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卑弥呼考
 
 後漢書、三国志、晋書、北史等に出でたる倭国女王卑弥呼の事に関しては従来史家の考証甚だ繁く、或は之を以て我神功皇后とし或は以て筑紫の一女酋とし、紛々として帰する所なきが如くなるも、近時に於ては大抵後説を取る者多きに似たり。今余が考ふる所は此の二者に異なる者あれば試みに左の序次により其の所見を下に述べんとす。

    一、本文の撰択

    二、本文の記事に関する我邦最旧の見解

オープンアクセスNDLJP:9     三、旧説に対する異論

    四、本文の考証

    五、結論

 
一、本文の撰択
 
卑弥呼の記事を載せたる支那史書の中、晋書、北史の如きは、固より後漢書、三国志に拠りたること疑なければ、此は論を費すことを須ひざれども、後漢書と三国志との間に存する政異の点に関しては、史家の疑惑を惹く者なくばあらず。三国志は晋代に成りて、今の范曄の後漢書は、劉宋の代に成れる晩出の書なれども、両書が同一事を記するに当りて後漢書の取れる史料が、三国志の所載以外に及ぶこと、東夷伝中にすら一二にして止らざれば、其の倭国伝の記事も然る者あるにあらずやとは、史家の動もすれば疑惑を挟みし所なりき。此の疑惑を決せんことは、即ち本文撰択の第一要件なり。

 次には本文の中、各本に字句の異同あることを考へざるべからず。三国志に就て言はんに、余は未だ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本等を対照し、更に北史、通典、太平御覧、冊府元亀等此記事を引用せる諸書を参考して其の異同の少からざるに驚きたり。其の岐異を決せんことは、即ち本文撰択の第二要件なり。

 今先づ単に其の先出の書たる理由によりて、左に三国志魏書第三十九の本文を掲ぐべし。

       倭人伝

倭人在帯方東南大海之中。依山島国邑。旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。従郡至倭。循海岸水行。歴韓国。乍南乍東。到其北岸狗邪韓国。七千余里。始度一海千余里。至対馬国。其大官曰卑狗。副曰卑奴母離。所居絶島。方可四百余里。土地山険。多深林。道路如禽鹿径。有千余戸。無良田。食海物自活。乗船南北市糴。又南渡一海千余里。名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗。副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有二千許家。差有田地。耕田猶不食。亦南北市糴。又渡一海千余里。至末盧国オープンアクセスNDLJP:10 四千余戸。浜山海居。草木茂盛。行不前人。好捕魚鰒。水無深浅皆沈没取之。東南陸行五百里。到伊都国。官曰爾支。副曰泄謨觚柄渠觚。有千余戸。世有王。皆統属女王国。郡使往来常所駐。東南至奴国百里。官曰兕馬觚。副曰卑奴母離。有二万余戸。東行至不弥国百里。官曰多模。副曰卑奴母離。南至投馬国。水行二十日。官曰弥弥。副曰弥弥那利。可五万余戸。南至邪馬壱国。女王之所都。水行十日。陸行一月。官有伊支馬。次曰弥馬升。次曰弥馬獲支。次曰奴佳鞮。可七万余戸。自女王国以北。其戸数道里可略載。其余旁国遠絶。不詳。次有斯馬国。次有已百支国。次有伊邪国。次有郡支国。次有弥奴国。次有好古都国。次有不呼国。次有姐奴国。次有対蘇国。次有蘇奴国。次有呼邑国。次有華奴蘇奴国。次有鬼国。次有為吾国。次有鬼奴国。次有邪馬国。次有躬臣国。次有巴利国。次有支惟国。次有烏奴国。次有奴国。此女王境界所尽。其南有狗奴国。男子為王。其官有狗古智卑狗。不女王。自郡至女王国。万二千余里。男子無大小。皆黥面文身。自古以来。其使詣中国。皆自称大夫。夏后少康之子。封於会稽。断髪文身。以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤。文身。亦以厭大魚水禽。後稍以為飾。諸国文身各異。或左或右或大或小。尊卑有差。計其道里。当会稽東治之東。其風俗不淫。男子皆露紒。以木緜招頭。其衣横幅。但結束相連。畧無縫。婦人被髪屈紒。作衣如単被。穿其中央。貫頭衣之。種禾稲紵麻。蚕桑緝績。出細紵縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛楯木弓。木弓短下長上。竹箭或鉄鏃。或骨鏃。所有無。与儋耳朱崖同。倭地温暖。冬夏食生菜。皆徒跣。有屋室。父母兄弟臥息異処。以朱丹其身体。如中国用_粉也。食飲用籩豆。手食。其死有棺無槨。封土作家。始死。停喪十余日。当時不肉。喪主哭泣。他人就歌舞飲酒。已葬。挙家詣水中澡浴。以如練沐。其行来渡海詣中国。恒使一人不頭。不蟣蝨。衣服垢汚。不肉。不婦人。如喪人。名之為持衰。若行者吉善。共顧其生口財物。若有疾病暴害。便欲之。謂其持衰不_謹。出真、珠青玉。其山有丹。其木有柟杼、予樟、楺櫪、投橿、鳥号、楓香。其竹篠簳桃支。有薑橘椒蘘荷。不以為滋味。有獼猿黒雉。其俗挙事行来。有云為。輙灼骨而卜。以占吉凶。先告卜。其オープンアクセスNDLJP:11 辞如令。亀法視火坼兆。其会同座起。父子男女無別。人性嗜〈魏略曰。其俗不正歳四時。但記春耕秋収年紀。〉大人所_敬。但摶手以当跪拝。其人寿考。或百年。或八九十年。其俗国大人皆四五婦。下戸或二三婦。婦人不淫。不妬忌。不盗窃。少静訟。其犯法。軽者没其妻子。重者滅其門戸及親族。尊卑各有差序。足相臣服。収租賦。有邸閣。国国有市。交易有無。使大倭監_之。自女王国以北。特置一大率。検察諸国。諸国長憚之。常治伊都国。於国中刺史。王遣使詣京都、帯方郡、諸韓国。及郡使倭国。皆臨津捜露伝送文書、賜遣之物女王。不差錯。下戸与大人逢道路。逡巡入草。伝辞説事。或蹲或跪。両手拠地。為之恭敬。対応声曰噫。比如然諾。其国本亦以男子王。住七八十年。倭国乱。相攻伐歴年。乃共立一女子王。名曰卑弥呼。事鬼道。能惑衆。年已長大。無夫婿。有男弟。佐治国。自王以来。少見者。以婢千人自侍。唯有男子一人。給飲食。伝辞出入。居処宮室。楼観城柵厳設。常有人持兵守衛。女王国東渡海千余里。復有国。皆倭種。又有侏儒国。在其南。人長三四尺。去女王四千余里。又有裸国。黒歯国。復在其東南。船行一年可至。参問倭地絶在海中洲島之上。或絶或連。周旋可五千余里。景初二年六月。倭女王遣大夫難升米等郡。求天子朝献。太守劉夏遣吏将。送詣京都。其年十二月。詔書報倭女王。曰制詔親魏倭王卑弥呼。帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利。奉汝所献男生口四人、女生口六人班布二匹二丈以到。汝所在踰遠。乃遣使貢献。是汝之忠孝。我甚哀汝。今以汝為親魏倭王。仮金印紫綬。装封付帯方太守仮授。汝其綏撫種人。勉為孝順。汝来使難升米、牛利渉遠。道路勤労。今以難升米率善中郎将。牛利為率善校尉。仮銀印青綬。引見労賜遣還。今以経地交龍錦五匹、〈注略〉絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所献貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤。皆装封付難升米、牛利。還到録受。悉可以示汝国中人。使国家哀汝。故鄭重賜汝好物也。正始元年。太守弓遵遣建中校尉梯備等。奉詔書印綬倭国。拝仮倭王。并斎詔賜金帛錦属刀鏡采物。倭王因使上表。答謝詔恩。其四年。倭王復遣使大夫伊声耆掖邪狗等八人。上献生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木𤝔、短弓矢。掖邪狗等オープンアクセスNDLJP:12 壱拝率善中郎将印綬。其六年。詔賜倭難升米黄幢。付郡仮授。其八年。太守王頑到官。倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素和。遣倭載斯烏越等郡。説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等。因斎詔書黄幢仮難升米。為檄告喩之。卑弥呼以死。大作家。径百余歩。徇葬者奴婢百余人。更立男王。国中不服。更相誅殺。当時殺千余人。復立卑弥呼宗女壱与年十三王。国中遂定。政等以檄告喩壱与。壱与遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人。送政等還。因詣台献上男女生口三十人。貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹

 この三国志の文は、魚豢の魏略によりて、略ぼ点竄を加へたる者なるが如し。蓋し三国志、特に其の東北諸夷に関する記事は、多く魏略を取りて、魚豢が当時の語として記したる文字すらも改めざる処あり。高勾麗王伝に「今高勾麗王宮是也」といひ「今古雛加駁位居是也」といふが如き、即ち其例にして、この文中にも今使訳所通三十国といへるは、亦此と同一の筆法なり。但だ三国志の作者陳寿が、果して此の記事を魏略より取りて他書より取らざるやは疑ひ得られざるに非ざるも、三国志の裴松之注に引ける魏略の文、鮮卑の条にも、又西戎の条にも、屢「今」の字を用ゐたる例あるを見、又漢書地理志の顔師古注に、此に掲げたる本文中、「女王国東渡海千余里。復有国。皆倭種」といへるを引きて、之を魏略の文とせるを見れば、此の疑は氷釈すべし。既に三国志の倭人伝が魏略より出でたるを決せば、次で決したきは後漢書の倭国伝も、同じく魏略より出でたりや否やなり。後漢書の作者たる范曄は支那史家中、最も能文なる者の一なれば、其の删潤の方法、極めて巧妙にして引書の痕跡を泯滅し、殆ど鉤稽窮捜に縁なきの恨あるも、左の数条は明らかに其馬脚を露はせる者と謂ふべし。

倭在韓東南大海中。依山島居。凡百余国。自武帝滅朝鮮。使訳通於漢者。三十許国。

 三国志が取れる魏略の文は、前漢書地理志の「楽浪海中有倭人。分為百余国。以歳時来献見云」。とあるに本づきたるにて、其の「百余国」と旧字を下せるは、此が為にして、即ち漢時を指し、「今使訳所通三十国」といへるは魏の時をいへるなり。然るに范曄が漢に通ずる者三十余国とせるは、魏略の文を改删して遺漏せるなり。オープンアクセスNDLJP:13 但し帯方の郡名は漢時になきを以て、之を改めて韓とせるは、其の注意の至れる処なれども、左の条の若きは、猶全く其の馬脚を蔽ひ得ざるなり。

  楽浪郡微去其国万二千里。

 魏略は女王国より帯方郡に至る距離を万二千余里としたるも、范曄は漢時未だ有らざる郡より起算するを得ざれば、已むを得ず、漢時已に有りたる楽浪郡のより起算せしなり。されど夫余が玄菟の北千里といひ、高勾麗が遼東の東千里といふ、いづれも其の郡治より起算せる例に照せば、女王国を楽浪の郡微より起算せるは、例に外れたる書法なり。又云く

  其地大較在会稽東治之東。与朱崖儋耳相近。故其法俗多同。

三国志の文は「所有無」即ち風俗物産の億耳朱崖と同じきをいひ、其下に風土を記せる句を続けたるを、後漢書には位置の意義と変じたり。是れ改删の際に起れる疎謬なり。

  有城柵屋室。父母兄弟異処。

三国志には「城柵」の字は、卑弥呼の居処に関する条にのみ見え、人民一般の風俗とは認められざるに、後漢書が其造語の厳整を主として、人民の屋室にも「城柵」の字を添へたるは蛇足なり。更に著しき疏謬は左の一条に在り。云く

  自女王国東渡海千余里。至拘奴国。雖皆倭種。而不女王

 三国志のこの記事は、前に顔師古が漢書の注を引けるにても知らるゝ如く、魏略と全然一致して、たゞ女王国の東に復た国ありといへるのみにて、之を狗奴国とはせず。狗奴国の記事は、女王境界の尽くる所たる奴国の下に繋けて、其南に在りとしたり。されば後漢書の改删が不当なることは明らかなるに、従来の史家には、及て三国志を誤として後漢書が他書によりて之を正したりと思へる者ありき。是れ蓋し顔師古が引ける魏略に思ひ及ばざりし過ならん。其他、後漢書が魏略の文を割裂し、麋括したりと見るべき字句は、次に弁ずる数条を除く外、全篇皆然り。中にも左の最後の一節、即ち

又有夷洲及澶洲。伝言秦始皇遣方士徐福童男女数千人海(中略)所在絶遠。不往来

の如きは、三国志の呉志孫権伝、黄龍二年に権が将を遣して海に浮び、夷洲亶洲をオープンアクセスNDLJP:14 求めしめたる記事を割裂して、此に附けたる者にて、こは魏略に本づきたりと覚えねば、或は直ちに三国志に拠りけんも知れず。されば此記事の本文として、三国志の拠るべく、後漢書の拠るに足らざることは、益〻明白なり。

 但だ此に弁ぜざるべからざるは、左の一条なり。曰く

建武中元二年。倭奴国奉貢朝賀。使人自称大夫。倭国之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年。倭国王帥升等献生口百六十人。願請見。桓霊間倭国大乱。更相攻伐。歴年無主。有一女子。名曰卑弥呼。云々

 此の漢代に於る朝貢の記事は、三国志には漏れて後漢書にのみ存せり。此だけは三国志の疏奪を范曄が補ひたりとも言ひ得べきに似たれども、翻つて魏略の書法を考ふれば、鮮卑、朝鮮西戎の各伝、皆秦漢の世の事より詳述せるを、三国志は漢までの記事を剪り去りて、単に三国時代の分だけを存せり。こは裴松之が三国志を注せる時、其の剪り去りし魏略の文を補綴して、再び旧観に還せるによりて証明せられたれば、後漢書の此条は、三国志には拠らざりけんも、魏略に拠りたるは疑ふべからざるが如し。

附記、此の文中倭国王帥升等とあるを、通典には倭面土地王師升等に作れるにつきて、菅政友氏が考証は其著漢籍倭人考に見えたり。余も此事につきて考へ得たることあれど、枝葉に渉らんことを恐れて此には述べず。

 己上綜べて之を攷ふれば、倭国の記事が魏略の文を殆ど其まゝに取り用ひたる三国志に拠るの正当なることは知らるべく、本文撰択の第一要件は、こゝに解決を告げたるなり。

 第二の要件たる字句の校定は、本文即ち地名官名人名等の考証と相待つて為さざるべからざる者多く、単独に各本の歧異を列挙せんことは、益少きを以て、後段に合併して、此には省略することゝし、今はたゞ已に掲げたる本文が、元漿明修本を本として、一二乾隆殿板本を参照せる者なることを告白するに止むべし。余が見たる諸本の中にては、大体に於て元漿明修本、最も正しきを覚えたり。汲古閣の十七史は、世に善本と称せらるゝ者なるも、余が知れる所にては三国志、後漢書等は、頗る劣れるが如く、三国志は往々乾隆殿板よりも劣り、後漢書は夐かに元大徳本に淵源せしと見ゆる寛永活版本より悪し。乾隆殿板本は明の北監本に出でたれば、此はオープンアクセスNDLJP:15 重複して挙ぐるを要せざるべく、三国志の明南監本は馮夢禎が手校を経たれば、監本中のやゝ善きものとせらるゝこと、顧亭林の日知録にも見えたれども、其の体式已に古ならず、字句の訛奪も亦往々にしてあり。此等は余が撰択の標準を定めたる理由なり。又参考せる書中、太平御覧は未だ朱本を見るの機会を得ざれば我が做宋活字本を主として極めて希れに鮑刻本を参照したり。鮑刻本は明板本を宋本にて校したる者によりたるが、四夷部倭国の条は、明板の粗悪殊に甚しく、鮑刻本は又之を汲古閣本の三国志にて校改したる跡ありて、校宋本として取るべき処殆ど之なく、我が活字本の影宋本を墨守せるに如かざるなり。通典、冊府元亀等は通行本を用ひたり。

 
二、本文の記事に関する我邦最旧の見解
 
 本文の記事を考証するにつきては、先づ日本書紀の作者が卑弥呼を何人と見たるかを知らんことを要す、是れ我邦史家が本文の記事に下したる最旧の批評と謂ふべき者なればなり。神功皇后紀に左の記事あり。

三十九年。是歳也大歳己未。〈魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等郡。求天子朝献。太守鄧夏遣使将送詣京都也。〉

四十年。〈魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等。奉詔書印綬。詣倭国也。〉

四十三年。〈魏志云。正始四年。倭王復遺使大夫伊声者掖耶約等八人上献。〉

六十六年。〈是年。晋武帝泰初二年晋起居注云。武帝泰初二年十月。倭女王遣重訳貢献。〉

此の記事にして日本紀作者の手に成りたらんには、卑弥呼を神功皇后なりと信じたりと断ぜんに何の碍げかあらん。然るに近世の国学者の間には、此等の細注ある記事の大部分を、後人の攙入にかゝる者とする説ありて、頗る勢力あり。之を攙入とせる所以は、其の外国史書の文が国史に混ずることはあるまじき事なりといふ一種の尊王説に本づけること疑なきも、其の口実とする所は、古本に之なしといふに在り。されども此等の説も、近時田中勘兵衛氏の蔵せる奈良朝の古写本と思はるゝ応神紀断簡出づるに及びて、大に其の信用を薄弱ならしめたり。応神紀五年船を造りて枯野と名づけたる条の細注、及び二十二年、「兄媛者吉備臣祖御友別之妹也」といへる細注は、書紀集解に古本に無し私記攙入せりとなせる者なるに、古オープンアクセスNDLJP:16 写本には之あり、此外にも集解に引ける古本の拠るに足らざる証あれば、同じく集解が古本になしといへる神功紀の細注も之を携入なりと見るべき根拠なし。特に六十六年の細注が晋起居注を引きたるは、尤も其の信ずべきを見る者にして、晋起居注は藤原佐世が日本国現在書目にも見え古く我邦に流伝せること論なく、神功紀が唐太宗勅撰の晋書を引かずして、此の書を引きたるは、或は未だ晋書を見ざりしに由るならん。されば此の細注の古きことも随て知らるべし。又日本紀が用ひたる韓国の地名が往々三国志の三韓伝中に在る地名と符合することも注意せざるべからず。応神紀八年の細注に出でたる​シシム​​支侵​、同十六年の細注に出でたる​ニリム​​爾林​の如き、三国志馬韓の条にも支侵児林の国名あり。神功紀四十九年に出でたる古奚津は、同じく馬韓の条に出でたる古爰国なるべく、爰は奚の形似によりて訛れるなるべし。又同年に出でたる​ホムキ​​布弥支​​ハムコ​​半古​の地は馬尊伝に不弥国、支半国、狗素国、㨗盧国の名見えたり。こは三国志が不弥支国、半狗国、素捷盧国とすべきを誤りて四国に分ちたる者なるべく、之を日本紀によりて正すことを得るは実に奇と謂ふべし。凡そ此等の地名は、韓国の古史にも多く見えず見えたるも、児林が爾陵に作らるゝなど、反て日本紀と三国志との近接せるに似ざるを証するに過ぎざるに、日本紀と三国志との符合は、以て日本紀の作者が、巳に三国志若くは魏略の類を見たりしことを推知すべし。かく神功紀の細注、並びに紀中の地名の両端によりて考ふれば、日本紀の作者が、卑弥呼を神功皇后と推定して、其年代をも同時に置きたりしことは疑ふべからず。最れ実に我邦の史家が卑弥呼の記事に対して下せる批評の嚆矢といふことを得べし。此の古き批評は、固より今日史家に在りても漫然看過すべからざる所なり。但し此の見解が果して正当なりや否やは、猶ほ別問題に属す。

(以上明治四十三年五月芸文第壱年第弐号)


 
三、旧説に対する異論
 
 足利氏の中世に当り、僧周鳳あり、文正の頃、善隣国宝記を著はして、始めて倭国が果して日本なりやに疑を挟めり。即ち前漢書地理志の楽浪海中有倭人。分百余国。とあるを、若し日本とせば百余国とするは疑ふべしといひ、又魏志の在帯方東南海中。依山島国。度海千里。復有国。皆倭種。とあるを、若し日本とするとオープンアクセスNDLJP:17 きは、上に所謂楽浪海中百余国とある倭人は何れの国を指すやといひ、韻書に倭を以て女王国の名と為す蓋し天照大神を地神の首として、此国の主たり故に之を女王国の名と謂ふか、然るときは凡そ此国の人民は皆其種其奴たるのみ但し海を度ること千里の語は、楽海浪中の倭と倭種の国と異あるに似たり、未だ疑を決せざるのみといへり。此れ楽海浪中の倭と海を度ること千里の東に在る倭種の国と、何れか果して日本なりやを疑ひ、并せて女王の名が天照大神に本づくにあらざるかを疑へるなり。〈善隣国宝記に此疑あることは鶴峰戊申の製国偽借考にも摘出せり〉

 然るに元禄年間、松下見林が其の名著、異称日本伝を作りし時は、後漢書、三国志の所謂卑弥呼を全く神功皇后の旧説のまゝに信じて、少しも疑ふ所なき者の如くなりき。

 此の従来の定説を一転したるは、本居宣長の取戎概言なり。本居氏は卑弥呼の名が三韓などより息長帯姫尊、即ち神功皇后を称し奉りし者なることを疑はざるも、魏に遣したる使は、皇朝の正使にあらず、筑紫の南方に勢力ある熊襲などの類なりし者が女王の赫々たる英名を利用して、其使と詐りて私に遣はしたるなりとし、自ら卑弥呼と称して魏使を受けたるも、誠は男児にて詐りて魏使を欺けるなりといへり。同時村瀬栲亭が芸苑日渉に国号を論じたる条ありて、猶ほ魏志の女王は神功皇后を指すに似たりといへる程なるに、本居氏の説は実に破天荒の思ありたれば、此より後の史家は皆此説によりて、次第に潤色を加へたるが如し。

 鶴峰戊申に襲国偽借考あり、〈やまと叢誌に出でたり〉本居氏を祖述して、更に一新説を出し、襲国は呉太伯が後なる姫姓の国にて、久しき以前より王と偽て漢に通じ、光武の建武中元二年に奉貢せしも、安帝の永初元年に生口を献ぜしも、皆此国なり、景行帝の親征より後数度の征伐を経て、既に主を失ひつるが、神功皇后の摂政のはじめより、ひそかに皇后に擬して、一女子を立て主として、畏くも姫尊と名告せつるを卑弥呼とは伝へたるさまなりといへり。此説は又頗る世の学者を驚かして、靡然として之に従はしむる力ありたる者の如く、黒川春村の北史国号考には、猶ほ本居氏の旧説によりて、卑弥呼を神功皇后とし、筑紫人の使訳、偽りて朝廷のと名告しならんといへるも、鶴峯氏の説の後の史家に奉行せらるゝには如かざりき。

 明治以来の史家は、大体に於て鶴峯説の範囲を出でず。菅政友氏の漢籍倭人考、オープンアクセスNDLJP:18 吉田東伍氏の日韓古史断、那珂通世氏の日本上古年代考、久米邦武氏の日本上古史等、皆一様に筑紫女会の説を取り、但だ熊襲の女酋とする者と、筑後、肥後あたりの女酋とする者との小差を存するに過ぎず。久米、菅諸氏の手に成れりと見ゆる国史眼の若き、吉田氏の日本地名辞書の若き、常用の典拠とせらるべき性質の書にすら、已に此説を載せ、久米氏の如きは邪馬台の考証時代は既に通過したりといふに至れり。

 此等諸家の説に対し、各別に批評を加へんことは煩雑にして且つ冗漫に渉るを免がれざるを恐るゝを以て、単に其の大意を述べて、評論の変遷を示し而して其説の可否は、必要なる限り本文考証の際に道及ぼさんとす。

 
四、本文の考証
 
本文は上に掲げたれば此には主として考証を要する字句のみを挙ぐべし。猶は事の次でに述ぶべきは、前号の発刊後、友人稲葉岩吉氏が宮内省図書寮に蔵せらるゝ宋槧本三国志を以て、余が録せる本文を校正し、其の異同を告げられしことなり。かの宋本は市野迷庵の旧蔵にして、経籍訪古志にも出でたる者なり。其異同は各々其字句の下に挙ぐべし。

帯方  漢末公孫氏が遼東に拠りたる時、置きたる郡名にして、魏が公孫氏を亡ぼせる後も、之に因りたり。本と楽浪郡の県名なりしを陛せて郡としたるにて、楽浪の南、即ち今の韓国の忠清、全羅二道の間に当るべし。松下見林が帯方会稽郡名。今八閩地方といへるは妄なり。

旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。旧時を説くは前漢地理志に拠り、今とは魚豢が魏略を作れる時を指すこと、已に前に言へり。史通に魏時京兆魚豢私撰魏略。事止明帝。とあれども、三国志に引く所の魏略の文は、正始嘉平の際に及ぶ者あれば、其の記する所、斉王芳の世を包括せること明らかなり。されば此に今といへるも、斉王芳の世を指せるか。菅氏が之を以て陣寿が自ら其時を指すとせるは、高勾麗伝等の例を察せざる誤なり。

其北岸狗邪韓国  同じ魏志の弁辰伝中に弁辰狗邪国あり、吉田東伍氏は之を韓史の伽耶、又駕洛、即ち今の金海に当てたり。日本紀にありては南加羅に当オープンアクセスNDLJP:19 るべし。こゝに其の北岸といへるは倭国の北岸をいへるなり。後漢書に楽浪郡徼去其国万二千里。去其西北界拘邪韓国七千余里といへるも、二の其字は皆倭国を指せり。然るに菅政友氏は誤りて之を韓国を指せるものとして北岸といへるを疑へり。此誤は蓋し当時狗邪韓が已に倭国に服属せることを思はざるに出づ。魏志の韓伝に云く、韓在帯方之南。東西以海為限。南与倭接と、又弁辰伝に其瀆盧国与倭接界といへり。弁辰瀆盧国は吉田氏之を今の陜川郡に当てたるはよし、然るに其の倭と接界すとあるをば、瀆盧津として、別に東萊府多太浦に当て、二つの浜盧あるが如く説きしは牽強なり。瀆盧は唯一にして古の大良州郡、日本紀の多羅なること疑ひなし。若し韓国内に倭の領土なくば東西南並に海に限らるべき理にして、又其内地の浜盧国が倭と接界すべき理なし。此を以て此記事が任那の我国に服属せる後に出でたるを推すに足る。

対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、  対馬は宋本に対海に作れるは誤なり。一大国は本居氏が北史に拠りて、一支国と改めたるを可とす、梁書も同じ、即ち壱岐なり。末虚を肥前の松浦とし伊都を筑前の怡土とし奴を儺県、又那津、不弥国を応神天皇の誕生地たる宇瀾に当つることは本居氏以来、別に有力なる異説もあらざればすべて之に従ふ。

南至投馬国水行二十日。 之には数説あり、本居氏は日向国児湯郡に都万神社有て、続日本後紀、三代実録、延喜式などに見ゆ、此所にてもあらんかといへり。鶴峯氏は和名鈔に筑後国上妻都、加牟豆万下妻郡、准上とある妻なるべしといへり。但し其の水行二十日を投馬より邪馬台に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説を挙げ一は鶴峯説に同じく、二は投を殺の譌りと見て、薩摩国とし、三は和名鈔、薩摩国慶島郡に都万郷ありて、声近しとし、更らに投を敏の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をも挙げたるが何れも穏当ならずといへり。国史眼は設馬の譌りとして、即ち薩摩なりとし、吉田氏は之を取りて、更に和名鈔の高城郡托摩郷をも挙げ、菅氏は本居氏に従へり。之を要するに皆邪馬台を筑紫に求むる先入の見に出で南至といへる方向に拘束せられたり。然れども支那の古書が方向を言ふ時東と南と相兼ね、西と北オープンアクセスNDLJP:20 と相兼ぬるは、その常例ともいふべく、又其発程の首、若くは途中の著しき土地の位置等より、方向の混雑を生ずることも珍らしからず。後魏書勿吉伝に太魯水即ち今の洮児河より勿吉即ち今の松花江上流に至るに宜しく東南行すべきを東北行十八日とせるが若き、陸上に於けるすら此の如くなれば海上の方向は猶更誤り易かるべし。故に余は此の南を東と解して投馬国を和名鈔の周防国佐婆郡玉祖郷〈多万乃於也〉に当てんとす。此の地は玉祖宿禰の祖たる玉祖命、又名天明玉命、天櫛明玉命を祀れる処にして周防の一宮と称せられ、今の三田尻の海港を控へ、内海の衝要に当れり。其の古代に於て、玉作を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の聚落を為せしことも想像し得べし。日向薩摩の如き僻陬とも異り、又筑後の如く、路程の合ひ難き地にもあらず、此れ余がかく定めたる理由なり。

南至邪馬壱国水行十日。陸行一月。 邪馬は邪馬の訛なること言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆台に作れり。本居氏は明らかに其地を指定せざれども、日向大隅地方と看做したるべし。鶴峯氏は邪馬台は襲人の借称にて、おのれがをる処を皇都大和に擬して呼しものなり、今も琉球人は薩摩をさしてやまとゝいふなり、琉球の童謡にりゆうきうとやまとが地つるぎならば云々 〈地つるぎは地続をよこなまれるなり〉水行十日は、十日の上に二字を脱せるなりといへり。菅氏吉田氏の説も略之に同じくして詳なるを加へ、大隅国噌唹郡の中なる国府郷小川村の隼人城、清水郷姫木村姫木城あたりに擬し、星野恒氏、久米氏は之を筑紫国山門郡にあてたり。其陸行一とあるを一と改め読むことは諸説皆一致せり。然るに此の陸行一の字は魏略及び三国志より出でたる梁書、北史を始め、太平御覧、冊府元亀、通志、文献通考等、一も一に作れる者なければ軽々しく古書を改めんことは従ひ難き所なり。鶴峰氏の水行十日を二十日とするは更に拠なし。本居氏の説の如く、いつはりて魏の使を受つるなどは、菅氏も児戯に等しとしたたひ辺裔なればとて、有るべくも思はれずといへり。菅氏は当時、漢国にて倭と指しゝは、筑紫九国の地なれば、其を領きて威権ありし者を倭王とは称へしなり大和に天皇の坐しますことはもとより知らざりしさまなりといへり。然るに此説は邪馬台が筑紫に在りしを証するには不十分なオープンアクセスNDLJP:21 り。且つ日本紀によれば、意富加羅国王の子、都怒我阿羅斯等が日本国に聖皇ありと聞きて、帰化して穴門に到りし時、其国人伊都都比古、吾は是国の王なり、吾を除きて復二王なしといひしも、其の人と為りを見て必ず王に非ざることを知れりといひ、後世に於ても、明の太祖が僧祖闡等を日本に遣はせし時、征西将軍に抑留せられたれども、猶ほ京都に持明天皇あることを知れるなどより推すに、魏国の使が親しく筑紫に来りて其の内乱にまで遭遇しながら、大和の皇室あることを耳にだもせざるは有り得べき事とも思はれず。琉球にてやまとゝいへる語も、大和朝廷の威力が九州に及びし後に交通して得たる者ならば、拠るに足らず。隋書及び北史 倭国都於邪摩堆、則魏志所謂邪馬台者也といへり。是れ隋の時には大和を以て邪馬台と看做したる証なり。東晋より宋、斉、梁の代に亙りて倭王讃珍済興武等が朝貢の記事は宋梁各書に見えたるが、之を以て大和朝廷の正使にあらずして辺将の私使なりとするの説あるも、其の上表文によれば大和朝廷の名を以て交通したる者なるは明白なり。されば梁代に当りて、大和朝廷の存在は明らかに彼国人に知られたるは勿論なるが、梁書は当時の倭王を以て魏志の倭王の後として疑ふ所なし。かくの如く支那の記録より視たる邪馬台国は、之を大和朝廷の所在地に擬する外、異見を出すべき余地なし。其投馬国より水行十日陸行一月といへる距離も、奴国あたりより投馬までの距離を水行二十日と算するに比しては、無理なりとせず。又当時七万余戸を有すそ程の大国は、之を辺陲の筑紫に求めんよりも、之を王畿の大和に求めん方穏当なるに似たり。此れ余が邪馬台国を以て、旧説の大和に復すべしと思へる理由なり。尤も邪馬台と呼べる土地の限界は、恐らくは今の大和国よりは広大にして、当時の朝廷が直轄したまへる地方を包括するならん。

斯馬国  本居氏は筑前国志摩郡か或は大隅国噌唹郡志摩郷かなるべしといひ、吉田氏も亦以て桜島とす。余は之を志摩国とす。附て云く、余が地名を考定する方針は和名鈔の郡郷等につきて声音の類せる者を彙集し、其中に就きて地望に準じて然るべき者を択び取るに在れど、こゝには唯だ其の択び取れる結果を示すのみ。以下皆之に做ふ。

オープンアクセスNDLJP:22 己百支国  吉田氏は之を伊爾敷と訓み、薩摩国慶島郡伊敷村に当てたり。余は之を石城と訓む。栗田寛氏の古風土記逸文に伊勢国石城の条に日本書紀私見聞を引て云く、伊勢国風土記云。伊勢云者伊賀事志社坐神。出雲​ノ ​ノ 子出雲建子命。又名伊勢都彦命又名天櫛玉命。此神昔石造城坐於此。於是阿倍志彦神来集不勝而還却。因以為名也云々と、即ち此の石城なり。

伊邪国  吉田氏は薩摩国南北伊作二郡とす。余は志摩国答志郡なる伊雑宮所在地とす。即ち天照大神遥宮と延暦儀式帳、延喜式神名帳等にいへる者なり。又伊勢国度会郡にも伊蘇郷あり、伊蘇宮、伊蘇国は並びに倭姫命世記に出でたり。

郡支国  明南監本、乾隆殿板本は並びに都支に作れども宋元本に従て郡支に作るべし。吉田氏は串伎、即ち今の大隅国始羅郡加治木郷なりとす。余は之を伊勢国度会郡棒原神社の所在地にあてんとす。谷川士清の和訓栞「くぬぎ」の条に云く、神名式伊勢国度会郡に棒原神社見ゆ、こは棒ノ字字書の義に違ひたれば​クスキ​​欅​原にて訓もに誤りたる也社地今田​ノ 辺郷浅管村に在り万葉集

度会の大河のへの若歴木われ久ならば妹恋ひんかも」とあり。神名帳考証にも

棒は欅字の誤也、久奴木の略語奴木原也、長谷街道也とあり。和名鈔に又度会郡沼木〈奴木〉郷あり。

弥奴国  吉田氏は薩摩国日置郡市来郷の湊かといへり。余は之を美濃国とす。

好古都国  吉田氏は之を好都に作り笠沙、即ち今の川辺郡加世田郷とす。余が見たる諸本、一も好占都に作れる者なし。故に旧に従て読み、美濃国各務郡、若くは方県郡を当つべし。備前和気郡に香止〈加加止〉郷ありて声音はよく通へども、地勢の連絡なきを奈何せん。

附記、松下見林の異称日本伝には次有伊邪国より好古都国に至る二十一字を脱したり。本居氏の馭戎概言にも同数の字を脱したるを見れば、本居氏は異称日本伝によりて説を為し、三国志の原本をも検せざりしことを知るべし、其の力を用ひたる考証にあらざること明かなり。然るに其説のよく後人を動かせしは、一は後人の其名に眩せられ、一は国人の自尊心に投ぜしに由るのみ。

オープンアクセスNDLJP:23 不呼国  吉田氏は薩摩国日置郡日置郷とす。余は伊吹山の辺にある伊吹、即ち、和名鈔の美濃国池田郡伊福とす。伊福吉部氏の占拠せし地なるべし。

姐奴国  本居氏は之を伊予国周敷郡田野郷とし、吉田氏は訓で谿とし、薩摩国谿山郡とす。是れ皆姐を以て妲と為せるなり。然るに諸本妲に作る者なし。

余は之を近江国高島郡角野郷とす。津野神社あり、川上郷廿余村の産土神にして、都奴臣の祖、木角宿禰を祀ること、栗田氏の神祇志料に見えたり。

対蘇国  本居氏は土佐をいふかといひ、吉田氏は薩摩国阿多郡田布施郷とす。即ち和名鈔の田水郷なり。土佐とよむは、声音に於て最も適へども、地勢隔離すれば、余は姑らく之を和名鈔の近江国伊香郡遂佐郷に擬すべし。

蘇奴国  吉田氏は之を噌唹即ち今の大隅国西噌唹郡とせり。余は之を延暦儀式帳、倭姫命世記に所謂佐奈県なりとす。伴信友の倭姫命世記考に云く、佐奈県は古事記上巻に佐奈県〈イセ也〉中巻伊邪川宮段に伊勢の佐那造、帳に伊勢国多気郡佐那神社とあり、佐那は今多気郡に佐那谷とて一谷の大名にて、村八村ありとぞと。

呼邑国  吉田氏は大隅国肝属郡鹿屋郷とす。余は伊勢国多気郡麻績〈乎宇美〉郷とす。中麻績公の祖豊城入彦命を祀れる麻績神社あり。又倭姫命世記に櫛田よりして御船乗給幸行、其河後江到坐、于時魚自然集出御船参乗、爾時倭姫命見悦給且、其処爾魚見社定賜支とあり。伴氏の考に魚見社は神名秘書に機殿、儀式帳云、魚見社三前、月読命、豊玉彦命、豊玉姫と見えたり、延喜式神名帳にも多気郡魚見神社見えたり、麻績と関係ありげにも見ゆ。

華奴蘇奴国  吉田氏は噌唹の別邑〈今東噌唹郡にや〉歟といへり。余は二の擬定地あり、一は遠江国磐田郡鹿苑神社の所在地なり。一は古事記に八島士奴美神の子に布波能母遅久奴須奴神あり、母遅は大穴牟遅神の牟遅に等しく、貴の義にして韓語のmatai〈上の義〉に当り即ち不破の国主なり。久奴須奴といへる神名も、古代の習として地名を取りたるべければ、之を華奴蘇奴に当てんと思ふなり。

鬼国  本居氏は肥前国基肄郡なりとし、吉田氏は城、即ち薩摩国高城郡なりとす。されども鬼の音はクヰにしてキにあらず、古音は又魁、傀、槐等に近かるべければ、寧ろ桑の訓にあてゝ尾張国丹羽郡大桑郷か美濃国山県郡大桑郷などにあオープンアクセスNDLJP:24 てん方穏かならんか。

為吾国  松下氏はイガと訓みたれば伊賀に当てたるならん。本居氏は筑後国生葉郡にあて、吉田氏は可愛即ち今の薩摩国薩摩郡高江郷に当てたり。然れども当時の為の音はウヰ若くはウワ、クワなるべければ、余は之を三河国額田郡位賀郷即ち今の岡崎地方、若くは尾張国智多郡番賀郷にあてんとす。

鬼奴国  松下氏はキノと訓みたれば紀伊国に当てたるなるべし。吉田氏は今の薩摩国出水郡阿久根なりとす。余は之を伊勢国桑名郡桑名郷に当てんとす。

邪馬国  本居氏は豊前国下毛郡に山国あり、又景行紀に八女県といふも見ゆるといひ、吉田氏も八女即ち今の筑後の山門及上妻下妻二郡なりとせり。余は伊勢国員弁郡野摩〈也未〉なりとす。

躬臣国  吉田氏は其名審にし難しといへども、猶今の三瀦御井の地にあたるといへり。余は伊勢国多気郡櫛田〈久之多〉人之郷なりとす。倭姫命世記にも御櫛落し賜ひて、櫛田社、定賜ふことあり、儀式帳にも櫛田根椋の神御田奉ること見え、神名帳には多気郡櫛田神社、櫛田槻本神社、大櫛神社等あり。

巴利国  吉田氏は原、即ち今の筑後国御原郡なりとす。余は之を尾張国若くは播磨国に当てんとす。

支惟国  吉田氏は之を以て肥前の基肄郡としたり。大和の附近にては、之を紀伊とも見るべけれども、惟の音ウヰより推せば寧ろ吉備に当てん方的当ならん

烏奴国  本居氏は周防国吉敷郡宇努郷とし、又大野といふ処も西の国々にこゝかしこ見えたりといへり。吉田氏は大野、即ち今の筑前の御笠郡大野山なりとす。余は之を備後国安那郡に当てんとす。国造本紀に吉備穴国造あり、孝昭帝 皇子天足彦国押入命の後、彦国葺の孫八千足尼を定められ、又安那公といふよしも姓氏録に出づ。景行紀に穴海あり、安閑紀に婀娜国あり、即ち安那、深津二郡を兼ねて海に瀕せる地なることは、吉田氏の地名辞書にも見えたり。

奴国  即ち前に出でたると同じ。

此女王境界所尽。其南有狗奴国  其南とは奴国を承けて言へるなり。菅氏がオープンアクセスNDLJP:25 之を汎く女王国の南と解したるが為に、反て三国志を疑ひ、後漢書の恣意改竄して、自女王国東度海千余里、至拘奴国といへるを正しとして取りたるは、善く読まざるの過なり。後漢書の取るに足らざることは已に言へり。本居氏も後漢書によりて、伊予国風早郡河野郷を狗奴国とし、吉田氏も其誤りを襲へり。余は之を肥後国菊池郡城野郷に当てんとす。即ち奴国の南に当れる地なり。

会稽東治  治は冶の訛りなり。続漢書郡国志に会稽郡に東冶県なし、楊守敬が三国郡県表補正に其の誤脱なることを弁ぜり。今の福州府治なり。

  以上地名を考証し畢る。

(以上明治四十三年六月芸文第壱年第参号)


 次に官名に就て述ぶべし。但し其中、卑狗のヒコ即ち彦たり、卑奴母離のヒナモリ即ち夷守たるが如きは、弁証を費すを須ひざれば、主として、其余従来未だ解釈せられざりし者に就て試みんとす。

爾支  隋書、北史に挙げたる我国の官名に、伊尼翼あり。黒川氏は翼を冀の訛りなりとして、之をイネキと訓み、即ち稲置なりといへり。此の爾支即ちニキも同語の転訛と見るべし。

泄謨觚、柄渠觚、児馬觚  泄謨觚も児馬觚もみなシマコ、即ち島子と訓むべきに似たり。但し我が上古にかゝる官名、もしくは尊号ありといふことを聞かず。柄渠觚はヒココ即ち彦子などゝや訓むべき。されど此も亦古書に証例なければ、確かには定めがたし。

多模  タマ即ち玉、魂と訓むべし。櫛𤭖玉命、櫛明玉命、天明玉命、天太玉命、豊玉彦命又倉稲魂命、宇都志国玉神など、玉、魂の語を有せる神名甚だ多し。本居氏の古事記伝には​ウカノミタマ​​宇迦之御魂​​ミタマ​​御魂​を解して​ミタマノフユ​​恩頼​​ミタマノフユ​​神霊​​ミタマノフユ​​霊​などもあり)又万葉五(二十六丁)に​アガヌシノミタマヒテ​​阿我農斯能美多摩比弖​などある意にて其​イサヲ​​功徳​を称へたるりといひ又​ウツシクニタマノ​​宇都志国玉​神の玉は​ミタマ​​御霊​なり、​カレクニミタマ​​故国御魂​と云なり、​カレ​​故​此名は此神に限らず、倭大国魂神、高市​ノ 郡吉野​ノ 大国栖御魂​ノ 神社、山城​ノ 国久世​ノ 郡水主​ニ ​ス 山背​ノ 大国魂命​ノ 神、和泉​ノ 国日根​ノ 郡国玉​ノ 神社、摂津国東生​ノ 郡生国魂​ノ 神社、兎原​ノ 郡河内​ノ 国魂​ノ 神社、伊勢​ノ 国度会​ノ 郡大国玉比売​ノ 神社、度会乃​ノ 大国玉比売​ノ 神社、尾張​ノ ​ノ 中島​ノ 郡尾張​ノ 大国霊神社、遠江​ノ 国磐田​ノ 郡淡海​ノ 国玉​ノ 神社、能登​ノ 国能登​ノ 郡能登​ノ 生国玉比古​ノ 神社、対馬上​ツ ​ノ 郡島​ノ 大国魂神社など各其国処に経営の功徳ありし神オープンアクセスNDLJP:26 を如此申して祀れるなり、右の外にも国々に国玉​ノ 神社大国玉​ノ 神社と云多し皆同じといへり。〈伝巻九〉是にて大かたは釈き得たりと思はるれど更に一証の挙ぐべき者あり、新撰亀相記〈友人富岡謙蔵氏が井上額国博士の蔵本より伝鈔せる者によれり井上本は吉田家の秘書を写せる者なりと云ふ〉に今祭卜部坊櫛間智神社とありて其の注に​ハヽカキノ​​母鹿木​神社也、一云​ク 櫛玉命とあり。されば​マチ​​間智​といへる語と玉といへるとは同義なることを知るを得べし。間智は宇麻志麻遅命の麻遅に同じく、荒木田守良が鹿亀雑誌〈富岡氏蔵本〉に麻遅の名の古書に見えたるを挙げて、宇麻志麻遅命の外に神名帳の遠江国佐野郡​コトノマチ​​已等能麻知​神社、近江国高島郡麻知神社、及び中臣寿詞に麻知弱韮由都篁生出とあるを引き、其の釈義は明かならずといへり。意ふに是れ亦大名持、大穴牟遅、大己貴の持、牟遅、貴及び神功紀五年に見えたる新羅人、羅羅母智の母智と同じく、韓語にては上の義なること、此の富羅母智に当るべき人を、三国史記には朴堤上とし、三国遺事には金堤上とし、いづれも母智が上の義なることを推すに足るが上に、訓蒙字会には上をMataiと訓じ、恰かも我が古書が貴をムチと訓むに当れるに徴しても知るを得べく、かくてタマ即ち多模も亦上、貴の義にて地方君長の尊称と解することを得べし。本居氏が布刀玉命を釈して、特に玉を手向の義としたるは、穿鑿に過ぎたり。〈古事記伝八〉

弥弥、弥弥那利  弥弥は天忍穂耳、神八井耳、手研耳などの耳と同じかるべし。古事記伝巻七に、天忍穂耳命の名義を釈して、耳は尊称なり(耳字はもとより借字)下に​フテミミノ​​布帝耳​神と云あり、又神武天皇の御子たちに​ナニミミ​​某耳​と申す多く、其外の人名にも多かる、皆同じことなり〈中略〉さて耳てふ尊称の意は、美は比に通ひて、かの​ムスビ​​産霊​などの​ヒ​​霊​なるを​ヒヒ​​霊々​と重ねたるものなり、開化天皇の大御名​オホヒヾノ​​大毘々​命と申す是なり、此を書紀には​フトヒヾノ​​太日々​尊とありて垂仁巻に​フトミミ​​太耳​と云ふ人​ノ 名もあるを以て​ヒヾ​​日々​と耳と同じきことを知るべし、又明​ノ ​ノ 段なる​マヘツミ​​前津見​てふ人名を、書紀には​マヘツミヽ​​前津耳​とある(又水垣宮​ノ 段に、​スヱツミヽ​​陶津耳​とあるを、旧事紀には​オホスヱフミ​​大陶祇​と云ふも、拠あるなるべし)を以て耳​ミヽ と云は​ミ​​美​を二つ重ねたるにて、見と云は其を一つ略けるものなることを知べし云々とあり。此にて弥弥の義は明らかなり。

弥弥那利は我が古書に其語見えず。景行紀十二年に御木川上に居れる賊を​ミヽタリ​​耳垂​といふこと見えたり。音やゝ近し。但し紀の文にては​ハナタリ​​鼻垂​にいへる賊オープンアクセスNDLJP:27 と相并べて出でたれば地方君長の尊称とも見えざれども、伝説の混入多き古記には、弥弥那利の尊称を種として、耳垂、鼻垂の話説を生出さずとも限らざれば、姑らく此に挙げて参考とするのみ。

伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳鞮  梁書及び南史には弥馬升なし、葢し脱落ならん。宋本太平御覧〈近ごろ又友人稲葉氏を煩はして仿宋活字本御覧を図書寮の宋乗本に対校せるに四夷部の倭国の記事中三国志を引ける者は全く相同じき由を報ぜられたり因て以後は皆宋本として引用せり附記して稲葉氏に深謝す〉には弥馬升を弥馬叔に作れり、是れ叔を古写本などに対に作るより生ぜし異同なるべし。今いづれを正しとも決し難けれども、二字の音も相遠からざれば、いづれを取らんも妨げなきに似たり。此の四の官名は邪馬台国のものなれば、此の記事考定の資料としては、最も重要なる者なり。凡そ此の倭人伝の官名考定は従来史家の甚だ等間に付せし所なるが、余は最も之に注意し、明らさまに言へば、先づ此の四の官名を考へ得たるによりて本伝考定の鍵を得たるなり。第一の伊支馬といへる語には神名帳には大和国平群郡に​イコマニマスイコマツヒコ​​往馬坐伊古麻都比古​​ノ 神社二座あり、栗田氏の神祇志料に、北山鈔を引て、凡大甞祭胆駒社の神部をして火鉄木を奉らしむといひ、又神名帳頭注を引き、卜部亀卜次第奥書を参して、卜部氏又此神を祭て、亀卜​ヒキリキ​​火燧木​ノ神と云といへり。新撰亀相記にも又祭卜部坊行馬社〈一名随駒社在大和国平群郡〉火燧木神也とあり。されば此神を祭る卜部の官氏を指して伊支馬とせるか、此れ一説なり。又垂仁天皇の御名を活目入彦五十狭茅天皇〈記には伊久米伊理毘古伊佐知命〉と申し奉れり。我が上古の制度には御名代といふことありて、景行天皇の世に日本武尊の功名を録せんが為に武部を定め賜ひしこと書紀に見ゆ。御名代と并び行はれし御子代の制度は、垂仁天皇の世に御子伊登志和気王、子なきに因て、子代として伊登志部を定めたること、古事記に出でたれば、此の二様の制は、其の起源更に記録に見えたるよりも古かるべし。紀記等には垂仁天皇の御名代を定められたりとの事実見えざれども、当時の制度よりして言へば有り得べからざるごとにあらずこの伊支馬は或は垂仁天皇の御名代ならんも知れずと思はるゝこと、此れ又一説なり。又書紀には、大伴氏が率ゐる​クメベノ​​来目部​遠祖​アメノクシツオホクメ​​天穂津大来目​といひ、大来目部といへるあり、記には久米直等の祖​アマツクメノ​​天津久米​命あり、本居氏は其の大伴氏に属せりや否やに就きて議論あれども、要するに其上古に於て、大なる官氏たりしことは疑オープンアクセスNDLJP:28 ひなし。伊久米といふは伊久久米の省略にてもあらんか。​イク​​伊久​​イカ​​伊香​​イカ​​厳​などゝ同じく蒙古語のyekeに通ひて、大の義なるべければ、伊久米も大来目も同義なりといふことを得べし。活目入彦の入は親み愛みて云る称なること、本居氏の説の如く、又孝徳紀二年に見えたる子代​ノ 入部、御名​ノ 入部の事などを参し、垂仁天皇の来目の高宮に坐せしことどもを取綜べて考ふれば、大来目部と此の天皇とは何等かの関係なくんばあらざるに似たり。されば伊支馬の官名を、大来目部と垂仁天皇の御名代と両様に縁ありと考へんことも不可なかるべし。次に弥馬升と弥馬獲支とは、相似たる官名なれば、一併に説くを便とせんか。上の垂仁天皇の御名代といふ事に考へ合すべきは、崇神天皇の御名を紀に御間城入彦五十瓊殖天皇と申し奉ることなり。〈記には和真木人日子印恵命とあり〉此外にも孝昭天皇を紀に観松彦香殖稲天皇〈記には御真津日子詞恵志泥命とあり〉と申し奉るも、并びに弥馬といへる地名と覚しきを冠したり。国造本紀には長国造の条に志賀​ノ 高穴穂​ノ 朝御世。観松彦色止命九世孫韓背足尼定賜国造。とあり。此の長は阿波国那賀郡なるべきが上に、此国には又美馬郡といふもあり、神名帳には此国名方郡に御間都比古神社ありて、栗田氏は即ち観松彦色止命を祀るとせり。又播磨風土記にも大三間津日子は即ち孝昭天皇ならんといへり。此等の種々のミマツヒコをいかにして帰一すべきかは、今の急とする所にあらざれども其の何れも孝昭天皇に縁ありげに見ゆれば、弥馬升を此天皇の御名代、御名入部の類と解し、弥馬獲支を崇神天皇の御名代御名入部の類と解せんとす。上古に於いて族裔の栄えたる皇別の中にては、孝昭天皇の皇子天足彦国押入命の後、崇神天皇の皇子、豊城入彦命の後など著しき者なれば、此の推定は甚しき牽強には陥らざるべし。次は奴佳鞮なり、中臣氏が上古に在て強大なる官氏たることは、証例を挙ぐるまでもなし。此外にも中跡直といふあり、栗田氏の国造族類考に中跡直は旧事紀に天椎野命中跡直等祖とあり、中跡は和名鈔伊勢国河曲郡中跡〈奈加止〉郷、東鑑七に中跡庄、神名式に奈加等神社ある地に起れる氏なり、上に云る中臣伊勢連、中臣伊勢朝臣の中臣は即ち中跡にて、此に起れり、神名帳桑名郡中臣社あり、此氏神ならんとあり。奴佳製が天児屋根命の裔たる中臣連なると、此の中跡直等なるとは必ずしも問はず、中臣もしくは中跡の対音と見るオープンアクセスNDLJP:29 べきは疑なし。若し果して邪馬台を九州地方に擬定せんには、此の四の官名をいかに解すべきか。此の四の官名の擬定は又本伝の主なる人物たる卑弥呼の何人たるかを推定するにも、極めて有力なる資料たること、下文を見て知るべし。

狗古智卑狗  汲古閣本に智を制に作るは誤れり。宋本三国志、宋本太平御覧、皆智に作れば宜しく之に従ふべし。狗古智は即ち肥後国菊池郡にして菊池の古音は久々智なり。菊池彦は城野郷即ち狗奴国に在る右族にして、熊襲に属する者なるべし。

  以上官名を考証し畢る。

に人名を考証せんに、其の主なる者は即ち

卑弥呼  なり。余は之を以て倭姫命に擬定す。其故は前に挙げたる官名に伊支馬、弥馬獲支あるによりて、其の崇神、垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一なり。事鬼道、能惑衆といへるは、垂仁紀廿五年の記事並に其の細註、延暦儀式帳、倭姫命世紀等の所伝を綜合して、最も此命の行事に適当せるを見る。其の天照大神の教に随て、大和より近江、美濃、伊勢諸国を遍歴し、〈倭姫世記によれば尾張丹波紀伊吉備にも及びしが如し〉到る処に其の土豪より神戸、神田、神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るゝこと久しき魏人より鬼道を以て衆を惑はすと見えしも怪しむに足らざるべし、二なり。余が邪馬台の旁国の地名を擬定せるは、固より務めて大和の附近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、其の多数が甚しき附会に陥らずして、伊勢を基点とせる地方に限定することを得たるは、又一証とすべし、三なり。年已長大無夫婿といへるは、最も倭姫命に適当せること、神功皇后とするの事実に違へる比にあらず、四なり。有男弟、佐治国といへるは、景行天皇を指し奉る者なるべし。国史によれば、天皇は倭姫命の兄に坐せども、外人の記事に是程の相違は有り得べし。此の記事によりても、国政は天皇の御手中に在りて、命は専ら神事を掌りたまひし趣は知らるべく、たヾ其の勢威のあまりに薫灼たるによりて、誤りて命を女王なりと思ひしならん。命の勢威盛んなりしは、日本武尊の東征に当りて、必ず之に謁し、其の凱旋に当りても、俘虜を神宮に献つりし事などを見て知るべく、特に其の天オープンアクセスNDLJP:30 照大神を奉じて、神領を諸国に徴するは、一種の宗教的領土拡張にして、其の成功は武力を用ひたる四道将軍にも比すべければ、外国人が女王と思ひしも故なしとせず、五なり。以婢千人自侍といへる、数の過多なるはいかャと思へど天見通命の孫に八佐加支刀部が児、宇太乃大禰奈といふ童女などの御供に仕へたることは倭姫世記に見え又唯有男子一人〈階書及び北史には二人に作る〉飲食、伝辞出入といへるも、倭姫世記に見えたる大若子命が其弟乙若子命を、建日方命が弟、伊爾方命を舎人とせしことなどにも思ひ合すべし、六なり。其余は下に出づる人名の考証によりて、益々明なるべし。卑弥呼の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代巻に​ヒノトバタヒメコチヽヒメ​​火之戸幡姫児千々姫​​ノ 命、また​ヨロヅハタヒメコタマヨリヒメ​​万幡姫児依姫​​ノ 命などある姫児に同じとあるは非にして、この二つの姫児は平田篤胤のいへる如く姫の子の義なり。弥をメと訓む例は黒川氏の北史国号考に上宮聖徳法王帝説、繍帳文の​キクシヒメノミコト​​吉多斯比弥乃弥巳等​、また​トコミケカシキヤヒメノミコト​​等巳弥居加斯支移比弥乃弥已等​註ニ云 弥字或当売音也とあるを引けるなどに従ふべし。

難升米  雑誌「文」第一巻第十二号、橘良平氏の日本紀元考概略に「垂仁天皇ノ末年ニ田道間守、常世(遠国ノ称)ノ国ニ使シ、景行天皇ノ元年ニ至テ帰朝セリ、魏志此事ヲ記シテ曰ク、景初二年六月倭女王遣大夫難升米等郡求天子朝献。倭女王ハ倭奴王ノ誤ニシテ、難升米ハ田道間守ヲ訛レルナリ」とあり、倭女王を倭奴王とするは、殆ど取るに足らざるも、田道間守を難升米とするは従ふべし。

紀によれば田道間守は垂仁天皇の崩じ給ひし翌年、常世国より至り往来の間、十年を経たりとあり。倭人伝によれば難升米が景初三年〈二年とあるは誤なり説下に見ゆ〉に始めて使を奉じ魏に赴きしより、中間帰国の事明らかならず、其の確かに帰りしは正始八年以後魏の使張政等と借にせし時に在り、而して其時卑弥呼​スデ​​以​に死せりとあり、其の往来に九年乃至十年を費せるは明かなり。一は垂仁天皇とし、一は倭姫命とするの差はあれども、使者の境遇は略ぼ相似たり。

伊声耆掖邪狗  倭人伝に此人名を出すこと三処なるが其の始めて出せる時のみ伊声耆抜邪狗とありて、後の二処は、単に掖邪狗とのみありて、伊声耆の字なし。按ずるに伊声者の音はサンと訓むべく、抜邪狗も亦と訓むべし、蓋し魏人が同一の人を両様の対音にて記せる者が、一は重複して記され、一オープンアクセスNDLJP:31 は単に一方のみ記されたるならん。神名帳に出雲国出雲郡阿須伎神社同社神伊佐我神社あり、又同郡に伊佐波神社、伊佐賀神社あり、栗田氏の神祗志料に皆出雲国造の祖、天夷鳥命の子伊佐我命を祀るとせり。此神果して天穂日命の孫ならんには年代合はざるの嫌あれど、出雲国造系図、中臣系図、旧事記の天孫本紀、物部、尾張二氏の系図すべて帝系に比しては、太だ世数の少きを常とすれば、伊佐我命の年代も必ずしも天穂日命を標準とすべからず。且つもし其名にして居地などに取りたらんには、かの命の後裔が其名を襲用せりとも見ることを得べし。因て姑らく伊声者、即ち掖邪狗を以て此命に擬す。

都市牛利  此の人名に就ては、一は田道間守に縁ある者として解することをも得べく、又一は伊佐我命に縁ある者としても解することを得べし。故に上の二者の後に出したり。田道間守に縁ある者としては​ヅシ​​都市​を出石に擬することなり。和名鈔に淡路国津名郡都志〈豆之〉郷あり、此島は天日槍命に縁あれば、此の都志も但馬の出石に縁ありて、イヅシの省略なるべしとの説あり。​ゴリ​​牛利​​ゴリ​​心​の義なり。旧事記天孫本紀に​イヅシゴヽロオホオミノ​​出石心大臣​命あり此命は固より田道間守と何の縁故もあるにあらざれども、出石心といへることが人名として用ひられたる例とする事を得べし。心は紀の神代巻に​タゴリ​​田心​姫とある例にて、牛利に当るを得べければ、天孫本紀とは別人としても​イヅシゴリ​​出石心​、即​ヅシゴリ​​都志牛利​といふ人名は、有り得べし。出石は天日槍以来、田道間守が家の居地なれば、其人が正使たる難升米即ち田道間守に縁あるより、次使として魏国に赴ける事を推定し得べし。伊佐我命に縁ある者としては、神名帳に出雲国出雲郡に都我利​ノ 神社あり、栗田氏の志料に武夷鳥命〈即ち天夷鳥命〉の孫、​ツガリ​​津狡​命を祀るとせり。都志牛利の志を邦語及び韓語に多き助語とせんには、都我利とも音近くなるべし。此も全く舎つべきに非ず。

載斯烏越  載を戴の訛とせば、武内に近しといふ説あれど、今は字を改めずして解釈を試みんに神名帳に出雲国飯石郡須佐神社あり、今須佐郷に在り、又大原郡佐世神社あり、今佐世郷に在り倶に須佐能袁命を祀ると栗田氏の志料に見えたり。此の須佐能袁命をかの素蓋鳴尊とせんには、牽強に近かるべけれども、須佐もしくは佐世の地に居りし名族の名と解せんには不可なかるべし。

オープンアクセスNDLJP:32 卑弥弓呼素  従来此の人名を読むに、多くは素の字をモトヨリの義として、下の不和につけて読めども余は之を上につけて人名の中に入れたり。呼素はコソと訓むべく、国造本紀に見えたる凡河内国造彦己曽保理命の己曽孝徳紀に見えたる​カミコソノ​​神社​福草の、神名帳に見えたる摂津国東生郡比売許曽神社の語曽、垂仁紀二年の註に見えたる難波と豊国国前郡と二処の比売語曽神社の語曽などのコソと同じ様に用ひられし者なるべく、比売語会といへば女性を見はすに対して卑弥弓といへば男性を見はすにもやあらん。卑弥呼と故さらに一字を違へたるもヒメコの意にあらざるが為か。国造本紀には又山背国造に曽能振命ありて、彦已曽保理命とは異人なれども、命名の義は似通ひたるより思ふに、已曽といへるも曽といへるも本義には差なくして此の呼素も襲国の酋長などをや指しけん。

壱与  本伝には邪馬台を邪馬壱と誤りたれば此の与も台与の誤りなるべし。梁書及び北史には並びに台与に作り、宋本御覧には台挙に作れり、証とすべし。卑弥呼の宗女といへば、即ち宗室の女子の義なるが、我が国史にては崇神天皇の皇女、豊鍬入姫〈又豊耜姫命〉の豊といへるに近し。国史にては豊鍬入姫命の方、先に天照大神の祭主と定まりたまひ、後に倭姫命に及ぼしたる体なれども、倭人伝にては倭姫命の前に祭主ありしさまに見えざれば、豊鍬入姫の方を第二代と誤り伝へたるならん。景行天皇の五百野皇女は、倭姫命の職を嗣ぎしさまに、国史に見えたれども、其の名字の音、似ざること遠ければ、之に当つべきやうもなし。

  以上 人名を考証し畢る。

 次に論ずべきは道里なり。白鳥庫吉博士は、最近の考証に於て、道里に関する意見を発表せられたるが、其の大要は帯方郡より女王国に至るまで一万二千余里なるに、其の中間帯方郡より狗邪韓までは水路七千余里、狗邪韓国より末盧国まで水路合して三千余里、末盧より不弥まで陸路合して七百余里なれば水陸合計、已に一万七百余里を算し、剰す所は一千三百余里に過ぎず。此の一万七百余里は我が二百九十余里に過ぎざれば残れる一千三百余里にては大和に達するに足らずといふに在り。然れども当時の道里の記載はかく計算の基礎とするに足るほど精確オープンアクセスNDLJP:33 なる者なりや否や、已に疑問なり。帯方郡より女王国に至るとは、女王之所都なる邪馬台国を指せりや、女王境界所尽なる奴国を指せりや、将た投馬国と邪馬台との接界を指せりや、先づ之を決せざるべからず、女王之所都に至るとせんには、白鳥氏の計算の如くなるべきも、奴国に至るとせんには一万六百余里に過ぎず、もし投馬と邪馬台国の接界を標準とせば、一万二千余里は必ずしも短きに過ぎたりとはすべからず。且つ此道里は海路をば太だ遠く算し、陸路をば比較上近く算したる者なることを認めて、伸縮する所なかるべからざるが上に、下節に述ぶる如く帯方より不弥に至る道里と帯方より女王国までの道里とは、其記者をも記事の時をも異にしたれば、之を一致せしめんこと難かるべし。又当時奴国、不弥国以南にして道里明白ならば、宜しく其の数を記すべきに単に其の行程を日数にて計り、里数を挙げざるを見れば、此間の道里を一万二千余里の中より精確に控除して計算せんことは、杓子定規に近きの嫌あり。故に考証の基礎を地名、官名、人名等に求むるの寧ろ不確実なる道里に求むるよりも安全なるを知るべし。地名を等閑視するの過は、白鳥氏の考証に於て、已に之を見る者あり。氏は魏使が一支より末盧に至れる地点を定むるに、菅氏の説に拠りて松浦郡値嘉島の美禰良久崎に由りし者となせり。値嘉島は今の五島なれば此より陸行して伊都に至るべき理なきことをば注意せられざりしと見ゆ、是れ著しき誤謬なり。余が見る所にては、魏使の上陸地点は、恐らくは松浦郡名護屋附近ならん。仲哀紀に崗県主祖熊鰐天皇を周芳の​サバ​​沙磨​之浦〈即ち佐波にして、本伝の投馬に近き程の処なり。此の沙磨に関しては景行紀及び豊後風土記ともに景行天皇の筑紫征伐の際経由したまひし事を記せり、以て其の古代より舟行必由の地たることを見るべし〉に迎へ奉りて奏せる言の中に、穴門より向津野​ノ 大済に至るを東門とし、名籠屋​ノ 大済に至るを西門とすとあり。名護屋が当時に在りて、要津たりしこと以て知るべく、其壱岐より水路亦最も捷なれば、かくは決せるなり。向津野大済とあるは、周防の上之関、室積あたりに当るべきか。此あたり今は熊毛郡なれども、古は都濃郡とともに角国の中なりしならん。或は熊毛郡を古の周防郡なりしならんと説く者あれども、沙磨之浦が周芳に属するを見れば、周防郡は都濃の西に在りて、東に在らざりしなり。此の都濃即ち向津野の津野と解すべく、向といへるは上之関などの海島にて、都濃の対岸に在る者を指せるならん。余は魏使の投馬以東に於ける上陸地点を此の向津野附近の要津ならんと想定す。道理を考ふるの次で聊か之に及ぶ。

オープンアクセスNDLJP:34  次に此伝を構成せる材料に就て論ずべし。三国志は魏略に拠れること、已に言へる如くなるが、魏略が何等の材料を採用せしかも推定し得べからざるに非ず。余は之を四種に解析せんとす。

、倭人在帯方東南大海之中より使訳所通三十国までは漢書地理志に拠りて、当時の事に及ぼし総叙せる者、是れ一種なり。

、景初三年六月より末尾に至るは、是れ当時官府の記録に拠れる者、是れ又一種なり。

、倭使の始めて帯方郡に詣りし時、之に本国の事情を訊問し、加ふるに漢書の如き前代の記録を参考して作れる記事、是を第三種とす。余は伝中、左の各節を以て此の性質の者と断定す。

次有斯馬国より与儋耳朱崖同に至る一節。(い)

其行来渡海詣中国より持衰不謹に至る一節。(ろ)

其会同坐起より人性嗜酒に至る一節。(は)

参問倭地より五千余里に至る一節。(に)

、魏使が倭国に至り親しく見聞せる所を記せる者、是を第四、種とす。即ち左の各節なり。

従郡至倭より旁国遠絶不詳に至る一節。(イ)

倭地温暖より以如練沐に至る一節。(ロ)

真珠青玉より視火坼兆に至る一節。(ハ)

大人所_敬より船行一年可至に至る一節。(ニ)

 一種と二種とは弁証を要せず。三種四種をかく解析せる標準は、一には三種に属する記事が多くは倭より郡に至る方面より着眼し、四種に属する記事が多くは郡より倭に至る方面より着眼せるの別あるに由る。二には次有某国云々といへる国名の排列が大和の王畿附近、特に伊勢を起点として、次を逐て最後に及べるに、従郡至倭云々といへる国名の排列は、之と全く反対の排列を為せるに由る。三には記事に重複ありて、属辞に脈絡なく即ち三種の(い)節、風俗不淫の句が四種の(ニ)節、婦人不淫不妬等の句と重複し、三種の同節、禾稲紵麻以下、箭鏃に至る物産が四種の(ハ)節に記せる物産と脈絡相属せず四種の(ハ)節、父母兄弟云々の句、三種の(は)節会同オープンアクセスNDLJP:35 坐起云々の句と脈絡相属せざるが若きに由る。又

夏后少康之子。封於会稽。断髪文身。避蛟龍之害。(三種い節)

とあるは、漢書地理志に粤地の事を記せる文を襲用し、

〈[#底本では直前の返り点「二」は返り点「レ」]〉衣如単被。穿其中央。貫頭衣之。種禾稲紵麻〈[#底本では直前に返り点「一」なし]〉。蚕桑緝績。――其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛楯木弓。――竹箭――或骨鏃。(同節)

とあるは、大要漢書地理志の儋耳珠崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雑へて古書の記せる所に附会せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。最後の参問云々も亦然りとす。

次に零砕なる字句の異同を校訂して以て、此章を終ふべし。

注に魏略を引きて正歳四とあるを宋本にはに作り春耕秋収とあるを宋本にはに作れり、従ふべし。

重者其門戸及を宋本はに作れり亦従ふべし。

其国本亦以男子王。住七八十年。倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子王。

名曰卑弥呼。此数句異同甚だ多し。後漢書には前にも引ける如く、

建武中元二年。倭奴国奉貢朝賀。使人自称大夫。倭国之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年。倭国王帥升等献生口百六十人。願請見。桓霊間倭国大乱。更相攻伐。歴年無主。有一女子。名曰卑弥呼

に作れるが、隋書、通典は全く後漢書に拠り、北史は桓霊間霊帝光和中に作り、余は後漢書に同じ、梁書は漢霊帝光和中に作ることは北史と同じく、歴年の下に 二字なきことは三国志に同じ、宋本御覧は三国志を引きて住七八十年を霊帝光和中に作れり。因て思ふに魏略の原文は建武中元より願請見に至るまでは、後漢書に同じく、次に漢霊帝光和中とありて倭国乱相攻伐歴年以下は三国志に同じかりしならん。三国志が本亦以男子為王といへるは、中元、永初二次朝貢せる者が男王なりしを以て、略してかく改めたるなるべく、又永初より光和までを算して住七八十年の句を作りしなるべし。霊帝光和中を桓霊間と改めたるは、改删を好める范曄の私意に出でたること明かに、歴年の下に無主の二字を加へたるなどは、全く范曄の妄改の結果と見えたり。宋本御覧が三国志を引て霊帝光和中の句を残せるは、当時の異本或はかく作りし者ありけん。

オープンアクセスNDLJP:36 景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭国、諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり。

 
五、結論
 

已上の各章に於て、魏書倭人伝の

邪馬台とは大和朝廷の王畿なるべきこと

女王卑弥呼とは倭姫命なること、

は粗ぼ論じ尽せり。但だ其の魏と交通せる時期が我が国史に於て、如何なる時代に相当するかは、尚ほ未だ語て詳かならざるの憾あり。少しく之を補て以て此の考説を結ばんとす。

 余は女王国が狗奴国と相攻撃せりといふによりて、其の時期を景行天皇の初年、熊襲親征の事に該当する者と断ぜんとす。上古に在て語部が語り継ぎたる史実なりとも、当時の大事を全く語り漏すべき者とは信ぜざるが故に、魏国の記録に著はれたる史実が、我が上古史に全く欠佚せる筑紫女酋の事蹟なりと信じ得ざること、猶かの魏使が筑紫に来りて、全く大和朝廷あることを知らずして帰れることを信じ得ざるがごとし。故に此の魏国まで知れ渡りたる攻撃の事を、景行天皇の御事蹟に当る者と定め、かくて之より下れる世に考へ及ぼすに、神功皇后摂政の期は、那珂通世氏の説の如く、三国史記と神功紀の干支と、続日本紀の菅野真道等の上表とによりて百済近肖古王の時とすること当然なれば、此間凡そ百年にして、景行、成務、仲哀、神功、四朝に弥れば必ずしも荒唐に流れざるべし。又之より上に湖りて漢霊帝光和中の内乱を、崇神、垂仁の二朝に於ける百姓流離。或有背叛〈崇神記六年の語〉により、神祇を崇敬せしこと、武埴安彦の叛、四道将軍の出征、狭穂彦の乱などに当る者とせんには、其間五六十年にして、長短頗る当を得る者の如し。是れ我が古史の紀年を定むるに於て亦甚だ有益なる資料たるべきなり。

 今一事の注意すべきは余が考定せる倭国の使人が田道間守以外の諸人も、皆但馬、出雲より出でし人物たることなり。崇神紀六十年に見えたる出雲大神宮の神オープンアクセスNDLJP:37 宝を貢上せしめたること、垂仁紀八十八年に見えたる但馬出石の神宝を献ぜしめたることを併せ考ふるに、神宝の貢献は実に其国の服属を表する者なるべく、此の二国の服属は、始めて大和朝廷の海外交通を容易ならしめて、更に任那の服属を導きたる者なるべし。魏志の記事は任那服属の後なるべきこと巳に説く所の如くなるを以て、其時外交の使命を奉ぜし者が但馬出雲二国の名族たりしことは、事情に於て極めて当然なりと謂ふべし。

 若し倭人伝に見えたる倭国の習俗其他をも旁証し、又諸韓国との関係にも及ばんには、更に闡発を要する者あるべきも、此の考証已に長きに過ぎたるを以て、今皆之を略、別に補考を草するの機を待たんとす。

(以上明治四十三年七月芸文第壱年第四号)


  附記

此の一篇は之を発表せし当時に於て、已に頗る専門学者の注意を惹き起したり。余と同時に白鳥博士は邪馬台九州説を発表せられしが、尋で博士の門人橋本増吉氏は、長篇の論文を史学雑誌に載せて、同じく九州特に筑後川流域説を主持し、以て余が所説を覆さんとせられしも、多くは余と見解の相違より生ぜし異論にして、別に駁議を要すべき所なきを以て、余は敢て之と争はざりき。唯だ余が満足せし一事は、此の一時の議論ありし結果、並時の学者が九州説を定論とせし迷信的意嚮より離脱し、再び近畿説と九州説との両端に就て考慮するに至りしことにして、六七年前、考古学雑誌に於て、已に幾多の議を再発し、有力なる学者にして、復た畿内説を主張せらるゝ人を出すに至り、其の中には九州以東の海路を山陰に考察する説などをも生じたり。之が一定の結論を成すまでには、尚ほ討究を累ねざるべからざること勿論なるも、学者が遠くは本居、鶴峯諸氏の名に震ひ、近くは星野、菅諸先輩の言に雷同せざるに至りしだけにても一の進歩と謂ふべし。今此篇を再び世に問ふに当り、二十年間に於ける史論の変化を回顧して、中懐に根触する所なきを得ず、因て聊か篇末に附言すること此の如し。

余が此篇を出せる直後、已に自説の欠陥を発見せし者あり、即ち卑弥呼の名を考証せる条中に古事記神代巻にある火之戸幡姫児、及び万幡姫児の二つの姫児の字を本居氏に従ひて、ヒメコと読みしは誤にして、平田氏のヒメノコと読みしが正しきことを認めたれば、今の版には之を改めたり。

オープンアクセスNDLJP:38 其外、「到其北岸狗邪韓国」の条下に

 此を以て此記事が任那の我国に服属せる後に出でたるを推すに足るといひ、又篇末に

此の二国(但馬、出雲)の服属は、始めて大和朝廷の海外交通を容易ならしめて、更に任那の服属を導きたる者なるべし。魏志の記事は任那服属の後なるべきこと云々

といひしが、其後余は倭人が支那の戦国の末より漢代に至るまで、半島の南部に定住せしこと、山海経の記する所によつて推定し得られ、姓氏録に載する所、左京皇別吉田連の祖塩乗津彦命が三己汝の地に遣されしは、半島に残存せし倭人が、他族の圧迫に対して、本国に援助を請ひし者なるべしと考ふるに至りしを以て、任那を崇神天皇の時、始めて服属せし如く見ゆべく記せる前説は改訂せざるべからずと考ふるに至れり。

又「対蘇国」の条に、之を近江国伊香郡遂佐郷に擬したれども、村岡良弼氏の日本地理志料に遂佐は遠佐の訛誤ならんとの説当を得たりと考ふれば、改めて之を同国蒲生郡必都佐郷に擬せんとす。延喜式神名帳によれば、本郡に比都佐神社あり、又此地方に鳥坂長峰あるによるなり。

又投馬国につきては、近年之を備後の鞆津に擬する説あるは、余も一考すべき者と考ふ。余が前説は周防の佐波が古代より要津として知れわたりたる地なるに重きを置きたれども、鞆といづれか可なるやは、更に考ふべし。

又西高辻男爵の蔵せらるゝ張楚金の翰苑巻第卅に倭国の条ありて、其中に魏略を引きて「女王之南又有狗奴国」とあり、狗奴国を女王之南とせるは、恐らく魏略の文を誤解せる者ならんも、之によりて後漢書の「自女王国東度海千余里。至狗奴国。」とするの誤は益々明らかなり。

猶ほ参考すべき各論文の略目を左に掲ぐ

白鳥博士「倭女王卑弥呼考」(明治四十三年六月、七月東亜之光第五巻第六号、第七号)

白鳥博士「耶馬台国に就て」(大正十一年七月考古学雑誌第十二巻第十一号)

橋本増吉氏「耶馬台国及び卑弥呼に就て」(明治四十三年十月、十一月、十二月史学雑誌第弐拾壱編第拾号、第拾壱号、第拾弐号)

高橋健自博士「考古学上より観たる耶馬台国」(大正十一年一月考古学雑誌第十二巻第五号)

三宅米吉博士「耶馬台国に就て」(大正十一年七月考古学雑誌第十二巻第十一号)

オープンアクセスNDLJP:39 笠井新也氏「耶馬台国は大和である」(大正十一年三月考古学雑誌第十二巻第七号)

笠井新也氏「卑弥呼時代に於ける畿内と九州との文化的並に政治的関係」(大正十二年三月考古学雑誌第十三巻第七号)

笠井新也氏「卑弥呼即ち倭迹々日百襲姫命」(大正十三年四月考古学雑誌第十四巻第七号)

中山太郎氏「魏志倭人伝の土俗学的考察」(大正十一年三月、五月、八月考古学雑誌第十二巻第七号、第九号、第十二号)

山田孝雄氏「狗奴国考」(大正十一年四月、五月、六月、七月、八月考古学雑誌第十二巻第八号、九号、十号十一号、十二号)

志田不動広氏「耶馬台国方位考」(昭和二年十月一日史学雑誌第参拾八編第拾号)

以上八氏中、九州説は白鳥博士と橋本氏とにして、余の六氏は近畿説なり。

(昭和三年十二月記)

 
 

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