高知県の漢学者、川田瑞穂による楢崎龍女史の坂本龍馬回想録(明治32年)
(五回)
◎橋本久太夫は元幕府の軍艦へ乗つて居たので、大酒呑でしたが舟の乗り方は中々上手でした。大坂沖で舟の中で酒場喧嘩をし出来し、海へ飛び込んで逃げて来て抱へて呉れと云ふから家来にしたのです。後に薩摩から長崎へ廻航の時甑灘で大浪に逢ひ、船は揺れる、人は酔ふ、仕方が無いのです。私はテーブルに向ひ腰をかけ月琴を弾いて居ると、龍馬は側でニコ〳〵笑ひながら聴いて居りました。暫くして便所へ行かうと思つたが船が揺つて歩けぬから匍匐う様にして行つて見ると、皆んな酔つて唸つて居るに久太夫が独り五体を帆穡へ縛り付け帆を捲ひたり張つたりして働いて居りましたが、私を見るより、奥さんでさへ起きて居るぞ貴様等恥を知れ〳〵と大声で呼はつて居りました。天草港へ着きかけると皆な起きて来て衣物を着換へるやら顔を洗ふやら大騒ぎ、久太夫は独り蹲んで見て居りましたが私が、港が見えだすとソンナ真似をしてお前等何だ酔つて寝て居た癖に、と云ふと橋本がソラ見よ皆来て誤れ〳〵、と云つて、此奴は一番酔つた奴、彼奴は二番三番と一々指さすと皆平伏して真とに悪うご座りましたと誤つて居りました。ホヽ私悪いことをしたもんですネー。すると龍馬が出て来て、ソンナ事をするな酔ふ者は酔ふ酔はぬ者は酔はぬ性分だから仕方が無いと笑つて居りました。ソレから港へ着くと薩摩の旗を樹てゝ居るから迎へに来る筈ですが浪が荒くつて来れないのです。下るには桟橋もなし困つて居ると久太夫が碇を向の岸へ投げ上げ綱を伝つて岸へ上り、荷物など皆な一人で世話して仕舞ひました。龍馬が大さう喜んで、お龍よ橋本の仕事は実に潔ひ、己れの抱へる者は皆なコンな者だと褒めて居りました。
◎新宮次郎さんは土佐の新宮村の人で始めは馬之助と云つて髯が立派で美しい人でした。龍馬が云つてますには、己は前へ立つて籔でも岩でもヅン〳〵押し分けて道開きをするので、其の跡は新宮が鎌や鍬やで奇麗に繕つて呉れるのだつて……。あの広井磐之助の仇討はこの新宮さんが助太刀をしたのです。(千里駒には龍馬が助太刀したりとあれど誤也)話を聞けばソレお話にもならぬ……。アノとんと騒ぎから起つたので仇討をする程の事では無い、と龍馬が云つて居りました。討たれた棚橋とか云ふ男にも、龍馬が気の毒に思つて、君をねらつて居る者があるから早く逃げよと云つたら、討ちたければ討つがよい此方も夫れ丈の用心する、と云つて居ましたそうな。
◎武市(半平太)さんには一度逢ひました。江戸から国へ帰る時京都へ立寄つて龍馬に一緒に帰らぬかと云ふから、今お国では誰れでも彼れでも捕へて斬つて居るから、帰つたら必ずヤラれると留めたけれども、武市さんは無理に帰つて、果してあの通り割腹する様になりました。龍馬が、おれも武市と一緒に帰つて居たもんなら命は無いのぢあつた。武市は正直過ぎるからヤられた惜しい事をした、と云つて溜息をして話しました。
◎門田為之助さんは肺病で死んだのです、長州俊姫様の嫁入りの事で奔走して居ましたが一度面会に来て、私も此の事が成就せねば切腹せねばならぬから、事によるともうお目にはかゝらぬと云ふから餞別をして上げましたが甘くヤツたのです。門田は立派にヤツて呉れて難有い、仕損じたら土佐の名を汚すのぢやつたと龍馬が嬉しがつて居りました。