様悪しき故と思召し候、四郎三郎儀、丹後へ慮外仕るべき訳之なく候、丹後を見知らず候故に候間、向後番人共切々呼び、振舞申し候へと仰出され候、其後は、御番衆を切々振舞申し候由、

利常殿中に睾丸を取出す一、或時、中納言様御不快にて、御出仕御断り、仰上げられ候へば、其後、御登城の節、酒井讚岐殿申され候は、先日、肥前殿御出仕なされず候、御気随出で申すと、笑ひ笑ひ申され候へば、左様に思召し候や、年寄る我等、疝気持にて、差出で候へば、行歩仕り難く候、之を御覧候へとて、御睾丸を御取出し、御見せなされ候へば、一座の御衆、又々肥前殿のおどけが出て申すと、御挨拶候へば、いやおどけにては御座なく候、之を出し申さず候へば、申訳立ち申さずと、仰せられ候由、

早飛脚に対する用意一、小松に御座なされ候内、江戸より急々御用之あり、早飛脚・足軽四人にて参著、御聴に達す、其飛脚は何方に居申すと御尋ね、御玄関前に罷在り候由、申上げ候へば、其飛脚の者、早々搦め候て、会所部屋へ入れ置き、厳しく申付くべき旨仰出され、いかゞの罪科に候やと、人々申す所、一時計り過ぎ、先程の飛脚・足軽奴、申す儀も之あるべく候、湯漬給べさせ申すべき旨仰付けられ、下され候、暁方になり、如何様の体にて罷在り候と、御尋之あり候、草臥れ候や、たわいなく臥せり、只今目覚め罷在り候旨、申上げ候へば、縄を解き申すべき旨、仰出され候、其後御意には、扨々早く参り候旨、重宝なる奴に候、精を揉み申す者、安堵致し候へば、死申す者に候故、其の通り申付け候、最早苦しからず候、食を給べさせ、返しオープンアクセス NDLJP:83て休ませ申すべき旨にて、銀子三枚下され、罷帰り候、存寄らざる儀と、皆々申し候由、

一、或時御上屋敷にて、御出入衆、御料理以後、色々御咄之ある刻、岡田豊前殿御申し候は、世間学問時花はやり申し候へども、肥前様には、御学問の沙汰も御座なしと、風説仕り候、学問は諸道に叶ひ申す物の由に御座候、第一御慰にもなり申す儀書物は我等抔の言を載せたるものと、御申し候へば、御意には、総べて学問とて読み申す書物は、我等などの様なる者の申したる事共、書物に載せて置きたる事に候、各抔は左様の御了簡之あるまじと、仰せられ候、

清泰院屋敷取払に付幕府へ抗議一、清泰院様へ、公儀より遺され候御屋敷は、牛込の末、高田に之あり候、御逝去加賀福臨時以後、御屋敷に居られ候御附衆も、此方より附け置かれ候御奉行・足軽等も、急に引取り候様にとの事に候由、其段、利常公御聞なされ、以ての外御不快にて、御老中へ兼松小右衛門遣され、清泰院殿御屋敷、御追立なされ候儀、如何の御事に候やと、仰遣され候へば、尾張大納言殿御望み、御拝領に付、能瀬治左衛門へ申渡し候、其段にて之あるべき旨申来り候、弥〻御機嫌悪しく、御用番の御老中へ御越しなされ、清泰院殿屋敷、筑前守家来共、大勢罷在り候処に、急に御追立なされ候に付、行当り難儀致し申し候、清泰院殿御拝領の地に候へば、犬千代筑前屋敷の儀に候、さ候へば、手前へ御相談も御座あるべき儀の処に、曽て承らず候段、心得難く候、尾張殿御取立て候由、然れば屋敷望み次第、取勝と存じ奉り候、さ候へば、此方にも了簡御座候、此段承りたく、参る事に候旨、仰せられ候処、御老中御行当り、右の趣、御自分様へ申入れず候儀、同役中無念の仕合に御座候、仰の通り、尤至極に候、申談じ、是より申進ずべく候間、左様に御心得下され候様に、御挨拶にて、御帰りなされ候処、松平美作守を以て、同役中無念の儀、迷惑仕り候、御家来中差置かれ候御替地、何方にてなりとも、御望み次第、御拝領候様、申談ずべく候間、早速御見立なされ、仰上げらるべく候由、申来り候、御返事には、委細仰聞けられ候通り、承知致し候、取勝候様に存ぜられ候に付、さ候はゞ存寄之あるに付、相伺ひ申し候、此上は、替地下され候に及び申さず候間、右の御屋敷差上げ申し候旨、仰上げられ候、然れば替地御拝領なされず候へば、底意解け申さず候と、御老中思召し候や、達て御望みなされ候様に、再三申来り候に付、さ候へば、所は何方オープンアクセス NDLJP:84にても構なく候間、御渡しなされ候様にと、仰遣され候間、駒込の御屋敷、御請取なされ候、右の御屋敷は、牛込穴八幡の辺、尾州様へも、外にて遣され候、右の御屋敷は、其後小身衆大勢へ渡し、只今其辺を、清泰院屋敷と申し候、

公事場奉行の任命一、奥村源左衛門、公事場奉行仰付けられ候前、世上にて源左衛門は、片口の贔屓強き者に候、公事聞などには、不相応の者と取慣らし候、此段、横目書上げ候処、源左衛門呼寄せ申すべき旨仰出され、罷出て候に付、老中召連れ、御前へ罷出て候処、御意なされ候は、源左衛門儀、公事場奉行仰付けられ候処、片口に贔屓強き者にて、公事聞には不相応と、何れも申す由に候、源左衛門、贔屓強き者と御聞にて、仰付けられ候、源左衛門を仕る者は、我等けては之あるまじく候、さ候はば、我等が為めの悪しき様には仕るまじく候、弥〻左様に心得候様にと、御意の由、上下感じ申し候、

孝行故の盗一、御長柄の四郎兵衛と申す者、盗賊に入り候て、召捕へられ、牢舎仕り候、御耳に相立ち候処、彼者儀、常々親に孝行にて、其上、盗など仕る心立の者には之なしと、御聞き遊され候、近所の者、其外にも相尋ね、賊盗紛なく候や、吟味仕るべき旨、仰出され候に付、穿鑿之ある処、近所其外知音の者共、何れも御念の通り申し候、然れども其身は盗に入り申すと申し候、精々吟味候処、母一人養ひ申し候処、力なく仕り候て、朝夕給べ申すものなく、母を餓死致させ申す儀、迷惑仕り、盗に入り申し候由、此段申上げ候処、子細あるべしと、思召し候故、僉議仰付けられ候、不便なる事に候、母に一人扶持取らせ申すべき旨仰出され、御扶持下され、其身も御免なされ、本の如く御奉公仕り候、前代未聞の儀と申し候、

前田氏に限りて塀の高さを八尺以上とす一、何の頃か、江戸諸大名方の屋敷、塀の高さ八尺御定、仰渡され之あり候、此方様御屋敷の儀は、塀卑く候ては、見越し御難儀なされ候間、只今までの通り、差置かれたき旨、御老中まで御願ひ候へども、埓明き申さゞるに付、度々酒川讚岐守殿へ仰入れられ候処、讚岐守殿難渋にて、厳有院様へ右の段々申上げらる、私共心得にて、上聞にも達せずと、肥前守存ずる体に候間、御直に上意仰渡され候様、仕りたき旨にて、例月出仕の時分、御用御座候由にて、御残し遊され候処、御座の間へ召させられ候て、今般塀の高下の儀、一統申渡し候処、段々断の趣、聞召届けられ候へども、諸大名一統に申渡す儀、天下の御仕置に候故、御三人を始め、御用オープンアクセス NDLJP:85捨なされ難く候間、此度の儀は、右の趣相心得られ、仰渡さるゝを相守られ候様、上意之あり候へば、今般塀の儀、一統に仰渡され候へども、願の趣、御聞届け遊され、願の通りに仕るべき旨、有難き仕合に存じ奉り候旨、御請仰上げられ候処、重ねて左様にては之なく候、重き御仕置に候故、御聞届けなされ難き旨、上意候処、近年年寄り、耳遠に罷成り申し候、段々有難き上意、願の通り仰渡され、辱く存じ奉る旨、仰上げられ候て、御退出遊さる、夫より直に御礼の為め、御老中方御勤めなされ候、之に依つて如何之あるべくやと、御老中方詮議も之ある由に候へども、存違にても、御礼の為め、御老中方まて、相勤めらるゝ上は、願の通り、御免遊さるべき儀と申すにて、事済み申す旨、竹田氏咄に候、

将軍に蠣を献ず一、厳有院様御代、吉崎の蠣宜しく候間、献ぜられ候様に、小松へ申来り候に付、早速取らせ遣さるべき旨にて、夜中取り候て差上げ、早飛脚も拵へ置き、其段、津田玄蕃申上げ候処に、御聴き遊され候て、何の御意も之なく、二日・三日過ぎ候に付、先日の蠣は、最早御用に立ち兼ね申すべく候、何日頃遣され候や、其時分、取らせ申すべき旨、相伺はれ候処、扨々御失念遊され候、只今又取りては、弥〻日も延び候間、右の蠣未だ損じ申す事にて之なく候、早速認め遣すべき旨、仰出され候て、玄蕃は、合点の悪しき事を申し候、百里の所へ、生蠣などを取りに越し候は、老中の途方なしといふ物なり、此度、宜しく致し遣し候はゞ、毎度取りに参るべく候、無用の費と申す物に候、損じ候て、重ねて申越さゞるが能しと申す了簡は、之なく候やと、御意の由、竹田氏咄に候、

一、前田肥後殿喧嘩の儀、早飛脚にて江戸へ申来り候、其節、御庭に入らせられ、例の御出入之ある旗本衆大勢にて、御咄し遊され候処へ、金沢老中言上の紙面到来、則ち御覧に入る、何の御意も之なきに付、玄蕃如何仰渡され候やと、相伺はれ候へども、御返答之なく、御旗本衆へ御向ひ候て、金沢より飛脚越し候、同苗肥後儀、家中の侍共と申分致し、何れも成敗致し候旨、申越し候とまで、御意にて、其後も何の仰出されも之なく、相済み申し候、竹田氏咄、

一、或時、金沢生駒内膳より、小松へ蛤を差上げ候処、召上られ候へば、御中り遊され候、然る所、又十日計り立ち、蛤を同人より献上候故、如何之あるべしと、気の毒に存じながら、御覧に入れ候処、さすが内膳ほどあり、近習に心安き者之なオープンアクセス NDLJP:86きにやと、御意なり、九里氏物語、

幕府の殿中にて頭巾を許さる一、いつの頃か、尾張様へ公方様より御頭巾進ぜられ候て、殿中に於て召させられ候、或時肥前守様、紫の御頭巾を召し、御登城遊され候処に、御目付衆、御停止の儀如何と之あり、御側へ参られ候て、頭巾御免之なくては、なり申さゞる旨、申され候へば、扨々不念なる事、心付き申さずと、御意にて、御取り遊され、御目付衆退き申さると、又召し候に付、又外の御目付衆参られ候て、右の通り申され候へば、只今も誰殿仰聞けられ候、近頃不調法の仕合に候、頭冷え申し候て、難儀を致し候故、忘著致し、迷惑候、早々取り候と仰せられ、御取りなされ候、又召して、度々右の通りに付、上聞に達し、とかく御免遊され候はでは、なり申すまじき由にて、御手自ら紫の御頭巾を進ぜられ候、御帰り遊され候て、市三郎、此頭巾一つ貰はんとして、頭巾を冠り、扨々難儀にて之ありと、御意遊され候、竹田氏咄、

別所三平物語に、右の趣にて、御目付衆度々申され候へども、御承知なされ候旨にて、又御召し遊され候故、何ともなり申さず候、諸大名の御締になり申さず候間、御老中方へ御達せられ然るべき旨、讚岐守殿へ申入れられ候へば、讚岐守殿申され候は、皆々の御心得悪しく、狭き事を仰せられ候、肥前守殿の真似を仕る大名、外に一人も之あるべく候や、天下の大老と申すもの候故、其通りに仕置きたるが、一段見事の旨申され候由、

一、龍の口御屋敷にて、年頭御客之あり候て、小堀遠江守殿・岡田将監殿始め、歴歴の御旗本衆、御詰め候処へ、子小姓衆まで御供にて、御出で遊され、御座敷を御覧なされ、御床に御具足の餅之あり候、是は取申さゞるか、早く取り候様にと、子小姓衆へ御意候へども、幼少の衆、中々手に合ひ申さず候処、右御出の御方々へ、子共中々手に合ひ申すまじく候、少し手伝へと、御意なされ候へば、何れも御立ち御舁き、御勝手へ御けなされ候旨、野村氏咄、

野崎宗八と今枝伊兵衛一、江戸へ入らせられ候と、御番割御張紙にて、御広間に張り之あり候、或年、野崎宗八と今枝伊兵衛と、御番帳に之なく候、然れども構はず、毎日々々御番に出で申し候へども、御意之なく候、御帰国なされ候時、仰出され之なく候へども、御道中御供にも能出で候て相勤め候処、青海川にて御馬の脇にて、御刀持御子小姓転び候を、伊兵衛手を取り引上げ候、宗八存じ候は、扨々苦々しき事仕り候、晩はオープンアクセス NDLJP:87定めて御成敗もなさるべく候と存じ、罷越し候へば、川を御上り遊され候て、伊兵衛と御意にて、御使遊され候、宗八は夫より余程行き、草鞋切れ候故、店に之ある草鞋わらんぢを取り履き候処へ、入らせられ候故、代を置かず走り出で、御供致し候へば、老女一人跡より、草鞋の代を置かず、盗人めと申し、追駈け候故、仕るべき様之なく、懐中之あり候小玉銀を一つ取出し、之をと申し、投げて参り候へば、一町計り入らせられ候て、召させられ、此山入にいちご之あるべく候、取りて参り候様にと仰渡さる、足軽・小者召連れいちご取り、境の御泊にて之を上げ候、夫より両人共、前々の如く、御仕へ遊され候、野村氏咄、

一、大猷院様御他界、竹千代様、未だ西の丸より御出て遊されず、天下静かなら奥村庸礼ず候節、何御用に候や、御直書御調へ遊され候て、奥村因幡〈十八歳庸礼〉召し候て、此状箱、酒井讚岐守殿へ持参、何卒直に相渡し申すべき旨、仰付けらる、則ち讚岐殿へ持参候処、取次申し候は、讚岐守儀、先日より御城に之あり、未だ下宿仕らず候間、追付相達すべき旨、申すに付、因幡申され候は、御直に差上げ候様に、申付け候間、さ候へば、御城へ持参仕るべき旨、申し候へば、御城へ御越し候ては、外の衆一円入れ申さず候間、さ候へば詮なき事、時刻も移り候間、追付持たせ遣すべき旨、申し候に付、相渡し罷帰り、右の趣具に申上げられ候へば、宜しと御意にて、退き申さるゝ時、御呼び遊され、斯様の使は、受取を取り来るが能しと、御意なされ候時、因幡、懐中より受取を取出し、上げられ候て、退出候へば、扨々用立ち申すべき者かな、斉の玉とは、此者の事にてあらんと、御意遊され候、竹田氏咄、

一、或時、御道中御泊宿にて、毎夜々々御次へ、若き御小姓・御手廻の衆集り、色々遊事致し、居相撲音引様々の事にて、夜明くるまて、以ての外やかましく候故、竹田市三郎など、組頭まで余り大狂ひ、御寝なり候事もなり申すまじく候、少し静に之あり候様にと申談にて、其夜より何れも狂ひ止め、御閑に之あり候処、翌夜御意には、若き者共草臥れ候や、夜前は以ての外静にて、如何の事やらんと、御意に付、市三郎、頃日余りやかましく、御寝なる事も、御障り遊さるべく候やと、頭共へ申談じ候て、叱らせ申し候と、申上げられ候へば、扨々入らざる事、此間あれらが狂ひ、夜を明し候故、気遣なく能く寝入り、夕は狂ひ申さず、閑に候故、気遣して寝られず候、随分狂ひ、夜を明し候様に致され候へと、御意にて、又其夜、分大狂にオープンアクセス NDLJP:88なり申し候、九里氏咄、

密に軍書を写す一、或時京都町人、珍しき軍書、御覧に入れ候へば、一返御覧遊され候て、御棚へ御入れ置き、四五日立ち、先日の軍書返し候やと、御意に付、未だ相返し申さゞる由、申上げられ候へば、早や返し候へ、さて何にもならぬ、やくたひなき書物に候間、此通り申聞け、金子取らせ、相返し候様仰付けられ、相返し申し候、いつ御写させ候や、御写し置き遊され候て、珍しき書物の由、御秘蔵遊され候、竹田氏咄、

つくも髪の茶入一、御家のつくも髪の茶入、京都より売りに来り、御求め遊され候処、金百枚より負け申す事、成難き旨申し候、伊藤内膳御使にて、御隠居の事に候へば、百枚と申す御道具は、召上げられ難く候、せめて一枚負け候様にと、仰付けられ候へば、畏り奉り候由申上げ、負け申し候、代金相渡し、其上金子三枚取らせ申すべき旨仰渡さる、直に小堀遠江守殿へ内膳遣され、右の様子委細申入れ候て、名を附け遣され候様、申入るべき旨にて、内膳持参候て、右の趣申入れ候処、遠江守殿、つくも髪と附けられ候、竹田氏咄、

一、或人云ふ、江戸富士見御亭は、白山公事最中、御立て遊され、出来候て、御老中方御招請にて、右御亭へ御越し、何れも扨々珍しき御物数寄にて候、駿河の富士を、御庭に直に御懸け候と、御挨拶候へば、何と御申し候、富士は駿河にて候かと、御意候て、伊豆守殿へ御伺ひ遊され候て、富士は駿河にて候かと、又仰せられ候へば、伊豆守殿、外の事に申紛かされ候由、

一、或時江戸火事にて、御城も気遣しきに付、御人数大下馬先まで遣し置かれ候て、度々替へさせ候様仰付けられ、漸く火事鎮寄り候時、御父子様御出で遊され候て、暫く之あり、御乗物御取寄せ召させられ、筑前守様にも、寒気強く候間、御乗物御召し候様に、仰入れられ候て、扨御小夜著御取寄せ、御乗物の中に召させられ候て、入らせられ候、明方火鎮り候て、御老中方退出候時分、橋爪に御乗物之あるに付、何れも御立寄り候へば、先づ以て御城御別条無く、御機嫌能く、恐悦の至に存じ候、拙者父子も、大火になり候に付、早速罷出で候て、御用も之あるべきかと、宵より此所に人数立て罷在り候、余り寒く候故、馬上も仕り難く、此の如く候、筑前は若き者に候へども、風引き候へば、入らざる事と、達て申付け候と、御オープンアクセス NDLJP:89意遊され候へば、何れも御尤と存じ奉り候、御屋敷近く候へば、是まで御出にも及ばざる儀と、御申し候由、此時に龍の口に入らせられ候、竹田氏咄、

清泰院の淑徳一、筑前守様御逝去、一両年之あり、俄に御客之あり候て、御伽羅御用に候へども、折節御前にも払底に候、御土蔵へ取りに参り候間、之なく候故、御意なされ候は、清泰院様へ参り候て、下され候様、申上ぐべき旨、委細仰進ぜられ候処に、清泰院様御返答に、伽羅御用の旨、易き御事に御座候、然しながら、筑前守様に御離れ遊され候ては、左様の品、何方に御置き遊され候も、御存じ遊されず候、御近所には御座なく候間、御急の御用と、仰進ぜられ候へば、御用に御立ちなされ難く思召し候旨、仰進ぜられ候、中納言様御聞き遊され、扨々此方の誤に候、御返事御尤と御意にて、御落涙遊され候、竹田氏咄、

利常寵愛の小姓を光高に隷せしむ一、中納言様、九蔵とやらん申す御子小姓、器量勝れたる者にて、其頃、余り之なき程の小姓に候、筑前守様兼ねて御貰ひ遊されたく思召され候て、竹田市三郎まで御内談遊され候、市三郎、易き御事、御機嫌次第、申上ぐべき旨にて、或時申上げ候へば、中々なり申さず候、されども深き所望候はゞ、直に申聞けらるべく候、人伝などにて、遣すものにて之なしと、御意に付、其段申上げられ候へば、何程大望にても、御直には仰上げらるべき様之なき事、是非もなき事と、御意に付、市三郎、御尤に存じ奉り候、されども宜き時分に、御前にて私御挨拶申上ぐべく候間、其時、何卒仰上げられ候様にと、申上げられ候へば、然らば何卒宜しき様に、御頼み遊され候由、御意にて候、或時、小堀遠江守殿御夜咄にて、筑前守様にも入らせられ候て、御咄し遊され候時、九蔵茶持参候様、中納言様御意に付、御茶持出で候へば、今一つと御意にて、又筑前守様へ上げ候時、市三郎、御敷居越に之あり、内々の儀、仰上げられ候様にと、申上げられ候へども、筑前守様、暫く御意も之なく候へば、中納言様、何ぞと御意遊され候時、市三郎、九蔵儀御貰ひ遊されたき由、申上げ候へば、望かと御意に付、筑前守様にも、市三郎申上げ候通りと、仰上げられ候へば、進ぜらるべき旨御意にて、其後御客相済み、筑前守様御帰り遊され候時分、御跡より遺さるべき旨御意、追付参り候様、千石下され候、追付御礼として罷出で候に付、其段、市三郎申上げられ候へば、知行何程取らせ候と、御意に付、千石下さるゝ旨、申上げ候へば、扨々吝き事かな、二千石は取らせオープンアクセス NDLJP:90申すべしと、思うたにと仰せらる、何ぞ取らせて返すべき旨、御意候へども、御夜詰済み候故、只今は何も御座なき旨、申上げ候へば、御物置見申すべき由にて、見申し候へども、何も相応の物御座なく候、御衣桁に御小袖三つ・御単袴懸け御座候と、申上げ候へば、其衣桁共に取らせ申すべしと、御意にて、御寝所へ召し候て、御目見仰付けられ候、随分能く勤め候へ、筑前は若く候間、諸事大切に仕るべく候、重ねて此方へも参り候儀無用と、御意遊され候、御直に御貰ひ遊され候様にと御座候は、深き思召共之ある事の由、竹田氏咄、

一、江戸にて、或時御客之あり、御料理漸く済み候時分、御料理の間の上に、淡路守様・飛騨守様・前田日向守殿、其外横山家・本多家の衆並居り、御料理参り候、御膳部等も御客の通りにて候処、中納言様御出で候て御覧、以ての外御機嫌悪しく、囲炉裏の際に御座なされ、御料理御乞ひ遊され候、則ち上げ申し候処に、御椀・御皿皆々下へ御下し、塗木具の御本膳・二の膳とも、足を御手自ら御押折り遊され候て、御投げ出し、御椀等下に御置き遊され、召上られ候、淡路守様始め、何れも御迷惑遊され候て、漸く御退き遊され候、其以後御客之あり、御勝手へ御越しなされ候時分は、代る御料理の間、囲炉裏の際に御座候て、御膳なしに、御椀下に御直し候て、御給仕も之なく、直々に御替も御乞ひ候て参り候、竹田・九里・野村咄、

一、正月御具足の餅、三箇日過ぎ申さゞる内より、大御式台御小姓中、射手・異風中など御番の時分、御鏡餅の所へ参り、後の方より欠き取り候て、焼き給べ候、後は半過ぎまでも取り申し候、或年いかゞ致し候や、取り申さず候を、御覧遊され、今年は具足の餅に鼠がつかず候事、如何の事に候や、気懸りなると、御意遊され候、何れも申談じ候て、其夜より欠き取り申し候、右同断、

隠居後は政務に干渉せず一、或時、筑前守様、御役替仰付けらるべしと思召され、面々御書付遊さる、板津検校を以て、御伺ひ遊され候に付、検校持参仕り候へば、御数寄屋に入らせられ候故、則ち持参、筑前守様より御伺ひなされたき御紙面の由、申上げ候て、差上げ候へば、さし口御覧遊され、隠居候て之あり候へば、斯様の相談、差引き仕るべき様之なく候、必ず無用に候間、此書立も見届け申さず候と、御意にて、御巻き遊され候て、検校へ御返し遊され候に付、罷帰り候て、其趣申上げ候へば、筑前守様御オープンアクセス NDLJP:91意には、さて気の毒なる事かな、御内談申上げ候へば、御構へなされず候旨に候、御一人の御了簡にては、篤と御心得遊され難き儀も、之あり候へば、如何遊さるべく候や、重ねて今一度御伺ひ遊さるべきかと、御意の時、検校申上げ候は、篤と御書付御覧遊さるべく候、右の通り御意遊され、慥に御爪点遊さるゝを承り請け申す由、申上げ候に付、能々御覧遊され候へば、何れも御爪点遊され置き候由、竹田氏咄、

利常封を光高に譲る一、微妙院様、四十八の御歳、御参観なされ候砌、筑前守様、板橋まで御迎に御出でなされ候処、御対面なされ、御意には、道中無事に参り候、当年は能き土産之あり候間、左様に御心得候へと、御意なされ候故、陽広院様、夫は何にて御座候や、早々見申したき儀に御座候旨、仰上げられ候へば、如何にも早々見せ申すべしとて、御著きなされ、又能き土産之あり候と、御意に付、陽広院様、何にて御座候やと仰上げられ候へば、追付参覲の御礼申上げ、其以後又追付相願ひ、隠居仕るべく候、左候へば、其方へ家を譲り申す事に候、是程の土産は之あるまじと、仰出され候改、御戯言ざれごとと思召し、未だ御年も御若き事に候へば、御隠居とは、御勿体なきの由、仰上げられ候の所、いや国元にて存じ極め、罷越し候事に候へば、追付願ひ申すべしと、仰せられ候、其以後又右の趣を仰出され候故、陽広院様仰せられ候は、頃日ひたと其御意に御座候、弥〻左様に思召し候はゞ、私願ひ奉りたき儀御座候由、仰上げられ候へば、何にて候やと、仰出され候へば、陽広院様御意なされ候は、大国を御譲りなされ候事に候へば、私に限らず、淡路・飛騨・私三人の内、何れにても、大国を治め申すべき器量の者へ、御譲りなされ候様に仕りたく、存じ奉り候、何れへ御渡しなされ候ても、私存念少しも御座なく候由、仰上げられ候処、いや其方へ譲り申す由、仰出され候、陽広院様御願の趣、扨々御名言と感じ奉り候、

一、微妙院様、御隠居相叶ひ、其時分、大猷院様御前に、肥前守様・第前守様、則ち大猷院様と、御三人御座なされ候時、大猷院様へ仰出され候は、肥前守未だ五十にも罷成らず候に、大国を其方へ譲り申し候事、厚恩に候間左様に相心得られ、尤に候由、上意候へば、筑前守様御請に、有難き上意に御座候、此上は肥前守、申分御座あるまじく候と、仰上げられ候由、此御請に今名御請と申慣らし候由、

オープンアクセス NDLJP:92一、右の節、件の上意前に、隠居致し、大国譲り申され候儀に候へども、迚もの事に、鶴翕の事も譲り申さるゝ様にと、上意御座候処、肥前守様御請には、上意候儀に御座候間、鶴の儀辱く畏り奉り候由、仰上げられ候、

末森の戦一、微妙院様、常々御咄に、佐々内蔵助、人数多く持ち居り申し候、二万程之ありたる由に候、末森の時も、二万の人数にて候、大納言様は漸く三千御座候由、御咄し遊され候、

一、末森の節の事、申伝へ候は、大納言様、御上帯をから結びに遊され、端を御切りなされ候て、御出でと申し候へども、左様にても之なく、御草鞋の緒をから結びになされ御切り、最早此度負け候へば、二度草鞋は履き申さず候と、仰せられ候て、右の通りに遊され候旨、微妙院様度々御咄し遊され候、御客衆へも毎度之ある御咄にて、末森は親ながら出来合戦にて候由、御意遊され候由、藤田氏咄、

一、佐々内蔵助家来、北村平次郎と申す者、牢々の体にて、越中に罷在り候を、微妙院様聞召され、召出され候、此者古き咄存じ居り申すべく候間、御聞き遊され候様、陽広院様へ仰せられ候、或時金沢にて、陽広院様御夜詰に召出され、咄御聞き遊され候、末森にて大納言様後詰遊され候時、佐々方より道へ人数を出し置き、押へ申さず候は如何と、御尋ね遊され候へば、成程人数を出し置き候、其時私儀も使番相勤め、罷出で申し候、其夜は大雨にて御座候、大納言様は浜手御越しなされ候を、何れも聊か存ぜず候て、押へ申さず候、佐々方運命天道に尽き、御通りを存ぜず候て、其儀御座なく候、存じ候はゞ、中々通しは仕るまじと申す事と御座候由、申上げ候、

一、佐々内蔵助人数は、何程計り之ありやと、陽広院様、平次郎へ御尋ね遊され候へば、人数余程持ち居り申し候、鳶羽の一羽にはし難き程、人数御座候由申上げ候、藤田氏咄、

一、陽広院様御前にて、平次郎御咄申上げ候時分、御前に常々罷在り候て、御咄仕り候立花半入と申す者罷在り候て、平次郎咄の末を、折り申す儀共之あり候故、御前に於て、左様の儀申上げ候事如何、咄の末を折り申すと、叱り候へば、陽広院中川清秀の首を挙げしもの様御意には、半入儀も賤ケ岳にて、中川瀬兵衛としるしを上げ申す者にて候由、御意遊され候所、平次郎居直り、半入方へ向ひ、若き殿様の御前にて、麁末なる事をオープンアクセス NDLJP:93常に申上げ候〔事カ〕勿体なき事に候、中川瀬兵衛しるしを上げ候者は、遠藤無市にて候、左様の筋なき儀申上げ候事、沙汰の限りと申し候へば、半入一言の返答も御座なく候、御前にも、何の仰出されも之なく、翌日より半入悪しくの体に罷成り、御咄の時分も、罷出で申さず候、其後は半入と申す者も、之なく罷成り候、

一、右同夜、御咄彼是相済み、夜も更け、寒く御座候、御前に繻子のめかりの御小袖、上張うはばり{{{2}}}御座なされ候を御脱ぎ、直に今晩は珍しき咄共御聞き、御満足なされ候、殊の外寒く候間、此小袖著仕り、罷帰り申すべく候、御次にて御酒も下され、罷帰るべき旨、御直に仰出され、有難く存じ奉り候旨申上げ罷立ち、御次にて御酒・御吸物下され候、御近習衆へ平次郎申し候は、私儀内蔵助方にて、少々心ばせも御座候故、内蔵助方より感状も呉れ、今に所持仕り候、今晩御前にて、御直に御小袖等拝領仕り、御意なし下され候趣は、右内蔵助感状より、遥に増し申し候、私年寄り、最早一生の面目、辱き仕合と申し、罷帰り候、

一、玉泉院様御逝去の砌、宝円寺反納和尚と申し候、是へ御逝去の儀仰遣され、玉泉院の取立罷出で候様、中納言様御意の由、申出で候処、其頃追剥はやり、町中、夜は歩き申す事気遣ひ候、御使に参り候者、軽き者故、和尚申され候は、左様にては之あるまじく候、定めて追剥にて之あるべく候、玉泉院様御死去ならば、今少し急度仕たる御使、参るべく候事に候、罷出でらるまじき由、返答申越し候へば、中納言様御怒り遊され、さ候はゞ、此方導師仕り申すべく候、必ず呼び申すまじき旨、仰出され候、夫より右住持、御意に違ひ申し候、中納言様仰せられ候は、玉泉院様、外に常々御可愛がりなされ候、出入の出家寺方は之なく候やと、御尋ね候処、別に御座なく候、玉泉院様、常々白山へ御参詣の節、御立寄り御休みなされ候時宗寺御座候、成程軽き寺にて御座候由、申上げ候へば、幸の事、此寺へ移し申すべく候、則ち時宗寺も御建てなされたく候間、幸の儀と仰出され候、玉泉院様御遺骸入れさせられ候、其以後、玉泉院と御付け、只今の通りに罷成り候、右の時節、遊行囘国にて幸と仰せられ、諸事結構になり候由、申伝へ候、右時宗へ御移し候事、宝円寺承り、道へ出で、奪取り申すべき旨、申され候由中納言様御聞きなされ、沙汰の限りに候、出家にて、誰に左様の儀仕り候、棒伏に仕るべき旨、荒く仰出さる、夫より宝円寺、中納言様御前悪しく、高徳院様御位牌も、天徳院へ御移し、御位牌所仰オープンアクセス NDLJP:94付けられ候、其住持之ある内は、宝円寺へ御寺詣り遊され候由、

一、瑞龍寺に信長公并に城之助殿御石塔之あり候、御院号・年月日まで、慥に之あり候、是は瑞龍院様は信長公の御婿故、御殺害後、御墓仰付けられ候由、古き者申伝へ候、野田桃雲寺に、大納言様并に芳春院様の御影之あり候、

富山大聖寺両支藩の領高一、微妙院様、御隠居の時分、御知行分之あり、淡路様へ十万石、飛騨様へ七万石進ぜられ候事、前廉より大猷院様へ御願ひ置き遊され候、家光公上意に、其主多き様思召され候、淡路へ五万石、飛騨へ二万石遣し申し然るべき旨、上意之あり候へども、夫にては何とも遊され難く御座あるべく候間、強く御願ひ候故、十万石・七万石と相極り申し候、此儀、後には微妙院様、殊の外御悔み遊され候、筑前存達て願ひ候故、大分遣し、後悔に候、庶子は大名仕らざる事に候旨、度々御意遊され候、藤田氏咄、

一、大納言様、御奥へ入らせられ候時分は、誰とも目には見え申さず候へども、数百人御跡より追懸け申す音、聞き申し候、其時は其儘御腰物に御手懸けられ、御よりかへり、御睨み遊され候へば、其音相止み申し候、三池伝太の御腰物、御差し遊され候時は、右の音嘗て仕らざる旨、慥なる儀に御座候段、微妙院様、度々御意遊され候を、後藤程乗・八幡久越・藤田平兵衛など。切々承り申し候、其節平兵衛は三十郎と申し、御近習相勤め罷在り候、藤田氏咄、

一、肥前守様・筑前守様御同道にて、御座敷より御庭へ御出での時分、筑前守様、御先へ御下り遊され、御縁の下、飛石の上に御座候御草履を御直し、肥前守様へ召させられし、肥前守様、左様にはなされざる物に候と、御時宣御座候て、御召し遊され候、藤田氏咄、

一、微妙院様御詩分、陽広院様御前にて、板坂平内、化物に遭ひ申す儀と、野々村勘左衛門、牛鬼に遭ひ申し候儀、共々御咄し申上げ候を、藤田平兵衛承り候、野々村勘左衛門、或夜若党一人・草履取一人召連れ、外へ咄に罷越し、宅へ罷帰り候道にて、夜半過の事に候、雪も余程之あり、所々の塀下などにも、搔集め置き申す程に候、先より提灯二つ参り申し候に付、見申し候へども、常より提灯殊の外高く、塀の上程に高く相見え申すに付、不思議に存じ、側に之ある塀越へ寄添ひ、相控へ罷在り候内、程近く参り候を見申し候へば、提灯にて之なく、大きなる牛の頭のオープンアクセス NDLJP:95如くにて、牛の角の大きなる、左右に生じ、其角の元より、はつと火出で申し候、其火の光、提灯の様に、遠くよりは相見え申し候、胴より下は見え申さず候、勘左衛門頭の上を、通り申すに付驚き、刀を抜き、切払ひ候へども、余程高く候て、当り申さず候、其内に通り過ぎ申し候、尤も何の障も之なく、右の通りまでにて候、若党・草履取も見申し候、金沢松原町辺にての事に候旨、其頃、替りたる儀と申慣らし候、藤田氏咄、

一、板坂平内、化物に遭ひ申し候は、前廉より、下人共色々の物に遭ひ申す由、沙汰之あり候、松原町辺、不開門の際に之あり候、屋敷にての事に候、或夜、下女背戸せどへ韮を取りに参り候へば、何やらん、上より覆ひ申すに付、逃込み申し候、平内承り、罷出て候へば、又覆ひ申し候に付、抜打に切払ひ候へば、行衛もなく失せ申し候、其後、或夜、客之あり候て、平内も座敷へ罷出で、咄之あり、其以後、露路に之ある雪隠へ平内罷越し、用事調へ、出づべしと仕り候へば、外より戸を押へ申すに付、押返し出づべしと仕り候へば、又押へ申す故、無理に押明け、罷出で候へば、大きなる黒坊主、其儘組付き申すに付、組合の内、脇差を抜き、突き申し候と其儘、放し逃げ行き申し候、其時、平内も突放され候て、茫然と致し罷在り候、客を始め、家来共も、久しく雪隠より罷帰らず候故、心元なく罷越し見申し候へば、右の通りにて、色も悪しく罷在り候に付、薬など用ひ、様子尋ね候へば、右の趣申聞け候、手なども搔裂かれ申し候、のりを慕ひ見申し候へば、総構のはたまで之あり、夫より先は見え申さず候、突放し塀へ飛上り、逃行き申し候中、脇差の切先三寸計り突き申す跡、黒く焼け申す様になり之ある旨、藤田平兵衛も其脇差を見申し候て、咄も承り候、至極熱生のものと見え申し候、

天徳院の逝去一、天徳院様の御局は、容儀ようぎ宜しく候故。微妙陰様名仕はれ候、夫より御局、天徳院様を疎み、悪しき上り物を上げ候故、御中り遊され、御逝去と申す沙汰にて、微妙院様、殊の外御機嫌悪しく、御局を御悪くみ遊され候、其頃、御局の屋敷近所に、栗田久右衛門屋敷之あり候、家伝の白蛇散調合の為め、山里の者へ申付け、蝮を多く取寄せ申し候処、其時分金沢中を沙汰に、御局を蛇責に仰付けられ候と申誤り、取沙汰之あり候を、御局召仕ひ候下女、使に遺し候時分、此沙汰を承り、女心に誠と存じ、笑止なる事に思ひ、御局に咄し申すに付、御局承られ、了簡なき事にオープンアクセス NDLJP:96候、蛇責に遭ひ申すべき事に之なき旨にて、自害致し、相果て申され候、此儀を世にて蛇責に遭ひ申すと、申慣らし候へども、実は右の通りの由、生駒内膳・不破覚之丞語り申し候、

一、天徳院様、御逝去遊され候時分、微妙院様御不行儀故、御局の業にて、天徳院様御逝去の様に、大猷院様御聴に立つ、夫故三年、江戸に御詰め遊され候、然れども御如才御座なく候に付、御国への御暇仰出され候節、只一通りの御暇にては、成り申すまじき旨、殿中にて御詮議之あり候へども、一決仕らず候処、井伊掃部頭家光頼房の女を養ひて光高に嫁せしむ殿申上げられ候は、公方様御為に、大事の儀は、大名の恨に候、五三万石の御加増と申すにても之あるまじく候、所詮水戸黄門様の御息女を御養子になされ、筑前守へ御輿入御座候は、肥前守為には、是に過ぎず大慶仕るべき旨、申上げられ候、尤なる儀と、是に相極り、其上にて春日の局抔御取持ち申さるゝ分にて、夫より御輿入に相極り申し候、井上清左衛門母など始め、春日の局の様に申し候へども、実は右の御内談にて決し申す事と、生駒内膳委しく存じ、不破覚之丞などへ毎度申聞け候、

大坂陣の論功行賞一、微妙院様、御陣後、高名穿鑿仰付けられ候、其批判横山山城守相勤め申し候、〈長知なり〉、殊の外依怙贔屓之あり、手柄仕り候者も、御知行下されず、いかう宜しからざる儀共、多く之あり候、山崎閑斎、此儀を殊の外腹立ち、閑斎へ、山城守仕方宜しからざる旨、申す者之あり候へば、よいはさて、大坂陣を屁にこいたと思へば、宜しく候と申され候、常々承り候旨、藤田氏咄にて候、

一、大坂以後、御穿鑿なされ、並々の者、御知行二百石当て、御加増下され候、天下に之なき、結構なる加増の由、申慣らし候、其以後、重ねて大坂の高名批判仰付けられ、御加恩之ある者も御座候、斯様の儀、公儀より微妙院様へ御不審御座候内の由、有沢氏咄し申され候、

一、微妙院様御代、稲野九郎兵衛と申す者之あり候、藤田平兵衛など筋目も御座候、極めて貧なる人に候、或夜の夢に、誰ともなく、白張浄衣じやうえ著し申し候人、夜明けなば、白狐の子売に参るべく候間、買ひ置き申すべく候、汝が福にて候と、夢想之あり候、夜明け目覚め、不思議なる夢を見候とて、其儘妻へ語り出し候へば、妻も不思議なる夢想之あり候とて、両人一同に語り申し候処に、少しも違ひ申さオープンアクセス NDLJP:97ず、同じ夢に候故、余り不思議なる事に候、あるまじき事とも存ぜず候間、若し売に来り候はゞ、聞かせ申すべき旨、家来へ申付け候へば、夫は今朝とく売に参り申し候へども、何の用にも之なきもの故、相返し候旨、家来申すに付、人を出し、近所尋ねさせ候へども、最早相見え申さず候、大坂の時分、覚えあり候へども、御取立てなされず候を、不足に存じ罷在り候上、右の様なる儀も之あるに付、旁〻気を屈し、御暇申上げ、何方やらん、罷越し候旨、藤田氏物語に候、

一、微妙院様、小松に御座なされ候時分、山よりのぶすまと言ふものを取り、打殺し持参り候、則ち微妙院様へ御覧に入れ、奥御小姓共に、見せ置き候様に仰出さる、藤田三十郎、家へも参り見物仕り候、顔は獺の如く、胴も同じ頃にて、恰好に応じ、獺の如くなる尾之あり、胴の左右に、羽の如く、四方に平き薄き物出で、それに網の如く、毛生へ之あり候、其四角に爪付く、夫が則ち足にて候、三尺四方程の物に候由、藤田氏咄に候、

光高の薨去一、微妙院御時分、陽広院様御逝去、金沢へ告げ来るべき朝、板津八兵衛、鷹を据ゑ、門前へ罷出て候へば、人三人通り申し候、一人は殊の外貌の形横へ長く、今一人は竪へ顔長く、又一人は顔殊の外丸く之あり、何れも常の人にて之なく、懸り通り申し候、余り不思議に存じ、何とも心得難き事と、心の中に考へ候て、長く・丸く・横長三つにて候間、何卒三箇国へ響く程の事、出来申すべき前表にて候やと存じ、家へ入り、其儘書状調へ、近所の脇田九兵衛へ差遣し候、此頃遭ひ申さず候趣、扨は三箇国へ響き申す程の珍事は之なくや、替りたる儀御座候故、尋ね申し候、委細は会ひ候て、申すべき旨申来り候、然る所に、其日の夕飯後、江戸より早飛脚参著、四月五日、陽広院様御逝去の旨、告げ来り候、不思議なる事の旨、藤田平兵衛咄し申し候、通る程の者、足が地に付き申さゞる様に、八兵衛見申すと申す説、之あり候へども、右実正の由に候、八兵衛は近き頃まで、物頭にて罷在り候、板津権佐親にて候、

加賀と水戸一、明暦酉の年、江戸大火事の時分、微妙院様は御国に御座なされ、江戸には加賀守様入らせられ、今枝信斎罷在り候、大火事故、以ての外物騒にて、兵乱の如く存じ罷在り候、水戸西山中納言様、其頃、森川宿の御屋敷に御座なされ候、本郷の御屋敷隣に候処、垣を破り、信斎を御招ぎ、若し自然の時は、加州まで程遠く候オープンアクセス NDLJP:98間、加賀守様を御領分水戸へ退き申すべく候、天下を引請け候ても、要害宜しき所に候旨、御直に仰せられ、色々御懇なる思召御座候旨、信斎後々咄にて候、

明暦の大火と加賀藩一、右火事の時分、飛騨守様は御在江戸、微妙院様は小松に御座なされ候、江戸中火事、御城も焼け、未だ火も鎮り申さず候、江戸表、何とも合点参り申さず、兵乱の沙汰も之あり候処、加賀守様人数少く、気の毒に存じ、此中四日間、昼夜臥せり申さず、案じ申す旨、御直筆にて御書遊され、早飛脚を以て進ぜられ候、右の御書、小松へ到来、微妙院様御披見遊され、以ての外御機嫌損じ、若猫めがと御意にて、品川左門を召し、飛騨守たわけを尽し、此の如く申越し候、若者五七日臥せり申さず候とて、苦に仕る事に之なく候、加賀守人数少しと申越し候、若猫めが人の物を我物にする事を知らぬわいと、御意遊され候、則ち藤田平兵衛も、其節、御側に罷在り承り候、之に依つて、先づ御取合なされず、前田対馬を江戸へ遣され、夫より横山左衛門を遣され、其後淡路守にも、御越し候様に御意にて、俄に江戸へ御出で遊され候、此時対馬始め、何れも東海道参られ候、対馬には、加賀守様への御書遣され候て、持参仕られ候、対馬は殊の外人数少く召連れ、罷越し候故、今切の渡にも、難なく罷通り候由、左衛門などは、人数多く、難儀仕る由に候、藤田氏咄、

一、右江戸大火の儀、金沢へ相聞え候へば、微妙院様御意遊され候は、老中気が付き申さず候、町中に仮舞台を建て、能をさせて、諸人に見せ、心を安堵仕らせ申すべき事に候、太閤ならば、左様になさるべく候、皆老中気が付き申さずと、御噂御座候、

一、微妙院様は、太閤の家風を、殊の外御誉め遊され候、何かと御座候へば、早御引言には、太閤の事を仰せられ、信長の事は、少しも御意御座なく候、只太閤の御軍法を、御感遊され候、甲陽軍鑑などは、曽て御覧遊されず候、常々太平記・徒然草など御覧、又は猿のほうなどと申す草紙を御覧遊され候、東鑑仮名書に御写させ置き、毎度御覧遊され候、藤田氏咄、

白山の附属一、微妙院様、或時、江戸に御座なされ候内、御国より早飛脚参り、白山を越前の山と申立て、牛首風嵐へ越前より人数を上げ、御国の者共を追下げ致し、横逆を致し候旨、註進之あり、書状御披見遊され、殊の外御立腹にて、越前守年若に候オープンアクセス NDLJP:99故、是の如くに候旨、御意にて、即刻遠藤数馬を御呼び、松平伊豆守殿へ御使遣され、只今国元より斯様々々に申越し候へども、此方よりは、必ず以て頓著仕るまじき旨、堅く申遣し候、御案内の為め、申入れ候旨、御口上にて仰遣され候へば、伊豆守殿御返答に、御尤至極に存じ奉り候旨、殊の外感心の御返答申来り候、御国へも、尤も曽て取合ひ申すまじく候旨、仰遣され候、御早き殿様、御尤至極なる御儀に候、取合ひ候へば、早や一揆諍論の様相聞え候故、此所を早く御察し遊され、御老中へ早速、御取合之なき旨、御届けなされ候、其後公事になり、畢竟此方の御理になり申し候、此御飛脚参り候節も、藤田御前に罷出で、御様子之を承り候由、藤田氏咄、

三浦乗賢前田氏に仕ふ一、三浦勘右衛門は、微妙院様御代、池田宮内少輔殿家を立退き、御家へ召出さる、此事、勘右衛門も隠密に致し、御奉公相勤め罷在り候処、御城中へ上下にて、御供に召連れられ候節、宮内少輔殿、御城内にて、勘右衛門を見懸けられ、殊の外睨み申され候、此儀一両度も之ある故、何とやらん、微妙院様を睨み申さるゝ様に、思召さるべきかと存じ、宮内殿立退きの様子、憎しみ之あり、毎度睨み申され候首尾に候、其分差置き難き儀も、御座あるべき旨、言上仕り候へば、微妙院様聞召され、必ず以て左様の存心あるまじく候、無益の事に候間、存じ留り申すべく候旨、御意にて、其後、御城への御供は、召連れられず候故、何事なく相済み候、藤田氏咄、

一、微妙院様御代、熊沢兵庫は、三千石計りの身上の由、只今青山将監屋敷に罷在り候、西尾先隼人婿の由に候、兵庫相果て候以後、跡目仰付けられず候故、御暇申上げ、他国へ罷越され候、此子細は、兵庫忰与市郎、隠なき美男にて候、御子小姓に召出さるべき旨、御意之あり候処、病身なる由申立て、御奉公に出し申さず候、其内に兵庫相果て候へども、早速病身の由申立て候者故、跡目仰付けられず候、其故江戸へ罷越し、他所へ奉公仕り見申し候へども、生付疎く候故、爾々奉公もなり申さず、又後は金沢へ罷帰り、西尾家に懸り罷在り、相果て候旨、藤田氏咄、

稲葉左近の切腹一、稲葉左近は、微妙院様御代、二千石計りの身上出頭人にて、御領国の代官仰付けられ、第一能州の事など、取計らひ申し候旨に候、時々御意を得ず、心の儘差オープンアクセス NDLJP:100図仕り、随分利口なる者にて、仕落も御座なく候旨に候、諸勘定承り届け候事も之なき故、其頃の取沙汰に、若し勘定も御尋に御座候はゞ、分立て申すまじき旨申慣らし候、後は私曲も出で候や、微妙院様より勘定の儀仰付けられ候所、時々の様子も知り申さず候旨、勘定はなり難き旨の御請仕るに付、曲事に思召され、切腹仕るべき旨、仰出され候所、御後閣き儀御座なく候間、切腹仕るまじく候、討手を下され候へば、一勝負仕り、打果し申すべき旨申上げ候、只今の中川清六隣屋敷、前田五左衛門・野村五郎兵衛抔屋敷の所、則ち左近屋敷に候、取籠り大廻の塀に候、鉄炮を仕懸け、屋敷の内に塩硝蔵も之あり、左近父子・兄弟、取籠り申す由に候、微妙院様は江戸に御座なされ候、御国には陽広院様入らせられ候、然る所に、陽広院様より、御使を以て、仰遣され候は、微妙院様の御意に背き申す段、何とも御気の毒に思召し候、陽広院様御頼み遊され候間、切腹仕り候様にと仰下され候、そこにて左近申し候は、御若き殿様の御意に候へば、聊か違背仕るべき様御座なく候、成程切腹仕る旨にて、則ち切腹仕り候、若し違背仕り候へば、陽広院様御馬を出され、押潰し遊さるべきにて、左近切腹の日は、御鷹野の由にて、御城へ御小姓残らず、其外頭分侍中揃ひ申し候へども、右の仕合故、無難に事済み申す由、藤田氏・不破覚之丞覚え罷在り、物語に候、此両人若き頃まで、堤町後に左近屋敷跡之あり、其時の土蔵相残り之あるを見申す由、申聞け候、

一、高槻勘兵衛は八百石にて、微妙院様御代、御使番相勤め、殊の外高上者、子細らしき者に候、或時、猥なる様子之あり、奥小姓の内へ、艶書を遣し申し候、然る所、右の如く仕り候方、両人之あり、則ち奥小姓中仲間故、斯様々々と咄出し候へば、今一人の者、私共へも斯様と、則ち書状取出し見せ、大笑ひ仕り候、不届千万、悪くきことに候間、返書御両人連名にて仕るべき旨申合せ、御執心の方は、いづれに候や、一人に御極め、仰聞けらるべく候と、連名の返事遣し候へば、勘兵衛、殊の外行当り、難儀を致し候、其時の笑草にて候由、藤田氏咄、微妙院様御逝去以後、余り久しき間は之なく、御暇申上げ、他国へ罷越し候、上方に後罷在り、道也と申す由に候、

利常の視カ一、微妙院様、或時、釘隠を御大工に御打たせ遊され候時分、長押にあてがひ、ろくを極め、御目に懸け候へば、御覧遊され、少し脇へ寄り申し候と、御意に御座オープンアクセス NDLJP:101候、八幡久越も御側に罷在り、御大工も曲尺を当て申し候故、ろくに御座候旨、申上げ候へば、兎角脇へ寄り、相見え申し候間、又曲尺を当て、見申すべく候旨、仰せられ候に付、曲尺を当て候へば、一分余り脇へ寄り之あり候、何れも感じ奉り、久越申上げ候は、扨も強き御目鑑めがねにて御座なされ候、何れも感じ奉る旨、申上げ候へば、古肥前守殿、目鑑が強く候と、御意遊され候、其思召は、御目鑑の強き利常様御見立て遊され、御国を御譲り遊され候古肥前守は、猶ほ強き御目鑑と申す思召にて仰せられ候、度々古肥前守様の儀を仰せられ、殊の外御満足がり、辱く思召し候御様子、見請け奉り候旨、藤田氏咄、

一、微妙院様、御七つの御歳、小松丹羽五郎左衛門殿へ、証人に御越し御座なされ候、五郎左衛門殿、殊の外御いとほしがり、自身梨子の皮などを取り、進ぜられ候、其外御懇になされ候旨、度々御咄なされ候、此儀は、酒井空印も御咄の旨、藤田氏咄に候、右の頃、五郎左衛門殿よりの証人には、御老母差越され候旨に候、

利常の秘計一、境の奉行に、長谷川惣兵衛と申す者之あり候、其者娘を、微妙院様御内意を以て、市振の者方へ、緑に付け置き候、然る所に、微妙院様御逝去以後、年寄中詮議之あり、惣兵衛仕方、何とも心得難く候、境の奉行にて罷在り、娘を市振の者方へ遣し候儀、不届千万なる儀に候間、切腹申付け然るべき旨、詮議極め申し候、惣兵衛申し候は、是には段々子細之ある事に候へども、証拠之なく候故、此節に到り、申出で候ても、詮なき事に候旨、申し候て、切腹致し候、其子細は、市振の者と縁者に罷成り候事、之あり候へば、若し御用の節、御味方に引付け申さすべき御内意と相聞え候、微妙院様御逝去以後、此詮議之あり、右の様子、御墨附・御覚書等も、惣兵衛所持仕らず候故、誠に仕る者之なく、了簡なくも切腹致し候、年寄中の詮議迄にて、此の如く候、仕様も之あるべき所に、未熟なる詮議にて、斯様の儀共、間々之ある旨に候、

一、微妙院様、小松へ御隠居遊され候以後の事に候、青山織部内熊野才之助、〈後伊左衛門と申し候、〉中宮へ湯治仕り、罷在り候処に、其時分まで、御国に鹿之なく候、金沢の人、鹿を見申す者は、少き程に候、微妙院様、中宮辺に鹿御放させ遊され、子を生み、段々鹿多くなり申す、或時才之助、中宮の辺に、替りたる獣、角を振立てゝ出で申し候に付、怪しく存じ、鉄炮にて打留め申し候て、所の者呼び、見せ候へば、オープンアクセス NDLJP:102所の者肝を潰し、是は微妙院様御放させ遊され候鹿にて御座候、御聞き遊され候はゞ、只事にあるまじく候、早々御算用場へ、註進仕り候旨申し候故、才之助肝を消し、終に鹿を見候事之なき故、此の如く候へども、兎角其分には仕置き難き事に候、早速罷帰り、織部へ相達し、其以後如何様とも、首尾次第と、覚悟極め、早々金沢へ罷帰り、之ある様子、織部へ申入れ候へば、織部も肝を消し、是は大方ならぬ事に候間、早速小松へ罷越し、言上仕るべき旨にて、取敢ず金沢を罷立ち申し候、夜更け候ての事故、寺井まで罷越し、一宿致し候、織部、常々伊勢を信仰仕られ候、然る処、寺井に罷在り候内、暫くまどろみ申され侯夢に、白張装束仕り候神主一人罷越し、才之助事申出し、気遣ひ仕るまじく候、首尾好く済み申すべく候、其礼には、蚫十を上げ申すべき旨、ありと夢に見え申し候、其儘起き、夫より罷越し、小松へ参り候処に、御用も御聞き遊され候時節故、右の段々年寄中へ申入れ、御聴に達す、兎角不調法至極なる儀、鹿を見知り申さゞる儀ながら、粗忽なる儀に候間、いか様とも申付くべき旨、申上げられ候所に、旨趣御聞き遊され、其身存せざるの儀にて、打ち申す事に候へば、是非なき事に候間、其分にて差置くへき旨、早速結構に仰出され候、織部、殊の外有難がり、年寄中も、斯様にあるべしとは存ぜず候処、結構なる仰出されに候間、当座の御礼に、何ぞ差上げ然るべく候、早速上げ候様にと、申さるゝに付、差当り仕るべき様之なき故、御台所奉行上木金左衛門へ申遣し候処、御台所に只今有合せ候御肴、借用仕りたき旨、御台所へ申遣し候所、心得申す旨にて、蚫十を台に積み出し申し候、不意に蚫有合せ候儀、寺井にて見申し候夢想に、少しも違ひ申さず、あらたなる儀と、人々存じ、織部弥〻伊勢信仰仕り候、才之助も有難がり申し候、慥かなることに候旨、藤田氏咄に候、

家中金沢在住者と小松在住者の争一、日夏市郎右衛門と申す者、御大小姓御番頭にて罷在り、身上四百五十石か五百石の由、微妙院様御代より、相公様御幼少の御時迄は、右役儀相勤め罷在り申し候、陽広院様御逝去以後、金沢者奢り候て、御隠居様者を軽しめ申す旨、毎度微妙院様御意遊され、御立腹遊され候、然る所、其頃は金沢中、今の如く、大小姓町廻に出で申し候、是は相公様御幼少、微妙院様は小松に入らせられ候故、町中締の為め、廻り申す由に候、金沢に検地の御用之あり、小松より与力小塚惣右衛門とオープンアクセス NDLJP:103申す者、罷越之ある処、或夜宵の内、松原町不開門の辺を通り候時分、町廻衆に出合ひ候へば、如何の首尾に候や惣右衛門小者、町廻衆を見、逃げ申し候、仕方宜しからず候故、扨は子細之ある者と、町廻衆見尤め追詰め、足軽共叩かせ申し候、後承り候へば、何の子細もなく、惣右衛門小者と申す儀、相知れ申し候、此旨、微妙院様聞召され、小松者を軽しめ申す旨にて、殊の外御立腹遊さる、其時分町廻御小姓、残らず切腹仰付けらるべき旨に候処、色々御詫言の上、何れも御知行召放され候、総名代に日夏市郎右衛門切腹仕るべき旨にて、名代に切腹仕り候、小塚惣右衛門は閉門仰付けられ候、藤田氏咄、

一、微妙院様、小松に御座なされ候時分、御進物に鯉二つ到来申し候、御覧に入れ、何の仰出されも御座なき故、御台所へ遣し置き申し候、其夜、前田対馬守御夜詰に罷出で、御用相勤め罷在り申し候処、御台所奉行、右鯉之ある事を、対馬へ申聞け候へば、先程御覧に入れ、何の仰出されも之なし、急ぎ御吸物に申付け、何れも有合の者へ給べさせ、然るべき旨申付けらる、則ち御吸物に認め、対馬も給べ、其外の者共も給べ申し候、然る処に、暫く間之あり、先刻参り候鯉、御用に候間、上ぐべきの旨、仰出され候に付いて、対馬差図にて、御吸物に仕り、皆々給べ候段、御聴に達し候へば、沙汰の限り、人の物を断なしに取り申し候品々対馬にまどはせ申すべき旨、則ち鯉二つ償ひ申す旨、対馬物語に候、此対馬は、後駿河守と申し候、

水野勘兵衛の殉死一、微妙院様御代、水野勘兵衛と申す者、千石にて相勤め罷在り候、陽広院様へも、御懇に召仕はれ候、然る所に、陽広院様御逝去の時分、殉死仕るべき者の様に、沙汰之あり候を、勘兵衛承り、尤も御懇に遊され下され候へども、さして殉死仕るべき程の私に御座なく候、此方よりは、殉死仕るべき面々、未だ之ありと、相見え候へども、夫さへ何の沙汰もなく候、何れの家へ罷越し候ても、千石取り兼ね申す私に之なく候へば、さして御知行過分とも存ぜられざる旨申し、罷在り候、総べて不首尾と申す程にては之なく候へども、其以後御暇申上げ、御家を出で申し候、其節申し候は、若し他国へ罷越し、千石取り申さず候はゞ、其節は何時によらず罷帰り、切腹致すべき』日申し、罷越し候、他国へ参り、かせぎ候へども、千石に抱へ申す仁之なく候、程経て金沢へ立帰り、何方へ罷越し候ても、千石に抱へ申オープンアクセス NDLJP:104す方之なく候、最前申して罷出で候口も之ある事に候間、検使を下さるべく候、切腹仕るべき旨、年寄中まで断り申し候へども、今更頓著に及び申す事に之なき旨にて、検使も出し申さゞるに付、宝円寺に於て、密に切腹致し、相果て候由、藤田氏咄にて候、

一、微妙院様御代、落合勘解由と申す者、千石にて陽広院様へ御奉行申上げ、御懇に召仕はれ候、奥向相勤め罷在り申し候、陽広院様御逝去の時分、殉死仕るべき者に候処、其身天性不実者にて、殉死の気色、聊か之なき故、何れも恥しめ候て、腹仕らせ申し候、夫故殉死の内にはなり申さゞる旨、藤田氏咄にて候、

具足の製作一、或時、微妙院様御意遊され候は、与力共具足持ち申すまじく候、仰付けられ下さるべく候間、人々乳縄取らせ申すべき旨仰出さる、是は有難き儀と、何れも与力共、乳縄を取り、差上げ申し候、則ち具足仰付けられ、段々出来申し候に付、兼ねて仰付けられ候、与力共の具足出来、下さるべくやと、奉行より相伺ひ申し候へば、殊の外御機嫌損じ、いつ左様の事仰出され候や、やくたいもなき事仕り候、麁末なる儀に候間、何方へなりとも、遺し置き候へと、御意に付、皆々御蔵へ入れ置き申し候、是は兼ねて与力具足仰付けられたき思召に候へども、俄に仰付けられ候ては、目立ち申すに付、右の通り仰出され、時々出来仕り候様子に候旨、前田氏咄に候、

利常の出仕一、微妙院様、御勤に御出て遊さるべしと、思召し候時分は、御ぐしを上げられ候て、御右左の御鬢を、御手にて御いだき遊され、態と悪しく遊され、御出で遊され候、度々見請け奉り候由、福島氏咄にて候、

一、微妙院様、常に御烟草召上られ候、御火入は、大きなる蓋之ある釣付の御火入にて、御烟管一本、御烟草盆は御座なく候、何ぞ御意に応ぜざる事御座候て、仰出さるゝ時分は、御烟管にて御火入を御叩き、態と御機嫌悪しき様に、外様へ相聞え候様に遊され候、毎度の事に候旨、福島氏咄に候、且又、強く御立腹遊され候時分は、御鬢の髪立ち申す旨、同人物語にて候、

一、或時、定家卿筆にて、歌の読方の書記し候文の懸物、京極安智求められ、殊の外珍しき物にて、微妙院様へ御目に懸けられ候、勝れたる物に候故、御覧置きなされ候様に、陽広院様へ仰進ぜられ、御写し遊さるまじき旨、仰進ぜられ候処、陽オープンアクセス NDLJP:105広院様御覧遊され、珍しき物に候間、何卒御写し置き遊されたく思召され、脇田九兵衛抔へ御相談にて、則ち御自身御写し遊され候処、御写し仕舞ひ遊され候時分、ふと御筆御取落し、墨附き申し候、殊の外御迷惑がり、如何遊さるべくやと、御意に付、九兵衛申上げ候は、私持参仕り、如何様にも宜しき様に申上ぐべき旨、申すに付、さ候はゞ、如何様にも宜しき様に仕り候へと、御意に付、則ち持参仕り、右の御様子、微妙院様に申上げ候へば、左様の事御座あるべしと御思召され、御写し遊されず候様に、仰進ぜられ候、安智へは然るべき様に仰進ぜらるべく候間、此段申上げ候様に、御意に付、罷帰り其趣申上げ、御安堵遊され候、安智へ、微妙院様より御使者を以て、右の旨趣仰遣され、余り珍しき物故、筑前守写し申し候処、墨を附け、麁末なる儀に御座候、為し申さざる様に、仰越され候へども、右の趣の旨、御断仰遣され、墨の附きたるまゝにて遣され候、安智、御口上の趣御聞き候て、御使者に御会ひ、御念を入れられ候趣、御答御座候て、扨是は御使者への物語に候、斯様に墨附き候ても、落し申す儀、いとやすき事に候間、御落させ、何事なく御返しなさるべき所、御貞信なる御事、感心奉る旨御申し、見事なる御様子に御座候、其以後、墨を御落させ候て、又遣され、御目に懸けられ候旨に候、九兵衛物語に御座候旨、

一、微妙院様御代、坂井与右衛門、〈後瀏閑といふ、〉喧嘩場にて、首尾一段宜しく候旨、其時分の様子、則ち与右衛門孫坂井八右衛門方に、与右衛門時分よりの覚書之あり候、夫を所望仕り、其儘に写し置き申し候、則ち覚書の通り、左の趣に候、

寛永十九壬午五月、江戸へ相詰め、三十九月九日、当番有沢太郎左衛門、自分取次役、其日の御礼衆書付上げ申すに付、御歩行沢田三郎右衛門・帳付三人、御番所御屏風の外に之あり、同じ御番所御屏風の〔内カ〕に、水原清左衛門、〈知閑なり、〉并に御中小姓津田与三郎・井上六左衛門一座に之あり、然る所に、井上清兵衛通り懸り、大脇差にて、太郎左衛門背中を二刀切る、三刀目、拙者見付け、清兵衛を突立て、廊下口数子戸まひらどへ押へ付けて、太郎左衛門追懸け、清兵衛を切付くる、又太郎左衛門を突立つる所に、清兵衛面に血流れ、目暗み、拙者背中腰を切るにより、復清兵衛押へ付くる、夫より御式台口へ突立て、脇差を押へ候処に、手の内より、あか走り候に付、拙者中脇差を抜き、両人叩き合ひ候を、叩き払ひ候節、オープンアクセス NDLJP:106両人疵付き候、其節、山森吉兵衛、御番所にて聞付け駈出で、清兵衛を押へ留め申し候、則ち津田忠兵衛も聞付け、玄関口より駈入り、太郎左衛門を押へ留め申し候、其時、太郎左衛門倒れ申し候、清兵衛は吉兵衛留め候て、御番所へ連れ、這入り申し候、拙者をば渡部清左衛門同道仕り、御番所へ這入り申し候、太郎左衛門は、御式台にて其儘果て申し候、伴八矢・水野勘兵衛・北川久兵衛、御番所にて相尋ね、清兵衛意趣、申分不分明、前後の次第、右の衆へ拙者語り申し候、其時、沢田三郎右衛門罷在り候、取合はざる儀、勘兵衛に拙者語り申し候、勘兵衛坂井幽閑喧嘩を取鎮む強く三郎右衛門を叱り申し候処に、言句上申さず候、清兵衛切腹、吉見半右衛門介錯仕り候、其以後、意趣の儀、光高様より御尋ねなされ候へども、知れ申さず候、拙者手負ひ、御番引き罷在り、北川久兵衛を使に仰付けられ、疵痛みの様子御尋ね、有難き仕合に存じ奉り候、其後御暇申上げ、上野の伊香保湯治、替る儀之なく、痛平癒、出番仕り、御夜詰に御前へ召出され候、疵御尋ね、則ち御前近く召出され候て御覧、今一度湯治仕り、養生致し候へと、有難き御意の上、金子二枚、御手自ら下され、頂戴致し、有難さ仕合にて、追付伊香保へ湯治、二廻罷在り、替る儀なく帰府、

一、寛永二十年未四月、利常様御参観、御上屋敷より、或夜、御使罷越し候処、杉本次郎左衛門御使にて仰出され、御自筆にて、兼巻の御腰物・金子二枚、御書出拝領仕り候、此儀、存寄御座なき段、次郎左衛門まで相伺ひ候処、存寄らざる旨、其身申し候は、去年御番衆所に於て、御小姓共、申分仕り候刻、裁許宜しく仕り候段、聞召し上げられ候に付いて、思召し付けられ候由、申聞ゆべき旨、御意の由、次郎左衛門申し候間、其節の儀、御聴に相達し候程の儀に御座なき処、有難き仕合に存じ奉る旨、御請申上げ候、其夜、御上屋敷へ罷帰り、委細申上げ候処、御前へ召出され、御機嫌能く、今夜の内、御礼に罷越すべく候、小泉小左衛門を御添へなされ、御礼に遣さるゝ由、辱き御意にて罷越し候処、御夜詰済み候て、杉本旅宿へ、小左衛門同道、罷越し申置き、其後、有難き御噂仰出さるゝ旨、承り置く、

一、同年六月、光高様御帰国、御供勤め罷帰り、金沢に於て、屋敷渡奉行相勤め、同十月、重ねて江戸へ御下向、拙者御供に召連れらるべき旨仰出され、辱き御オープンアクセス NDLJP:107意にて、御請申上げ、相勤むる、

一、正保元年甲申、御在江戸、落合勘解由取次ぎ、旧冬、重ねて御供相勤め、御満足に思召され候由、辱き御意の上、銀子二十枚拝領致し候、同暮、新戸御鷹野・熱海へ御供勤め、御帰府なされ、極月十五日、御加増二百石拝領致し候て、名を与右衛門になされ、御一行をも御書替へ、頂戴仕る、

一、正保二乙酉四月五日、光高様御逝去、同七月、江戸替、中仙道蹄る、

一、正保四丁亥、京都に相詰め候、稲垣三郎右衛門代として、俄に、十月、上京仕るべき旨、御年寄衆仰渡され罷登り、拙者三十七歳、三箇年相詰め、慶安己丑十月、御国へ帰る、則ち御算用を遂げ候処、津田玄蕃殿仰渡され候は、当春、中納言様江戸へ御立の刻、与右衛門、京都より帰り候はゞ、足軽十五人御預けなされ候間、中渡すべき旨、仰出され候の間、御請け申上ぐべきの旨仰渡され、御請之を申上ぐ、

 右古人之覚書之通無相違之畢、
 享保三年九月中旬、武陽於ニ鴨鴨寓居之、
 右享保十四己酉七月、前田之家臣所持之、朋友林氏借之、
 于時八月中五烏、春秋三十三歳而記之者也、    丹羽正審

草履取三太郎の立身一、長故九郎左衛門代、家老長新之丞といふ者の草履取、三太郎といふ者あり、能州田鶴ケ浜百姓の子にて、新之丞へ始めて奉公に出づる、或夜、小者傍輩打寄り、茶飲咄に、人々の望を云ふに、或は銀を持つ町人になりたしといひ、或は大百姓になりたしと、取々咄の内、三太郎云く、我望は何卒馬に乗り、鑓を持たせたしといふ、傍輩共謂れざる大望かなと打笑ひぬ、或時、主人に暇も取らず、伊勢へ抜参せしに、越前福井にても、道具屋へ立寄りいひけるは、我脇差を遣すべき旨、何にても苦しからず、大小に替へて呉れ候へとて、銀子差添へ渡しければ、則ち大小二腰にして与へぬ、それを差して参宮し、直に京へ出て、町屋を借りて、長監物と名乗り居住す、其屋主研屋なりしが、三太郎身代かせぐ体もなく居るを見て、何卒身上をもかせがれ候へと雖も、少し存寄之ありとて、毎日喰潰し居る、或日、亭主を呼び、其方は研屋の事なれば、我等大小を見て給はれと、刀を見せければ、少し抜き押戴き、扨々結構なる御刀、正宗に紛なしと云ふ、脇差を見せければ、是も甚オープンアクセス NDLJP:108だ肝を潰し、来国俊なりと見えたりとて、亭主言ひけるは、二腰共、御身分御差料には、過分の物なり、大名方御差料にしても、不足なき物なり、御売払ひなされ、御牢人のたづきにもなされよかしと云ふ、三太郎聞きて、成程同心なり、何分にも宜しく頼入るなり、替りの大小、求め呉れとて、替りの大小を買取り、右の大小を亭主に相渡しける、半年計り之あり、亭主、銀子十三貫目持出で、三太郎に渡し、御大小の代銀なり、本阿弥に極めさせ候はゞ、宜しく払ひ申すべく候へども、江戸へ遣し申す事故、延引になり候故、此地にて払ひ申し候、不足に思召さるべく候へども、御勘忍候へといふ、三太郎聞きて、扨々過分の至なり、骨折に、上の三貫目は、其方へ遣すべしといふ、亭主再三辞すれども、無理に与へぬ、其後、亭主に頼みけるは、是より江戸へ罷越し、身代挊ぎ申すべく候間、若党二人・鑓持・草履取・挟箱持、召抱へ呉れ候へ、又金の屏風一双、箱にして呉れ給へと頼みけるに、亭主心得申し候、さりながら、金屏風は御無用になされ候へ江戸表にて御求め然るべしといひけれども、少し存寄之ある間、達てといひて調ひ、乗懸に打乗り旅立ち、泊々にては、右の金屏風を取出し走らかしけり、江戸へ著き、町屋を借り、牢人暮にして、右の屏風を平生立て流し、長監物と大文字に名札を張り住す、月も重れども、身代挊ぐ様子もなき故、亭主様子を尋ぬれば、少し存寄之あり、様子望の通りには、今の世捗取も致さゞる筈、運は天に之ありと云ひて取合はず、然る所、運の然らしむる所か、藤堂大学頭殿、如何なる事にや、長氏の者召抱へたしとて、方方聞き申さる、右監物借宅の亭主、幸ひ藤堂殿出入仕り候故、此儀を申上ぐる、幸の事なり、二百石計りに召置きたしとの事にて、其段、右監物に言入れければ、えせ笑ひて、取持過分なりとまで言ひて、取合はず、亭主おづ聞き切り替へるに斯様に零落は致せども、二百石や三百石には、如何にしても、奉公には出でられずといふ、此旨、大学殿へ申上げければ、さあらば五百石に抱ふべしとの事故、又此上、監物に申聞えけれども、最前の如く言ひて居る、大学殿、猶更床しく思召され、召抱へたく之あるにや、千石に抱へ申すべしと申遣さる、其時、監物言ひけるは、度々の取持、過分至極なり、未だ不足に存ずれども、其方に対し、奉公に出で申すべしと、領掌して、終に藤堂殿御家人となりける、右の首尾調ふと、即刻早飛脚を立て、長九郎左衛門へ、右の趣一々書記し、御爪の端と申立て、身上相済み申しオープンアクセス NDLJP:109候、其元へも尋に遺し申され候へと、申達し候へば、定めて尋に参るべく候、御返事一つにて、身の浮沈に候間、何分にも願ひ奉り候趣なり、九郎左衛門、前田対州へ相談之あり候へども、下にて済み難き事なりと、当君紀公へ委細申上げらる、仰出さるゝには、九郎左衛門存寄次第と思召され候、但し人の身上の事に候間、其心得之あるべき事と、仰出され候故、右の飛脚には、先づ相心得候と、返事申遣しけるに、藤堂殿より尋に来りし飛脚と、石動にて逢ひ替るとなり、藤堂殿尋に来りし飛脚の返事には、九郎左衛門まり、成程少々枢機之あり、同名紛なき者に候と、申送らるゝ故、弥〻監物首尾能く調ひぬ、夫程の性質なれば、才覚宜しく、大学廃気にみけ、其頃大学厳、大名一番の摺切すりきりなりしに、簡略の相談、家老共詮議の上、監物儀、才覚之ある者に候間、簡略奉行仰付けられ、然るべしと、言上に付、其役申付けられしに、家中は申すに及ばず、百姓・町人等に至るまで、難儀に及び申さざる様に、大学殿にも御不自由に之なき様子工夫して、五年の内、御借銀相済みけり、之に依つて弥〻気に入り、取立てられける、其後、往古、小者奉公せし様子、元来長氏に之なき委細、有体に、大学殿へ申上げけるに、正直なる者とて、弥〻気に入り、名字賜ふなり、八千石になり、家老役を勤め、其子も家老役を勤め、今以て奉仕す、右の所謂にて、御家へ御出入を仕り、近き頃まで、献上物〈津戻子十巻〉仕り、又下され候物之あるに、近き頃より、御簡略に付、方々御音物贈答相止みけるより、献上物は仕らずとぞ、

一、享保六年八月廿三日、御城坊主利倉善佐、当御屋形へ来り語り候由、去る十五夜、小姓組仙石因幡守殿組、御番所の次の間中程へ、四つ時頃、天井より石落ち申し候由、右の石大さ、茶白の上石程之ある由御座候、天井の板など、損じ申さず候由に候、

将軍家光前田氏邸を訪ふ一、大猷君、当御家へ御成の日、本多故安房守、大夢皮袴に戻子肩衣にて、御式台白洲へ出で、中腰になり、御駕に向ひ、今日御機嫌能き様に願上げ候、御機嫌悪しければ、父子の者、機嫌悪しく候間、是々に御座候と、手を合せ申さる、大猷君、成程成程心得たと、御意なりしとぞ、

富士山を越すは鷺のみ一、富士の絶頂を越ゆる鳥なし、鷺のみ越すなり、鷺は諸鳥に勝れて鈍なる故なりと、清水長兵衛物語りしとぞ、

オープンアクセス NDLJP:110一、百足に刺されたるに、妙薬は蕨なり、之なき時は、厳縄を附けて良し、

一、相国様は小松大臣以来の名将と、天下の者沙汰なりけれども、権現様には御及びなされざるなり、只其家の元祖には及び難きか、権現様は梅の如く、相国様は桜の如くと評せり、

金沢移転の議一、利常様、御若年の御時、金沢御城、未だ御普請の手合申さゞるに付いて、御普請御取立てなさるべしと、安房・山城へ仰出され候事あり、両臣申上げられ候、此御城も目出たき地形に候へども、能美郡御幸塚へ御移り遊さるべきかと申上げらる、利常様、暫し御思案なされ、御意には、女共煩重きにより、入らざるものと、御意なり、両臣御前を退出の後、兎角御智恵が御勝れなされたりと、賀し奉り申す由、

家康自殺の風説と井伊兵部一、権現様、伏見御在城の時分、或夜、密に御城中に沙汰仕るに、今夜、権現様御生害なりといふ時に、上にも此事を聞召され、井伊兵部を召され候へども、御城内に居られず、一時計り過ぎて、御門外より、馬を早めて参られ、御前へ出でられ候時、何方へ参りたるぞと、御尋ね遊されければ、兵部殿言上に、御屋形怪しき事を申し候間、外聞に罷出で候、殿様などの御大将が、御生害と思召され候は、京・伏見・大坂に参観の大小の武士、御屋敷廻り、其外、辻々所々に押寄せ申すべしと存じ、御屋形近所の儀は申すに及ばず、近所在々まで、少々心元なき所、見廻り申し候へども、成程静に御座候と、申上げければ、御屋形静りけり、諸人、兵部殿を誉めけるとや、

本多重次刑釜を砕く一、権現様、浜松御在城の時分、駿河へ御打入りなされ、御帰城の時、阿部川の端に人煎る釜あり、権現様上覧なされ、此釜を浜松へ持参仕り候へとて、奉行に仰付けらるゝ故、奉行は釜を持たせ、浜松へ帰る、道にて、本多作左衛門、此釜を見て、子細を聞きて、人足共に打砕かせ捨てさせ、奉行人に申付くるは、浜松へ行き、殿に申上ぐべき様は、殿は余りうつけを御尽しなさるゝな、天下をも望む志ある者が、人を釜へ入れ、煎殺すべき罪人之ある様に、仕置する物にて御座候やと、申し候て、釜を打砕かせたると、具に申上げよ、若し残り候はゞ、後悪かるべしと、申付け候故、浜松へ帰り、具に申上げければ、権現様、御顔に紅葉を御散らしなされ、作左衛門を召され、仰聞けらるゝは、汝が申す所、一々尤なり、免し候オープンアクセス NDLJP:111へと、御断り仰せられ候へば、作左衛門も涙を流し、御前を罷立ちけり、

将軍家綱望遠鏡を手にせず一、家綱様御十一歳にて、将軍宣下の後、三階の御櫓へ御成の時に、御守衆、遠目鏡持参し給ひて、諸方見て後、少し御慰に御上覧遊さるゝ様にと、言上ありければ、御揚げ遊されず候故、一一三度申上げ候時、上意に、何と存じ、左様には申上げ候、家光様御他界に付、将軍宣下蒙りたるが、汝知らずや、一度遠目鏡見ば、毎日将軍は櫓へ上り、遠目鏡にて江戸中見ると言ふ時は、諸人の苦み、如何計り多かるべき、家光様御在世の時は、如何様とも、身苦しかるまじきが、今身持左様に軽く致す時、諸人の難儀なる事知らざるか、一度取上げずば、子細あるべしと思ひて、嗜むべき由、仰出されけるなり、

福島正則遠流に処せられ広島城を明渡す一、福島正則遠流広島城引渡の覚

天和五己未暦、安芸・備後両国、四十九万八千石拝領主、従四位下侍従福島左衛門大夫正則事、元和四己未年六月廿三日、領主召放され、出羽庄内へ流罪、最上源五郎義俊に御預に付、芸州広島の城請取覚

一上使家中侍共へ上意申聞        本多美作守

一城請取総奉行御奏者番         永井右近大夫直勝

一同副役御詰衆             安藤対馬守 重信

一同副役御詰衆             松平甲斐守 忠良

一御目付                日下部五郎八

一御目付                加藤伊織

一広島城番      作州津山十八万石 森美作守

一福島家人異議に及ぶ時、蹈禿し候様に、御下知に依りて芸州へ詰寄る、

                    堀尾山城守 忠晴

一石州津和野より            亀井豊前守 政矩

 同浜田より              古田大膳亮 重治

 同長門より              松平長門守 秀就

右長門守若年故、毛利甲斐守秀之陣代出づる、備前より、是は中まで出張、右の面々、猶更日を重ね、人数不足の時は、永井右近大夫・安藤対馬守差図次第、早速馳向ひ、攻禿し候様に御下知の事、

オープンアクセス NDLJP:112 豊前小倉より             細川越中守 忠興

 因幡より(伯耆よりともいふ)     松平新太郎 光政

 伊予より               加藤左馬助 吉則

 讚岐より               生駒讚岐守 正俊

 阿波より               松平波阿守 忠英

  右詰寄の大小名、在府の輩は帰国す、

 豊後竹田より             竹中采女

是は正則と由緒之ある家中、別して通達をなす故、此度芸州案内に、永井安藤に御副ひ下向す、之に依つて、竹中方より福島家老方へ、上使に先達て、広島へ使者を遣し申して曰く、

今度正則、両国召上げられ御預け、之に依つて正則仰渡され、次に御請は、家中の者へ申聞け候様に、上使本多美作守殿下向、城は永井右近大夫殿・安藤対馬守殿抔下し、我等は右の案内同道なり、正則へ上意、次に御請別紙書付、内見に入るゝの間、何れも其旨覚悟尤なり、委細書付、今度江戸に於て、正則宅八上使と正則の罪状して、近藤石見守并に御目付豊島主膳を以て仰付けらる、上意の趣は、福島左衛門大夫事、已前大権現に対し奉り、忠節を顕す、之に依つて大禄を賜ひ、人に勝れて御憐愍を加へらるゝ所に、功に誇りて我意に任せ、伊奈図書に切腹致さす、是れ一つ、父子共に秀頼に志を通ずるの由、今度露顕す、其虚実を知らず、是れ二つ、次に父子隠謀を企て、家人随はざれば、酔狂に事寄せ、手討にす、是れ三つ、小過を以て大科と号し、誅戮せしむ、偏に狂乱と謂ふべし、是れ四つ、備後守、大坂の役に至ると雖も、一度も其志を顕さず、不審なきに[〈あらずノ三字脱カ〉]、是れ五つ、今世人叛謀の企ある由謳歌す、是れ六つ、次に備後守、京都に於て、弓箭・兵具、数を尽して之を調ふの由、最兼備の武具なり、其節に就いて悪しき不審なり、是七つを以て、安芸・備後を召放るべし、但し父子に於ては、死罪を宥め、遠流せらるべし、若し七箇条申分あらば、聞召届けられ、免許すべき旨申渡正則の答弁さる、正則、御請申上げらるゝは、仰を蒙る七箇条、縦令申分ありと雖も、身に於て、実に陳謝に及ぶべけんや、両国没収の事、是又畏り奉る所なり、正則少忠を感ぜられ、大禄を賜はる、是れ偏に大権現の厚恩たり、当将軍の御恩にあらオープンアクセス NDLJP:113ず、予が忠も、又権現の為めにする所なり、当将軍に忠なし、奚ぞ大禄を豪らむや、召上げらるゝ事、当理と謂ふべし、正則に於ては、敢て憂へず、則ち返上ぐる所なり、此旨、言上を願ひ奉る由、御請申上げらる、其後、両人の上使に申さるるは、是は御請にあらず、御両人に対する物語なり、正則、隠謀を企つるの由、誠に可笑の事か、若し逆心を企つるならば、関ケ原一戦の砌、正則変心、大権現を討つべき事易かるべし、然れども日頃の御入魂を報ずべき為め、忠を励して石田を討ち、大禄を賜ふに依つて、何の不足あつて、叛逆を企てむや、其上正則、一己の力を以て、豈天下に敵すべくや、推量あるべし、次に正則を誅せむ為め、大小名等に仰せ、辻々を堅め、家宅を囲み、且つ大鉄炮を仕懸く、是何事ぞや、勇士一人を遣され、正則が首を刎ねらるゝに、何事か候はむや、正則、戦はむと欲せば、当時の大名、何人ありといふとも、可笑の事を恐れむやと申され、上使を送る、両人登城、右の趣言上なり、是に於て、出羽庄内へ流罪にて、最上源五郎義俊に預けられ、四万石賜ふべしと、仰出さるゝと雖も、流人の身、其用なしと返上家老福島治重将士を籠城せしむ故、配所に於て、一万石賜ふなり、家老共之を内見す、中にも福島丹波、少しも驚かず、竹中采女に、是より御返答仕るべしと、使を返し、扨丹波は家中侍共へ、正則、江戸に於て、御改易之あり、依つて安芸・備後請取の為め、数輩下向之ありといふ、正則父子の生死不分明により、何れも籠城して、主人の生死を糺すべし、面々妻子引具して、今日中の下刻までに籠城あるべし、右の刻限延引せば、狭間潜りの帳記すべしと相触る、諸士七つ時前に、悉く城に籠る、其内馬廻りの侍二人、遠方へ出で、此触を知らず、下人走り行き、之を告ぐ、両人驚き馳帰る、刻限過ぐる故、門を閉ぢ、入れざるに付、一人は力なくして帰る、今一人は種々詫ぶると雖も用ひず、時に高声に呼びていふ様は、我遠方へ行き、心ならず延引す、然るを理不尽に門に入れず、狭間潜りの数に入れむと欲す、豈士勇士は、名を捨てゝ、生きらるべけむやといひて、則ち自害す、番人驚き走り出て、抑留すと雖も、忽ち死す、丹波甚だ之を惜む、件の者は、正則家にて一二の剛の勇士、林亀之助弟亀之丞といひし者なり、扨丹波は、福山城代大崎玄蕃へも牒し合せ、何れも籠城相調ひ、其以後、丹波方より竹中采女殿へ使者として、吉村又右衛門・大橋茂右衛門を差遣す、外に添使者として、福島式部を遣す、是れ両使、上使に対し、おオープンアクセス NDLJP:114ぢ恐れ、丹波が口上申残すや否やと差添ふなり、三人備後の尾の道にて、上使へ出会ひ、竹中へ使の趣を達す、采女、永井右近大夫・安藤対馬守の止宿に相具治重上使に正則の墨附を求むす、吉村・大橋両将の前に出で、口上を述べて曰く、一昨夜竹中采女殿より内意に依つて、仰を蒙り、上意の趣畏り奉り候、主人左衛門大夫、御勘気を蒙り、遠流せられ候間、安芸・備後を召上げらるべきの旨、是又異議に及ぶべからず、併し正則父子生死の儀、承知仕らず候、凡そ両国は、去る慶長五年に、関ケ原軍功に依りて、大権現より広島・福山・三原の城、安芸・備後両国召預けられ候時、正則郎従を招ぎ、汝等が軍忠に依りて、両国を預けらる、今又広島・福山の両城は、丹波玄蕃に預け置くの間、自然の時は、面々城を枕にして討死すべし、譬ひ上意と雖も、正則下知なく、城渡すべからずと申付くる、定めて正則より両城相渡すべき旨、下知の墨附、之を差越し、披見仕り、其上にて城を相渡すべき由申し候、さなくば城を枕に仕るとも、渡す事叶ふべからず候、此旨、采女殿まで申す様、丹波返答と少しも憚らず、丹波が口上に過ぐるまで、風情して之を申す、永井・安藤聞届け、尤の儀なり、墨附は各不念にて取来らず、則ち江戸へ申遣し、墨附取り見るべしと、返答せられたり、其時、両使又曰く、丹波何某等に申含め候は、若し墨附御持参なく、取りに遣さるとの御事ならば、其御使往来の間は、正則が領分引除かれ、他国に御陣居ゑられ下さるべく候、其儀相叶はれずとの事ならば、是非なく此方より推参仕り、一戦を遂げ申すべき旨、申含め候と申す、上使并に御目付評議あり、丹波が申す所、尤至極せり、墨附の儀、早速江戸へ申遣すべし、其内傾分引除くる事、云甲斐なしと雖も、引除かざれば、一戦を遂ぐべき旨、今天下静謐の処、乱をせば不忠なり、尤も正則領分に在住し、右の使ならば、全く引取るべからずと雖、其身配流にして、家士は牢々の者共なり、彼が忠を空しくせんは、若輩の仕方なり、心ある者、何ぞ臆したりとか言はんやと、衆議一決して、各返答に、墨附の事、取寄せ渡すべきなり、次に領分を引除くる事、是は其意を得と、使を返され、則ち三里備中の内に引除かれたり、丹波・玄蕃は、其間に堅固に籠城して、静り返つて居たりけり、日を経て、正則墨附到来して、竹中采女より城々へ送る、丹波以下之を見、正則の自筆自判疑なし、尤も城を相渡すべしの旨趣なり、丹波重ねて、福島式部・林亀之助を上使衆へ遣し、正則オープンアクセス NDLJP:115墨附到来の上は、異議に及ばず候、開城に決す併正則妻・家中の侍共妻子、歩行跣にて立退く事、其恥を思はず候、願はくば、近国に仰せ、廻船四五百艘、御恩志に預り、妻子・財宝見苦しきを乗せ、舟にて摂州へ送り遺し度候、其後、城中掃除以下申付け、城明渡し申すべく候、其事叶はざれば、力なく妻子を害し、速に自害仕り、城を焼き、死骸を隠し、死後の恥を見させざる様に仕るべしと申上ぐる、上使衆聞召され、答に曰く、舟の事、其意を得候、則ち申付くべし、城中仕廻の事、心静に仕るべき旨、返答之あり、使を帰さる、四五日経て、廻船五百艘、追々に集る、此間に丹波は、家中の輩姓名を記し、武功を書入る、此度、籠城の様子能き者、城に入らずして申分能き者、或は林亀之丞切腹の次第、或は立退きし者、又は高名度々之ある、銘々大広間の四方に之を張る、扨又弓・鉄炮・鑓・長刀・矢・玉薬・大筒・右火矢、其外武具・諸道具、間毎に見安き様に、城中を仕廻ひ、扨正則の妻子・家中の妻子・財宝・家財、見苦しき物共、五百艘の舟に取積み、家中屋敷毎に、家附諸道具、目録に記し、番人を置き、引渡し候様に下知して、其後、城を渡すべき旨案内して、侍大将・物頭・使番の者、上下を著して、上使に向ひ、一番本多美作守并に御目付、城に入り、上意の趣を達し、永井・安藤等、次第を守り城に入る、其後、旗奉行・鑓奉行、其役々を守り、足軽大将は足軽を引付け、鉄炮を持たせ、玉を込め、火縄を懸けて、次第を追つて、城門より左に付き、追手南の門へ出づる、旗奉行以下、家中侍以下袴羽織を著す、上使御役人は、上下を御著、家人は悉く甲冑を帯す、是も火縄に火を附け、鉄炮に懸け、城の方右に付く、入替る侍共、互に色代して出づる、丹波以下は使番迄、上下を著用の輩は、城に残り引渡す、段々上使衆御心入に預り、悉く願の通り御免、有難き旨、御礼申上ぐる、其作法尤も厳重なり、其後、何れも城を退出す、万事在町以下、一々尤の支配なりと言ふ、永井・安藤より花房助兵衛に渡し、城番森美作守へ、花房又引渡す、上使御請取り、各城を出てられしとぞ言ふ、今度、福島丹波が所為、天下の人褒美すれば、福島家の牢人、数多ありと雖も、一人も余さず、在付くなり、主人の勇武、丹波が仕方、張紙を証拠の故なり、皆信を以て本知せり、殊更升波事は、諸大名より招がるゝと雖も、吾は正則恩顧の者なり、二君に仕ふべからずとて、剃髪入道して一生終る、人之を惜む、誠に至勇武鑑に、義士と謂ふべき者オープンアクセス NDLJP:116歟、智才共に兼備調ひたる臣下なるべし、正則が跡安芸・備後は、同年七月十五日、古浅野但馬守長晟、紀州和歌山三十七万四千石より転じ、安芸・備後の内、四十二万六千石余を賜ふ、備後福山十万石にして、水野日向守勝成に賜ひしなり、但馬守は、泉州樫井の軍功を報ずと言ふ、

正則の将士     正則の士籠城の頭分千石以上

小方正則甥 一万石 福島伯耆      一    五千石 福島主膳

家老原  三万石 福島丹波

    但し広島城代なり、三原の城は城番持なり、

東城 一万石   長尾隼人      一    二万石 尾関石見

福山城代 八千石  大崎玄蕃     一鞆城番同並    八千石 津田因幡

一同   二万石 木造大膳      一人持分  七千石 揖田出雲

一同   六千石 牧野数馬      一同  五千五百石 村上彦右衛門

一同   五千石 林亀之助      一同  五千石   山本長右衛門

ー同   四千石 梶田右近      一同  四千石   本条勘解由

一同   四千石 荒川与三右衛門   一同  五千石   仙石新八郎

一人持分 五千石 福島筑後〈此筑後は式部といひ、丹波嫡子なり〉   一同 三千石 山口若狭

一同   三千石 柴田源左衛門    一同  同     鎌田主殿

一同   同   武藤修理      一同  二千石   星野加賀

一同   二千石 水野治左衛門    一同  同    間鍋五郎右衛門

一同   同   山本織部      一同  同     海老名伊賀

一同   同   上月万右衛門    一同  同    加藤五郎右衛門

一同   同   吉村又右衛門    一同  同     大橋茂右衛門

一同  千五百石 伊藤図書      一同  同     福田字右衛門

一同   千石  山堀右近      一同  同     星野又四郎

    右役儀持なり、

一同   三万石 福島備前守殿部屋住領

 
微妙公御夜話
 

 

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