半七捕物帳 第七巻/廻り燈籠

廻り燈籠(どうろう)

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「いつも云うことですが、わたくしどもの方には陽気なお話や面白いお話は少ない」と、半七老人は笑った。「なにかお正月らしい話をしろと云われても、サアそれはと行き詰まってしまいます。それでも時どきにおかしいような話はあります。もちろん寄席の落語を聴くように、頭から仕舞いまでげらげら笑っているようなものはありません。まあ、その話に可笑味(おかしみ)があるという程度のものですが、それでもおかしいと云えば確かにおかしい」
いわゆる思い出し笑いと云うのであろう。まだ話し出さない前から、老人は自分ひとりでくすくすと笑い出した。なんだか判(わか)らないが、それに釣り込まれてわたしも笑った。正月はじめの寒い宵で、表には寒詣(かんまい)りの鈴の音がきこえた。この頃はほとんど絶えたようであるが、明治時代には寒詣りがまだ盛んに行なわれて、新聞の号外売りのように鈴を鳴らしながら、夜の町を駈(か)けてゆく者にしばしば出逢(であ)うのであった。
その鈴の音を聴きながら、老人はまだ笑っていた。すこし焦(じ)れったくなって、わたしの方から催促するように訊(き)いた。
「そこで、そのおかしい話というのは、どんな一件ですか」
「つまり、物が逆さまになったので……」と、老人はまた笑った。「石が流れりゃ木の葉が沈むと云うが、まあそんなお話ですよ。泥坊をつかまえる岡(おか)っ引(ぴき)が泥坊に追っかけられたのだからおかしい。泥坊が追っかける、岡っ引が逃げまわる。どう考えても、物が逆さまでしょう。そうなると、すべてのことが又いろいろに間違って来るものです。
その起りは安政(あんせい)元年四月二十三日、夜の五ツ(午後八時)少し前の出来事で、日本橋伝馬町(にほんばしでんまちょう)の牢内(ろうない)で科人(とがにん)同士が喧嘩(けんか)をはじめて、大きい声で呶鳴(どな)るやら、殴り合いをするやら大騒ぎ。牢屋の鍵番(かぎばん)の役人二人が駈けつけて、牢の外から鎮まれ鎮まれと声をかけたが、内ではなかなか鎮まらない。喧嘩はいよいよ大きくなって、この野郎生かしちゃあ置かねえぞと呶鳴る。もう捨てては置かれないので、牢内へはいって取鎮めるために、役人たちが入口の大戸の錠をあけると、その途端に五、六人がばらばらと飛び出して来て、役人たちを不意に突き倒して逃げ去りました。
これは最初っから仕組んだことで、破牢をするための馴(な)れ合い喧嘩でした。さてはと気が付いて、役人たちが追っかけたが、もう遅い。どれも身の軽い奴(やつ)らで、牢屋の塀を乗越して、首尾よく逃げおおせてしまいました。旧暦の二十三日の闇(やみ)の晩を狙(ねら)ってやった仕事ですから、おあつらえ向きに行ったわけです。
逃げた奴はみんな無宿者で、京都無宿の藤吉(とうきち)、二本松無宿の惣吉(そうきち)、丹後村無宿の兼吉(かねきち)、川下村無宿の松之助(まつのすけ)、本石町(ほんこくちょう)無宿の金蔵(きんぞう)、矢場村無宿の勝五郎(かつごろう)の六人で、そのなかで藤吉、兼吉、松之助は入墨者です。地方は京都と二本松だけで、そのほかは江戸近在の者でしたが、たった一人、チャキチャキの江戸っ子がある。本石町無宿の金蔵、これは日本橋の本石町の生れで、牢屋とは眼と鼻のあいだで産湯を使った奴です。なにしろ破牢は重罪ですから、すぐに人相書をまわして詮議(せんぎ)になりました。前に申した通り、石が流れて木の葉が沈む一件はこれから始まるのです。
その頃、芝口(しばぐち)に三河屋甚五郎(みかわやじんごろう)、俗に三甚(さんじん)と呼ばれた御用聞きがありました。親父の甚五郎はなかなか親切気のある男で、わたくしなぞも何かに付けて世話になったことがありましたが甚五郎は三年前に死にまして、今は忰(せがれ)が二代目の甚五郎を継いでいる。ところで、この二代目はまだ二十一で、歳も若し、腕も未熟、つまりは先代の看板で三甚の株を譲り受けていると云うだけのことですから、八丁堀(はっちょうぼり)の旦那(だんな)衆のあいだにも信用が薄い。親の代から出入りの子分は相当にあるのですが、その子分にも余り腕利きがいない。もっとも、大抵の子分は親分次第のもので、親分がしっかりしていないと、子分も働きにくいものです。
そんなわけで、御用聞き仲間でも三甚はもう廃ったと云っていると、ことしの正月、その三甚の手で本石町無宿の金蔵を挙げたので、みんなもいささか意外に思いました。金蔵は本石町の鐘撞堂(かねつきどう)の近所の裏店(うらだな)に住んでいた屋根屋職人で、酒と女の道楽からとうとう無宿者になってしまって、江戸の隅ずみをころげ廻っているうちに、人殺しこそしませんが、大抵の悪い事は仕尽くして、今度挙げられたらまず遠島ぐらいを申渡されそうな凶状持ちになりました。その金蔵がどうして三甚の手にかかったかと云うと、ここにちょっと艶(つや)っぽいお話があるのです。
前にも申す通り、二代目の甚五郎、年も若く腕も未熟ですが、小粋(こいき)な柄行(がらゆ)きで男っ振りも悪くない。岡っ引なんて云うものは、とかく忌(いや)な眼付きをして、なんだかぎすぎすした人間が多いのですが、この甚五郎は商売柄に似合わず、人柄がおとなしやかに出来ている。親父の株があるので、小銭も廻る。そこで、いつの間にか神明前(しんめいまえ)のさつきという小料理屋のお浜(はま)という娘と出来てしまって、始終そこへ出這入(ではい)りをしている。お浜のおふくろも勿論(もちろん)それは承知していたのです。
すると、ある日のこと、この神明あたりを地廻りのようにごろ付いている千次(せんじ)という奴がさつきの帳場へ来て、幾らか強請(ゆす)りました。毎度のことですから、おふくろのお力(りき)が頭から刎(は)ね付けると、千次が云うには、きょうはただ来たのじゃあねえ、大事の魚を売込みに来たのだから、お前さんから三甚さんに話して、いい値に買って貰(もら)いたいと云う。そこで、だんだんに訊いてみると、本石町無宿の金蔵がここらに立廻っていると云うのです。こうなると、娘の色男に手柄をさせたいのは人情ですから、お力は甚五郎を呼んで来て、千次と三人で打合せた上で、千次は金造を誘ってさつきへ連れ込む。しかしここですぐに召捕っては、店にも迷惑がかかりますから、金造が酔って表へ出るのを待っていて、半町ほど行き過ぎたところで、甚五郎とその子分二人が御用の声をかけました。こうすれば、行合い捕りと云うことになって、誰(だれ)にも迷惑はかかりません。密告者の千次も知らん顔をしていられるわけです。
金蔵もなかなか手強(てごわ)い奴でしたが、酔っているところを不意に押えられたのでどうすることも出来ない。ここで脆(もろ)くも縄にかかってしまいました。これで三甚は思いも寄らない手柄をしたのですが、自身番へ曳(ひ)かれて行った時、金蔵はたいそう口惜(くやし)がって、どうでおれは遠島船を腰に着けている人間だから、遅かれ早かれ御用の声を聞くのは覚悟の上だが、いざお縄にかかると云う時には、江戸で一、二と云ういい顔の御用聞きの手に渡る筈(はず)だ。こんな駈出しの青二才の手柄にされちゃあ、おれは死んでも浮かばれねえ。こん畜生、おぼえていろ。おれが生きていればきっと仕返しをする、死ねば化けてでる、どっちにしても唯(ただ)は置かねえから覚悟しろと、おそろしい顔をしてさんざんに呶鳴ったそうです。
いわゆる外道(げどう)の逆恨みと、もう一つには自棄(やけ)が手伝って、口から出放題の啖呵(たんか)を切るのは、こんな奴らにはめずらしくない事で、物馴れた岡っ引は平気でせせら笑っていますが、なにを云うにも甚五郎は年が若い。その上に人間がおとなしく出来ているので、そんな事を聴くと余りいい心持はしない。といって、勿論こいつを免(ゆる)すことは出来ませんから、型のごとく下調べをして、大番屋へ送り込んでしまいました。
そんなわけで、三甚は本石町の金蔵を召捕って、自分の器量をあげた代りに、なんと無くその一件が気にかかって、死罪か遠島か、早く埒(らち)が明いてくれればいいと、心ひそかに祈っている。ましてさつきのおふくろや娘は、ひどくそれを気にかけて、万一かの金蔵が仕返しにでも来たら大変だと心配している。そのうちに伝馬町の牢破り一件が起って、その六人のなかに本石町無宿の金蔵もまじっているというのを聞いて、甚五郎もひやりとしました。牢をぬけてどこへ行ったか知らないが、なんどき仕返しに来ないとも限らない。それを思うと、いよいよ忌(いや)な心持になりました。
こっちは役目で罪人を召捕るのですから、それをいちいち恨まれてはたまらない。罪人の方でもそれを承知していますから、こっちが特別に無理な事でもしない限り、どんな悪党でも捕手を怨(うら)むということはありません。したがって、捕手に対して仕返しをするなぞという例は滅多にない。それは三甚も承知している筈ですが、気の弱い男だけに、なんだか寝ざめがよくない。しかし仮りにも二代目の三甚と名乗っている以上、子分の手前に対しても弱い顔は出来ませんから、自分ひとりの肚(はら)のなかでひやひやしている。こうなると、まったく困ったものです。勿論、この甚五郎がしっかりしていて、もう一度その金蔵を召捕りさえすれば何のこともないのですが、そうは行かないのでこのお話が始まるのです。まあ、そのつもりでお聴きください」


この「捕物帳」と読みつづけている人びとは定めて記憶しているであろう。この年の四月、半七はかの『正雪の絵馬』の探索に取りかかっていたのである。そのあいだに、この牢破りの一件が出来(しゅったい)して、人相書までが廻って来たので、これも打ち捨てて置かれなくなった。
「親分。どうしますね」と、子分の亀吉(かめきち)が訊いた。
「重い軽いを云えば、こっちは牢抜けの重罪で、絵馬の一件とは一つにはならねえ」と、半七は云った。「しかし伝馬町の方はおれ一人に云い付けられた御用じゃあねえ。江戸じゅうの御用聞きがみんなで働く仕事だ。絵馬の方はおれ一人が請合った仕事だから、この方をまず片付けなけりゃあなるめえと思う。就いては、おめえと幸次郎(こうじろう)は相変らず絵馬の方を働いてくれ。伝馬町の方は松吉(まつきち)や善八(ぜんぱち)に頼むとしよう」
二つの事件が同時に起るのは珍らしくないので、半七はそれぞれに受持を決めて働かせることになった。半七は双方掛け持ちであるが、一方の『正雪の絵馬』の一件は已(すで)に紹介したのであるから、話の筋の混雑するのをおそれて、ここはいっさい省略し、もっぱら牢破りの一件に就いて語ることにする。
五月はじめの朝である。半七は町内の湯屋(ゆや)へ行って、暁(あけ)がたからの小雨のなかを帰って来ると、格子の内には女の傘と足駄が見いだされた。人出入りの多い家であるから、別に気にも留めずはいって見ると、四十前後の見識(みし)らない女が女房のお仙(せん)を相手に話していた。
「おまえさん、この方がさっきから待っておいでなすったんですよ」と、お仙は彼女(かれ)を半七に紹介した。そうして、その土産だという交肴(こうこう)の籠を見せた。
「初めましてお目にかかります」と、女は丁寧に挨拶(あいさつ)した。「わたくしは神明前のさつきでございます」
その名を聞いて、半七はすぐに思い当った。彼女はさつきのお力で、なにか三甚に係り合いのことで尋ねて来たのであろうと察したので、ひと通りの挨拶を済ませた後に、半七は訊いた。
「おかみさんも忙がしいだろうに、朝から何か急用でも出来(しゅったい)しましたかえ」
「早朝からお邪魔に出ましたのは、ほかでもございません。親分も定めてご承知でございましょうが、先月の二十三日に伝馬町の牢抜けがございましたそうで……。それに付きまして、少々お知恵を拝借に出ましたのでございますが……」
「牢抜けは知っていますが、それがどうかしましたかえ」
「実は……」と、お力は少しく渋りながら云い出した。「その牢抜けのなかに石町の金蔵というのが居りますそうで……」
その金蔵の仕返しをお力親娘(おやこ)は恐れているのであった。召捕りの手引きをした千次も、金蔵が娑婆(しゃば)へ出たと云うのを聞いて、どこへか姿を隠してしまった。生きていればきっと仕返しをすると云ったのであるから、金蔵はきっと三甚を付狙っているに相違ないと、かれらは頻(しき)りに怖れているのであった。それを聞いて、半七は笑った。
「金蔵というのはどんな奴だか知らねえが、牢抜けをした以上は我が身が大事だ。いつまでも江戸にうかうかしちゃあいられめえ。きっと草鞋(わらじ)を穿(は)いたろうと思うから、まあ当分は仕返しなんぞに来る筈はねえ、みんなも安心したらいいだろう」
「ところがお前さん」と、お力は顔をしかめながら囁(ささや)いた。「千次さんのお友達が西の久保(くぼ)の切通(きりどお)しで、金蔵に似た奴の姿をちらりと見たそうで……。あいつが近所をうろ付いているようじゃあ大変だと云うので、千次さんもどこへか姿を隠れてしまったのでございます」
「それにしても、おまえさんの家にまで仕返しに来ることはあるめえ。金蔵は行合い捕りになっているのだから、お前さんの家に係り合いはねえ筈だ」
「わたくしの家へ来ないかも知れませんが、もしや三甚さんの方へでも来るようなことがあると大変だと申して、娘は泣いて騒いで居りますので……」
娘に泣いて騒がれて、お力は三甚の保護を頼みに来たのである。その親心を察しながらも、半七はいったん断わった。
「これが堅気の素人なら、なんとか相談に乗ることもあるが、たとい年は若いにしろ、三甚も一人前の御用聞きだ。科人の仕返しが怖くって、仲間の知恵を借りたなぞと云われちゃあ、世間に対して顔向けが出来ねえ。勿論おまえさんの一料簡(いちりょうけん)で出て来たのだろうが、そんな事をするのは三甚の男を潰(つぶ)すようなものだ。娘の可愛い男に恥を掻(か)かせちゃあいけねえ。第一、三甚にも相当の子分がある筈だ。その子分たちが楯(たて)になって、親分のからだを庇(かば)ってやるがいいじゃあねえか。他人(ひと)に頼むことがあるものか」
「それはもう仰(おっ)しゃる通りでございますが……」と、お力は云いにくそうに答えた。「この子分衆もこの頃は頼りにならないような人が多いので……」
先代の歿後(ぼつご)三年のあいだに、古顔の子分が二人もつづけて死んだ。腕利きの子分二、三人は若い親分を見捨ててほかの親分の手に移ってしまった。残っている子分に余り頼もしい者は少ない。先ごろ金蔵を召捕ったのも、彼がしたたかに酔っていたからで、もしも白面(しらふ)であったらばあるいは取逃がしたかも知れないと、お力は云った。それは半七も薄うす察していた。こんな奴らの縄にかかったのは残念だと、金蔵が自身番で呶鳴ったのも無理はないように思われた。
それにしても本人の甚五郎が頼みに来たのなら格別、表向きは他人のさつきの女房に頼まれて迂闊(うかつ)に差出たことは出来ないので、半七はあくまでも断わった。そんな事をすれば三甚の顔を汚(よご)すようになるという訳を、彼は繰返して説明すると、お力もこの上に押返して云う術(すべ)もなかったらしく、それでは又あらためてお願いに出ましょうと云って帰った。
それを見送って、お仙は気の毒そうに云った。
「三甚さんも困ったものですね」
「色男、金と力はなかりけりと、昔から相場は決まっているが、岡っ引の色男なんぞはどうもいけねえ。おれたちの商売は、やっぱりかたき役に限るな」と、半七は笑った。
「三甚のお父さんには、世話になったこともありますからねえ」
「むむ。三甚の先代には世話になったこともある。ただ笑って見物してばかりもいられねえが、そうかといってむやみに差出たことも出来ねえ。まったく困ったものだ」
何のかのと云うものの、誰かの手で金蔵らを挙げてしまえば論は無いのである。人相書が廻っている以上、遅かれ早かれ網にかかるものとは察しているが、それまでの間に何事もなければいいと、半七は思った。しかし前にも云う通り、科人が捕手に対して仕返しをするなどということは滅多に無いのであるから、おそらく今度も無事に済むであろうと、彼も多寡を括(くく)っていた。
雨は二、三日降りつづいた。一方の『正雪の絵馬』の一件はとかくに縺(もつ)れて埒が明かない。半七も少し焦(じ)りじりしていると、日が暮れてから松吉が来た。
「よく振りますね」
「いくら商売でも、降ると出這入りが不便でいけねえ」と、半七はうっとうしそうに云った。
「大木戸の方はどうなりました」
「どうも眼鼻が付かねえで困っている。そこで、どうだ、こっちの一件は……」
「伝馬町の牢抜けは二人挙げられました」
「誰と誰だ」
「二本松の惣吉と川下村の松之助です」
金蔵の名がないので、半七は失望した。
「この二人は中仙道(なかせんどう)を落ちるつもりで板橋(いたばし)まで踏み出したが、路用がねえ。そこらを四、五日うろ付いた挙げ句に、宗慶寺という寺へはいって、住職と納所(なっしょ)に疵を負わせて十五両ばかりの金を取ったのから足が付いて、ゆうべ板橋の女郎屋で挙げられたそうです。路用が出来たらすぐに伸(の)してしまえばいいものを、娑婆へ出ると遊びたくなる。やっぱり運の尽きですね」と、松吉は笑っていた。
「ほかの奴らの行くえは知れねえのか」
「二人の申立によると、六人は牢屋敷の外へ出ると、すぐにばらばらになってしまったので、誰がどっちへ行ったか知らねえと云うのです。惣吉と松之助だけがひと組になって、本郷(ほんごう)から板橋の方向へ行ったのだそうで……。旦那がたもずいぶん厳重に調べたようですが、二人はまったく知らねえらしいのです」
「それじゃあ、ちっとも手がかり無しかと、半七は溜息(ためいき)をついた。
「そうですよ」と、松吉はうなずいた。「残る四人のうちで、兼吉と勝五郎はどうしたか判らねえが、藤吉と金蔵は牢内にいる時から仲がよかったから、この二人は繫(つな)がっているかも知れねえと云うことです。松之助の申立てによると、金蔵はこんなことを云っていたそうです。おれは江戸に恨みのある奴があるから、そいつに意趣返しをした上でなけりゃあ高飛びは出来ねえと……」
「意趣返しをする」
「それがね、親分」と、松吉はささやいた。「どうも三甚を狙っているらしいのです。金蔵は妙なところへ見得を張る奴で、三甚のような小僧ッ子に召捕られたのは、おれの顔にかかわるとか、おれの名折れになるとか云って、むやみに口惜しがっているのだそうで……。牢抜けをする以上、どうで命はねえに決まっているから、恨みのある三甚を殺(ば)らして置いて、それから高飛びをする料簡じゃあねえかと思うのですが……。そうなると、三甚もいい面の皮です」
「悪党らしくもねえ、未練な奴だな」と、半七は舌打ちした。「そう聞くと、さつきの女房の話も嘘(うそ)じゃああるめえ。金蔵に似た奴が西の久保の切通し辺をうろ付いているのを見た者があるそうだ」
「藤吉も一緒でしょうか」
「それは判らねえが、ひょっとすると藤吉に助太刀をたのんで、何をするか判らねえ。三甚も如才なく用心しているだろうが、飛んだ奴に魅(み)こまれたものだ」
半七も多寡をくくっていられなくなった。捕手に逆恨みをするなどは悪党らしくない奴だとは思ったが、相手が恨むと云う以上、それをどうすることも出来ない。しかしそれを逆に利用して金蔵を手元へおびき寄せ、藤吉ぐるめに召捕るという手段(てだて)が無いでもない。
「おれが出しゃばるのも好くねえが、年の若けえ三甚だけじゃあ何だが不安心だ。あしたは芝口へ出かけて行って、なんとか知恵を貸してやろう。ここでうまく金蔵を召捕りゃあ、三甚も二度の手柄になると云うものだ」


その明くる朝は雨も止んだが、まだ降り足らないような空模様であるので、半七は邪魔になる雨傘を持って芝口へ出向いた。
三甚の家は江戸屋という絵草紙屋の横町の左側で、前には井戸がある。その格子をあけて案内を乞うと、内から若い子分が出て来た。こちらではその子分の顔を識(し)らなかったが、相手は半七を見識っていて丁寧に挨拶した。「三河町(みかわちょう)さんでございますか。まあ、どうぞこちらへ」「親分は内かえ」
「へえ」と、子分はあいまいに答えた。
その応対の声を聞いて、又ひとりの子分が出て来た。それは石松(いしまつ)といって、半七の家へも二、三度は顔を見せた男であった。
「親分にちょいと逢(あ)いてえのだが……」と、半七はかさねて云った。
「へえ」と、石松もなんだかあいまいな返事をして、若い子分と顔を見あわせていった。
「留守かえ」
「へえ」
「どこへ出かけた。御用かえ」
「いいえ」
なにを訊いてもぬらりくらりとしているので、半七は入口に腰をおろした。
「おめえたちも知っているだろうが、先月の二十三日に牢抜けをした奴がある。その事について少し話してえのだが、親分が留守じゃあ仕様がねえ。いつごろ帰るか判らねえかね」
「へえ、実は町内の人に誘われまして……」と、石松はもじもじしながら云った「講中と一緒に身延(みのぶ)へご参詣にまいりました」
「成程ここは法華だね。身延まいりはご信心だ。そうして、いつ立ったのだね」
「きのうの朝、立ちました」
「それじゃあすぐには帰るめえ」
「帰りは富士川(ふじがわ)下だと云っていました」
「ことしの正月に、石町の金蔵を捕りに行ったのは、誰だね」と、半七は訊いた。
「あのとき親分と一緒に行ったのは、駒吉(こまきち)とわたくしです」と、石松は答えた。
「金蔵というのはどんな奴だ」
「三十二三で、色のあさ黒い、痩(や)せぎすな奴です。屋根の上の商売をしていただけに、身の軽い奴だそうで、番屋に連れて行かれた時も、おれは酔っていたから手めえたちに捉(つか)まったのだ。屋根の上へ一度飛びあがりゃあそれからそれへと屋根づたいに江戸じゅうを逃げて見せるなんて、大きなことを云っていました」
その捕物の前後の話などを聞いて、半七は一旦(いったん)ここを出ると、傘はいよいよお荷物になって、薄い日影が洩(も)れて来た。ここまで来たついでに神明前をたずねてみようと、彼は雨あがりのぬかるみを踏んで、さつきの門口へ行き着くと、小さい暖簾(のれん)をかけた店の右側に帳場がある。その前に腰をかけていた男が立ちあがった。
「じゃあ、どうしてもいけねえと云うのかえ」
内の返事はきこえなかったが、男は嚇(おど)すように云った。「じゃあ仕方がねえ、このさき何事が起っても俺(おれ)あ知らねえ。その時になって恨みなさんな」
暖簾をくぐって出る男の前に、半七は立ちふさがった。「兄哥(あにい)。ちょいと待ってくれ」
「誰だ、おめえは……」と、男は眼を三角にして半七を睨(にら)んだ。
「おめえさんは千次さんじゃあねえか」
「ひとの名を訊く前に、自分の名を云え。それが礼儀だ」
「礼儀とがめをされちゃあ名乗らねえわけにも行かねえ。わっしは三河町の半七だ」
半七と聞いて、男は俄(にわか)に顔の色をやわらげた。彼は衣紋(えもん)を直しながらおとなしく挨拶した。
「やあ、三河町の親分でしたか。お見それ申して、飛んだ失礼を致しました。わっしは神明の千次でごぜえます」
「そうらしいと思った。まあ、こっちへ来てくれ」
半七は彼を引っ張って、五、六間さきの質屋の土蔵の前へ連れ出した。千次はなんだか落着かないような顔をしていたが、それでも素直に付いて来た。
「いま聞いていりゃあ、おめえは、さつきの帳場で何だか大きな声をしていたじゃあねえか。喧嘩でもしたのかえ」
「おまえさんに聞かれるとは知らねえで……」と、千次は頭をかいた。「どうかまあお聞き流しを願います」
彼がどんなことを云っていたのか、半七は実は知らないのであるが、いい加減に跋(ばつ)をあわせて云った。
「むむ。どうもおめえの方がよくねえようだな」
「相済みません。どうぞご勘弁を願います」と、千次は又あやまった。
見たところ彼はそれほどの悪党でもなく、所詮(しょせん)は地廻りの遊び人に過ぎないらしい。半七は笑いながら云った。
「ただご勘弁をと云っても、むむ、そうかとばかりも云っていられねえ。どうもこの頃はおめえの評判がよくねえからな。ともかくもそこらの番屋まで来て貰おうか」
嚇されて、千次はいよいよ慌(あわ)てた。
「親分、いけねえ。番屋へ連れて行って、どうするのです」
「どうするものか。都合によちゃあ帰さねえかも知れねえ」
「わっしは悪い事をしやあしません。これでもお上(かみ)の御用を勤めたこともあるので……」
「御用を勤めたというのは、石町の金蔵を指したことを云うのか」と、半七はまた笑った。
「それはおれも知っているが、今あのさつきへ行って何を云ったのだ。おれはみんな知っているぞ」
「恐れ入りました」
「恐れ入ったら、もう一度ここで正直に云え。さもなけりゃあ番屋へ連れて行って云わせるぞ」
多寡が近所の矢場や小料理屋を忌がらせて、幾らかの飲代(のみしろ)をせびっているに過ぎない千次は、もとより度胸のある奴ではなかった。半七に嚇されて、彼は素直に白状した。彼も金蔵の破牢におびやかされた一人で、万一金蔵が自分の密告を覚(さと)って、その仕返しに来られては大変であると思って、ひとまず品川(しながわ)辺の友人のところへ身を隠したが、たちまち煙草銭(たばこせん)にも困るような始末になったので、きょうはこっそりと神明へ帰って来て、馴染(なじみ)の家(うち)へ無心に廻ることにした。そのなかでも、このさつきは金蔵の一件に関係があるので、第一にここを目ざして来ると、帳場の女房に手強くことわられた。彼も癪(しゃく)にさわって、そんなら俺にも料簡がある、なにもかも金蔵にぶちまけて、ここの家へ仕返しによこすからそう思えと、嚇し文句を残して出て来た。
おそらく女房もおどろいて、あとから呼び戻すだろうと思いのほか、相手は平気で澄ましているらしく、自分が却(かえ)って半七に捉まったのである。よくよく運の悪い彼は、ただ恐れ入って謝るのほかはなかった。
「そこで、おめえは金蔵の居どころを知っているのか」と、半七は疑うように訊いた。
「実は、その……」と、千次はふたたび頭をかいた。金蔵を仕返しによこすなどと云ったのは当座のでたらめで、彼も実は金蔵の在所(ありか)を知らないと云った。
「三甚が身延まいりに行ったというのは本当か」と、半七はまた訊いた。
「いや、嘘だと思います」と、千次はすぐに答えた。「わっしも今朝から訊いて歩いたのですが、ここらの連中で身延へ行った者はありません。三甚も身延へ行ったなんて、どっかに隠れているのだろうと思います」
「なぜ隠れているのだ」
「親分の前ですが、二代目の三甚は気の弱い方ですから、金蔵が出て来たのを聞いて、まあ差しあたりは姿を隠したのだろうと思います。さつきの女房がひどく気を揉(も)んでいたそうですから、その入れ知恵でどっかに隠れたのでしょう。その証拠に、さつきの娘もこの頃は家(うち)にいねえと云うことです」
「馬鹿を云え」と、半七はわざと叱(しか)り付けた。「いくら年が若くっても三甚はお上の御用聞きだ。牢ぬけを怖がって、逃げ隠れをする奴があるものか」
「へえ」と、千次はよんどころなしに口を噤(つぐ)んだ。
「世間へ行って、そんなでたらめを吹聴(ふいちょう)すると承知しねえぞ。おれたちの顔にもかかわることだ」
「へえ」と、千次はいよいよ恐れ入った。
「だが、千次」と、半七は声をやわらげた。「三甚のことはともかくも、牢抜けの金蔵は人相書のまわったお尋ね者だ。おれもこれから踏み込んで探索をしなけりゃあならねえ。何か聞き込んだら教えてくれ。そこらで一杯飲ませるのだが、おれは急ぎの用があるから、まあこれで勘弁して貰おう。骨折り賃は別に出すよ」
さしあたり二分(にぶ)の金を貰って、千次はよろこんだ。彼は「済みません、済みません」を繰返して、これからひと働きすると約束して別れた。骨折り賃を貰うばかりでなく、半七らの用を勤めて置けば、後日に何かの便利がある。千次はこれをご縁に、何分お引立てを願いますなどと云っていた。
千次に別れて、半七はさつきの門口(かどぐち)へ引返すと、女房のお力は暖簾のあいだから不安らしく表を覗(のぞ)いていた。


表向きは千次を叱ったものの、三甚の身延まいりは少し怪しいと半七も思った。さつきへ行ってお力を詮議すると、果して彼女の差尺(さしがね)で、甚五郎は姿を隠したのである。役目の手前、そんなことは出来ないと、甚五郎もいったんは断わったが、おふくろには勧められ、娘には口説かれて、気の弱い彼は金蔵一件の片付くまで姿を隠すことになったのである。それを聞いて、半七は舌打ちした。
「困る事をさせるじゃあねえか。そんなことが八丁堀の旦那衆に知れてみろ。三甚は株を摺(す)ってしまうぜ。子分たちも揃っていながら、何のことだ。そうして、どこへ行っているのだ」
「実は高田馬場(たかだのばば)の近所へ……」と、お力は答えた。「白井屋(しらいや)という小料理屋にわたくしの妹が縁付いて居りますので、一時そこへ頼んで置きました」
「娘も一緒かえ」
「はい」
「御用聞きが女をつれて逃げ隠れをしている。飛んだ色男だ」と、半七はまた舌打ちした。
「そんなことが長引いていると、三甚の為にならねえ。早く埒を明けてしまいてえものだ」
「何分よろしく願います」
ここで女房を叱ったところで、どうにもならないので、半七は怱々(そうそう)にここを出た。それから京橋へ用達しに廻って、七ツ(午後四時)頃に神田の家へ帰ると、やがて善八が来て、牢抜けが又ひとり挙げられたと報告した。それは矢場村無宿の勝五郎で、小石川蓮華坂(こいしかわれんげざか)の裏長屋に忍んでいたのである。これで惣吉、松之助、勝五郎の三人は召捕られ、残るは兼吉、藤吉、金蔵の三人である。兼吉と藤吉はともあれ、金蔵のありかが知れない限りは、半七も肩抜けにならないように思われた。『正雪の絵馬』も埒が明かない。『吉良(きら)の脇指(わきざし)』も片付かない。そこへ又この一件が湧(わ)いて来たので、物に馴れている半七も少しうっとうしくなって来た。他人と手柄を争って金蔵を召捕るにも及ばないが、それが長引いて三甚の迷惑を醸すのも可哀そうである。科人の仕返しを恐れて、女と一緒に逃げ隠れるとは、江戸の御用聞きの面汚しであると、頭から叱ってしまえばそれまでであるが、先代の世話になった義理を思えば、なんとか彼を救ってやらなければならない。まず甚五郎に理解を加えて、芝口の自宅へ戻るように勧めなければならない。
こう思って、半七はその翌日、高田馬場へ出向いた。きょうは朝から晴れて暑くなったが、ここらに多い植木屋の庭が見渡す限り青葉に埋められているのを、半七はこころよく眺めた。馬場に近いところには、小料理屋や掛茶屋がある。流れの早い小川を前にして、入口い小さい藤棚を吊ってあるのが白井屋と知られたので、半七は構わず店にはいると、若い女中が奥の小座敷へ案内した。
「おかみさんはいるかえ」
「おかみさんは鬼子母神(きしもじん)さまへお詣(まい)りに行きました」
それでは亭主を呼んでくれと云うと、三十七八の男が出て来た。
「いらしゃいまし。俄天気でお暑くなりました」と、彼は丁寧に挨拶した。
「早速だが、わたしは神明前のさつきから教えられて来たのだが……」
「はい」と、亭主は半七の顔をじっと視(み)た。
「こっちにさつきの娘のお浜さんが来ているだろうね」
「いいえ」
「芝口の三甚の若親分が来ているだろうね」
「いいえ」
「隠しちゃあいけねえ。神明前のお力さんから頼まれて、確かにここの家(うち)にあずかってある筈だが……。隠さねえで、教えておくなせえ」
「おまえさんのお名前は……」
「わたしは神田三河町の半七という者だ」
「折角でもございますが、手前がたには誰もあずかって居りませんので」
「ここは白井屋だろう」
「左様でございます」
「さつきの親類だろう」
「左様でございます」
「娘も三甚もここへは来ていねえと云うのだね」
「はい」
「いけねえな」と、半七も焦れ出した。「わたしも三甚と同商売で、お上の御用を聞いている者だ。三甚に少し話したいことがあって来たのだから、早く逢わせてくんねえ」
亭主はまだ躊躇(ちゅうちょ)しているらしいので、半七は畳かけて云った。
「おれがこうして身分を明かしても、おめえはあくまでも隠し立てをするのか。おれもここまでわざわざ踏み出して来た以上、おめえたちに化かされて素直に帰るのじゃねえ。家探しをしても三甚に逢って行くから、そう思ってくれ」
半七の声が少しく高くなった時、女中のひとりが来て、亭主を縁側に呼び出した。ちょっとご免くださいと会釈して、亭主は怱々に出て行ったが、やがて女中と一緒に帳場の方へ立去った。
それと入れ違いに、ほかの女中が酒肴(しゅこう)の膳(ぜん)を運んで来た。
「旦那は唯今(ただいま)すぐに参ります」
彼女も逃げるように立去った。亭主もいったんはシラを切ったものの、やがて三甚を連れて来るのであろうと想像しながら、手酌でぼんやり飲んでいると、そこらの森では早い蟬(せみ)の声がきこえた。
それから小半時も過ぎたかと思われるのに、亭主はふたたび顔を見せなかった。女中も寄り付かなかった。一本の徳利はとうに空になってしまったが、誰も換えに来る者もなかった。半七はたまりかねて手を鳴らしたが、誰も返事をしなかった。人質に取られたような形で、半七はただ詰まらなく坐(すわ)っていた。
出入りの多い客商売であるから、人の目に付くのをおそれて、娘と三甚をほかの家に匿(かくま)ってあるのかも知れないと、半七は考えた。それを呼出して来るので、少し暇取るのであろうから、野暮に催促するのも好くないと諦(あきら)めて、彼は根よく待っているうちに、庭の池で鯉(こい)の跳ねる音がきこえた。ここらの習いで、かなりに広い庭には池を掘って、汀(みぎわ)には菖蒲(あやめ)などが栽(う)えてあった。青い芒(すすき)も相当に伸びていた。
退屈凌(しの)ぎに庭下駄を突っかけて、半七は池のほとりに降り立った。大きい柳に倚(よ)りかかって、何心なく水の上をながめている時、誰かが抜足をして忍んで来るような気配を感じたので、油断のない彼はすぐに見かえると、人の脊(せい)ほどに高い躑躅(つつじ)のかげから、一人の男が不意に飛んで来て半七の腕を捉えた。
「御用だ。神妙にしろ」
半七はおどろいた。
「おい、いけねえ。人違げえだ」
云ううちに又ひとりが現われて、これも半七に組み付いた。
「違うよ、違うよ」と、半七はまた呶鳴った。
「なにを云やあがる。御用だ、御用だ」
二人は無二無三に半七を捩(ね)じ伏せようとするのである。もう云い訳をしている暇もないので、半七は迷惑ながら相手になるのほかはなかった。それでも続けてまた呶鳴った。
「おい、違うよ、違うよ。おれは半七だ、三河町の半七だ」
「ふざけるな。人相書がちゃんと廻っているのだ」と、二人は承知しなかった。
ひとりに頭髻(たぶさ)をつかまれ、一人に袖(そで)をつかまれて、半七もさんざんの体になった。おとなくし縛られた方が無事であると知りながら、一杯機嫌の半七は癪にさわって相手をなぐり付けた。手向いをする以上は、相手はいよいよ容赦しない。一人は半七のふところへはいつて、うしろの柳の木へぐいぐいと押しつけた。一人は早縄を半七の手首にかけた。
「馬鹿野郎、明きめくら……。人違げえを知らねえか」
いくら呶鳴っても、相手は肯(き)かない。店の方からも加勢として、亭主や料理番や、近所の男らしいのが五、六人駈け集まって来た。こうなっては所詮かなわない。三河町の半七、多勢(たぜい)に押え付けられて、とうとうお縄を頂戴(ちょうだい)した。
「ざまあ見やがれ」と、男のひとりは勝ち誇るように云った。
「おれたちに汗を掻かせやがって……。この野郎、引っぱたくから、そう思え」と、他のひとりも罵(ののし)った。
引っぱたかれては堪(たま)らないので、半七も素直にあやまった。
「まあ、堪忍してくれ。神妙にするよ」
「そんなら、なぜ初めから神妙にしねえ。どうで首のない奴だ。生きているうちに、ちっと痛え思いをして置け」と、一人がまた罵った。
「首のねえ奴……。一体おれを誰だと思っているのだ」
「知れたことだ。石町無宿の金蔵よ」
半七は呆気(あっけ)に取られたが、やがてにやにやと笑い出した。


半七を縛ったのは、ここらを縄張りにしている戸塚(とつか)の市蔵(いちぞう)の子分らであった。神田と戸塚と距(はな)れていても、古参の子分ならば半七の顔を見識っているのであったが、あいにく古参の連中は居合わさず、駈出しの若い者ばかりが飛んで来たので、こんな間違いが出来(しゅったい)したのであった。
さつきの女房の云った通り、この白井屋ではお浜と甚五郎を預かっていたのであるが、きのうの夕方、戸塚の市蔵の子分が来て、牢抜けの金蔵がこの頃ここらに立廻っているという噂󠄀(うわさ)がある。ここの家は客商売であるから、金蔵のような奴がはいり込まないとは限らない。それらしい奴を見たらばすぐに内通しろと云って、彼の人相書を見せて行った。それを聞いて、白井屋では心配した。
金蔵はなんの為にここらを徘徊(はいかい)しているのか。もし三甚のあとを尾(つ)けて来たのならば、大いに警戒しなければならないと云うので、更に甚五郎らを近所の植木屋に忍ばせると、その翌日、あたかも半七がたずねて来たのである。
こんにちと違って、その頃の高田あたりは江戸の田舎であるから、半七の名も知らず、顔も識らない。その半七がしきりに三甚らの詮議をするので、白井屋の亭主は一種のうたがいを起した。殊に金蔵がここらに立廻るという噂󠄀を聞いている矢先であるだけに、金蔵がいい加減の名を騙(かた)ってここへ押掛けて来たのではないかと疑ったのである。
もう一つ、間違いの種となったのは、半七と金蔵とが年頃といい、人相や恰好までが可なりに似通っていることであった。その時代の人相書などは極めて不完全なものであるから、疑いの眼をもって見れば、鷺(さぎ)が烏(からす)と見誤るようなことが無いとは云えなかった。雑司ヶ谷(ぞうしがや)から帰って来た白井屋の女房は、遠目に半七をうかがって一途にそう信じた。亭主も同じ疑いを懐(いだ)いていたので、夫婦は相談の上で戸塚の市蔵に密告した。
市蔵がすぐに出て来れば、もちろん何の間違いも起らなかったのであるが、市蔵も留守、古参の子分も留守、そこに居あわせた若い子分二人があっぱれの功名手柄をあらわすつもりで、すぐに駈けつけて来た。相手は牢抜けの大物であると云うので、場馴れないかれらは少しく逆上(のぼ)せた気味で、なんの詮議もなしに召捕ろうとしたのである。科人が人違いと誤魔化すのは珍らしくないので、いかに半七が人違いを呶鳴っても、かれらは耳にもかけずに押え付けたのである。
数ある捕物のうちには、人違いの仕損じもしばしばある。しかも同商売の岡っ引を縛って勝鬨(かちどき)を揚げていたのは、戸塚の子分らの大失敗(おおしくじり)であった。やがて駈けつけて来た市蔵は、半七の顔を見てびっくりした。
「馬鹿野郎」と、彼は子分を叱りつけた。「飛んだ事をしやがる。早く縄を解け」
半七の縄はすぐに解かれた。事の仔細(しさい)が判明して、子分らは閉口した。白井屋の夫婦も縮みあがった。
「三河町にゃあ何とあやまっていいか判らねえ」と、市蔵もひどく恐縮していた。「こんなぼんくら野郎を叱ってみても追っ付かねえ。まあ、高田馬場の狐(きつね)につままれたと思って料簡しておくんなせえ」
「それもこれも商売に身を入れるからの事だ。あんまり叱らねえがいい」
ばかばかしいとは思いながら、半七も仲間同士の義理として、まずそう云うのほかはなかった。市蔵は子分らを散ざん謝らせて、それから近所の髪結を呼んで、半七の髪を結い直させた。白井屋も恐れ入って、あらん限りの肴(さかな)を運び出して来た。一座は打解けて、笑い声が高くなった。そのうちに、市蔵は少しくまじめになって云い出した。
「この野郎どもがのぼせるのも、まんざら理窟(りくつ)がねえ訳でもねえので……。石町の金蔵はどうもこの辺に立廻っているらしい。と云うのは、ここらに遊んでいる本助(もとすけ)という奴が早稲田の下馬(げば)地蔵の前を通りかかると、摺れ違った男がある。むこうは顔をそむけて怱々に行き過ぎてしまったが、確かに金蔵に相違ねえと云う。なにぶん聞き捨てにもならねえので、きのうから手配りをしていると、その最中にお前さんが出て来たので、飛んでもねえ大しくじりをやったわけだが……。金蔵の奴、なんでここらをうろ付いているのか、それが判らねえ。今まで調べたところじゃあ、ここらに身寄りもねえらしい」
「成程、わからねえな」
半七はいい加減に調子を合わせていたが、この話の様子では、金蔵は執念ぶかく三甚を付狙っているらしくも思われた。市蔵はその事情を知らないようであるから、何かの心得のために話して聞かそうと思ったが、それを云えば三甚の器量を下げることになる。若い者に恥をかかせるのも可哀そうだと思って、半七は黙っていた。
たんとも飲まない半七は、いい頃に座を起(た)とうと思ったが、市蔵が如才なく引留めて帰さないので、とうとうここに小半日も居据わってしまった。市蔵は子分に送らせると云ったが、まだ明るいので半七は断わって出た。
出るときに、白井屋の亭主を呼んで、半七は小声で三甚の隠家(かくれが)を訊くと、今度は亭主も安心して正直に教えた。お浜と甚五郎はここから一町ほども距れた植木屋新兵衛という者の家に忍んでいるのであった。
馬場に近い処には町家(まちや)も続いているが、それが切れると一面の田畑である。いそこらには蛙(かえる)の声がみだれてきこえた。夏の日が落ちても、あたりはまだ薄明るい。半七は迷うことも無しに、植新の門口(かどぐち)へ行き着いた。
門に大きい柳が立っている。それを目じるしに立ち寄ろうとして、半七は俄に立停まった。どこから出て来たか知らないが、自分と同じ年頃らしい一人の男がひと足さきに来て、その門口に突っ立っているのであった。ここらの植木屋は厳重に垣を結わないで、表が植木溜(だめ)になっているのが多い。半七はその植木留の八つ手の葉かげにかくれて、男の挙動をうかがっていると、彼はしばらく内を覗いていたが、やがて柳の下をくぐってはいった。半七も抜足をしてそのあとを尾けた。
ただの家と違って、こういう時には植木屋は都合がいい。半七はそこらに雑然と植えてある立ち木のかげに隠れながら、男のあとに付いてゆくと、彼は入口の土間に立って声をかけた。
「ごめんなさい」
「はい、はい」
内からは女房らしい女が出て来た。
「こっちに芝口の三甚が来ているね」と、男は馴れなれしく云った。
「いいえ」
「隠しちゃあいけねえ」と、男は笑った。「ちょいと三甚に逢わせてくれ。おれは三河町の半七だ」
半七はおどろいた。それと同時に、この偽者の正体もおおかたは判った。半七は息をころして窺(うかが)っていると、偽の半七はまた云った。
「三甚は神明前のさつきの娘と一緒にここに来ているだろう。それまで知っているのだから、胡乱(うろん)の者じゃあねえ。三河町の半七といえば、三甚もよく知っている筈だ、ちょいと呼んでくれ」
女房はまだ躊躇しているので、男は焦れ出した。
「まだ判らねえのか。おれは半七だよ。三河町の半七だよ」
「うるせえな。半七はここにいるよ」と、半七は男の前にずっと出た。
男はぎょっとして半七を見かえったが、彼もさすがに眼がはやい。たちまちに身をひるがえして、そこらの植木溜の中へ飛び込んだかと思うと、枝をくぐり、葉をかき分けて、飛鳥のごとく表へ逃げ出した。半七もつづいて追って出たが、もうその頃は往来もだんだんに薄暗くなっていた。
こういう場合、ただ黙って追うよりも、声をかける方が相手の胆(きも)をひしぐことになる。半七はうしろから呶鳴った。
「石町の金蔵、待て。半七の眼にはいった以上逃さねえぞ」
日が暮れると、ここらに往来は少ない。逃げる者は路をえらばず、田や畑のあいだをぐるぐると逃げまわって、穴八幡(あなはちまん)の近所へ来た頃には、あたりは全く暮れ切った。男は暗い女坂(おんなざか)を逃げのぼるので、半七も根よく追って行ったが、坂上の手水鉢(ちょうずばち)のあたりで遂にその姿を見失った。
こうと知ったら、市蔵の子分に送らせて来ればよかったと、今さら悔んでももう遅い。きょうは半七に取って、暦のよい日ではなかった。そこらの大樹の上で、彼を笑うような梟(ふくろう)の声がきこえた。


「器量の悪い話をいつまで続けても仕方がありますまい。もうここらで御免を蒙(こうむ)りましょうか」と、半七老人は笑った。
「でも、ここまでじゃあ話が判りません」と、わたしは云った。「そこで、その金蔵はどうなりました」
「わたくしは穴八幡からすぐに戸塚の市蔵のところへ行って、植新へ立廻った奴は金蔵に相違ないと報(しら)せると、それっと云うので市蔵をはじめ、子分総出で探索にかかったのですが、金蔵のゆくえはどうしても知れないので、みんなむなしく引揚げました。わたくしも係り合いですから、その晩は市蔵の家の厄介になって明くる朝ふたたび植新へたずねて行くと、三甚もお浜ももう居ないのです」
「どこへ行ったんです」
「いったんは白井屋から植新へ預けられたのですが、そこへ金蔵が押掛けて行ったので、植新でも驚く、白井屋でも心配する。お浜は泣いて騒ぐ。そこでまた、三甚とお浜を四(よ)つ家町(やちょう)の伊丹屋(いたみや)という酒屋へ預けることになりました。ここも白井屋の親類だそうです。三甚も気が弱いに相違ありませんが、なにしろお浜が心配して、気違いのように騒ぐので、それに引摺られて逃げ廻ることにもなったのです。わたくしも忙がしい体で、三甚のあとを追い廻してばかりもいられませんから、もう思い切って神田へ帰りましたが、あとで聞くと、いや、どうも大変で……」
「なにが大変で……」
「なにがと云って……」と、老人は笑い出した。「その伊丹屋の近所へも金蔵らしい奴が立廻ったと云うので、三甚とおはまは四つ家町を立退いて、今度は板橋へ行く。その板橋へも金蔵が来たと云うので今度はまた練馬へ行く。そこが又いけないと云って、今度は三河嶋(みかわしま)へ行く。まるで大根が漬菜でも仕入れて歩いているような始末で、まったく大笑いです。つまり疑心暗鬼とかうい譬(たと)えの通りで、怖いと思っているから、少し怪しい奴が立廻ると、それが金蔵らしく思われるのです。なにしろ小ひと月のあいだに、高田馬場から四つ家町、板橋、練馬、三河嶋を逃げまわって、松戸(まつど)の宿(しゅく)まで行ったときに、金蔵が召捕られてまず安心ということになりました。あははは。科人の逃げるのは珍らしくないが、岡っ引がこれだけ逃げ廻るのは前代未聞で、二代目の三甚、いいお笑いぐざになってしまいました」
「そうでしょうね」と、わたしも笑った。「その金蔵はどこで挙げられたんです」
「いや、それに就いては三甚を笑ってもいられません。わたくしもお笑いぐさのお仲間入りで……。今もお話し申す通り、植新へ押掛けて行った奴を一途に金蔵と思い込んで、わたくしは一生懸命に追っかけましたが、実はそれも人違いでした」
「金蔵じゃあ無かったんですか」
「金蔵じゃあありませんでした」と、老人はまた笑った。
「まあ、お聴きなさい。五月の末になって、例の神明の千次がわたくしの所へ来まして、金蔵は王子稲荷(おうじいなり)のそばの門蔵(もんぞう)という古鉄買(ふるかねかい)の家に隠れていると注進しました。そこで、念のために善八を見せにやると、門蔵というのは古鉄買は表向きで、実は賍品買(けいずかい)と判りました。ただ、ここに不思議なことは、金蔵は右の足に踏み抜きをして、それがだんだんに膿(う)んで来て、ひと足も外へ出られないと云うのです。その金蔵がわたくしの名を騙って、植新へ押掛けて行ったばかりか、びっこも引かずに逃げ廻っていたのは、どういうわけだか判らないが、ともかくも召捕れというので、わたくしが善八と松吉を連れて行くと、金蔵はまったく動かれないで寝ていたので、難なく引挙げられました。こいつは伝馬町の牢屋をぬけ出して、まだ一町も行かないうちに、折れ釘を踏んで右の足の裏を痛めたので、遠いところへ行くことが出来ない。ほかの者とは分れわかれになて、京都無宿の藤吉に介抱されながら、ひとまず王子の門蔵の家へころげ込むと、その晩から踏み抜きの傷がひどく痛み出した。と云って、表向きに医者に頼むわけにも行かないので、買い薬などをして塗っていたが、だんだんに膿んで来て身動きも出来なくなってしまったのです。したがって、金蔵は牢ぬけ以来、一度も表へ出たことは無いのです」
「それじゃあ高田へ行ったのは……。藤吉ですか」
「そうです、そうです。藤吉は牢内にいる時から金蔵と仲が良かったのです。一人は上方者、ひとりは江戸っ子ですが、不思議に二人の気が合って、これから一緒に京大坂へ行ってひと稼ぎしようと約束していたので、藤吉は金蔵を捨てても行かれず、そばに付いて看病していたのです。そのあいだに、金蔵が例の三甚の事を云い出して、あんな青二才に縄をかけられたのが残念でならない、行きがけの駄賃にあの野郎を眠らせてやろうと思っていたのに、こうなっちゃあ思いが達(とど)かねえと愚痴をこぼした。藤吉はそれを聞いて、兄弟分のよしみに、おれが名代を勤めてやろうと云うので、こいつが金蔵に代って、三甚を付狙うことになったのです。
そういうわけで、どっちにしても三甚は狙われていたのですが、その相手は金蔵でなかったのです。前にも申す通り、むかしの人相書などはいい加減なもので、顔に痣(あざ)があるとか、傷があるとか云うような、いちじるしい特徴があれば格別、その年頃が同様であれば大抵の悪党には当てはまるようなのが多いのです。殊に今度の牢ぬけは一度に六人と云うのですから、牢屋の方でもいちいち詳しくは書き分けられません。そのなかで丹後村無宿の兼吉が一番の年上で四十三、惣吉と松之助と勝五郎はみんな二十四五、藤吉が三十二、金蔵が三十二というので、藤吉と金蔵は年頃も似ている上に、人相書もあまり違わないので、とかくに間違いが出来たのです。
もう一つ、誰の考えも同じことで、藤吉は上方の奴だから京大坂へ高飛びをしたものと見て、その方へ手をまわして詮議する。金蔵は江戸の奴だから江戸辺に隠れているだろうと思って詮議するのが普通で、誰も彼も金蔵にばかり眼をつけて、藤吉の方を忘れている。そんなわけで、人相書も当てにならない。間違えば間違うもので、金蔵が藤吉となり、藤吉が半七となって、わたくしがまず第一にお縄頂戴……。いくら昔でもこんな間違いはまあ珍らしい方で、わたくしの人相が悪かったと諦めるほかはありません。
金蔵は強情にシラを切って、藤吉のありかを白状しませんでした。門蔵もなかなか口を割らない。最初は金蔵と一緒に隠れていたが、この頃はどこへか巣を変えたらしいので、わたくしどもも手をわけて探索していると、藤吉は千住(せんじゅ)の深光寺(しんこうじ)へ押込みにはいりました。寺の納所たちが銅鑼(どら)をたたいて騒ぎ立てたので、近所の者も駈けつけて来る。藤吉もあわてて逃げ出したが、暗いので見当が付かず、寺内の大きい池へころげ落ちたところを、大勢に取押えられました。惣吉と松之助も板橋の寺をあらして召捕られ、藤吉も千住の寺で押えられる。これも何かの因縁でしょう。
牢ぬけをしたばかりで、みんな一文無しですから、ただ遊んでもいられないのでしょうが、藤吉は四月末から五月にかけて、近在を六ヵ所も荒していたそうです。その申立てによると、藤吉は三甚を付狙って、芝のあたりに立廻ったが、どうも機会がない。そのうちに、三甚は身延まいりと称して姿をかくしたので、そのあとを追って高田へ行ったと云うのです」
「三甚が高田へ行ったことを、藤吉がどうして知ったのでしょう」
「本人は自分で探し当てたと云うが、どうも怪しい。まさかに三甚の子分が洩らしたのでもあるまいが、さつきの奉公人か、さもなければ千次の奴がしゃべったに相違ないと見込みを付けて、まず千次を取っ捉まえて調べると、果してそうでした。いわゆる内股膏薬(うちまたごうやく)で、敵にも付けば味方にも付く。義理人情は構わない。銭になれば何でもする。こういう安っぽい奴に逢っちゃあ堪りません。藤吉から幾らか貰って、三甚の隠家を教えながら、又わたくしの方へ来て金蔵の隠家を教える。どうにもこうにも仕様のない野郎で、藤吉と一緒に暗いところへ抛(ほう)り込んでやろうかと思ったのですが、なにしろ金蔵のありかを密告した功があるので、まあ助けて置いてやりました。
藤吉は高田馬場まで三甚を追って行ったが、そこでわたくしに出逢ったので、これはあぶないと思って、もうそれぎりで止(や)めたそうですから、その後の三甚は何かの思い違いで、むやみに逃げ廻っていたのでしょう。藤吉が植新に押掛けて行って、半七の名を騙ったのは、千次の奴からわたくしの事を聞いていたからです。藤吉はふところに短刀を呑(の)んでいて、見つけ次第に三甚を突き殺すつもりだったと云いますから、まあ逃げていた方が無事だったかも知れません」
「三甚はその後どうしました」
「こうなっちゃあ旦那方の信用をうしない、仲間の者にも顔向けも出来ずとうとう二代目の株を捨てて、さつきの婿のようになってしまいました。可哀そうに三甚だって、そんなにひどい意気地なしでも無いのですが、そばに女が付いていて、これがむやみに心配して騒ぐので、とうとうこんな事になったのです。女に惚れられるのは怖ろしい。あなたがたも気をおつけなさい。あははは」
「そうすると、五人だけは挙げられたわけですが、もう一人はどうしました」
「もう一人は丹後村の兼吉、こいつは年上だけに巧く逃げたと見えて、容易に見付かりませんでしたが、その年の秋に上総(かずさ)の方で挙げられました。昔でも悪い奴が逃げおおせたと云うのは少ないものです。
そこで、このお話ですが……。岡っ引が逃げて、泥坊が追っかける。まことにおかしいようですが、あの廻り燈籠をご覧なさい。いろいろの人間の影がぐるぐる廻っている。あとの人間が前の人間を追っかけているように見えますが、それが絶えず廻っていると、見ようによっては前の人間があとの人間を追っているようにも思われます。人間万事廻り燈籠と云うのは、こんな理窟かも知れませんね」
 

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。