太平記/巻第四十
巻第四十
334 中殿御会事
貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸あり。是は後白河法皇の御遠忌追賁之御為に、三日まで御逗留有て法花御読経あり。安居院の良憲法印・竹中僧正慈照、導師にぞ被参ける。難有法会なれば、聴聞の緇素不随喜云者なし。惣じて此君御治天の間、万づ継絶、興廃御坐す叡慮也しかば、諸事の御遊に於て、不尽云事不御座。故に中殿御会は、累世の規摸也。然るを此御世に未無其沙汰。仍連々に思食立しかば、関白殿其外の近臣内々被仰合、中殿の宸宴は大儀なる上、毎度天下の凶事にて先規不快由、面々一同に被申ければ、重て有勅定けるは、聖人有謂、詩三百一言思無邪と。されば治れる代の音は安して楽む。乱れたる代の音は恨て忿るといへり。日本哥も可如此。政を正して邪正を教へ、王道の興廃を知は此道也。されば昔の代々の帝も、春の花の朝・秋の月の夜、事に付つゝ哥を合せて奉らん人の慧み、賢愚なるをも知食けるにや。神代の風俗也。何れの君か是を捨給ん。聖代の教誡也。誰人か不哢之。抑中殿の宸宴と申侍るは、後冷泉院天喜四年三月画工の桜花を叡覧有て土御門大納言師房卿に勅して、「新成桜花。」と云題を令献、清涼殿に召群臣御製を被加、同糸竹の宴会あり。自爾以来、白河院応徳元年三月左大弁匡房に勅して「花契多春。」と云題を令献、於中殿被講之。又堀河院御代永長元年三月権大納言匡房卿に課て、「花契千年。」と云題を令献、宴遊を被伸。又崇徳院御宇天承元年十月、権中納言師頼に勅して、「松樹緑久。」と云題を令献、宸宴有き。其後建保六年八月順徳院光明峯寺の関白に勅して、「池月久澄。」と云題を令献被講き。次後醍醐院御宇元徳二年二月、権中納言為定卿に勅して、「花契万春。」と云題にて、中殿の御会を被行之。此外承保二年四月・長治二年三月・嘉承二年三月・建武二年正月、清涼殿にして和哥の宴雖在之、非一二度、中殿の御会先規には不加侍にや。加様の先蹤皆聖代洪化なり。何ぞ不快の例といはんや。然に今年の春は九城の裏の花香く、八島の外に風治れる時至れり。早く尋建保芳躅、題並序の事。関白可被献之由強て有勅定しかば、中殿の御会の事内々已に定りにけり。征夷将軍も、此道に数奇給ふ事なれば、勅撰なんど被申行上、近比は建武の宸宴、贈左府の嘉躅非無由緒、被仰出しかば、不及子細領掌被申けり。因此蔵人左少弁仲光を奉行にて、三月二十九日を被定。勅喚の人々に賦題。「花多春友。」と云題を、任建保例兼日に関白被出けるとかや。既に其日に成しかば、母屋の廂の御簾を捲て、階の西の間より三間北にして、二間に各菅の円座を布て公卿の座とす。長治元年には雖為二行、今度は関白殿の加様に座を被設。御帳の東西には三尺の几帳を被立、昼の御座の上には、御剣・御硯箱を被措たり。大臣の座末、参議の坐の前には、各高灯台を被立たり。関白直廬より御参あれば、内大臣已下相随ひ給ふ。任保安例今日既に直衣始の事あり。前駆・布衣・随身の褐衣如常なれば、差たる見事は無りけり。丑刻許に将軍已に参内あり。其行妝見物の貴賎皆目を驚かせり。公家家礼の人々には、為秀・行忠・実綱卿・為邦朝臣なんど庭上に下て礼あり。左衛門の陣の四脚に、将軍即参入あり。先帯刀十人左右に相番て曳列。左は佐々木佐渡四郎左衛門尉時秀、地白の直垂に金銀の薄にて四日結を挫たる紅の腰に、鰄の金作の太刀を帯く。右は小串次郎左衛門尉詮行、地緇の直垂に、銀薄にて二雁を挫白太刀を佩く。次伊勢七郎左衛門貞行、地白の直垂に、金薄にて村蝶を押て白太刀を佩て左に歩む。右は斉藤三郎左衛門尉清永、地香の直垂に、二筋違の中に、銀薄にて■菱を押たる黄腰に、鰄の太刀を佩たり。次に大内修理亮、直垂に金薄にて大菱を押す。打鰄に金作の太刀を帯く。右は海老名七郎左衛門尉詮季、地黒に茶染直垂に、金薄にて大笳篭を押して、黄なる腰に白太刀帯たり。次本間左衛門太郎義景、地白紫の片身易の直垂に金銀の薄にて十六目結を押、紅の腰に白太刀を佩く。右に山城四郎左衛門尉師政、地白に金泥にて州流を書たる直垂に、白太刀佩て相随ふ。次に粟飯原弾正左衛門尉詮胤、地黄■に銀泥にて水を書、金泥にて鶏冠木を書たる直垂に、帷は黄なる腰に白太刀を帯たり。由々敷ぞ見へたりける。此次に征夷大将軍正二位大納言源朝臣義詮卿、薄色の立紋の織物の指貫に、紅の打衣を出し、常の直垂也。左の傍に山名民部少輔氏清、濃紫の指貫に款冬色の狩衣著して帯剣の役に随へり。右は摂津掃部頭能直、薄色の指貫、白青織物の狩衣著て沓の役に候す。佐々木備前五郎左衛門尉高久、二重狩衣にて御調度の役に候す。本郷左近大夫将監詮泰は、香の狩衣にて笠の役に随ふ。今河伊予守貞世は侍所にて、爽かに胄たる随兵、百騎許召具して、轅門の警固に相随。此外土岐伊予守直氏・山城中務少輔行元・赤松大夫判官光範・佐々木尾張守高信・安東信濃守高泰・曾我美濃守氏助・小島掃部助詮重・朝倉小次郎詮繁・同又四郎高繁・彦部新左衛門尉秀光。藤民部五郎左衛門盛時・八代新蔵人師国・佐脇右京亮明秀・藁科新左衛門尉家治・中島弥次郎家信・後藤伊勢守・久下筑前守・荻野出羽守・横地山城守・波多野出雲守・浜名左京亮・長次郎、是等の人々思々の直垂にて、飼たる馬に厚総係て、折花尽美。将軍堂上の後、帯刀の役人は、皆申門の外に敷皮を布て列居す。先依別勅御前の召あり。関白殿御前に被参。其後刻限に至て、人々殿上に著座あり。右大臣・内大臣・按察使実次・藤中納言時光・冷泉中納言為秀・別当忠光・侍従宰相行忠・小倉前宰相実名・二条宰相中将為忠・富小路前宰相中将実遠なんどぞ被参ける。関白殿奉行職事仲光を召て、事の具否を尋らる。軈て被伺出御。御衣は黄直衣・打の御袴也。関白殿著座有て後、頭左中弁嗣房朝臣を召て、公卿可著坐由を仰す。嗣房於殿上諸卿を召す。右大臣・内大臣以下、次第に著座有しかば、将軍は殿上には著座し給はで、直に御前に進著せらる。爾後嗣房朝臣・仲光・懐国・五位殿上人伊顕なんど、面々の役に随て、灯台・円座・懐紙等を措く。為敦・為有・為邦朝臣・為重・行輔なんど迄著座ありしか共、右兵衛督為遠は御前には不著、殿上の辺に徘徊す。是は建保に定家卿如此の行迹たりし其例とぞ申合ける。富小路前宰相中将・冷泉院中納言・藤中納言・鎌倉大納言・内大臣・右大臣・関白なんど懐紙の名、膝行皆思々也。関白は依建保之例雖為序者、任位次置之。又直衣蹈哺て膝行あり。故太閤元徳の中殿の御会に被参しに此作法侍りけるとかや。右大臣依為読師、直に御前の円座に著し給て、講師仲光を召す。又序を為講、由別勅時光卿を被召。右大弁為重を召て懐紙を令重。序より次第に是を読上たり。春日侍中殿同詠花多春友応製和歌一首並序関白従一位臣藤原朝臣良基上。夫天之仁者春也。地之和者花也。則天地悠久之道、而施於不仁之仁、玩煙霞明媚之景、而布大和之和。黄鴬呼友、遷万年之枝、粉蝶作舞、戯百里之囿。鑠乎聖徳、時哉宸宴。爰騰哥詠於五雲之間、忽興治世之風。奏簫韶於九天之上、再聞大古之調。況又玉笙之操、高引紫鸞之声焉。奎章之巧、新■素鵝之詞矣。盛乱之世、未必弄雅楽、兼之者此時也。好文之主、未必携和語、兼之者我君也。一場偉観千載之徽猷者耶。小臣久奉謁竜顔、忝佐万機之政。親奏鳳詔、聊記一日之遊。其辞曰、つかへつゝ齢は老ぬ行末の千年も花になをや契らん此次に右大臣正二位藤原朝臣実俊・内大臣正二位臣藤原朝臣師良・正二位行陸奥出羽按察使藤原朝臣実継、此次は征夷大将軍正二位臣源朝臣義詮・正二位行権中納言臣藤原朝臣時光・正二位行権中納言藤原朝臣為秀・権中納言従三位兼行左衛門督臣藤原朝臣忠光、此次参議従三位兼行侍従兼備中権守臣藤原朝臣行忠・従三位兼右兵衛督臣藤原朝臣為遠・蔵人内舎人六位上行式部大丞臣藤原朝臣懐国等に至迄、披講事終て、講師皆退給ければ、講誦の人々、猶可祗候由、依天気関白読師の円座に著給しかば、別勅にて権中納言時光卿を被召、御製の講師として、開匂ふ雲居の花の本つ枝に百代の春を尚や契覧講誦十返許に及しかば、日已に内樋に耀く程也。されば物の色合さだかに、花の薫も懐しく、霞立気幸も最艶なるに、面々の詠哥の声も雲居に通る心地して、身に入許ぞ聞へける。御製の披講終て、各本坐に退けば、伶人にあらざる人々も座を退く。其後軈て御遊始り、笛は三条大納言実知卿、和琴は左宰相中将実綱、篳篥は前兵部卿兼親、笙は前右衛門督刑時、拍子は綾小路三位成方、琴は公全朝臣、付歌者宗泰朝臣也。呂には此殿・鳥の破・席田・鳥の急、律には万歳楽・伊勢海・三台急也けり。玉笙の声の中には鳳鳥も来儀し、和琴の調の間には鬼神も感動するかとぞ覚し。此宸宴に有御所作事邂逅也。建保には御琵琶にて有ける也。爾後は稀なる御事なるを、今此御宇に詩哥両度の宸宴に、毎度の御所作難有事とぞ聞へし。懸る大会は聊の故障もある事なるに、一事の違乱煩なく無為に被遂行ぬれば、万邦磯城島の政道に帰し、四海難波津の古風を仰て、人皆柿本の遺愛を恋るのみならず、世挙て柳営の数奇を感嘆し、翌日午刻許に人々被退出しかば、目出なんど云ふ許りなし。さても中殿の御会と云事は、吾朝不相応宸宴たるに依て、毎度天下に重事起ると人皆申慣せる上、近臣悉眉を顰て諌言を上たりしか共、一切無御承引終に被遂行けり。さるに合せて、同三月二十八日丑刻に、夥敷大変西より東を差て飛行と見へしが、翌日二十九日申刻に天竜寺新造の大廈、土木の功未終、失火忽に燃出て一時の灰燼と成にけり。故に此寺は、公家武家尊崇異于他して、五山第二の招提なれば、聊爾にも攘災集福の懇祈を専にする大伽藍なるに、時節こそあれ、不思議の表示哉と、貴賎唇をぞ翻しける。因慈将軍御参内の事は可有斟酌由、再三被経奏聞しか共、是寺已に勅願寺たる上者、最天聴を驚す所なれ共、如此の拠災殃、臨期宸宴を被止事無先規。早諸卿に被仰下しかば、此問答に時遷て、御参内も夜深過る程になり、御遊も翌日に及びけるとかや。浅猿かりし事共なり。
335 左馬頭基氏逝去事
角ては天下も如何んと危ぶめる処に、今年の春の比より、鎌倉左馬頭基氏、聊不例の事有と聞へしかば、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳にて忽に逝去し給けり。連枝の鍾愛は多けれ共、此別に至ては争か可不悲。矧や是は唯二人、二翼両輪の如くに華夷の鎮憮と成給しかば、さらぬ別の悲さもさる事ながら、関東の柱石摧ぬれば、柳営の力衰ぬと、愁歎特に不浅。就之京都大に怖慎て、祈祷なども可有と沙汰ありけり。
336 南禅寺与三井寺確執事
同六月十八日、園城寺の衆徒蜂起して、公武に致列訴事あり。其謂を何事ぞと尋ぬれば、南禅寺為造営此比被建たる於新関、三井寺帰院の児を関務の禅僧是を殺害す。是希代の珍事とて寺門の衆徒鬱憤を散ぜんと、大勢を卒し、不日に推寄て、当務の僧共・人工・行者に至迄、打殺すのみならず、猶も憤を不休、南禅寺を令破却、達磨宗の蹤跡を削て、為令達宿訴、忽に嗷訴にぞ及ける。即山門・南都へ牒送して、四箇の大寺の安否を可定由、已に往日の堅約也。何の余儀にか可及。一国に触訴て、事令遅々、神輿・神木・神坐の本尊、共に可有入洛罵りければ、■や天下の重事出来ぬるはと、有才人は潜に是を危みける。され共事大儀なれば、山門も南都も急には不思立。結句山門には、東西両塔に様々の異儀有て、三塔の事書、鳥使翅を費許也。然ば無左右可事行共不覚、公方の御沙汰は、載許無其期しかば、園城寺は款状徒に被抛て、忿の中に日数をぞ送りける。
337 最勝講之時及闘諍事
去程に同八月十八日、最勝講可被行とて、南都・北嶺に課て、所作の人数をぞ被召ける。興福寺より十人、東大寺より二人、延暦寺より八人也。園城寺は今度の訴詔に、是非の左右に不及間、不可随公請由所存申に依て、四箇の一寺は被除畢。証義は前大僧正懐雅・山門の慈能僧正をぞ被召ける。講演論場の砌には、学海智水を涌し、慧剣を令闘事なるに、南都・北嶺の衆徒等、於南庭不慮に喧嘩を引出して、散々の合戦にぞ及ける。紫宸殿の東、薬殿の前には南都の大衆、西の長階の前には山門の衆徒、列立したりけるが、南都の衆徒は、面々に脇差の太刀なんど用意の事なれば、抜連て切て懸る。山門の大衆は、太刀・長刀も不持ければ争か可叶。一歩も不践止、紫宸殿の大床の上へ被捲上、足手にも不係けるに、光円坊良覚・一心坊の越後注記覚存・行泉坊の宗運・明静房の学運・月輪房の同宿円光房・十乗房を始として、宗徒の大衆腰刀許にて取て返し、勇誇たる南都の衆徒の中へ、面も不振切て入る。中にも一心坊の越後注記は、南都若大衆の持たる四尺八寸の太刀を引奪て、我一人の大事と切て廻けるに、奈良法師被切立、村雲立て見へける処に、手掻の侍従房只一人蹈止て、一足も不退、喚叫で切合たり。追ひ廻し追靡け、時移る程闘けるに、山門の衆徒、始は小勢にて而も無用意也ける間、叶べくも不見けるが、山徒の召仕ふ中方の者共、太刀・長刀の鋒を調へ、四脚の門より込入て、縦横無碍に切て廻しかば、南都の大衆は大勢也といへ共、怺兼て、北の門より一条大路へ、白雲の風に雲珠巻が如にぞ、靉出たりける。されば南庭の白砂上には、手蓋の侍従を始として、宗との衆徒八人まで、尸を双て切臥らる。山門方にも手負数た有けり。半死半生の者共を、戸板・楯なんどに乗せて、舁連たる有様、前代未聞の事共也。浅猿哉、紫宸北闕の雲の上、玄圃茨山の月の前には、霜剣の光冷して、干戈の場と成しかば、御溝の水も紅を流し、著座の公卿大臣も束帯悉く緋の色に染成して、呆給許也。さしも是程の騒動なりしか共、主上は是にも騒がせ給御事もなく、手負・死人共を取捨させ、血を濯清めさせ、席を改させられて、最勝講をば無子細被遂行けるとかや。是則厳重の御願、天下の大会たるに、斯る不思議出来ぬれば、就公私不吉の前相哉と、人皆物を待心地ぞせられける。
338 将軍薨逝事
斯る処に、同九月下旬の比より、征夷将軍義詮身心例ならずして、寝食不快しかば、和気・丹波の両流は不及申、医療に其名を被知程の者共を召して、様々の治術に及しか共、彼大聖釈尊、双林の必滅に、耆婆が霊薬も其験無りしは、寔に浮世の無常を、予め示し置れし事也。何の薬か定業の病をば愈すべき。是明らけき有待転変の理なれば、同十二月七日子刻に、御年三十八にて忽に薨逝し給にけり。天下久く武将の掌に入て、戴恩慕徳者幾千万と云事を不知。歎き悲みけれ共、其甲斐更に無りけり。さて非可有とて、泣々薨礼の儀式を取営て、衣笠山の麓等持院に奉遷。同十二日午刻に、荼毘の規則を調て、仏事の次第厳重也。鎖龕は東福寺長老信義堂、起龕は建仁寺沢竜湫、奠湯万寿寺桂岩、奠茶真如寺清■西堂、念誦天竜寺春屋、下火は南禅寺定山和尚にてぞをはしける。文々に悲涙の玉詞を瑩き、句々に真理の法義を被宣しかば、尊儀速に出三界苦輪、直到四徳楽邦給けんと哀なりし事共也。去程に今年は何なる年なれば、京都と鎌倉と相同く、柳営の連枝忽に同根空く枯給ひぬれば、誰か武将に備り、四海の乱をも可治と、危き中に愁有て、世上今はさてとぞ見へたりける。
339 細河右馬頭自西国上洛事
爰に細河右馬頭頼之、其比西国の成敗を司て、敵を亡し人をなつけ、諸事の沙汰の途轍、少し先代貞永・貞応の旧規に相似たりと聞へける間、則天下の管領職に令居、御幼稚の若君を可奉輔佐と、群議同赴に定りしかば、右馬頭頼之を武蔵守に補任して、執事職を司る。外相内徳げにも人の云に不違しかば、氏族も是を重んじ、外様も彼命を不背して、中夏無為の代に成て、目出かりし事共也。