太平記/巻第八
巻第八
50 摩耶合戦事付酒部瀬河合戦事
先帝已に船上に着御成て、隠岐判官清高合戦に打負し後、近国の武士共皆馳参る由、出雲・伯耆の早馬頻並に打て、六波羅へ告たりければ、事已に珍事に及びぬと聞人色を失へり。是に付ても、京近き所に敵の足をためさせては叶まじ。先摂津国摩耶の城へ押寄て、赤松を可退治とて、佐々木判官時信・常陸前司時知に四十八箇所の篝、在京人並三井寺法師三百余人を相副て、以上五千余騎を摩耶の城へぞ被向ける。其勢閏二月五日京都を立て、同十一日の卯刻に、摩耶の城の南の麓、求塚・八幡林よりぞ寄たりける。赤松入道是を見て、態敵を難所に帯き寄ん為に、足軽の射手一二百人を麓へ下して、遠矢少々射させて、城へ引上りけるを、寄手勝に乗て五千余騎、さしも嶮き南の坂を、人馬に息も継せず揉に々でぞ挙たりける。此山へ上るに、七曲とて岨く細き路あり。此所に至て、寄手少し上りかねて支へたりける所を、赤松律師則祐・飽間九郎左衛門尉光泰二人南の尾崎へ下降て、矢種を不惜散々に射ける間、寄手少し射しらまかされて、互に人を楯に成て其陰にかくれんと色めきける気色を見て、赤松入道子息信濃守範資・筑前守貞範・佐用・上月・小寺・頓宮の一党五百余人、鋒を双て大山の崩が如く、二の尾より打て出たりける間、寄手跡より引立て、「返せ。」と云けれ共、耳にも不聞入、我先にと引けり。其道或深田にして馬の蹄膝を過ぎ、或荊棘生繁て行く前き弥狭ければ、返さんとするも不叶、防がんとするも便りなし。されば城の麓より、武庫河の西の縁まで道三里が間、人馬上が上に重り死て行人路を去敢ず。向ふ時七千余騎と聞へし六波羅の勢、僅に千騎にだにも足らで引返しければ、京中・六波羅の周章不斜。雖然、敵近国より起て、属順ひたる勢さまで多しとも聞へねば、縦ひ一度二度勝に乗る事有とも、何程の事か可有と、敵の分限を推量て、引ども機をば不失。斯る所に、備前国の地頭・御家人も大略敵に成ぬと聞へければ、摩耶城へ勢重ならぬ前に討手を下せとて、同二十八日、又一万余騎の勢を被差下。赤松入動是を聞て、「勝軍の利、謀不意に出で大敵の気を凌で、須臾に変化して先ずるには不如。」とて三千余騎を率し、摩耶の城を出て、久々智・酒部に陣を取て待かけたり。三月十日六波羅勢、既に瀬河に着ぬと聞へければ、合戦は明日にてぞ有んずらんとて、赤松すこし油断して、一村雨の過けるほど物具の露をほさんと、僅なる在家にこみ入て、雨の晴間を待ける所に、尼崎より船を留めてあがりける阿波の小笠原、三千余騎にて押寄たり。赤松纔に五十余騎にて大勢の中へかけ入り、面も不振戦ひけるが、大敵凌ぐに叶はねば、四十七騎は被討て、父子六騎にこそ成にけれ。六騎の兵皆揆をかなぐり捨て、大勢の中へ颯と交りて懸まわりける間、敵是を知らでや有けん、又天運の助けにや懸りけん、何れも無恙して、御方の勢の小屋野の宿の西に、三千余騎にて引へたる其中へ馳入て、虎口に死を遁れけり。六波羅勢は昨日の軍に敵の勇鋭を見るに、小勢也。といへども、欺き難しと思ければ、瀬河の宿に引へて進み得ず。赤松は又敗軍の士卒を集め、殿れたる勢を待調ん為に不懸、互に陣を阻て未雌雄を決せず。丁壮そゞろに軍旅につかれなば、敵に気を被奪べしとて、同十一日赤松三千余騎にて、敵の陣へ押寄て、先づ事の体を伺ひ見に、瀬河の宿の東西に、家々の旗二三百流、梢の風に翻して、其勢二三万騎も有んと見へたり。御方を是に合せば、百にして其一二をも可比とは見へねども、戦はで可勝道な〔け〕れば、偏に只討死と志て、筑前守貞範・佐用兵庫助範家・宇野能登守国頼・中山五郎左衛門尉光能・飽間九郎左〔衛〕門尉光泰、郎等共に七騎にて、竹の陰より南の山へ打襄て進み出たり。敵是を見て、楯の端少し動て、かゝるかと見ればさもあらず、色めきたる気色に見へける間、七騎の人々馬より飛下り、竹の一村滋りたるを木楯に取て、差攻引攻散々にぞ射たりける。瀬川の宿の南北三十余町に、沓の子を打たる様に引へたる敵なれば、何かはゝづるべき。矢比近き敵二十五騎、真逆に被打落ければ、矢面なる人を楯にして、馬を射させじと立てかねたり。平野伊勢前司・佐用・上月・田中・小寺・八木・衣笠の若者共、「すはや敵は色めきたるは。」と、箙を叩き、勝時を作て、七百余騎轡を双べてぞ懸たりける。大軍の靡く僻なれば、六波羅勢前陣返せども後陣不続、行前は狭し、「閑に引け。」といへども耳にも不聞入、子は親を捨て郎等は主を知らで、我前にと落行ける程に、其勢大半討れて纔に京へぞ帰りける。赤松は手負・生捕の頚三百余、宿河原に切懸させて、又摩耶の城へ引返さんとしけるを、円心が子息帥律師則祐、進み出て申けるは、「軍の利は勝に乗て北るを追に不如。今度寄手の名字を聞に、京都の勢数を尽して向て候なる。此勢共今四五日は、長途の負軍にくたびれて、人馬ともに物の用に不可立。臆病神の覚ぬ前に続ひて責る物ならば、などか六波羅を一戦の中に責落さでは候べき。是太公が兵書に出て、子房が心底に秘せし所にて候はずや。」と云ければ、諸人皆此義に同じて、其夜軈て宿川原を立て、路次の在家に火をかけ、其光を手松にして、逃る敵に追すがうて責上りけり。
51 三月十二日合戦事
六波羅には斯る事とは夢にも知ず。摩耶の城へは大勢下しつれば、敵を責落さん事、日を過さじと心安く思ける。其左右を今や/\と待ける所に、寄手打負て逃上る由披露有て、実説は未聞。何とある事やらん、不審端多き所に、三月十二日申刻計に、淀・赤井・山崎・西岡辺三十余箇所に火を懸たり。「こは何事ぞ。」と問に、「西国の勢已に三方より寄たり。」とて、京中上を下へ返して騒動す。両六波羅驚ひて、地蔵堂の鐘を鳴し洛中の勢を被集けれども、宗徒の勢は摩耶の城より被追立、右往左往に逃隠れぬ。其外は奉行・頭人なんど被云て、肥脹れたる者共が馬に被舁乗て、四五百騎馳集りたれ共、皆只あきれ迷へる計にて、差たる義勢も無りけり。六波羅の北方、左近将監仲時、「事の体を見るに、何様坐ながら敵を京都にて相待ん事は、武略の足ざるに似〔た〕り。洛外に馳向て可防。」とて両検断隅田・高橋に、在京の武士二万余騎を相副て、今在家・作道・西の朱雀・西八条辺へ被差向。是は此比南風に雪とけて河水岸に余る時なれば、桂河を阻て戦を致せとの謀也。去程に赤松入道円心、三千余騎を二に分て、久我縄手・西の七条より押寄たり。大手の勢桂川の西の岸に打莅で、川向なる六波羅勢を見渡せば、鳥羽の秋山風に、家家の旗翩翻として、城南の離宮の西門より、作道・四塚・羅城門の東西、々の七条口まで支へて、雲霞の如に充満したり。されども此勢は、桂川を前にして防げと被下知つる其趣を守て、川をば誰も越ざりけり。寄手は又、思の外敵大勢なるよと思惟して、無左右打て懸らんともせず。只両陣互に川を隔て、矢軍に時をぞ移しける。中にも帥律師則祐、馬を踏放て歩立になり、矢たばね解て押くつろげ、一枚楯の陰より、引攻々々散々に射けるが、「矢軍許にては勝負を決すまじかり。」と独言して、脱置たる鎧を肩にかけ、胄の緒を縮、馬の腹帯を堅めて、只一騎岸より下に打下し、手縄かいくり渡さんとす。父の入道遥に見て馬を打寄せ、面に塞て制しけるは、「昔佐々木三郎が藤戸を渡し、足利又太郎が宇治川を渡たるは、兼てみほじるしを立て、案内を見置き、敵の無勢を目に懸て先をば懸し者也。河上の雪消水増りて、淵瀬も見へぬ大河を、曾て案内も知ずして渡さば可被渡歟。縦馬強くして渡る事を得たりとも、あの大勢の中へ只一騎懸入たらんは、不被討と云事可不有。天下の安危必しも此一戦に不可限。暫命を全して君の御代を待んと思ふ心のなきか。」と、再三強て止ければ、則祐馬を立直し、抜たる太刀を収て申けるは、「御方と敵と可対揚程の勢にてだに候はゞ、我と手を不砕とも、運を合戦の勝負に任て見候べきを、御方は僅に三千余騎、敵は是に百倍せり。急に戦を不決して、敵に無勢の程を被見透なば、雖戦不可有利。されば太公が兵道の詞に、「兵勝之術密察敵人之機、而速乗其利疾撃其不意」と云へり、是以吾困兵敗敵強陣謀にて候はぬや。」と云捨て、駿馬に鞭を進め、漲て流るゝ瀬枕に、逆波を立てぞ游がせける。見之飽間九郎左衛門尉・伊東大輔・川原林二郎・木寺相摸・宇野能登守国頼、五騎続ひて颯と打入たり。宇野と伊東は馬強して、一文字に流を截て渡る。木寺相摸は、逆巻水に馬を被放て、胄の手反許僅に浮で見へけるが、波の上をや游ぎけん、水底をや潛りけん、人より前に渡付て、川の向の流州に、鎧の水瀝てぞ立たりける。彼等五人が振舞を見て尋常の者ならずとや思けん、六波羅の二万余騎、人馬東西に僻易して敢て懸合せんとする者なし。剰楯の端しどろに成て色めき渡る所を見て、「前懸の御方打すな。続けや。」とて、信濃守範資・筑前守貞範真前に進めば、佐用・上月の兵三千余騎、一度に颯と打入て、馬筏に流をせきあげたれば、逆水岸に余り、流れ十方に分て元の淵瀬は、中々に陸地を行がご〔と〕く也。三千余騎の兵共、向の岸に打上り、死を一挙の中に軽せんと、進み勇める勢を見て、六波羅勢叶はじとや思けん、未戦前に、楯を捨て旗を引て、作道を北へ東寺を指て引も有、竹田川原を上りに、法性寺大路へ落もあり。其道二三十町が間には、捨たる物具地に満て、馬蹄の塵に埋没す。去程に西七条の手、高倉少将の子息左衛門佐、小寺・衣笠の兵共、早京中へ責入たりと見へて、大宮・猪熊・堀川・油小路の辺、五十余箇所に火をかけたり。又八条、九条の間にも、戦有と覚へて、汗馬東西に馳違、時の声天地を響せり。唯大三災一時に起て、世界悉却火の為に焼失るかと疑はる。京中の合戦は、夜半許の事なれば、目ざすとも知らぬ暗き夜に、時声此彼に聞へて、勢の多少も軍立の様も見分ざれば、何くへ何と向て軍を可為とも不覚。京中の勢は、先只六条川原に馳集て、あきれたる体にて扣へたり。
52 持明院殿行幸六波羅事
日野中納言資名・同左大弁宰相資明二人同車して、内裏へ参り給たれば、四門徒に開、警固の武士は一人もなし。主上南殿に出御成て、「誰か候。」と御尋あれども、衛府諸司の官、蘭台金馬の司も何地へか行たりけん、勾当の内侍・上童二人より外は御前に候する者無りけり。資名・資明二人御前に参じて、「官軍戦ひ弱くして、逆徒不期洛中に襲来候。加様にて御坐候はゞ、賊徒差違て御所中へも乱入仕候ぬと覚へ候。急ぎ三種の神器を先立て六波羅へ行幸成候へ。」と被申ければ、主上軈て腰輿に被召、二条川原より六波羅へ臨幸成る。其後堀河大納言・三条源大納言・鷲尾中納言・坊城宰相以下、月卿雲客二十余人、路次に参着して供奉し奉りけり。是を聞食及で、院・法皇・東宮・皇后・梶井の二品親王まで皆六波羅へと御幸成る間、供奉の卿相雲客軍勢の中に交て警蹕の声頻也ければ、是さへ六波羅の仰天一方ならず。俄に六波羅の北方をあけて、仙院・皇居となす。事の体騒しかりし有様也。軈て両六波羅は七条河原に打立て、近付く敵を相待つ。此大勢を見て敵もさすがにあぐんでや思ひけん、只此彼に走散て、火を懸時の声を作る計にて、同じ陣に扣へたり。両六波羅是を見て、「如何様敵は小勢也。と覚るぞ、向て追散せ。」とて、隅田・高橋に三千余騎を相副て八条口へ被差向。河野九郎左衛門尉・陶山次郎に二千余騎をさし副て、蓮華王院へ被向けり。陶山川野に向て云けるは、「何ともなき取集め勢に交て軍をせば、憖に足纏に成て懸引も自在なるまじ。いざや六波羅殿より被差副たる勢をば、八条河原に引へさせて時の声を挙げさせ、我等は手勢を引勝て、蓮華王院の東より敵の中へ駈入り、蜘手十文字に懸破り、弓手妻手にて相付て、追物射に射てくれ候はん。」と云ければ、河野、「尤可然。」と同じて、外様の勢二千余騎をば、塩小路の道場の前へ差遣し、川野が勢三百余騎、陶山が勢百五十余騎は引分て、蓮華王院の東へぞ廻りける。合図の程にも成ければ、八条川原の勢、鬨声を揚たるに、敵是に立合せんと馬を西頭に立て相待処に、陶山・川野四百余騎、思も寄らぬ後より、時を咄と作て、大勢の中へ懸入、東西南北に懸破て、敵を一所に不打寄、追立々々責戦。川野と陶山と、一所に合ては両所に分れ、両所に分ては又一所に合、七八度が程ぞ揉だりける。長途に疲たる歩立の武者、駿馬の兵に被懸悩て、討るゝ者其数を不知。手負を捨て道を要て、散々に成て引返す。陶山・川野逃る敵には目をも不懸、「西七条辺の合戦何と有らん、無心元。」とて、又七条川原を直違に西へ打て七条大宮に扣へ、朱雀の方を見遣ければ、隅田・高橋が三千余騎、高倉左衛門佐・小寺・衣笠が二千余騎に被懸立て、馬の足をぞ立兼たる。川野是を見て、「角ては御方被打ぬと覚るぞ。いざや打て懸らん。」と云けるを、陶山、「暫。」と制しけり。「其故は此陣の軍未雌雄決前に、力を合て御方を助たりとも、隅田・高橋が口の悪さは、我高名にぞ云はんずらん。暫く置て事の様を御覧ぜよ。敵縦ひ勝に乗とも何程の事か可有。」とて、見物してぞ居たりける。去程に隅田・高橋が大勢、小寺・衣笠が小勢に被追立、返さんとすれ共不叶、朱雀を上りに内野を指て引もあり、七条を東へ向て逃るもあり、馬に離たる者は心ならず返合て死もあり。陶山是を見て、「余にながめ居て、御方の弱り為出したらんも由なし、いざや今は懸合せん。」といへば、河野、「子細にや及ぶ。」と云侭に、両勢を一手に成て大勢の中へ懸入り、時移るまでぞ戦ひたる。四武の衝陣堅を砕て、百戦の勇力変に応ぜしかば、寄手又此陣の軍にも打負て、寺戸を西へ引返しけり。筑前守貞範・律師則祐兄弟は、最初に桂河を渡しつる時の合戦に、逃る敵を追立て、跡に続く御方の無をも不知、只主従六騎にて、竹田を上りに、法性寺大路へ懸通、六条河原へ打出て、六波羅の館へ懸入んとぞ待たりける。東寺より寄つる御方、早打負て引返しけりと覚て、東西南北に敵より外はなし。さらば且く敵に紛てや御方を待つと、六騎の人々皆笠符をかなぐり捨て、一所に扣へたる処に、隅田・高橋打廻て、「如何様赤松が勢共、尚御方に紛て此中に在と覚るぞ。河を渡しつる敵なれば、馬物具のぬれぬは不可有。其を験しにして組討に打て。」と呼りける間、貞範も則祐も中々敵に紛れんとせば悪かりぬべしとて、兄弟・郎等僅六騎轡を双べわつと呼て敵二千騎が中へ懸入り、此に名乗彼に紛て相戦けり。敵是程に小勢なるべしとは可思寄事ならねば、東西南北に入乱て、同士打をする事数刻也。大敵を謀るに勢ひ久からざれば、郎等四騎皆所々にて被討ぬ。筑前守は被押隔ぬ。則祐は只一騎に成て、七条を西へ大宮を下りに落行ける所に、印具尾張守が郎従八騎追懸て、「敵ながらも優く覚へ候者哉。誰人にてをはするぞ。御名乗候へ。」と云ければ、則祐馬を閑に打て、「身不肖に候へば、名乗申とも不可有御存知候。只頚を取て人に被見候へ。」と云侭に、敵近付ば返合、敵引ば馬を歩せ、二十余町が間、敵八騎と打連て心閑にぞ落行ける。西八条の寺の前を南へ打出ければ、信濃守貞範三百余騎、羅城門の前なる水の潺きに、馬の足を冷して、敗軍の兵を集んと、旗打立て引へたり。則祐是を見付て、諸鐙を合て馳入ければ、追懸つる八騎の敵共、「善き敵と見つる物を、遂に打漏しぬる事の不安さよ。」と云声聞へて、馬の鼻を引返しける。暫く有れば、七条河原・西朱雀にて被懸散たる兵共、此彼より馳集て、又千余騎に成にけり。赤松其兵を東西の小路より進ませ、七条辺にて、又時の声を揚げたりければ、六波羅勢七千余騎、六条院を後に当て、追つ返つ二時許ぞ責合たる。角ては軍の勝負いつ有べしとも覚へざりける処に、河野と陶山とが勢五百余騎、大宮を下りに打て出、後を裹んと廻りける勢に、後陣を被破て、寄手若干討れにければ、赤松わづかの勢に成て、山崎を指て引返しけり。河野・陶山勝に乗て、作道の辺まで追駈けるが、赤松動すれば、取て返さんとする勢を見て、「軍は是までぞ、さのみ長追なせそ。」とて、鳥羽殿の前より引返し、虜二十余人、首七十三取て、鋒に貫て、朱に成て六波羅へ馳参る。主上は御簾を捲せて叡覧あり。両六波羅は敷皮に坐して、是を検知す。「両人の振舞いつもの事なれ共、殊更今夜の合戦に、旁手を下し命を捨給はずば、叶まじとこそ見へて候つれ。」と、再三感じて被賞翫。其夜軈て臨時の宣下有て、河野九郎をば対馬守に被成て御剣を被下、陶山二郎をば備中守に被成て、寮の御馬を被下ければ、是を見聞武士、「あはれ弓矢の面目や。」と、或は羨み或は猜で、其名天下に被知たり。軍散じて翌日に、隅田・高橋京中を馳廻て、此彼の堀・溝に倒れ居たる手負死人の頚共を取集て、六条川原に懸並たるに、其数八百七十三あり。敵是まで多く被討ざれども、軍もせぬ六波羅勢ども、「我れ高名したり。」と云んとて、洛中・辺土の在家人なんどの頚仮首にして、様々の名を書付て出したりける頚共也。其中に赤松入道円心と、札を付たる首五あり。何れも見知たる人無れば、同じやうにぞ懸たりける。京童部是を見て、「頚を借たる人、利子を付て可返。赤松入道分身して、敵の尽ぬ相なるべし。」と、口々にこそ笑ひけれ。
53 禁裡仙洞御修法事付山崎合戦事
此比四海大に乱て、兵火天を掠めり。聖主■を負て、春秋無安時、武臣矛を建て、旌旗無閑日。是以法威逆臣を不鎮ば、静謐其期不可有とて、諸寺諸社に課て、大法秘法をぞ被修ける。梶井宮は、聖主の連枝、山門の座主にて御坐しければ、禁裏に壇を立て、仏眼の法を行せ給ふ。裏辻の慈什僧正は、仙洞にて薬師の法を行はる。武家又山門・南都・園城寺の衆徒の心を取、霊鑑の加護を仰がん為に、所々の庄園を寄進し、種々の神宝を献て、祈祷を被致しか共、公家の政道不正、武家の積悪禍を招きしかば、祈共神不享非礼、語へども人不耽利欲にや、只日を逐て、国々より急を告る事隙無りけり。去三月十二日の合戦に赤松打負て、山崎を指て落行しを、頓て追懸て討手をだに下したらば、敵足をたむまじかりしを、今は何事か可有とて被油断しに依て、敗軍の兵此彼より馳集て、無程大勢に成ければ、赤松、中院の中将貞能を取立て聖護院の宮と号し、山崎・八幡に陣を取、河尻を差塞ぎ西国往反の道を打止む。依之洛中の商買止て士卒皆転漕の助に苦めり。両六波羅聞之、「赤松一人に洛中を被悩て、今士卒を苦る事こそ安からね。去十二日の合戦の体を見るに、敵さまで大勢にても無りける物を、無云甲斐聞懼して敵を辺境の間に閣こそ、武家後代の恥辱なれ、所詮於今度は官軍遮て敵陣に押寄、八幡・山崎の両陣を責落し、賊徒を河に追はめ、其首を取て六条河原に可曝。」と被下知ければ、四十八箇所の篝、並在京人、其勢五千余騎、五条河原に勢揃して、三月十五日の卯刻に、山崎へとぞ向ひける。此勢始は二手に分けたりけるを、久我縄手は、路細く深田なれば馬の懸引も自在なるまじとて、八条より一手に成、桂河を渡り、河嶋の南を経て、物集女・大原野の前よりぞ寄たりける。赤松是を聞て、三千余騎を三手に分つ。一手には足軽の射手を勝て五百余人小塩山へ廻す。一手をば野伏に騎馬の兵を少々交て千余人、狐河の辺に引へさす。一手をば混すら打物の衆八百余騎を汰て、向日明神の後なる松原の陰に隠置く。六波羅勢、敵此まで可出合とは不思寄、そゞろに深入して、寺戸の在家に火を懸て、先懸既に向日明神の前を打過ける処に、善峯・岩蔵の上より、足軽の射手一枚楯手々に提て麓にをり下て散々に射る。寄手の兵共是を見て、馬の鼻を双て懸散さんとすれば、山嶮して不上得、広みに帯き出して打んとすれば、敵是を心得て不懸。「よしや人々、はか/゛\しからぬ野伏共に目を懸て、骨を折ては何かせん。此をば打捨て山崎へ打通れ。」と議して、西岡を南へ打過る処に、坊城左衛門五十余騎にて、思もよらぬ向日明神の小松原より懸出て、大勢の中へ切て入。敵を小勢と侮て、真中に取篭て、余さじと戦ふ処に、田中・小寺・八木・神沢此彼より百騎二百騎、思々に懸出て、魚鱗に進み鶴翼に囲んとす。是を見て狐河に引へたる勢五百余騎、六波羅勢の跡を切らんと、縄手を伝ひ道を要て打廻るを見て、京勢叶はじとや思けん、捨鞭を打て引返す。片時の戦也ければ、京勢多く被打たる事は無けれ共、堀・溝・深田に落入て、馬物具皆取所もなく膩たれば、白昼に京中を打通るに、見物しける人毎に、「哀れ、さりとも陶山・河野を被向たらば、是程にきたなき負はせじ物を。」と、笑はぬ人もなかりけり。去ば京勢此度打負て、向はで京に被残たる河野と陶山が手柄の程、いとゞ名高く成にけり。
54 山徒寄京都事
京都に合戦始りて、官軍動すれば利を失ふ由、其聞へ有しかば、大塔宮より牒使を被立て、山門の衆徒をぞ被語ける。依之三月二十六日一山の衆徒大講堂の庭に会合して、「夫吾山者為七社応化之霊地、作百王鎮護之藩籬。高祖大師占開基之始、止観窓前雖弄天真独朗之夜月、慈恵僧正為貫頂之後、忍辱衣上忽帯魔障降伏之秋霜。尓来妖■見天、則振法威而攘退之。逆暴乱国、則借神力而退之。肆神号山王。須有非三非一之深理矣。山言比叡。所以仏法王法之相比焉。而今四海方乱、一人不安。武臣積悪之余、果天将下誅。其先兆非無賢愚。共所世知也。王事毋■。釈門仮使雖為出塵之徒、此時奈何無尽報国之忠。早翻武家合体之前非宜専朝廷扶危之忠胆矣。」と僉議しければ、三千一同に尤々と同じて院々谷々へ帰り、則武家追討の企の外無他事。山門、已に来二十八日六波羅へ可寄と定ければ、末寺・末社の輩は不及申、所縁に随て近国の兵馳集る事雲霞の如く也。二十七日大宮の前にて着到を付けるに、十万六千余騎と注せり。大衆の習、大早無極所存なれば、此勢京へ寄たらんに、六波羅よも一たまりもたまらじ、聞落にぞせんずらんと思侮て、八幡・山崎の御方にも不牒合して、二十八日の卯刻に、法勝寺にて勢撰へ可有と触たりければ、物具をもせず、兵粮をも未だつかはで、或今路より向ひ、或は西坂よりぞをり下る。両六波羅是を聞て、思に、山徒縦雖大勢、騎馬の兵一人も不可有。此方には馬上の射手を撰へて、三条河原に待受けさせて、懸開懸合せ、弓手・妻手に着て追物射に射たらんずるに、山徒心は雖武、歩立に力疲れ、重鎧に肩を被引、片時が間に疲るべし。是以小砕大、以弱拉剛行也。とて、七千余騎を七手に分て、三条河原の東西に陣を取てぞ待懸たる。大衆斯るべしとは思もよらず、我前に京へ入てよからんずる宿をも取、財宝をも管領せんと志て、宿札共を面々に二三十づゝ持せて、先法勝寺へぞ集りける。其勢を見渡せば、今路・西坂・古塔下・八瀬・薮里・下松・赤山口に支て、前陣已に法勝寺・真如堂に付ば後陣は未山上・坂本に充満たり。甲冑に映ぜる朝日は、電光の激するに不異。旌旗を靡かす山風は、竜蛇の動くに相似たり。山上と洛中との勢の多少を見合するに、武家の勢は十にして其一にも不及。「げにも此勢にては輒くこそ。」と、六波羅を直下ける山法師の心の程を思へば、大様ながらも理也。去程に前陣の大衆且く法勝寺に付て後陣の勢を待ける処へ、六波羅勢七千余騎三方より押寄て時をどつと作る。大衆時の声に驚て、物具太刀よ長刀よとひしめいて取物も不取敢、僅に千人許にて法勝寺の西門の前に出合、近付く敵に抜て懸る。武士は兼てより巧みたる事なれば、敵の懸る時は馬を引返てばつと引き、敵留れば開合せて後へ懸廻る。如此六七度が程懸悩ましける間、山徒は皆歩立の上、重鎧に肩を被推て、次第に疲たる体にぞ見へける。武士は是に利を得て、射手を撰て散々に射る。大衆是に射立られて、平場の合戦叶はじとや思けん、又法勝寺の中へ引篭らんとしける処を、丹波国の住人佐治孫五郎と云ける兵、西門の前に馬を横たへ、其比会てなかりし五尺三寸の太刀を以て、敵三人不懸筒切て、太刀の少仰たるを門の扉に当て推直し、猶も敵を相待て、西頭に馬をぞ扣たる。山徒是を見て、其勢にや辟易しけん。又法勝寺にも敵有とや思けん。法勝寺へ不入得、西門の前を北へ向て、真如堂の前神楽岡の後を二に分れて、只山上へとのみ引返しける。爰に東塔の南谷善智房の同宿に豪鑒・豪仙とて、三塔名誉の悪僧あり。御方の大勢に被引立て、不心北白河を指て引けるが、豪鑒豪仙を呼留て、「軍の習として、勝時もあり負時もあり、時の運による事なれば恥にて不恥。雖然今日の合戦の体、山門の恥辱天下の嘲哢たるべし。いざや御辺、相共に返し合て打死し、二人が命を捨て三塔の恥を雪めん。」と云ければ、豪仙、「云にや及ぶ、尤も庶幾する所也。」と云て、二人蹈留て法勝寺の北の門の前に立並び、大音声を揚て名乗けるは、「是程に引立たる大勢の中より、只二人返し合するを以て三塔一の剛の者とは可知。其名をば定めて聞及ぬらん、東塔の南谷善智坊の同宿に、豪鑒・豪仙とて一山に名を知られたる者共也。我と思はん武士共、よれや、打物して、自余の輩に見物せさせん。」と云侭に、四尺余の大長刀水車に廻して、跳懸々々火を散してぞ切たりける。是を打取らんと相近付ける武士共、多く馬の足を被薙、冑の鉢を被破て被討にけり。彼等二人、此に半時許支へて戦けれ共、続く大衆一人もなし。敵雨の降る如くに射ける矢に、二人ながら十余箇所疵を蒙りければ、「今は所存是までぞ。いざや冥途まで同道せん。」と契て、鎧脱捨押裸脱、腹十文字に掻切て、同じ枕にこそ伏たりけれ。是を見る武士共、「あはれ日本一の剛の者共哉。」と、惜まぬ人も無りけり。前陣の軍破れて引返しければ、後陣の大勢は軍場をだに不見して、道より山門へ引返す。只豪鑒・豪仙二人が振舞にこそ、山門の名をば揚たりけれ。
55 四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事
去月十二日赤松合戦無利して引退し後は、武家常に勝に乗て、敵を討事数千人也。といへども、四海未静、剰山門又武家に敵して、大岳に篝火を焼き、坂本に勢を集めて、尚も六波羅へ可寄と聞へければ、衆徒の心を取らん為に、武家より大庄十三箇所、山門へ寄進す。其外宗徒の衆徒に、便宜の地を一二箇所充祈祷の為とて恩賞を被行ける。さてこそ山門の衆議心心に成て武家に心を寄する衆徒も多く出来にければ、八幡・山崎の官軍は、先度京都の合戦に、或被討、或疵を蒙る者多かりければ、其勢太半減じて今は僅に、一万騎に足らざりけり。去ども武家の軍立、京都の形勢恐るゝに不足と見透してげれば、七千余騎を二手に分て、四月三日の卯刻に、又京都へ押寄せたり。其一方には、殿法印良忠・中院定平を両大将として、伊東・松田・頓宮・富田判官が一党、並真木・葛葉の溢れ者共を加へて其勢都合三千余騎、伏見・木幡に火を懸て、鳥羽・竹田より推寄する。又一方には、赤松入道円心を始として、宇野・柏原・佐用・真嶋・得平・衣笠、菅家の一党都合其勢三千五百余騎、河嶋・桂の里に火を懸て、西の七条よりぞ寄たりける。両六波羅は、度々の合戦に打勝て兵皆気を挙ける上、其勢を算ふるに、三万騎に余りける間、敵已に近付ぬと告けれ共、仰天の気色もなし。六条河原に勢汰して閑に手分をぞせられける。山門今は武家に志を通ずといへども、又如何なる野心をか存ずらん。非可油断とて、佐々木判官時信・常陸前司時朝・長井縫殿秀正に三千余騎を差副て、糾河原へ被向。去月十二日の合戦も、其方より勝たりしかば吉例也。とて、河野と陶山とに五千騎を相副て法性寺大路へ被差向。富樫・林が一族・島津・小早河が両勢に、国々の兵六千余騎を相副て、八条東寺辺へ被指向。厚東加賀守・加治源太左衛門尉・隅田・高橋・糟谷・土屋・小笠原に七千余騎を相副て、西七条口へ被向。自余の兵千余騎をば悪手の為に残して、未六波羅に並居たり。其日の巳刻より、三方ながら同時に軍始て、入替々々責戦ふ。寄手は騎馬の兵少して、歩立射手多ければ、小路々々を塞ぎ、鏃を調て散々に射る。六波羅勢は歩立は少して、騎馬の兵多ければ、懸違々々敵を中に篭めんとす。孫子が千反の謀、呉氏が八陣の法、互に知たる道なれば、共に不被破不被囲、只命を際の戦にて更に勝負も無りけり。終日戦て已に夕陽に及びける時、河野と陶山と一手に成て、三百余騎轡を双べて懸たりけるに、木幡の寄手足をもためず被懸立て、宇治路を指て引退く。陶山・河野、逃る敵をば打捨て、竹田河原を直違に、鳥羽殿の北の門を打廻り、作道へ懸出て、東寺の前なる寄手を取篭めんとす。作道十八町に充満したる寄手是を見て、叶はじとや思けん、羅城門の西を横切に、寺戸を指て引返す。小早河は島津安芸前司とは東寺の敵に向て、追つ返つ戦けるが、己が陣の敵を河野と陶山とに被払て、身方の負をしつる事よと無念に思ひければ、「西の七条へ寄せつる敵に逢て、花やかなる一軍せん。」と云て、西八条を上りに、西朱雀へぞ出たりける。此に赤松入道、究竟の兵を勝て、三千余騎にて引へたりければ、無左右可破様も無りなり。されども嶋津・小早河が横合に懸るを見て、戦ひ疲れたる六波羅勢力を得て三方より攻合せける間、赤松が勢、忽に開靡て三所に引へたり。爰に赤松が勢の中より兵四人進み出て、数千騎引へたる敵の中へ無是非打懸りけり。其勢決然として恰樊噲・項羽が忿れる形にも過たり。近付に随て是を見れば長七尺許なる男の、髭両方へ生ひ分て、眥逆に裂たるが、鎖の上に鎧を重て着、大立挙の臑当に膝鎧懸て、竜頭の冑猪頚に着成し、五尺余りの太刀を帯き、八尺余のかなさい棒の八角なるを、手本二尺許円めて、誠に軽げに提げたり。数千騎扣へたる六波羅勢、彼等四人が有様を見て、未戦先に三方へ分れて引退く。敵を招て彼等四人、大音声を揚て名乗けるは、「備中国の住人頓宮又次郎入道・子息孫三郎・田中藤九郎盛兼・同舎弟弥九郎盛泰と云者也。我等父子兄弟、少年の昔より勅勘武敵の身と成りし間、山賊を業として一生を楽めり。然に今幸に此乱出来して、忝くも万乗の君の御方に参ず。然を先度の合戦、指たる軍もせで御方の負したりし事、我等が恥と存ずる間、今日に於ては縦御方負て引とも引まじ、敵強くとも其にもよるまじ、敵の中を破て通り六波羅殿に直に対面申さんと存ずるなり。」と、広言吐て二王立にぞ立たりける。島津安芸前司是を聞て、子息二人手の者共に向て云けるは、「日比聞及し西国一の大力とは是なり。彼等を討たん事大勢にては叶まじ。御辺達は且く外に引へて自余の敵に可戦。我等父子三人相近付て、進づ退つ且く悩したらんに、などか是を討たざらん。縦力こそ強くとも、身に矢の立ぬ事不可有。縦走る事早くとも、馬にはよも追つかじ。多年稽古の犬笠懸、今の用に不立ばいつをか可期。いで/\不思議の一軍して人に見せん。」と云侭に、唯三騎打ぬけて四人の敵に相近付く。田中藤九郎是を見て、「其名はいまだ知らねども、猛くも思へる志かな、同は御辺を生虜て、御方に成て軍せさせん。」とあざ笑て、件の金棒を打振て、閑に歩み近付く。島津も馬を静々と歩ませ寄て、矢比に成ければ、先安芸前司、三人張に十二束三伏、且し堅めて丁と放つ。其矢あやまたず、田中が石の頬前を冑の菱縫の板へ懸て、篦中許射通したりける間、急所の痛手に弱りて、さしもの大力なれども、目くれて更に進み不得。舎弟弥九郎走寄り、其矢を抜て打捨、「君の御敵は六波羅也。兄の敵は御辺也。余すまじ。」と云侭に、兄が金棒をゝつ取振て懸れば、頓宮父子各五尺二寸の太刀を引側めて、小躍して続ひたり。嶋津元より物馴たる馬上の達者矢継早の手きゝなれば、少も不騒、田中進で懸れば、あいの鞭を打て、押もぢりにはたと射。田中妻手へ廻ば、弓手を越て丁と射る。西国名誉の打物の上手と、北国無双の馬上の達者と、追つ返つ懸違へ、人交もせず戦ひける。前代未聞の見物也。去程に嶋津が矢種も尽て、打物に成らんとしけるを見て、角ては叶はじとや思けん、朱雀の地蔵堂より北に引へたる小早河、二百騎にてをめいて懸りけるに、田中が後なる勢、ばつと引退ければ、田中兄弟、頓宮父子、彼此四人の鎧の透間内冑に、各矢二三十筋被射立て、太刀を逆につきて、皆立ずくみにぞ死たりける。見る人聞く人、後までも惜まぬ者は無りけり。美作国の住人菅家の一族は、三百余騎にて四条猪熊まで責入、武田兵庫助・糟谷・高橋が一千余騎の勢と懸合て、時移るまで戦けるが、跡なる御方の引退きぬる体を見て、元来引かじとや思けん。又向ふ敵に後を見せじとや恥たりけん。有元菅四郎佐弘・同五郎佐光・同又三郎佐吉兄弟三騎、近付く敵に馳双べ引組で臥したり。佐弘は今朝の軍に膝口を被切て、力弱りたりけるにや、武田七郎に押へられて頚を被掻、佐光は武田二郎が頚を取る。佐吉は武田が郎等と差違て共に死にけり。敵二人も共に兄弟、御方二人も兄弟なれば、死残ては何かせん。いざや共に勝負せんとて、佐光と武田七郎と、持たる頚を両方へ投捨て、又引組で指違ふ。是を見て福光彦二郎佐長・殖月彦五郎重佐・原田彦三郎佐秀・鷹取彦二郎種佐同時に馬を引退し、むずと組ではどうど落、引組では指違へ、二十七人の者共一所にて皆討れければ、其陣の軍は破にけり。播磨国の住人妻鹿孫三郎長宗と申すは、薩摩氏長が末にて、力人に勝れ器量世に超たり。生年十二の春の比より好で相撲を取けるに、日本六十余州の中には、遂に片手にも懸る者無りけり。人は類を以て聚る習ひなれば、相伴ふ一族十七人、皆是尋常の人には越たり。されば他人の手を不交して一陣に進み、六条坊門大宮まで責入たりけるが、東寺・竹田より勝軍して帰りける六波羅勢三千余騎に被取巻、十七人は被打て、孫三郎一人ぞ残たりける。「生て無甲斐命なれども、君の御大事是に限るまじ。一人なりとも生残て、後の御用にこそ立め。」と独りごとして、只一騎西朱雀を指て引けるを、印具駿河守の勢五十余騎にて追懸たり。其中に、年の程二十許なる若武者、只一騎馳寄せて、引て帰りける妻鹿孫三郎に組んと近付て、鎧の袖に取着ける処を、孫三郎是を物ともせず、長肘を指延て、鎧総角を掴で中に提げ、馬の上三町許ぞ行たりける。此武者可然者のにてや有けん、「あれ討すな。」とて、五十余騎の兵迹に付て追けるを、孫三郎尻目にはつたと睨で、「敵も敵によるぞ。一騎なればとて我に近付てあやまちすな。ほしがらばすは是取らせん。請取れ。」と云て、左の手に提げたる鎧武者を、右の手〔に〕取渡して、ゑいと抛たりければ、跡なる馬武者六騎が上を投越して、深田の泥の中へ見へぬ程こそ打こうだれ。是を見て、五十余騎の者共、同時に馬を引返し、逸足を出してぞ逃たりける。赤松入道は、殊更今日の軍に、憑切たる一族の兵共も、所々にて八百余騎被打ければ、気疲力落はてゝ、八幡・山崎へ又引返しけり。
56 主上自令修金輪法給事付千種殿京合戦事
京都数箇度の合戦に、官軍毎度打負て、八幡・山崎の陣も既に小勢に成りぬと聞へければ、主上天下の安危如何有らんと宸襟を被悩、船上の皇居に壇を被立、天子自金輪の法を行はせ給ふ。其七箇日に当りける夜、三光天子光を並て壇上に現じ給ければ、御願忽に成就しぬと、憑敷被思召ける。さらばやがて大将を差上せて赤松入道に力を合せ、六波羅を可攻とて、六条少将忠顕朝臣を頭中将に成し、山陽・山陰両道の兵の大将として、京都へ被指向。其勢伯耆国を立しまで、僅に千余騎と聞へしが、因幡・伯耆・出雲・美作・但馬・丹後・丹波・若狭の勢共馳加はて、程なく二十万七千余騎に成にけり。又第六の若宮は、元弘の乱の始、武家に被囚させ給て、但馬国へ被流させ給ひたりしを、其国の守護大田三郎左衛門尉取立奉て、近国の勢を相催し、則丹波の篠村へ参会す。大将頭中将不斜悦で、即錦の御旗を立て、此宮を上将軍と仰ぎ奉て、軍勢催促の令旨を被成下けり。四月二日、宮、篠村を御立有て、西山の峯堂を御陣に被召、相従ふ軍勢二十万騎、谷堂・葉室・衣笠・万石大路・松尾・桂里に居余て、半は野宿に充満たり。殿法印良忠は、八幡に陣を取。赤松入道円心は山崎に屯を張れり。彼陣と千種殿の陣と相去事僅に五十余町が程なれば、方々牒じ合せてこそ京都へは可被寄かりしを、千種頭中将我勢の多をや被憑けん。又独高名にせんとや被思けん、潛に日を定て四月八日の卯刻に六波羅へぞ被寄ける。あら不思議、今日は仏生日とて心あるも心なきも潅仏の水に心を澄し、供花焼香に経を翻して捨悪修善を事とする習ひなるに、時日こそ多かるに、斎日にして合戦を始て、天魔波旬の道を学ばる条難心得と人々舌を翻せり。さて敵御方の士卒源平互に交れり。無笠符ては同士打も有ぬべしとて、白絹を一尺づゝ切て風と云文字を書て、鎧の袖にぞ付させられける。是は孔子の言に、「君子の徳は風也。小人の徳は草也。草に風を加ふる時は不偃と云事なし。」と云心なるべし。六波羅には敵を西に待ける故に、三条より九条まで大宮面に屏を塗り、櫓を掻て射手を上て、小路々々に兵を千騎二千騎扣へさせて、魚鱗に進み、鶴翼に囲まん様をぞ謀りける。「寄手の大将は誰そ。」と問に、「前帝第六の若宮、副将軍は千種頭中将忠顕の朝臣。」と聞へければ、「さては軍の成敗心にくからず。源は同流也。といへども、「江南の橘、江北に被移て枳と成」習也。弓馬の道を守る武家の輩と、風月の才を事とする朝廷の臣と闘を決せんに、武家不勝と云事不可有。」と、各勇み進で、七千余騎大宮面に打寄て、寄手遅しとぞ待懸たる。去程に忠顕朝臣、神祇官の前に扣へて勢を分て、上は大舎人より下は七条まで、小路ごとに千余騎づゝ指向て責させらる。武士は要害を拵て射打を面に立て、馬武者を後に置たれば、敵の疼む所を見て懸出々々追立けり。官軍は二重三重に荒手を立たれば、一陣引けば二陣入替り、二陣打負れば三陣入替て、人馬に息を継せ、煙塵天を掠て責戦ふ。官軍も武士も諸共に、義に依て命を軽じ、名を惜で死を争ひしかば、御方を助て進むは有れども、敵に遇て退くは無りけり。角ては何可有勝負とも見へざりける処に、但馬・丹波の勢共の中より、兼て京中に忍て人を入置たりける間、此彼に火を懸たり。時節辻風烈く吹て、猛煙後に立覆ひければ、一陣に支へたる武士共、大宮面を引退て尚京中に扣へたり。六波羅是を聞て、弱からん方へ向けんとて用意を残し留たる、佐々木判官時信・隅田・高橋・南部・下山・河野・陶山・富樫・小早河等、五千余騎を差副て、一条・二条の口へ被向。此荒手に懸合て、但馬の守護大田三郎左衛門被打にけり。丹波国の住人荻野彦六と足立三郎は、五百余騎にて四条油小路まで責入たりけるを、備前国の住人、薬師寺八郎・中吉十郎・丹・児玉が勢共、七百余騎相支て戦けるが、二条の手被破ぬと見へければ、荻野・足立も諸共に御方の負して引返す。金持三郎は七百余騎にて、七条東洞院まで責入たりけるが、深手を負て引かねけるを、播磨国の住人肥塚が一族、三百余騎が中に取篭て、出抜て虜てげり。丹波国神池の衆徒は、八十余騎にて、五条西洞院まで責入、御方の引をも知らで戦けるを、備中国の住人、庄三郎・真壁四郎、三百余騎にて取篭、一人も不余打てげり。方々の寄手、或は被打或は被破て、皆桂河の辺まで引たれども、名和小次郎と小嶋備後三郎とが向ひたりける一条の寄手は、未引、懸つ返つ時移るまで戦たり。防は陶山と河野にて、責は名和と小嶋と也。小島と河野とは一族にて、名和と陶山とは知人也。日比の詞をや恥たりけん、後日の難をや思けん、死ては尸を曝すとも、逃て名をば失じと、互に命を不惜、をめき叫でぞ戦ひける。大将頭中将は、内野まで被引たりけるが、一条の手尚相支て戦半也。と聞へしかば、又神祇官の前へ引返して、使を立て小島と名和とを被喚返けり。彼等二人、陶山と河野とに向て、「今日已に日暮候ぬ。後日にこそ又見参に入らめ。」と色代して、両軍ともに引分、各東西へ去にけり。夕陽に及で軍散じければ、千種殿は本陣峯の堂に帰て、御方の手負打死を被註に、七千人に余れり。其内に、宗と憑たる大田・金持の一族以下、数百人被打畢。仍一方の侍大将とも可成者とや被思けん、小嶋備後三郎高徳を呼寄て、「敗軍の士力疲て再び難戦。都近き陣は悪かりぬと覚れば、少し堺を阻て陣を取り、重て近国の勢を集て、又京都を責ばやと思ふは、如何に計ふぞ。」と宣へば、小嶋三郎不聞敢、「軍の勝負は時の運による事にて候へば、負るも必しも不恥、只引まじき処を引かせ、可懸所を不懸を、大将の不覚とは申也。如何なれば赤松入道は、僅に千余騎の勢を以て、三箇度まで京都へ責入、叶はねば引退て、遂に八幡・山崎の陣をば去らで候ぞ。御勢縦ひ過半被打て候共、残所の兵尚六波羅の勢よりは多かるべし。此御陣後は深山にて前は大河也。敵若寄来らば、好む所の取手なるべし。穴賢、此御陣を引かんと思食す事不可然候。但御方の疲れたる弊に乗て、敵夜討に寄する事もや候はんずらんと存候へば、高徳は七条の橋爪に陣を取て相待候べし。御心安からんずる兵共を、四五百騎が程、梅津・法輪の渡へ差向て、警固をさせられ候へ。」と申置て、則小嶋三郎高徳は、三百余騎にて、七条の橋より西にぞ陣を堅めたる。千種殿は小嶋に云恥しめられて、暫は峯の堂におはしけるが、「敵若夜討にや寄せんずらん。」と云つる言に被驚て、弥臆病心や付給ひけん、夜半過る程に、宮を御馬に乗せ奉て、葉室の前を直違に、八幡を指てぞ被落ける。備後三郎、かかる事とは思ひもよらず、夜深方に峯の堂を見遣ば、星の如に耀き見へつる篝火次第に数消て、所々に焼すさめり。是はあはれ大将の落給ひぬるやらんと怪て、事の様を見ん為に、葉室大路より峯の堂へ上る処に、荻野彦六朝忠浄住寺の前に行合て、「大将已に夜部子刻に落させ給て候間、無力我等も丹後の方へと志て、罷下候也。いざゝせ給へ、打連れ申さん。」と云ければ備後三郎大に怒て、「かゝる臆病の人を大将と憑みけるこそ越度なれ。さりながらも、直に事の様を見ざらんは後難も有ぬべし。早御通り候へ。高徳は何様峯の堂へ上て、宮の御跡を奉見て追付可申。」と云て、手の者兵をば麓に留て只一人、落行勢の中を押分々々、峯の堂へぞ上りける。大将のおはしつる本堂へ入て見れば、能遽て被落けりと覚へて、錦の御旗、鎧直垂まで被捨たり。備後三郎腹を立てゝ、「あはれ此大将、如何なる堀がけへも落入て死に給へかし。」と独り言して、しばらくは尚堂の縁に歯嚼をして立たりけるが、「今はさこそ手の者共も待かねたるらめ。」と思ひければ、錦の御旗許を巻て、下人に持せ、急ぎ浄住寺の前へ走り下り、手の者打連て馬を早めければ、追分の宿の辺にて、荻野彦六にぞ追付ける。荻野は、丹波・丹後・出雲・伯耆へ落ける勢の、篠村・稗田辺に打集まて、三千余騎有けるを相伴、路次の野伏を追払て、丹波国高山寺の城にぞ楯篭りける。
57 谷堂炎上事
千種頭中将は西山の陣を落給ひぬと聞へしかば、翌日四月九日、京中の軍勢、谷の堂・峰の堂已下浄住寺・松の尾・万石大路・葉室・衣笠に乱入て、仏閣神殿を打破り、僧坊民屋を追捕し、財宝を悉く運取て後、在家に火を懸たれば、時節魔風烈く吹て、浄住寺・最福寺・葉室・衣笠・三尊院、総じて堂舎三百余箇所、在家五千余宇、一時に灰燼と成て、仏像・神体・経論・聖教、忽に寂滅の煙と立上る。彼谷堂と申は八幡殿の嫡男対馬守義親が嫡孫、延朗上人造立の霊地也。此上人幼稚の昔より、武略累代の家を離れ、偏に寂寞無人の室をと給し後、戒定慧の三学を兼備して、六根清浄の功徳を得給ひしかば、法華読誦の窓の前には、松尾の明神坐列して耳を傾け、真言秘密の扉の中には、総角の護法手を束て奉仕し給ふ。かゝる有智高行の上人、草創せられし砌なれば、五百余歳の星霜を経て、末世澆漓の今に至るまで、智水流清く、法燈光明也。三間四面の輪蔵には、転法輪の相を表して、七千余巻の経論を納め奉られけり。奇樹怪石の池上には、都卒の内院を移して、四十九院の楼閣を並ぶ。十二の欄干珠玉天に捧げ、五重の塔婆金銀月を引く。恰も極楽浄土の七宝荘厳の有様も、角やと覚る許也。又浄住寺と申は、戒法流布の地、律宗作業の砌也。釈尊御入滅の刻、金棺未閉時、捷疾鬼と云鬼神、潛に双林の下に近付て、御牙を一引■て是を取る。四衆の仏弟子驚見て、是を留めんとし給ひけるに、片時が間に四万由旬を飛越て、須弥の半四天王へ逃上る。韋駄天追攻奪取、是を得て其後漢土の道宣律師に被与。自尓以来相承して我朝に渡しを、嵯峨天皇御宇に始て此寺に被奉安置。偉哉大聖世尊滅後二千三百余年の已後、仏肉猶留て広く天下に流布する事普し。かゝる異瑞奇特の大加藍を無咎して被滅けるは、偏に武運の可尽前表哉と、人皆唇を翻けるが、果して幾程も非ざるに、六波羅皆番馬にて亡び、一類悉く鎌倉にて失せける事こそ不思議なれ。「積悪の家には必有余殃」とは、加様の事をぞ可申と、思はぬ人も無りけり。