太平記/巻第十
巻第十
68 千寿王殿被落大蔵谷事
足利治部大輔高氏敵に成給ぬる事、道遠ければ飛脚未到来、鎌倉には曾て其沙汰も無りけり。斯し処に元弘三年五月二日の夜半に、足利殿の二男千寿王殿、大蔵谷を落て行方不知成給けり。依之鎌倉中の貴賎、すはや大事出来ぬるはとて騒動不斜。京都の事は道遠に依て未だ分明の説も無ければ、毎事無心元とて、長崎勘解由左衛門入道と諏方木工左衛門入道と、両使にて被上ける処に、六波羅の早馬、駿河の高橋にてぞ行合ける。「名越殿は被討給、足利殿は敵に成給ぬ。」と申ければ、「さては鎌倉の事も不審。」とて、両使は取て返し、関東へぞ下ける。爰に高氏の長男竹若殿は、伊豆の御山に御座けるが、伯父の宰相法印良遍、児・同宿十三人山伏の姿に成て、潛に上洛し給けるが、浮嶋が原にて、彼両使にぞ行合給ける。諏方・長崎生取奉んと思処に、宰相法印無是非馬上にて腹切て、道の傍にぞ臥給ける。長崎、「去ばこそ内に野心のある人は、外に遁るゝ無辞。」とて、若竹殿を潛に指殺し奉り、同宿十三人をば頭を刎て、浮嶋が原に懸てぞ通りける。
69 新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事
懸ける処に、新田太郎義貞、去三月十一日先朝より綸旨を給たりしかば、千剣破より虚病して本国へ帰り、便宜の一族達を潛に集て、謀反の計略をぞ被回ける。懸る企有とは不思寄、相摸入道、舎弟の四郎左近大夫入道に十万余騎を差副て京都へ上せ、畿内・西国の乱を可静とて、武蔵・上野・安房・上総・常陸・下野六箇国の勢をぞ被催ける。其兵粮の為にとて、近国の庄園に、臨時の天役を被懸ける。中にも新田庄世良田には、有徳の者多しとて、出雲介親連、黒沼彦四郎入道を使にて、「六万貫を五日中可沙汰。」と、堅く下知せられければ、使先彼所に莅で、大勢を庄家に放入て、譴責する事法に過たり。新田義貞是を聞給て、「我館の辺を、雑人の馬蹄に懸させつる事こそ返々も無念なれ、争か乍見可怺。」とて数多の人勢を差向られて、両使を忽生取て、出雲介をば誡め置き、黒沼入道をば頚を切て、同日の暮程に世良田の里中にぞ被懸たる。相摸入道此事を聞て、大に忿て宣けるは、「当家執世已に九代、海内悉其命に不随と云事更になし。然に近代遠境動ば武命に不随、近国常に下知を軽ずる事奇怪也。剰藩屏の中にして、使節を誅戮する条、罪科非軽に。此時若緩々の沙汰を致さば、大逆の基と成ぬべし。」とて、則武蔵・上野両国の勢に仰て、「新田太郎義貞・舎弟脇屋次郎義助を討て可進す。」とぞ被下知ける。義貞是を聞て、宗徒の一族達を集て、「此事可有如何。」と評定有けるに、異儀区々にして不一定。或は、沼田圧を要害にして、利根河を前に当て敵を待ん。」と云義もあり。又、「越後国には大略当家の一族充満たれば、津張郡へ打超て、上田山を伐塞ぎ、勢を付てや可防。」と意見不定けるを、舎弟脇屋次郎義助暫思案して、進出て被申けるは、「弓矢の道、死を軽じて名を重ずるを以て義とせり。就中相摸守天下を執て百六十余年、于今至まで武威盛に振て、其命を重ぜずと云処なし。されば縦戸祢川をさかうて防共、運尽なば叶まじ。又越後国の一族を憑たり共、人の意不和ならば久き謀に非ず。指たる事も仕出さぬ物故に、此彼へ落行て、新田の某こそ、相摸守の使を切たりし咎に依て、他国へ逃て被討たりしかなんど、天下の人口に入らん事こそ口惜けれ。とても討死をせんずる命を謀反人と謂れて、朝家の為に捨たらんは、無らん跡までも、勇は子孫の面を令悦名は路径の尸を可清む。先立て綸旨を被下ぬるは何の用にか可当。各宣旨を額に当て、運命を天に任て、只一騎也共国中へ打出て、義兵を挙たらんに勢付ば軈て鎌倉を可責落。勢不付ば只鎌倉を枕にして、討死するより外の事やあるべき。と、義を先とし勇を宗として宣しかば、当座の一族三十余人、皆此義にぞ同じける。さらば軈て事の漏れ聞へぬ前に打立とて、同五月八日の卯刻に、生品明神の御前にて旗を挙、綸旨を披て三度是を拝し、笠懸野へ打出らる。相随ふ人々、氏族には、大館次郎宗氏・子息孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口三郎貞満・舎弟四郎行義・岩松三郎経家・里見五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎尚義、是等を宗徒の兵として、百五十騎には過ざりけり。此勢にては如何と思ふ処に、其日の晩景に利根河の方より、馬・物具爽に見へたりける兵二千騎許、馬煙を立て馳来る。すはや敵よと目に懸て見れば、敵には非ずして、越後国の一族に、里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々にてぞ坐しける。義貞大に悦て、馬を扣て宣けるは、「此事兼てより其企はありながら、昨日今日とは存ぜざりつるに、俄に思立事の候ひつる間、告申までなかりしに、何として存ぜられける。」と問給ひければ、大井田遠江守鞍壷に畏て被申けるは、「依勅定大儀を思召立るゝ由承候はずば、何にとして加様に可馳参候。去五日御使とて天狗山伏一人、越後の国中を一日の間に、触廻て通候し間、夜を日に継で馳参て候。境を隔たる者は、皆明日の程にぞ参着候はんずらん。他国へ御出候はゞ、且く彼勢を御待候へかし。」と被申て、馬より下て各対面色代して、人馬の息を継せ給ける処に、後陣の越後勢並甲斐・信濃の源氏共、家々の旗を指連て、其勢五千余騎夥敷く見へて馳来。義貞・義助不斜悦て、「是偏八幡大菩薩の擁護による者也。且も不可逗留。」とて、同九日武蔵国へ打越給ふに、紀五左衛門、足利殿の御子息千寿王殿を奉具足、二百余騎にて馳着たり。是より上野・下野・上総・常陸・武蔵の兵共不期に集り、不催に馳来て、其日の暮程に、二十万七千余騎甲を並べ扣たり。去ば四方八百里に余れる武蔵野に、人馬共に充満て、身を峙るに処なく、打囲だる勢なれば、天に飛鳥も翔る事を不得、地を走る獣も隠んとするに処なし。草の原より出る月は、馬鞍の上にほのめきて冑の袖に傾けり。尾花が末を分る風は、旗の影をひらめかし、母衣の手静る事ぞなき。懸しかば国々の早馬、鎌倉へ打重て、急を告る事櫛の歯を引が如し。是を聞て時の変化をも計らぬ者は、「穴こと/゛\し、何程の事か可有。唐土・天竺より寄来といはゞ、げにも真しかるべし。我朝秋津嶋の内より出て、鎌倉殿を亡さんとせん事蟷螂遮車、精衛填海とするに不異。」と欺合り。物の心をも弁たる人は、「すはや大事出来ぬるは。西国・畿内の合戦未静ざるに大敵又藩籬の中より起れり。是伍子胥が呉王夫差を諌しに、晋は瘡■にして越は腹心の病也。と云しに不異。」と恐合へり。去程に京都へ討手を可被上事をば閣て、新田殿退治の沙汰計也。同九日軍の評定有て翌日の巳刻に、金沢武蔵守貞将に、五万余騎を差副て、下河辺へ被下。是は先上総・下総の勢を付て、敵の後攻をせよと也。一方へは桜田治部大輔貞国を大将にて、長崎二郎高重・同孫四郎左衛門・加治二郎左衛門入道に、武蔵・上野両国の勢六万余騎を相副て、上路より入間河へ被向。是は水沢を前に当て敵の渡さん処を討と也。承久より以来東風閑にして、人皆弓箭をも忘たるが如なるに、今始て干戈動す珍しさに、兵共こと/゛\敷此を晴と出立たりしかば、馬・物具・太刀・刀、皆照耀許なれば、由々敷見物にてぞ有ける。路次に両日逗留有て、同十一日の辰刻に、武蔵国小手差原に打臨給ふ。爰にて遥に源氏の陣を見渡せば、其勢雲霞の如くにて、幾千万騎共可云数を不知。桜田・長崎是を見て、案に相違やしたりけん、馬を扣て不進得。義貞忽に入間河を打渡て、先時の声を揚、陣を勧め、早矢合の鏑をぞ射させける。平家も鯨波を合せて、旗を進めて懸りけり。初は射手を汰て散々に矢軍をしけるが、前は究竟の馬の足立也。何れも東国そだちの武士共なれば、争でか少しもたまるべき、太刀・長刀の鋒をそろへ馬の轡を並て切て入。二百騎・三百騎・千騎・二千騎兵を添て、相戦事三十余度に成しかば、義貞の兵三百余騎被討、鎌倉勢五百余騎討死して、日已に暮ければ、人馬共に疲たり。軍は明日と約諾して、義貞三里引退て、入間河に陣をとる。鎌倉勢も三里引退て、久米河に陣をぞ取たりける。両陣相去る其間を見渡せば三十余町に足ざりけり。何れも今日の合戦の物語して、人馬の息を継せ、両陣互に篝を焼て、明るを遅と待居たり。夜既に明ぬれば、源氏は平家に先をせられじと、馬の足を進て久米河の陣へ押寄る。平家も夜明けば、源氏定て寄んずらん、待て戦はゞ利あるべしとて、馬の腹帯を固め甲の緒を縮め、相待とぞみへし。両陣互に寄合せて、六万余騎の兵を一手に合て、陽に開て中にとり篭んと勇けり。義貞の兵是を見て、陰に閉て中を破れじとす。是ぞ此黄石公が虎を縛する手、張子房が鬼を拉ぐ術、何れも皆存知の道なれば、両陣共に入乱て、不被破不被囲して、只百戦の命を限りにし、一挙に死をぞ争ひける。されば千騎が一騎に成までも、互に引じと戦けれ共、時の運にやよりけん、源氏は纔に討れて平家は多く亡にければ、加治・長崎二度の合戦に打負たる心地して、分陪を差して引退く。源氏猶続て寄んとしけるが、連日数度の戦に、人馬あまた疲たりしかば、一夜馬の足を休めて、久米河に陣を取寄て、明る日をこそ待たりけれ。去程に桜田治部大輔貞国・加治・長崎等十二日の軍に打負て引退由鎌倉へ聞へければ、相摸入道・舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥入道・安保左衛門入道・城越後守・長崎駿河守時光・左藤左衛門入道・安東左衛門尉高貞・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明を差副て、重て十万余騎を被下、其勢十五日の夜半許に、分陪に着ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進まんとす。義貞は敵に荒手の大勢加りたりとは不思寄。十五日の夜未明に、分陪へ押寄て時を作る。鎌倉勢先究竟の射手三千人を勝て面に進め、雨の降如散々に射させける間、源氏射たてられて駈ゑず。平家是に利を得て、義貞の勢を取篭不余とこそ責たりけれ。新田義貞逞兵を引勝て、敵の大勢を懸破ては裏へ通り、取て返ては喚て懸入、電光の如激、蜘手・輪違に、七八度が程ぞ当りける。されども大敵而も荒手にて、先度の恥を雪めんと、義を専にして闘ひける間、義貞遂に打負て堀金を指て引退く。其勢若干被討て痛手を負者数を不知。其日軈て追てばし寄たらば、義貞爰にて被討給ふべかりしを、今は敵何程の事か可有、新田をば定て武蔵・上野の者共が、討て出さんずらんと、大様に憑で時を移す。是ぞ平家の運命の尽ぬる処のしるし也。
70 三浦大多和合戦意見事
懸し程に、義貞も無為方思召ける処へ、三浦大多和平六左衛門義勝は、兼てより義貞に志有しかば、相摸国の勢松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷を具足して、以上其勢六千余騎、十五日の晩景に、義貞の陣へ馳参る。義貞大に悦て、急ぎ対面有て、礼を厚くし、席を近付て、合戦の意見をぞ被訪ける。平六左衛門畏て申けるは、「今天下二つに分れて、互の安否を合戦の勝負に懸たる事にて候へば、其雌雄十度も二十も、などか無ては候べき。但始終の落居は天命の帰する処にて候へば、遂に太平を被致事、何の疑か候べき。御勢に義勝が勢を合て戦はんに、十万余騎、是も猶敵の勢に不及候と云ども、今度の合戦に一勝負せでは候べき。」と申ければ、義貞も、「いさとよ、当手の疲たる兵を以て、大敵の勇誇たるに懸らん事は、如何。」と宣ひけるを、義勝重て申けるは、「今日の軍には治定可勝謂れ候。其故は、昔秦と楚と国を争ひける時、楚の将軍武信君、纔に八万余騎の勢を以て、秦の将軍李由が八十万騎の勢に打勝、首を切事四十余万也。是より武信君心驕り軍懈て秦の兵を恐るゝに不足と思へり。楚の副将軍に宋義と云ける兵是を見て、「戦に勝て将驕り卒惰る時は必破と云へり。武信君今如此。不亡何をか待ん。」と申けるが、果して後の軍に、武信君秦の左将軍章邯が為に被討て忽に一戦に亡にけり。義勝昨日潛に人を遣して敵の陣を見するに、其将驕れる事武信君に不異。是則宋義が謂し所に不違。所詮明日の御合戦には、義勝荒手にて候へば一方の前を承て、敵を一当々て見候はん。」と申ければ、義貞誠に心に服し、宜に随ひ、則今度の軍の成敗をば三浦平六左衛門にぞ被許ける。明れば五月十六日の寅刻に、三浦四万余騎が真前に進んで、分陪河原へ押寄る。敵の陣近く成まで態と旗の手をも不下、時の声をも不挙けり。是は敵を出抜て、手攻の勝負を為決也。如案敵は前日数箇度の戦に人馬皆疲たり。其上今敵可寄共不思懸ければ、馬に鞍をも不置、物具をも不取調、或は遊君に枕を双て帯紐を解て臥たる者あり、或は酒宴に酔を被催て、前後を不知寝たる者もあり。只一業所感の者共が招自滅不異。爰に寄手相近づくを見て、河原面に陣を取たる者、「只今面より旗を巻て、大勢の閑に馬を打て来れば、若敵にてや有らん。御要心候へ。」と告たりければ、大将を始て、「さる事あり、三浦大多和が相摸国勢を催て、御方へ馳参ずると聞へしかば、一定参たりと覚るぞ。懸る目出度事こそなけれ。」とて、驚者一人もなし。只兎にも角にも、運命の尽ぬる程こそ浅猿けれ。去程に義貞、三浦が先懸に追すがふて、十万余騎を三手に分け、三方より推寄て、同く時を作りける。恵性時の声に驚て、「馬よ物具よ。」と周章騒処へ、義貞・義助の兵縦横無尽に懸け立る。三浦平六是に力を得て、江戸・豊嶋・葛西・河越、坂東の八平氏、武蔵の七党を七手になし、蜘手・輪違・十文字に、不余とぞ攻たりける。四郎左近大夫入道、大勢也。といへ共、三浦が一時の計に被破て、落行勢は散々に、鎌倉を指して引退く。討るゝ者は数を不知。大将左近大夫入道も、関戸辺にて已に討れぬべく見へけるを、横溝八郎蹈止て、近付敵二十三騎時の間に射落し、主従三騎打死す。安保入道々堪父子三人相随ふ兵百余人、同枕に討死す。其外譜代奉公の郎従、一言芳恩の軍勢共、三百余人引返し、討死しける間に、大将四郎左近大夫入道は、其身に無恙してぞ山内まで被引ける。長崎二郎高重、久米河の合戦に、組で討たりし敵の首二、切て落したりし敵の首十三、中間・下部に取持せて、鎧に立処の箭をも未抜、疵のろより流るゝ血に、白糸の鎧忽に火威に染成て、閑々と鎌倉殿の御屋形へ参り中門に畏りたりければ、祖父の入道世にも嬉しげに打見て出迎、自疵を吸血を含で、泪を流て申けるは、「古き諺に「見子不如父」いへども、我先汝を以て、上の御用に難立者也。と思て、常に不孝を加し事、大なる誤也。汝今万死を出て一生に遇、堅を摧きける振舞、陳平・張良が為難処を究め得たり。相構て今より後も、我が一大事と合戦して父祖の名をも呈し、守殿の御恩をも報じ申候へ。」と、日来の庭訓を翻して只今の武勇を感じければ、高重頭を地に付て、両眼に泪をぞ浮べける。かゝる処に、六波羅没落して、近江の番馬にて、悉く自害のよし告来ければ、只今大敵と戦中に、此事をきいて、大火を打消て、あきれ果たる事限なし。其所従・眷属共是を聞て、泣歎き憂悲むこと、喩をとるに物なし。何にたけく勇める人々も、足手もなゆる心地して東西をもさらに弁へず。然といへども、此大敵を退てこそ、京都へも討手を上さんずれとて、先鎌倉の軍評定をぞせられける。此事敵にしらせじとせしかども、隠あるべき事ならねばやがて聞へて、哀潤色やと、悦び勇まぬ者はなし。
71 鎌倉合戦事
去程に、義貞数箇度の闘に打勝給ぬと聞へしかば、東八箇国の武士共、順付事如雲霞。関戸に一日逗留有て、軍勢の着到を着られけるに、六十万七千余騎とぞ注せる。こゝにて此勢を三手に分て、各二人の大将を差副へ、三軍の帥を令司ら、其一方には大館二郎宗氏を左将軍として、江田三郎行義を右将軍とす。其勢総て十万余騎、極楽寺の切通へぞ向はれける。一方には堀口三郎貞満を上将軍とし、大嶋讚岐守々之を裨将軍として、其勢都合十万余騎、巨福呂坂へ指向らる。其一方には、新田義貞・義助、諸将の命を司て、堀口・山名・岩松・大井田・桃井・里見・鳥山・額田・一井・羽川以下の一族達を前後左右に囲せて、其勢五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける。鎌倉中の人々は昨日・一昨日までも、分陪・関戸に合戦有て、御方打負ぬと聞へけれ共、猶物の数共不思、敵の分際さこそ有らめと慢て、強に周章たる気色も無りけるに、大手の大将にて向れたる四郎左近大夫入道僅に被討成て、昨日の晩景に山内へ引返されぬ。搦手の大将にて、下河辺へ被向たりし金沢武蔵守貞将は、小山判官・千葉介に打負て、下道より鎌倉へ引返し給ければ、思の外なる珍事哉と、人皆周章しける処に、結句五月十八日の卯刻に、村岡・藤沢・片瀬・腰越・十間坂・五十余箇所に火を懸て、敵三方より寄懸たりしかば、武士東西に馳替、貴賎山野に逃迷ふ。是ぞ此霓裳一曲の声の中に、漁陽の■鼓動地来り、烽火万里の詐の後に、戎狄の旌旗天を掠て到けん、周の幽王の滅亡せし有様、唐の玄宗傾廃せし為体も、角こそは有つらんと、被思知許にて涙も更に不止、浅猿かりし事共也。去程に義貞の兵三方より寄と聞へければ、鎌倉にも相摸左馬助高成・城式部大輔景氏・丹波左近太夫将監時守を大将として、三手に分てぞ防ける。其一方には金沢越後左近太夫将監を差副て、安房・上総・下野の勢三万余騎にて粧坂を堅めたり。一方には大仏陸奥守貞直を大将として、甲斐・信濃・伊豆・駿河の勢を相随へて、五万余騎、極楽寺の切通を堅めたり。一方には赤橋前相摸守盛時を大将として、武蔵・相摸・出羽・奥州の勢六万余騎にて、州崎の敵に被向。此外末々の平氏八十余人、国々の兵十万騎をば、弱からん方へ可向とて、鎌倉中に被残たり。去程に同日の巳刻より合戦始て、終日終夜責戦ふ。寄手は大勢にて、悪手を入替々々責入ければ、鎌倉方には防場殺所なりければ、打出々々相支て戦ける。されば三方に作る時の声両陣に呼箭叫は、天を響し地を動す。魚鱗に懸り鶴翼に開て、前後に当り左右を支へ、義を重じ命を軽じて、安否を一時に定め、剛臆を累代に可残合戦なれば、子被討共不扶、親は乗越て前なる敵に懸り、主被射落共不引起、郎等は其馬に乗て懸出、或は引組で勝負をするもあり、或は打替て共に死するもありけり。其猛卒の機を見に、万人死して一人残り、百陣破て一陣に成共、いつ可終軍とは見へざりけり。
72 赤橋相摸守自害事付本間自害事¥¥¥
懸ける処、赤橋相摸守、今朝は州崎へ被向たりけるが、此陣の軍剛して、一日一夜の其間に、六十五度まで切合たり。されば数万騎有つる郎従も、討れ落失る程に、僅に残る其勢三百余騎にぞ成にける。侍大将にて同陣に候ける南条左衛門高直に向て宣ひけるは、「漢・楚八箇年の闘に、高祖度ごとに討負給たまひしか共、一度烏江の軍に利を得て却て項羽を被亡き。斉・晋七十度の闘に、重耳更に勝事無りしか共、遂に斉境の闘に打勝て、文公国を保てり。されば万死を出て一生を得、百回負て一戦に利あるは、合戦の習也。今此戦に敵聊勝に乗るに以たりといへ共、さればとて当家の運今日に窮りぬとは不覚。雖然盛時に於ては、一門の安否を見果る迄もなく、此陣頭にて腹を切んと思ふ也。其故は、盛時足利殿に女性方の縁に成ぬる間、相摸殿を奉始、一家の人々、さこそ心をも置給らめ。是勇士の所恥也。彼田広先生は、燕丹に被語はし時、「此事漏すな」と云れて、為散其疑、命を失て燕丹が前に死たりしぞかし。此陣闘急にして兵皆疲たり。我何の面目か有て、堅めたる陣を引て而も嫌疑の中に且く命を可惜。」とて、闘未半ざる最中に、帷幕の中に物具脱捨て腹十文字に切給て北枕にぞ臥給ふ。南条是を見て、「大将已に御自害ある上は士卒誰れが為に命を可惜。いでさらば御伴申さん。」とて、続て腹を切ければ、同志の侍九十余人、上が上に重り伏て、腹をぞ切たりける。さてこそ十八日の晩程に州崎一番に破れて、義貞の官軍は山内まで入にけり。懸処に本間山城左衛門は、多年大仏奥州貞直の恩顧の者にて、殊更近習しけるが、聊勘気せられたる事有て、不被免出仕、未だ己が宿所にぞ候ける。已五月十九日の早旦に、極楽寺の切通の軍破れて敵攻入なんど聞へしかば、本間山城左衛門・若党中間百余人、是を最後と出立て極楽寺坂へぞ向ひける。敵の大将大館二郎宗氏が、三万余騎にて扣たる真中へ懸入て、勇誇たる大勢を八方へ追散し、大将宗氏に組んと透間もなくぞ懸りける。三万余騎の兵共須臾の程に分れ靡き、腰越までぞ引たりける。余りに手繁く進で懸りしかば、大将宗氏は取て返し思ふ程闘て、本間が郎等と引組で、差違へてぞ伏給ひける。本間大に悦で馬より飛で下り、其頚を取て鋒に貫き、貞直の陣に馳参じ、幕の前に畏て、「多年の奉公多日の御恩此一戦を以て奉報候。又御不審の身にて空く罷成候はゞ、後世までの妄念共成ぬべう候へば、今は御免を蒙て、心安冥途の御先仕候はん。」と申もはてず、流るゝ泪を押へつゝ、腹掻切てぞ失にける。「「三軍をば可奪帥」とは彼をぞ云べき。「以徳報怨」とは是をぞ申べき。はづかしの本間が心中や。」とて、落る泪を袖にかけながら、「いざや本間が志を感ぜん。」とて、自打出られしかば、相順兵も泪を流さぬは無りけり。
73 稲村崎成干潟事
去程に、極楽寺の切通へ被向たる大館次郎宗氏、本間に被討て、兵共片瀬・腰越まで、引退ぬと聞へければ、新田義貞逞兵に万余騎を率して、二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。と見給ければ、義貞馬より下給て、甲を脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。「伝奉る、日本開闢の主、伊勢天照太神は、本地を大日の尊像に隠し、垂跡を滄海の竜神に呈し給へりと、吾君其苗裔として、逆臣の為に西海の浪に漂給ふ。義貞今臣たる道を尽ん為に、斧鉞を把て敵陣に臨む。其志偏に王化を資け奉て、蒼生を令安となり。仰願は内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑒て、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に令開給へ。」と、至信に祈念し、自ら佩給へる金作の太刀を抜て、海中へ投給けり。真に竜神納受やし給けん、其夜の月の入方に、前々更に干る事も無りける稲村崎、俄に二十余町干上て、平沙渺々たり。横矢射んと構ぬる数千の兵船も、落行塩に被誘て、遥の澳に漂へり。不思議と云も無類。義貞是を見給て、「伝聞、後漢の弐師将軍は、城中に水尽渇に被責ける時、刀を抜て岩石を刺しかば、飛泉俄に湧出き。我朝の神宮皇后は、新羅を責給し時自ら干珠を取、海上に抛給しかば、潮水遠退て終戦に勝事を令得玉ふと。是皆和漢の佳例にして古今の奇瑞に相似り。進めや兵共。」と被下知ければ、江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河・山名・桃井の人々を始として、越後・上野・武蔵・相摸の軍勢共、六万余騎を一手に成て、稲村が崎の遠干潟を真一文字に懸通て、鎌倉中へ乱入る。数多の兵是を見て、後なる敵に懸らんとすれば、前なる寄手迹に付て攻入んとす。前なる敵を欲防と、後の大勢道を塞で欲討と。進退失度、東西に心迷て、墓々敷敵に向て、軍を至す事は無りけり。爰に嶋津四郎と申しは、大力の聞へ有て、誠に器量事がら人に勝れたりければ、御大事に逢ぬべき者也。とて、執事長崎入道烏帽子々にして一人当千と被憑たりければ、詮度の合戦に向んとて未だろ々の防場へは不被向、態相摸入道の屋形の辺にぞ被置ける。懸る処に浜の手破て、源氏已に若宮小路まで攻入たりと騒ぎければ、相摸入道、嶋津を呼寄て、自ら酌を取て酒を進め三度傾ける時、三間の馬屋に被立たりける関東無双の名馬白浪と云けるに、白鞍置てぞ被引ける。見る人是を不浦山と云事なし。嶋津、門前より此馬にひたと打乗て、由井浜の浦風に、濃紅の大笠注を吹そらさせ、三物四物取付て、あたりを払て馳向ければ、数多の軍勢是を見て、誠に一騎当千の兵也。此間執事の重恩を与へて、傍若無人の振舞せられたるも理り哉、と思はぬ人はなかりけり。義貞の兵是を見て、「あはれ敵や。」と罵りければ、栗生・篠塚・畑・矢部・堀口・由良・長浜を始として、大力の覚へ取たる悪者共、我先に彼武者と組で勝負を決せんと、馬を進めて相近づく。両方名誉の大力共が、人交もせず軍する、あれ見よとのゝめきて、敵御方諸共に、難唾を呑で汗を流し、是を見物してぞ扣へたる。懸る処に島津馬より飛で下り、甲を脱で閑々と身繕をする程に、何とするぞと見居たれば、をめ/\と降参して、義貞の勢にぞ加りける。貴賎上下是を見て、誉つる言を翻して、悪まぬ者も無りけり。是を降人の始として、或は年来重恩の郎従、或は累代奉公の家人とも、主を棄て降人になり、親を捨て敵に付、目も不被当有様なり。凡源平威を振ひ、互に天下を争はん事も、今日を限りとぞ見へたりける。
74 鎌倉兵火事付長崎父子武勇事
去程に、浜面の在家並稲瀬河の東西に火を懸たれば、折節浜風烈吹布て、車輪の如くなる炎、黒煙の中に飛散て、十町二十町が外に燃付事、同時に二十余箇所也。猛火の下より源氏の兵乱入て、度方を失へる敵共を、此彼に射伏切臥、或引組差違、或生捕分捕様々也。煙に迷る女・童部共、被追立て火の中堀の底共不云、逃倒れたる有様は、是や此帝尺宮の闘に、修羅の眷属共天帝の為に被罰て、剣戟の上に倒伏阿鼻大城の罪人が獄卒の槍に被駆て、鉄湯の底に落入る覧も、角やと被思知て、語るに言も更になく、聞に哀を催して、皆泪にぞ咽ける。去程に余煙四方より吹懸て、相摸入道殿の屋形近く火懸りければ、相摸入道殿千余騎にて、葛西が谷に引篭り給ければ、諸大将の兵共は、東勝寺に充満たり。是は父祖代々の墳墓の地なれば、爰にて兵共に防矢射させて、心閑に自害せん也。中にも長崎三郎左衛門入道思元・子息勘解由左衛門為基二人は、極楽寺の切通へ向て、責入敵を支て防けるが、敵の時の声已に小町口に聞へて、鎌倉殿へ御屋形に、火懸りぬと見へしかば、相随ふ兵七千余騎をば、猶本の責口に残置き、父子二人が手勢六百余騎を勝て、小町口へぞ向ける。義貞の兵是を見て、中に取篭て討んとす。長崎父子一所に打寄て魚鱗に連ては懸破り、虎韜に別ては追靡け、七八度が程ぞ揉だりける。義貞の兵共蜘手・十文字に被懸散て、若宮小路へ颯と引て、人馬に息をぞ継せける。懸る処に、天狗堂と扇が谷に軍有と覚て、馬煙夥敷みへければ、長崎父子左右へ別て、馳向はんとしけるが、子息勘解由左衛門、是を限と思ければ、名残惜げに立止て、遥に父の方を見遣て、両眼より泪を浮べて、行も過ざりけるを、父屹と是を見て、高らかに恥しめて、馬を扣て云けるは、「何か名残の可惜る、独死て独生残らんにこそ、再会其期も久しからんずれ。我も人も今日の日の中に討死して、明日は又冥途にて寄合んずる者が、一夜の程の別れ、何かさまでは悲かるべき。」と、高声に申ければ、為基泪を推拭ひ、「さ候はゞ疾して冥途の旅を御急候へ。死出の山路にては待進せ候はん。」と云捨て、大勢の中へ懸入ける心の中こそ哀なれ。相順兵僅に二十余騎に成しかば、敵三千余騎の真中に取篭て、短兵急に拉がんとす。為基が佩たる太刀は面影と名付て、来太郎国行が、百日精進して、百貫にて三尺三寸に打たる太刀なれば、此鋒に廻る者、或は甲の鉢を立破に被破、或胸板を袈裟懸に切て被落ける程に、敵皆是に被追立て、敢て近付者も無りけり。只陣を隔て矢衾を作て、遠矢に射殺さんとしける間、為基乗たる馬に矢の立事七筋也。角ては可然敵に近て、組んとする事叶はじと思ければ、由井の浜の大鳥居の前にて馬よりゆらりと飛で下、只一人太刀を倒に杖て、二王立にぞ立たりける。義貞の兵是を見て、猶も只十方より遠矢に射計にて、寄合んとする者ぞ無りける。敵を為謀手負たる真似をして、小膝を折てぞ臥たりける。爰に誰とは不知、輪子引両の笠符付たる武者、五十余騎ひし/\と打寄て、勘解由左衛門が頚を取んと、争ひ近付ける処に、為基かはと起て太刀を取直し、「何者ぞ、人の軍にしくたびれて、昼寝したるを驚すは。いで己等がほしがる頚取せん。」と云侭に、鐔本まで血に成たる太刀を打振て、鳴雷の落懸る様に、大手をはだけて追ける間、五十余騎の者共、逸足を出し逃ける間、勘解由左衛門大音を揚て、「何くまで逃るぞ。蓬し、返せ。と罵る声の、只耳本に聞へて、日来さしも早しと思し馬共、皆一所に躍る心地して、恐しなんど云許なし。為基只一人懸入て裏へぬけ、取て返しては懸乱し、今日を限と闘しが、二十一日の合戦に、由比浜の大勢を東西南北に懸散し、敵・御方の目を驚し、其後は生死を不知成にけり。
75 大仏貞直並金沢貞将討死事
去程に、大仏陸奥守貞直は、昨日まで二万余騎にて、極楽寺の切通を支て防闘ひ給けるが、今朝の浜の合戦に、三百余騎に討成れ、剰敵に後を被遮て、前後に度を失て御座ける処に、鎌倉殿の御屋形にも火懸りぬと見へしかば、世間今はさてとや思けん、又主の自害をや勧めけん、宗徒の郎従三十余人、白州の上に物具脱棄て、一面に並居て腹をぞ切にける。貞直是を見給て、「日本一の不覚の者共の行跡哉。千騎が一騎に成までも、敵を亡名を後代に残すこそ、勇士の本意とする所なれ。いでさらば最後の一合戦快して、兵の義を勧めん。」とて、二百余騎の兵を相随へ、先大嶋・里見・額田・桃井、六千余騎にて磬たる真中へ破て入、思程闘て、敵数た討取て、ばつと駈出見給へば、其勢僅に六十余騎に成にけり。貞直其兵を指招て、「今は末々の敵と懸合ても無益也。」とて、脇屋義助雲霞のごとくに扣たる真中へ駈入、一人も不残討死して尸を戦場の土にぞ残しける。金沢武蔵守貞将も、山内の合戦に相従ふ兵八百余人被打散我身も七箇所まで疵を蒙て、相摸入道の御坐す東勝寺へ打帰り給たりければ、入道不斜感謝して、軈て両探題職に可被居御教書を被成、相摸守にぞ被移ける。貞将は一家の滅亡日の中を不過と被思けれ共、「多年の所望、氏族の規摸とする職なれば、今は冥途の思出にもなれかし。」と、彼御教書を請取て、又戦場へ打出給けるが、其御教書の裏に、「棄我百年命報公一日恩。」と大文字に書て、是を鎧の引合に入て、大勢の中へ懸入、終に討死し玉ければ、当家も他家も推双て、感ぜぬ者も無りけり。
76 信忍自害事
去程に普恩寺前相摸入道信忍も、粧粧坂へ被向たりしが、夜る昼る五日の合戦に、郎従悉く討死して、僅に二十余騎ぞ残ける。諸方の攻口皆破て、敵谷々に入乱ぬと申ければ、入道普恩寺討残されたる若党諸共に自害せられけるが、子息越後守仲時六波羅を落て、江州番馬にて腹切玉ぬと告たりければ、其最後の有様思出して、哀に不堪や被思けん、一首の歌を御堂の柱に血を以て書付玉けるとかや、待しばし死出の山辺の旅の道同く越て浮世語らん年来嗜弄給し事とて、最後の時も不忘、心中の愁緒を述て、天下の称嘆に残されける、数奇の程こそ優けれと、皆感涙をぞ流しける。
77 塩田父子自害事
爰に不思議なりしは、塩田陸奥入道々祐が子息民部大輔俊時、親の自害を勧んと、腹掻切て目前に臥たりけるを見給て、幾程ならぬ今生の別に目くれ心迷て落る泪も不留、先立ぬる子息の菩提をも祈り、我逆修にも備へんとや被思けん、子息の尸骸に向て、年来誦給ける持経の紐を解、要文処々打上、心閑に読誦し給けり。被打漏たる郎等共、主と共に自害せんとて、二百余人並居たりけるを、三方へ差遣し、「此御経誦終る程防矢射よ。」と下地せられけり。其中に狩野五郎重光許は年来の者なる上、近々召仕れければ、「吾腹切て後、屋形に火懸て、敵に頚とらすな。」と云含め、一人被留置けるが、法花経已に五の巻の提婆品はてんとしける時、狩野五郎門前に走出て四方を見る真似をして、「防矢仕つる者共早皆討れて、敵攻近付候。早々御自害候へ。」と勧ければ、入道、「さらば。」とて、経をば左の手に握り、右の手に刀を抜て腹十文字に掻切て、父子同枕にぞ臥給ける。重光は年来と云、重恩と云、当時遺言旁難遁ければ、軈て腹をも切らんずらんと思たれば、さは無て、主二人の鎧・太刀・々剥、家中の財宝中間・下部に取持せて、円覚寺の蔵主寮にぞ隠居たりける。此重宝共にては、一期不足非じと覚しに、天罰にや懸りけん。舟田入道是を聞付て推寄せ、是非なく召捕て、遂に頚を刎て、由井の浜にぞ掛られける。尤角こそ有たけれとて、悪ぬ者も無りけり。
78 塩飽入道自害事
塩飽新左近入道聖遠は、嫡子三郎左衛門忠頼を呼、「諸方の攻口悉破、御一門達大略腹切せ給と聞へければ、入道も守殿に先立進て、其忠義を知られ奉らんと思也。されば御辺は未だ私の眷養にて、公方の御恩をも蒙らねば、縦ひ一所にて今命を不棄共、人強義を知ぬ者とはよも思はじ。然者何くにも暫く身を隠し、出家遁世の身ともなり、我後生をも訪ひ、心安く一身の生涯をもくらせかし。」と、泪の中に宣ひければ、三郎左衛門忠頼も、両眼に泪を浮め、しば/\物も不被申けるが、良有て、「是こそ仰共覚候はね。忠頼直に公方の御恩を蒙りたる事は候はね共、一家の続命悉く是武恩に非と云事なし。其上忠頼自幼少釈門に至る身ならば、恩を棄て無為に入る道も然なるべし。苟も弓矢の家に生れ、名を此門棄に懸ながら、武運の傾を見て、時の難を遁れんが為に、出塵の身と成て、天下の人に指を差れん事、是に過たる恥辱や候べき。御腹被召候はゞ、冥途の御道しるべ仕候はん。」と云も終ず、袖の下より刀を抜て、偸に腹に突立て、畏たる体にて死ける。其弟塩飽四郎是を見て、続て腹を切らんとしけるを、父の入道大に諌て、「暫く吾を先立、順次の孝を専にし、其後自害せよ。」と申ければ、塩飽四郎抜たる刀を収て、父の入道が前に畏てぞ侯ける。入道是を見て快げに打笑、閑々と中門に曲■をかざらせて、其上に結跏趺座し、硯取寄て自ら筆を染め、辞世の頌をぞ書たりける。提持吹毛。截断虚空。大火聚裡。一道清風。と書て、叉手して頭を伸て、子息四郎に、「其討。」と下地しければ、大膚脱に成て、父の頚をうち落て、其太刀を取直て、鐔本まで己れが腹に突貫て、うつぶしざまにぞ臥たりける。郎等三人是を見て走寄り、同太刀に被貫て、串に指たる魚肉の如く頭を連て伏たりける。
79 安東入道自害事付漢王陵事
安東左衛門入道聖秀と申しは、新田義貞の北台の伯父成しかば、彼女房義貞の状に我文を書副て、偸に聖秀が方へぞ被遣ける。安東、始は三千余騎にて、稲瀬河へ向たりけるが、世良田太郎が稲村崎より後へ回りける勢に、陣を被破て引けるが、由良・長浜が勢に被取篭て百余騎に被討成、我身も薄手あまた所負て、己が館へ帰たりけるが、今朝巳刻に、宿所は早焼て其跡もなし。妻子遣属は何ちへか落行けん、行末も不知成て、可尋問人もなし。是のみならず、鎌倉殿の御屋形も焼て、入道殿東勝寺へ落させ給ぬと申者有ければ、「さて御屋形の焼跡には、傍輩何様腹切討死してみゆるか。」と尋ければ、「一人も不見候。」とぞ答ける。是を聞て安東、「口惜事哉。日本国の主、鎌倉殿程の年来住給し処を敵の馬の蹄に懸させながら、そこにて千人も二千人も討死する人の無りし事よと、後の人々に被欺事こそ恥辱なれ。いざや人々、とても死せんずる命を、御屋形の焼跡にて心閑に自害して、鎌倉殿の御恥を洗がん。」とて、被討残たる郎等百余騎を相順へて、小町口へ打莅む。先々出仕の如く、塔辻にて馬より下り、空き迹を見廻せば、今朝までは、奇麗なる大廈高牆の構、忽に灰燼と成て、須臾転変の煙を残し、昨日まで遊戯せし親類朋友も、多く戦場に死して、盛者必衰の尸を余せり。悲の中の悲に、安東泪を押へて惘然たる処に、新田殿の北の台の御使とて、薄様に書たる文を捧たり。何事ぞとて披見れば、「鎌倉の有様今はさてとこそ承候へ。何にもして此方へ御出候へ。此程の式をば身に替ても可申宥候。」なんど、様々に書れたり。是を見て安東大に色を損じて申けるは、「栴檀の林に入者は、不染衣自ら香しといへり。武士の女房たる者は、けなげなる心を一つ持てこそ、其家をも継子孫の名をも露す事なれ。されば昔漢の高祖と楚項羽と闘ける時、王陵と云者城を構て篭たりしを、楚是を攻るに更に不落。此時楚の兵相謀て云、「王陵は母の為に忠孝を存ずる事不浅。所詮王陵が母を捕へて楯の面に当て城を攻る程ならば、王陵矢を射る事を不得して降人に出る事可有。」とて潛に彼母を捕てけり。彼母心の中に思けるは、王陵我に仕る事大舜・曾参が高孝にも過たり。我若楯の面に被縛城に向ふ程ならば、王陵悲に不堪して、城を被落事可有。不如無幾程命を為子孫捨んにはと思定て、自剣の上に死てこそ、遂に王陵が名をば揚たりしか。我只今まで武恩に浴して、人に被知身となれり。今事の急なるに臨で、降人に出たらば、人豈恥を知たる者と思はんや。されば女性心にて縦加様の事を被云共、義貞勇士の義を知給ば、さる事やあるべき、可被制。又義貞縱敵の志を計らん為に宣ふ共、北方は我方様の名を失はじと思はれば、堅可被辞、只似るを友とする方見さ、子孫の為に不被憑。」と、一度は恨一度は怒て、彼使の見る前にて、其文を刀に拳り加へて、腹掻切てぞ失給ける。
80 亀寿殿令落信濃事付左近大夫偽落奥州事
爰に相摸入道殿の舎弟四郎左近大夫入道の方に候ける諏方左馬助入道が子息、諏訪三郎盛高は、数度の戦に郎等皆討れぬ。只主従二騎に成て、左近大夫入道の宿所に来て申けるは、「鎌倉中の合戦、今は是までと覚て候間、最後の御伴仕候はん為に参て候。早思召切せ給へ。」と進め申ければ、入道当りの人をのけさせて、潛に盛高が耳に宣ひけるは、「此乱不量出来、当家已に滅亡しぬる事更に他なし。只相摸入道殿の御振舞人望にも背き神慮にも違たりし故也。但し天縦ひ驕を悪み盈を欠とも、数代積善の余慶家に尽ずば、此子孫の中に絶たるを継ぎ廃たるを興す者無らんや。昔斉の襄公無道なりしかば、斉の国可亡を見て、其臣に鮑叔牙と云ける者、襄公の子小伯を取て他国へ落てげり。其間に襄公果して公孫無智に被亡、斉の国を失へり。其時に鮑叔牙小伯を取立て、斉の国へ推寄、公孫無智を討事を得て遂に再び斉の国を保たせける。斉の桓公は是也。されば於我深く存ずる子細あれば、無左右自害する事不可有候。可遁ば再び会稽の恥を雪ばやと思ふ也。御辺も能々遠慮を回して、何なる方にも隠忍歟、不然ば降人に成て命を継で、甥にてある亀寿を隠置て、時至ぬと見ん時再び大軍を起して素懐を可被遂。兄の万寿をば五大院の右衛門に申付たれば、心安く覚る也。」と宣へば、盛高泪を押へて申けるは、「今までは一身の安否を御一門の存亡に任候つれば、命をば可惜候はず。御前にて自害仕て、二心なき程を見へ進せ候はんずる為にこそ、是まで参て候へ共、「死を一時に定るは易く、謀を万代に残すは難し」と申事候へば、兎も角も仰に可随候。」とて、盛高は御前を罷立て、相摸殿の妾、二位殿の御局の扇の谷に御坐ける処へ参たりければ、御局を始進せて、女房達まで誠に嬉し気にて、「さても此世の中は、何と成行べきぞや。我等は女なれば立隠るゝ方も有ぬべし。此亀寿をば如何すべき。兄の万寿をば五大院右衛門可蔵方有とて、今朝何方へやらん具足しつれば心安く思也。只此亀寿が事思煩て、露の如なる我身さへ、消侘ぬるぞ。」と泣口説給ふ。盛高此事有の侭に申て、御心をも慰め奉らばやとは思ひけれども、女性はゝかなき者なれば、後にも若人に洩し給ふ事もやと思返して、泪の中に申けるは、「此世中今はさてとこそ覚候へ。御一門太略御自害候なり。大殿計こそ未葛西谷に御座候へ。公達を一目御覧じ候て、御腹を可被召と仰候間、御迎の為に参て候。」と申ければ、御局うれし気に御座つる御気色、しほ/\と成せ給て、「万寿をば宗繁に預けつれば心安し、構て此子をも能々隠してくれよ。」と仰せも敢ず、御泪に咽ばせ給しかば、盛高も岩木ならねば、心計は悲しけれ共、心を強く持て申けるは、「万寿御料をも五大院右衛門宗繁が具足し進せ候つるを、敵見付て追懸進せ候しかば、小町口の在家に走入て、若子をば指殺し進せ、我身も腹切て焼死候つる也。あの若御も今日此世の御名残、是を限と思召候へ。とても隠れあるまじき物故に、狩場の雉の草隠たる有様にて、敵にさがし出されて、幼き御尸に、一家の御名を失れん事口惜候。其よりは大殿の御手に懸られ給て冥途までも御伴申させ給たらんこそ、生々世々の忠孝にて御座候はん。疾々入進せ給へ。」と進めければ、御局を始進せて、御乳母の女房達に至るまで、「方見の事を申者哉。せめて敵の手に懸らば如何せん。二人の公達を懐存進つる人々の手に懸て失ひ奉らんを見聞ては、如何許とか思遣る。只我を先殺して後、何とも計へ。」とて、少人の前後に取付て、声も不惜泣悲給へば、盛高も目くれ、心消々と成しか共、思切らでは叶まじと思て、声いらゝげ色を損て、御局を奉睨、「武士の家に生れん人、襁の中より懸る事可有と思召れぬこそうたてけれ。大殿のさこそ待思召候覧。早御渡候て、守殿の御伴申させ給へ。」と云侭に走懸り、亀寿殿を抱取て、鎧の上に舁負て、門より外へ走出れば、同音にわつと泣つれ玉し御声々、遥の外所まで聞へつゝ、耳の底に止れば、盛高も泪を行兼て、立返て見送ば、御乳母の御妻は、歩跣にて人目をも不憚走出させ給て、四五町が程は、泣ては倒れ、倒ては起迹に付て被追けるを、盛高心強行方を知れじと、馬を進めて打程に後影も見へず成にければ、御妻、「今は誰をそだて、誰を憑で可惜命ぞや。」とて、あたりなる古井に身を投て、終に空く成給ふ。其後盛高此若公を具足して、信濃へ落下り、諏訪の祝を憑で有しが、建武元年の春の比、暫関東を劫略して、天下の大軍を起し、中前代の大将に、相摸二郎と云は是なり。角して四郎左近太夫入道は、二心なき侍共を呼寄て「我は思様有て、奥州の方へ落て、再び天下を覆す計を可回也。南部太郎・伊達六郎二人は、案内者なれば可召具。其外の人々は自害して屋形に火をかけ、我は腹を切て焼死たる体を敵に可見。」と宣ければ、二十余人の侍共、一義にも不及、「皆御定に可随。」とぞ申ける。伊達・南部二人は、貌をやつし夫になり、中間二人に物具きせて馬にのせ、中黒の笠符を付させ、四郎入道を■に乗て、血の付たる帷を上に引覆ひ、源氏の兵の手負て本国へ帰る真以をして、武蔵までぞ落たりける。其後残置たる侍共、中門に走出、「殿は早御自害有ぞ。志の人は皆御伴申せ。」と呼て、屋形に火を懸、忽に煙の中に並居て、二十余人の者共は、一度に腹をぞ切たりける。是を見て、庭上・門外に袖を連ねたる兵共三百余人、面々に劣じ々じと腹切て、猛火の中へ飛で入、尸を不残焼死けり。さてこそ四郎左近太夫入道の落給ぬる事をば不知して、自害し給ぬと思けれ。其後西園寺の家に仕へて、建武の比京都の大将にて、時興と被云しは、此入道の事也けり。
81 長崎高重最期合戦事
去程に長崎次郎高重は、始武蔵野の合戦より、今日に至るまで、夜昼八十余箇度の戦に、毎度先を懸、囲を破て自相当る事、其数を不知然ば、手者・若党共次第に討亡されて、今は僅に百五十騎に成にけり。五月二十二日に、源氏早谷々へ乱入て、当家の諸大将、太略皆討れ給ぬと聞へければ、誰が堅めたる陣とも不云、只敵の近づく処へ、馳合々々、八方の敵を払て、四隊の堅めを破ける間、馬疲れぬれば乗替、太刀打折れば帯替て、自敵を切て落す事三十二人、陣を破る事八箇度なり。角て相摸入道の御坐葛西谷へ帰り参て、中門に畏り泪を流し申けるは、「高重数代奉公の義を忝して、朝夕恩顔を拝し奉りつる御名残、今生に於ては今日を限りとこそ覚へ候へ。高重一人数箇所の敵を打散て、数度の闘に毎度打勝候といへ共、方々の口々皆責破られて、敵の兵鎌倉中に充満して候ぬる上は、今は矢長に思共不可叶候。只一筋に敵の手に懸らせ給はぬ様に、思召定させ給候へ。但し高重帰参て勧申さん程は、無左右御自害候な。上の御存命の間に、今一度快く敵の中へ懸入、思程の合戦して冥途の御伴申さん時の物語に仕候はん。」とて、又東勝寺を打出づ。其後影を相摸入道遥に目送玉て、是や限なる覧と名残惜げなる体にて、泪ぐみてぞ被立たる。長崎次郎甲をば脱捨、筋の帷の月日推たるに、精好の大口の上に赤糸の腹巻着て小手をば不差、兎鶏と云ける坂東一の名馬に、金具の鞍に小総の鞦懸てぞ乗たりける。是を最後と思定ければ、先崇寿寺の長老南山和尚に参じて、案内申ければ、長老威儀を具足して出合給へり。方々の軍急にして甲冑を帯したりければ、高重は庭に立ながら、左右に揖して問て曰、「如何是勇士恁麼の事。」和尚答曰、「吹毛急用不如前。」高重此一句を聞て、問訊して、門前より馬引寄打乗て、百五十騎の兵を前後に相随へ、笠符かなぐり棄、閑に馬を歩て、敵陣に紛入。其志偏に義貞に相近付ば、撲て勝負を決せん為也。高重旗をも不指、打物の室をはづしたる者無ければ、源氏の兵、敵とも不知けるにや、をめ/\と中を開て通しければ、高重、義貞に近く事僅に半町計也。すはやと見ける処に、源氏の運や強かりけん、義貞の真前に扣たりける由良新左衛門是を見知て、「只今旗をも不指相近勢は長崎次郎と見ぞ。さる勇士なれば定て思処有てぞ是までは来らん。あますな漏すな。」と、大音挙て呼りければ、先陣に磬たる武蔵の七党三千余騎、東西より引裹で真中に是を取込、我も々もと討んとす。高重は支度相違しぬと思ければ、百五十騎の兵を、ひし/\と一所へ寄て、同音に時をどつと揚、三千余騎の者共を懸抜懸入交合、彼に露れ此に隠れ、火を散してぞ闘ける。聚散離合の有様は須臾に反化して前に有歟とすれば忽焉として後へにある。御方かと思へば屹として敵也。十方に分身して、万卒に同く相当りければ、義貞の兵高重が在所を見定ず、多くは同士打をぞしたりける。長浜六郎是を見て「無云甲斐人々の同士打哉、敵は皆笠符を不付とみへつるぞ、中に紛れば、其を符にして組で討。」と下地しければ、甲斐・信濃・武蔵・相摸の兵共、押双てはむずと組、々で落ては首を取もあり、被捕もあり、芥塵掠天、汗血地を糢糊す。其在様項王が漢の三将を靡し魯陽が日を三舎に返し闘しも、是には不過とぞ見へたりける。され共長崎次郎は未被討、主従只八騎に成て戦けるが、猶も義貞に組んと伺て近付敵を打払、動れば差違て、義貞兄弟を目に懸て回りけるを、武蔵国の住人横山太郎重真、押隔て是に組んと、馬を進めて相近づく。長崎もよき敵ならば、組んと懸合て是を見るに、横山太郎重真也。さてはあはぬ敵ぞと思ければ、重真を弓手に相受、甲の鉢を菱縫の板まで破着たりければ、重真二つに成て失にけり。馬もしりゐに被打居て、小膝を折てどうど伏す。同国の住人庄三郎為久是を見て、よき敵也。と思ければ、続て是に組んとす。大手をはだけて馳懸る。長崎遥に見て、から/\と打笑て、「党の者共に可組ば、横山をも何かは可嫌。逢ぬ敵を失ふ様、いで/\己に知せん。」とて、為久が鎧の上巻掴で中に提げ、弓杖五杖計安々と投渡す。其人飛礫に当りける武者二人、馬より倒に被打落て、血を吐て空く成にけり。高重今はとても敵に被見知ぬる上はと思ければ、馬を懸居大音揚て名乗けるは、「桓武第五の皇子葛原親王に三代の孫、平将軍貞盛より十三代前相摸守高時の管領に、長崎入道円喜が嫡孫、次郎高重、武恩を報ぜんため討死するぞ、高名せんと思はん者は、よれや組ん。」と云侭に、鎧の袖引ちぎり、草摺あまた切落し、太刀をも鞘に納つゝ、左右の大手を播ては、此に馳合彼に馳替、大童に成て駈散しける。懸る処に、郎等共馬の前に馳塞て、「何なる事にて候ぞ。御一所こそ加様に馳廻坐せ。敵は大勢にて早谷々に乱入、火を懸物を乱妨し候。急御帰候て、守殿の御自害をも勤申させ給へ。」と云ければ、高重郎等に向て宣けるは、「余りに人の逃るが面白さに、大殿に約束しつる事をも忘ぬるぞや。いざゝらば帰参ん。」とて、主従八騎の者共、山内より引帰しければ、逃て行とや思ひけん、児玉党五百余騎、「きたなし返せ。」と罵て、馬を争て追懸たり。高重、「こと/゛\しの奴原や、何程の事をか仕出すべき。」とて、聞ぬ由にて打けるを、手茂く追て懸りしかば、主従八騎屹と見帰て馬の轡を引回すとぞみへし。山内より葛西の谷口まで十七度まで返し合せて、五百余騎を追退け、又閑々とぞ打て行ける。高重が鎧に立処の矢二十三筋、蓑毛の如く折かけて、葛西谷へ参りければ、祖父の入道待請て、「何とて今まで遅りつるぞ。今は是までか。」と問れければ、高重畏り、「若大将義貞に寄せ合せば、組で勝負をせばやと存候て、二十余度まで懸入候へ共、遂に不近付得。其人と覚しき敵にも見合候はで、そゞろなる党の奴つ原四五百人切落てぞ捨候つらん。哀罪の事だに思ひ候はずは、猶も奴原を浜面へ追出して、弓手・馬手に相付、車切・胴切・立破に仕棄度存候つれ共、上の御事何がと御心元なくて帰参て候。」と、聞も涼く語るにぞ、最期に近き人々も、少し心を慰めける。
82 高時並一門以下於東勝寺自害事
去程に高重走廻て、「早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。」と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部太夫入道々準が前に置き、「思指申ぞ。是を肴にし給へ。」とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける。道準盃を取て、「あはれ肴や、何なる下戸なり共此をのまぬ者非じ。」と戯て、其盃を半分計呑残て、諏訪入道が前に指置、同く腹切て死にけり。諏訪入道直性、其盃を以て心閑に三度傾て、相摸入道殿の前に指置て、「若者共随分芸を尽して被振舞候に年老なればとて争か候べき、今より後は皆是を送肴に仕べし。」とて、腹十文字に掻切て、其刀を抜て入道殿の前に指置たり。長崎入道円喜は、是までも猶相摸入道の御事を何奈と思たる気色にて、腹をも未切けるが、長崎新右衛門今年十五に成けるが、祖父の前に畏て、「父祖の名を呈すを以て、子孫の孝行とする事にて候なれば、仏神三宝も定て御免こそ候はんずらん。」とて、年老残たる祖父の円喜が肱のかゝりを二刀差て、其刀にて己が腹を掻切て、祖父を取て引伏せて、其上に重てぞ臥たりける。此小冠者に義を進められて、相摸入道も腹切給へば、城入道続て腹をぞ切たりける。是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実・常葉駿河守範貞・名越土佐前司時元・摂津形部大輔入道・伊具越前々司宗有・城加賀前司師顕・秋田城介師時・城越前守有時・南部右馬頭茂時・陸奥右馬助家時・相摸右馬助高基・武蔵左近大夫将監時名・陸奥左近将監時英・桜田治部太輔貞国・江馬遠江守公篤・阿曾弾正少弼治時・苅田式部大夫篤時・遠江兵庫助顕勝・備前左近大夫将監政雄・坂上遠江守貞朝・陸奥式部太輔高朝・城介高量・同式部大夫顕高・同美濃守高茂・秋田城介入道延明・明石長門介入道忍阿・長崎三郎左衛門入道思元・隅田次郎左衛門・摂津宮内大輔高親・同左近大夫将監親貞、名越一族三十四人、塩田・赤橋・常葉・佐介の人々四十六人、総じて其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。庭上・門前に並居たりける兵共是を見て、或は自腹掻切て炎の中へ飛入もあり、或は父子兄弟差違へ重り臥もあり。血は流て大地に溢れ、漫々として洪河の如くなれば、尸は行路に横て累々たる郊原の如し。死骸は焼て見へね共、後に名字を尋ぬれば、此一所にて死する者、総て八百七十余人也。此外門葉・恩顧の者、僧俗・男女を不云、聞伝々々泉下に恩を報る人、世上に促悲を者、遠国の事はいざ不知、鎌倉中を考るに、総て六千余人也。嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。