卷之十二
吿子章句下
任人有問屋廬子曰:「禮與食孰重?」曰:「禮重。」「色與禮孰重?」曰:「禮重。」曰:「以禮食則饑而死,不以禮食則得食,必以禮乎?親迎則不得妻,不親迎則得妻,必親迎乎?」屋廬子不能對。明日之鄒,以吿孟子。孟子曰:「於答是也何有?不揣其本,而齊其末,方寸之木可使高於岑樓。金重於羽者,豈謂一鉤金與一輿羽之謂哉?取食之重者與禮之輕者而比之,奚翅食重?取色之重者與禮之輕者而比之,奚翅色重?往應之曰,『紾兄之臂而奪之食,則得食,不紾,則不得食,則將紾之乎?逾東家墻而摟其處子,則得妻,不摟,則不得妻,則將摟之乎?』」
〈任人屋廬子に問ふあり。曰く、禮と食と孰か重き。曰く、禮重し。色と禮と孰れか重き。曰く、禮重し。曰く、禮を以て食へば則ち饑ゑて死す。禮を以てせずして食へば則ち食を得,必ず禮を以てせんか。親迎すれば則ち妻を得ず。親迎せざれば則ち妻を得。必ず親迎せんか。屋廬子對ふる能はず。明日鄒に之きて以て孟子に吿ぐ。孟子曰く、是に答ふるに於て何かあらん。其本を揣らずして其末を齊しうせば、方寸の木も岑樓より高からしむべし。金は羽より重き者なり,豈に一鉤の金と一輿の羽との謂を謂はんや。食の重き者と禮の輕き者とを取りて之を比せば、奚ぞ翅に食重きのみならんや。色の重き者と禮の輕い者とを取りて之を比せば、奚ぞ翅に色重きのみならんや。往きて之に應へて曰く、兄の臂を紾らして之が食を奪へば、則ち食を得、紾らざれば則ち食を得ず。則ち將に之を紾らさんとするか。東家の逾を墻えて其處子を摟けば則ち妻を得、摟かざれば則ち妻を得ず、則ち將に之を摟かんとするかと。〉
曹交問曰:「人皆可以爲堯舜,有諸?」孟子曰:「然。」「交聞文王十尺,湯九尺;今交九尺四寸以長。食粟而已,如何則可?」曰:「奚有於是?亦爲之而已矣。有人於此,力不能勝一匹雛,則爲無力人矣。今曰舉百鈞,則爲有力人矣。然則舉烏獲之任,是亦爲烏獲而已矣。夫人豈以不勝爲患哉?弗爲耳。徐行後長者,謂之弟;疾行先長者,謂之不弟。夫徐行者,豈人所不能哉?所不爲也。堯舜之道,孝弟而已矣。子服堯之服、誦堯之言、行堯之行,是堯而已矣。子服桀之服、誦桀之言、行桀之行,是桀而已矣。」曰:「交得見於鄒君,可以假館,愿留而受業於門。」曰:「夫道若大路然,豈難知哉?人病不求耳。子歸而求之,有餘師。」
〈曹交問ひて曰く、人皆以て堯舜たるべしと、諸れ有りや。孟子曰く、然り。交聞く、文王は十尺、湯は九尺と。今交は九尺四寸以て長じ、粟を食ふのみ。如何にせば則ち可ならん。曰く、奚ぞ是にあらんや。亦之を爲さんのみ。此に人あり、力一匹の雛に勝ふること能はざれば、則ち力なき人と爲さん。今百鈞を舉ぐと曰はば則ち力ある人となさん。然らば則ち烏獲の任を舉げば、是れ亦烏獲たるのみ。夫れ人豈に勝へざるを以て患となさんや、爲さざるのみ。徐行して長者に後る、之を弟と謂ふ。疾行して長者に先だつ、之を不弟と謂ふ。夫れ徐行は豈に人の能はざる所ならむや。爲さざる所なり。堯舜の道は孝弟のみ。子、堯の服を服し、堯の言を誦し、堯の行を行はば是れ堯のみ。子、桀の服を服し、桀の言を誦し、、桀の行を行はば是れ桀のみ。曰く、交、鄒の君に見ゆるを得て、以て館を假るべし。愿くは留りて業を門に受けん。曰く、夫れ道は大路の若く然り。豈に知り難からんや。人求めざるを病むのみ。子歸りて之を求めば、餘師あらん。〉
公孫丑問曰:「高子曰:『《小弁》,小人之詩也。』」孟子曰:「何以言之?」曰:「怨。」曰:「固哉,高叟之爲《詩》也!有人於此,越人關弓而射之,則己談笑而道之;無他,疏之也。其兄關弓而射之,則己垂涕泣而道之,無他,戚之也。《小弁》之怨,親親也。親親,仁也。固矣夫,高叟之爲《詩》也!」曰:「《凱風》何以不怨?」曰:「《凱風》,親之過小者也;《小弁》,親之過大者也。親之過大而不怨,是愈疏也。親之過小而怨,是不可磯也。愈疏,不孝也;不可磯,亦不孝也。孔子曰:『舜其至孝矣,五十而慕。』」
〈公孫丑問ひて曰く、高子曰く小弁は小人の詩なり。孟子曰く、何を以てか之を言ふ。曰く、怨みたり。曰く、固なるかな、高叟の詩を爲むるや。此に人あり、越人弓を關きて之を射ば、則ち己談笑して之を道はん。他なし之を疏ずればなり。其兄弓を關きて之を射ば、則ち己涕泣を垂れて之を道はん。他なし之を戚めばなり。小弁の怨むは親を親むなり。親を親むは仁なり。固なるかな。高叟の詩を爲むるや。曰く、凱風は何を以てか怨みざる。曰く、凱風は親の過小なる者なり。小弁は親の過大なる者なり。親の過大にして怨みざるは、是れ愈〻疏ずるなり。親の過小にして怨むは是磯すべからざるなり。愈〻疏ずるは不孝なり。磯すべからざるも亦不孝なり。孔子曰く、舜は其れ至孝なり、五十にして慕ふと。〉
宋牼將之楚,孟子遇於石丘,曰:「先生將何之?」曰:「吾聞秦、楚構兵,我將見楚王,說而罷之;楚王不悅,我將見秦王,說而罷之。二王我將有所遇焉。」曰:「軻也請無問其詳,愿聞其指。說之將何如?」曰:「我將言其不利也。」曰:「先生之志則大矣,先生之號則不可。先生以利說秦、楚之王,秦、楚之王悅於利,以罷三軍之師;是三軍之士樂罷而悅於利也。爲人臣者,懷利以事其君,爲人子者,懷利以事其父,爲人弟者,懷利以事其兄,是君臣、父子、兄弟終去仁義,懷利以相接;然而不亡者,未之有也。先生以仁義說秦、楚之王,秦、楚之王悅於仁義,以罷三軍之師;是三軍之士樂罷而悅於仁義也。爲人臣者,懷仁義以事其君,爲人子者,懷仁義以事其父,爲人弟者,懷仁義以事其兄,是君臣、父子、兄弟去利,懷仁義以相接也;然而不王者,未之有也。何必曰利?」
〈宋牼將に楚に之かんとす。孟子、石丘に遇へり。曰く、先生將に何にか之かんとする。曰く、吾聞く、秦楚兵を構ふと。我將に楚王を見て說きて之を罷めしめんとす。楚王悅ばざれば我將に秦王を見て說きて之を罷めしめんとす。二王我將に遇ふ所あらんとすと。曰く、軻や請ふ、其詳なるを問ふことなからん。愿はくは其指を聞かん。之を說くこと將に何如にせんとす。曰く、我將に其不利を言はんとす。曰く、先生の志は則ち大なり。先生の號は則ち不可なり。先生利を以て秦楚の王に說かば、秦楚の王利を悅びて以て三軍の師を罷めん。是れ三軍の士罷むることを樂みて利を悅ぶなり。人の臣たる者利を懷ひて以て其君に事へ、人の子たる者利を懷ひて以て其父に事へ、人の弟たる者利を懷ひて以て其兄に事ふ。是れ君臣父子兄弟、終に仁義を去り利を懷ひて以て相接す。然り而うして亡びざる者は未だ之れ有らざるなり。先生仁義を以て秦楚の王に說き、秦楚の王、仁義を悅びて三軍の師を罷めば、是れ三軍の士罷むるを樂んで仁義を悅ぶなり。人臣たる者仁義を懷ひて以て其君に事へ、人の子たる者仁義を懷ひて以て其父に事へ、人の弟たる者仁義を懷ひて以て其兄に事ふ。是れ君臣父子兄弟利を去り仁義を懷ひて以て相接するなり。然り而うして王たらざる者は未だ之れあらざるなり。何ぞ必ずしも利と曰はん。〉
孟子居鄒,季任爲任處守,以幣交,受之而不報。處於平陸,儲子爲相,以幣交,受之而不報。他日由鄒之任,見季子,由平陸之齊,不見儲子。屋廬子喜曰:「連得間矣。」問曰:「夫子之任見季子,之齊不見儲子,爲其爲相與?」曰:「非也。《書》曰:『享多儀,儀不及物,曰不享。惟不役志于享。』爲其不成享也。」屋廬子悅。或問之,屋廬子曰:「季子不得之鄒,儲子得之平陸。」
〈孟子鄒に居る。季任、任の處守たり。幣を以て交る。之を受けて報ぜず。平陸に處る。儲子相たり、幣を以て交る。之を受けて報ぜず。他日鄒より任に之きて季子を見る。平陸より齊に之きて儲子を見ず。屋廬子喜びて曰く、連間を得たりと。問ひて曰く、夫子任に之きて季子を見、齊に之きて儲子を見ざるは其の相たるが爲めか。曰く、非なり。書に曰く、享に儀多し。儀、物に及ばざれば不享と曰ふ。惟志を享に役せずと。其の享を爲さざるが爲めなり。」屋廬子悅ぶ。或ひと之を問ふ。屋廬子曰く、季子は鄒に之くことを得ず、儲子は平陸に之くことを得。〉
淳于髡曰:「先名實者,爲人也;後名實者,自爲也。夫子在三卿之中,名實未加於上下而去之,仁者固如此乎?」孟子曰:「居下位,不以賢事不肖者,伯夷也。五就湯、五就桀者,伊尹也。不惡污君,不辭小官者,柳下惠也。三子者不同道,其趨一也。一者何也?曰仁也。君子亦仁而已矣,何必同?」曰:「魯繆公之時,公儀子爲政,子柳、子思爲臣,魯之削也滋甚。若是乎賢者之無益於國也。」曰:「虞不用百里奚而亡,秦繆公用之而霸。不用賢則亡,削何可得與?」曰:「昔者,王豹處於淇,而河西善謳。綿駒處於高唐,而齊右善歌。華周、杞梁之妻,善哭其夫,而變國俗。有諸內,必形諸外。爲其事而無其功者,髡未嘗睹之也。是故無賢者也;有則髡必識之。」曰:「孔子爲魯司寇,不用,從而祭,燔肉不至,不稅冕而行。不知者以爲爲肉也;其知者以爲爲無禮也。乃孔子則欲以微罪行,不欲爲茍去。君子之所爲,衆人固不識也。」
〈淳于髡曰く、名實を先にする者は人の爲めにするなり。名實を後にする者は自ら爲めにするなり。夫子三卿の中に在りて、名實未だ上下に加はらずして之を去る。仁者固より此の如きか。孟子曰く、下位に居て賢を以て不肖に事へざる者は伯夷なり。五たび湯に就き五たび桀に就く者は伊尹なり。污君を惡まず、小官を辭せざる者は柳下惠なり。三子者道を同じくせざれども其趨き一なり。一とは何ぞや。曰く、仁なり。君子は亦仁のみ。何ぞ必ずしも同じからん。曰く、魯の繆公の時公儀子政を爲す。子柳・子思臣たり。魯の削らるゝこと滋〻甚し。是の若きか賢者の國に益なきや。曰く、虞は百里奚を用ひずして亡び、秦の繆公は之を用ひて霸たり。賢を用ひざれば則ち亡ぶ。削らるゝこと何ぞ得べけんや。曰く、昔者王豹、淇に處り、河西善く謳ひ、綿駒高唐に處り、齊右善く歌ふ。華周杞梁の妻善く其夫を哭して國俗を變ず。諸を內に有すれば必ず諸を外に形す。其事を爲して其功無き者は、髡未だ嘗て之を睹ざるなり。是の故に賢者無きなり。有らば則ち髡必ず之を識らん。曰く、孔子魯の司寇たり。用ひられず。從ひて祭る。燔肉至らず。冕を稅がずして行る。知らざる者は以爲らく肉の爲めなりと。其知る者は以爲らく、禮なきが爲めなりと。乃ち孔子は則ち微罪を以て行らんことを欲す。茍も去るを爲すを欲せず。君子の爲す所は衆人固より識らざるなり。〉
孟子曰:「五霸者,三王之罪人也。今之諸侯,五霸之罪人也。今之大夫,今之諸侯之罪人也。天子適諸侯曰巡狩;諸侯朝於天子曰述職。春省耕而補不足,秋省斂而助不給。入其疆,土地辟,田野治,養老、尊賢、俊杰在位,則有慶,慶以地。入其疆,土地荒蕪,遺老、失賢,掊克在位,則有讓。一不朝,則貶其爵;再不朝,則削其地;三不朝,則六師移之。是故天子討而不伐,諸侯伐而不討。五霸者,摟諸侯以伐諸侯者也,故曰:五霸者,三王之罪人也。」
〈孟子曰く、五霸は三王の罪人なり。今の諸侯は五霸の罪人なり。今の大夫は今の諸侯の罪人なり。天子の諸侯に適くを巡狩と曰ひ、諸侯の天子に朝するを述職と曰ふ。春は耕すを省みて足らざるを補ひ、秋は斂むるを省みて給らざるを助く。其疆に入り、土地辟け、田野治り、老を養ひ賢を尊び、俊杰位に在れば則ち慶あり。慶するに地を以てす。其疆に入り、土地荒蕪し、老を遺れて賢を失ひ、掊克位にあれば、則ち讓あり。一たび朝せざれば則ち其爵を貶し、再び朝せざれば則ち其地を削り、三たび朝せざれば則ち六師之に移す。是の故に天子は討じて伐せず、諸侯は伐して討せず。五霸は諸侯を摟きて以て諸侯を伐つ者なり,故に曰く、五霸は三王の罪人なり。〉
五霸,桓公爲盛。葵丘之會,諸侯束牲載書而不歃血。初命曰:『誅不孝,無易樹子,無以妾爲妻。』再命曰:『尊賢、育才,以彰有德。』三命曰:『敬老、慈幼,無忘賓旅。』四命曰:『士無世官,官事無攝,取士必得,無專殺大夫。』五命曰:『無曲防,無遏糴,無有封而不吿。』曰:『凡我同盟之人,既盟之後,言歸于好。』今之諸侯,皆犯此五禁,故曰:今之諸侯,五霸之罪人也。長君之惡,其罪小;逢君之惡,其罪大。今之大夫皆逢君之惡,故曰:今之大夫,今之諸侯之罪人也。」
〈五霸は桓公を盛なりと爲す。葵丘の會に諸侯牲を束ね、書を載せて血を歃らず。初命に曰く、不孝を誅し樹子を易ふること無かれ。妾を以て妻と爲すこと無かれ。再命に曰く、賢を尊び才を育ひ以て有德を彰せ。三命に曰く、老を敬ひ幼を慈し、賓旅を忘るゝこと無かれ。四命に曰く、士官を世〻にすること無かれ。官の事は攝すること無かれ。士を取るには必ず得よ。專に大夫を殺すこと無かれ。五命に曰く、防を曲ぐること無かれ。糴を遏むること無かれ。封ありて吿げざること無かれ。曰く、凡そ我が同盟の人既に盟ふの後、言に好に歸せよと。今の諸侯は皆此の五禁を犯せり。故に曰く、今の諸侯は五霸の罪人なりと。君の惡を長ずるは其罪小なり。君の惡を逢ふるは其罪大なり。今の大夫は皆君の惡を逢ふ。故に曰く、今の大夫は今の諸侯の罪人なりと。〉
魯欲使愼子爲將軍。孟子曰:「不敎民而用之,謂之殃民,殃民者,不容於堯舜之世。一戰勝齊,遂有南陽,然且不可。」愼子勃然不悅,曰:「此則滑厘所不識也。」曰:「吾明吿子,天子之地方千里;不千里,不足以待諸侯。諸侯之地方百里;不百里,不足以守宗廟之典籍。周公之封於魯,爲方百里也;地非不足,而儉於百里。太公之封於齊也,亦爲方百里也;地非不足也,而儉於百里。今魯方百里者五,子以爲有王者作,則魯在所損乎?在所益乎?徒取諸彼以與此,然且仁者不爲,況於殺人以求之乎?君子之事君也,務引其君以當道,志於仁而已。」
〈魯、愼子をして將軍たらしめんと欲す。孟子曰く、民を敎へずして之を用ふる之を民を殃すと謂ふ。民を殃する者は堯舜の世に容れられず。一たび戰ひて齊に勝ち、遂に南陽を有つて、然も且つ不可なり。愼子勃然として悅ばずして曰く、此れ則ち滑厘の識らざる所なり。曰く、吾明かに子に吿げん。天子の地、方千里、千里ならざれば以て諸侯を待つに足らず。諸侯の地、方百里、百里ならざれば以て宗廟の典籍を守るに足らず。周公の魯に封ぜらるゝや方百里と爲す、地足らざるに非ず、而して百里に儉す。太公の齊に封ぜらるゝや、亦方百里と爲す。地足らざるに非ざるなり、而して百里に儉す。今魯方百里の者五つ、子以爲らく王者作ることあらば則ち魯は損する所に在るか、益する所に在るか、徒に諸を彼に取りて以て此に與ふ。然れども且つ仁者は爲さず。況んや人を殺して以て之を求むるに於てをや。君子の君に事ふるや、務めて其君を引きて以て道に當り、仁に志さしむるのみ。〉
孟子曰:「今之事君者,皆曰:『我能爲君辟土地,充府庫。』今之所謂良臣,古之所謂民賊也。君不鄉道、不志於仁,而求富之,是富桀也。『我能爲君約與國,戰必克。』今之所謂良臣,古之所謂民賊也。君不鄉道、不志於仁,而求爲之强戰,是輔桀也。由今之道,無變今之俗,雖與之天下,不能一朝居也。」
〈孟子曰く、今の君に事ふる者は曰く、我は能く君の爲めに土地を辟き府庫を充たさんと。今の所謂良臣は、古の所謂民の賊なり。君道に鄉はず仁に志さずして之を富まさんことを求む、是れ桀を富ますなり。我れ能く君の爲めに、與國と約し戰へば必ず克たんと。今の所謂良臣は古の所謂民の賊なり。君道に鄉はず仁に志さず、而して之を爲めに强戰することを求む。是れ桀を輔くるなり。今の道に由りて今の俗を變ずること無ければ、之に天下を與ふと雖も、一朝も居ること能はざるなり。〉
白圭曰:「吾欲二十而取一,何如?」孟子曰:「子之道,貉道也。萬室之國,一人陶,則可乎?」曰:「不可,器不足用也。」曰:「夫貉,五穀不生,惟黍生之,無城郭、宮室、宗廟、祭祀之禮,無諸侯幣帛饔飧,無百官有司,故二十取一而足也。今居中國,去人倫,無君子,如之何其可也?陶以寡,且不可以爲國,況無君子乎?欲輕之於堯舜之道者,大貉、小貉也;欲重之於堯舜之道者,大桀、小桀也。」
〈白圭曰く、吾二十にして一を取らんと欲す何如と。孟子曰く、子の道は貉の道なり。萬室の國一人陶すれば則ち可ならんや。曰く、不可。器用ふるに足らざるなり。曰く、夫れ貉は五穀生ぜず、惟黍のみ之に生ず、城郭宮室宗廟祭祀の禮無く、諸侯の幣帛饔飧無く、百官有司無し。故に二十にして一を取りて足れり。今中國に居り、人倫を去り君子無ければ、之を如何ぞ其れ可ならんや。陶以て寡きも且つ以て國を爲す可からず。況んや君子無きをや。之を堯舜の道より輕くせんと欲する者は大貉小貉なり。之を堯舜の道より重くせんと欲する者は大桀小桀なり。〉
白圭曰:「丹之治水也愈於禹。」孟子曰:「子過矣。禹之治水,水之道也。是故禹以四海爲壑。今吾子以鄰國爲壑。水逆行,謂之洚水;洚水者,洪水也,仁人之所惡也。吾子過矣。」
〈白圭曰く、丹の水を治むるや、禹より愈れり。孟子曰く、子過てり。禹の水を治むるは水の道なり。是の故に禹は四海を以て壑となす。今吾子は鄰國を以て壑と爲す。。水は逆行する之を洚水といふ。洚水とは洪水なり。仁人の惡む所なり。吾子過てり。〉
孟子曰:「君子不亮,惡乎執?」
〈孟子曰く、君子亮ならざれば惡にか執らん。〉
魯欲使樂正子爲政。孟子曰:「吾聞之,喜而不寐。」公孫丑曰:「樂正子强乎?」曰:「否。」「有知慮乎?」曰:「否。」「多聞識乎?」曰:「否。」「然則奚爲喜而不寐。」曰:「其爲人也好善。」「好善足乎?」曰:「好善優於天下,而況魯國乎?夫茍好善,則四海之內,皆將輕千里而來吿之以善。夫茍不好善,則人將曰:『訑訑,予既已知之矣。』訑訑之聲音顏色,距人於千里之外。士止於千里之外,則讒諂面諛之人至矣。與讒諂面諛之人居,國欲治,可得乎?」
〈魯、樂正子をして政を爲さしめんと欲す。孟子曰く、吾之を聞き喜びて寐られず。公孫丑曰く、樂正子は强か。曰く、否。知慮あるか。曰く、否。聞識多きか。曰く、否。然らば則ち奚爲ぞ喜びて寐られざる。曰く、其の人となりや善を好む。善を好めば足るか。曰く、善を好めば天下に優なり。而るを況んや魯國をや。夫れ茍も善を好めば、則ち四海の內、皆千里を輕んじて、來つて之に吿ぐるに善を以てせんとす。夫れ茍も善を好まざれば、則ち人將に曰はんとす、訑訑として予既に已に之を知ると。訑訑の聲音顏色人を千里の外に距む。士千里の外に止まらば、則ち讒諂面諛の人至らん。讒諂面諛の人と居らば、國治を欲すとも得べけんや。〉
陳子曰:「古之君子,何如則仕?」孟子曰:「所就三,所去三。迎之致敬以有禮,言將行其言也,則就之;禮貌未衰,言弗行也,則去之。其次,雖未行其言也,迎之致敬以有禮,則就之;禮貌衰,則去之。其下,朝不食,夕不食,饑餓不能出門戶;君聞之,曰:『吾大者不能行其道,又不能從其言也,使饑餓於我土地,吾恥之。』周之,亦可受也,免死而已矣。」
〈陳子曰く、古の君子何如なれば則ち仕ふる。孟子曰く、就く所三つ、去る所三つ。之を迎ふるに敬を致して以て禮あり。言ひて將に其言を行はんとすれば、則ち之に就く。禮貌未だ衰へざるも、言行はれざれば則ち之を去る。其次は未だ其言を行はずと雖も、之を迎ふるに敬を致し、以て禮あれば則ち之に就く。禮貌衰ふれば則ち之を去る。其下は朝に食はず夕に食はず、饑餓門戶を出づる能はず。君之を聞きて曰く、吾大にしては其道を行ふ能はず。又其言に從ふ能はず。我土地に饑餓せしむるは、吾之を恥づとて、之を周はば亦受くべきなり、死を免るゝのみ。〉
孟子曰:「舜發於畎畝之中,傅說舉於版筑之間,膠鬲舉於魚鹽之中,管夷吾舉於士,孫叔敖舉於海,百里奚舉於市。故天將降大任於是人也,必先苦其心志,勞其筋骨,餓其體膚,空乏其身,行拂亂其所爲;所以動心忍性,曾益其所不能。人恆過,然後能改。困於心,衡於慮,而後作。徵於色,發於聲,而後喻。入則無法家拂士、出則無敵國外患者,國恆亡。然後知生於憂患,而死於安樂也。」
〈孟子曰く、舜は畎畝の中に發し、傅說は版筑の間に舉げられ、膠鬲は魚鹽の中に舉げられ、管夷吾は士に舉げられ、孫叔敖は海に舉げられ、百里奚は市に舉げらる。故に天の將に大任を是人に降さんとするや、必ず先づ其心志を苦め、其筋骨を勞し、其體膚を餓し、其の身を空乏にし、行其の爲す所に拂亂す。心を動し性を忍び其の能くせざる所を曾益する所以なり。人恆に過ちて然る後に能く改む。心に困し慮に衡して後に作る。色に徵し聲に發して後に喻る。入りては則ち法家拂士無く、出ては則ち敵國外患無き者は國恆に亡ぶ。然して後に知る、憂患に生きて安樂に死することを。〉
孟子曰:「敎亦多術矣。予不屑之敎誨也者,是亦敎誨之而已矣。」
〈孟子曰く、敎も亦術多し。予が之を屑しとして敎誨せざる者は、是れ亦之を敎誨するのみ。〉