御扶けの御恩の事 (新漢字)

御扶けの御恩の事


あんぢよの智恵にもはかられず◦ましてや◦人間の分別にも及び奉らぬたすけの上をのべ奉らんとするに◦我その器に非ず◦ことばと心の道も絶果たえはてたる事なるに依て◦人に勧むる善の為に用なき事と知るにをひては◦此のうづたかことはりを愚かなる智恵を以てまうし汚し奉らんよりも◦無言してたふとみ奉らんにはしかじ。むかならびなき上手の絵かき◦或帝王の姬宮の隠れさせますを◦上より下に至るまで歎きあへる有様を一ツの画図えずあらはすに◦御母上の御歎き泣啼りうていこがます御すがたまでも◦さながらありのまゝにうつし出せり。然れども国王の御歎きの玉顔は◦筆にも及ばざりしかば◦只物の影をもて玉顔を隠し奉りたると也。然れば◦さくの御恩さへ言語におよばぬ処なるに◦たすけ給ふ御恩の上をば何と申上奉るべきや。一ツの御おんたあでをもて◦世界をさくなされしといへども◦我等をたすけ給ふおん調とゝのへをば◦三十余年御苦労をつくされ◦つひに◦玉体に針さすほどのすきまもなく御疵を受させられ◦尊きおんを流し給ひ◦御皮肉は打破られ給ふ者也。かゝる広大の御ことはりをのべ奉るべき事◦進んでは才智のつたなき事をぢ◦退しりぞひては天命のはかりなき所を恐る。然れども◦この一大事を大海の一滴ばかりのべざらんは◦御恩を知らぬ者となるべし。是に依て◦言語道断微妙不思議の一儀を◦いさゝかまうしのぶべけれども◦御誉れとはならずして◦かへつまうしけがすに近かるべし。故に◦天にをひてもろもろのあんじよ◦べやと◦御讃談の達したる道に至らせ給へと◦あふぎ奉る


そもそも人間さくの初め◦ぱらいぞ◦てれあるにをひて◦えいかずを極めさせ給ひ◦高き位に備へ置給へば◦其御主を御大切に恐れ敬ひ奉るべき事本意なるに◦却て憍慢けうまんに誇り◦でうす へ背き奉らんくはだてをなすが故に◦かの安楽世界なるてれあるを追ひ放たせられ◦此苦しみの海山に分入わけいりひとへに天魔のとがみして◦いんへるののげんうくべき身となりはつる者也。如此かくのごとく人間◦でうす のかんかうむり奉り◦進退こゝきはまり◦為方なすかたなき身と成果なりはてたる処に◦かけまくもかたじけなくも◦御主に対し奉りて犯し申せし狼藉を◦尊き御哀憐の御上より◦全くしりされぬが如く◦御憐みのまなじりをめぐらし給ひ◦御罰よりも御憐みを先にたて給ひ◦我等が為の御なかだちとして◦御子をあまくだましまし◦かんを救し給ふべしとのみことのりをなし給ふ者也。故に此御子下界へ下り給ふを以て◦勤め給ふ御事といツぱ◦まづ我等が罪業をゆるしなさるべき道として◦でうす の尊体と◦つたなき人身を一ツの境界に合せ給ふ者也。嗚呼あゝ言語道断の御業みわかな。でうす と悪人とは如何いかばかり懸隔けんかくとか思ふや。今又 でうす と人間と御一味なさるゝ事にまさりて◦猶近き事あらんや。*さんべるなるどの宣ふ如く◦御主 でうす よりほかに尊き極めの在まさゞる如く◦人の身の元となるつちよりほかに◦さがりたる物なし。然るに でうす めう不思議の御へりくだりをもて◦つちまで天降り給ひ◦土は最上の位となり◦でうす へあがり奉り◦土は でうす の御所作を致し◦でうす 又土のたゑ忍ぶ事をも試み給ふとまうし奉る程◦御一味なさるゝ者也。此御一味の強き事をいはゞ◦御ぱしよんの崩御に及びて◦御色身◦御あにまの処は離れ給ふと雖も◦でうす の尊体◦御あにまにも御色身にも離れ給ふとまうす事なし。こゝをもて思へ。我等に対し給ひて◦一度うけへ給ふ人界を◦でうす の尊体より放ち給ふとまうす事なし。


初めの人◦たちまちに でうす のかんかうむりし時◦ぱらいぞ◦てれあるのかたはらに逃げかくれ◦進退こゝきはまるべきに◦人有て でうす の尊体に人間の色身しきしんあにまを受合うけあはせ給ひ◦おん扶手たすけてきたり給はん時あるべしとつげるにをひては◦如何ほどの喜びなるべきぞや。然るに◦人を扶け給はん為に人界を受合せ給ひ◦限りなき御恩を施し給ふのみならず◦なほ言語に及ばぬ勲功くんこう◦さらさら凡慮にはかられぬ事也。こゝにをひて◦我しばらつゝしんで御主へ申あげ奉る。そもそも我等が勅勘ちよくかんゆるし給ひ◦いんへるのをのがし給ふおん深しといへども◦なほ是を調とゝのへ給ふ道ははなはだ重き御恩也。御身のなし給ふほどの御事◦皆不思議に在ますが故に◦其一ツを観ずるを以て我心の解渡とけわたり◦あにまの精根せいこん中絶うちたえて◦忙然としてあきれはつると申せども◦又別の一ツを観ずる時◦猶又微妙不思議にして◦初めの一ツはなきが如し。是即ち御誉れのきずとならず◦かへつて◦御誉れの量りなき所をあらはし給はんが為也。然ば御主御辛苦なしといふ共◦我等を扶け給ふべき道様々無量に在ますべきに◦たゞはかりなきおんあはれみと大切たいせつの処をしらしめ給はんが為に◦不思議千万の道をえらびり給ひ◦限なき御苦しみを◦受こらへ給はんとおぼしさるゝ者也。故にぜゝまにやといふ所の森の内にては◦その御観念ばかりをもて御血の汗を流し給ひ◦御身に直にうけ給ふ御ぱしよんのきはになりては◦大地も既に震動し◦岩石までも碎くる者也。かゝるめう大切たいせつは◦天上にても讃談し◦あんじよも恭敬し給へと◦つゝしんねがふ所也。如何に御主◦我等がさいわひとても御為には何事ぞ。又我等がわざわひとても御前に何事ぞ。*じよぶのいはく◦Si peccaveris, quid ei nocebis ? et si multiplicatae fuerint iniquitates tuae, quid facies contra eum ? Porro si juste egeris, quid donabis ei ? Iob. 35 汝よろづあくをなすとて◦御前に於て何のあだぞ。されば人間あんじよ◦悉く天にをひてぢきに仕へ敬ひ奉るとても◦更に御誉れのまさり給ふ御事にもあらず◦又ことごとくいんへるのにおち罵詈めり誹謗つかまつるとても◦御誉れの劣り給ふ事にもあらず。かほど百徳無量の御主◦御身に背き奉り極悪の罪人と成果なりはてたる我等を◦限り在まさぬ御大切をもて御扶けなされんために◦下界に下り給ひ◦我等がとがほろぼし給ふ御つぐなひとして◦前代未聞のお苦しみをたゑ給ひ◦末代にも有まじき御恥辱を受け給ふ者也。或時は我等が上を歎き給ひて御涙を流させられ◦或時はぜじゆんのうゑを凌ぎ給ひ又或時は道に草臥くたびれ給ひ◦又は極寒極熱の寒さ熱さを堪へ給ひ◦終日終夜我等が上を忘れ給ふ時なく◦御枕を安く傾け給ふ御ひまもましまさず◦終に我等が身代りとして◦悪人どもよりからめられ給ひ◦御弟子達より放たれ給ひ◦御弟子達の中よりられ給ひ◦又一人の弟子よりはあらがはれ給ひ◦彼権門の前にて無量の讒言ざんげんをうけさせられ◦御顔をうたれ給ひ◦つばきをはなしかけられ終に又打擲ちやうちやくせめを受給ふ者也。そうじて我等がとがの報謝として◦尊き御母びるぜんの御前にてくるすにかけられ◦崩御なり給ふ者也。嗚呼あゝかほど浅ましき貧苦に責められ給ふ中にも◦御末期に御咽かはき給ふに◦御口を潤し給ふべき一滴の水さへなくて◦水の代りに酢を物にひたしてさゝげられ給ふ者也。此時に当りて◦猶御親にてまします でうす ぱあてれも◦さしはなしまいらせらるると見へたり。さても驚くべき事かな。広大無辺の御主◦くるすの上に死し給ひ◦罪人と額をうたれ給ふ事。されば如何なる下賎の者なりとも◦兼て知たる人◦罪ありてくるすに掛られ◦さも浅ましき姿となるを見ては◦便びん至極の事哉と哀れを催す習ひ也。いはんや天地の御主◦何のとがも在まさずしてくるすに掛り給ふ御事をや。此広大なる御慈悲を観じて◦ぢゆうのあんじよもことごとくあきれ給ふ所に◦我等かゝる不思議の浪にも溺れず◦深き御慈悲の海にも沈まざる事は◦なほ不思議に非ずや。されば我等を救ひ給ふ御恩◦もつとも深く在ますといへども◦猶其上に撰び取給ふ道は◦はるかに深き御恩也。凡慮には及ばぬ御恥辱◦言葉もたえたるげんを◦ぢきの御身に受給ひ◦世の捨物と成給ひ◦我等を扶け給ふ者也。御恥辱を以ては我等に誉れを与へさせられ◦おんをもて我等が汚れをすゝぎ◦御涙を以ては我等を涙の淵より浮べ給ひ◦死し給ふを以て我等に終りなき一命を与へ給ふ者也。如何に甘露の御親◦御子と成奉る我等が上を◦かほどまでおぼしめし給ふや。如何によき牧士にてまします御身◦羊となる我等が食物として下さるゝ事は◦何事にてましますぞ。如何に二心在まさぬ御主◦我等を救ひ扶け給はん為に◦御身をほろぼし御一命を失ひ給ふ事をも省み給はざる者也。かゝるおん御礼おんれいをば◦何と報じ奉るべきや。流し給ふ御血の代りとして◦如何ほどの涙にてか御心を潤し奉り◦御命の代りとして◦如何ほどの命を以てか報じ奉るべきぞ。もし人有りて此等のげんといふも◦万民の為に報じ給ふ御勤めなれば◦我身一ツに取て御恩といはむもさすがに相当らずと思ふべし。嗚呼あゝあやまりおはれり。すみやかに其迷ひをすてよ。是を万民の為に勤め給ふと思ふや。我等一人づゝにあたりて◦同じごとくに調とゝのへ給ふりき也。ゆへを如何いかんといふに◦量り在まさぬ智恵の源より◦ぱしよんをおん目の前に鑑み給ひ◦万民を一人の如く見そなはし◦量りなき大切たいせつを以て一人づゝを抱き取り給ひ◦一人づゝに対して御血をながし給ふ事也。そうじこの御大切の広大に在ます御処は◦さんと達の宣ふごとく◦よろづの世界のうちにをひて罪人一人ありといふ共◦万民の為にうけ給ふぱしよんの御辛苦を◦其一人に対してうけ給ふべしと見へたり。かほど限りなきげんをうけ給ふ上にも◦なほうけ給はずして叶はざる道理ありとしろしめすにをひては◦猶々なほなほこらへ給ふべき御恩をば◦如何いかばかりとかぞんずるぞや


脚注 編集

巻末附録「第三 欧語抄」より

○あにま Anima 「たましひ」 霊魂
○あんじよ Anjo 「天人」 天神
○いんへるの Inferno 「地獄」
○おんたあで Vontade 「憎み愛するに傾く(あにまの)精」
○くるす Cruz 十字架
○じよぶ〔さん〕 Job, S. 人名
○ぜじゆん Jejun 「食をひかゆること」
○ぜせまにや Gesemania 地名
○でうす ぱあてれ Deus Padre 天主 聖父
○ぱしよん Passio, Paixão 受難
○ぱらいぞ てれある Paraiso Terral 「でうすあだんをおき給ひし悦び充満のところ」 地上楽園
○ぱらいぞ Paraiso 天国
○びるぜん Virgem 童貞
○べやと Beato 福者

巻末附録「第四 聖書引用文句索引」より

147頁 4行以下 約百 35章6、7節


出典 編集

吉利支丹文学抄 国立国会図書館 デジタルコレクション
この文書は翻訳文であり、原文から独立した著作物としての地位を有します。翻訳文のためのライセンスは、この版のみに適用されます。
原文:
 

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 
翻訳文:
 

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。