大英博物館所蔵太平天国史料
大英博物館所蔵太平天国史料
李鴻章が戈登に与へたる手批
竪七寸七分毎折横二寸九分
大英博物館所蔵太平天国史料 大正十三年十二月、巴里に居つた頃、ポール、ペリオ氏は余に問て、倫敦で敦煌古書の外にどんなものを見たかといはれたので、余は太平天国史料、ゴルドン文牘を殆ど全部瀏覧し、七八分通りは鈔録したのが、最も興味ある仕事であつたと答へた処、それはいゝことをした、欧羅巴に保存されて居る支那史料で、支那に類のないものが二つある、一は即ちブリチシユ、ミユーゼアムに存する太平天国史料及びゴルドン文牘で、一は巴里のビブリオチーク、ナシヨナル等に存するジエスヰト宣教師の報告文集である、君が其一を遂録し得たのは幸であるとペリオ氏は言つた。大英博物館に蔵せらるゝ太平天国史料はかばかり彼地学者に重要視せらるゝ者であるが、この史料の辺録に最初手を着けたのは、慶応大学の故法学博士田中萃一郎氏である。氏の、遂録せられし史料の目録は、現に巴里に留学中の故博士門人松本信広君の好意により、幸田成友君宮島貞亮君等の手を煩して、最近に其の大略を知ることを得た。又朝鮮総督府修史官稲葉岩吉君は嘗て南満鉄道会社の重役たりし【NDLJP:257 】久保要蔵君が倫敦に在りし頃、それに属して、同じく太平天国史料を大英博物館に就て遂写せしことがあるので、其の一部分は之を借覧せしことありしも、未だ其の全部の目録を観たことがないから、目下其の借覧を交渉中である。かくて行々はこの三様の写本を校対して、完全なる底本を作り、学界に発表するつもりであるが、ともかく余が辺録した分の大要をこゝに掲げることにする。前に太平天国史料、ゴルドン文牘といつたが、史料の性質よりいふも其の大英博物館に入つた由来よりいふも、やはりかく両様に分ける方が便利である。前者の太平天国史料の蒐集者は何人であるか詳かでないが、当時に在りて太平天国が頒布せし詔勅、制度等に関する印刷物、並びに伝抄書類より、天国亡滅の後忠王李忠成の口供として両江総督曽国藩より上りし印刷文書等までを一括し、大英博物館に帰入せし人があつたらしく、此は天国側の文書に属するものである。後者のゴルドン文牘は、将軍ゴルドンが支那より帰国したる後、其の常勝軍を帥ゐて天国討伐に従事せし際、李鴻章、程学啓を始め、其他の将帥、さては天国の蘇州守備の将帥より自己に贈つた文書類を一括して、之を大英博物館に寄贈した者である。
太平天国の印刷詔書は「旨准頒行詔書総目」として時々其詔書の冊首に掲げられて居る。太平天国壬子二年の奉天誅妖救世安民の首に在る者は十四部であるが、
癸好〈好は丑の換用字〉三年の「建天京於金陵論」の首には弐拾捌部を挙げ、同年の「貶妖穴為罪隷論」の首には弐拾玖部、乙栄〈栄は卯の換用字〉五年の行軍総目の首には弐拾肆部を挙げて居る。今其の最も多き弐拾玖部の分を左に録す。
旨准頒行詔書総目
天父上帝言題皇詔
天父下凡詔書 弐部
天命詔旨書
旧遺詔 聖書
新遺詔 聖書
天条書
太平詔書
太平礼制
【NDLJP:258 】太平軍目
太平条規
頒行詔書
頒行暦書
三字経
幼学詩
太平救世詔
建天京於金陵論
貶妖穴為罪隷論
詔書蓋重頒行論
天朝田畝制度
天理要論
天情道理書
御製千字詔
行軍総要
天父詩
欽定制度則例集論
武略書
醒世文
王〈長次〉兄親目親耳其証福音書
旨准頒行共有弐拾玖部
以上の中、天命詔旨書、太平詔書、太平礼制、太平条規、頒行詔書、三字経、天朝田畝制度は全部辺録し、旧遺詔聖書、新遺詔聖書、建天京於金陵論、貶妖穴為罪隷論詔書蓋重頒行論、天道、情理書、御製千字詔、行軍総要、天父詩、武略書、王〈長次〉兄親目親耳共証福音書、及び頒行暦書は、其一部分を鈔録して、内容の如何を窺ふに便する丈に止めた。この中で旧遺詔聖書といふは、即ち旧約全書創世紀の翻訳で、新遺詔聖書といふは、新約全書馬太伝福音書の翻訳であり、又武略書といふは孫子、呉子、司馬法等の古き兵法書を印刷頒布したのである。
【NDLJP:259 】 偽忠王親筆口供といへる一冊の印本は曽国藩が平定髪逆奏疏と共に朝廷に上りし者らしく、之を近年「中国秘史」に載せたる者に比すれば、やゝ詳密にして、かの書の原本なることを知ることを得。又欽定士階条例は天国十一年辛酉の頒行にして、其の新たに定めたる科挙の事を告示せる者なるが、其の大意を知るべき序文を鈔録して、条例三十四条は之を略した。又幼主詔書と題する一冊には、見返しに、
天王詔旨
朕命幼主写詔書
頒婿万信脱迷途
遵此十救詔習錬
上天常生福長悠欽哉
とありて板心に十救詩と記したるが、広西の土語を以て文を成せる如く、甚だ解し難き者である。又写本にて、天王詔旨、幼主詔旨を輯録したる一冊あり。当時鉛印頒布したる
天王詔旨五通、救世真聖幼主詔旨一通、干王賛王弐天将誼諭一通、朝天朝主図一通、
等の実物は之を全録した
余が一部分だけ辺録せし者で、田中博士が全録して置かれた者あるは勿論、余が全く辺録せざりし者にて、天父上帝言題皇詔、天父下凡詔書、太平軍目等は、田中博士の辺録本により、之を補ふことを得べしと期待して居る。其外稲葉氏の写本によりて補ひ得べき者もあるであらう。
ゴルドン文牘の内容は左の如きものである。
張遇春一通 程学啓廿通零残四通 周興隆二通 黄芳一通 郭松林四通 李恒嵩六通 李鶴章十二通 賈益謙一通 李鴻章四通 又批五札一告示一羅栄光一通又移一 慕王譚紹洗一通 丁日昌二通 銭徳承一通 楊鼎勲一通 崇厚三通章服単一通 抄録偽忠王書二件 恭親王割覆一附給英国照会一
右の内程学啓の凾牘は多分幕僚の筆に成れる者であらうけれども其他は大抵手筆である。但し李鴻章の分には手筆と代筆と両様あるので、其の手筆の内批一【NDLJP:260 】通だけ撮影した。李鴻章の凾牘批札はいづれも、李文忠公全集に載せられぬ者であり、程学啓は勿論他の人々の凾牘も、全く世に知られぬ者であるから其の史料としての価値は非常なものと思ふ。一例を挙ぐれば李鴻章の告示の如き蘇州の髪匪を招降する際、ゴルドンは其の不殺を条件としたるに、李鴻章は程学啓の言を容れて、後に之を掩殺したので、ゴルドンは大に憤り、清廷の賞金壱万両を突返し、李鴻章を打ち殺すといつた騒ぎがあつた。この告示は李鴻章のゴルドンに対する過り証文ともいふべき者で、其の実物の現存せるは、興味あることである。
以上は即ち太平天国史料の概要であるが、其の詳細の発表は之を他日に期する。猶ほ此の辺録については、文学博士今西龍君、文学士石浜純太郎君、同鴛淵一君等の輔助を謝せねばならぬ。
こゝに附記したきは、欧洲より帰つて後、一昨年上海文明書局で出版した凌善清といふ人の編纂にかゝる太平天国野史を見ることを獲た。此書の内容も太平天国内部の材料に拠つたもので、従来支那本国に此種の材料の遺存して居ることはあまり知られて居なかつたが、其中の或ものは偶然にも大英博物館所蔵のものと同一なのがあるので其他のものも大体信用して可なる者と思はれる。但し其の巻首に入れてある李忠王の哈唎に給した憑照は、吟唎が著した英文「太平乱」中の原本を用ゐてある処を見ると、本文も全部天国当時の材料から出たか否やといふことを多少疑はねばならぬやうになる。要するに此の如き真に近き史料が世に出づるやうになつたのは喜ぶべきことで、前清末の革命党等が臆に憑せて作つた太平天国史とは比べものにならぬ正確なものである。因つて此の機会に於て之を清史研究家に紹介して置く。
(大正十四年七月史林第十巻第三号)
附記
一、稲葉氏の抄本は太平救世歌、太平礼制、太平条規、頒行詔書三字経、幼学詩(略抄)等である。
二、其後支那にて印行せる者、
太平天国有趣文件十六種
太平天国史料第一集
【NDLJP:261 】二種を見た、前者はやはり大英博物館の所蔵文書十四種及びトーマス、ジエンナーの著書「南京福字碑」より採りし二種の合刊で、後者は仏国東洋語学校所蔵の史料八種であるが、大体に於て大英博物館所蔵の史料と同一の者である。而して此両種の出板に共通して欠く所は、ゴルドン文牘の備はらざることである。
(昭和四年三月記)
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