高知県の漢学者、川田瑞穂による楢崎龍女史の坂本龍馬回想録(明治32年)
(一回)
御一新前土佐藩から出て天下を横行した海援隊の隊長に阪本龍馬と云ふ豪傑が有つて、又其妻に楢崎お龍と云ふ美人で才女で、加之に豪胆不敵な女のあつた事は諸君善く御承知でせう、其お龍が今猶ほ健固で相州横須賀に住んで居る。僕は近頃屡ば面会して当時の事情を詳しく聞ひたが、阪崎氏の「汗血千里駒」や民友社の「阪本龍馬」などとは事実が余程違つて居る、符合した処も幾干か有るが鷺を鴉と言ひ黒めた処も尠なからぬ。もし此儘で置ては徒だ後世を誤る斗りと思ふから聞ひた儘を筆記して、土陽新聞の余白を借り、諸君の一粲を煩す事にしました、唯だ文章が蕉拙くつて這の女丈夫を活動させることの出来ないのが如何にも残念です。
又この後日譚に就ての責任は一切僕が引受ます。
◎十月念八日、雪山しるす。
海援隊の人数ですが、水夫も加へれば六七十人も居たでせう。私の知つて居る人では石川誠之助(中岡慎太郎)、菅野覚兵衛、高松太郎、石田英吉、中島作太郎(信行)、近藤長次郎、陸奥陽之助(宗光)、橋本久太夫、左柳高次、山本幸堂、野村辰太郎、白峰駿馬、望月亀弥太、大利鼎吉、新宮次郎、元山七郎、位です。陸援隊はまだ出来て居らなかつたので、石川さんは初は一処に海援隊でした。面白い人で、私を見るとお龍さん僕の顔に何か附いて居ますかなどゝ、何時もてがうて居りました。
◎陸奥には一二度逢ひました。此人は紀州の家老の伊達千広と云ふ人の二男で、其兄も折々京都へ来ましたが四条の沢屋と云ふ宿屋にお国と云ふ妙な女がありました。コレと其兄と仲が好かつたのです。或日伏見の寺田屋へ大きな髻を結つた男が来て、阪本先生に手紙を持て来たと云ひますから私は龍馬に何者ですかと聞くと、アレは紀州の伊達の子だと云ひました。此時から龍馬に従つたのです。持て来た手紙は饅頭屋の長次郎さんが長崎で切腹した事を知らせて来たのです(千里駒には龍馬が長崎に於て近藤を呼び出し切腹を命じたりとあれど誤り也)。長次さんは全く一人で罪を引受けて死んだので、己が居つたら殺しはせぬのぢやつたと龍馬が残念がつて居りました。アノ伊藤俊助さんや井上聞多さんは社の人では無いですが長次さんの事には関係があつたと見え、龍馬が薩摩へ下つた時、筑前の大藤太郎と云ふ男が来て伊藤井上は薄情だとか卑怯だとか矢釜しく云つて居りましたが、龍馬は、ソンナに口惜しいなら長州へ行つて云へと、散々やり込めたのです。すると其晩一間隔てゝ寝て居た大藤が夜半に行燈の光で大刀を抜いて、寐刃を合して居りますから私は龍馬をゆり起し、油断がなりませぬとつまり朝まで寝ずでした。翌日陸奥が来ましたから此事を話し、西郷さんにも知らせると、ソレは怪しからぬと云つて、私等二人を上町と云ふ処へ移らせ、番人を置いて警戒させてくれました。元々陸奥は隊中で「臆病たれ」と綽名されて居まして、龍馬等が斬られて隊中の者が油小路の新撰組の屋敷へ復讐に行く時も陸奥は厭だとかぶりを振つたそうです。人に勧められてつゞまり行くことは行つたが、皆んな二階に躍り込んで火花を散らして戦つて居るに、陸奥は短銃を持つたまゝ裏の切戸で一人見て居つたと云ふことです。(雪山曰く陸奥の事に就ては実に意外なる話を聞けり、されど云ふて益なし、黙するに如かざるべし、読者かの紀州の光明丸と龍馬の持船いろは丸と鞆の津沖に衝突して、いろは丸沈没したる償金に紀州より八万五千円を取りたる一事を知るべし、而して当時紀州の家老は実に此の陸奥の兄にして又龍馬を斬ったる津村久太郎等は常に会津紀州の間を往来し居たりと云ふ。一々対照し来れば蓋し思ひ半ばに過ぐるものあらん、噫)腕は余りたゝなかつたですが弁は達者な男でした。
◎北海道ですか、アレはずつと前から海援隊で開拓すると云つて居りました。私も行く積りで、北海道の言葉を一々手帳へ書き付けて毎日稽古して居りました。或日望月さんらが白の陣幕を造つて来ましたから、戦争も無いに幕を造つて何うすると聞けば、北海道は義経を尊むから此幕へ笹龍桐の紋を染めぬひて持つて行くと云つて居りました。此時分面白い話があるのです。北海道へ行く固めの盃にと一晩酒を呑みましたが、誰れが言出したか一ツ祇園を素見さうと、大利さんは殿様に化けて籠にのり、白峰さんがお小姓役、龍馬は八卦見、ソレから私が御腰元で、祇園の茶屋へ押し掛け、コレは殿様だから大事にして下さいと云ふと、女中も三助もお内儀さんも皆んな出て来てヘイ〳〵とお辞儀をする。阪本は八卦見だから手を出せ筋を見てやると云ふと、私にも〳〵と皆な手の掌を出すのを何だとか彼だとかあてすつぽふに云つて居りましたが、能く当る〳〵と喜んで居りました。帰りになると一処にまごまごして居つて、会津や桑名の奴等に見付かるとイケないから、君は此の道を行け僕はあつちへ行くと皆な散り〳〵になつて思ひ〳〵に帰りました。
◎伏見の遭難は前から話さねば分りませむが、元治元年に京都で大仏騒動と云ふのが有りました。あの大和の天誅組の方々も大分居りましたが幕府の嫌疑を避ける為めに龍馬等と一処に大仏へ匿れて居つたのです。処が浪人斗りの寄り合で、飯炊きから縫張りの事など何分手が行き届かぬから、一人気の利いた女を雇いたいと云ふので——こゝで色々の話しがあつて——私の母が行く事になりました。此時分に大仏の和尚の媒介で私と阪本と縁組をしたのですが、(千里駒には勢戸屋お登勢の媒介、龍馬伝には西郷の媒介とあり倶に誤れり)大仏で一処に居る訳には行きませむから私は七条の扇岩と云ふ宿屋へ手伝方々預けられて居りました。スルと六月一日(元治元年)の夕方龍馬が扇岩へ来て、己れも明日は江戸へ行かねばならぬから留守は、万事気を付けよと云ひますから、別れの盃をして其翌朝出立しました。後とには石川さんや近藤さんや段々残つて居りましたが明日は何処、今日は此処と四方八方飛び廻つて家には滅多に居なかつたのです。処が五日の朝元山と望月の二人が三条の長門屋と云ふ長州宿へ往つて居ましたら、どうして聞き出したか会津の奴等が囲んだのです。一手は大仏へ、一手は大高某(勤王家)の内へと、都合三方へ押し寄せたので、元山さんは其場で討死し、望月さんは切り抜けて土佐屋敷へ走り込まんとしたが門が閉て這入れず、引返して長州屋敷へ行かうとする処を大勢後から追ツ掛けて、何でも横腹を槍で突かれたのです。私は母の事が気にかゝり扇岩を飛出して行つて見ると、望月さんの死骸へは蓆をきせてありました、私は頭の髪か手足の指か何か一ツ形見に切て置きたいと思ひましたが番人が一パイ居つて取れないのです。又晩方行つて見れば死骸は早や長州屋敷へ引取つた跡でした。母は一旦会津方に捕へられたが女だから仔細ないと放してくれたさうです。大仏へ行つて見れば天井や壁やを槍で以つて無茶苦茶に突き荒してありました。乱暴ですねえ誰も浪人は居ないのに……。ソレから龍馬も江戸へ行つたけれど道中で万一の事がありはすまいかと日々心配して居りますと、八月一日にヒヨツコリ帰て来ましたので此の騒動を話すと兎も角も危いからと私の妹の君江は神戸の勝(当時海軍奉行として神戸に滞在せり)さんへ弟の太一郎は金蔵寺へ、母は杉坂の尼寺へ、それぞれ預けて私は伏見の寺田屋(千里駒に勢戸屋とあるは誤り也)へ行つたのです。此家のお登勢と云ふのが中々シツかりした女で、私が行くと襷や前垂れやを早やチヤンと揃てあつて、仕馴れまいが暫らく辛棒しなさいと、私はお三やら娘分やらで家内同様にして居りました。処が此儘では会津の奴等に見付かるからと、お登勢が私の眉を剃つて呉れて、これで大分人相が変つたから大丈夫と云つて笑ひました。名も更えねばならぬが何と替よふと云つて居ると主人の弟が、京から遙る〴〵来たのだからお春と付けるが宜いと云つてつゞまりお春と替へました。