太平記/巻第三十五

巻第三十五

294 新将軍帰洛事付擬討仁木義長事

南方の敵軍、無事故退治しぬとて、将軍義詮朝臣帰洛し給ひければ、京中の貴賎悦合へる事不斜。主上も無限叡感有て、早速の大功、殊以神妙の由、勅使を下されて仰らる。則今度御祈祷の精誠を被致つる諸寺の僧綱・諸社の神官に、勧賞の沙汰有べしと被仰出けれ共、闕国も所領もなければ、僅に任官の功をぞ被出ける。其比畠山入道々誓が所に、細河相摸守・土岐大膳大夫入道・佐々木佐渡判官入道以下、日々寄合て、此間の辛苦を忘んとて酒宴・茶の会なんどして夜昼遊けるが、互に無隔心程を見て後に、畠山入道密に其衆中に私語けるは、「今は何をか可隠申。道誓今度東国より罷上り候つる事、南方の御敵退治の為とは乍申、宗とは仁木右京大夫義長が過分の挙動を鎮んが為にて候き。旁も定てさぞ被思召候覧。彼が心操曾一家をも可治者とは不見。然を今非其器用四箇国の守護職を給り、差たる忠無して、数百箇所の大圧を領知す。外には不敬仏神、朝夕狩漁為業内には将軍の仰を軽じて毎事不拘成敗。然ば今度南方退治時も、敵の勝に乗る時は悦び、御方の利を得るを聞ては悲。是は抑勇士の本意とや可申、忠臣の挙動とや可申。将軍尼崎に御陣を被取二百余日に及しに、義長西宮に乍居、一度も不出仕、一献を進ずる事も無りしかば、何に抑斯る不忠不思議の者に大国を管領せさせ、大庄を塞せては、世の治ると云事や候べき。只此次に仁木を被退治、宰相中将殿の世務を被助申候はゞ、故将軍も草の陰にては、嬉くこそ被思召候はんずらめ。旁は如何被思召候。」と問ければ、細河相摸守は、今度南方の合戦の時、仁木右京大夫、三河の星野・行明等が、守護の手に属せずして、相摸守の手に付たる事忿て、彼等が跡を闕所に成て家人共に宛行はれたりしを、所存に違て思はれける人也。土岐大膳大夫入道善忠は、故土岐頼遠が子左馬助を仁木が養子にして、動れば善忠が所領を取て左馬助に申与んとするを、鬱憤する折節也。佐々木六角判官入道崇永は、多年御敵なりし高山を打て其跡を給たるを、仁木建武の合戦に恩賞に申給たりし所也とて、押て知行せんとするを、遺恨に思ふ人なり。佐渡判官入道は、我身に取て仁木に差たる宿意はなけれ共、余に傍若無人なる振舞を、狼藉なりと目にかけゝるとき也。今河・細河・土岐・佐々木、皆義長を悪しと思ふ人共なりければ、何れも不及異儀、「只此次に討て、世を鎮るより外の事は候はじ。」と、面々にぞ被同ける。然ば軈て合戦評定可有とて、人々の下人共を遠く除たる処に、推参の遁世者・田楽童なんど数多出来ける程に、諸人皆目加せして、其日は酒宴にて止にけり。


295 京勢重南方発向事付仁木没落事

斯る処に和田・楠等、金剛山並に国見より出て、渡辺の橋を切落し、誉田の城を

責んとする由、和泉・河内より京都へ早馬を打て、急ぎ勢を可被下と告たりければ、先日数月の大功、一時に空く成ぬと、宰相中将義詮朝臣周章し給けれ共、誰を下れと下知する共、不可有下者、諸人の心を推量し給て、大息突て御坐けるに、聞と等く畠山入道々誓・細河相摸守清氏・土岐大膳大夫入道善忠・佐々木六角判官入道崇永・今河上総介・舎弟伊予守・武田弾正少弼・河越弾正・赤松大夫判官光範・宇都宮芳賀兵衛入道禅可以下、此間一揆同心の大名三十余人、其勢都合七千余騎、公方の催促をも不相待我先にと天王寺へぞ向ける。後に事の様を案ずれば、是全く南方の蜂起を鎮ん為にては無りけり。只右京大夫義長を亡さんが為に、勢を集めける企也。何とは不知、京より又大勢下りければ、和田・楠、渡辺にも不支、誉田の城をも不責、又金剛山の奥へ引篭る。京勢、本より敵対治の為ならねば、楠引け共続いても不責、勝にも不乗、皆天王寺に集居、頭を差合せ諾て、仁木右京大夫を可討謀をぞ廻しける。只二人して云事だにも天知地知我知いへり。況や是程の大勢集て云私語く事なれば、なじかは可有隠。此事軈て京都へ聞てげり。義長大に忿て、「こは何に某が討るべからん咎は抑何事ぞ。是只道誓・清氏等が、此次に謀叛を起さん為にぞ、左様の事をば企らん。此事を急ぎ将軍に申さでは叶まじ。」とて、中務少輔計を召具し、急ぎ宰相中将殿へ参て、「道誓・清氏こそ義長を可討とて、天王寺より二手に成て、打て上り候なれ。是は何様天下を覆んと存る者共と覚候。御由断あるまじきにて候。」と申ければ、「さる事や可有。云者の誤にぞ有らん。千万に一もさる事あらば、義詮を亡さんとする企なるべし。我与御辺一所に成て戦はゞ誰か下剋上の者共に可与。」と宣へば、義長誠に悦て、己が宿所へぞ帰ける。義長分国よりの兵共、未一人も下さで置たりければ、天王寺の大勢、已に二手に作て、責上ると告けれ共、敢て物ともせず。「さもあれ当手の軍勢何程か有覧、著到を著て見よ。」とて、国々を分て著到を付たるに、手勢三千六百余騎、外様の軍勢四千余騎とぞ注しける。義長著到を披見して、「あはれ勢や、七千余騎は、天王寺の勢十万騎にも勝るべし。然ば手分をして敵を待ん。」とて、猶子中務少輔頼夏に二千余騎を著て四条大宮に引へさせ、舎弟弾正少弼に一千余騎を付て東寺の辺に陣を張せ、我身は勝りたる兵相具して、宿所の四方四五町の程の在家を焼払ひ、馬の懸場を広く成して、未惟幕の中に並居たり。其勢ひ事柄、げにも寄手縦何なる大勢なり共、此勢に二度三度は何様懸散されんとぞ見へたりける。宰相中将殿若讒人の申旨に付て細河・畠山に御内通の事有なば、外様の兵何様弐ろを仕つべく覚れば、中将殿を取篭奉て、近習の者共をあたり近く不可寄とて、中務少輔を召具し、宿に入れば義長二百余騎にて、中将殿御屋形へ参じ、四方の門を警固して、曾て御内外様の人を不近付、毎事己が所存の侭に申行ひければ、天王寺下向の軍勢共は、忽に朝敵の名を蒙て、追罰の綸旨・御教書を成れ、義長は武家執事の職に居て、天下の権を司る。只五更に油乾て、灯正に欲銷時増光不異。去程に七月十六日に天王寺の勢七千余騎、先山崎に打集て二手に分つ。一方に細河相摸守を大将とし三千余騎、鵙目・寺戸を打過て、西の七条口より寄んとす。畠山入道・土岐・佐々木を大将にて五千余騎、久我縄手を経て東寺口より可寄とぞ定ける。今年南方既に静謐して御敵今は近国に有共聞へねば、京中貴賎、すは早世中心安く成ぬと悦合へる処に、又此事出来にければ、こは如何すべきと周章騒ぎ、妻子をもてあつかひ財宝を隠し運ぶ事、道をも通り得ぬ程也。折を得て疲労の軍勢猛悪の下部共、辻々に打散て、無是非奪取り剥むくりければ、喚き叫ぶ声物音も聞へず、京中只上を下へぞ返しける。是までも猶中将殿は、仁木に被取篭御座しけるを、佐々木判官入道、忍やかに小門より参て、「何なる事にて御座候ぞ。国々の大名一人も不残一味同心して、失はんと謀り候義長を、御一所して拘させ給候はゞ、可叶候歟。彼が挙動仏神にも被放、人望にも背はてたる者にて候とは被御覧候はざりけるか、乍去君の御寵臣を、時宜をも不伺、左右なく討んと擬し、忽に京中に打て入彼等が所存も一往御怖畏なきに非ず。されば先御忍候べし。道誉只今仁木に対面して軍評定仕候はんずる其間に、可然近習の者一人被召具、女房の体に出立せ給て、北の小門より御出候へ。御馬を用意仕て候。何くへも忍ばせ進せ候べし。」とぞ申たりける。将軍げにもと思給ければ、風気の事有とて帳台の内へ入り宿衣引纏頭臥給へば、仁木中務少輔も、遠侍へ出にけり。暫有て佐々木判官入道、百騎許にて馳来り、仁木に対面して、軍評定及数刻、去程に夜も痛く深ぬ。可見咎申人もなく成にければ、中将殿は女房の体に出立て、紅梅の小袖に、柳裏の絹打纏頭て、海老名信濃守・吹屋清式部丞・小島次郎計を召具して、北の小門より出給へば、築地の陰に、用意の御馬に手綱打係て引立たり。小島次郎そと寄り、掻懐き奉て馬に打乗せ進せて、中間二人に口引せ、装束裹持せて、四五町が程は閑々と馬を歩ませ、京中を過れば、鞭に鐙を合せて、花苑・鳴滝・並岡・広沢池を過て、時の間に西山の谷堂へ落給ふ。是を夢にも不知ける仁木右京大夫が運こそ浅猿けれ。中将殿今は何くへも落著せ給ぬと思ふ程に成ければ、判官入道己が宿所へとてぞ帰ける。其後義長常の御方へ参て、「夜明候はゞ、敵定て寄つと覚へ候に、今は御旗をも被出候へとて参て候、軍勢共に御対面も候へかし。余りに久く御宿篭り候者哉。御風気は何と御坐候やらん。」と申ければ、女房達一二人御寝所に参て此由を申さんとするに、宿衣を小袖の上に引係被置たる許にて、下に臥たる人はなし。女房達、「此は何なる御事ぞや。」と周章騒で、「穴不思議や、上には是には御坐も候はざりけるぞや。」と申ければ、義長大に忿て、女房達近習の者共の知ぬ事は有まじきぞ、四方の門をさし人を出すなと騒動す。中務少輔は余に腹を立て、貫はきながら、召合せの内へ走入て屏風障子を踏破り、「日本一の云甲斐なしを憑けるこそ口惜けれ。只今も軍に打勝ならば、又此人我等が方へ手を摺てこそ出給はんずらめ。」と、様々の悪口を吐散して、己が宿所へぞ帰ける。宰相中将殿の仁木が方に御坐しつる程こそ、此人の難捨さに、国々の勢外様の人々も、数多義長が手には著順ひつれ、仁木を討せん為に中将殿落給ひたりと聞へければ、我も々もと百騎二百騎、打連々々寄手の方へ馳著ける程に、今朝まで七千余騎と注したりし義長勢、僅に三百余騎に成にけり。義長は暫はへらぬ体に打笑て、「よし/\云甲斐なからん奴原は足纏になるに、落たるこそよけれ。」云けるが、是を実に身に替り、命に替らんずる者と、憑み思たる重恩の郎従も、皆落失ぬと聞へければ、早、言もなく興醒、忙然としたる気色也。去程に夜も漸深行ば、鵙目・寺戸の辺に、続松二三万燃し連て、次第に寄手の近付勢ひ見へければ、義長角ては不叶とや思けん、舎弟弾正少弼をば、長坂を経て丹後へ落す。猶子中務少輔をば、唐櫃越を経て丹波へ落す。我身は近江路へ係る由をして、粟田口より引違へ、木津河に添伊賀路を経て、伊勢国へぞ落たりける。義長勢尽都を落ぬと聞へしかば、中将殿も軈て都へ帰入給ひ、寄手共も今度の軍は定て手痛からんずらんと、あぐんで思けるが、安に相違して一軍もなければ、皆悦勇で、軈て京へぞ入にける。


296 南方蜂起事付畠山関東下向事

去程に京都に同士軍有て、天王寺の寄手引返すと聞へしかば、大和・和泉・紀伊国の宮方時を得て、山々峯峯に篝を焼、津々浦々に船を集む。是を見て京都より被置たる城々の兵共、寄合寄除き私語きけるは、、「前に日本国の勢共が集て責し時だにも、終に退治し兼て有し和田・楠也。まして我等が城に篭て被取巻なば、一人も帰者不可有。」とて、先和泉の守護にて置れし細河兵部太輔、未敵の係らぬ前に落しかば、紀伊国の城湯浅の一党も、船に取乗て兵庫を差て落行。河内国の守護代、杉原周防入道は、誉田の城を落て、水走の城に楯篭り、爰に暫く支て京都の左右を待んとしけるが、楠大勢を以て息も不継責ける間、一日一夜戦て、南都の方へぞ落にける。根来の衆は、加様に御方の落行をも不知、与力同心の兵集て三百余人、紀伊国春日山の城に楯篭り、二引両の旗を一流打立て居たりけるを、恩地・牲河・三千七百余騎の勢にて押寄、城の四方を取巻て、一人も不余討にけり。熊野には湯河庄司、将軍方に成て、鹿の瀬・蕪坂の後に陣を取り、阿瀬河入道定仏が城を責んとしけるを、阿瀬河入道・山本判官・田辺別当、二千余騎にて押寄せ、四角八方へ追散し、三百三十三人が頚を取て、田辺の宿にぞ懸たりける。鷸蚌相挟則烏乗其弊とは、加様の時をや申べき。都には仁木右京大夫落たりと、悦ばぬ人も無りけれ共、畿内遠国の御敵は、是に時を得て蜂起すと聞へければ、すはや世は又大乱に成ぬるはと、私語かぬ人も無りけり。其比何なる者の態にや、五条の橋爪に高札を立て、二首の歌を書付たり。御敵の種を蒔置畠山打返すべき世とは知ずや何程の豆を蒔てか畠山日本国をば味噌になすらん又是は仁木を引人の態かと覚て、一首の歌を六角堂の門の扉に書付たり。いしかりし源氏の日記失ひて伊勢物語せぬ人もなし畠山入道、其比常に狐の皮の腰当をして、人に対面しけるを、悪しと見る人や読たりけん、畠山狐の皮の腰当にばけの程こそ顕れにけれ又湯河庄司が宿の前に、作者芋瀬の庄司と書て、宮方の鴨頭になりし湯川は都に入て何の香もせず今度の乱は、然畠山入道の所行也と落書にもし歌にも読、湯屋風呂の女童部までも、もてあつかひければ、畠山面目なくや思けん、暫虚病して居たりけるが、如斯ては、天下の禍何様我身独に係りぬと思ければ、将軍に暇をも申さで八月四日の夜、密に京都を逃出て、関東を差てぞ下りける。参河国は仁木右京大夫多年管領の国也ければ、守護代西郷弾正左衛門尉、五百余騎にて矢矧に出張て、道を差塞ぎける間不通得、路次に日数をぞ送りける。如斯何までか中途に浮れて可有、中山道を経てや下る、京へや引返すと案じ煩ひける処に、小川中務仁木に同心して、尾張国にて旗を揚る間、関東下向の勢、畠山を始として、白旗一揆・平一揆・佐竹・宇都宮に至るまで、前後の敵に被取篭、前へも不通、迹へも不帰得、忙然としてぞ居たりける。山名伊豆守は、東国勢既に南方を退治して、都へ帰ぬと聞しかば、始は何様此次に我方へも被寄ぬと推量して、城を構へ鏃を磨て、可防用意をせられけるが、都に不慮の軍出来て、仁木右京大夫宮方になり、和田・楠又打出たりと聞へければ、伊豆守軈機に乗て、其勢三千余騎を卒し二手に分て、因幡・美作両国の間に勢を分てぞ置たりける。赤松筑前入道世貞・同律師則祐が、所々の城を責るに・草木・揉尾・景石・塔尾・新宮・神楽尾の城共、一怺もせず、或は敵に成て却て御方を責め、或は行方を不知落失ぬ。脣竭て歯寒、魯酒薄して邯鄲囲るとは、加様の事をや申べき。


297 北野通夜物語事付青砥左衛門事

其比日野僧正頼意、偸に吉野の山中を出て、聊宿願の事有ければ、霊験の新なる事を憑奉り、北野の聖廟に通夜し侍りしに、秋も半過て、杉の梢の風の音も冷く成、ぬれば、晨朝の月の松より西に傾き、閑庭の霜に映ぜる影、常よりも神宿て物哀なるに、巻残せる御経を手に持ながら、灯を挑げ壁に寄傍て、折に触たる古き歌など詠じつゝ嘯居たる処に、是も秋の哀に被催て、月に心のあこがれたる人よと覚くて、南殿の高欄に寄懸て、三人並居たる人あり。如何なる人やらんと見れば、一人は古へ関東の頭人評定衆なみに列て、武家の世の治りたりし事、昔をもさぞ忍覧と覚て、坂東声なるが、年の程六十許なる遁世者也。一人は今朝廷に仕へながら、家貧く豊ならで、出仕なんどをもせず、徒なる侭に、何となく学窓の雪に向て、外典の書に心をぞ慰む覧と覚へて、体縟に色青醒たる雲客也。一人は何がしの律師僧都なんど云はれて、門迹辺に伺候し、顕密の法灯を挑げんと、稽古の枢を閉ぢ玉泉の流に心を澄すらんと覚へたるが、細く疲たる法師也。初は天満天神の文字を、句毎の首に置て連歌をしけるが、後には異国本朝の物語に成て、現にもと覚る事共多かり。先儒業の人かと見へつる雲客、「さても史書の所載、世の治乱を勘るに、戦国の七雄も終に秦の政に被合、漢楚七十余度の戦も八箇年の後、世漢に定れり。我朝にも貞任・宗任が合戦、先九年後三年の軍、源平諍三箇年、此外も久して一両年を不過。抑元弘より以来、天下大に乱て三十余年、一日も未静る事を不得。今より後もいつ可静期共不覚。是はそも何故とか御料簡候。」といへば坂東声なる遁世者、数返高らかに繰鳴し、無所憚申けるは、「世の治らぬこそ道理にて候へ。異国本朝の事は御存知の前にて候へば、中々申に不及候へども、昔は民苦を問使とて、勅使を国々へ下されて、民の苦を問ひ給ふ。其故は、君は以民為体、民は以食為命、夫穀尽ぬれば民窮し、民窮すれば年貢を備事なし。疲馬の鞭を如不恐、王化をも不恐、利潤を先として常に非法を行ふ。民の誤る処は吏り科也。吏の不善は国王に帰す。君良臣を不撰、貪利輩を用れば暴虎を恣にして、百姓をしへたげり。民の憂へ天に昇て災変をなす。災変起れば国土乱る。是上不慎下慢る故也。国土若乱れば、君何安からん。百姓荼毒して四海逆浪をなす。されば湯武は火に投身、桃林の社に祭り、大宗呑蝗、命を園囿の間に任す。己を責て天意に叶、撫民地声を顧給へと也。則知ぬ王者の憂楽は衆と同かりけりと云事を、白楽天も書置侍りき。されば延喜の帝は、寒夜に御衣をぬがれ、民の苦を愍み給しだに、正く地獄に落給けるを、笙の岩屋の日蔵上人は見給けるとこそ承れ。彼上人、承平四年八月一日午時頓死して、十三日ぞ御在しける。其程夢にも非ず、幻にも非ず、金剛蔵王の善巧方便にて、三界流転の間、六道四生の棲を見給けるに、等活地獄の別処、鉄崛地獄とてあり。火焔うずまき黒雲空に掩へり。觜ある鳥飛来て、罪人の眼をつゝきぬく。又鉄の牙ある犬来て、罪人の脳を吸喰ふ。獄卒眼を怒して声を振事雷の如し。狼虎罪人の肉を裂、利剣足の蹈所なし。其中に焼炭の如なる罪人有四人。叫喚する声を聞ば、忝も延喜の帝にてぞ御在ける。不思議やと思て、立寄て事の様を問へば、獄卒答曰、「一人は是延喜帝、残は臣下也。」とて、鋒に指貫て、焔の中へ投入奉りけり。在様業果法然の理とは云ながら、余りに心憂ぞ覚ける。良暫有て上人、「さりとては延喜の帝に少の御暇奉宥、今一度拝竜顔本国へ帰らん。」と、泣々宣ければ、一人の獄卒是を聞て、いたはしげもなく鉄の鉾に貫て、焔の中より指出し、十丈計差上て、熱鉄の地の上へ打つけ奉る。焼炭の如なる御貌散々に打砕れて、其御形共見へ給はず。鬼共又走寄て以足一所にけあつむる様にして、「活々。」と云ければ、帝の御姿顕給ふ。上人畏て只泪に咽給ふ。帝の宣く、「汝我を敬事なかれ。冥途には罪業無を以て主とす。然れば貴賎上下を論ずる事なし。我は五種の罪に依て此地獄に落たり。一には父寛平法皇の御命を背き奉り久く庭上に見下し奉りし咎、二には依讒言、無咎才人を流罪したりし報ひ、三には自の怨敵と号して、他の衆生を損害せし咎、四には月中の斎日に、本尊を不開咎、五には日本の王法をいみじき事に思て人間に著心の深かりし咎、此五を為根本、自余の罪業無量也。故に受苦事無尽也。願は上人為我善根を修してたび給へ。」と宣ふ。可修由応諾申す。「然らば諸国七道に、一万本の卒都婆を立て、大極殿にして仏名懺悔法を可修。」と被仰たりける時、獄卒又鉾に指貫、焔の底へ投入る。上人泣々帰給時、金剛蔵王の宣く、「汝に六道を見する事、延喜帝の有様を為令知也。」とぞ被仰ける。彼帝は随分愍民治世給しだに地獄に落給ふ。況て其程の政道もなき世なれば、さこそ地獄へ落る人の多かるらめと覚たり。又承久より已降武家代々天下を治し事は、評定の末席に列て承置し事なれば、少々耳に留る事も侍るやらん。夫天下久武家の世と成しかば尺地も其有に非と云事なく、一家も其民に非と云所無りしか共、武威を専にせざるに依て地頭敢て領家を不侮、守護曾て検断の外に不綺。斯りしか共尚成敗を正くせん為に、貞応に武蔵前司入道、日本国の大田文を作て庄郷を分て、貞永に五十一箇条の式目を定て裁許に不滞。されば上敢て不破法下又不犯禁を。世治り民直なりしか共、我朝は神国の権柄武士の手に入り、王道仁政の裁断夷狄の眸に懸りしを社歎きしか。されども上代には世を治んと思志深かりけるにや、泰時朝臣在京の時、明慧上人に相看して法談の次に仰られけるはく、「如何してか天下を治め人民を安じ候べき。」と被申ければ、上人宣く、「良医能く脈を取て、其病の根源を知て、薬を与へ灸を加れば、病自ら愈る様に、国を乱る源を能く知て可治給。乱世の根源は只欲を為本。欲心変じて一切万般の禍と成る。」と宣へば、泰時云、「我雖存此旨、人々無欲に成ん事難し。」と宣へば、上人云、「太守一人無欲にならん事を思給はゞ、其に恥て万人自然に欲心薄成べし。人の欲心深訴来らば我欲の直らぬ故ぞと我を恥しめ可給。古人云、其身直にして影不曲、其政正して国乱るゝ事なしと云云。又云、君子居其室其言を出事善なる則、千里の外皆応之。善と云は無欲也。伝聞、周文王の時一国の民畔を譲るも、文王一人の徳諸国に及す故、万人皆やさしき心に成し也。畔を譲ると云は、我田の堺をば人の方へは譲与れども、仮にも人の地をして掠取事はなかりけり。今程の人の心には違たり。かりにも人の物をば掠取共、我物を人に遣事不可有。其比他国より為訴詔此周の国を通るとて、此有様を道畔にて見て、我欲の深事を恥て、路より帰りけり。されば此文王我国を収るのみならず、他国まで徳を施すも只此一人の無欲に依てなり。剰此徳満て天下を一統して取り百年の齢を持き。太守一人小欲に成給はゞ天下皆かゝるべし。」と宣ければ、泰時深く信じて、父義時朝臣の頓死して譲状の無りし時倩義時の心を思に、我よりも弟をば鍾愛せられしかば、父の心には彼者にぞ取せ度思給て譲をばし給はざるらんと推量して、弟の朝時・重時以下に宗徒の所領を与て、泰時は三四番めの末子の分限程少く取られけれ共、今までは聊不足なる事なし。如此万づ小欲に振舞故にや、天下随日収り、諸国逐年豊也き。此太守の前に、訴訟の人来れば、つく/゛\と両人の顔を守て云く、「泰時天下の政を司て、人の心に無姦曲事を存ず。然ば廉直の中に無論。一方は定て姦曲なるべし。何の日両方証文を持て来べし。姦謀の人に於ては、忽に罪科に可申行。姦智の者一人国にあれば万人の禍と成る。天下の敵何事か如之。疾々可帰給。」とて被立けり。此体を見るに、僻事あらば軈而いかなる目にも可被合とて、各帰て後両方談合して、或は和談し或僻事の方は私に負て論所を去渡しける。凡無欲なる人をば賞し欲深き者をば恥しめ給しかば、人の物を掠め取んとする者は無りけり。されば寛喜元年に、天下飢饉の時、借書を調へ判形を加へて、富祐の者の米を借るに、泰時法を被置けるは、「来年世立直らば、本物計を借り主に可返納。利分は我添て返すべし。」と被定て、面々の状を被取置けり。所領をも持たる人には、約束の本物を還させ、自我方添利分、慥に返し遣されけり。貧者には皆免して、我領内の米にてぞ主には慥に被返ける。左様の年は、家中に毎事行倹約、一切の質物共も古物を用ふ。衣裳も新しきをば不著、烏帽子をだに古きをつくろはせて著し給ふ。夜は灯なく、昼は一食を止め、酒宴遊覧の儀なくして、此費を補給けり。仍一度食するに、士来れば不終に急ぎ是にあひ一たび梳にも訴来れば先是をきく。一寝一休是を不安して人の愁を懐て待んことを恐る。進では万人を撫ん事を計り、退ては一身に失あらん事を恥づ。然に太守逝去の後、背父母失兄弟とする訴論出来て、人倫の孝行日に添て衰へ、年に随てぞ廃たる。一人正ければ万人夫に随事分明也。然る間猶も遠国の守護・国司・地頭・御家人、如何なる無道猛悪の者有てか、人の所領を押領し人民百姓を悩すらん。自諸国を順て、是を不聞は叶まじとて、西明寺の時頼禅門密に貌を窶して六十余州を修行し給に、或時摂津国難波の浦に行到ぬ。塩汲海士の業共を見給に、身を安しては一日も叶まじき理を弥感じて、既に日昏ければ、荒たる家の垣間まばらに軒傾て、時雨も月もさこそ漏らめと見へたるに立寄て、宿を借給けるに、内より年老たる尼公一人出て、「宿を可奉借事は安けれ共、藻塩草ならでは敷物もなく、磯菜より外は可進物も侍らねば、中々宿を借奉ても甲斐なし。」と佗けるを、「さりとては日もはや暮はてぬ。又可問里も遠ければ、枉て一夜を明し侍ん。」と、兔角云佗て留りぬ。旅寝の床に秋深て、浦風寒く成侭に、折焼葦の通夜、臥佗てこそ明しけれ。朝に成ぬれば、主の尼公手づから飯匙取音して、椎の葉折敷たる折敷の上に、餉盛て持出来たり。甲斐々々敷は見へながら、懸る態なんどに馴たる人共見へねば不審く覚て、「などや御内に被召仕人は候はぬやらん。」と問給へば、尼公泣々「さ候へばこそ、我は親の譲を得て、此所の一分の領主にて候しが、夫にも後れ子にも別て、便なき身と成はて候し後、惣領某と申者、関東奉公の権威を以て、重代相伝の所帯を押取て候へ共、京鎌倉に参て可訴詔申代官も候はねば、此二十余年貧窮孤独の身と成て、麻の衣の浅猿く、垣面の柴のしば/\も、ながらふべき心地侍らねば、袖のみ濡る露の身の、消ぬ程とて世を渡る。朝食の烟の心細さ、只推量り給へ。」と、委く是を語て、涙にのみぞ咽びける。斗薮の聖熟々と是を聞て、余に哀に覚て、笈の中より小硯取出し、卓の上に立たりける位牌の裏に、一首の歌をぞ被書ける。難波潟塩干に遠月影の又元の江にすまざらめやは禅門諸国斗薮畢て鎌倉に帰給ふと均く、此位牌を召出し、押領せし地頭が所帯を没収して、尼公が本領の上に副てぞ是を給たりける。此外到る所ごとに、人の善悪を尋聞て委く注し付られしかば、善人には賞を与へ、悪者には罰を加られける事、不可勝計。されば国には守護・国司、所には地頭・領家、有威不驕、隠ても僻事をせず、世帰淳素民の家々豊也。後の最勝園寺貞時も、追先蹤又修行し給しに、其比久我内大臣、仙洞の叡慮に違ひ給て、領家悉被没収給しかば、城南の茅宮に、閑寂を耕てぞ隠居し給ひける。貞時斗薮の次でに彼故宮の有様を見給て、「何なる人の棲遅にてかあるらん。」と、事問給処に、諸大夫と覚しき人立出て、しかしかとぞ答へける。貞時具に聞て、「御罪科差たる事にても候はず、其上大家の一跡、此時断亡せん事無勿体候。など関東様へは御歎候はぬやらん。」と、此修行者申ければ、諸大夫、「さ候へばこそ、此御所の御様昔びれて、加様の事申せば、去事や可有。我身の無咎由に関東へ歎かば、仙洞の御誤を挙るに似たり。縦一家此時亡ぶ共、争でか臣として君の非をば可挙奉。無力、時刻到来歎かぬ所ぞと被仰候間、御家門の滅亡此時にて候。」と語りければ、修行者感涙を押て立帰にけり。誰と云事を不知。関東帰居の後、最前に此事を有の侭に被申しかば、仙洞大に有御恥久我旧領悉く早速に被還付けり。さてこそ此修行者をば、貞時と被知けれ。一日二日の程なれど、旅に過たる哀はなし。況乎烟霞万里の道の末、想像だに憂物を、深山路に行暮ては、苔の莚に露を敷き、遠き野原を分佗ては、草の枕に霜を結ぶ。喚渡口船立、失山頭路帰る。烟蓑雨笠、破草鞋底、都べて故郷を思ふ愁ならずと云事なし。豈天下の主として、身富貴に居する人、好で諸国を可修行哉。只身安く楽に誇ては、世難治事を知る故に、三年の間只一人、山川を斗薮し給ける心の程こそ難有けれと、感ぜぬ人も無りけり。又報光寺・最勝園寺二代の相州に仕へて、引付の人数に列りける青砥左衛門と云者あり。数十箇所の所領を知行して、財宝豊なりけれ共、衣裳には細布の直垂、布の大口、飯の菜には焼たる塩、干たる魚一つより外はせざりけり。出仕の時は木鞘巻の刀を差し木太刀を持せけるが、叙爵後は、此太刀に弦袋をぞ付たりける。加様に我身の為には、聊も過差なる事をせずして、公方事には千金万玉をも不惜。又飢たる乞食、疲れたる訴詔人などを見ては、分に随ひ品に依て、米銭絹布の類を与へければ、仏菩薩の悲願に均き慈悲にてぞ在ける。或時徳宗領に沙汰出来て、地下の公文と、相摸守と訴陳に番事あり。理非懸隔して、公文が申処道理なりけれ共、奉行・頭人・評定衆、皆徳宗領に憚て、公文を負しけるを、青砥左衛門只一人、権門にも不恐、理の当る処を具に申立て、遂に相摸守をぞ負しける。公文不慮に得利して、所帯に安堵したりけるが、其恩を報ぜんとや思けん、銭を三百貫俵に裹て、後ろの山より潜に青砥左衛門が坪の内へぞ入れたりける。青砥左衛門是を見て大に忿り、「沙汰の理非を申つるは相摸殿を奉思故也。全地下の公文を引に非ず。若引出物を取べくは、上の御悪名を申留ぬれば、相摸殿よりこそ、悦をばし給ふべけれ。沙汰に勝たる公文が、引出物をすべき様なし。」とて一銭をも遂に不用、迥に遠き田舎まで持送せてぞ返しける。又或時此青砥左衛門夜に入て出仕しけるに、いつも燧袋に入て持たる銭を十文取はづして、滑河へぞ落し入たりけるを、少事の物なれば、よしさてもあれかしとてこそ行過べかりしが、以外に周章て、其辺の町屋へ人を走らかし、銭五十文を以て続松を十把買て下、是を燃して遂に十文の銭をぞ求得たりける。後日に是を聞て、「十文の銭を求んとて、五十にて続松を買て燃したるは、小利大損哉。」と笑ければ、青砥左衛門眉を顰て、「さればこそ御辺達は愚にて、世の費をも不知、民を慧む心なき人なれ。銭十文は只今不求は滑河の底に沈て永く失ぬべし。某が続松を買せつる五十の銭は商人の家に止まて永不可失。我損は商人の利也。彼と我と何の差別かある。彼此六十の銭一をも不失、豈天下の利に非ずや。」と、爪弾をして申ければ、難じて笑つる傍の人々、舌を振てぞ感じける。加様に無私処神慮にや通じけん。或時相摸守、鶴岡の八幡宮に通夜し給ける暁、夢に衣冠正しくしたる老翁一人枕に立て、「政道を直くして、世を久く保たんと思はゞ、心私なく理に不暗青砥左衛門を賞翫すべし。」と慥に被示と覚へて、夢忽覚てげり。相摸守夙に帰、近国の大庄八箇所自筆に補任を書て、青砥左衛門にぞ給ひたりける。青砥左衛門補任を啓き見て大に驚て、「是は今何事に三万貫に及ぶ大庄給り候やらん。」と問奉りければ、「夢想に依て、先且充行也。」と答給ふ。青砥左衛門顔を振て、「さては一所をもえこそ賜り候まじけれ。且は御意の通も歎入て存候。物の定相なき喩にも、如夢幻泡影如露亦如電とこそ、金剛経にも説れて候へば、若某が首を刎よと云夢を被御覧候はゞ、無咎共如夢被行候はんずる歟。報国の忠薄して、超涯の賞を蒙らん事、是に過たる国賊や候べき。」とて、則補任をぞ返し進せける。自余の奉行共も加様の事を聞て己を恥し間、是までの賢才は無りしか共、聊も背理耽賄賂事をせず。是以平氏相州八代まで、天下を保し者也。夫政道の為に怨なる者は、無礼・不忠・邪欲・功誇・大酒・遊宴・抜折羅・傾城・双六・博奕・剛縁・内奏、さては不直の奉行也。治りし世には是を以て誡とせしに、今の代の為体皆是を肝要とせず。我こそ悪からめ。些礼義をも振舞、極信をも立る人をば、「あら見られずの延喜式や、あら気詰の色代や。」とて、目を引、仰に倒笑ひ軽謾す。是は只一の直なる猿が、九の鼻欠猿に笑れて逃去けるに不異。又仏神領に天役課役を懸て、神慮冥慮に背かん事を不痛。又寺道場に懸要脚僧物施料を貪事を業とす。是然上方御存知なしといへ共、せめ一人に帰する謂もあるか。角ては抑世の治ると云事の候べきか。せめては宮方にこそ君も久艱苦を嘗て、民の愁を知食し候。臣下もさすが知慧ある人多候なれば、世を可被治器用も御渡候覧と、心にくゝ存候へ。」と申せば、鬢帽子したる雲客打ほゝ笑て、「何をか心にくゝ思召候覧。宮方の政道も、只是と重二、重一にて候者を。某も今年の春まで南方に伺候して候しが、天下を覆へさん事も守文の道も叶まじき程を至極見透して、さらば道広く成て、遁世をも仕らばやと存じて、京へ罷出て候際、宮方の心にくき所は露許も候はず。先以古思候に昔周の大王と申ける人、■と云所に御坐しけるを、隣国の戎共起て討んとしける間、大王牛馬珠玉等の宝を送て、礼を成けれ共尚不止。早く国を去て不出、以大勢可責由をぞ申ける。万民百姓是を忿て、「其儀ならば、よしや我等身命を捨て防ぎ戦んずる上は、大王戎に向て和を請ふ事御坐すべからず。」と申けるを、大王、「いや/\我国を惜く思ふは、人民を養はんが為許也。我若彼と戦はゞ、若干の人民を殺すべし。其を為養地を惜て、可養民を失ん事何の益か有べき。又不知隣国の戎共、若我より政道よくは、是民の悦たるべし。何ぞ強に以我主とせんや。」とて、大王■の地を戎に与へ、岐山の麓へ逃去て、悠然として居給ける。■の地の人民、「懸る難有賢人を失て、豈礼義をも不知仁義もなき戎に随ふべしや。」とて、子弟老弱引連て、同く岐山の麓に来て大王に付順ひしかば、戎は己と皆亡はてゝ、大王の子孫遂に天下の主と成給ふ。周の文王・武王是也。又忠臣の君を諌め、世を扶けんとする翔を聞に、皆今の朝廷の臣に不似。唐の玄宗は兄弟二人坐しけり。兄の宮をば寧王と申し、御弟をば玄宗とぞ申ける。玄宗位に即せ給て、好色御心深りければ、天下に勅を下して容色如華なる美人を求給しに、後宮三千人の顔色我も我もと金翠を餝しかども、天子再びと御眸を不被廻。爰に弘農の楊玄■が女に楊貴妃と云美人あり。養れて在深窓人未知之。天の生せる麗質なれば更に人間の類とは不見けり。或人是を媒して、寧王の宮へ進せけるを、玄宗聞召て高力士と云将軍を差遣し、道より是を奪取て後宮へぞ冊入奉りける。寧王無限無本意事に思召けれ共、御弟ながら時の天子として振舞せ給事なれば、不及力。寧王も同内裏の内に御坐有ければ、御遊などのある度毎に、玉の几帳の外金鶏障の隙より楊貴妃の容を御覧ずるに、一度び笑める眸には、金谷千樹の花薫を恥て四方の嵐に誘引れ、風に見たる容貌は、銀漢万里の月妝を妬て五更の霧に可沈。雲居遥に雷の中を裂ずは、何故か外には人を水の泡の哀とは思消べきと、寧王思に堪兼て、臥沈み歎かせ給ける御心の中こそ哀なれ。天子の御傍には、大史の官とて、八人の臣下長時に伺候して、君の御振舞を、就善悪注し留め、官庫に収る習也。此記録をば天子も不被御覧、かたへの人にも不見、只史書に書置て、前王の是非を後王の誡に備る者也。玄宗皇帝今寧王の夫人を奪取給へる事、何様史書に被注留ぬと思召ければ、密に官庫を開せて、大夫の官が注す所を御覧ずるに、果して此事を有の侭に注付たり。玄宗大に逆鱗あつて、此記録を引破て被捨、史官をば召出して、則首をぞ被刎ける。其より後大史の官闕て、此職に居る人無りければ、天子非を犯させ給へども、敢て憚る方も不御坐。爰に魯国に一人の才人あり。宮闕に参て大史の官を望みける間、則左大史に成して天子の傍に慎随ふ。玄宗又此左大史も楊貴妃の事をや記し置たる覧と思召て、密に又官庫を開せ記録を御覧ずるに、「天宝十年三月弘農楊玄■女為寧王之夫人。天子聞容色之媚漫遣高将軍、奪容后宮。時大史官記之留史書云云。窃達天覧之日、天子忿之被誅史官訖。」とぞ記したりける。玄宗弥逆鱗有て、又此史官を召出し則車裂にぞせられける。角ては大史の官に成る者非じと覚たる処に、又魯国より儒者一人来て史官を望ける間、軈て左大史に被成。是が注す処を又召出して御覧ずるに、「天宝年末泰階平安而四海無事也。政行漸懈遊歓益甚。君王重色奪寧王之夫人。史官記之或被誅或被車裂。臣苟為正其非以死居史職。後来史官縦賜死、続以万死、為史官者不可不記之。」とぞ記したりける。己が命を軽ずるのみに非ず、後史官に至まで縦万人死する共不記有べからずと、三族の刑をも不恐注留し左大史が忠心の程こそ難有けれ。玄宗此時自の非を知し食し、臣の忠義を叡感有て、其後よりは史官を不被誅、却て大禄をぞ賜りける。人として死不痛云事なければ、三人史官全く誅を非不悲。若恐天威不注君非、叡慮無所憚悪き御翔尚有ぬと思し間、死罪に被行をも不顧、是を注し留ける大史官の心の中、想像こそ難有けれ。国有諌臣其国必安、家有諌子其家必正し。されば如斯君も、誠に天下の人を安からしめんと思召し、臣も無私君の非を諌申人あらば、是程に払棄る武家の世を、宮方に拾て不捕や。か程に安き世を不取得、三十余年まで南山の谷の底に埋木の花開く春を知ぬ様にて御坐を以て、宮方の政道をば思ひ遣せ給へ。」と爪弾をしてぞ語りける。両人物語、げにもと聞居て耳を澄す処に、又是は内典の学匠にてぞある覧と見へつる法師、熟々と聞て帽子を押除菩提子の念珠爪繰て申けるは、「倩天下の乱を案ずるに、公家の御咎共武家の僻事とも難申。只因果の所感とこそ存候へ。其故は、仏に無妄語と申せば、仰で誰か信を取らで候べき。仏説の所述を見に、増一阿含経に、昔天竺に波斯匿王と申ける小国の王、浄飯王の聟に成んと請ふ。浄飯王御心には嫌はしく乍思召辞するに詞や無りけん、召仕はれける夫人の中に貌形無殊類勝たるを撰で、是を第三の姫宮と名付給て、波斯匿王の后にぞ被成ける。軈此后の御腹に一人の皇子出来させ給ふ。是を瑠璃太子とぞ申ける。七歳に成せ給ける年、浄飯王の城へ坐して遊ばれけるが、浄飯王の同じ床にぞ坐し給たりける。釈氏諸王大臣是を見て、「瑠璃太子は是実の御孫には非、何故にか大王と同位に座し給べき。」とて、則玉の床の上より追下し奉る。瑠璃太子少き心にも不安事に思召ければ、「我年長ぜば必釈氏を滅して此恥を可濯。」と深く悪念をぞ被起ける。さて二十余年を歴て後、瑠璃太子長となり浄飯王は崩御成しかば、瑠璃太子三百万騎の勢を卒して摩竭陀国の城へ寄給ふ。摩竭陀国は大国たりといへ共、俄の事なれば未国々より馳参らで、王宮已に被攻落べく見へける処に、釈氏の刹利種に強弓共数百人有て、十町二十町を射越しける間、寄手曾不近付得、山に上り河を隔て徒に日をぞ送りける。斯る処に釈氏の中より、時の大臣なりける人一人、寄手の方へ返忠をして申けるは、「釈氏の刹利種は五戒を持たる故に曾て人を殺事をせず。縦弓強して遠矢を射る共人に射あつる事は不可有。只寄よ。」とぞ教へける。寄手大に悦て今は楯をも不突鎧をも不著、時の声を作りかけて寄けるに、げにも釈氏共の射る矢更に人に不中、鉾を仕ひ剣を抜ても人を斬事無りければ、摩竭陀国王宮忽に被責落、釈氏の刹利種悉一日が中に滅んとす。此時仏弟子目連尊者、釈氏の無残所討れなんとするを悲て、釈尊の御所に参て、「釈氏已に瑠璃王の為に被亡て、僅に五百人残れり。世尊何ぞ以大神通力五百人の刹利種を不助給や。」と被申ければ、釈尊、「止々、因果の所感仏力にも難転。」とぞ宣ける。目連尊者尚も不堪悲に、「縦定業也共、以通力是を隠弊せんになどか不助や。」と思召て、鉄鉢の中に此五百人を隠入て、■利天にぞ被置ける。摩竭陀国の軍はてゝ瑠璃王の兵共皆本国に帰ければ、今は子細非じとて目連神力の御手を暢て、■利天に置れたる鉢を仰けて御覧ずるに、以神通被隠五百人の刹利種、一人も不残死けり。目連悲て其故を仏に問奉。仏答て宣く、「皆是過去の因果也。争か助る事を得ん。其故は、往昔に天下三年旱して無熱池の水乾けり。此池に摩羯魚とて尾首五十丈の魚あり。又多舌魚とて如人言ふ魚あり。此に数万人の漁共集て水を換尽し、池を旱て魚を捕んとするに、魚更になし。漁父共求るに無力空く帰んとしける処に、多舌魚岩穴の中より這出て、漁父共に向て申けるは、『摩羯魚は此池の艮の角に大なる岩穴を掘て水を湛、無量の小魚共を伴ひて隠居たり。早く其岩を引除て隠居たる摩羯魚を可殺。加様に告知せたる報謝に、汝等我命を助よ。』と委く是を語て、多舌魚は岩穴の中へぞ入にける。漁父共大に悦て件の岩を掘起して見に、摩羯魚を始として五丈六丈ある大魚共其数を不知集居たり。小水に吻く魚共なれば、何くにか可逃去なれば、不残漁父に被殺、多舌魚許を生たりけり。されば此漁父と魚と諸共に生を替て後、摩羯魚は瑠璃太子の兵共と成り、漁父は釈氏の刹利種となり、多舌魚は今返忠の大臣と成て摩竭陀国を滅しける。又舎衛国に一人の婆羅門あり。其妻一りの男を産り。名をば梨軍支とぞ号しける。貌醜く舌強くして、母の乳を呑する事を不得。僅に酥蜜と云物を指に塗り、舐せてぞ命を活けたりける。梨軍支年長じて家貧く食に飢たり。爰に諸の仏弟子達城に入て食を乞給ふが、悉鉢に満て帰給を見て、さらば我も沙門と成て食に飽ばやと思ひければ、仏の御前に詣でゝ、出家の志ある由を申に、仏其志を随喜し給て、『善来比丘於我法中快修梵行得尽苦際。』と宣へば、鬢髪を自落て沙門の形に成にけり。角て精勤修習せしかば軈阿羅漢果をぞ得たりける。さても尚貧窮なる事は不替。長時に鉢を空くしければ仏弟子達是を憐て、梨軍支比丘に宣ひけるは、『宝塔の中に入て坐よ。参詣の人の奉んずる仏供を請て食んに不足あらじ。』とぞ教られける。梨軍支悦て塔の中に入て眠居たる其間に、参詣の人仏供を奉りたれ共更に是を不知。時に舎利弗五百人の弟子を引て、他邦より来て仏塔の中を見給に、参詣の人の奉る仏供あり。是を払集て、乞丐人に与へ給ふ。其後梨軍支眠醒て、食せんとするに物なし。足摺をしてぞ悲ける。舎利弗是を見給て、『汝強に勿愁事、我今日汝を具して城に入り、旦那の請を可受。』とて伽耶城に入て、檀那の請を受給。二人の沙門已に鉢を挙て飯を請けんとし給ける処に、檀那の夫婦俄喧をし出して、共に打合ける間、心ならず飯を打こぼして、舎利弗・梨軍支共に餓てぞ帰給ける。其翌の日又舎利弗、長者の請を得て行給ひけるが、梨軍支比丘を伴ひ連給ふ。長者五百の阿羅漢に飯を引けるが、如何して見はづしたりけん。梨軍支一人には不引けり。梨軍支鉢を捧て高声に告けれども人終に不聞付ければ、其日も飢て帰にける。阿難尊者此事を憐て、『今日我仏に随奉て請を受るに、汝を伴て飯に可令飽。』と約し給。阿難既に仏に随て出給時に、梨軍支に約束し給つる事を忘て、連給はざりければ、今日さへ鉢を空して徒然としてぞ昏しける。第五日に、阿難又昨日梨軍支を忘たりし事を浅猿く思召て、是に与ん為に或家に行て飯を乞て帰給。道に荒狗数十疋走進ける間、阿難鉢を地に棄て、這々帰給しかば、其日も梨軍支餓にけり。第六日に、目連尊者梨軍支が為に食を乞て帰給に、金翅鳥空中より飛下て、其鉢を取て大海に浮べければ、其日も梨軍支餓にけり。第七日に、舎利弗又食を乞て、梨軍支が為に持て行給に、門戸皆堅く鎖して不開。舎利弗以神力其門戸を開て内へ入給へば、俄に地裂て、御鉢金輪際へ落にけり。舎利弗、伸神力手御鉢を取上げ飯を食せんとし給に、梨軍支が口俄に噤て歯を開く事を不得。兔角する程に時已に過ければ、此日も食はで餓にけり。此に梨軍支比丘大に慚愧して、四衆の前にして、『今は是ならでは可食物なし。』とて、砂をかみ水を飲て即涅槃に入けるこそ哀なれ。諸の比丘怪て、梨軍支が前生の所業を仏に問奉る。于時世尊諸の比丘に告曰、『汝等聞け、乃往過去に、波羅奈国に一人の長者有て名をば瞿弥といふ。供仏施僧の志日々に不止。瞿弥已に死して後、其妻相続て三宝に施する事同じ。長者が子是を忿て其母を一室の内に置き、門戸を堅く閉て出入を不許。母泣涕する事七日、飢て死なんとするに臨で、母、子に向て食を乞に、子忿れる眼を以て母を睨て曰、「宝を施行にし給はゞ、何ぞ砂を食ひ水を飲で飢を不止。」と云て遂に食物を不与。食絶て七日に当る時母は遂食に飢て死ぬ。其後子は貧窮困苦の身と成て、死して無間地獄に堕す。多劫の受苦事終て今人中に生る。此梨軍支比丘是也。沙門と成即得阿羅漢果事は、父の長者が三宝を敬し故也。其身食に飢て砂を食て死せし事は、母を飢かし殺したりし依其因果也。』」と、釈尊正に梨軍支過去の所業を説給しかば、阿難・目連・舎利弗等作礼而去給。加様の仏説を以て思ふにも、臣君を無し、子父を殺すも、今生一世の悪に非ず。武士は衣食に飽満て、公家は餓死に及事も、皆過去因果にてこそ候らめ。」と典釈の所述明に語りければ、三人共にから/\と笑けるが、漏箭頻に遷、晨朝にも成ければ、夜も已に朱の瑞籬を立出て、己が様々に帰けり。以是安ずるに、懸る乱の世間も、又静なる事もやと、憑を残す許にて、頼意は帰給にけり。


298 尾張小河東池田事

去程に小河中務丞と、土岐東池田と引合て、仁木に同心し、尾張小河庄に城を構て楯篭りたりけるを、土岐宮内少輔三千余騎にて押寄せ、城を七重八重に取巻て、二十日余り責けるが、俄拵たる城なれば、兵粮忽に尽て、小河も東池田も、共に降人に出たりけるを、土岐日来所領を論ずる事有し宿意に依て、小河中務をば則首を刎て京都へ上せ、東池田をば一族たるに依て、尾張の番豆崎の城へぞ送りける。吉良治部太輔も仁木が語ひを得て、参河国の守護代西郷兵庫助と一に成て、矢矧の東に陣を張り、海道を差塞ぎ、畠山入道が下向を支たりけるが、大島左衛門佐義高、当国の守護を給て、星野・行明等と引合ひ、国へ入ける路次の軍に打負て、西郷伊勢へ落行ければ、吉良治部太輔は御方に成て、都へぞ出たりける。是のみならず、石塔刑部卿頼房、仁木三郎を大将として、伊賀・伊勢の兵を起し、二千余騎にて近江国に打越、葛木山に陣を取。佐々木大夫判官入道崇永・舎弟山内判官、国中の勢を集て飯守岡に陣を張り数日を経る処に、九月二十八日早旦に、仁木三郎兵を印て申けるは、「当国に打越て、数日合戦に不及して徒に里氏を煩す事非本意上、伊勢の京兆も定て未練にぞ思給らん。今日吉日なれば敵を一当々て可散。但佐々木治部少輔高秀が手の者を分て守るなる市原の城を責落し、敵を一人も跡に不残、心安く合戦を可致。」とて打立ければ、石塔刑部卿も伊賀の名張が一族、当国の大原・上野の者共付順ひける間、手勢三百余騎是も同く打立て、旗を靡け兵を進めければ、此勢を見て佐々木大夫判官入道、「すはや敵こそ陣を去て色めきたれ、打立や者共。」とて兵を集ける。譜代恩顧の若党三百余騎の外は、相順勢も無りけり。敵は是が天下の要めなるべし。仁木京兆の憑たる桐一揆を始として、宗徒の勇士五百余騎に、伊賀の服部・河合の一揆馳加て、廻天の勢を振ふ。其様を見に、五百騎に足ぬ佐々木が勢可叶とは見へざりけり。され共佐々木大夫判官入道其気勇健なる者なりければ、「此軍天下の勝負を計るのみに非ず。今日打負なば弓矢の名を可失とて、僅の勢を数たに成ては叶まじ。」とて、目賀田・楢崎・儀俄・平井・赤一揆を旗頭にて、河端に傍て引へたり。青地・馬淵・伊庭入道・黄一揆を大将として、左手の河原に陣を取。佐々木大夫判官入道に、吉田・黒田・二部・鈴村・大原・馬杉を始として、宗との兵を馬回に引へさせて、敵の真中を破んと引へたり。■弱の勢かさを見て大勢の敵などか勇まであるべき、「三手の小勢を見に、中なる四目結の大旌は、大将佐々木と見るぞ。打取て勲功に預れや。」と呼て、長野が蝿払一揆、一陣に進で懸出たり。元来佐々木は機変■控を心に得て、死を一時に定たる気分なれば、何かは些も可擬議、大勢の真中に懸入て十文字巴の字に懸散し、鶴翼魚鱗に連て東西南北に馬の足を不悩、敵の勢を懸靡て、後に小野の有けるに、西頭に馬を立直し人馬の息を継せければ、朱に成たる放馬其数を不知。蹄の下に切て落したる敵共、算を散てぞ臥たりける。是を見て残の兵気を失て、さしも深き内貴田井を天満山へと志し、左になだれて引ける間、機に乗たる佐々木が若党共、息をもくれず追懸たり。引立たる者共が、難所に追懸られて、なじかは可能。矢野下野守・工藤判官・宇野部・後藤弾正・波多野七郎左衛門・同弾正忠・佐脇三河守・高島次郎左衛門・浅香・萩原・河合・服部、宗との者共五十余人、一所にて皆討れにけり。軍散じければ、同十一月一日、彼首共を取て都に上せしかば、六条河原にぞ被懸ける。是を見ける大名・小名・僧俗・貴賎、哀哉、昨日までも詞をかはし肩を双て、見馴し朋友なれば、涙を拭て首を見、悲の思散満たり。懸りしかば仁木義長も、三千余騎と聞へし兵皆落失て五百余騎にぞ成にける。結句憑たる連枝仁木三郎は、今度軍に打負て、其侭降参して出たりける。加様に義長微々に成しかば、「軈て責よ。」とて、佐々木大夫判官入道・土岐大膳大夫入道、両人討手を承て、七千余騎にて伊勢国へ発向す。義長さしもの勇士なりしか共、兵減じ気疲れしかば、懸合て一度も軍をせず、長野が城に楯篭る。要害よければ寄手敢て不近得。土岐・佐々木は又大勢なれば、平場に陣を取れども、義長打出て散すに不及。両陣五六里を隔て、玉笥二見の浦の二年は、徒にのみぞ過しける。