半七捕物帳 第六巻/川越次郎兵衛

川越次郎兵衛(かわごえのじろべえ)

編集
四月の日曜と祭日、二日つづきの休暇を利用して、わたしは友達と二人連れで川越(かわごえ)の喜多院(きたいん)の桜を見物して来た。それから一週間ほどの後に半七老人を訪問すると、老人は昔なつかしそうに云った。
「はあ、川越へお出(い)ででしたか。わたくしも江戸時代に二度行ったことがあります。今はどんなに変りましたかね。ご承知でもありましょうが、川越という土地は松平大和守(まつだいらやまとのかみ)十七万石の城下で、昔からなかなかの繁昌の町でした。おなじ武州(ぶじゅう)の内でも江戸からは相当に離れていて、たしか十三里と覚えていますが、薩摩芋(さつまいも)でお馴染(なじみ)があるばかりでなく、江戸との交通はすこぶる頻繁の土地で、武州川越といえば女子供でもその名を知っているくらいでした。あなたはどういう道順でお出でになりました……。ははあ、四谷(よつや)から甲武(こうぶ)鉄道に乗って、国分寺(こくぶんじ)で乗り換えて、所沢(ところざわ)や入間川(いりまがわ)を通って……。成程、陸(おか)を行くとそういう事になりましょうね。江戸時代に川越へ行くには、大抵は船路でした。浅草(あさくさ)の花川戸(はながわど)から船に乗って、隅田川(すみだがわ)から荒川(あらかわ)をのぼって川越の新河岸(しんかし)へ着く。それが一昼夜とはかかりませんから、陸を行くよりも遥かに便利で、足弱の女や子供でもほとんど寝ながら行かれると云うわけです。そんな関係からでしょうか、江戸の人で川越に親類があるとか云うのはたくさんありました。例の黒船一件で、今にも江戸で軍(いくさ)が始まるように騒いだ時にも、江戸の町家(まちや)で年寄りや女子供を川越へ立退かせたのが随分ありました。わたくしが世話になっている家でも隠居の年寄りと子供を川越へ預けると云うので、その荷物の宰領や何かで一緒に行ったことがあります。花の頃(ころ)ではありませんでしたが、喜田院や三芳野(みよしの)天神へも参詣(さんけい)して来ました。今はどうなったか知りませんが、その頃は石原町(いしはらちょう)というところに宿屋がならんでいて、江戸の馬喰町(ばくろちょう)のような姿でした」
老人の昔話はそれからそれへと続いて、わたしたちのようにうっかりと通り過ぎて来た者は、かえって老人に教えられることが多かった。そのうちに、老人はまた話し出した。
「いや、この川越に就いては一つのお話があります。あなたがたはむかしの書き物を調べておいでになるから、定めてご承知でしょうが、江戸城大玄関先の一件……。川越の次郎兵衛(じろべえ)の騒ぎです。あれもいろいろの評判になったものでした」
「川越の次郎兵衛……何者です」
「ご承知ありませんか。普通は次郎兵衛と云い伝えていましたが、ほんとうは粂次郎(くめじろう)という人間で……」
どちらにしても、わたしはそんな人物を知らなかった。それに関する記録を読んだこともなかった。
「ご存じありませんか」と、老人は笑った。「なにしろ幕府の秘密主義で、見すみす世間に知られていることでも、成るべく伏せて置くという習慣がありましたから、表向きの書き物には残っていないのかも知れませんな。いつぞや『金の蠟燭(ろうそく)』というお話をしたことがありましょう。その時に申上げたと思いますが、江戸城の御金蔵破り……。あの一件は安政(あんせい)二年三月六日の夜のことで、藤岡藤十郎(ふじおかとうじゅうろう)と野州(やしゅう)無宿の富蔵(とみぞう)が共謀して、江戸城内へ忍び込み、御金蔵を破って小判四千両をぬすみ出したので、城内は大騒ぎ、もっぱらに秘密にその罪人を詮議(せんぎ)している最中、その翌日、すなわち三月七日の昼八ツ(午後二時)頃に、どこをどうはいって来たのか、ひとりの男が本丸の表玄関前に飄然(ひょうぜん)と現われて、詰めている番の役人たちにむかって「今日(こんにち)じゅうに天下を拙者に引渡すべし。渡さざるに於(お)いては天下の大変出来(しゅったい)いたすべしと、昨夜の夢に東照宮(とうしょうぐう)のお告げあり、拙者はそのお使にまいった」と、まじめな顔をして、多き声で呶鳴(どな)ったから、役人たちもおどろきました。
その男は手織縞(ておりじま)の綿入れを着て、脚絆(きゃはん)、草鞋(わらじ)という扮装(いでたち)で、手には菅笠(すげがさ)を持っている。年のころは三十前後、どこかの国者(くにもの)であることはひと目に判(わか)ります。こんな人間が江戸城の玄関へ来て、天下を渡せなどと云う以上、誰(だれ)が考えても乱心者としか思われません。この時代でも、相手が気違いとなれば役人たちの扱いも違います。本気の者ならばすぐに取押えて縄をかけるのですが、気違いである上に、仮にも東照宮のお使と名乗る者を、あまり手荒くすることも出来ない。ともかくも一応はなだめて連れて行って、それから身許(みもと)その他の詮議をしようとすると、男はなかなか動かない。東照宮を笠(かさ)に着て、なんでも天下を渡せと強情に云い張っているので、役人たちも持て余しました。
場所が場所ですから、こんな人間をいつまでも捨てて置くわけには行きません。宥(なだ)めても賺(すか)しても肯(き)かない以上、いくら気違いでも、東照宮のお使でも、穏便に取扱っていては果てしが無い。二人の役人が両手を取って引立てようとすると、そいつは力が強くて自由にならない。とうとう大勢が駈(か)け集って暴(あば)れる奴(やつ)を押え付けて縄をかけてしまいました。まったくこうするよりほかはありません。本人は口を結んでなんにも云いませんが、その笠の裏に武州川越次郎兵衛と書いてありました。
してみると、川越藩の領分内の百姓に相違あるまいと云うので、早速にその屋敷へ通知して、次郎兵衛を引取らせる事になりました。昔はどうだったか知りませんが、幕末になっては相手が乱心者と判っていれば、余りむずかしい詮議もありませんでした。川越の屋敷でも迷惑に思ったでしょうが、武州川越と笠に書いてあるのが証拠で、自分の領内の者を引取らないと云うわけには行きません。殊にそれがご城内を騒がしたのですから、恐縮して連れ帰ることになりました。
そこで、第二の問題は、その次郎兵衛がどうして表玄関まで安々と通りぬけて来たかと云うことで、途中の番人も当然その責任を免かれない筈(はず)です。そうなると、ここに大勢の怪我人(けがにん)ができる。それも宜(よろ)しくないと云うので、かの次郎兵衛は天から落ちて来たという事になりました。いや、笑っちゃあいけない。昔の人はなかなか巧いことを考えたものです。つまり彼(か)の次郎兵衛は天狗(てんぐ)に攫(さら)われて、川越から江戸まで街を飛んで来て、お城のなかへ落されたと云うわけです。こうなれば、誰にも落度は無い。天狗を相手に詮議も出来ないから、所詮(しょせん)はうやむやに済んでしまいました。
そうすると、今度は川越の屋敷から本人を突き戻すと云って来ました。成程その笠には武州川越次郎兵衛と書いてあるが、屋敷へ連れ帰って調べてみると、彼が所持する臍緒書(ほぞのおがき)には野州宇都宮(うつのみや)在、粂蔵(くめぞう)の長男粂次郎とある。それが本当だと思われるから、当屋敷には係り合いの無い者であると云うのです。そう云えばその通りで、手に持っていた笠を証拠とするか、肌に着けている臍緒書を証拠にするかと云うことになれば、まず臍緒書を確かなものと認めるよりほかはありません。笠は他人の笠を借りることが無いとは云えない。また粗相で取違えることもある。しかし他人(ひと)の臍緒書を身に着けているなぞは滅多に無いことです。なにしろ川越の屋敷の云うことも一応の理窟が立っているので、こちらでも押返しては云えません。天狗の本元争いをすれば、宇都宮の人間が日光(にっこう)の天狗に攫われたと云う方が本当らしいようにも思われます。いずれにしても、本人の身許判然とするまでは、一時当方に預かり置くと云うことになりました。
その日の夕六ツ頃に、町奉行所の指図で八丁堀(はっちょうぼり)同心坂部治助(さかべじすけ)、これは『大森の鶏』でおなじみの人です。この坂部という人が、丁度そこに来あわせていた住吉町(すみよしちょう)の竜蔵(たつぞう)の子分二人を連れて、川越藩の中屋敷へ受取りにゆくと、その帰り途(みち)で次郎兵衛が暴れ出した。それを取鎮めようとしていると、俄(にわか)に旋風(つむじ)がどっと吹いて来て、あたりは真っ暗、そのあいだに次郎兵衛のすがたが見えなくなってしまったと云うのです。これも前の天狗から思い付いたことで、おそらく油断をして縄抜けをされたのでしょう。縄抜けでは自分たちの落度になるから、これも旋風にこじつけたものと察せられます。前が天狗で、後が旋風、こういうことで何とか申訳が立つのですから、今から思えば面白い世の中でした。
これで済んでしまえば、何が何やら判らずじまいです。それにしても江戸城表玄関に立ちはだかって、天下を即刻拙者に引渡すべしと呶鳴ったなぞは、権現(ごんげん)さま以来ただの一度もない椿事(ちんじ)ですから、その噂󠄀(うわさ)は自然に洩(も)れて、たちまちぱっと世間に拡がりました。そいつも御金蔵破りの同類で、白昼大胆にも表玄関先から忍び込もうとしたのだなぞと、尾鰭(おひれ)を添えて云い触らす者もある。川越の屋敷から受取った以上、取逃したのはこちらの責任で、表向きは旋風で済んでも、坂部さんは不首尾です。そこで内証(ないしょ)でわたくしを呼んで、その次郎兵衛のゆくえを探し出してくれ、それで無いと、自分の顔が立たないと云うのです。
しかし、坂部さんは縄抜けを正直に云いません。どこまでも旋風に巻いて行かれたように話しているのです。わたくしの方でも大抵は察していますから、野暮は詮議もしませんが、さてどこから手を着けていいか見当が付きません。笠に書いてある川越次郎兵衛、臍緒書の粂次郎、この二人の身許を探るのがまず一番の近道ですが、今と違って汽車は無し、十里以上離れた土地になると、その探索がなかなか不便です。
そんな事でぐずぐすしているうちに、それからそれへと御用が湧(わ)いて来るので、旅へ出るような暇がありません。もう一つには、その次郎兵衛という奴は気ちがいらしい。折角苦労して探し当てたところで、やっぱり気違いであったと云うのでは、どうも張合いがない。坂部さんには気の毒ですが、思い切って働いてみようという気も出ないので、かたがた一旦延ばしになってしまったのです。ところがあなた……。世の中というのは不思議なもので、その次郎兵衛とわたくしとは、どこまでも縁が離れないのでした」


『金の蠟燭』の一件も片付き、ほかの仕事も片付いたのは、四月の二十日過ぎである。少しくからだに暇が出来たので、宇都宮か川越へ踏み出してみようかと、半七は思った。
外神田(そとかんだ)に万屋(よろずや)という蠟燭屋がある。そこは義父(おやじ)の代から何かの世話になって、今でも出入りをしている店であるので、半七はその前を通ったついでに、無沙汰(ぶさた)ほどきの顔を出すと、番頭の正兵衛(しょうべえ)が帳場に坐(すわ)っていた。半七も店に腰をかけて、世間話を二つ三つしているうちに、正兵衛は声をひそめて云った。
「ねえ、親分。この頃はお城のなかにいろいろの事があるそうですね」
金甌破りは勿論(もちろん)、東照宮のお使一件も、皆ここらまで知れ渡っているのである。半七もまずいい加減に挨拶(あいさつ)していると、正兵衛はまた云った。
「お城のお玄関に突っ立った男は、川越の次郎兵衛というのだそうですね」
おそらくお城坊主などが面白半分に吹聴(ふいちょう)するのであろうが、世間ではもう次郎兵衛の名まで知っているのかと、半七もいささか驚いていると、正兵衛は続けてささやいた。
「ご承知でもありましょうが、この町内の番太郎(ばんたろう)に要作(ようさく)というのが居ります。女房はお霜(しも)と云いまして、夫婦ともに武州川越在の者で、八年ほど前からここの番太郎を勤めて居りますが、二人ながら正直者で町内の評判もよろしゅうございます。その要作に次郎兵衛という弟がありまして……」
川越の次郎兵衛、その名を聞かされて半七も俄に眼をひからせた。
「それじゃあ何ですかえ。町内の番太郎は川越の者で、弟は次郎兵衛と云うのですかえ」
「実はその次郎兵衛が江戸へ奉公したいと云って、川越から三月の節句に出て来ましたそうで……。それが五日の日から行方が知れなくなりました」
「番太郎の兄貴の家にいたのですね」
「そうでございます。兄を頼って来ましたので、要作から手前どもに話がありまして、こちらのお店(たな)で使ってくれないかと云う事でしたから、ともかくも主人と相談してみようと返事をして置きますと、その本人がすぐに姿を隠してしまいましたので、兄の要作もひどく心配して居ります」
「お前さんはその次郎兵衛という男に逢(あ)いましたかえ」と、半七は訊(き)いた。
「表向きに名乗り合いはしませんが、番太郎の店にいるのをちらりと見たことがございます。年は十九だそうですが、色のあさ黒い、眼鼻立ちのきりりとした、田舎者らしくない男で、あれなら役に立ちそうだと思って居りましたが……」
「国へ帰ったという報(しら)せも無いのですか」
「報せも無いそうです。もっとも、要作夫婦も忙がしいからだですから、ただ心配するばかりで、別に聞きあわせてやると云うこともしないようですが……」
その以上のことは番頭も知らないらしかった。しかし、それだけの事を偶然に聞き出したのは、意外の掘出し物である。江戸城へはいりこんだ本人は、川越の次郎兵衛でなく、宇都宮の粂次郎であるらしいが、いずれにしても笠の持ち主を見つけ出せば、それから惹(ひ)いてその本人を突き留めることも出来る。半七はよろこんで万屋の店を出た。
四月になって、番太郎の店でも焼芋を売らなくなった。駄菓子とちっとばかしの荒物をならべている店のまえに立つと、要作は町内の使でどっこへか出たらしく、女房のお霜が店番をしていた。それを横目に見ながら、半七は隣りの自身番へ入ると、定番(じょうばん)の五平(ごへい)があわてて挨拶した。
「早速だが、ここの番太の夫婦はどんな人間ですね。川越の生れだそうですが……」
「へえ」と、五平は俄に顔を曇らせた。「なにかのお調べですか」
「御用だ。正直に云ってくれ」
「要作は三十一で、女房のお霜はたしか二十八だと思います。川越の者に相違ございません」
「要作には次郎兵衛という弟があるそうだね」
「要作の弟ではございません。女房の弟だと聞いていますが……」と、五平はいよいよ迷惑そうな顔をしていた。
自身番の者も城中の一件を知っているのである。川越の次郎兵衛のことも知っているらしい。しかもそれが番太郎の親類縁者であると云うことが発覚すると、その時代の習いとして一町内がいろいろの迷惑を蒙(こうむ)るおそれがあるので、努めてそれを秘密にしているのであろうと、半七は推量した。
「いや、心配する事はあるめえ」と、半七は笑いながら云った。「お城の一件は次郎兵衛じゃあねえらしい」
「でも、笠に書いてあったという噂󠄀で……」と、五平は釣り込まれて口をすべらせた。
「笠は次郎兵衛の物だろうが、その本人じゃあねえようだ。第一に年頃が違っている。誰かが次郎兵衛の笠を持っていたらしい。そうと決まれば別に心配することはねえ、せいぜい叱(しか)られるぐらいの事で済むわけだ」
「そうでしょうね」と、五平もやや安心したように首肯(うなず)いた。「しかし、親分、その次郎兵衛のゆくえが知れないので心配しているのです」
「むむ、そうだ」と、半七もうなずいた。「ここへ次郎兵衛が出て来て、その笠は誰に貸したとか、どこで取られたとか、はっきり云ってくれれば論はねえのだが、行くえが知れねえには困ったな。なんにも心あたりはねえのかね」
「番太の夫婦も心あたりがないと云っています。なにしろ八年も逢わずにいた者が不意に出て来て、また不意に消えてしまったのですから、まったく天狗にでも攫われたようなもんで、なにが何だか判らないそうです。成程そうかも知れません」
「十九と云えば、もう立派な若え者だ。いくら江戸に馴(な)れねえからと云って、まさかに迷子になりもしめえ。たとい迷子になっても、今まで帰らねえという理窟はねえ。なにか姉夫婦と喧嘩(けんか)でもして、飛び出したのじゃあねえか」
「いや、それですよ。要作は隠していますが、女房がちょいと話したところでは、次郎兵衛は義理の兄とすこし折合わない事があったようです。本人は江戸へ出て、武家奉公でもするつもりであったらしいのを、要作が承知しない。おまえたちが武家に奉公すると云えばまず中間だが、あんな折助の仲間にはいってどうする。奉公するならば、堅気の商人の店へはいつて辛抱しろと云う。それがまた、次郎兵衛の気に入らないので、そこに何か捫着(もんちゃく)があったようですから、若い者の向う見ずにどこへか立去ってしまったのかも知れません。しかし江戸にはこれぞという知りびとも無し、本人も初めて出て来たのですから、ほかに頼って行く先も無い筈だと云います。そのうちにお城の一件が知れたので、要作夫婦は蒼(あお)くなって、どうぞ自分たちに難儀のかからないようにと、神信心や仏参りをして、可哀そうなくらいに心配しています。あの夫婦はこの町内に八年も勤め通して、何ひとつ不始末を働いたこともないのに、飛んだ弟がだしぬけに出て来て、まかり間違えばどんな巻添えを受けないとも限らないので、わたしたちも共ども心配しているのですが……」
五平は同情するように云った。
「そりゃあ本当に可哀そうだ」と、半七も顔を顰(しか)めた。「だが、今も云う通り、次郎兵衛は笠だけの事らしいから、あんまり心配しねえがいいと、番太の夫婦にも云い聞かせて置くがよかろう」
「そうすると、次郎兵衛には係り合いが無くって、ただその笠を誰かに持って行かれたと云うだけの事なのでしょうか。それが本当なら、要作も女房もどんなに喜ぶか知れません。そこで親分。実はまだこんな事もあるのですが……」と、五平は表を窺(うかが)いながらささやいた。「日は忘れましたが、なんでも先月末だと思います。わたしがこの店の先に出ていると、年頃は三十四五の小粋な年増(としま)が来かかって、隣りの店を指さして、あれが番太の要作さんの家かと訊きますから、わたしはそうだと教えてやると、女は外から様子を窺っていて、やがて店へはいつて行きました。あんな女が番太をたずねて来るのも珍らしいと思って、わたしもそっと覗(のぞ)いていると、女房が何か応答しているようでしたが、それがだんだんに喧嘩腰のようになって、なにを云っているのかよく判りませんでしたが、まあ、叩(たた)き出すようなふうで、その女を追い帰してしまいました。あとで女房に訊きますと、あれは門(かど)違いで尋ねて来たのだから、そのわけを云って帰したと云っていましたが、どうもそうじゃあ無いようで……。今まであんな女を見たことはありませんから、もしや次郎兵衛の係り合いじゃあ無いかとも思うのですが……。はっきり聞えませんでしたが、その女も女房も次郎兵衛という名を云っていたように思います」
「その女は、江戸者かえ、他国者かえ」と、半七は訊いた。
「江戸ですね。いや、それに就いてまだお話があります。その晩、もうすっかり暮れ切ってしまってから、十七八の娘がまた隣りへ尋ねて来ました。私はそのとき奥で夕飯を食っていましたが、手伝いの三吉(さんきち)の話では、これも女房に叱られて追い出されたそうです。容貌(きりょう)は悪くないが、丸出しの田舎娘で、泣きそうな顔をして出て行ったそうで……。これも隣りの女房はわたしたちに隠しているので、詳しいことは判りません」
こうなると、どうしても隣りの女房を一応詮議するのが当然の順序である。
「じゃあ、番太の女房を呼んでくれ」と、半七は云った。


五平に連れられて、番太郎の女房が来た。お霜は二十七八で、眼鼻立ちも醜くなく、見るからに甲斐(かい)がいしそうな女であった。彼女(かれ)は半七を御用聞きと知って、あがり口の板の間にかしこまった。
「いや、そんな行儀よくするにゃあ及ばねえ」と、半七は頤(あご)で招いた。「まあ、ここへ掛けて、仲よく話そうじゃあねえか」
「親分に訊かれたことは、なんでも正直に云うのだぜ」と、五平もそばから注意した。
「次郎兵衛はおめえの弟で、川越から江戸へ奉公に出て来たのだね」と、半七は訊いた。「それが三月の三日に来て、五日から行くえが知れなくなったと云うのは、本当かえ」
「はい。五日の夕方にどこへかふらりと出て行きました。それぎり音も沙汰もございません」と、お霜は答えた。
五平の話したとおり、本人は屋敷奉公をしたいと云い、要作は町奉公をしろと云い、その衝突から飛び出したのであろうと、彼女は云った。しかし弟は年も若し、初めて江戸へ出て来たのでるから、むやみに家を飛び出しても、ほかに頼る先はない筈である。さりとて故郷へ帰ったとも思われず、どうしているか案じられてならないと、彼女は苦労ありそうに云った。
番太郎へたずねて来た二人の女に就いて、彼女はこう説明した。
「三月二十八日のお午過(ひるすぎ)でございました。浅草の者だと云って、粋な風体(ふうてえ)の年増の人が見えまして、次郎兵衛に逢いたいと云うのでございます。まさかに家出をしましたとも云えませんので、まあいい加減にことわりますと、向うではわたくしが隠しているとでも疑っているらしく、強情に何のかのと云って立去りませんので、わたくしもしまいには腹が立って来まして、つい大きい声を出すようにもなりました」
「女はとうとう素直に帰ったのだな」と、半七は訊いた。
「はい。帰るには帰りましたが、帰りぎわに何だか怖いことを云って行きました」
「どんなことを云った」
「あの人にそう云ってくれ。わたしは決しておまえを唯(ただ)で置かない。それが怖ければ、浅草へたずねて来いと……」
「その女は江戸者だな」
「着物から口の利き方まで確かに下町の人で、なにか水商売でもしている人じゃあないかと思います。初めて江戸へ出て来た弟がどうしてあんな人を識(し)っているのかと、まったく不思議でなりません」
「おめえの弟は田舎者でもきりりとしていると云うから、素早く江戸の女に魅(み)こまれたのかも知れねえ」と、半七は笑った。「女は浅草とばかりで居どころを云わねえのだな」
「云いませんでした。次郎兵衛は知っているのでございましょう」
「それから、また別に若(わけ)え女が来たと云うじゃあねえか。それはどうした」
「それは、あの……」と、お霜は云い淀(よど)んだように眼を伏せた。
「それはおめえも識っている女だな。おなじ村の者か」
お霜はやはり俯向(うつむ)いていた。
「なぜ黙っているのだ。その女は弟のあとを追っかけて来たのか」と、半七は畳かけて訊いた。
「いえ、そういうわけでは……」と、お霜はあわてて打消した。
「それにしても、おめえも識っている女だろう。名はなんと云うのだ」
「お磯(いそ)と申しまして、おなじ村の者ではございますが、家が離れて居りますのと、わたくしどもは久しい以前に村を出ましたのでよくは存じません。親の名を云われて、初めて気がついたくらいでございます。これも江戸へ奉公に出て来て、浅草の方にいるとばかりで、詳しいことを申しませんでした」
「これも浅草か」
「これもやはり弟に逢わせてくれと申しまして、なかなか素直に帰りませんのを、わたくしが叱って追い帰しました」
「おめえの弟はよっぽど色男らしいな」と、半七はまた笑った。「年増に魅こまれ、娘に追っかけられ、あんまり豊年すぎるじゃあねえか。それだから天狗に攫われるのだ。そうして、女二人はそれぎり来(こ)ねえのか」
「まいりません」と、お霜ははっきり答えた。「それぎりでふたたび姿を見ません」
「お磯の親はなんと云うのだ」
「駒八(こまはち)と申します」
駒八は相当の農家であったが、いろいろの不幸つづきで今は衰微しているという噂󠄀であると、お霜は付け加えて云った。
「じゃあ、まあ、きょうはこの位にしよう」と、半七は云った。「おめえは今度のことに就いて、亭主と夫婦喧嘩でもしやあしねえか」
お霜は黙っていた。
「弟の肩を持って、亭主と喧嘩でもしやあしねえか。ふだんもそうだが、こういう時に夫婦喧嘩はなおさら禁物だ。仲好くしねえじゃあいけねえぜ」
「はい」と、お霜は口のうちで答えた。
次郎兵衛は勿論、ほかの女たちが立廻ったならば、すぐにここの自身番へとどけろと云い聞かせて、半七はここを出た。それから半町ほども行くと、八丁堀の坂部治助に出逢った。坂部は市中見廻りの途中であった。
「半七。天狗はどうしてくれるのだ。不人情なことをするなよ」と、坂部は笑いながら行き過ぎた。
冗談のように云ってはいたが、坂部は半七の怠慢を責めたのである。不人情と責められては、いよいよ捨て置かれなくなったので、彼はその晩、子分の亀吉(かめきち)を自宅へ呼び付けた。
「おい。ご苦労だが、二、三日の旅だ。船に乗ってくれ」
「船へ乗ってどこへ行きます」
「花川戸から乗るのだ」
「川越ですか」と、亀吉はうなずいた。「なにか見当が付きましたかえ」
半七からきょうの話を聞かされて、亀吉はまたうなずいた。
「ようがす。そんな事なら訳はありません。わっし一人で行って来ましょう」
「二人で道行(みちゆき)するほどの事でもあるめえ。よろしく頼むぜ」
相当の路用を渡されて亀吉は帰った。あくる日の午過ぎに、半七はふたたび外神田の自身番を見まわると、五平は待ちかねたように訴えた。
「どうも困ったものです。きのうもおまえさんにあれほど云い聞かされたのに、番太の女房はゆうべも夫婦喧嘩をはじめて、女房はどこへか出て行ってしまったそうで……」
「きょうになっても帰らねえのか」
「帰りません。亭主の要作も心配して、もしや身を投げたのじゃあ無いかと、町内の用を打っちゃって置いて、朝から探して歩いているのです」
「仕様がねえな」と、半七は舌打ちした。
五平の話によると、お霜は八年振りに尋ねて来た弟をひどく可愛がっているらしく、その肩を持って亭主と衝突することがしばしばある。次郎兵衛の家出も、要作が無理押しに我意を押通そうとしたからである。若い者をあたまから叱り付けて、なんでもおれの云う通りになれと云えば、若い者は承知しない。結局ここを飛び出して、天狗騒ぎなどを惹き起す事にもなったのであると、お霜は亭主に喰(く)ってかかると、要作も黙っていない。本人の為にならない事はあくまでも叱るのが兄の役目で、むやみに家出などをするのは本人の心得違いである。それが為に、おれたちもどんな巻添えの憂き目を見るかも知れない。飛んだ弟を持って災難であると、要作は云う。この喧嘩がたびたび繰返された末に、ゆうべは最後の大衝突となったらしい。
「となりの喧嘩はわたしたちも薄うす知っていましたが、また始まったのかといい加減に聞き流していましたら、飛んだ事になってしまって、親分にも申訳がありません」と、五平は恐縮していた。
まさか死ぬほどの事もあるまいと思うものの、気の狭い女は何を仕出来(しでか)すか判らない。困ったものだと半七も眉をひそめた。


それから足掛け四日目の夕がたに、亀吉が帰って来た。
「親分。大抵のことは判りました」
「やあ、ご苦労。まあ、ひと息ついて話してくれ」と、半七は云った。
「まず本人の次郎兵衛の方から片付けましょう」と、亀吉はすぐに話し出した。「次郎兵衛の家にはおふくろと兄貴がありいまして、まあ、ひと通りの百姓家です。本人は江戸へ出て屋敷奉公をしたいと云うので、二月の晦日(みそか)に家を出て、午の八ツ半(午後三時)の船に乗ったそうです。兄貴が河岸の船場まで送ったと云うから、間違いは無いでしょう」
「二月の晦日に船に乗ったら、明くる日の午頃には着く筈だ。次郎兵衛は三日に姉のところへ尋ねて来たと云う。そのあいだに二日の狂いがある。その二日のあいだに、どこで何をしていたかな。それからお磯の方はどうだ」
「お磯の家は相当の百姓だったそうですが、親父の駒八の代になってから、だんだんに左前になって総領娘のお熊(くま)に婿を取ると、乳呑児(ちのみご)ひとりを残して、その婿が死ぬ。重ねがさねの不仕合せで、とうとう妹娘のお磯を吉原(よしわら)へ売ることになったそうです」
「お磯は売られて来たのか」と、半七はすこしく意外に感じた。「そこで、そのお磯は次郎兵衛と訳があったのか」
「そうじゃあねえと云う者もあり、そうらしいと云う者もあり、そこははっきりしねえのですが、なにしろ仲よく付合っていて、次郎兵衛が江戸へ出るときは、お磯も河岸まで送って来て、何か湿々(じめじめ)していたと云いますから、おそらく訳があったのでしょうね」
「川越辺では今度の一件を知っているのか」
「城下では知っている者もありましたが、在方(ざいかた)の者は知りません。どっちにしても、お城にこんな事があったそうだくらいの噂󠄀で、川越の次郎兵衛ということは誰も知らないようです。本人の親や兄貴もまだ知らないと見えて、みんな平気でいました。近いようでも田舎ですね」
「お磯の勤め先は吉原のどっこだ」
「それがよく判らねえので……」と、亀吉は首をかしげながら云った。「江戸の女衒(ぜげん)が玉(たま)を見に来て、二月の晦日にいったん帰って、三月の二十七日にまた出直して来て、金を渡して本人を連れて行ったそうですが、その勤め先を駒八の家では秘し隠しにしているので、どうも確かには判りません。御用の声で嚇(おど)かせば云わせる術(すべ)もありますが、なにかの邪魔になるといけねえと思って、今度は猫をかぶつて帰って来ました。なに、近いところだから造作はねえ。用があったらまだ出掛けますよ」
「その女衒はなんという奴だ」
「戸沢長屋(とざわながや)のお葉(よう)です」
「女か」
「亭主は化地蔵(ばけじぞう)の松五郎(まつごろう)といって、女衒仲間でも幅を利かしていた奴ですが、二、三年前から中気で身動きが出来なくなりました。女房のお葉は品川(しながわ)の勤めあがりで、なかなかしっかりした奴、こいつが表向きは亭主の名前で、自分が商売をしているのですが、女の方が却(かえ)って話がうまく運ぶと見えて、いい球を掘出して来るという噂󠄀です。年は三十五で、垢抜(あかぬ)けのした女ですよ」
「番太郎へ次郎兵衛をたずねて来たのは、そのお葉だな」
「それに相違ありません。あしたすぐに行ってみましょう」
「むむ。今度はおれも一緒に行こう」
あくる朝の四ツ(午前十時)頃、半七と亀吉は小雨の降るなかを浅草へむかった。戸沢長屋は花川戸から馬道(うまみち)の通りへ出る横丁で、以前は戸沢家の抱え屋敷であったのを、享保(きょうほう)年中にひらいて町家(まちや)としたのである。そこへ来る途中で、馬道の庄太(しょうた)に逢った。
「いい所で逢った。おめえは土地っ子だ。手を貸してくれ」と、半七は云った。
「なんです」と、庄太も摺(す)り寄って来た。
あらましの話を聞かされて、庄太は笑った。
「戸沢長屋のお葉……。あいつならよく識っています。雨の降るのに大勢がつながって出かけることはねえ。わっしが行って調べて来ますよ」
「だが、折角踏み出して来たものだ。どんなところに巣を喰っているか、見てやろう」
三人は傘をならべて歩き出すと、やがてお葉の家の前に出た。小奇麗(こぎれい)な仕舞屋(しもたや)暮らしで、十五六の小女がしきりに行使を拭(ふ)いていた。この天気に格子を磨かせるようでは、お葉は綺麗ずきの、口やかましい女であるらしく思われた。
半七と亀吉とを二、三軒手前に待たせて置いて、庄太はその小女に声をかけようとする処(ところ)へ、お店(たな)の番頭らしい四十五六の男が来かかった。彼は庄太を識っていると見えて、挨拶しながら近寄って何か小声で話していた。
「馬鹿に長(なげ)えなあ。雨の降る中にいつまで立たせて置くのだ。親分、どうしましょう」
「まあ、待ってやれ。なにか大事の用があるのだろう」
やがて庄太は引返して来て、かの男は馬道の増村(ますむら)という大きな菓子屋の番頭宗助(そうすけ)であるが、親分たちにちょっとお目にかかりたいから、ご迷惑でもそこまでお出でを願いたいと云う。それには仔細(しさい)があるらしいから、ともかくも来てくれまいかと云った。
余計な道草を喰うごとになると思ったが、半七らもよんどころなしに付いてゆくと、宗助は三人を近所の小料理屋の二階へ案内した。庄太に紹介されて、宗助は丁寧に挨拶した上に、飛んだご迷惑をかけて相済みませんと繰返して云った。
「実はね、親分」と、庄太は取りなおし顔に云い出した。「今この番頭さんから頼まれた事があるのですが、お前さん、まあ聴いてやってくれませんか」
その尾について、宗助も云い出した。
「ご迷惑でございましょうが、まあお聴きを願いたいのでございます。手前の主人のせがれ民次郎(たみじろう)は当年二十二になりまして、若い者の事でございますから、少しは道楽も致します。どころが、先月以来戸沢長屋のお葉という女が時どきに店に参りまして、若主人を呼出して何か話して帰ります。それがどうも金の無心らしいので、手前も可怪(おかし)く思って居りますと、おとといは見識(みし)らない男を連れて参りまして、相変らず若主人を表へ呼出して、なにか強面(こわもて)に嚇(おど)かしていたようで、二人が帰ったあとで若主人は蒼(あお)い顔をして居りました。あまり不安心でございますから、手前は人のいない所へ若主人をそっと呼びまして、これは一体どういう事かといろいろに訊きましたが、若主人はその訳を打明けてくれませんで、ただ溜息をついているばかりでございます。ご承知でもございましょうが、お葉は松五郎という女衒の女房で、手前どものような堅気な町人に係り合いのあろう筈がございません。それが毎度たずねて来て、なにか無心がましいことを云うらしいのは、どうも手前どもの腑(ふ)に落ちません。年上ではありますが、お葉もちょいと垢抜けのした女でうsから、もしや若主人とどうかしているのではないかと思いまして、それもいろいろ詮議したのでございますが、決してそんな覚えはないと若主人は申します。そうなるといよいよ理窟がわかりません。実を申しますと、若主人はこの頃、京橋(きょうばし)辺の同商売の店から縁談がございまして、目出たく纏(まと)まりかかっております。その矢先へお葉のような女がたびたび押しかけて参りまして、その縁談の邪魔にでもなりましては甚(はなは)だ迷惑いたします。主人夫婦も若主人を詮議いたしましたが、やはり黙っているばかりで仔細を明かしません。あまり心配でございますので、主人とも相談いたしまして、いっそお葉の家(うち)へ行って聞きただした方がよかろう。仔細によっては金をやって、はっきりと埒(らち)を明けた方がよかろう。こういうつもりで唯今(ただいま)出てまいりますと、丁度そこで庄太さんに逢いまして……。庄太さんの仰(おっ)しゃるには、お葉もなかなか喰えない女だから、お前さんたちが迂闊(うかつ)に掛合いに行くと、足もとを見て何を云い出すか判らない。これは親分に一応相談して、いいお知恵を拝借した方がよかろうと申されましたので、お忙がしいところをお引留め申しまして、まことに恐れ入りました」
「そこで、どうでしょう、親分」と、庄太は引取って云った。「なまじいに番頭さんなぞが顔を出すよりも、わっしが名代(みょうだい)に出かけて行って、ざっくばらんにお葉に当ってみた方が無事かと思いますが……」
「そこで、よもやとは思うが、若旦那とお葉とはまったく色恋のいきさつは無いのですね。相手は亭主持ちだから、そこをよく決めて置かないと、事が面倒ですからね」と、半七は宗助に訊いた。
「さあ、わたくしには確かなことは判りませんが……」と、宗助は考えながら答えた。「唯今も申す通り、本人は決してそんな覚えはないと申しております」
女中が酒肴(しゅこう)を運び出して来たので、話はひとまず途切れた。式(かた)のごとくに猪口(ちょこ)の遣り取りをしているうちに、雨はますます強くなった。
「お店(たな)の若旦那の遊び友達はどんな人です」と、半七は猪口をおいて訊いた。
「そうでございます……米屋の息子さん、呉服屋の息子さん、小間物屋の息子さん、ほかに三、四人、どの人もここらでは旧(ふる)い暖簾(のれん)の息子株で、あんまり人柄の悪いのはございません」と、宗助は指を折りながら答えた。
「お葉はおまえさんの店ばかりで、ほかのお友達の家へは行きませんか」
「さあ、どうでございましょうか」
「若旦那はどんな遊び方をします」
「それはよく存じませんが、なんでも太鼓持や落語家(はやしか)の芸人なぞを取巻きに連れて、吉原そのほかを遊び歩いているように聞いて居りますが……」
「大店(おおたな)の若旦那だから、おおかたそんなことでしょうね」と、云いながら半七は少し考えていたが、やがてまた徐(しず)かに云い出した。「じゃあ、番頭さん、ともかくもこの一件はわたくしに任せて下さい。庄太の云う通り、おまえさんが顔を出すと、相手は足許(あしもと)を見て、大きなことを吹っかけるかも知れねえ。そうなると、事が面倒ですから、わたくしの一手で何とか埒を明けましょう。しかし番頭さん、こりゃあどうしても唯じゃ済みそうもねえ。五十両や百両は痛むものと覚悟しておくんなさい」
「はい、はい。それは承知して居ります」
勿論、そのくらいの事は覚悟の上であるから、いつまでもあと腐れのないように宜しくお願い申すと、宗助は云った。


増村の番頭に別れて料理屋を出ると、門(かど)の葉柳は雨にぬれてなびいていた。
「まだ降っていやあがる。親分、これからどうします」と、庄太は訊いた。
「お葉の家(うち)はあと廻しにして、おれが急に思い付いたことがある」と、半七は歩きながら小声で話した。「増村の息子に訊いても口を結んでいるかも知れねえから、その友達を詮議してみろ。近所に呉服屋や小間物屋の遊び仲間があると云うから、それに訊いて廻ったら大抵は判るだろう。その連中が取巻きに連れて歩いている太鼓持や落語家のうちに、素性の変っている奴があるか無いか、それを洗ってくれ。お葉に掛合いを付けるのは、それから後のことだ」
「ようがす。請合いました」
庄太は二人に別れて立去った。
「じゃあ、これで引揚ですかえ」と、亀吉は少し詰まらなそうに云った。「これじゃあ浅草まで酒を飲みに来たようなものだ」
「その酒も飲み足りねえだろうが、まあ我慢しろ。これで、お城の一件もどうにか当りが付きそうに思うのだが……」
「そうですかねえ」
「まだ判らねえか」
「判りませんか」
「じゃあ、まあ、ぶらぶら歩きながら話そうか」
ふたりは吾妻橋の袂(たもと)から、往来の少ない大川端(おおかわばた)へ出て、傘をならべて歩いた。
「実は今、あの番頭の話を聴いているうちに、おれはふいと胸に泛(う)かんだことがある。おめえたちが聴いたら、あんまり夢のような当て推量だと思うかも知れねえが、その当て推量が見事にぽんと当る例がたびたびあるから面白い」
「そこで、今度の当て推量は……」
「まあ、こうだ」と、半七はうしろを見かえりながら云い出した。「お城の一件は、あの息子たちの趣向だな」
「悪い趣向だ。途方もねえ。なんぼ何だってそんなことを……」と、亀吉は問題にならないと云うように笑っていた。
「それだから夢のようだと云っているのだ。おれの当て推量はまあこうだ。おめえも知っているだろうが、この頃は世の中がだんだん変って来て、道楽もひと通りのことじゃあ面白くねえという連中が殖えて来た。三、四年前の田舎源氏(いなかげんじ)の一件なんぞがいい手本だ。みんなひどい目に逢いながら、やっぱり懲りねえらしい。増村の息子をはじめ、その遊び仲間は工面のいい家の息子株だ。大抵の遊びはもう面白くねえ、なにか変った趣向はねえかと云ううちに、誰が云い出したか、たぶん増村の息子だろう、お城の玄関前で踊った奴には五十両やるとか、歌ったやつには百両やるとか、冗談半分に云い出したのが始まりで、おれがやるという剽軽者(ひょうきんもの)があらわれたらしい」
「違(ちげ)えねえ」と、亀吉は思わず叫んだ。「わっしはすっかり忘れていた。そうだ、そうだ。石屋の安(やす)の野郎の二代目だ。親分は覚えがいいな」
今から七、八年以前のことである。神田川(かんだがわ)の河岸にある石屋のせがれ安太郎(たすたろう)が、友達五、六人と清元の師匠の家に寄り集ったとき、その一人が云い出して、桜田門(さくらだもん)の見附(みつけ)の桝形(ますがた)のまん中に坐って、握り飯三つと酒一合を飲み食いした者には、五両の償金を賭(か)けると云うことになった。よろしい、おれがやって見せると引受けたのが安太郎で、ひそかに準備をしているうちに、それが早くも両親の耳にはいって、飛んでもない野郎だと大目玉を喰わされた。勿論その計画は中止されたばかりでなく、そんな奴は何を仕出来すかも知れないと云うので、安太郎はとうとう勘当された。
江戸末期の頽廃期(たいはいき)には、こんな洒落(しゃれ)をして喜ぶ者が往々ある。今度の一件もその二代目ではないかと、半七は想像したのであった。それを聞いて、亀吉も俄に共鳴した。
「親分、夢じゃあねえ、確かにそれですよ。安のような職人とは違って、みんな大店の若旦那(わかだんな)だから、さすがに自分が出て行くと云う者はねえ。取巻きの太鼓持か落語家のうちで、褒美の金に眼が眩(く)れて、その役を買って出た奴があるに相違ねえ。洒落にしろ、悪戯(いたずら)にしろ、飛んだ人騒がせをしやあがるな」
「だが、その太鼓持か落語家は、相当に度胸がなけりゃあ出来ねえ芸だ。まじめじゃあ助からねえと思って、気ちがいの振りをしたのだろうが、川越の屋敷から町奉行所へ引渡される途中で縄抜けをしている。これがまた、誰にでも出来る芸じゃあねえから、なにか素性のあるやつに相違ねえ。庄太に調べさせたら、大抵わかるだろう」
「お葉も係り合いがあるのでしょうね」
「川越の次郎兵衛の笠がある以上、お葉もなにかの係り合いがありそうだ。ともかくもお葉はその一件を知っていて、増村の息子を嚇かしているのだろう。それが、表向きになりゃあ、唯じゃあ済まねえ。本人は勿論、親たちだって飛んだ巻添えを喰うのは知れたことだ。息子も今じゃあ後悔して、蒼くなっているに相違ねえ。そこへ付込んで、お葉は口留め料を強請(ゆす)っている。それも相手を見て、大きく吹っかけているのだろう。よくねえ奴だ」
「お葉と一緒に増村へ行ったという奴は何者でしょう」と、亀吉は訊いた。
「それは判らねえが、あの辺をごろ付いている奴か、女衒仲間の悪い奴だろう。亭主が中気で寝ていると云うから、お葉も男の一人ぐらいは拵(こさ)えているかも知れねえ」
こういう時に、路ばたの露路から不意に飛び出した女がある。彼女(かれ)は傘もささずに、跣足(はだし)で雨のなかを横切って行くのを、半七は眼早く見つけた。
「あ、いけねえ」
半七は傘をなげ捨てて、これも跣足になって駈け出した。今や大川へ飛び込もうとする女の帯が、うしろから半七の手につかまれた。亀吉もつづいて駈け寄ると、露路の中から男と女が駈け出して来た。
「おめえは番太の女房だな。まあ、おちついておれの顔をよく見ろ」と、半七は云った。
半気違いのようになっている女房も、半七と知って急におとなしくなった。あとから追って来たのは、お霜の亭主の要作と、この露路の奥に住んでいるお高(たか)という女であった。
雨のどうにもならないので、人びとはお霜を取囲んで露路の奥へはいった。ここらには囲い者の隠家(かくれが)が多い。お高もその一人で、以前は外神田の番太郎の近所に住んでいて、お霜に洗濯物などを頼んだこともある。お霜は夫婦喧嘩の末に、あても無しに我が家を飛び出して、柳原(やなぎわら)のあたりをうろ付いていると、あたかもむかし馴染のお高に出逢った。
お高はもとより詳しい仔細を知らない。お霜も正直に云わないで、ただひと通りの夫婦喧嘩のように話していた。それにしても一応の意見を加えて自宅へ戻らせるのが当然であるが、お高はお霜に味方して、当分はわたしの家に隠れていろと云った。
心あたりを探し尽くして、もしやとここへ尋ねて来た要作は、女房のすがたを見いだして呶鳴りつけた。お霜も負けずに云いかえした。お高もお霜の加勢をした。女ふたりに云い込められて、逆上(のぼ)せあがった要作は、女房の髪をつかんで滅茶苦茶になぐた。お霜も嚇(かっ)とのぼせて、いっそ死んでしまおうと川端へ飛び出したのである。その頃の大川は身投げの本場であった。
その留め男が半七であると判って、要作もお高も恐縮した。濡れた着物を拭くやら、汚れた足を洗わせるやらして、かれらはしきりに半七に謝った。
「いや、あやまる事はねえ。そこで、番太のかみさん。おめえにもう一度訊きてえことがある」
半七はお霜を二階へ連れてあがると、そこは三畳と横六畳のふた間で、座敷の床の間には杜若(かきつばた)が生けてあった。東向きの縁側の欄干を越えて、雨の大川が烟(けむ)って見えた。その六畳に坐って、彼はお霜と差向いになった。
「もうひと足の所でおめえはどぶんを極めるところだった。それを助けた半七はまあ命の親と云うものだろう」と、半七は笑いながら云った。「命の親に噓(うそ)を云うのは良くねえことだ。これから正直に返事をしてくれねえじゃあいけねえよ」
「はい」と、お霜は散らし髪の頭を下げた。
「いいかえ。嘘を云わねえ約束だよ」と、半七は念を押した。「おめえはこの間、おれに噓をついたね」
「いいえ、そんな」
「下に来ているのは子分の亀吉という奴で、実はきのう川越から帰って来たのだ。おれの方でもひと通りは調べてある。おめえはおれに隠しているが、弟の行くえを知っているのだろうな。きょうは花川戸のお葉のところへも廻って来て、その帰り道で丁度おめえに逢ったのだ。さあ、正直に云ってくれ。おれの方から云って聞かせてもいいが、それじゃあおめえの為にならねえ。おめえの口から正直に種を明かして、このあいだ嘘をついた罪ほろぼしをした方がよかろうぜ。それともどこまでも強情を張って、嘘を云い通すのか」
気嵩(きがさ)のようにでも根が正直者のお霜である。かまをかけられて恐れ入ったらしく、さっきから下げている頭を畳に摺りつけた。
「恐れ入りましてございます」
「次郎兵衛はその後におめえの家へ立廻ったな」
「はい。二十七日の宵に忍んで参りました」
「そうして、どこへ行った」
「どうしても江戸にはいられない。といって、村へ帰ることも出来ない。相州大磯(そうしゅうおおいそ)の在に知りびとがあるから、一時そこに身をかくしていると申しますので、亭主には内証で少々の路用を持たせてやりました」
それを亭主の要作に覚られたのが夫婦喧嘩のもとであり、家出のもとであると、お霜は白状した。
「次郎兵衛はどうしてお葉と懇意になったのだ」と、半七はまた訊いた。
「船のなかで……」と、お霜は答えた。「ご承知でもございましょうが、川越から江戸へ出ますには、新河岸川から夜船に乗ります。その船のなかで懇意になったのだそうでございます」
お磯の身売りについて、お葉は玉の下見に行った。その帰りの船が次郎兵衛と一緒であったので、互いに心安くなった。乗合いは田舎道者(いなかどうじゃ)や旅商人(たびあきんど)、そのなかで年も若く、在郷者には不似合いのきりりとした次郎兵衛の男ぶりがお葉の眼に付いたらしく、船場(せんば)で買った鮨(すし)や饅頭(まんじゅう)などを分けてくれて、しきりに馴れなれしく話しかけた。むかしの夜船は、とかくにいろいろの挿話を生み易いものである。
その一夜をいかに過したか、お霜もよくは知らないのであるが、晦日に川越を立って三月の朔日(ついたち)に花川戸へ着いたお葉は、すぐに次郎兵衛と手を分かつことを好まなかった。自分の家は眼の先にあると云って、ひとまず彼を我が家に連れ込んで、中気で寝ている亭主の手前はなんとか云いつくろったか、ともかくも二日のあいだは次郎兵衛を二階に引留めて置いた。三日の午過ぎに、彼はようよう放たれて出たが、そのときにかの川越次郎兵衛の笠を置き忘れて来たのであった。
奉公先に対する意見の相違で、彼は義兄(あに)の要作と衝突した。もう一つには二、三日後には必ず尋ねて来てくれと、お葉から堅く念を押されているので、次郎兵衛はふらふらと飛び出して戸沢長屋へたずねて行くと、お葉はよろこんで迎えた。しかも自分の家に長く泊めて置くのは亭主の手前もあるので、お葉は近所のおきつという女髪結の二階に次郎兵衛を預けた。自分かいい仕事を見つけてやるから、武家奉公などは止(や)めにしろとお葉も云った。
こんなことで幾日をか夢のように送っているうちに、主婦(あるじ)のおきつがどこからか聞いて来て、江戸城の天狗の一件を話した。証拠の笠に川越次郎兵衛と書いてあったという噂󠄀を聞いて、本人の次郎兵衛は顔色を変えた。早速それをお葉に話して、自分の笠を誰が持出したのかと詮議したが、お葉は一向に知らないと空呆(そらとぼ)けていた。そんなことはちっとも心配するに及ばないと、彼女は平気で澄ましているのであった。
しかも次郎兵衛は安心していられなかった。たとい誰が持出したにもせよ、その笠に自分の名がしるされてある以上、自分も係り合いを逃れることは出来ない。事件が重大であるだけに、どんな重い仕置を受けるかも知れないと、年の若い彼は一途(いちず)に恐れ戦(おおの)いた。近所の湯屋や髪結床でその噂󠄀を聞くたび、彼は身がすくむほどに悸(おび)えた。
そのうちに、一方のお磯の身売りの相談がまとまって、お葉は本人を引取るために再び川越へ出て行ったので、その留守のあいだに次郎兵衛は逃げ出した。恐怖に堪えない彼は、どうしても江戸に落着いていられないのであった。さりとて故郷へも戻られないので、彼は姉のお霜から幾らかの路用を貰(もら)って大磯へ逃げた。
これだけの事を知っていながら、お霜は弟が可愛さに、今まで秘密を守っていたのであった。
「先日のお調べにいろいろ嘘を申上げまして、まことに申訳がございません」と、お霜は再び頭(かしら)を下げた。
「そこで、そのお磯という娘は次郎兵衛と訳があったのか」と、半七は訊いた。
「それは弟もはっきり申しませんでしたが……」と、彼女は答えた。「お磯はお葉という女に連れられて江戸へ出て来ますと、次郎兵衛は姿を隠してしまって、女髪結の二階にはいないので、お葉はおどろいて真っ先にわたくしの家へたずねて参りましたが、先日も申上げました通り、どこまでも知らないと云い切って帰しました。その晩にお磯がまた、お葉の家をぬけ出して尋ねて来まして、自分は今度吉原へ勤めをすることになった。その訳は次郎さんもよく承知しているが、吉原へ行ってしまえばまた逢うことは出来ないから、もう一度逢わせてくれと申します。これもはっきりとは云いませんでしたが、どうも弟と訳があるらしいので、わたくしも可哀そうだと思いましたが、弟のゆく先を話して聞かせるわけには参りません。話したところで、大磯まで逢いに行かれるものでもありませんから、わたくしは心を鬼にして、知らない知らないと云い切って、邪慳(じゃけん)に追い帰してしまいました。お磯は泣いて帰りました」
その夜の悲しい情景を今更おもい起したのであろう、お霜はしくしくと泣き出した。


「お話が長くなりました」と、半七老人は云った。「これで大抵はお判りでしょう」
「そうすると、江戸城の一件は菓子屋の息子達の悪戯なんですか」と、わたしは笑いながら訊いた。
「そうです。悪戯と云うよりも、こんな悪い洒落をして喜んでいたのですね。さっきもちょっと申上げました田舎源氏の一件というのは、堀田原(ほったばら)の池田屋(いけだや)の主人が友達や芸者太鼓持を連れて、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の田舎源氏の扮装(こしらえ)で向島(むこうじま)へ乗出したのです。田舎源氏は大奥のことを書いたとか云うので、非常に事が面倒になって、作者の種彦は切腹したという噂󠄀もあるくらいです。それを平気で、みんな真似(まね)をしたのですから、無事に済む筈はありません。関係者二十六人はみんなお咎(とが)めに逢いました。それでも懲りないで、とかくに変った事をやって見たがる。江戸の人気(じんき)がそんなふうになったのもつまりは江戸のほろびる前兆かも知れません。増村の息子たちもやはりそのお仲間で、向島の大七(だいしち9という料理屋で飲んでいる時に、お城の玄関に立って天下を渡せと云う者があれば、五十両の褒美をやると冗談半分に云い出したのが始まりで、それを引受るという者があらわれたのです」
「それは何者です。太鼓持か落語家ですか」
「堀の太鼓持、つまり山谷堀(さんやぼり)の太鼓持で、三八(さんぱち)という奴です。なにしろ縄抜けをするくらいですから、唯の芸人じゃあないと睨(にら)んで、庄太にだんだん調べさせると、この三八というのは以前は上州(じょうしゅう)の長脇指(ながわきざし)、国定忠治(くにさだちゅうじ)の子分であったが、親分の忠治が嘉永(かえい)三年にお仕置になったので、江戸へ出て来て太鼓持になったという奴。これも向島の大七に集った一人であることが知れましたから、おそらくこいつだろうと見込みを付けて、引挙げてみると案の通りでした。こいつは不断からお葉の家へ出這入(ではい)りしているので、次郎兵衛の笠を見つけて、これ幸い、詮議の眼をくらますのに丁度いいと思って、そっと持出したというわけで、次郎兵衛こそ飛んだ災難でした」
「じゃあ、その三人が野州の粂次郎なんですね」
「三八というのは芸名、生れは野州宇都宮在で、粂蔵のせがれ粂次郎。こんな奴でもやはり昔の人間で、臍緒書はちゃんと持っていたのです。もちろん太鼓持の姿で入り込んでは、すぐに正体があらわれますから、田舎者に化けてお城へ乗込み、いざというときには偽気違いで誤魔化す計略。その芝居が万事とどこおりなく運んで、みんなからも大出来と褒められて、約束の五十両を貰って、三八はいい心持ちで引退(ひきさが)ったのですが、ここに又一つの面倒が起こりました。と云うのは彼(か)のお葉、こいつなかなか喰えない奴で、この一件を知ったから黙っていない。相手は大店の若旦那株だから、嚇かせば金になると思って啖(くら)い付きました」
「その相摺(あいず9りは三八ですか」
「三八は五十両でおとなしく黙っていたのですが、お葉の亭主の松五郎には銀六(ぎんろく)という子分がある。そいつを連れて、お葉は増村へ嚇かしに行く。それも二十両や三十両なら、増村の息子も器用に出すでしょうが、お葉は三百両くれろと大きく吹っかける。いくら大店でも、その時代の三百両は大金で、部屋住みの息子の自由にはならない。といって、例の一件を親や番頭にも打明けられないので、自業自得とは云いながら、増村の息子は弱り切っていたのです。ほかに同じ遊び仲間があるのに、お葉がなぜ増村ばかりを責めていたのかと云うと、増村の身代が一番大きいのと、最初にお城の一見を云い出したのは増村の息子だと云うので、もっぱらここばかりへ押して行って、口留め金をくれなければその秘密を訴えると云う。これは強請の紋切形ですが、ゆすられる身になると、それが世間へ知れては大変、わが身ばかりか店の暖簾にもかかわる大事ですから、今さら後悔しても追っ付かない。その最中に事が露(ば)れて、まあ大難が小難で済みました」
「三八は高見の見物ですか」
「いや、それだから大難が小難と云うので……」と、老人は顔をしかめて云った。「三八は自分も係り合いだから、仲にはいって三十両や五十両でまとめようと骨を折ったのですが、お葉は容易に承知しない。三八も素姓が素姓だから気があらい。もう一つには、お葉の口からその秘密を洩らされたら自分の首にも縄が付く一件ですから、油断は出来ない。これがもう少しごた付いていると、三八は度胸を据えて、お葉と銀六を殺してしまう覚悟であったそうです。怖ろしい太鼓持もあったもので……。そんな事にでもなったら何もかもめちゃめちゃで、結局は万事露顕になるのでしたが、そこまで行かずに喰い止めたのは仕合せでした。
しかし、ここに困った事は、三八を表向きに突き出すと、増村の店に迷惑がかかる。見逃してしまうと、わたくしが八丁堀の旦那に済まない。板挟みになって困ったのですが、増村の番頭と相談の上で、お葉の方は三十両で型を付け、八丁堀の坂部さんの方へは番頭同道で相当の物を持参、それでまあ勘弁して貰いました。つまりは一人も怪我人を出さずに済んだわけです。
いや、怪我人といえば彼(か)の次郎兵衛、姉から報せてやったのでしょう。この一件が無事に済んだことを知って怱々(そうそう)に江戸へ戻って来ましたが、江戸はおそろしい所だと云ってすぐに故郷へ帰ろうとするのを、姉夫婦にひき留められて、例の蠟燭問屋の万屋へ奉公することになりました。そうすると、その年の十月二日は安政の大地震、店の土蔵が崩れたので、その下敷になって死んでしまいました。どうしてもこの男には江戸が祟(たた)っていたと見えます。
この地震で、花川戸のお葉も死にました。お磯は吉原へ行って、逢染(あいぞめ)とかいう源氏名で勤めていたそうですが、これも地震で潰(つぶ)されたと云うことでした」
「みんな運の悪い人たちでしたね」と、わたしは溜息をついた。
「増村の家に地震の怪我人は無かったそうですが、店は丸焼けになったので、その後は商売も寂れたようでした。今になって考えると、江戸三百年のあいだに、どんな悪戯をしても、どんな悪洒落をしても、江戸城の大玄関前へ行って天下を渡せと呶鳴ったものはない。まったくこれが天下を渡す前触れだったのかも知れませんね」
老人も嘆息した。
 

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。