太平記/巻第三十九
巻第三十九
322 大内介降参事
聖人世に出て義を教へ道を正す時だにも、上智は少く下愚は多ければ、人の心都て不一致。肆に尭の代にすら四凶の族あり。魯国に小星卯あり。況時今澆季也。国又卑賎也。因何に仁義を知人有べきなれ共、近年我朝の人の有様程うたてしき事をば不承。先弓矢取とならば、死を善道に守り名を義路に不失こそ可被思、僅に欲心を含ぬれば、御方に成るも早く、聊も有恨、敵になるも易し。されば今誰をか始終の御方と可憑思。変じ安き心は鴻毛より軽く、不撓志は麟角よりも稀也。人数ならぬ小者共の中に、適一度も翻らぬ人一両人有といへ共、其れも若禄を与へ利を含めて呼出す方あらば、一日も足を不可留。只五十歩に止る者、百歩に走るを如咲。見所の高懸とかやの風情して、加様の事を申共、書伝の片端を聞たる人は古へを引て、さても百里奚は虞の君を棄て、秦の穆公に不仕、管夷吾は桓公に降て公子糾と不死しは如何に、とぞ思給らん。それは誠に似たる事は似たれ共、是なる事は是ならず。彼百里奚は、虞公の、垂棘の玉、屈産の乗の賄に耽て路を晉に開しかば、諌けれ共叶まじき程を知て、秦の穆公に仕へき。管夷吾は召忽と共に不死、子路非仁譏りしかば、豈如匹夫匹婦自経溝壑無知乎と、文宣王是を塞ぎ給へり。されば古賢の世を治めん為に二君に仕しと、今の人の欲を先として降人に成とは、雲泥万里の隔其中に有と云つべし。爰に大内介は多年宮方にて周防・長門両国を打平げて、無恐方居たりけるが、如何が思ひけん、貞治三年の春の比より俄に心変じて、此間押へて領知する処の両国を給らば、御方に可参由を、将軍羽林の方へ申たりければ、西国静謐の基たるべしとて、軈て所望の国を被恩補。依之今迄弐無りける厚東駿河守、長門国の守護職を被召放含恨ければ、則長門国を落て筑紫へ押渡り、菊池と一に成て、却て大内介を攻んとす。大内介遮て、三千余騎を卒して豊後国に押寄せ、菊池と戦けるが、第二度の軍に負て菊池が勢に囲れければ、降を乞て命を助り、己が国へ帰て後、京都へぞ上りける。在京の間数万貫の銭貨・新渡の唐物等、美を尽して、奉行・頭人・評定衆・傾城・田楽・猿楽・遁世者まで是を引与へける間、此人に勝る御用人有まじと、未見へたる事もなき先に、誉ぬ人こそ無りけれ。世上の毀誉非善悪、人間の用捨は在貧福とは、今の時をや申すべき。
323 山名京兆被参御方事
山名左京大夫時氏・子息右衛門佐師氏は、近年御敵に成て、南方と引合て、両度まで都を傾しかば、将軍の御為には上なき御敵なりしか共、内々属縁、「両度の不義全く将軍の御世を危め奉らんとには非ず。只道誉が余に本意無りし振舞を思知せん為許にて候き。其罪科を御宥免有て、此間領知の国々をだにも被恩補候はゞ、御方に参て忠を致すべき。」由をぞ申たりける。げにも此人御方に成ならば、国々の宮方力を落すのみならず、西国も又可無為とて、近年押へて被領知つる因幡・伯耆の外、丹波・丹後・美作、五箇国の守護職を被充行ければ、元来多年旧功の人々、皆手を空して、時氏父子の栄花、時ならぬ春を得たり。是を猜て述懐する者共、多く所領を持んと思はゞ、只御敵にこそ成べかりけれと、口を顰けれ共甲斐なし。「人物競紛花、麗駒逐鈿車。此時松与柏、不及道傍花。」と、詩人の賦せし風諭の詞、げにもと思知れたり。
324 仁木京兆降参事
仁木左京大夫義長は、差たる不義は無りしか共、行迹余りに思ふ様也とて、諸人に依被悪、心ならず御敵になり、伊勢国に逃下て、長野の城に楯篭りたりしを、初めは佐々木六角判官入道崇永・土岐大膳大夫入道善忠両人討手を承、是を攻けるが、佐々木は他事に被召て上洛しぬ。土岐一人国に留て攻戦けれども、義長敢て城を不被落。此時又当国の国司北畠源中納言顕信卿、雲出川より西を管領して、兵を出し隙を伺て戦ひ挑し間、一国三に分れて、片時も軍の絶る日もなし。角て五六年を経て後、義長日来の咎を悔て降参すべき由を被申ければ、「此人元来忠功異于他。今又降参せば、伊賀・伊勢両国も静るべし。」とて、義長を京都へ返し入られける。是は勢已に衰たる後の降参なりしかば、領知の国もなく、相従し兵も身に不添、李陵が如在胡にして、旧交の友さへ来らねば、省る人遠き庭上の花、春独春の色なり。鞍馬稀なる門前の柳、秋独秋の風なり。
325 芳賀兵衛入道軍事
如斯近年は、敵に成たりつる人々は皆降参して、貞治改元の後より洛中西国静也といへ共、東国に又不慮の同士軍出来して里民樵蘇を不楽。其事の起りを尋れば、此三四年が先に、将軍兄弟の御中悪く成給て、合戦に及し刻、上杉民部大輔、故高倉禅門の方にて、始は上野国板鼻の合戦に宇都宮に打負て、後には薩■山の軍に御方の負をしたりしが、兔角して信濃国へ逃下り、宮方に成て猶此所存を遂ばやと、時を待てぞ居たりける。上杉斯る不義を致しけれども、鎌倉左馬頭基氏、幼少より上杉に懐きそだてられたりし旧好難捨思はれければ、以別儀先越後国守護職を与て上杉をぞ被呼出ける。此時芳賀兵衛入道禅可は、越後国の守護にて有けるが、「降参不忠の上杉に被思替奉て、忠賞恩補の国を可被召放様やある。」とて、上杉と芳賀と越後国にて及合戦事数月也。禅可遂に打負しかば当国を上杉に被奪のみならず、一族若党其数を不知落様に皆討れにけり。禅可是を忿て、「哀不思議も有て世中乱よかし。上杉と一合戦して此恨を散ぜん。」と憤けり。斯る処、上杉已に左馬頭の執事に成て鎌倉へ越ると聞へければ、禅可道に馳向て戦はんとて、上野の板鼻に陣を取てぞ待せける。然共上杉、上野国へも不入先に、左馬頭宣ひけるは、「何ぞ任雅意加様の狼籍を可致。所存あらば逐て可致訴詔処に、合戦の企奇怪の至也。所詮可加退治。」とて、自大勢を卒して宇都宮へぞ被寄ける。禅可此事を聞て、「さらば鎌倉殿と先戦はん。」とて、我身は宇都宮に有ながら、嫡子伊賀守高貞・次男駿河守八百余騎を差副て、武蔵国へぞ遣しける。此勢坂東路八十里を一夜に打て、六月十七日辰刻に、苦林野にぞ著にける。小塚の上に打上て鎌倉殿の御陣を見渡せば、東には白旗一揆の勢五千余騎、甲冑の光を耀して、明残る夜の星の如くに陣を張る。西には平一揆の勢三千余騎、戟矛勢ひ冷して、陰森たる冬枯の林を見に不異。中の手は左馬頭殿と覚て、二引両の旗一流朝日に映じて飛揚せる其陰に、左輔右弼密く、騎射馳突の兵共三千余騎にて控へたり。上より見越ば数百里に列て、坂東八箇国の勢共、只今馳参ると覚て如雲霞見へたり。雲鳥の陣堅して、逞卒機尖なれば、何なる孫呉が術を得たり共、千騎に足ぬ小勢にて懸合すべしと不覚。芳賀伊賀守馬に打乗て、母衣を引繕ひて申けるは、「平一揆・白旗一揆は、兼て通ずる子細有しかば、軍の勝負に付て、或は敵ともなり或は御方とも成べし。跡にさがりて只今馳参る勢は、縦ひ何百万騎有と云共、物の用に不可立。家の安否身の浮沈、只一軍の中に定むべし。」と高声に呼て、前後に人なく東西に敵有とも思はぬ気色にて、真前にこそ進だれ。舎弟駿河守是を見て、「軍門に君の命なし。戦場に兄の礼なし。今日の軍の先懸は、我ならでは覚ぬ者を。」と、嗚呼がましげに広言吐て、兄より先につと懸抜て懸入上は、相従ふ兵共八百余騎誰かは是に可劣、我先に戦はんと、魚鱗に成てぞ懸りける。左馬頭の基氏、参然たる敵の勇鋭を見ながら機を撓め給はず、相懸りに馬を閑々と歩ませ事もなげに進まれたり。敵時の声三度作て些擬議したる処に、天も落ち地も裂るかと覚る許に、只一声時を作て左右に颯と分る。芳賀が八百余騎を東西より引裹て、弓手に相付け馬手に背けて、切ては落され、まくつまくられつ半時許戦て、両陣互に地を易、南北に分れて其迹を顧れば、原野血に染て草はさながら緑をかへ、人馬汗を流、堀かねの池も血となる。左馬頭は芳賀が元の陣に取上り、芳賀は左馬頭の始の陣に打上て、共に其兵を見るに、討れたる者百余人、被疵者数を不知。「さても宗との者共の中に、誰か討れたる。」と尋る処に、「駿河守殿こそ、鎌倉殿に切落され給ふと見へつるが、召れて候し御馬の放れて候つる。如何様討れさせ給てや候らん。」と申ければ、兄の伊賀守流るゝ涙を汗と共に推拭て云けるは、「只二人如影随ふて、死ば共にと思つる弟を、目の前にて被討、其死骸何くに有共不見、さてあると云事や可有。」とて、切散されたる母衣結継で鎧ゆり直し、喚ひてぞ懸入ける。鎌倉殿方にも、軍兵七十余人討れたるのみならず、木戸兵庫助、両方引分つる時、近付敵に引組て、落重る敵に被討ければ、是を聞給て、鎌倉殿御眼血をときたる如くに成て宣ひけるは、「此合戦に必死なば諸共に死し、生ば同生んと、深く契し事なれば、命を惜べきに非ず。」とて、如編木子叩きなしたる太刀の歯本を小刀にて削り直し、打振て懸足を出し給へば、左右の兵共三千余騎、大将の先に馳抜て、一度に颯と蒐り逢ひ、追廻懸違へ、喚き叫で戦ふ声、さしも広き武蔵野に余る許ぞ聞へける。大将左馬頭、余りに手繁く懸立々々戦ける程に、乗給へる馬の三頭・平頚三太刀斬れて、犬居にどうとぞ臥たりける。是を大将と見知たる敵多かりければ、懸寄々々冑を打落さんと、後より廻る者あり、飛下々々徒立に成、太刀を打背けて組討にせんと、左右より懸る敵あり。され共左馬頭元来力人に勝れ、心飽まで早して、膚撓まず目逃れず、黄石公が伝へし処、李道翁が授し道、機に膺て心とせし太刀きゝなれば、或は冑の鉢を真二に打破り、引太刀に廻る敵を斬居、或は鎧のどう中を不懸打切て、余る太刀にては、左に懸る敵を払はる。其刃に胸を冷して敵敢て不近付。東西開け前後晴て、弥大将馬に放れぬと、見知ぬ敵も無りけり。大高左馬助重成遥に是を見て、急馳寄り弓手に下立て、「穴夥の只今の御挙動候や。昔の和泉・朝比奈も是まではよも候はじ。」と、覿面に奉褒、「早此馬に召れ候へ。」と申せば、左馬頭悦て、馬の内跨にゆらりと飛乗て、鞍坪に直り様に、「平家の侍後藤兵衛が主の馬に乗て逃たりしには、遥に替りたる御振舞哉。」と、「只今こそ誠に大高の名は相応したれ。」と、互にぞ褒返されける。其後左馬助は、放れ馬の有けるを取て打乗、所々に村立たる御方の勢を相招き、又敵の中へ懸入て、時移るまでぞ戦ける。互に人馬を休めて、両方へ颯と引分たれば、又鎌倉殿の御陣は芳賀が陣となり、芳賀が陣は二度鎌倉殿の御陣となる。芳賀伊賀守御方の勢を見巡して、「八郎がみへぬは、討れたるやらん。」と親の身なれば心元なげに申けるを、馬の前なる中間、「放れ馬の数百疋走散たる中に、毛色・鞍具足を委く見て候へば、黒鴾毛なる馬に連蒻の鞦懸たるは、慥かに八郎殿召れたりつる御馬にて候。早討れさせ給ひぬとこそ覚へ候へ。」と申ければ、「さて其馬に血や付たる。」と問ふに、「いや馬の頭に矢一筋立て見へ候へ共鞍に血は候はず。」とぞ答へける。是を聞てさしも勇める伊賀守、涙を一目に浮めて、「さては此者幼稚なれば被生捕けり。軍暫くも隙あらば、八郎如何様切られぬと覚ゆ。いさ今一軍せん。」と云ければ、岡本信濃守富高聞も敢ず莞爾とうち笑て、「子細候はじ。敵の大将を見知ぬ程こそ、葉武者に逢て組で勝負はせじと、軍はしにくかりし。今は見知りたり。先に白糸の鎧著て、下立たりつる若武者は、慥に鎌倉殿と見澄したり。鎧の毛をしるしにして、組討に討奉らんずる事、何よりも可安る。」とて、敵に心安く紛れんと、笠符を取て投捨、時衆に最期の十念を受て、思切たる機をぞ顕しける。左馬頭の御方に、岩松治部大輔はよく慮有て軍の変を計る人なりければ、大将左馬頭殿の鎧の毛を、敵何様見知ぬらんと推量して、御大事に替らんと思はれければ、我今まで著給へる紺糸の鎧に、鎌倉殿の白糸の鎧を俄に著替奉りてぞ控へたる。暫有て両陣又乱合て入替々々戦ける。岡本信濃守白糸の鎧著たる岩松を左馬頭殿ぞと目に懸て、組で討んと相近付く。岩松は又元来左馬頭の命に代らんと鎧を著替し上は、なじかは命を可惜。二人共に閑々と馬を歩ませ寄て、あはひ已に草鹿のあづち長に成ける時、岩松が郎等金井新左衛門、岩松が馬の前に馳塞て、岡本と引組馬よりどうと落けるが、互に中にて差違へて、共に命を止てけり。岩松は左馬頭の命に代らんと鎧を著かへ、金井は岩松が命に代て討死す。主従共に義を守て節を重んずる忠貞、難有かるべき人々也。其外命を軽じ義を重んじて、爰にて勝負を決せんと、相互にぞ戦ける。さて芳賀八郎は被生捕たりけれども、幼稚の上垂髪なりければ、軍散じて後に、人を付て被帰けるとかや。優にやさしとぞ申ける。去程に芳賀が八百余騎の兵、昨日は二日路を一夜に打しかば馬皆疲れぬ。今日は又入替る勢も無て終日戦ひくらしければ、兵息を不継敢。所存今は是までとや思けん、日已に夕陽に成ければ、被討残たる兵纔に三百余騎を助て、宇都宮へぞ帰ける。是を見て今まで戦を外に見て、勝方に付んと伺つる白旗一揆、弊に乗て疲を攻て、何くまでも追攻て打止んと、高名がほに追たりける。是のみならず芳賀が勢打負て引と聞へしかば、後れ馳に御陣へ参りける兵共、橋を引、路を塞で落さじとしける程に、道にても百余騎被討けり。辛き命を助て、故郷に帰ける者も、大略皆髪を切り遁世して、無きが如くに成にけり。軍散じければ、軈て宇都宮を退治せらるべしとて、左馬頭八十万騎の勢にて先小山が館へ打越給ふ。斯る処に、宇都宮急ぎ参じて申けるは、「禅可が此間の挙動、全く我同意したる事候はず。主従向背の自科依難遁、其身已逐電仕ぬる上は、御勢を被向までも候まじ。」と申ければ、左馬頭も深き慮やをはしけん、翌日軈て鎌倉へ打帰給にけり。されば「君無諌臣則君失其国矣、父無諌子則父亡其家矣。」と云り。禅可縦老僻て斯る悪行を企つ共、子共若義を知て制し止る事あらば、豈若干の一族共を討せて、諸人に被嘲哢乎。無思慮禅可が合戦故に、鎌倉殿の威勢弥重く成しかば、大名一揆の嗷儀共、是より些止にけり。
326 神木入洛事付洛中変異事
尾張修理大夫入道々朝は、将軍御兄弟合戦時、慧源禅門の方に属して打負しかば、鬱陶を不散、暫くは宮方に身を寄けるが、若将軍義詮朝臣より様々弊礼を尽して頻に招請し給ける間、又御方に成て、三男治部大輔義将を面に立て執事の職に居、武家の成敗をぞ意に任られける。去程に越前国は多年の守護にて、一国の寺社本所領を半済して家人共にぞ分行ける。其中に南都の所領河口庄をば、一円に家中の料所にぞ成たりける。此所は毎年維摩会の要脚たるのみに非ず、一寺の学徒是を以て、朝三の資を得て、僅に餐霞の飢を止、夜窓の燈挑て聚蛍の光に易ふ。而るを近年は彼依押領諸事の要脚悉闕如しぬれば、維摩の会場には、柳条乱て垂手の舞を列ね、講問の床の前には、鴬舌代て緩声の哥を唱ふ。是一寺滅亡の基、又は四海擾乱の端たるべし。早く当社押領の儀を止て、大会再興の礼に令復給べしと、公家に奏聞し武家に触訴ふ。然共公家の勅裁はなれ共人不用、武家の奉書は憚て渡す人なし。依之嗷儀の若輩・氏人の国民等、春日の神木を奉餝、大夫入道々朝が宿所の前に奉振捨。其日軈て勅使参迎して、神木をば長講堂へぞ奉入ける。天子自玉■を下させ給て、常の御膳を降ださる。摂家皆高門を掩て、日の御供を奉り給ふ。今澆末の風に向て大本の遠を見るに、政道は棄れて無に似たりといへ共、神慮は明にして如在。哀とく裁許あれかしと人々申合けれども、時の権威に憚て是をと申沙汰する人も無りけり。禰宜が鈴振る袖の上に、託宣の涙せきあへず、社人の夙夜する枕の上に、夢想の告止時なし。同五月十七日、何くの山より出たり共知ず、大鹿二頭京中に走出たりけるが、家の棟・築地の覆の上を走渡て、長講堂の南の門前にて四声鳴て、何の山へ帰る共見へずして失にけり。是をこそ不思議の事と云沙汰しける処に、同二十一日月額の迹有て、目も鼻も無て、髪長々と生たる、なましき入道頚一つ、七条東洞院を北へ転ありくと見へて、書消す様に失にけり。又同二十八日長講堂の大庭に、こま廻して遊ける童の内に、年の程十許なるが、俄に物に狂て、二三丈飛上々々、跳る事三日三夜也。参詣の人怪て、何なる神の託せ給たるぞと問に、物づき口うち噤て、其返事をばせで、人や勝つ神や負ると暫しまて三笠の山のあらん限はと、数万人の聞所にて、高らかに三反詠じて物付は則醒にけり。見るも懼しく、聞に身の毛も竪神託共なれば、是に驚て、神訴を忽に裁許有ぬと覚へけれ共、混ら耳の外に処して、三年まで閣れければ、朱の玉垣徒に、引人もなき御注連縄、其名も長く朽はてゝ、霜の白幣かけまくも、賢き神の榊葉も、落てや塵に交らんと、今更神慮の程被計、行末如何と空をそろし。今程国々の守護、所々の大名共、独として寺社本所領を押へて、不領知云者なし。然共叶はぬ訴詔に退屈して、乍歎徒に黙止ぬれば、国々の政に僻事多けれ共、其人無咎に似たり。然るに此人独斯る大社の訴詔に取合ふて、神訴を得、呪咀を負けるも、只其身の不祥とぞ見へたりける処に、同十月三日道朝が宿所、七条東洞院より俄に失火出来て、財宝一も不残、内厩の馬共までも多焼失ぬ。是こそ春日明神の御祟よと、云沙汰せぬ人も無りけり。されども道朝やがて三条高倉に屋形を立て、大樹に咫尺し給へば、門前に鞍置馬の立止隙もなく、庭上に酒肴を舁列ねぬ時もなし。夫さらぬだにも、富貴の家をば鬼睨之云り。何況や神訴を負へる人也。是とても行末如何が有んずらんと、才ある人は怪しめり。
327 諸大名讒道朝事付道誉大原野花会事
抑此管領職と申は、将軍家にも宗との一族也ければ、誰かは其職を猜む人も可有。又関東の盛なりし世をも見給たりし人なれば、礼儀法度もさすがに今の人の様にはあるまじければ、是ぞ誠に武家の世をも治めんずる人よと覚けるに、諸人の心に違ふ事のみ有て、終に身を被失けるも、只春日大明神の冥慮也と覚へたり。諸人の心に違ける事は、一には近年日本国の地頭・御家人の所領に、五十分一の武家役を毎年被懸けるを、此管領の時に二十分一になさる。是天下の先例に非ずと憤を含む処也。次に将軍三条の坊門万里小路に御所を立られける時、一殿一閣を大名一人づゝに課て被造。赤松律師則祐も其人数たりけるが、作事遅して期日纔に過ければ、法を犯す咎有とて新恩の地、大庄一所没収せらる。是又赤松が恨を含む随一也。次には佐々木佐渡判官入道々誉、五条の橋を可渡奉行を承て京中の棟別を乍取、事大営なれば少し延引しけるを励さんとて、道朝他の力をも不仮、民の煩をも不成、厳密に五条の橋を数日の間にぞ渡にける。是又道誉面目を失ふ事なれば、是程の返礼をば致さんずる也とて、便宜を目に懸てぞ相待ける。懸処に、柳営庭前の花、紅紫の色を交て、其興無類ければ、道朝種々の酒肴を用意して、貞治五年三月四日を点じ、将軍の御所にて、花下の遊宴あるべしと被催。殊更道誉にぞ相触ける。道誉兼ては可参由領状したりけるが、態と引違へて、京中の道々の物の上手共、独も不残皆引具して、大原野の花の本に宴を設け席を妝て、世に無類遊をぞしたりける。已に其日に成しかば、軽裘肥馬の家を伴ひ、大原や小塩の山にぞ趣きける。麓に車を駐て、手を採て碧蘿を攀るに、曲径幽処に通じ、禅房花木深し。寺門に当て湾渓のせゞらきを渉れば、路羊腸を遶て、橋雁歯の危をなせり。此に高欄を金襴にて裹て、ぎぼうしに金薄を押し、橋板に太唐氈・呉郡の綾・蜀江の錦、色々に布展べたれば、落花上に積て朝陽不到渓陰処、留得横橋一板雪相似たり。踏に足冷く歩むに履香し。遥に風磴を登れば、竹筧に甘泉を分て、石鼎に茶の湯を立置たり。松籟声を譲て芳甘春濃なれば、一椀の中に天仙をも得つべし。紫藤の屈曲せる枝毎に高く平江帯を掛て、■頭の香炉に鶏舌の沈水を薫じたれば、春風香暖にして不覚栴檀林に入かと怪まる。眸を千里に供じ首を四山に廻、烟霞重畳として山川雑り峙たれば、筆を不仮丹青、十日一水の精神云に聚り、足を不移寸歩、四海五湖の風景立に得たり。一歩三嘆して遥に躋ば、本堂の庭に十囲の花木四本あり。此下に一丈余りの鍮石の花瓶を鋳懸て、一双の華に作り成し、其交に両囲の香炉を両机に並べて、一斤の名香を一度に焚上たれば、香風四方に散じて、人皆浮香世界の中に在が如し。其陰に幔を引曲■を立双て、百味の珍膳を調へ百服の本非を飲て、懸物如山積上たり。猿楽優士一たび回て鸞の翅を翻し、白拍子倡家濃に春鴬の舌を暢れば、坐中の人人大口・小袖を解て抛与ふ。興闌に酔に和して、帰路に月無れば、松明天を耀す。鈿車軸轟き、細馬轡を鳴して、馳散り喚き叫びたる有様、只三尸百鬼夜深て衢を過るに不異。華開花落る事二十日、一城の人皆狂ぜるが如しと、牡丹妖艶の色を風せしも、げにさこそは有つらめと思知るゝ許也。此遊洛中の口遊と成て管領の方へ聞へければ、「是は只我申沙汰する将軍家の華下の会を、かはゆ気なる遊哉と欺ける者也。」と、安からぬ事にぞ被思ける。乍去是は心中の憤にて公儀に可出咎にもあらず。「哀道誉、何事にても就公事犯法事あれかし。辛く沙汰を致さん。」と心を付て被待ける処、二十分一の武家役を、道誉両年まで不沙汰間、管領すはや究竟の罪科出来すと悦て、道誉が近年給りたりける摂州の守護職を改め、同国の旧領多田庄を没収して政所料所にぞ成たりける。依之道誉が鬱憤不安。如何にもして此管領を失ばやと思て、諸大名を語ふに、六角入道は当家の惣領なれば無子細。赤松は聟也。なじかは可及異儀。此外の太名共も大略は道誉に不諛云者無りければ、事に触此管領天下の世務に叶まじき由を、将軍家へぞ讒し申ける。魯叟有言、曰、衆悪之必察焉、衆好之必察焉。或は其衆阿党比周して好ずる事あり。或は其人特立不詳にして悪るゝ事あり。毀誉共に不察あるべからず。諸人の讒言遂に真偽を不糾しかば、道朝無咎して忽に可討に定けり。此事内々佐々木六角判官入道崇永に被仰て、江州の勢をぞ被召ける。道朝此由を伝聞て、貞治四年八月四日晩景に、将軍の御前に参じて被申けるは、「蒙御不審由内々告知する人の候つれ共、於身不忠不儀の事候はねば、申人の謬にてぞ候らんと、愚意を遣候つるに、昨日江州の勢共、合戦の用意にて、罷上り候ける由承及候へば、風聞の説早実にて候けりと信を取て候。抑道朝以無才庸愚身、大任重器の職を汚し候ぬれば、讒言も多く候覧と覚候。然るを讒者の御糺明までも無て、御不審を可蒙にて候はゞ、国々の勢を被召までも候まじ。侍一人に被仰付て、忠諌の下に死を賜て、衰老の後に尸を曝さん事何の子細か候べき。」と、恨の面に涙を拭て被申ければ、将軍も理に服したる体にて、差たる御言なし。良久黙然として涙を一目に浮べ給ふ。暫有て道朝已に退出せんとせられける時、将軍席を近付給て、「条々の趣げにもさる事にて候へ共、今の世中我心にも任たる事にても無ければ、暫く越前の方へ下向有て、諸人の申処をも被宥候へかし。」と宣へば、道朝、「畏て承ぬ。」とて軈被退出ぬ。去程に崇永兼て用意したる事なれば、稠くよろひたる兵八百余騎を卒して将軍の御屋形へ馳参り、四門を警固仕る。是より京中ひしめき渡て、将軍へと馳参る武者もあり、管領へと馳る人もあり。柳営家臣の両陣のあはひ僅に半町許あれば、何れを敵何れを御方共不見分。道朝始は一箭射て腹を切らんと企けるが、将軍より三宝院覚済僧正を御使にて、度々被宥仰ける間、さらばとて北国下向の儀に定りぬ。乍去をめ/\と都を出て下る体ならば悪かりなん。敵共に被追懸事もこそあれとて、八月八日の夜半許に、二宮信濃守五百余騎、高倉面の門より、将軍家に押寄る体を見せて、鬨をぞ揚たりける。是を聞て、将軍家へ馳参りたる大勢共、内へ入んとするもあり、外へ出んとするもあり。何と云事もなくせき合ふ程に、鎧の袖・冑を奪れ、太刀・長刀を取られ、馬・物具を失ふ者数を不知。未戦先に、禍蕭墻の中より出たりとぞ見へたりける。此ひしめきの紛れに、道朝は三百余騎の勢を卒し、長坂を経て越前へぞ被落ける。先陣今は一里許も落延ぬらんと覚る程に成て、二宮は迹を追て落行く。諸大名の勢共、疲れに乗て打止めんと追懸たり。二宮長坂峠に控て少も漂へる機を不見、馬に道草かふて嘲たる声ざしにて申けるは、「都にて軍をせざりつるは敵を恐るゝにはあらず、只将軍に所を置奉る故也。今は都をも離れぬ。夜も明ぬ。敵も御方も只今まで知り知られたる人々也。爰にては我人の剛臆の程を呈さでは何れの時をか可期。馬の腹帯の延ぬ先に早是へ御入候へ。我等が頚を御引出物に進するか、御頚共を餞に給るか、其二の間に自他の運否を定め候ばや。」と高声に呼て、馬の上にて鎧の上帯縮直して、東頭に引へたり。其勇気誠に節に中て、死を軽ずる義有て、前に可恐敵なしと見へければ、数万騎の寄手共、よしや今は是までぞとて、長坂の麓より引返しぬ。道朝、二宮を待付て、越前へ下著し、軈て我身は杣山の城に篭り、子息治部大輔義将を栗屋の城に篭て、北国を打随へんと被議ける間、将軍、「さらば討手を下せ。」とて、畠山尾張守義深・山名中務大輔・佐々木治部大輔高秀・土岐左馬助・佐々木判官入道崇永・舎弟山内判官入道崇誉・赤松大夫判官・同兵庫助範顕、能登・加賀・若狭・越前・美濃・近江の国勢、相共に七千余騎、同年の十月より二の城を囲て、日夜朝暮に攻けれ共、此城可被落とも不見けり。斯る処に翌年七月に道朝俄に病に被侵逝去しければ、子息治部大輔義将様様に歎申されけるに依て、同九月に宥免安堵の御教書を被成、京都へ被召返。無幾程越中の討手を承て、桃井播磨守直常を退治したりしかば、軈越中の守護職に被補。是より北国は無為に成にけり。此濫觴抑道朝が僻事は何ぞや。唯依諸人讒言失身給し者也。されば楚の屈原が汨羅の沢に吟て、「衆人皆酔、我独醒たり。」と、世を憤しを、漁父笑て、「衆人皆酔らば、何ぞ其糟を喰て其汁をすゝらざる。」と哥て、滄浪の舟に棹しも、げにさる事も有けりと、被思知世と成にけり。
328 神木御帰座事
大夫入道々朝都を落て後、越前国河口庄南都被返付しかば、神訴忽に落居して、八月十二日神木御帰坐あり。刻限卯時と被定たるに、其暁より雨闇く風暴かりしかば、天の忿猶何事にか残らんと怪かりしに、其期に臨で雨晴風定りて、天気殊に麗かりしかば、是さへ人の意を感ぜしめたり。先南曹弁嗣房参て諸事を奉行す。午刻許に鷹司左大臣殿・九条殿・一条殿、大中納言・大理以下次第に参り給ふ。関白殿御著座あれば、数輩の僧綱以下、御座の前にして其礼を致す。是時の長者の験也。出御の程に成ぬれば、数万人立双たる大衆の中より、一人進出て有僉議。音声雲に響き、言語玉を連ねたり。僉議終ば幄屋に乱声を奏す。翕如たる声の中に、布留の神宝を出し奉るに、関白殿以下、卿相雲客席を避て皆跪き給ふ。其次に本社の御榊・四所の御正体、光明赫奕としてゆすり出させ給へば、数千の神官共、覆面をして各捧げ奉る。両列の伶倫、道々還城楽を奏して、正始の声を調べ、神人警蹕の声を揚て非常を禁しむ。赤衣仕丁白杖を持て御前に立、黄衣神人神宝を頂戴して次々に順ふ。其外の神司束帯を著して列を引。白衣神人、数千人の国民等歩列る。時の関白良基公は、柳の下重に糸鞋を召、当りも耀く許に歩み出させ給へば、前駆四人左右に順ひ、殿上人二人御裾をもつ。随身十人有といへ共態御先をばをはず。神幸に恐を成し奉る故也。其次には鷹司左大臣・今出河大納言・花山院大納言・九条大納言・一条大納言・坊城中納言・四条中納言・西園寺中納言・四条宰相・洞院宰相中将、殿上人には、左中将忠頼・右中将季村・新中将親忠・左中弁嗣房・新中将基信・蔵人右中弁宣房・権右中弁資康・蔵人左中弁仲光・右小弁宗顕・左少将為有・右少将兼時、行妝を整へ、威儀を正くして、閑に列をなし給へば、供奉の大衆二万人、各貝を吹連て、前後三十余町に支たり。盛哉朝廷無事の化、遠く天児屋根の昔に立返り、博陸具瞻の徳、再び高彦霊尊の勅を新にし給へり。誠に利物の垂迹、順逆の縁に和光し不給、今斯る神幸を拝し奉るべしやと、岐に満る見物衆の、神徳を貴ばぬは無りけり。
329 高麗人来朝事
四十余年が間本朝大に乱て外国暫も不静。此動乱に事を寄せて、山路には山賊有て旅客緑林の陰を不過得、海上には海賊多して、舟人白浪の難を去兼たり。欲心強盛の溢物共以類集りしかば、浦々島々多く盜賊に被押取て、駅路に駅屋の長もなく関屋に関守人を替たり。結句此賊徒数千艘の舟をそろへて、元朝・高麗の津々泊々に押寄て、明州・福州の財宝を奪取る。官舎・寺院を焼払ひける間、元朝・三韓の吏民是を防兼て、浦近き国々数十箇国皆栖人もなく荒にけり。依之高麗国の王より、元朝皇帝の勅宣を受て、牒使十七人吾国に来朝す。此使異国の至正二十三年八月十三日に高麗を立て、日本国貞治五年九月二十三日出雲に著岸す。道駅を重て無程京都に著しかば、洛中へは不被入して、天竜寺にぞ被置ける。此時の長老春屋和尚覚普明国師、牒状を進奏せらる。其詞云、皇帝聖旨寰、征東行中書省、照得日本与本省所轄高麗地境水路相接。凡遇貴国飄風人物、往往依理護送。不期自至正十年庚寅、有賊船数多、出自貴国地面、前来本省合浦等処、焼毀官廨、掻擾百姓甚至殺害。経及一十余年、海舶不通、辺界居民不能寧処。蓋是島嶼居民不懼官法、専務貪婪。潜地出海劫奪。尚慮貴国之広、豈能周知。若使発兵勣捕、恐非交隣之道。徐已移文日本国照験。頗為行下概管地面海島、厳加禁治、毋使如前出境作耗。本省府今差本職等一同馳駅、恭詣国主前啓稟。仍守取日本国回文還省。閣下仰照験。依上施行、須議箚付者。一実起右、箚付差去、万戸金乙貴、千戸金龍等准之。とぞ書たりける。賊船の異国を犯奪事は、皆四国九州の海賊共がする所なれば、帝都より厳刑を加るに拠なしとて、返牒をば不被送。只来献の報酬とて、鞍馬十疋・鎧二領・白太刀三振・御綾十段・綵絹百段・扇子三百本、国々の奉送使を副て、高麗へぞ送り被著ける。
330 自太元攻日本事
倩三余の暇に寄て千古の記する処を看るに、異国より吾朝を攻し事、開闢以来已に七箇度に及べり。殊更文永・弘安両度の戦は、太元国の老皇帝支那四百州を討取て勢ひ天地を凌ぐ時なりしかば、小国の力にて難退治かりしか共、輙く太元の兵を亡して吾国無為なりし事は、只是尊神霊神の冥助に依し者也。其征伐の法を聞けば、先太元の大将万将軍、日本王畿五箇国を四方三千七百里に勘へて、其地に兵を無透間立双て是を数るに、三百七十万騎に当れり。此勢を大船七万余艘に乗て、津々浦々より推出す。此企兼てより吾朝に聞へしかば、其用意を致せとて、四国・九州の兵は筑紫の博多に馳集り、山陽・山陰の勢は帝都に馳参る。東山道・北陸道の兵は、越前敦賀の津をぞ堅めける。去程に文永二年八月十三日、太元七万余艘の兵船、同時に博多の津に押寄たり。大舶舳艫を双て、もやいを入て歩の板を渡して、陣々に油幕を引き干戈を立双べたれば、五島より東、博多の浦に至るまで、海上の四囲三百余里俄に陸地に成て、蜃気爰に乾闥婆城を吐出せるかと被怪。日本の陣の構は、博多の浜端十三里に石の堤を高く築て、前は敵の為に切立たるが如く、後は為御方平々として懸引自在也。其陰に屏を塗り陣屋を作て、数万の兵並居たれば、敵に勢の多少をば見透されじと思ふ処に、敵の舟の舳前に、桔槹の如くなる柱を数十丈高く立て、横なる木の端に坐を構て人を登せたれば、日本の陣内目の下に直下されて、秋毫の先をも数つべし。又面の四五丈広き板を、筏如に畳鎖て水上に敷双たれば、波の上に平なる路数た作出されて、恰三条の広路、十二の街衢の如く也。此路より敵軍数万の兵馬を懸出し、死をも不顧戦ふに、御方の軍勢の鉾たゆみて、多くは退屈してぞ覚ける。皷を打て兵刃既に交る時、鉄炮とて鞠の勢なる鉄丸の迸る事下坂輪の如く、霹靂する事閃電光の如くなるを、一度に二三千抛出したるに、日本兵多焼殺され、関櫓に火燃付て、可打消隙も無りけり。上松浦・下松浦の者共此軍を見て、尋常の如にしては叶はじと思ければ、外の浦より廻て、僅に千余人の勢にて夜討にぞしたりける。志の程は武けれ共、九牛が一毛、大倉の一粒にも当らぬ程の小勢にて寄せたれば、敵を討事は二三万人なりしか共、終には皆被生捕、身を縲紲の下に苦しめて、掌を連索の舷に貫れたり。懸りし後は重て可戦様も無りしかば、筑紫九国の者共一人も不残四国・中国へぞ落たりける。日本一州の貴賎上下如何がせんと周章騒ぐ事不斜。諸社の行幸御幸・諸寺の大法秘法、宸襟を傾て肝胆を砕かる。都て六十余州大小の神祇、霊験の仏閣に勅使を被下、奉幣を不被捧云所なし。如此御祈祷已に七日満じける日、諏訪の湖の上より、五色の雲西に聳き、大蛇の形に見へたり。八幡御宝殿の扉啓けて、馬の馳ちる音、轡の鳴音、虚空に充満たり。日吉の社二十一社の錦帳の鏡動き、神宝刃とがれて、御沓皆西に向へり。住吉四所の神馬鞍の下に汗流れ、小守・勝手の鉄の楯己と立て敵の方につき双べたり。凡上中下二十二社の震動奇瑞は不及申、神名帳に載る所の三千七百五十余社乃至山家村里の小社・櫟社・道祖の小神迄も、御戸の開ぬは無りけり。此外春日野の神鹿・熊野山の霊烏・気比宮の白鷺・稲荷山の名婦・比叡山の猿、社々の仕者、悉虚空を西へ飛去ると、人毎の夢に見へたりければ、さり共此神々の助にて、異賊を退け給はぬ事はあらじと思ふ許を憑にて、幣帛捧ぬ人もなし。浩る処に弘安四年七月七日、皇太神宮の禰宜荒木田尚良・豊受太神宮の禰宜度会貞尚等十二人起請の連署を捧て上奏しけるは、「二宮の末社風の社の宝殿の鳴動する事良久し。六日の暁天に及て、神殿より赤雲一村立出て天地を耀し山川を照す。其光の中より、夜叉羅刹の如くなる青色の鬼神顕れ出て土嚢の結目をとく。火風其口より出て、沙漁を揚げ大木を吹抜く。測ぬ、九州の異狄等、此日即可滅と云事を。事若誠有て、奇瑞変に応ぜば、年来申請る処の宮号、被叡感儀可火宣下。」とぞ奏し申ける。去程に大元の万将軍、七万余艘のもやひをとき、八月十七日辰刻に、門司・赤間が関を経て、長門・周防へ押渡る。兵已に渡中をさしゝし時、さしも風止み雲閑なりつる天気俄に替て、黒雲一村艮の方より立覆ふとぞ見へし。風烈く吹て逆浪大に漲り、雷鳴霆て電光地に激烈す。大山も忽に崩れ、高天も地に落るかとをびたゝし。異賊七万余艘の兵船共或は荒磯の岩に当て、微塵に打砕かれ、或は逆巻浪に打返されて、一人も不残失にけり。斯りけれ共、万将軍一人は大風にも放たれず、浪にも不沈、窈冥たる空中に飛揚りてぞ立たりける。爰に呂洞賓と云仙人、西天の方より飛来て、万将軍に占しけるは、「日本一州の天神地祇三千七百余社来て、此悪風を起し逆浪を漲しむ。人力の可及処に非ず。汝早く一箇の破船に乗て本国へ可帰。」とぞ申ける。万将軍此言を信じて、一箇の破船有けるに乗て、只一人大洋万里の波を凌て、無程明州の津にぞ著にける。舟より上り、帝都へ参らんとする処に、又呂洞賓忽然として来て申けるは、「汝日本の軍に打負たる罪に依て、天子忿て親類骨肉、皆三族の罪に行はれぬ。汝帝都に帰らば必共に可被刑。早く是より剣閣を経て、蜀の国へ行去れ。蜀王以汝大将として、雍州を攻ばやと、羨念ふ事切なり。至らば必大功を建べしと云て別れたるが、我汝が餞送の為に嚢中を探るに、此一物の外は無他。」とて、膏薬を一付与へける。其銘に至雍発とぞ書付たりける。万将軍呂洞賓が言に任て、蜀へ行たるに、蜀王是を悦給ふ事無限。軈て万将軍に上将の位を授け、雍州をぞ攻させける。万将軍兵を卒し旅を屯て雍州に至るに、敵山隘の高く峙たるに、石の門を閉てぞ待たりける。誠に一夫忿て臨関に、万夫も不可傍と見へたり。此時に万将軍、呂洞賓が我に与し膏薬の銘に至雍発せよと書たりしは、此雍州の石門に付よと教へけるにこそと心得て、密に人をして、一付有ける膏薬を、石門の柱にぞ付させたりける。付ると斉く石門の柱も戸も如雪霜とけて、山崩れ道平になりければ、雍州の敵数万騎、可防便を失て、皆蜀王にぞ降りける。此功然万将軍が徳也とて、軈て公侯の位に登せられける。居る事三十日有て、万将軍背に癰瘡出たりけるが、日を不経して忽に死にけり。雍州の雍の字と癰瘡の癰字と■声通ぜり。呂洞賓が膏薬の銘に至癰発と書けるは、雍州の石門に付よと教けるか、又癰瘡の出たらんに付よと占しけるか、其二の間を知難し。功は高して命は短し。何をか捨何をか取ん。若休事を不得して其一を捨ば、命は在天、我は必功を取ん。抑太元三百万騎の蒙古共一時に亡し事、全吾国の武勇に非ず。只三千七百五十余社の大小神祇、宗廟の冥助に依るに非ずや。
331 神功皇后攻新羅給事
昔し仲哀天皇、聖文神武の徳を以て、高麗の三韓を攻させ給ひけるが、戦利無して帰らせ給ひたりしを、神功皇后、是智謀武備の足ぬ所也とて、唐朝へ師の束脩の為に、沙金三万両を被遣、履道翁が一巻の秘書を伝らる。是は黄石公が第五日の鶏鳴に、渭水の土橋の上にて張良に授し書なり。さて事已に定て後、軍評定の為に、皇后諸の天神地祇を請じ給ふに、日本一万の大小の神祇冥道、皆勅請に随て常陸の鹿島に来給ふ。雖然、海底に迹を垂給阿度部の磯良一人不応召。是如何様故あらんとて、諸の神達燎火を焼き、榊の枝に白和幣・青和幣取取懸て、風俗・催馬楽、梅枝・桜人・石河・葦垣・此殿・夏引・貫河・飛鳥井・真金吹・差櫛・浅水の橋、呂律を調べ、本末を返て数反哥はせ給たりしかば、磯良感に堪兼て、神遊の庭にぞ参たる。其貌を御覧ずるに、細螺・石花貝・藻に棲虫、手足五体に取付て、更に人の形にては無りけり。神達怪み御覧じて、「何故懸る貌には成けるぞ。」と御尋有ければ、磯良答て曰く、「我滄海の鱗に交て、是を利せん為に、久く海底に住侍りぬる間、此貌に成て候也。浩る形にて無止事御神前に参らんずる辱しさに、今までは参り兼て候つるを、曳々融々たる律雅の御声に、恥をも忘れ身をも不顧して参りたり。」とぞ答申ける。軈て是を御使にて、竜宮城に宝とする干珠・満珠を被借召。竜神即応神勅二の玉を奉る。神功皇后一巻の書を智謀とし、両顆の明珠を武備として新羅へ向はんとし給ふに、胎内に宿り給ふ八幡大菩薩已に五月に成せ給ひしかば、母后の御腹大に成て、御鎧を召るゝに御膚あきたり。此為に高良明神の計として、鎧の脇立をばし出しける也。諏防・住吉大明神を則副将軍・裨将軍として、自余の大小の神祇、楼船三千余艘を漕双べ、高麗国へ寄給ふ。是を聞て高麗の夷共、兵船一万余艘に取乗て海上に出向ふ。戦半にして雌雄未決時、皇后先干珠を海中に抛給しかば、潮俄に退て海中陸地に成にけり。三韓兵共、天我に利を与へたりと悦て、皆舟より下、徒立に成てぞ戦ひける。此時に又皇后満珠を取て抛給しかば、潮十方より漲り来て、数万人の夷共一人も不残浪に溺て亡にけり。是を見て三韓の夷の王自罪を謝て降参し給ひしかば、神功皇后御弓の末弭にて、「高麗の王は我が日本の犬也。」と、石壁に書付て帰らせ給ふ。是より高麗我朝に順て、多年其貢を献る。古は呉服部と云綾織、王仁と云才人、我朝に来りけるも、此貢に備り、大紋の高麗縁も其篋とぞ承る。其徳天に叶ひ其化遠に及し上古の代にだにも、異国を被順事は、天神地祇の力を以てこそ、容易征伐せられしに、今無悪不造の賊徒等、元朝高麗を奪犯、牒使を立させ、其課を送らしむる事、前代未聞の不思議なり。角ては中々吾朝却て異国に奪るゝ事もや有らんずらんと、怪しき程の事共也。されば福州の呉元帥王乙が吾朝へ贈りたる詩にも、此意を暢たり。日本狂奴乱浙東。将軍聴変気如虹。沙頭列陣烽烟闇。夜半皆殺兵海水紅。篳篥按哥吹落月。髑髏盛酒飲清風。何時截尽南山竹。細写当年殺賊功。此詩の言に付て思ふに、日本一州に近年竹の皆枯失るも、若加様の前表にてやあらんと、無覚束行末也。
332 光厳院禅定法皇行脚事
光厳院禅定法皇は、正平七年の比、南山賀名生の奥より楚の囚を被許させ給て、都へ還御成たりし後、世中をいとゞ憂き物に思召知せ給しかば、姑耶山の雲を辞し、汾水陽の花を捨て、猶御身を軽く持たばやと思召けり。御荒増の末通て、方袍円頂の出塵の徒と成せ給しかば、伏見の里の奥光厳院と聞へし幽閑の地にぞ住せ給ひける。是も猶都近き所なれば、旧臣の参り仕へんとするも厭はしく、浮世の事の御耳に触るも冷く思召れければ、来無所止、去無住。柱杖頭辺活路通ずと、中峯和尚の被作送行偈、誠に由ありと御心に染て、人工・行者の一人をも不被召具、只順覚と申ける僧を一人御共にて、山林斗薮の為に立出させ給ふ。先西国の方を御覧ぜんと思食て、摂津国難波の浦を過させ給ふに、御津の浜松霞渡て、曙の気色物哀なれば、迥に被御覧て、誰待てみつの浜松霞らん我が日本の春ならぬ世にと、打涙ぐませ給ふ。山遠き浦の夕日の浪に沈まんとするまで興ぜさせ給て、猶過うしと思召たるに、望無窮水接天色、看不尽山映夕暉と云対句の時節に相叶たるにも、捨ぬ世ならば、何故浩る風景をも可見と被仰けるも物悲し。是より高野山を御覧ぜんと思召て、住吉の遠里小野へ出させ給ひたれば、焼痕回緑春容早、松影穿紅日脚西なり。海天野景歩に随て新なる風流に、御足たゆむ共不被思食。昔は銷金軽羅の茵ならでは、仮にも蹈せ給はざりし玉趾を、深泥湿土の黯に汚れさせ給ひ御供の僧は、仕へて懸し肘後の府に替れる一鉢を脇にかけ、今夜堺浦までも歩ませ給へば、塩干の潟にむれ立て、玉藻を拾ひ磯菜取る海人共の、各つげの小櫛を差て、葦間に隠れ顕れたる様を被御覧にも、「御貢備し民の営、是程に身を苦しめけるをしらで、等閑にすさびける事よ。」と、今更浅猿く思食知せ給ふ。回首望東を、雲に聯なり霞に消て、高く峙てる山あり。道に休める樵に山の名を問はせ給へば、「是こそ音に聞へ候金剛山の城とて、日本国の武士共の、幾千万と云数をも不知討れ候し所にて候へ。」とぞ申ける。是を聞食て、「穴浅猿や、此合戦と云も、我一方の皇統にて天下を争ひしかば、其亡卒の悪趣に堕して多劫が間苦を受けん事も、我罪障にこそ成ぬらめ。」と先非を悔させ御坐す。経日紀伊川を渡らせ給ひける時、橋柱朽て見るも危き柴橋あり。御足冷く御肝消て渡りかねさせ給ひたれば、橋の半に立迷てをはするを、誰とは不知、如何様此辺に、臂を張り作り眼する者にてぞある覧と覚へたる武士七八人迹より来りけるが、法皇の橋の上に立せ給ひたるを見て、「此なる僧の臆病気なる見度もなさよ。是程急ぎ道の一つ橋を、渡らばとく渡れかし。さなくは後に渡れかし。」とて、押のけ進らせける程に、法皇橋の上より被押落させ給ひて、水に沈ませ給ひにけり。順覚、「あら浅猿や。」とて、衣乍著飛入て引起し進せたれば、御膝は岩のかどに当りて血になり、御衣は水に漬りてしぼり不得。泣々傍なる辻堂へ入れ進せて、御衣を脱替させ進せけり。古へも浩る事やあるべきと、君臣共に捨る世を、さすがに思召出ければ、涙の懸る御袖は、ぬれてほすべき隙もなし。行末心細き針道を経て御登山有ければ、山又山、水又水、登臨何日尽さんと、身力疲れて被思食にも、先年大覚寺法皇の、此寺へ御幸成りしに、供奉の卿相雲客諸共に、一町に三度の礼拝をして、首を地に著け、誠を致されける事も、難有かりける御願哉。予が在位の時も、代静かなりせば、などか其芳躅を不蹈と、思召准へらる。さて御山にも御著有しかば、大塔の扉を開せて両界の曼荼羅を御拝見あれば、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊をば、入道太政大臣清盛公、手ら書たる尊容也。さしも積悪の浄海、何なる宿善に被催、懸る大善根を致しけん。六大無碍の月晴る時有て、四曼相即の花可発春を待けり。さては是も只混なる悪人にては無りけるよと、今爰に思召知せ給ふ。落花為雪笠無重、新樹謬昏日未傾、其日頓て奥の院へ御参詣有て、大師御入定の室の戸を開かせ給へば、嶺松含風顕踰伽上乗之理、山花篭雲秘赤肉中台之相。前仏の化縁は過ぬれ共、五時の説今耳に有かと覚え、慈尊の出世は遥なれ共、三会の粧已に眼に如遮。三日まで奥院に御通夜有て暁立出させ給に一首の御製あり。高野山迷の夢も覚るやと其暁を待ぬ夜ぞなき安居の間は、御心閑に此山中にこそ御坐あらめと思召て、諸堂御巡礼ある処に、只今出家したる者と覚くて、濃墨染にしほれたる桑門二人御前に畏て、其事となく只さめ/\とぞ泣居たりける。何者なるらんと怪く思召てつく/゛\御覧じければ、紀伊川を御渡有し時、橋の上より法皇を押落し進らせたりし者共にてぞ有ける。不思議や何事に今遁世をしけるぞや。是程無心放逸の者も、世を捨る心の有けるかと思召て過させ給へば、此遁世者御迹に随て、順覚に泣々申けるは、「紀伊川を御渡候し時、懸る無止事〔御事〕共知奉り候はで、玉体にあしく触奉し事、余に浅猿く存候て、此貌に罷成て候。仏種は従縁起る儀も候なれば、今より薪を拾ひ、水を汲態にて候共、三年が間常随給仕申候て、仏神三宝の御とがめをも免れ候はん。」とぞ申ける。「よしや不軽菩薩の道を行給しに、罵詈誹謗する人をも不咎、打擲蹂躙する者をも、却て敬礼し給き。況我已貌を窶して人其昔を不知。一時の誤何か苦かるべき。出家は誠に因縁不思議なれ共、随順せん事は怒々叶まじき。」由を被仰けれ共、此者強て片時も離れ進らせざりしかば、暁閼伽の水汲に被遣たる其間に、順覚を召具して潜に高野をぞ御出有ける。御下向は大和路に懸らせ給ひしかば、道の便も能とて、南方の主上の御座ある吉野殿へ入らせ給ふ。此三四年の先までは、両統南北に分れて此に戦ひ彼に寇せしかば、呉越の会稽に謀しが如く、漢楚の覇上に軍せしにも過たりしに、今は散聖の道人と成せ給て、玉体を麻衣草鞋にやつし、鸞輿を跣行の徒渉に易て、迢々と此山中迄分入せ給たれば、伝奏未事の由を不奏先直衣の袖をぬらし、主上未御相看なき先に御涙をぞ流させ給ける。是に一日一夜御逗留有て、様々の御物語有しに、主上、「さても只今の光儀、覚ての後の夢、夢の中の迷かとこそ覚へて候へ。縦仙院の故宮を棄て釈氏の真門に入せ給ふ共、寛平の昔にも准へ、花山の旧き跡をこそ追れ候べきに、尊体を浮萍の水上に寄て、叡心を枯木の禅余に被付候ぬる事、何なる御発心にて候けるぞや。御羨こそ候へ。」と、尋申させ給ければ、法皇御泪に咽て、暫は御詞をも不被出。良有て、「聰明文思の四徳を集て叡旨に係候へば、一言未挙先に、三隅の高察も候はん歟。予元来万劫煩悩の身を以て、一種虚空の塵にあるを本意とは存ぜざりしか共、前業の嬰る所に旧縁を離兼て、可住荒増の山は心に乍有、遠く待れぬ老の来る道をば留むる関も無て年月を送し程に、天下の乱一日も休む時無りしかば、元弘の始には江州の番馬まで落下り、五百余人の兵共が自害せし中に交て、腥羶の血に心を酔しめ、正平の季には当山の幽閑に逢て、両年を過るまで秋刑の罪に胆を嘗き。是程されば世は憂物にて有ける歟と、初て驚許に覚候しかば、重祚の位に望をも不掛、万機の政に心をも不留しか共、一方の戦士我を強して本主とせしかば、可遁出隙無て、哀いつか山深き栖に雲を友とし松を隣として、心安く生涯を可尽と、心に懸て念じ思し処に、天地命を革て、譲位の儀出来しかば、蟄懐一時に啓て、此姿に成てこそ候へ。」と、御涙の中に語尽させ給へば、一人諸卿諸共に御袖をしぼる許也。「今は。」とて御帰あらんとするに、寮の御馬を進せられたれ共、堅御辞退有て召れず。いつしか疲させ給ひぬれ共、猶如雪なる御足に、荒々としたる鞋を召れて出立させ給へば、主上は武者所まで出御成て、御簾を被掲、月卿雲客は庭上の外まで送り進せて、皆泪にぞ立ぬれ給ける。道すがらの山館野亭を御覧ぜらるゝにも、先年■里の囚に逢せ給て、一日片時も難過と、御心を傷しめ給し松門茅屋あり。戦図に入山中ならずは斯る処にぞ住なましと、今は昔の憂栖を御慕有けるぞ悲き。諸国御斗薮の後、光厳院へ御帰有て暫御座有けるが、中使頻に到て松風の夢を破り、旧臣常に参て蘿月の寂を妨ける程に、此も今は住憂と思召、丹波国山国と云所へ、迹を銷して移せ給ける。山菓落庭朝三食飽秋風、柴火宿炉夜薄衣防寒気、吟肩骨痩担泉慵時、石鼎湘雪三椀茶飲清風、仄歩山嶮折蕨倦時、岩窓嚼梅、一聯句甘閑味給ふ。身の安を得る処即心安し。出有江湖、入有山川と、一乾坤の外に逍遥して、破蒲団の上に光陰を送らせ給けるが、翌年の夏比より、俄に御不予の事有て、遂に七月七日隠させ給にけり。
333 法皇御葬礼事
比時の新院光明院殿も、山門貫主梶井宮も、共に皆禅僧に成せ給て、伏見殿に御座有ければ、急ぎ彼遷化の山陰へ御下り有て御荼毘の事共、取営せ給て、後の山に葬し奉る。哀仙院芝山の晏駕ならましかば、百官泪を滴て、葬車の御迹に順ひ、一人悲を呑で虞附の御祭をこそ営せ給ふべきに、浩る御事とだに知人もなき山中の御葬礼なれば、只徒に鳥啼て挽歌の響をそへ、松咽で哀慟の声を助る計也。夢なる哉、往昔の七夕には、長生殿にして二星一夜の契を惜て、六宮の美人両階の伶倫台下に曲を奏して、乞巧奠をこそ備へさせられしに、悲哉、当年の今日は、幽邃の地にして三界八苦の別に逢て、万乗の先主・一山の貫頂、山中に棺を荷ふて御葬送を営せ給ふ。只千秋亭の月有待の雲に隠れ、万年樹の花無常の風に随ふが如し。されば遶砌山川も、是を悲て雨となり雲となる歟と怪まる。無心草木も是を悼て、葉落ち花萎めるかと疑はる。感恩慕徳旧臣多といへ共、預め勅を遺されしに依て、参り集る人も稀なりしかば、纔に篭僧三四人の勤めにて、御中陰の菩提にぞ資け奉りける。御国忌の日ごとに、種々の作善積功累徳せらる。殊更に第三廻に当りける時は、継体の天子今上皇帝、御手自一字三礼の紺紙金泥の法華経をあそばされて、五日八講十種供養あり。伶倫正始の楽は、大樹緊那の琴の音に通じ、導師称揚の言は、富楼那尊者の弁舌を展たり。結願の日に当て、薪を採て雪を荷ふ夕郎は、千載給仕の昔の迹を重くし、水を汲て月を運ぶ雲客は、八相成道の遠き縁を結ぶ。是又善性・善子の珊提嵐国に仕へし孝にも過ぎ、浄蔵・浄眼の妙荘厳王を化せし功にも越たれば、十方の諸仏も明かに此追賁を随喜し給ひ、六趣の群類も定て其余薫にこそ関るらめと、被思知御作善也。