帝室論緖言 編集

我日本の政治に關して至大至重のものは帝室の外にある可らずと雖も世の政談家にして之を論ずる者甚だ稀なり盖し帝室の性質を知らざるが故ならん過般諸新聞紙に主權論なるものあり稍や帝室に關するが如しと雖も其論者の一方は百千年來陳腐なる儒流皇學流の筆法を反覆開陳するのみにして恰も一宗旨の私論に似たり固より開明の耳に徹するに足らず又一方は直に之を攻擊せんとして何か憚る所ある歟又は心に解せざる所ある歟其立論常に分明ならずして文字の外に疑を遺し人をして迷惑せしむる者少なからず畢竟論者の怯懦不明と云ふ可きのみ福澤先生玆に感ありて帝室論を述らる中上川先生之を筆記して通計十二篇を成し過日來之を時事新報社說欄內に登錄したるが大方の君子高評を賜はらんとて近日に至る迄續々第一篇以來の所望ありと雖ども新報既に欠號して折角の需に應ずること能はず今依て全十二篇を一冊に再刊し同好の士に頒つと云

明治十五年五月

編者識


帝室論 編集

福澤諭吉著


帝室は政治社外のものなり苟も日本國に居て政治を談し政治に關する者は其主義に於て帝室の尊嚴と其神聖とを濫用す可らずとの事は我輩の持論にして之を古來の史乘に徵するに日本國の人民が此尊嚴神聖を用ひて直に日本の人民に敵したる なく又日本の人民が結合して直に帝室に敵したることもなし往古の事は姑く擱き鎌倉以來世に亂臣賊子と稱する者ありと雖ども其亂賊は帝室に對するの亂賊に非ずして北條足利の如き最も亂賊視せらるゝ者なりと雖ども尙且大義名分をば蔑如するを得ず左れば此亂臣賊子の名は日本人民の中にて各主義を異にし帝室を奉ずるの法は斯の如くす可し、斯の如くす可らずとて互に其遵奉の方法を爭ひ天下の輿論に亂賊視せらるゝ者は亂臣賊子と爲り忠義視せらるゝ者は忠臣義士たるのみ我輩固より此亂臣賊子の罪を免すに非ず之を惡み之を責めて止まずと雖ども這は唯我々臣子の分に於て然るのみ遙に高き帝室より降臨すれば亂賊も亦是れ等しく日本國內の臣子にして天覆地載の仁に輕重厚薄ある可らず或は一時一部の人民が方向に迷ふて針路を誤ることあるも一時これを叱るに過ぎず其これを叱るや父母が子供の喧嘩して騷々しきを叱るに等しく之を惡むに非ず唯これを制するのみにして僅に其一時を過れば又これを問はず依然たる日本國民にして帝室の臣子なり例へば近く維新の時に當て官軍に抗したる者あり其時には恰も帝室に抗したるが如くに見へたれども其眞實に於ては决して然らざるが故に事収るの後は之を赦すのみならず又隨て之を撫育し給ふに非ずや彼の東京の上野に戰死したる彰義隊の如き一時の姿は亂賊の如くなりしかども今日帝室より之を見れば十五年前我國政治上の葛藤よりして人民共が戰爭の事に及び双方に立分れて鋒を爭ひしが双方共に勇々しき有樣なりし、我日本には勇士多き事なる哉今にして之を想へば死者は憐む可しとて一度びは勇士の多きを悅び一度びは其勇士の死亡したるを憐み給ふ ならんのみ右の如く我日本國に於ては古來今に至るまで眞實の亂臣賊子なし今後千萬年も是れある可らず或は今日にても狂愚者にして其言徃々乘輿に觸るゝ者ある由、傳聞したれども是れとても眞に賊心ある者とは思はれず百千年來絕て無きものが今日頓に出現するも甚だ不審なり若しも必ず是れありとせば其者は必ず瘋癲ならん瘋癲なれば之れを刑に處するに足らず一種の檻に幽閉して可ならんのみ

去年十月國會開設の命ありしより世上にも政黨を結合する者多く何れにも我日本の政治は立憲國會政黨の風に一變することならん此時節に當て我輩の最も憂慮する所のものは唯帝室に在り、抑も政黨なるものは各自に主義を異にして自由改進と云ひ保守々舊と稱して互に論鋒を爭ふと雖ども結局政權の受授を爭ふて己れ自から權柄を執らんとする者に過ぎず其爭に腕力兵器をこそ用ひざれども事實の情况は源氏と平家と爭ひ關東と大阪と相戰ふが如くにして左黨右黨相對し左黨に投票の多數を得て一朝に政權を掌握するは關東の德川氏が關原の一捷を以て政權を得たるものに異ならず政黨の爭も隨分劇しきものと知る可し此爭論囂々の際に當て帝室が左を助る歟又は右を庇護する等の事もあらば𤍠中煩悶の政黨は一方の得意なる程に一方の不平を增し其不平の極は帝室を怨望する者あるに至る可し其趣は無辜の子供等が家內に喧嘩する處へ父母が其一方に左袒するに異ならず誠に得策に非ざるなり加之政黨の進退は十數年を待たず大抵三五年を以て新陳交代す可きものなれば其交代每に一方の政黨が帝室に向ひ又これに背くが如きあらば帝室は恰も政治社會の塵埃中に陷りて其無上の尊嚴を害して其無比の神聖を損するなきを期す可らず國の爲に憂慮す可きの大なるものなり世に皇學者流なるものありて常に帝室を尊崇して其主義を守り終始一の如くにして畢生其守る所を改めざるの節操は我輩の深く感心する所なれども又一方より其弊を擧れば帝室を尊崇するの餘りに社會の百事を擧て之に歸し、政治の細事に至るまでも一處に之を執らんことを祈る其有樣は孝子が父母を敬愛するの餘りに百般の家政を父母に任じて細事に當らしめ却て家君の体面を失はしむるに異ならず帝室は萬機を統るものなり萬機に當るものに非ず統ると當るとは大に區別あり之を推考すること緊要なり又皇學者流が固く其守る所を守るが爲に其主義時としては宗旨論の如くなり苟も己れに異なる者は之を容れずして却て自から其主義の分布を妨るものあるが如し人をして我主義に入らしめんと欲せば之に入るの門を開くこそ緊要なれ是等は我輩の感服せざる所なり我輩は赤面ながら不學にして神代の歷史を知らず又舊記に暗しと雖ども我帝室の一系萬世にして今日の人民が之に依て以て社會の安寧を維持する所以のものは明に之を了解して疑はざるものなり此一點は皇學者と同說なるを信ず是即ち我輩が今日國會の將さに開んとするに當て特に帝室の獨立を祈り遙に政治の上に立て下界に降臨し偏なく黨なく以て其尊嚴神聖を無窮に傳へんことを願ふ由緣なり

我帝室の直接に政治に關して國の爲に不利なるは前段に之を論じたり或人これに疑を容れ政治は國の大事なり帝室にして之に關せずんば帝室の用は果して何處に在るやとの說あれども淺見の甚しきものなり抑も一國の政治は甚だ殺風景なるものにして唯法律公布等の白文を制して之を人民に頒布し其約束に從ふ者は之を赦し、從はざるものは之を罸するのみ畢竟形体の秩序を整理するの具にして人の精神を制するものに非ず然るに人生を兩斷すれば形体と精神と二樣に分れてよく其一方を制するも他の一方を捨るときは制御の全きものと云ふ可らず例へば家の雇人にても賃錢の高と勞役の時間とを定るも决して事を成す可らず如何なる雇人にても其主人との間に多少の情交を存してこそ快く役に服する者なれ即ち其情交とは精神の部分に屬するものなり賃錢と時間とは唯形体の部分にして未だ以て人を御するに足らざるなり故に政治は唯社會の形体を制するのみにして未だ以て社會の衆心を収攬するに足らざるや明なり

此人心を收攬するに專制の政府に於ては君王の恩德と武威とを以てして恩に服せざるものは威を以て嚇し恩威幷行はれて天下太平なりし事なれども人智漸く開て政治の思想を催ふし人民參政の權を欲して將さに國會を開んとするの今日に至ては復た專制政府の舊套を學ぶ可らず如何となれば國會爰に開設するも其國會なる者は民撰議員の集る處にして其議員が國民に對しては恩德もなく又武威もなし國法を議决して其白文を民間に頒布すればとて國會議員の恩威幷行はる可きとも思はれず、又行はる可き事理に非ざればなり、國會は直に兵權を執るものに非ず人民を威伏するに足らず、國會は唯國法を議定して之を國民に頒布するものなり人民を心服するに足らず、殊に我日本國民の如きは數百千年來君臣情誼の空氣中に生々したる者なれば精神道德の部分は唯この情誼の一點に依賴するに非ざれば國の安寧を維持するの方畧ある可らず即ち帝室の大切にして至尊至重なる由緣なり况や社會治亂の原因は常に形体に在らすして精神より生ずるもの多きに於てをや我帝室は日本人民の精神を收攬するの中心なり其功德至大なりと云ふ可し國會の政府は二樣の政黨相爭ふて火の如く水の如く盛夏の如く嚴冬の如くならんと雖ども帝室は獨り萬年の春にして人民これを仰けば悠然として和氣を催ふす可し、國會の政府より頒布する法令は其冷なること水の如く其情の薄き 紙の如くなりと雖ども帝室の恩德は其甘き 飴の如くして人民これを仰げば以て其慍を解く可し何れも皆政治社外に在るに非ざれば行はる可らざる事なり西洋の一學士帝王の尊嚴威力を論じて之を一國の緩和力と評したるものあり意味深遠なるが如し我國の皇學者流も又民權者流もよく此意味を解し得るや否や我輩は此流の人が反覆推究して自から心に發明せんことを祈る者なり

例へば明治十年西南の役に徵募巡査とて臨時に幾萬の兵を募集して戰地に用ひたることあり然るに其募に應ずる者は大抵皆諸舊藩の士族血氣の壯年にして然かも廢藩の後未だ產を得ざる者多し、家に產なくして身に勇氣あり戰塲には屈强の器械なれども事収るの後に至て此臨時の兵を解くの法は如何す可きや殺氣凛然たる血氣の勇士、今日より無用に屬したれば各故鄕に歸りて舊業に就けよと命ずるも必ず風波を起す事ならんと我輩は其徵募の最中より後日の事を想像して竊に憂慮したりしが同年九月變亂も局を結で臨時兵は次第に東京に歸りたり我輩は尙此時に至る迄も不安心に思ひし程なるに兵士を集めて吹上の禁苑に召し簡單なる慰勞の詔を以て幾萬の兵士一言の不平を唱る者もなく唯殊恩の渥きを感佩して鄕里に歸り曾て風波の痕を見ざりしは世界中に比類少なき美事と云ふ可し假に國會の政府にて議員の中より政府の首相を推撰し其首相が如何なる英雄豪傑にても明治十年の如き時節に際してよく此臨時兵を解くの工夫ある可きや我輩斷じて其力に及ばざるを信ずるなり

又假に爰に一例を設けて云はん 天皇陛下某處へ御臨幸の途上偶ま重罪人の刑塲に赴く者ありて御目に留り其次第を聞食されて一時哀憐の御感を催ふされ彼の者の命だけを赦し遣はせとの御意あらば法官も特別に之を赦すことならん然るに此事を新聞紙等に揭げ世間の人が傳聞して何と評す可きや、我輩今日の民情を察するに世間一般の人は彼の罪人を目して唯稀有の仕合者と云ふことならんと信ず某月某日は彼の罪人の爲には如何なる吉日か不思議の事にて一命を拾ふたりとのみにて嘗て法理云々など論ずる者なく假令ひ之を論ずるも聽く者はなかる可し固より罪ある者を漫に赦すは社會の不幸にして我帝室に於ても漫に行はせらる可き事に非ず况や本文は唯假に例を設けて我民情を寫したるまでのことなれども或は政治上に於て止むを得ざるの塲合なきに非ず國法に於て殺す可し、情實に於て殺す可らず、之を殺せば民情を害するが如き罪人あるときは帝室に依賴して國安を維持するの外方便ある可らず故に諸外國の帝王は無論亞米加合衆國ママの大統領にても必ず特赦の權を有するは之が爲なり我帝室も固より其特權を有せられ要用のときには必ず政府より請願して命を得ることもあらん决して漫然たる事には非ずと雖ども外國にても日本にても等しく特赦の命を下して其民情に對して滑なるの度合ドヤイ如何を比較すれば我日本の國民は特別に帝室を信ずるの情に厚き者と云はざるを得ず我輩が今日國會の將さに開んとするに當て特に帝室の尊きを知り其尊嚴の益尊嚴ならんことを祈り其神聖の益神聖ならんことを願ひ苟も全國の安寧を欲して前途の大計に注目する者は容易に其尊嚴を示す勿れ容易に其神聖を用る勿れ謹で默して之を輕重する勿れとて反覆論辯して止まざるも唯一片の婆心自から禁ずること能はざればなり

人或は我帝室の政治社外に在るを見て虛器を擁するものなりと疑ふ者なきを期す可らずと雖ども前にも云へる如く帝室は直接に萬機に當らずして萬機を統べ給ふ者なり、直接に國民の形体に觸れずして其精神を収攬し給ふ者なり專制獨裁の政体に在ては君上親から萬機に當て直に民の形体に接する者なりと雖ども立憲國會の政府に於ては其政府なる者は唯全國形体の秩序を維持するのみにして精神の集點を欠くが故に帝室に依賴すること必要なり人生の精神と形体と孰れか重きや精神は形体の帥なり帝室は其帥を制する者にして兼て又其形体をも統べ給ふものなれば焉ぞ之を虛位と云ふ可けんや若しも强ひて之に虛位の名を附せんと欲する者あらば試に獨り默して今の日本の民情を察し、其數百千年來君臣の情誼中に生々したる由來を反顧し爰に頓に國會を開て其國會のみを以て國民の身心を併せて共に之を制御せんとするの工夫を運らしたらば果して大に不可なるものありて大に要する所の者あるを覺ふ可し、其要する所のものとは何ぞや民心収攬の中心にして此中心を得ざるの限りは到底今の日本の社會は暗黑なる可しとの感を發することならん左れば帝室は我人民の依て以て此暗黑の禍を免かるゝ所のものなり之を虛位と云はんと欲するも得べけんや讀者も心に之を發明する ならん

例へば一利一弊は人事の常にして免かる可らず寡人政治の風を廢して人民一般に參政の權を附與し多數を以て公明正大の政を行ふは國會の開設に在ることならんと雖ども之を開設して隨て兩三政黨の相對するあらば其間の軋轢は甚だ苦々しきことならん政治の事項に關して敵黨を排擊せん爲には眞實心に思はぬ事をも喋々して相互に他を傷くることならん、其傷けられたる者が他を傷くるは鄙劣なりなど論辯じながら其論辯中に復讎して又他を傷くることならん、或は人の隱事を摘發し或は其私の醜行を公布し賄賂依托は尋常の事にして甚しきは腕力を以て爭鬪し礫を投じ瓦を毀つ等の暴動なきを期す可らず西洋諸國大抵皆然り我國も遂に然ることならん文政天保の老眼を以て見れば誠に言語道斷にして國會などなきこそ願はしけれども世界中の氣運にして此騷擾の中に自から社會の秩序を存し却て人を活潑に導く可き者なれば必ずしも之を恐るゝに足らず然るに爰に恐る可きは政黨の一方が兵力に依賴して兵士が之に左袒するの一事なり國會の政黨に兵力を貸す時は其危害實に言ふ可らず假令ひ全國人心の多數を得たる政黨にても其議員が議に在る時に一小隊の兵を以て之を解散し又捕縛すること甚だ易し殊に我國の軍人は自から舊藩士族の流を汲て政治の思想を抱く者少なからざれば各政黨の孰れかを見て自然に好惡親踈の情を生じ我れは夫れに與せんなど云ふ處へ其政黨も亦これを利して暗に之を引くが如きあらば國會は人民の論塲に非ずして軍人の戰塲たる可きのみ斯の如きは則ち最初より國會を開かざる方、萬々の利益と云ふ可し斯る事の次第なれば今この軍人の心を収攬して其運動を制せんとするには必ずしも帝室に依賴せざるを得ざるなり帝室は遙に政治社會の外に在り軍人は唯この帝室を目的にして運動するのみ、帝室は偏なく黨なく政黨の孰れを捨てず又孰れをも援けず軍人も亦これに同し、固より今の軍人なれば陸海軍卿の命に從て進退す可きは無論なれども卿は唯其形體を支配して其外面の進退を司るのみ內部の精神を制して其心を収攬するの引力は獨り帝室の中心に在て存するものと知る可し且又軍人なる者は一般に利を輕んじて名を重んずるの氣風なるが故に之が長上たる者は假令ひ文事理財等に長ずるも武勇磊落の名望ありて其地位高きに非ざれば任に適せず今の陸海軍の將校が其給料の割合に比して等級の高きも是等の旨に出たるものならん又亞米利加の合衆國にては宗敎も自由にして政府に人を用るに其宗旨を問はずと雖ども武官に限りて必ず其國敎なる耶蘇宗門の人を撰ぶと云ふ盖し他宗の人は兎角世間に輕侮せられて軍人の心を収るに足らざればなり武流の人が名を重んずるの情以て見る可し然るに今國會を開設して國の大事を議し其時の政府に在る大臣は國會より推撰したる人物にして偶々事變に際して和戰の內議は大臣の决する所なりとするときは陸海軍人の向ふ所は國會に由て定めらるゝ者の如し軍人の進退甚だ難きことならん假令ひ其大臣が如何なる人物にても其人物は國會より出たるものにして國會は元と文を以て成るものなれば名を重んずるの軍人にして之に心服せざるや明なり唯帝室の尊嚴と神聖なるものありて政府は和戰の二議を帝室に奏し其最上の一决御親裁に出るの實を見て軍人も始めて心を安んじ銘々の精神は恰も帝室の直轄にして帝室の爲に進退し帝室の爲に生死するものなりと覺悟を定めて始めて戰陣に向て一命をも致す可きのみ帝室の德至大至重と云ふ可し僅に軍人の一事に就ても尙且斯の如し我輩は國會の開設を期して益其重大を感ずる者なり

西洋碩學の說に一國の人心を収攬して風俗を興すの方便は其國々の民情舊慣に從て同じからずと雖ども各國に通じて利用す可き者は宗敎、學事、音樂、謳歌、等にして殊に立君の國に於ては王室を以て人心収攬の中心たる可しと云へり我日本の如きは古來宗敎に拘泥せざるの民俗なれども僧侶善智識の一言を以て兵刄既に接するの戰を和解したるの例なきに非ず又敗軍の將士が高野の山に登り、國事犯の罪人が鎌倉の尼寺に入り或は舊諸藩にて士族の間に不和を生ずる歟又は藩法の爲に止むを得ずして其家來に割腹を命ずる等のときに當て君家菩提寺の老僧が仲裁に入り或は命乞ひとて犯罪人を寺に引取ることあり何れも皆宗敎に依て政治社會の風浪を和したるものなり又江戶の市中に鳶の者と稱する壯丁の種族が火事塲などに於て動もすれば喧嘩に及び双方結ぼれて解けざる時に親分なる者が仲裁に入り公裁を仰がずして其喧嘩の是非を糺して非なりと認る所の者を坊主にする歟或は自から剃髮して仲直りの式を行ふ事あり此坊主は固より寺に入るの坊主には非ざれども其本は落飾の趣意に出でしものならん僅に鳶の者の仲間に於ても尙且法理のみに依る可らず必ず一種の緩和力を賴て其社會の安寧を維持す、况や政治の大社會に於てをや其社會の愈大なるに從て其喧嘩軋轢も亦愈大なり、其愈大なるに從て緩和仲裁の力を要することも亦愈急なる可し耶蘇敎に𤍠心なる歐亞諸國に於ては其宗敎を以て國事に利したるの例甚少なからす英國に於て千六百年代「コロンウェル」の亂に國中の人心劇烈の極點に達して當時議事院の如きは左右兩黨に相分れ相互に疾視咆哮して其劇論の底止する所を知る可らず人をして寒心戰慄せしむる程の情况なりしが時に一老僧の勸めに從ひ急に席を改めて上帝禮拜の式を行ひ然る後に座を定めて更に議事を開きしかば滿塲自然に和穆の氣を催ふして穩に議を終たることあり爾後英國の議事院に於ては開議の前必ず禮拜の式を行ひ今日尙其例に依ると云ふ

學風の利弊は日本にも支那にも其例最も多くして人心に銘すること最も深し德川政府にて昌平館の學風を朱子學と一定してより各藩大抵皆これに傚ひ太平二百七十年の間に碩學大儒異風を唱る者なきに非ざれども天下一般學者の多數は朱子學に制せられて他は其意を逞ふするを得ず唯舊水戶藩に於て一種の學風を起したれば忽ち其藩士の氣風を一變したることあり唯學校の敎則のみならず或は一部の著書を以て天下の人心を左右すること甚だ易し賴山陽の日本外史は王政維新の元素と爲り又維新の前後に僅々の著書翻譯書を以て一時に日本國の全面を一變して朝野改進の端を開きたるものあるが如し

音樂謳歌は日本に於て左まで効力なきが如くなれども西洋諸國にては一節の歌を以て幾千萬の人心を繋ぎ之を幾百年に維持して國の治亂を制する者あり佛の「リパブリック」英の「ルールブリタニヤ」の曲の如き是なり日本にて之に類するものは舊曆三月三日上已の節句家々に雛を飾り俗に云ふお內裏樣とて雛の棚の上段に奉るは盖し日本國中の至尊たる歷世の天皇と皇后との御兩体を表したるものならん又唄の文句にも王は十善、神は九善と云ふことあり是亦同樣の意味ならん何れも皆尊王の人心を収攬するものと云ふ可し又舊曆の正月に三河萬歲とて古風なる衣裳を着けたるものが皷太皷を携へ每戶に來て祝詞を唄ふは德川家康公の萬歲を祝するの遺禮なりと云ふ又元和元年大阪の落城は五月六日なりしより爾來德川の政府にて最も端午の節句を重んじたる歟、全國の風俗を成し男兒ある家には家の內外に軍旗樣のものを樹て武者人形を飾る等專ら尙武の風を裝ひ又或る地方の習慣にて其旗と人形を収るに武家は五月五日の夕を限り農商の家は翌六日までに存するの風あり盖し大阪落城は六日にて武家は此日に凱陣して軍器は最早不用なるが故に其前日に之を収るの式を表すれども町人百姓は軍事に關係なくして翌日までも勝手次第と云ふ意ならん何れも皆德川の舊を懷ふて尙武の士氣を皷舞する爲には大に効力ありし風俗ならん尊王なり尙武なり既に全國の風俗をなすときは容易に消滅す可きものに非ず以て亂を治む可し以て治を亂る可し俚俗謳歌とて决して之を輕々看過す可らざるなり

王室の功德は共和國民の得て知らざる所なれども其風俗人心に關して有力なるは擧て言ふ可らず人或は立君の政治を評して人主が愚民を籠絡するの一欺術などゝて笑ふ者なきに非ざれども此說を作す者は畢竟政事の艱難に逢はずして民心軋轢の慘狀を知らざるの罪なり靑年の書生輩が二三の書を腹に納め未だ其意味を消化せずして直に吐く所の語なり試に思へ我日本にても政治の黨派起りて相互に敵視し積怨日に深くして解く可らざるの其最中に外患の爰に生じて國の安危に關する事の到來したらば如何するや、自由民權甚だ大切なりと雖ども其自由民權を伸ばしたる國を擧げて不自由無權力の有樣に陷りたらば如何せん、守舊保守亦大切なりと雖ども舊物を保守し了りて其まゝに他の制御を受けたらば如何せん、鷸蚌相鬪て勝敗容易ならず全身の全力は既に盡して殘す所なし何ぞ他を顧みて之が謀を爲すに遑あらんや去年發兌時事小言の緖言に云く

前略記者は固より民權論の敵に非ず其大に欲する所なれども民權の伸暢は唯國會開設の一擧にして足る可し而して方今の時勢これを開くことも亦難きに非ず仮令ひ難きも開かざる可らざるの理由あり然りと雖ども國會の一擧以て民權の伸暢を企望し果して之を伸暢し得るに至て其これを伸暢する國柄は如何なるものにして滿足す可きや民權伸暢するを得たり甚だ愉快にして安堵したらんと雖ども外面より國權を壓制するものあり甚だ愉快ならず俚話に靑螺サヾイが殼中に収縮して愉快安堵なりと思ひ其安心の最中に忽ち殼外の喧嘩異常なるを聞き竊に頭を伸ばして四方を窺へば豈計らんや身は既に其殼と共に魚市の爼上に在りと云ふことあり國は人民の殼なり其維持保護を忘却して可ならんや近時の文明世界の喧嘩誠に異常なり或は靑螺の禍なきを期す可らず此禍の憂ふ可きもの多くして之を憂る人の少なきは記者に於て再び不平なきを得ざるなり唯如何せん今日は是れ民權論一偏の世の中なれば世論或は却て記者に對して不平なる者もあらんと雖ども今後十年を期し其論者が心事を改て今日の記者と主義を同ふするの日を待つのみ

右時事小言の所論も其旨は本編の義に異ならず斯る內政の艱難に際し民心軋轢の慘狀を呈するに當て其黨派論には毫も關係する所なき一種特別の大勢力を以て双方を緩和し、無偏無黨之を綏撫して各自家保全の策に從事するを得せしむるは天下無上の美事にして人民無上の幸福と云ふ可し是れ我輩が偏に我帝室の獨立を祈願する由緣なり方今世の民權論者も帝室を尊崇すると言ひ又實に尊崇するの意ならんと雖ども其語氣眞實の至情に出るものゝ如くならず唯公然と口を開き帝室は尊きが故に之を尊ぶと云ふのみにして其功德の社會に達する由緣を語らず人民の安寧は帝室の緩和力に依賴するの理由を述べず其殺風景なる有樣は家の子供が繼母に對して苟も我々の母なるが故に孝養を盡すは勿論の事なりと公言する者に彷彿たり加之主權云々に就ても何か議論がましく喋々と述立て又或は其論者の黨類と稱する者の中には隨分過激の徒もなきに非ず凡そ政黨に免かる可らざることなれども保守論者の流より之を見れば猜疑なきを得ず彼等は口に甘き言を唱れども內心は甚だ危險なる者なり去迚は恐ろしき次第、これを捨て置く可らずとて何の手段もなくして唯容易に帝室の名を用ひ公に帝室保護などゝ唱へて經營する其有樣は恰も帝室の名義中に籠城して滿天下を敵にする者の如し固より此保守論者も立憲政体國會開設の事に付ては異論なくして其邊は民權家と同一致の如くなれども其帝室云々と口に唱へ筆に記する所の氣風を察し其主權論などの論鋒を視れば維新以前專制政治の時代に唱へし古勤王の臭氣を帶るが如くにして其持論の要點には常に神代の事共持出し我帝室は開闢の初に於て斯の如くなりしが故に今日に在て斯の如し今後も亦斯の如くなる可しとて唯歷史上の舊事のみを稱揚し今の日本國民が帝室を奉戴するは恰も唯其舊恩に報ずるの義務の如くに披露するのみにして其帝室が現に今日に在て人心收攬の中心と爲り以て社會の安寧を維持するの理由は之を知らず即ち其帝室に盡す所は單に過去報恩の一點に在るものにして現在の恩德を識別するの明なし之に盡すこと薄しと云ふ可し又今後國會の開設、隨て政黨軋轢の不幸もあらば未來の恩德は益洪大なる可しと雖ども其邊に就ても誠に漠然たる者の如し之に望むこと少なくして之を仰くこと高からずと云ふ可し畢竟保守論者皇學者流の諸士は其心術忠實なるも經世の理に暗きが爲に忠を盡さんと欲して之を盡すの法を知らず恩に報ひんと欲して其恩德の所在を知らざる者のみ、持論常に過去の報恩を主として現在の事を云はず故に其所說往々宗旨論の風を帶びて變通に乏しく自ら守て他に敵すること劇烈なるのみならず其黨類と稱する者の中には古勤王論に不似合なる人物もあり又少壯の輩には隨分不學にして劇しき者もなきに非ざれば民權の自由論者より之を見て純然たる頑固物と認め彼等は口に立憲國會など云ふと雖ども元來其持論に於てある可らざる言なり結局我々を驅除して其本色の專制に復古せんとするの內心ならんとて亦大に猜疑の念なきを得ず即ち方今世論の實况にして其勢近日に至て益增進するが如し我輩は固より今の所謂自由改進の民權論に心醉する者に非ず又今の所謂守舊保守の輩に左袒する者に非ず彼の流の人が双方其主義の相投ぜずして政談を爭ふは自由自在にして氣力のあらん限りに勉强す可しとて之に任ずると雖ども双方共に攻擊するにも又辯駁するにも唯政治の談のみに止りて謹て帝室に近づくなからんこと双方の諸士に向て飽くまでも冀望する所なり若しも然らざるときは緩和の功德は變じて劇烈なる亂階と爲る可きのみ恐る可きに非ずや、尙甚しきは近日政府の內閣も此黨派に關係するとの說あり其關係の深淺は我輩これを知らずと雖も假令ひ內閣たりとも未だ政黨の姿を爲さずして民間に黨與を募るが如き痕跡なければ則ち止まん、苟も其姿を成すこと眞實にして其痕跡の見る可きものあらんには其黨派として决して帝室の名を用ゆ可らず我帝室は下界の政黨に降り給ふ可きものに非ざればなり萬に一も我輩の憂慮する所、過慮ならずして後日或は之が爲に不幸の禍を見ることもあらば我輩は今の在野の諸政黨併せて政府の內閣に向ひ其辯解を乞はんと欲する者なり

前段に陳述する如く我日本國民は帝室に對し奉りて過去の恩あり現在の恩あり今後國會を開設して政黨の軋轢を生ずるの日には必ず其緩和の大勢力に依賴せざるを得ず即ち未來の恩にして此三樣の大恩は日本國民たる者に於て平等に戴く可き者なり然るに近來民間に黨派を結で改進自由など唱る者あれば之を目して民權黨と名け民權に反する者は官權なりとて世間漸く官權黨の名を生じたるか如し抑も官とは如何なる字義なるぞや今の內閣の大臣參議以下の官吏を惣稱したる名にして官權とは此官吏が政府に立て國事を執るの權力と云ふ義ならん今日の政体に於ては官吏は天皇陛下の命じ給ふ所のものにして其これを命ずるの間に天下人心の向ふ所を斟酌し給ふに非ず固より賢良なる人物を擧げて衆庶の望に副はせられ給ふは明々たることなれども公然たる姿に於て人民より其人を推撰するに非ず投票の多數に由て進退するにも非ざれば官吏は純然たる帝室の隷屬にして帝室と政府との間に殆と分界なしと云ふも可なり即ち明治元年より今年に至るまで我國の政体なれば今年に在て官權と云へば其權は帝室の威光の中に在るものにして或は之を帝室の大權中の一部分と云ふも大なる不可なかる可し然るに此官權の下に黨の字を加へて官權黨の名を作り之を口に唱へて黨派を募るとは何事ぞ字義を推して其極度に至れば帝室の御爲に特に盡力せよと云ふ意味に落ることならん天下四分五裂大義名分も殆ど紊亂の姿を呈して帝室の安危如何とて憂慮の餘りに帝室に御味方申せと天下の志士を募りたるの例はなきに非ざれども此れは是れ上古亂世の事にして明治の昭代には夢にも想像す可らざるの不祥なり既に御味方申せと云ふからには畏くも眞實帝室に反する朝敵の所在なかる可らずと雖ども今日の日本に朝敵は何處に在るや我輩は世の新聞記者の流を學で態と過激なる語法を用る者に非ず又巧に辭を婉曲にする者にも非ず中心に我帝室を仰て其安泰を祈り奉り、之を祈て果して天下に朝敵なきを信ずる者なり朝敵と云へば維新以來舊幕政府の一類共に何か不審の筋あり云々等の事ならば先づ古來和漢の例に於ても國民前政府を慕ふとか云ふ意味にて隨分世にあるまじき嫌疑に非ざれども幕府滅却の後は斷へて其痕跡を見ざるのみならず舊幕府の談は政治社會に於て信に意に介する者もなきに非ずや世界古今革命の事少なからずと雖ども其革命の後に物論の穩なるは獨り我明治政府を以て未曾聞の一例と爲す可き程のことにして我輩は實に我帝室の萬々歲を信じて疑を容れず之を疑はんと欲して中心に其疑懼の端を得ざる者なり斯る昭代に居て等しく是れ帝室の臣民なるに其一部分の人が何を苦んで帝室保護等の言を吐くや不祥の甚しきものなりと云はざるを得ず固より其社會の長老は必ず誠實なる人物にして唯一偏に帝室の御爲を思ひ之を思ふの餘りに世間を見て不安心なりと認る箇條もあらんと雖ども其不安心は唯是れ局處に止まるものゝみ、萬頃の杉の林に兩三根の松を見ればとて其松の繁茂して杉林の景色を變ず可きに非ず帝室は全國人心の歸する所也二三の狂愚あるも之を如何す可きや苟も社會の大勢に着眼する者ならば之を視ること難きに非ざる可し今一步を進めて我輩は別に却て恐るゝ所のものあり其次第は官權主張の人物が誠意誠心に帝室を重んじて其極度は遂に帝室の御味方を申すとまでの姿に陷るときは恰も敵なきに味方を作りたるものにして其味方なる者は敵を求めて敵を得ず却て新に敵を作るの媒介たるなきを期す可らす去迚は其誠實の本心に戾るに非ずや或は長老の人物に於ては徒に敵を作るが如き粗漏もなきことならん寬大以て人を容るゝの度量あらんと云ふと雖ども如何せん俚俗に所謂禍は下からとて其社中の末流に至ては大に長上の意の如くならずして本源は獨り却て心を痛ましむるものあらん甚しきは舊幕政府の末年に幕府が世論の劇しきに苦しみ政府の成規外に新徵組新撰組なるものを作て之を制せんとして却て益其劇しきを增進したるが如き齟齬を生ず可きやも測られず誠に苦々しき次第にして帝室の大恩德を空ふする者と云ふ可し都て事を論じて他より其論を聞くに當り論ずる者と聞く者との間に一點の猜疑ありては其論旨は通達せざるものなり故に我輩が斯く論じ來るも讀者に於て何か疑を抱くときは實に際限もなきことなれども我輩の持論は既に世に明吿したる如く在野の政黨に與みするものに非ず又今の政府の官吏に左袒するものに非ず唯社會の安寧を祈て進で建置經營する所あらんを願ひ其針路方法を論じて世の政治家の注意を喚起せんとするまでのことなれば彼の政治宗旨の小大夫ママが眞宗を出れば必ず日蓮宗に歸し兩宗の一に歸依するに非ざれば身を處すること能はざるが如き者に比すれば少しく異なる所のものあり讀者も少しく靜にして先づ猜疑の念を去り虛心平氣以て聽く所あれ記者の行文波瀾を失ひ誠に無力赤面の至なれども只管讀者の推考を乞ふのみ

官權固より擴張せざる可らず苟も一國の政府として施政の權力なきものは政府にして政府に非ず殊に維新以來の政府は三百藩を合併したるものにして其財政なり又兵力なり頗る强大なる可き筈なるに今日の有樣にて日本國と日本政府との權衡を見れば我政府は决して强大なるものと云ふ可らず官權大に擴張せざる可らざるなり然りと雖ども此官權は前節に論じたる如く今日の政体に於ては直に帝室に接したる政府の權力にして毫も人民の意見を交ゆ可き者に非ざれば今の法律に從ひ今の慣行に由り名も實も帝室の旨を奉じて政を施す可きは無論內閣の大臣參議以下眞實に帝室の隷屬にして其施政の際に一毫の私意を交ゆ可らず故に此政体を遵奉するの間に政府より發する所の政令は悉皆帝室の政令たる可きのみならず或は施政の便利の爲に人民に說諭することあれば其說諭も帝室の旨を奉じたるものと認めざるを得ず又其說諭は樣々の事に關して或は官權を擴張するの旨に出ることもあらん即ち今の政体の政權を强大にするの趣意なれば我輩に於て毫も異論ある可らずと雖ども官權の二字に黨の字を加へて官權黨の熟字を作るときは即ち純然たる政黨にして其政黨の中には帝室を含有するものと云はざるを得ず如何となれば今の官權は下の人民より集めたるものに非ずして上の帝室に出たるものなればなり然るに帝室は無偏無黨億兆に降臨して我輩人民は其一視同仁の大德を仰ぎ奉る可きものなりとの事は我輩が反覆論辯したる所にして此論旨果して是にして日本人民が帝室に對し奉るの本分は正に此點に在るものなりとするときは帝室の政黨に關係す可らざるや明なり强ひて之に關係す可しと云ふ者は畏くも其尊嚴を瀆して其神聖を損するものにして尊王の旨に非ざるなり故に曰く今の政体にて官權を擴張するは可なりと雖ども官權黨の名義を作て黨與を募るが如きは不祥の甚しきものなり

或は去年の十月國會開設の詔を拜してより在朝の人も其心事を改め明治二十三年の後は必ず黨派政治となることならん、其時には我々も一政黨を團結して他の政黨と頡頏せんものをと思ひ其黨與を求るに今日偶々同時に官途に在るの緣故を以て官吏の仲間に一政黨の体を成して兼て又民間に同志を募り偶然に之を官權黨と名けて以て二十三年後の用意を爲すが如きは怪しむに足らず然るときは其政黨は全く帝室に緣なきものにして帝室より降臨すれば毫も他の諸政黨に異なる所ある可らずと雖ども尙この趣向にても官權黨の名は穩ならざるが如し如何となれば此官權黨が明治二十三年の後より尙幾年も官に在れば其名實相適ふ可しと雖ども苟も黨派政治とあれば幾歲月の間には落路の政黨たる可きやも圖る可らず若しも然るときは之を在野の舊官權黨と名けざる可らざればなり語を成さゞるが如し、但し其名稱は何樣にても苦しからず唯我輩の冀望する所は今の官權が若しも黨派の姿を成すことならば速に帝室と分離して他の諸政黨と併立するの一事に在るのみ右の如く官權黨なる者が恰も其身を國會開設の後に置き爾後の資格を今より假定して帝室と分離し其分界明白なることならば今の在野の諸政黨が何程に進步し又一方の官權黨が何程に有力にして相互に軋轢を生ずるも其軋轢は唯在官の人と在野の人との間に止まりて大變乱に及ぶこともなかる可し、云はゞ其軋轢辛ふじて政府に達して其以上に昇らざるものなり若しも然らずして其官權が帝室に緣あるときは此官權と頡頏するは恰も帝室に頡頏するが如くに見へ此官權が民權を征伐するは帝室が之を征伐するが如くに見へて其人心を震動するの禍は實に容易ならざることならん恐る可きの甚しきものなり我帝室は萬世無缺の全璧にして人心収攬の一大中心なり我日本の人民は此玉璧の明光に照らされて此中心に輻輳し內に社會の秩序を維持して外に國權を皇張す可きものなり其寳玉に觸る可らず、其中心を動搖す可らず、官權民權の如きは唯是れ小兒の戯のみ豈小兒をして之に觸れしめんや、之を動搖せしめんや、謹て汝の分を守て汝の政治社會に經營す可きものなり

我輩が帝室に望む所は唯前條々に止まらずして他に又依賴するもの甚だ多し近來は法律次第に精密を致して世間に法理を言ふもの次第に喧しきに隨ては政府の施政も都て規則を重んずるの風と爲る可きは自然の勢にして國會開設の期にも至らば政府は唯規則の中に運動するのみにして規外には一毫の自由を得ざることならん然るに人間社會は此規則中に包羅す可きものに非ず即ち政府の容量は小にして社會の形は大なりと云ふも可なり小を以て大を包まんとす固より得べからず例へば鰥寡孤獨を憐れみ孝子節婦を賞するが如し人情の世界に於ては最も緊要なる事にして一國の風俗に影響を及ぼすこと最も大なるものなれども道理の中に局促する政府に於ては决して之に着手するを得ず政府の庫中に在る一錢の金も一粒の米も其出處は國會に議定したる租稅にして粒々錢々皆是れ國民の膏血なるぞ焉ぞ此膏血を絞て他の口腹を養ふの理あらんやなどゝ論じ來るときは道理の世界に於て之に答るの辭ある可らず去迚國民全体の情に訴るときは無吿を憐れみ孝悌を賞す、誰か之を拒む者あらんや之を拒まざるのみならず其擧を聞見して心に悅の感を生じ共に之を助けんとする者こそ多からん然るに其國民の名代たる國會議員の政府は道理の府なるが故に情を盡すを得ざるなり理を伸さんとすれば情を盡す可らず、情を盡さんとすれば理を伸ばす可らず二者兩立す可からざるものと知る可し左れば此際に當て日本國中誰かよく此人情の世界を支配して德義の風俗を維持す可きや唯帝室あるのみ西洋諸國に於ては宗敎盛にして唯に寺院の僧侶のみならず俗間にも宗敎の會社を結で往々慈善の仕組少なからず爲に人心を收攬して德風を存することなれども我日本の宗敎は其功德俗事に達すること能はず唯僅に寺院內の說敎に止まると云ふ可き程のものにして到底此宗敎のみを以て國民の德風を維持するに足らざるや明なり帝室に依賴するの要用なる 益明なりと云ふ可し人事を御するに必要なるものは勸懲賞罸にして其勸賞の必要なるは懲罸の必要なるに異ならず然るに國會の政府に於てはよく懲罸を行ふ可しと雖ども勸賞の法は甚だ難くして之を行ふ 甚だ稀なり蓋し罪を犯す者は證左に據て罪の輕重を量り其輕重に從て罰も亦輕重す可きが故に恰も實物の輕重を量るが如くにして約束の書に記す 難からず即ち法律書の用を爲す由緣なれども人の功を賞し其德を譽るが如きは其輕重を測量する 甚だ易からず孝子節婦の德義の輕重固より量る可らざるのみならず或は戰塲の武功とても其大小を區別して何を大功と稱し何を小功と評するは甚だ難きことならん即ち政府にて勸賞の事を行ふの難き由緣なり西洋諸國に於ても其國民が何か大事業を擧げて國に益する歟又は海陸の軍人等が非常の働を爲したるときに國會の議决にて之に謝するの法なきに非ざれども極めて稀有の例なりと云ふ故に國民の善を勸めて其功を賞する者は必ず政府の外に在て存すること緊要にして彼の國に於ては一地方の人民が申合せて有功の人に物を贈ることあり或は學校其他公共の部局より之を賞することあり稍や以て人事の缺を彌縫するに足ると雖ども結局國民の榮譽は王家に關するものにして西洋の語に王家は榮譽の源泉なりと云ふことあり以て彼の國情の一班ママを見る可し既に榮譽の源泉なるときは斷じて汚辱の源泉たる可らず懲罸を蒙るは人生の汚辱なれば其源を王家に歸す可らざるの理由明白にして一國の王家は勸る有て懲らす無く、賞する有て罸するなきものなり是即ち各國帝王の詔勅にも罰則を揭ることなきのみならず懲罸以て人民を威するが如き語法をも容易に用ひざる由緣なり之を譬へば風俗厚き良家の父母は其子に命ずるに斯くせよと云ふに止まりて、斯くせざれば鞭つぞと云はざるが如し口に之を云はず况や手に鞭を取て直に之を打つに於てをや良家の父母の常に愼しむ所なり一國の帝王は一家の父母の如し固より親から鞭を執る者に非ず口にも鞭の字を云ふ可らず帝王の常に愼しむ所なり西洋諸國の慣行に於て其帝王と國民と相接するの厚情斯の如し况や我日本に於ては一層の厚きを加へざる可らず數百千年來賞罸共に專制の政府より出るの法にして民間公共の部局に於て人を勸賞するが如きは曾て聞見したることもなきものが俄に國會の政府に變じて規則の內に局促し、よく懲らして勸ること能はず、よく罸して賞すること能はず、數を以て計へ時を以て測り規矩繩墨を以て社會の秩序を整理せんとしたらば人民は恰も疊なき室に坐するが如く空氣なき地球に住居するが如くにして道理の中に窒塞することある可し今この人民の窒塞を救ふて國中に溫暖の空氣を流通せしめ世海の情波を平にして民を篤きに歸せしむるものは唯帝室あるのみ

學術技藝の奬勵も亦た專ら帝室に依賴して國に益する 多かる可し方今全國の敎育を司て學藝を奬勵する者は文部省なりと雖ども其直轄の學校は誠に僅々にして生徒の數は數百に過ぎず固より以て全國の學士を養ふに足らざるなり且文部も亦政府中の一省なれば常に政府と運動を共にして府に變あれば省にも亦變を生じ甚しきは文部卿の更迭に從て省中の官吏を任免するのみならず其學校の敎員に至る迄も或は進退なきを期す可らず敎員を進退し學制を改革し既に之を改革して又之を修正し每三五年に變換するが如きは敎育に於て最も不利なるものと云ふ可し加之國會開設の後は國庫の金を以て國中唯二三の官立學校のみに給與する ある可きや甚だ難き ならん左れば其開設の後は假令ひ文部省を廢せざるも省の事務は唯國中の學事を監督するに止まりて直に學校を支配するの慣行は止む ならんと信ず天下既に官立の學校なし假令ひ是れあるも全國の學士を養ふに足らず然ば則ち私立の學校を奬勵して之を盛大ならしむるの外に方便ある可らず然るに今日各地に在る私學校の有樣は實に微々たるものにして見るに足る可きものなし、よく數百の生徒を敎育して其法を誤らず之を十數年に維持して學校の名に耻ぢざるものは日本國中僅に指を屈するに足らず小學下等の敎は地方の協議に附して小學校に任す可しとするも苟も小學以上學術の部分を以て之を此微々たる私立學校に任ぜんとするは固より行はる可き事柄にあらず是に於てか我輩の大に冀望する所は帝室に於て盛に學校を起し之を帝室の學校と云はずして私立の資格を附與し全國の學士を撰て其事に當らしめ我日本の學術をして政治の外に獨立せしむるの一事に在り文化漸く進で國民皆文の貴きを知るに至らば民間富豪の有志にて學術のために金を捐る者をも生ず可しと雖ども今日の民情尙未だ此段に進まず之を如何ともす可らざれば唯帝室に依賴して先例を示すの一法あるのみ斯の如く新に高尙なる學校を起し又在來の私學校には保護を與へ又或は時に隨ては今の官立學校の取るべきものを取て一度び帝室の御有と爲し更に之に私立の資格を附與して從前の敎官等に授るも可ならん其細目の如きは實際の談として姑く擱き兎に角に此大体の趣向にて我學術を政治社外に獨立せしめて其進步を促すは內國の利益幸福のみならず遠く海外に對して日本の帝室は學術を重んじ學士を貴ぶとの名聲を發揚するに足る可し國の一美事なり方今英國等に於て大學校の盛なる者は悉皆獨立私立の資格なれども其本を尋れば在昔王家の保護を蒙る者多しと云ふ又近くは同國の皇壻「アルバルト」公は在世の間、直接に政事に關せずと雖ども好んで文學技藝を奬勵し國中の碩學大家は無論、凡そ一技一藝に通達したる者にても親しく公の優待を蒙らざるものなし盖し數十年來英國の治安を致して今日の繁榮を極るも間接には公の力與りて大なりと云ふ王家帝室の名聲を以て一國の學事を奬勵し其功德の永遠にして洪大なること以て知る可し

又一方より論ずれば學者は靜にして政治家は動くものなりと雖ども人生各長所あり悉皆動くを好む者に非ず政治家が朝に立て威福を行ひ、軍人が敵に臨て勝を制す、愉快は固より愉快ならんと雖ども學者が天然の原則を推究して化學器械學等の微細を試驗し偶然の機に會して千古の疑を解き、或は幽窓の下に孤坐して深妙の事理を思考し一部の著書以て容易に天下の人心を左右するが如き其時の愉快は他人の得て知らざる所にして譬へんに物なし啻に連城の璧のみならず天下を得る亦大なりとするに足らず、心志玆に至れば眼中復た王侯將相を見ざるなり之を學者の愉快と云ふ左れば人生の快樂は其人の性質と職業の習慣とに由て異なる者なればよく其性に隨て職業を得せしむるときは世に學者なきを憂るに足らず續々輩出して其業に安んず可きなり人或は近日の世態を見て政談客の多きに驚き日本の學者は一種の氣風を帶びて悉皆政治に𤍠する者なりとて漫に臆測憂慮する者なきに非ざれども畢竟學者に一種の氣風あるに非ずして世間に一種の氣風を缺くが故に然るものなり即ち世間に學術を貴ぶの氣風なし、之を貴ばざるが故に學者は學問を以て身を立ること難し、身に才氣を抱て世に身を立るの路なし靜ならんと欲するも得べからず今の學者が政談に奔走するも亦謂れなきに非ざるなり學者が自から好て政談に入るに非ず驅て之を政談に入らしむるものあればなり、故に今若し帝室に於て天下に率先して學術を重んずるの先例を示し學者をして各其業に就くを得せしめなば全國靡然として風を成し政治社外に純然たる學者社會を生ずるを得べし是に於てか始めて我學問の獨立を見る可きなり且又學者なるものは政治家に比すれば生活の趣を殊にして衣食住の外見を裝ふ者に非ず又これを裝ふの要用もあらざれば自から質素にして他に異なる所のものある可し外の形体は粗にして內の精神は密なり、身の外見は賤しくして社會に對するの榮譽は極めて貴し亦以て人の標準として世の敎風を助くるの方便たる可し偶然の利益と云ふ可し今日の有樣にては後進の學生日に增加すと雖ども學問を以て靜に身を畢らんとする者は甚だ稀なるが如し盖し其の靜なるを好まざるに非ずと雖ども靜にして依賴すべき中心を得ず、學に志すこと愈篤き者は愈名利に遠ざかるの勢なるが故に枉げて學問の社會を脫するのみ我輩が只管我帝室を仰て全國學術の中心たらんことを願ふも其微意は盖し此に在て存するものなり

前節の論旨に帝室を仰で學術の中心に奉ぜんと記したるは我日本の學問をして假令ひ其主義は之を西洋近時の文明に取るも之を取て以て遂に獨立すること今の漢學が其源を支那に取て遂に我國に獨立したるが如くならしめんと欲するの趣意にして學問の稍や高尙なるものに就て說を立たることなれども尙この以下の藝術に於ても帝室に依賴せざる可らざるもの甚だ多し抑も一國文明の元素は際限なく繁多なるものにして人間社會の一事一物文明の材料たらざるものなし日本內地の人民と北海道の土人とを比較するときは內地は文明にして北地は不文なりと云ふ可し如何となれば內地は人事繁多にして北地は簡約なればなり內地の人民は三度の食事するに每人に膳椀と箸とを備へて北地の土人には往々是れなきものあり左れば人間世界僅に箸一膳の有無にても文明の高低を見るに足る可し箸は文明の物なり、之を用る文明の事なり、之を作り之を賣買す亦文明の事なり况や箸以上の事物に於てをや其益多きに從て益文明の高きを徵す可し之を要するに人事の繁多即ち文明開化と云ふも可ならん

故に一國の文明を進むるの法は人事の繁多を厭ふ可らざるのみならず多々益これを奬勵して繁多ならしむるにあり二十年前は二汁五菜を以て盛饌としたりしも今は之に兼て西洋風の料理を食ふ、我人民は洋食の旨否を甞るの知見を增して文明を進めたるものなり、二十年前は僅に漢書を讀て學者の名に耻ぢざりしものも今は漢書に兼て洋書を知らざれば學者の社會に齒す可らず、我人民は橫文を解するの知見を增して文明を進めたる者なり、人事繁多の世の中にして文明進步の秋と云ふ可し然りと雖ども此は是れ新に文明を作て舊に加ふるの談なれば他日の議論に讓て暫く筆を擱し爰に我輩が端を改めて專ら陳述せんと欲するものは舊來我國に固有する文明の事物を保存せんとするの一事にして又重ねて帝室に依賴せざるを得ざるなり抑も人心を震動するの甚しきは政治の革命にして政府爰に一新すれば人心も亦隨て一變し其好尙の趣をも舊に異にすること多し殊に我日本近時の革命は唯に內國政治の變換のみに非ずして恰も外國交際の新なる時に際して外の新奇を以て內の舊套を犯したるもの少なからず苟も舊時の事物とあれば利害得失を分たずして舊の字に加ふるに弊の字を以てし舊弊の熟語は下等社會にまで通用して是れも舊弊なり其れも舊弊なりとて之を破壞する者は世間に識者視せらるゝの勢にして內外兩樣の力を以て人心を顚覆したることなれば其有樣は秋の枯野に火を放ちたるが如く際限ある可らずして殆ど舊來の文明を一掃したるものと云ふも可なり大陽曆ママを用ひて五節句を廢し三百藩を廢して城郭を毀ち神佛混淆を禁じて寺社の風景を傷ふたるが如きは今更恢復するも難からん又今の事實の利害に於て恢復す可らざるものもあらんなれば是等は姑く不問に附して爰に我輩の特に注目する所は日本固有の技藝にして今日これを保存せんと欲すれば其事難からず之を放却すれば遂に其痕を絕つの恐あるもの即是れなり日本の技藝に書畫あり彫刻あり劍槍術、馬術、弓術、柔術、相撲、水泳、諸禮式、音樂、能樂、圍碁將棋、揷花、茶の湯、薰香等其他大工左官の術、盆栽植木屋の術、料理割烹の術、蒔繪塗物の術、織物染物の術、陶器銅器の術、刀劍鍛冶の術等我輩は逐一これを記し能はずと雖ども其目甚だ多きことならん是等の諸藝術は日本固有の文明にして今日の勢既に大なる震動に逢ふて次第に衰へんとするものなれば之を其未だ滅了せざるに救ふは實に焦眉の急と云ふ可し如何となれば藝術は數學器械學化學等に異にして數と時とを以て計る可きものにあらず規則の書を以て傳ふ可きものに非ず殊に日本古來の風にして假令ひ規則に據る可きものにても所謂人々家々の秘法に傳る者多くして其人に存するが故に其人亡れば其藝術も共に亡ぶ可きは當然の數にして今日僅に其人を存し然かも其人は將さに自然に亡びんとするの時なればなり今この急を救ふの策果して如何す可きや之を今日の文部省に托す可らず之を托せんとするも省の資格に於て行はれ難きもの多からん况や國會政府たるの後に於てをや唯冷なる法律と規則とに依賴して道理の中に局促し以て僅に國民の外形を理する政府の官省が目下の人事に不用なる藝術を支配して特に之を保護奬勵せんとするが如き全く想像外の事にして唯此際に依賴して望むべきは帝室あるのみ帝室は政治社會の外に立て高尙なる學問の中心となり兼て又諸藝術を保存して其衰頽を救はせ給ふ可きものなり

人或は云く前段に記したる諸藝術を保存せんが爲に帝室に依賴するは則ち可なりと雖ども其藝術の中には全く今日に無用なるものあるを如何せん無用の藝術を保存するに有用の心思を勞して又隨て多少の金を費す、全く無用の事なりとの說あれども或人は誠に今日の人にして明日を知らざる者なり人間の文明は其日月永遠にして其の境界廣大なるものなり文明一跳千歲一日の如し豈今日目下の無用を以て千歲文明の材料を棄ることを爲んや今日土中より掘出す勾玉マガタマ金環等の如きも當時に在て其時代の經濟理論に明なる書生の評に附したらば或は無用の物なりしならんと雖ども數千年の下今日に於て其勾玉の細工と其金環の鍍金とを視察すれば我日本は數千年の前既に鍍金の術ありしことを知て其文明の度を見るに足る可し左れば今日無用の物も明日其無用たらざるを知る可らず試に今の書畫骨董を見よ十餘年前は塵埃に埋めて顧る者もなく緋威ヒヲドシの鎧一領は其價金貳朱と云ふも尙買ふ者なし名家の筆跡と稱する金屏風も之を燒て其金箔の地金を利するの時勢なりし者が今日は全く其反對にして鎧も刀劍も骨董として之を貴び、書畫の如き一片紙帛價幾百圓なる者あり僅に十年の經過にして尙且然り况や今後百年を過ぎ千年を經るに於てをや人の好尙の變化は决して計る可き者に非ざれば物の存す可きは之を存し術の傳ふ可きは之を傳へて我文明の富を損するなき 緊要なるのみ諸藝諸術無用ならざるのみならず我國固有の美術にして洋人等の絕て知らざる者あり茶を喫するに法あり茶の湯の道と云ふ花を器に揷すに法あり揷花立花の術と云ふ、香品を薰して之を嗅くに法あり薰香の藝と云ふ此類甚だ少なからずして西洋人に語るも容易に其意味を解する 難かる可し又御家流の文字の如き其本は支那に取りしものにても支那流外に一種の書風を成して其法を傳授する上は我國の固有にして美術の中には大切なる者ならん何れも皆我文明の富にして外人に誇る可き者なり此他蒔繪塗物陶器銅器植木割烹等の諸藝術に付き逐一說明を下だすは我輩の能はざる處、又本編の旨にも非ざれば之を省き唯願ふ所は之をして政治革命の如き小世變の爲に斷絕せしむるなきの一點に在るのみ

在昔封建の時代に於て三百諸侯の生活は頗る高尙なるものにして之が爲に自から藝術を保護して其進步を助けたるは人の知る所なり諸侯の內に武具馬具の職工は無論茶道の坊主あり、御用の大工左官あり、蒔繪師御庭方あり、料理人指物師等大抵皆譜代世祿の家來にして其職業に付き利を射るよりも名を爭ふに忙はしく所謂藝術家の功名心よりして徃々非常の名人を生じて名作も少なからざりしことなり盖し其名作の物を代價に積るに名人の家に數代宛行ふ所の扶持米を算用したらば非常に高價なるものならんと雖ども封建の諸侯は其會計變則にして入を計らずして出を爲す者なれば之を厭はさりしことならん今後世に富豪を出して其富或は古の諸侯に優る者もあらんと雖ども苟も計入爲出の常則に從ふときは其藝術に對するの功德は容易に望む可らざるなり左れば今日に在て藝術家に世祿を與るは固より行はれざることなれども爰に一種の法を設けて其功名心を奬勵するの要用は明に知る可し其法如何して可ならん前節に帝室は榮譽の源泉なりと云へり然ば則ち藝術家の榮譽も此源泉より涌出するの法に依る可きのみ近く其先例を擧れば德川の時代に陪臣又は浪人の儒者醫師等に高名なる人物あれば御目見被仰付とて將軍に拜謁を許し時としては之に葵の紋服を賜はるの例あり一度び拜謁したる者は仮令幕臣ならざるも所謂御目見以上の格式にして諸藩士の上に位し幕府旗下の士と同格なるが故に儒醫の身に在ては殆ど無上の榮譽にして世間の名望甚た高し儒醫のみならず圍碁將棋等に巧なる者にても名人の譽ある者には拜謁を許し且碁所將棋所とて其藝の宗家には豊に扶持を給し每年例に依て幕府の殿中に上覽の圍碁將棋會を開て屈指の者共藝を鬪はすときには將軍も必ず親から出座して之を觀るの例あり代々の將軍必ず碁將棋を嗜むにも非ざる可し隨分迷惑なりしこともあらんと雖も俗間にては之を御城碁御城將棋と唱へ其當人は當日一局の勝敗を以て生涯の榮辱を卜し甚しきは勝敗心勞の爲に吐血して死したる者もありしと云ふ此他能樂者にも扶持を給し刀鍛冶彫刻師にも宛行を與る等樣々の工夫を以て德川政府十五世の間に藝術奬勵の一事は甚た行屆たるものなり今日は既に幕府なし又諸侯なし是に於てか全國人心の中心榮譽の源泉なる帝室に於て今の民情を視察し前年の例を斟酌して或は勳章の法を設け或は年金の恩賜を施し或は其人に拜謁を許され或は新古の名作物を蒐集せらるゝ等の事あらば天下翕然として一中心に集り榮譽の源泉に向て功名の心を生じ我藝術を將さに衰へんとしたるに挽回して更に發達の機を促すのみならず人心の帝室を慕ふに一層の𤍠を增して益其尊嚴神聖を仰ぐに至る可なり

帝室は人心収攬の中心と爲りて國民政治論の軋轢を緩和し、海陸軍人の精神を制して其向ふ所を知らしめ、孝子節婦有功の者を賞して全國の德風を篤くし、文を尙び士を重んずるの例を示して我日本の學問を獨立せしめ、藝術を未だ廢せざるに救ふて文明の富を增進する等其功德の至大至重なること擧て云ふ可らず盖し輕躁の書生輩は此大德の輕重を辨ずること能はずしてこれを言はず或は之を言ふも其情水の如し畢竟無智の罪なり又鄭重にして着實なりと稱する長老の輩も其實は案外に性急にして𤍠心極れば過激と爲り却て恩德の所在を忘れて狼狽を致す是れ亦無智の罪なり無智の罪は有心故造にあらず之れを恕して正に歸するの日ある可きの天ママ、天下皆正に歸したり、乃ち帝室に於て前條々の事に着手せんとするに第一の需要は資本是なり明治十四年度の豫算に帝室及皇族費は百十五萬六千圓にして宮內省の定額三十五萬四千圓とあり此金額多きや少なきや、伊太利の帝室費は三百二十五萬圓にして皇弟の賄料六萬圓、皇娚同四萬圓、其他國皇の巡狩費又は皇居建築營繕費等の如きは別に國庫より出すと云ふ又英國は其富裕の割合にして他の諸國に比すれば帝室費の少なきものなれども二百萬圓を限りて此外に「ランカストル」侯國より入るものあり、日耳曼は三百八萬圓の外に帝室に屬する土地山林甚だ廣大にして其歲入は悉皆宮殿及び皇族の費に供す、荷蘭は三十一萬二千圓の外に曾て第一世「ウ𛅤ルレム」王の時より王家の私產に屬するもの甚だ多しと云ふ

右各國の比例を見れば我帝室費は豊なるものと云ふ可らず金圓の數も少なき其上に帝室の私に屬する土地もなし又山林もなし今後國會開設の後に於ては必ず帝室と政府とは會計上にも自から分別の姿を爲す可きことなれば今日より帝室の費額を增し又幸にして國中に官林も多きことなれば其幾分を割て永久の御有に供すること緊要なる可しと信ず「バシーオ」氏の英國政体論に云く世論喋々帝室は須らく華美なる可しと云ふ者あり須らく質素なる可しと云ふ者あり甚しきは華美の頂上を極む可しと云ふ者あれば之に反對して全く帝室を廢す可しと云ふ者あり皆是れ一塲の空論のみ今の民情を察して國安を維持せんとするには中道の帝室を維持すること甚だ緊要なり理財の點より觀察を下すも例へば百萬「ポント」を帝室に奉して人心収攬の中心たるを得るは策の最も良きものにして百萬は百萬の用を爲すものと云ふ可し今これを减少して七十五萬「ポント」と爲し其用法を異にして人心を得ること能はざるときは七十五萬の全損にして拙策の甚しきもの云々と言論簡單にして事理を盡したるものと云ふ可し都て帝室の費用は一種特別のものにして其公然たるものある可きは無論なれども或は自由自在に費して殆と帳簿にも記す可らざる程の費目もある可し最も大切なる部分なり例へば在昔佛帝第一世の先后「ヂヨセフㇶン」は名高き賢婦人にして常に皇帝の內行を助けて其失を彌縫し宮中府中を問はず人心をして離散せしむるなきを勉めたりしが皇帝が一旦の變心にて皇后を廢してより忽ち內外の人望を失ふたることあり又近くは今の伊太利の皇后「マガリタ」は夙に賢明順良の名ありよく人心を収めて皇帝を輔翼し間接には政治上の風波も平素皇后の德に依て鎭靜するもの少なからずと云ふ左れば帝室の德義の民心に通達するは一種微妙のものにして冥々の間に非常の勢力を逞ふするを得べし萬乘の皇帝微行して一夫の貧を救ひ以て一地方の人民をして殖產の道に進ましむる あり、一士卒の負傷を尋問して三軍の勇氣を振はしむることあり、花の莚、月の宴、决して輕々に看過す可らざるものあり是等の事に付ても必要なるものは財なり然かも此財を費して其費目は帳簿にも記す可らざるものならん我輩は固より其目を論せずして唯全体に皇室費の豊ならんことを祈る者なり

或人云く帝室の大名聲を以て天下の人心を収攬するの說は則ち可なりと其有功の者を賞し文學藝術を保護奬勵するに當り或は從前の習慣に於て帝室に近づく者は兎角に古風の人物多きが爲に實際の着手に於ても自から古を尙ぶの氣風を存して例へば人を賞するにも所謂勤王家に厚くして他は之に預ること薄く或は學藝を奬勵すればとて專ら皇漢の古學に重きを附する等の意味なきを期す可らず去迚は此駸々乎たる文明進步の爲に如何ある可きやの說あれども我輩に於ては毫も之を恐れず嘉永癸丑開國の以來我國勢を一變したるものは西洋近時の文明なり此大勢進步の間に或は故障もあらん妨害もあらんと雖ども唯是れ一局處の障害にして憂るに足らず古學は日新の學に害あるが如くに見ゆれども其害たる唯一時一部分に止まるのみ千百の古學者あるも天下の大勢を如何す可きや况や其古學流の中にも物理原則の部分を除くときは取る可きも甚だ少なからず我輩は勉め之を保存せんと欲する者なり尙况や我輩が帝室を仰で人心の中心に奉らんとするは其無偏無黨の大德に浴して一視同仁の大恩を蒙らんことを願ふ者なれば我輩の志願决して空しからず帝室は新に偏せず古に黨せず蕩々平々恰も天下人心の柄を執て之と共に運動するものなり既に政治黨派の外に在り焉ぞ復た人心の黨派を作らんや謹で其實際を仰ぎ奉る可きものなり

帝室論大尾

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