高知県の漢学者、川田瑞穂による楢崎龍女史の坂本龍馬回想録(明治32年)
(六回)
◎海援隊の積立金ですが、アレは管野や白峰や中島やが洋行して使つて仕舞つたのです。龍馬が斬られた時は私は長州の伊東助太夫の家に居りました。丁度十一月の十六日の夜私は龍馬が、全身朱に染んで血刀を提げしよんぼりと枕元に立つて居る夢を見て、ハテ気掛りな龍馬に怪我でもありはせぬかと独り心配して居りますと、翌る十七日の夕方左柳高次が早馬で馳せ付け私の前へ平伏して、姉さん、と云つたきり太息をついて居りますから、扨ては愈々と覚悟して、こみ上げる涙をじつと抑へ、左柳これを着かへなさいと縮緬の襦袢を一枚出してやつて別室で休息させ、私は妹の君江と共に香を焚て心斗りの法事を営みました。九日目に三吉さんや助太夫やも寄合つて更めて法事を営みましたが、私は泣いては恥しいと堪え〳〵していましたが到頭堪え切れなくなつて、鋏で以て頭の髪をふツつりと切り取つて龍馬の霊前へ供へるが否や、覚えずワツと泣き伏しました。ソレから色々して居る内中島と石田英吉、山本幸堂の三人が迎へに来て、一旦長崎へ下り龍馬の遺言で菅野と君江との婚礼を済ませ、それから大坂へ出て、土佐へ帰りました。其跡で中島菅野白峰の三人が洋行したのです。
◎龍馬の石碑なども元は薩摩で削つたのです。私はソレを聞いて吃驚し海援隊の者に話すとソレは不都合と云つて、つゞまり其石を薩摩から譲り受けて海援隊の名義で立てました。
◎千葉の娘はお佐野(千里駒には光子とありて龍馬より懸想したりと記したれど想ふに作者が面白く読ません為めに殊更ら構へたるものなるべし)と云つてお転婆だつたさうです。親が剣道の指南番だつたから御殿へも出入したものか一橋公の日記を盗み出して龍馬に呉れたので、龍馬は徳川家の内幕をすつかり知ることが出来たさうです。お佐野はおれの為めには随分骨を折てくれたがおれは何だか好かぬから取り合はなかつたと云つて居りました。
◎龍馬の生れた日ですか、天保六年の十一月十五日で丁度斬られた月日(慶応三年十一月十五日)と一緒だと聞ひて居るのですが書物には十月とあります、どちらが真だか分りませぬ。龍馬の名乗りの直柔と云ふのは後に換へた名で初は直蔭と云つたのです。伏見で居た時分に、直蔭は何日迄も日蔭者の様でイケないから直柔と換へると云つて換へました。
◎私も蔭になり陽になり色々龍馬の心配をしたのですからセメて自分の働た丈の事は皆さんに覚えて居て貰い度いのです。此の本(千里駒及龍馬伝)の様に誤謬が多くつては私は本当に口惜しいですヨ……。私は土佐を出てからは一生墓守をして暮らす積りで京都で暫らく居つたのですけれど母や妹の世話もせねばならず、と云つた処で京都には力になる様な親戚もなし、東京にはまだ西郷さんや勝さんや海援隊の人もボツ〳〵居るのでそれを便りに東京へ来たのですが、西郷さんはあの通り……、中島や白峰は洋行して居らず……随分心細い思ひも致しました。私は三日でも好い、竹の柱でも構はぬから今一度京都へ行つて墓守りがしたいのです、が思ふ様にはなりませぬ……。龍馬が生きて居つたら又何とか面白い事もあつたでせうが……、是が運命と云ふものでせう。死んだのは昨日の様に思ひますが、早や三十三年になりました。
と、情には脆ろき女性の身の双の瞼に雨を醸して此の雪山に語られたので、元来泣き上戸の雪山は覚えず袖を絞りました。