嘘
雪降りで退屈で古風な晩であった。
井深君の邸に落ち合った友達が五六人火のそばに寄って、嘘吐き――話の話しくらべをした。自分の素晴しい嘘で人を担いだ話や、またはそのあべこべのしくじり話やらをめいめいが語った。
そしてさて、主人の井深君の番になった。井深君は、誰よりも一番多くその生れ付きの中に小説家的な要素をもっていたばかりではなく、日頃の生活も当り前の様式とは少からず異っていたので(――それらの点はこの話を聞くだけでも直ぐ察せられる事なのだが)誰も斉しく井深君の番になるのを待ち構えていたのだった。
――偽瞞こそあらゆる芸術の本体だ、と誰かそんな風な事を云った西洋人があった。嘘と云っても、それが何人にもどんな損害をも与えない場合になら勿論少しも悪かろう筈はない。昔噺をして聞かせるのとちっとも変りはしないのだもの。僕は御存じの通り非常な空想家だ。それだから、つい思わぬ無用な嘘を吐く時がある。何故と云って、空想を最も効果的に他人に伝えるためには、どうしても大きな嘘を吐かなければならない事になるのだから。……で、これから話す話は、僕がひょっとしたはずみにくだらない嘘を云ってしまったお蔭で、意外な莫迦を見た話なんだがね。話の筋は極くたわいもないのだが、それでもよく考えてみると、何だかこうひどく妙な気がするんでね。尤も僕だから妙な気もするのかも知れない。だから君たちにはつまらないかも知れない。が、まあ話してみよう……
……お正月の松がとれてから未だ幾日も過ぎない頃であった。夕ぐれ近い空は雪空で、低く垂れ下がったまま白っちゃけて凍りついていた。井深君は銀座を散歩していたのである。北風が唸りながら舖道の紙屑やごみを浚って吹いた。
で、とにかく何の用事もなく、何の
(まあ! なんて女なんだろう!……)
井深君は今日が日迄幾十度となく、いや恐らく幾百度となく同じような身形で銀座を歩いた。併しついぞ一度だって通り掛りの者なぞからそんな風にして見られたためしはなかったのだ。だから屹度彼女は偶然井深君と見間違える程よく似た恰好の男をその知己にもっていたのであろう。……が、たといそうとしても何という厚かましい不躾な眼付きだったのだろう! ……育ちのよい少年の如く殊の外気弱な井深君は胸を動悸させ乍ら、逆毛立ってやわらかい草むらのように縺れ合っているお河童頭の後姿を見送った。
ところが、それから一時間も経ったかと思う頃、同じ場所でもまたもや彼女と出会ったのである。井深君はその小一時間の間、ブライヤアのパイプと一緒に甃石の上を歩き続けながらも、喫茶店でポスタムを啜り乍らも、如何にもそのへんな娘の姿が気になってならなかった。それ程だから再びその四角へ通りかかった時には、勿論横の通りを振向いて見る位の用意はあったのだ。それで振り向いてみた。すると曲り角からつい三間ばかりのところを、その娘がスペインの踊子のように両手を腰にかって大きく肩をゆすりながら向うへ歩いて行くのである。甚だ奇妙なことであった。と云うのは、彼女が若しも其処の甃石の中から突然せり上って来て歩き出したのでもない限り、そのあたりは恰度××ビルディングの普請場の
(おや――)と井深君は屹驚してちょっとの間足を停めた。その途端にオレンジ色の娘はクルリとお河童の頭だけを廻して井深君を見た。そしてあけっぴろげな笑顔でニッコリ笑ったものである。が、直ぐまたすた/\と威勢よく肩に波を打たせながら歩き出した。
(ははあ、あいつ、不良だな――)と井深君はその時はじめて気が付いた。
気早な冬の陽ではあったし、それに空模様はいよいよ怪しくなって来ていたので、もう
井深君は外套の襟を深く立て、ついていた
二人は間もなく山下町の河岸に出た。黒くよどんだ河水は乏しい街燈が凍えて映って暗く淋しかった。そして悪いことに到頭雪が降って来たのである。しびれを切らしていたような勢いではげしく降って来た。
井深君は、みるみる雪のために、帽子もかぶらないお河童の頭とオレンジ色のジャケツが白く塗れて行くのを眺めているうちに、少々変な気持がし出した。
(はてな! これは見損いをしたかな――)
だが、殆ど同時に娘もそれと同じことを考えたらしかった。そして俄に踵を返すと、まともに井深君の前へ立ちふさがった。
「?……」今にも泣き出しそうな子供の大きな眼で見上げた。
「今晩は――」と井深君は辛うじて云った。
「あたし、寒くて、それにお腹が空いて……」と娘はさもさもそんな風な声で云うのであった。
「何処か、この付近にいい家がある? それとももう一ぺん銀座迄戻りましょうか。」
「いいえ、この直き裏の通りにあたしの知っている家があるわ。」と娘は赤くかじかんでしまった指で指さしながら云った。
「そう、じゃ其処へ行きましょう。」
井深君は娘を連れてその家へ行った。狭い路地を這入ったところにある見るからに不景気そうな家で、青い花電気のさしている見世窓のガラスへ弓形にローマ字でカフェ・マンゲツとしるしてあった。
(マンゲツ……満月と云う意味かしら)
と井深君はそんな事を思い乍ら雪をはらって其処の二階へ上がった。お客は他に一人もなかった。それでも仕合せなことに、ガス・ストオヴが薔薇色の炎を輝し乍ら盛にたかれているのを見て井深君はホッとした。
「召上り物は?」
更紗の前かけをかけたひねこびたような女給が、二人がストオヴの傍の食卓へ着くのを待ってそう云った。
「何?――」と井深君は娘に訊いた。
「何でも――」と娘はつつましやかに答えた。
井深君は少しく勝手が違っているように思った。娘が「あたしの知っている家」と云った以上、そんな女給ともよく識り合っていて、食べ物は勿論万事さぞ気儘に振舞ってみせるだろうと考えていたのに、全くそうではなかったのである。そしてまた女給にしろ、娘に対してどんな特別な親しさをも、或は怪しさをも示さなかった。してみると、娘が知っていると云ったのは単にその家の所在を意味するだけのことらしい。二人は全くフリのお客に過ぎなかった。
そこで井深君は、自分でも未だ夕飯前だったので、兎に角あまり上等ではないその家の料理を娘につき合って食べた。娘はいかにもおずおずと振舞いはしたものの、彼女の胃袋は井深君の二倍の食慾をもってむさぼり食べた。井深君はその様子を決して不愉快ではない、むしろ或る愛情をもって観察した。年恰好は十六七位の見かけなのだが、それでも本当はもっと余計なのかも知れない。マシマロのように豊かな顔の輪廓に思い切り短く刈り上げてしまったお河童がちっとも不自然でなくよくうつっていた。目鼻立ちもわりに品があってそう悪くはなかった。殊に眼は、物を食べ乍ら時々見上げては極り悪そうに笑う眼は、睫毛が長く散りひろがって、少しばかりやぶ睨みで、ひどく子供っぽい表情になって可愛らしかった。だがさて着ているオレンジ色のジャケツは、銀座通りでひょっと見た時には随分花やかで立派だったのに、よく見るともうすっかり古びてしまって肩のあたりには大きな穴が三つもあいているのであった。(おやおや、これはひどい――)と井深君は何だか急に
やがて食事が終ると女給は張り合いの無さそうな挨拶をして階下へ降りてしまった。
「さあ、御飯がすんだら、少し火のそばで暖まろう――」
井深君はそう云い乍ら椅子をガス・ストオヴの前へ引き寄せた。
「ええ。」娘もおとなしく井深君の真似をした。
「君、外套がほしいだろう?……」と井深君は薔薇色をしたストオヴの中を見たままで云った。
「ええ。」
「五十円もあれば買えるかな?……」
「そりゃあ、買えてよ……」
井深君はそこで黙ってふところから沢山の紙幣束を呑んで大きく膨らんだ紙入を出すとその中から五枚の草色をした紙幣を引き抜いて傍のテェブルに置いた。しかし、娘はそれを見ると周章てて井深君の手をおさえて云うのであった。
「いらないわ、いらないわ。……あたし、そんなにはどっさり、あんたからは貰おうなんて思わないわ。……五十円なんて!――五円もあれば沢山。ほんとに五円もあればいいの……そうすればこの毛糸の上衣の穴が隠れる位の襟巻が買えるから。」
そうして娘は両手をジャケツの穴のところへ当てて、巧みに目ばたきをさせながら笑って見せたのである。井深君はそれを見ると一層ひどく可哀相になった。
「私が上げたくて上げるのだから、へんな風に遠慮なんかするものではないよ。ね、取ってお置き。」
「嫌。あたし、ほんとに要らないんですもの。……まあ、あなた! とてもいいネクタイピンをしていらっしゃるわね。」
娘は両手を肩に当てた儘、その肱をテーブルの上につき乍ら井深君の胸に目をつけてふとそんなくっ着かない事を云った。
「これかい?――」
「ええ。ダイヤモンドでしょう。あなた、なかなかおしゃれね。」
「――そんな事はどうだっていいじゃないか。それよりも早くこのお金をおしまいなさい。」
「嫌。あたし、そんなに沢山嫌よ。下さるのなら五円でいいの。」
「強情っぱりだね。けれども私だってもっと強情っぱりだ。どうしても取らなけりゃ承知しないよ。――なぜと云って、これには私としてみれば立派な
「理由?」
「うん。……君は今、私のタイピンの事を云ったね。このタイピンがその理由なのだ。まあ聞きたまえ。面白い話なのだから……」
「え、聞かして――」娘もちょっと面喰った様子で、井深君の顔とそのネクタイピンをば見くらべた。
「去年の春だよ。或る日、日が暮れたばかりでね、私はやっぱり銀座通りを散歩していた……」と井深君は両手の指を膝の上でくみ合せ乍らストオヴの方へ向いたまま話しはじめた。
「何時ものように、一っぺん新橋の橋の袂迄行き尽して、また引き返そうとした時だった。私はふとあすこの博品館の横手の薄暗がりの中に、ぼんやり立って、どうやら泣いているらしい恰度君位の背恰好の女の子の姿を見出したのだ。身形はと云うと、お河童で橙色のジャケツを着て――つまり、君の今のなりと同じようなのだね。悪く思っちゃいけないよ。大して変った風と云うわけじゃなし、同じ身形の人が一人や二人いたって、ちっとも不思議はないさ。――で、ともかく私はその女の子のそばへ行ってきいてみた。女の子はやっぱり泣いていた。そして、姉さんと一緒に銀座迄買物に来たのだが、はぐれてしまって、電車賃もないし、家へ帰れない――とこう云うのだ。……なぜ妙な顔をするのだね? そりゃあ、無論その女の子は嘘を吐いたのさ。併し、私はその時はそれを嘘だと思わなかった。その泣き乍ら物を云う様子は、どうしたって、私の心にそんな冷めたい疑いをさしはさめる程の余裕なぞ与えなかったのだもの。私はすっかり同情してしまって、その子に一円のお金を貸してやった。するとその子は非常に喜んでね。そうしてそのお礼にと云って、持っていた
井深君は、そう語り終えて娘の方を見た。
すると、おどろいたことに、娘は両手を顔におし当てて、シクシクと泣いているではないか。そして泣きじゃくりながら云うのである。
「――あたし、……あたし……なんて悪い子なんでしょう。……すみません、すみません。あなたみたいな良い方にそんな事をするなんて……」
井深君はびっくりした。
「おや、君は何を云い出すのだ? 何を泣くんだ?……」
「あたし……あたしがその悪い子だったのよ。」
「え、君が⁈」
井深君はハタと当惑した。なぜと云って、井深君の今話して聞かせたのは、便宜上、そして無論揶揄半分の気持も手伝って喋った全然根も葉もない井深君一流の作り噺だったのだから。タイピンは、つい一月程前に新しく買ったものである。
(どこまでも途方もない小娘なのだろう……)
遉の井深君も呆れ返ってしまった。が、なんぼなんでも今更自分でそれをぶち壊わすわけにも行かない。井深君はまるで魔法にでもかかったような頼りない気持で娘の肩に手をかけて云ったのである。
「――もういい。もういい。泣くのはお止し。私は最早や何とも思ってやしないのだから。……いや、それどころか、今も云った通り私はむしろ気の毒にさえ感じていたのだ。」
「すみません。すみません。……あんた本当にいい方ね。あの時だってそう思ったのだけれど。……だけど、あの時のあたしの顔を思い出せないなんてないわ。ねえ、あたしだったでしょう?……あたしの顔、よく見て。ねえ、もっとそばでよく見てちょうだい。……」娘はそう云い乍ら目や鼻や顔が涙ですっかり濡れ輝いている頬を井深君の顔のすぐ前まで持って来た。そして井深君の両手をつかんで、
「それから、あたしの手? ね、ほら、冷めたいでしょう。まるで氷のようだわ……でも、今は冬だから当にならないこと?……」
「うん、……ほんとに、君だったかも知れない。いや、全く君だったようだ。」と井深君はほとほと弱って云った。「しかし、そう判ったらなおのこと結構だ。このお金は当然君の物と云えるわけだ。だから早く蔵いなさい。私はもう帰らなければならないのだよ。」
「嫌だわ、あたし、嫌だわ。あたしはもう五円のお金だって欲しくないの一銭もいらないの……」
「これ程事の道理がはっきりわかってもかい? 何という聞きわけのない子だろう!」
「どうしても嫌だわ。なんでもかんでも貰わなければいけないのなら、いっそそのネクタイピンを貰うわ。」
「莫迦な、こんなピン十円にもなりやしない……」
「あら! でも、あんた、今五十円位するってそう云ったでしょう。」
「うん、それは、併し、買値の話だよ。売るとなるとなかなかそうはいかない。」
「あたし売りやしなくってよ。だから、それをちょうだい。」
「わからずやの子だね――」
井深君はそれでも為方がないので、タイピンをば取って娘に渡した。
「まあ、素敵!……ちょいと、あたしにだって似合うでしょう。」
娘は心から喜ばしそうに、そのピンを橙色の胸にさして、ちょっとポーズをしてみせながら明るい蓮葉な声で笑った。
「さあ、ほんとにそれでいいかね。……それでは、それでいいものとして、私はもう帰るよ。」
「待って。あたしも帰るわ。」
それから二人はその家をカフェ・マンゲツを出た。おもてには雪がさかんに降りしきっていて地べたはもう隙なく塗りつぶされてしまった。二人とも傘がなかったので、再び雪に塗れ乍ら電車道まで歩いた。娘のお河童頭とオレンジ色のジャケツとは忽ち真白になった。
(あんなタイピンなんか貰うよりも、なぜ外套でも買うことをしないのだろう! 考えれば考える程へんな娘だ――)
井深君は娘のその痛々しい有様を何とも云えない心持で眺めたのであった。
電車道に出ると、ふと娘は立ち止まった。そして、ひどく愁しそうな顔をして井深君を見上げて云ったのである。
「あたし、やっぱりお返しするわ、このピン……」
「うん、それがいい。それがいい。そして、やはりお金を持っておいで――」
井深君は、ほっとした気持で、直ぐ外套と上衣の釦を外してふところに手を差し入れた。すると娘はあわただしくそれを押え止めて、
「嫌よ、嫌よ。お金なんか!……あたし、つまんないわ。」と殆ど泣きそうな声でそう云うのである。
「だって、それでは可笑しいじゃないか――」
「いいの。その代り、お願いがあるのよ。このピンを、もう一っぺん私の手であなたにささせて下さらないこと?……おいや?」
「ちっとも嫌なことはないが、しかし……」
「有難う!」
娘はちょっと背延びをし乍ら、井深君の首に片腕を巻きつけて、そしてそのタイピンをさした。それからそれが済むと、両手で井深君の耳をひっぱって、井深君に雪だらけの目と鼻と口とで接吻するが早いか、「サヨナラ!」と叫んで、威勢よく雪の中を駆け出して消えてしまったのである……
* * *
「……僕は、それで呆然としてしばらく其場に佇んでいた。……」と井深君は鳥渡言葉を切って、軽い溜息を一つ吐いた。
「なんだ。それでお終いかい? いやはや! 僕たちは何も君のローマンスを聞く筈ではなかったのだが――」と聴き手の一人が苦情を申し立てた。
「それでお終いにしてもいい。――それだと、それっきりだと誠に可憐でいいではないか。……が、残念なことに未だ少しあとがある。……それは、なぜ僕がその場に雪だるまのようになり乍ら呆然と立ち尽してしまったかと云うことだ。君たちに解るかね?」
「なぜだ?」
「つまり、僕は自分の愚しい思い付きの嘘から、そのオレンジ色の娘に如何にして僕のふところの紙入を盗み取るかを教えてしまったからさ――」
「なる程!小娘のために見事にしてやられたのだね。……が、ところで、どっこい、その紙入の中はまた古新聞の束ばかりだったと云うのだろう! こいつあ傑作だね。は、は、は、は……」と始終探偵小説ばかりを愛読している友がしたり顔に云って笑った。
「いやいや、早合点をしてくれては困る。それ程あくどい洒落ではない。――それに、そんな酷い細工をするには、相手はあまりに可愛らしい好い子だった。ざっと二千円。紙入の紙幣は全部本物だったよ……」井深君はそう云って口を噤んだ。
「すっかり本物だって? 二千円!……」不思議な不安の影が居合せた人々の顔に行き渡った。
井深君は、そこでこうつけ加えた。
「諸君、そんなに妙な顔をするものではない。紙幣は正しく全部本物だったが、安心したまえ。――この話全体は僕が考え出した嘘なのだから。」
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